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史記/卷118 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

史記しき/まき118

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 司馬しばしょう如列でん だいじゅうなな 史記しき
まきいちひゃくいちじゅうはち 淮南ワイナン衡山列傳れつでん だいじゅうはち
循吏列傳れつでん だいじゅうきゅう 

淮南ワイナン厲王長者ちょうじゃ高祖こうそ少子しょうし也,其母ちょうおうちょう敖美じん高祖こうそはちねんしたがえ東垣ひがしがきちょうちょう王獻之おうけんし美人びじん。厲王ははとくこう焉,ゆうちょうおう敖弗敢內みやため外宮げくう而捨。及貫高等こうとう謀反むほんかしわ人事じんじ發覺はっかく,并逮おうつきおさむおうはは兄弟きょうだい美人びじんけいかわ內。厲王ははまたけいつげ吏曰:「とくこうじょうゆう。」吏以聞上,上方かみがたいかちょうおう厲王はは。厲王ははおとうとちょうけんいん辟陽こうげんりょきさきりょきさき妒,どる肯白,辟陽こうつよしそう。及厲おうははやめなま厲王,恚,そく自殺じさつ。吏奉厲王まいじょううえ悔,れいりょきさきはは,而葬厲王ははじょうじょう,厲王ははいえざい焉,ちちけん也。

高祖こうそじゅういちねんじゅう)[なながつ淮南ワイナンおう黥布はん立子たつこちょうため淮南ワイナンおうおう黥布,凡よんぐんうえ將兵しょうへい擊滅げきめつぬの,厲王とげ即位そくい。厲王のみしつははつねりょきさき孝惠たかえりょきさき以故とくこう患害,而常こころ怨辟こうどる敢發。及孝ぶんみかどはつ即位そくい淮南ワイナンおう以為さいおやおごあしなえすうたてまつほううえ以親つねひろし赦之。さんねん入朝にゅうちょう。甚橫。したがえじょうにゅうえん囿獵,あずかうわ同車どうしゃつねいいじょう大兄たいけい」。厲王ゆうざいりょくちからのう扛鼎,乃往請辟こう。辟陽こうこれそくそでてつしいしい辟陽こうれい從者じゅうしゃけい剄之。厲王乃馳走ちそう闕下,にく袒謝曰:「しんはは不當ふとうすわちょうこと,其時辟陽こうりょくのうどくりょきさきどるそうつみ一也かずやちょうおう如意にょいはは無罪むざいりょころせこれ,辟陽こうどるそうつみ也。りょきさきおうしょりょよく以危りゅう,辟陽こうどるそうつみ三也みつやしん謹為天下でんか賊臣ぞくしん辟陽こうほうははかたき,謹伏闕下請したうけざい。」孝文たかふみきず其志,ためおやどる,赦厲おうとううすきふとしきさき太子たいししょ大臣だいじんみなはばか厲王,厲王以此歸國きこくえきおごほしいまま不用ふようかんほう出入でいりしょう警蹕けいひつしょうせいため法令ほうれいなずらえ於天

ろくねんれい男子だんしただしとうなな十人與棘蒲侯柴武太子奇謀,以輂しゃよんじゅうじょうはん谷口たにぐちれいひと使閩越、匈奴きょうどことさとし治之はるゆき使つかい使召淮みなみおう淮南ワイナンおういたる長安ながやす

丞相じょうしょうしんちょうくらてんきゃくしん馮敬、こう大夫たいふごとそう正臣まさおみはぐれ、廷尉しん、備盜賊とうぞく中尉ちゅういしんぶく昧死ごと淮南ワイナンおうちょうはい先帝せんていほう天子てんしみことのりきょしょためぶたじょう輿こし出入でいりなずらえ於天,擅為法令ほうれい不用ふようかんほう。及所おけ吏,以其ろうちゅうはるため丞相じょうしょう,聚收かん諸侯しょこうじん及有ざい亡者もうじゃ,匿與ためしつたまもの其財ぶつ爵祿しゃくろくたく,爵或いたりせき內侯,たてまつせんせきしょ不當ふとうよく有為ゆうい大夫たいふただし五開章等七十人與棘蒲侯太子奇謀反,よく以危宗廟そうびょう社稷しゃしょく使つかいひらけあきらかげつげちょうあずかはかりごと使閩越及匈やつはつ其兵。ひらきしょう淮南ワイナン見長みながちょうすうあずかすわ飲食いんしょくためしつめと,以せんせき俸奉ひらきあきら使つかいじんつげただしやめごとおうはる使使つかいほうただしひとし。吏覺使つかい長安ながやすじょうとう往捕ひらきしょうちょう匿不あずか中尉ちゅうい蕑忌はかりごところせ閉口へいこうためかん槨衣ふすまそうこえりょう邑,謾吏曰『不知ふち安在あんざい』。またしょう聚土,ひょう其上,曰『ひらくあきらうめ此下』。及長身ちょうしんぞくころせ無罪むざいしゃ一人ひとりれい吏論ころせ無罪むざいしゃろくにんため亡命ぼうめい棄市ざいいつわりいのちしゃ以除ざい;擅罪じん罪人ざいにんつげ劾,けいじょうだんうす以上いじょうじゅうよんにん赦免しゃめん罪人ざいにん死罪しざいじゅうはちにんしろだんうす以下いかじゅうはちにんたまもの人爵じんしゃくせき內侯以下いかきゅうじゅうよんにんぜん日長ひながびょう陛下へいか憂苦ゆうく使つかい使者ししゃたまものしょなつめ脯。ながよく受賜,肯見はい使者ししゃ南海なんかいみんしょいおりかいちゅうしゃはん淮南ワイナン吏卒げき陛下へいか以淮みなみみん貧苦ひんく使者ししゃたまものちょう帛五せんひき,以賜吏卒勞苦ろうくしゃながよく受賜,謾言曰『勞苦ろうくしゃ』。南海なんかいみんおう上書うわがきけんじ皇帝こうてい擅燔其書,以聞。吏請召治なが,謾言曰『びょう』。はるまた請長,ねがいいれながいか曰『おんなよくはなれわがかん』。ながとう棄市,しん請論如法にょほう。」

せい曰:「ちんにん致法於王,其與列侯れっこうせんせき。」

しんくらしんけいしんはぐれしんぶくしん昧死ごとしん謹與列侯れっこう千石臣嬰等四十三人議,みな曰『ながたてまつ法度はっと天子てんしみことのり,乃陰聚徒とう謀反ぼうほんしゃあつしやしなえ亡命ぼうめいよく有為ゆうい』。しんとう議論ぎろん如法にょほう。」

せい曰:「ちんにん致法於王,其赦ちょう死罪しざいはい勿王。」

しんくらとう昧死ごとちょうゆうだい死罪しざい陛下へいかにん致法,こう赦,はい勿王。しん請處しょくぐんいむみち邛郵,其子ははしたがえけんため筑蓋しつみな廩食きゅうたきぎさいしお豉炊食器しょっきせき蓐。しんとう昧死請,請布告ふこく天下でんか。」

せい曰:「けいしょくちょうきゅうにくきんさけれい美人びじん才人さいじんとくこうしゃじゅうにんしたがえきょ。」

つき所與しょよはかりごとしゃ。於是乃遣淮南ワイナンおう以輜しゃれいけん以次でん袁盎諫上曰:「うえもとおご淮南ワイナンおうどるためおけいむでんしょう,以故いたり此。且淮みなみおうためじんつよしこん暴摧おりしんおそれそつ逢霧病死びょうし陛下へいかためゆうころせおとうと,柰何!」じょう曰:「われとくみみこんふく。」けんでん淮南ワイナン王者おうじゃみな敢發しゃふう淮南ワイナンおう乃謂侍者じしゃ曰:「だれいい乃公勇者ゆうしゃわれやすのういさむわれ以驕聞吾いたり此。人生じんせいいちせいあいだやすのう邑邑如此!」乃不しょくいたり雍,雍令はつふうじ,以死聞。うえ哭甚悲,いい袁盎曰:「われ公言こうげんそつほろび淮南ワイナンおう。」盎曰:「不可ふか柰何,ねがい陛下へいかひろし。」じょう曰:「為之ためゆき柰何?」盎曰:「どく丞相じょうしょう以謝天下でんか乃可。」じょうそくれい丞相じょうしょう逮考しょけん傳送でんそう淮南ワイナンおう不發ふはつふう餽侍しゃみな棄市。乃以列侯れっこうそう淮南ワイナンおう於雍,まもりさんじゅう

孝文たかふみはちねんうえ憐淮みなみおう淮南ワイナンおう有子ゆうこよんにんみなななはちさい,乃封子安こやすため阜陵こう勃為安陽あんようこうたまものためしゅうこうりょうため東成ひがしなりこう

孝文たかふみじゅうねん民有みんゆう作歌さっか淮南ワイナン厲王曰:「いちしゃくぬのなおぬいいちあわなおうす兄弟きょうだいにん不能ふのうしょうよう。」上聞じょうぶん,乃嘆曰:「堯舜放逐ほうちく骨肉こつにくしゅうこうころせかん蔡,天下てんかしょうひじり何者なにもの以私がいこう天下てんかあに以我ためむさぼ淮南ワイナン王地おうじよこしま?」乃徙城陽じょうようおうおう淮南ワイナン,而追みこと謚淮みなみおうため厲王,おけえんふく如諸こう

孝文たかふみじゅうろくねん,徙淮みなみおうふく城陽じょうよううえ憐淮みなみ厲王はいほう不軌ふき使つかいしつこくのみ,乃立其さん:阜陵こうやすため淮南ワイナンおう安陽あんようこう勃為衡山おうしゅうこうたまものためいおりおうみなふくとく厲王さんぶん東城とうじょうほうりょうぜん薨,也。

こうけいさんねんすわえななこくはん使者ししゃいたり淮南ワイナン淮南ワイナンおうよくはつへいおう。其相曰:「大王だいおう必欲はつへいおうくれしんねがいためしょう。」おう乃屬しょうへい淮南ワイナンしょうやめ將兵しょうへいいんじょうもり聽王而為かんかんまた使つかいきょくしろこう將兵しょうへいすくい淮南ワイナン淮南ワイナン以故とくかん使者ししゃいたりいおりこういおりおうどるおう,而往來おうらい使こし使者ししゃいたり衡山,衡山おう堅守けんしゅ二心ふたごころこうけいよんねんすわえやめやぶ,衡山王朝おうちょううえ以為さだしんじ,乃勞曰:「南方なんぽう卑溼。」徙衡山王さんのうおうずみきた所以ゆえん褒之。及薨,とげたまもの謚為さだおういおりおうあたりこしかず使つかい使しょう交,徙為衡山おうおう江北こうほく淮南ワイナンおう如故。

淮南ワイナンおうやすためじんこう讀書どくしょきん弋獵いぬ馬馳まばせ騁,またよく以行陰德いんとく拊循百姓ひゃくしょうりゅうほまれ天下でんか時時ときどき怨望厲王よくほとりぎゃくゆういん也。及建もとねん淮南ワイナンおう入朝にゅうちょうもとぜん武安たけやすこう武安たけやすこうためふとしじょう,乃逆おう霸上,あずかおう曰:「方今ほうこんじょう太子たいし大王だいおうおやだか皇帝こうていまごぎょう仁義じんぎ天下てんか莫不聞。そくみやしゃいちにち晏駕,大王だいおうとうだれりつしゃ!」淮南ワイナンおう大喜だいぎあつのこ武安たけやすこうきん財物ざいぶつかげゆい賓客ひんきゃく,拊循百姓ひゃくしょうためほとりぎゃくことけんもとろくねん彗星すいせい淮南ワイナンおうこころかいあるせつおう曰:「さきくれぐんおこり彗星すいせいちょうすうしゃくしかなお流血りゅうけつ千里せんりこん彗星すいせいちょう竟天,天下てんかへいとう大起だいき。」おうこころ以為じょう太子たいし天下てんかゆうへん諸侯しょこう并爭,いよいよ益治ますじ器械きかいおさむせんせき金錢きんせんまいないのこぐんこく諸侯しょこうゆうざいしょ辨士べんしため方略ほうりゃくしゃ,妄作妖言ようげん,諂諛おうおう賜金しきんぜに,而謀はんしげる甚。

淮南ワイナンおうゆうおんなりょうとしゆうくちべんおうあいりょうつね金錢きんせんためちゅう诇長やすやくゆいじょう左右さゆうもとついたちさんねんうえたまもの淮南ワイナンおう几杖,あさ淮南ワイナンおうおうきさき荼,おう愛幸あいこうこれおうきさきせい太子たいし遷,遷取おう皇太后こうたいごう外孫そとまご修成しゅうせいくんおんなためおうはかりごとためはんかしこ太子たいし而內泄事,乃與太子たいしはかりごとれいいつわりどるあい三月さんがつ同席どうせきおう乃詳ためいか太子たいし,閉太子たいし使あずかどうさんがつ太子たいしおわりこんもとめおう上書うわがきしゃこれおうきさき荼、太子たいし遷及おんなりょうとく愛幸あいこうおう,擅國けんおかせだつ民田たみだたく,妄致けいじん

もとついたちねん太子たいしがくようけん以為じん莫及,聞郎ちゅうかみなりたくみ,乃召與おどけいちさいゆずるあやまちゅう太子たいし太子たいしいかおそれ。此時ゆうよく從軍じゅうぐんしゃ輒詣京師けいしそくねがい奮擊匈奴きょうど太子たいし遷數わる於王,おう使ろうちゅうれい斥免,よく以禁きさきとげほろびいたり長安ながやす上書うわがき自明じめいみことのり其事廷尉、河南かなん河南かなん,逮淮みなみ太子たいしおうおうきさきけいよく太子たいしとげはつへいはんけい猶豫ゆうよじゅうにち未定みていかいゆうみことのりそく訊太とう淮南ワイナンしょういかことぶきはるすすむとめ太子たいし逮不,劾不けいおう以請しょうそうどる聽。おう使じん上書うわがきつげしょうこと廷尉。蹤跡れんおうおう使つかいじんこう伺漢公卿くぎょう公卿くぎょう逮捕たいほおうおうおそれごとはつ太子たいし遷謀曰:「かん使そく逮王,おうれいじんころも衛士えじころももち戟居にわちゅうおうつくりゆうのり刺殺しさつしんまた使つかいじん刺殺しさつ淮南ワイナン中尉ちゅうい,乃舉へいばん。」これじょうもと公卿くぎょう請,而遣かん中尉ちゅういひろしそく訊驗おうおう聞漢使らいそく太子たいし謀計ぼうけいかん中尉ちゅういいたりおう其顏しょく,訊王以斥かみなりことみみおうなに不發ふはつ中尉ちゅういかえ,以聞。公卿くぎょう治者ちしゃ曰:「淮南ワイナンおうやすよう閼奮げき匈奴きょうどしゃかみなりとうはいかくあきらみことのりとう棄市。」みことのりどるもと公卿くぎょう請廢勿王,みことのりどるもと公卿くぎょう請削けんみことのりそぎけん使つかい中尉ちゅういひろし赦淮みなみおうざいばっ以削中尉ちゅういいれ淮南ワイナンかい宣言せんげん赦王。おうはつ聞漢公卿くぎょう請誅知得ちとくそぎ,聞漢使らいおそれ其捕,乃與太子たいしはかりごととげ如前けい。及中尉ちゅういいたりそくおうおう以故不發ふはつ。其後きず曰:「われ行仁ぎょうにん義見よしみそぎ,甚恥。」しか淮南ワイナンおうそぎきさき,其為はんはかりごとえき甚。しょ使つかいどうしたがえちょう安來やすぎため妖言ようげん言上ごんじょうおとこかん不治ふちそくそくげんかん廷治,有男くにおおういか,以為妄言ぼうげん也。

おう日夜にちやあずかひだりくれとうあん輿地よち部署ぶしょへいしょしたがえいれおう曰:「うえ太子たいしみやしゃそく晏駕,廷臣ていしん必徵にかわひがしおうそくつね山王さんのう諸侯しょこう并爭,われ以無備乎!且吾高祖こうそまごおやぎょう仁義じんぎ陛下へいかぐうわがあつわれのうにんまんせいこれわれやすしのう北面ほくめん臣事しんじ豎子じゅし乎!」

おうすわ東宮とうぐう,召伍あずかはかりごと,曰:「將軍しょうぐんじょう。」悵然ちょうぜん曰:「うえひろし赦大おうおうふくやすとく此亡國之くにゆき乎!しん聞子胥諫くれおうくれおう不用ふよう,乃曰『しん今見いまみおうしか鹿しかゆうしゅうとこれだい也』。こんしんまた宮中きゅうちゅうせい荊棘けいきょく霑衣也。」おういかけい父母ちちははしゅうさんがつふく召曰:「將軍しょうぐんもと寡人乎?」曰:「直來なおらいため大王だいおうみみしん聞聰しゃ聽於無聲むせいあかりしゃ於未がた聖人せいじんまん萬全ばんぜんむかしぶんおう一動而功顯于千世,れつためさんだい,此所謂いわゆるいん天心てんしん以動作者さくしゃ也,うみ內不而隨。此せんさいしゃおっとひゃくねんはた近世きんせいすわえまたあし以喻國家こっか存亡そんぼう矣。しん敢避胥之誅,ねがい大王だいおう毋為くれおう聽。むかしはたぜっ聖人せいじんみちころせじゅつ,燔詩しょ,棄禮よしなおいつわりりょくにん刑罰けいばつうたてうみあわ致之西河にしがわとうとき男子だんしやましこう不足ふそく於糟ぬか女子じょし紡績ぼうせき不足ふそく於蓋がたこうむ恬筑長城ちょうじょう東西とうざいすう千里せんり,暴兵常數じょうすうじゅうまん死者ししゃ不可ふかかちすう,僵尸千里せんり流血りゅうけつごろうね百姓ひゃくしょうりょく竭,ほしためらんしゃじゅういえ而五。また使つかいじょぶく入海いりうみもとめしん異物いぶつかえためにせ曰:『しん海中かいちゅう大神だいじんげん曰:「なんじ西にしすめらぎ使つかいよこしま?」しんこたえ曰:「しか。」「なんじなんもとむ?」曰:「ねがい請延ねんえきことぶきやく。」かみ曰:「なんじしんおうれいうすとくかん而不。」そくしたがえしん東南とうなんいたりよもぎ萊山,しば成宮なるみや闕,ゆう使者ししゃどうしょく而龍がたひかりうえあきらてん。於是しん再拜さいはいとい曰:「むべなに以獻?」海神わたつみ曰:「以令めい男子だんしわかじょあずかひゃくこうことそくとく矣。」』はた皇帝こうていだいせつ男女だんじょさんせんにん資之すけゆき五穀ごこく種種しゅじゅひゃくこう而行。じょぶくとく平原へいげん廣澤ひろさわとめおうらい。於是百姓ひゃくしょう悲痛ひつう相思そうしほしためらんしゃじゅういえ而六。また使つかいじょう佗踰みねおさむひゃくえつじょう佗知中國ちゅうごくろうごくとめおう使つかいじん上書うわがきもとめおんなおっとしゃさんまんにん,以為士卒しそつころもはた皇帝こうていまんせんにん。於是百姓ひゃくしょうはなれしん瓦解がかいほしためらんしゃじゅういえ而七。きゃくいいだか皇帝こうてい曰:『矣。』こう皇帝こうてい曰:『まち聖人せいじんとうおこり東南とうなんあいだ。』いちねんちんまさるひろはつ矣。こうすめらぎはじめ於豐沛,一倡天下不期而響應者不可勝數也。此所謂いわゆる蹈瑕こうあいだよししんほろび而動しゃ也。百姓ひゃくしょうねがいわかひでりもちおこり於行ひねちゅう而立じりつため天子てんしこうだかさんおうとくでん無窮むきゅうこん大王だいおう見高けんだか皇帝こうていとく天下でんかえき也,どくかん近世きんせいすわえ乎?おっとくれおうたまものごうためりゅうさいしゅふくあさおうよんぐん眾,地方ちほうすう千里せんり,內鑄しょうどう以為ぜにひがし煑海すい以為しおうえこうりょう以為せん,一船之載當中國數十兩車,こく富民とみん眾。くだり珠玉しゅぎょくきん帛賂諸侯しょこう宗室そうしつ大臣だいじんどく竇氏あずかけいじょうはかりごとなり,舉兵而西。やぶ於大おだいはりはい於狐ちち奔走ほんそう而東,いたり於丹越人えつじん禽之,ぜっまつため天下でんかわらいおっと以吳えつ不能ふのう成功せいこうしゃなにまことぎゃく天道てんとう不知ふち也。方今ほうこん大王だいおうへい不能ふのうじゅうふんすわえいち天下てんか安寧あんねいゆうまんばい於秦ときねがい大王だいおうしたがえしんけい大王だいおうしたがえしんけい今見いまみだい王事おうじ必不なり而語さき泄也。しん聞微故國ここく而悲,於是さくむぎ秀之ひでゆきつう紂之不用ふよう王子おうじ也。孟子もうこ曰『紂貴ため天子てんし曾不わか匹夫ひっぷ』。紂先ぜっ於天ひさ矣,にち而天これこんしんまた竊悲大王だいおうせんじょうきみ,必且たまもの絕命ぜつめいこれしょため群臣ぐんしんさき於東おひがしみや也。」於是[おう怨結而不あげ,涕滿ただし而橫りゅうそくおこりれきかい而去。

おうゆう孽子がい最長さいちょうおうどるあいおうおうきさき太子たいしみな以為けいすうがい有子ゆうこけんざいだかゆうつね怨望太子たいししょう其父;また怨時諸侯しょこうみな得分とくぶん子弟していためこう,而淮南ワイナンどく二子ふたごいちため太子たいしけんちちどくとくためこうけんかげゆい交,よくつげはい太子たいし,以其ちちだい太子たいし知之ともゆきかずけい而榜むちけん建具たてぐ太子たいしはかりごとよくころせかん中尉ちゅういそく使つかいしょぜんことぶきはるそう芷以もとついたち六年上書於天子曰:「毒藥どくやく於口於病,忠言ちゅうげんぎゃく於耳於行。こん淮南ワイナンおうまごけんざいのうだか淮南ワイナンおうおうきさき荼、荼子太子たいし遷常やましがいけんけんちちがい無罪むざい,擅數けいよくころせこれこんけんざいちょうとえ淮南ワイナンかげごと。」しょ聞,うえ以其ごと廷尉,廷尉河南かなん辟陽こうまごしんきょうぜん丞相じょうしょう公孫こうそんひろし,怨淮みなみ厲王ころせ其大ちち,乃深購淮みなみごと於弘,ひろ乃疑淮南ワイナンゆうほとりぎゃくけいはかりごとふかきゅう其獄。河南かなんけん淮南ワイナン太子たいし及黨あずか淮南ワイナンおう患之,よくはつもん曰:「かん治亂ちらん?」曰:「天下てんか。」おうせついい曰:「おおやけなん以言天下でんか也?」曰:「竊觀朝廷ちょうていせい君臣くんしんよし父子ふしおや夫婦ふうふべつ長幼ちょうようじょみなとく其理,上之うえの舉錯遵古みち風俗ふうぞく紀綱きこうゆうしょかけ也。じゅうそうとみ賈,しゅうりゅう天下でんかみち不通ふつう交易こうえき道行みちゆき南越なんごしまろうどふく,羌僰いれけんじひがし甌入くだ廣長ひろなが榆,ひらけついたちかた匈奴きょうどおり翅傷つばさしつ不振ふしん。雖未及古太平たいへいこれしかなおため也。」おういかしゃ死罪しざいおうまたいい曰:「山東さんとうそくゆうへいかん必使大將軍だいしょうぐんしょう而制山東さんとうおおやけ以為大將軍だいしょうぐんなん如人也?」曰:「ところよししゃよししたがえ大將軍だいしょうぐんげき匈奴きょうどかえつげ曰:『大將軍だいしょうぐんぐう大夫たいふ有禮ありのり,於士そつゆうおん,眾皆らく為之ためゆきようじょう下山げざんわか蜚,ざいぜっじん。』以為ざいのう如此,すうはた習兵,えきとう也。及謁しゃ曹梁使ちょう安來やすぎげん大將軍だいしょうぐん號令ごうれいあかりとうてき勇敢ゆうかんつねため士卒しそつさききゅうしゃ穿井せんせいつう,須士そつつきとくすい,乃敢いんぐんやめそつつきやめかわ,乃度。皇太后こうたいごうしょ賜金しきん帛,つき以賜ぐん吏。雖古名將めいしょうどる也。」おう默然もくぜん

淮南ワイナンおうけんやめちょうおそれこくかげごと且覺,よくはつまた以為なん,乃復とい曰:「おおやけ以為くれきょうへいよこしま也?」曰:「以為也。おういたる富貴ふうき也,舉事不當ふとうとうあししょ子孫しそんのこるいしん聞吳おう悔之甚。ねがいおう孰慮無為むいくれおうこれしょ悔。」おう曰:「男子だんしこれしょ死者ししゃ一言ひとことみみ。且吳なんはんかんしょう一日過成皋者四十餘人。いまわがれいろうなるさきようなり皋之こうしゅうした潁川へいふさが轘轅、闕之どうちんじょうはつ南陽なんようへい守武もりたけせき河南かなん太守たいしゅどくゆう雒陽みみなんそくゆうしか此北ひさしゆう臨晉せき河東かわとううえとう與河よこう內、ちょうこくひとげん曰『ぜっなり皋之こう天下てんか不通ふつう』。よりどころさんがわけん,招山東之ひがしのへい,舉事如此,おおやけ以為なん如?」曰:「しん其禍,未見みけん其福也。」おう曰:「ひだりくれちょうけんしゅおご如皆以為有福ありふく,什事きゅうなりおおやけどく以為ゆうぶくなに也?」曰:「大王だいおう群臣ぐんしんきんこうもとのう使眾者,みなまえけいみことのりごく可用かようしゃ。」おう曰:「ちんまさるひろ立錐りっすいせんにん聚,おこり於大おだいさわ,奮臂大呼たいこ而天ひびきおう西にしいたる於戲而兵ひゃくじゅうまんこんわれこく雖小,しか而勝へいしゃとくじゅうあまりまんちょくてき戍之眾,釠鑿とげ矜也,おおやけなん以言ゆうぶく?」曰:「往者おうしゃしんため無道むどうざんぞく天下でんかきょうまんじょうさく阿房あほうみやおさむたいはんはつ閭左戍,ちち寧子やすこあに不便ふべんおとうとせい苛刑たかし天下てんかしかわかこげみんみな引領而望,かたぶけみみ而聽,悲號仰天ぎょうてん,叩心而怨じょうひねしょう大呼たいこ天下てんかひびきおう當今とうぎん陛下へいか臨制天下でんか一齊いっせいうみ內,汎愛はんあいふけ庶,ぬのとくほどこせめぐみくち雖未ごとこえやまし雷霆らいていれい雖未はせ如神,こころゆう所懷しょかいどうまん下之したのおうじょうなおかげ響也きょうや。而大將軍だいしょうぐんざいのうとくあきら邯、楊熊也。大王だいおう以陳しょうひろさとし以為矣。」おう曰:「茍如公言こうげん不可ふか徼幸よこしま?」曰:「ゆうけい。」おう曰:「柰何?」曰:「當今とうぎん諸侯しょこうしん百姓ひゃくしょう怨氣。ついたちかたぐん田地たじひろ水草みずくさみん徙者不足ふそく以實其地。しんけいにせため丞相じょうしょう請書うけしょ,徙郡こくごう桀任俠及ゆうたいざい以上いじょう,赦令じょ其罪,さんじゅうまん以上いじょうしゃみな徙其ぞくついたちかたぐんえきはつかぶとそつきゅう其會またにせため左右さゆうつかさそら上林うえばやしちゅうかんみことのりごく(逮)しょ,[逮]諸侯しょこう太子たいしこうしん。如此そくみん怨,諸侯しょこう懼,そく使つかいべんたけずい而說,儻可徼幸什得いち乎?」おう曰:「此可也かなり。雖然,われ以為いたりわか此。」於是おう乃令かんやつにゅうみやさく皇帝こうてい璽,丞相じょうしょう大將軍だいしょうぐんぐん吏、ちゅうせんせきかんれいすすむしるし,及旁きんぐん太守たいしゅじょうしるしかん使節しせつほうかんむりよく如伍けい使つかいじんにせとくざい而西,事大じだい將軍しょうぐん丞相じょうしょういちにちはつへい使つかいじんそく刺殺しさつ大將軍だいしょうぐんあお,而說丞相じょうしょう,如發こうむみみ

おうよくはつ國中くになかへいおそれ其相、せんせき聽。おう乃與はかりごとさきころせしょうせんせきにせ失火しっか宮中きゅうちゅうそうせんせきすくいいたりそくころせこれけい未決みけつまたよくれいじんころももとむぬすめころもげきしたがえ東方とうほうらいよび曰「南越なんごしへいいれかい」,よくいん以發へい。乃使じんいたりいおりこうかい稽為もとめぬすめ未發みはつおうとい曰:「われ舉兵西鄉さいごう諸侯しょこう必有おうしゃそくおう,柰何?」曰:「みなみおさむ衡山以擊いおりこうゆうひろふねもり雉之じょうゆいきゅう江之浦えのうらぜっしょうくちつよしいしゆみ臨江而守,以禁みなみぐんしたあずまおさむかい稽,南通みなみとおり勁越,こごめつよしこう淮閒,なおとくのべ歲月さいげつことぶき。」おう曰:「ぜん以易此。きゅうのりはしえつみみ。」

於是廷尉以王まごけんれん淮南ワイナンおう太子たいし遷聞。うえ廷尉かんいんはい淮南ワイナン中尉ちゅうい逮捕たいほ太子たいしいたり淮南ワイナン淮南ワイナンおう聞,與太よたはかりごと召相、せんせきよくころせ而發へい。召相,そういたり;內史以出ためかい中尉ちゅうい曰:「しん受詔使とくおう。」おうねんどくころせしょう而內中尉ちゅうい無益むえき也,そくやめしょうおう猶豫ゆうよけい未決みけつ太子たいしねんしょすわしゃはかりごととげかん中尉ちゅうい所與しょよはかりごとしゃやめ,以為こうぜっ,乃謂おう曰:「群臣ぐんしん可用かようしゃみなまえけいこんあしあずか舉事しゃおう非時ひじはつこわこうしんねがいかい逮。」おうまた偷欲きゅうそくもと太子たいし太子たいしそく剄,ことまい吏,いんつげあずか淮南ワイナンおう謀反ぼうほんはん蹤跡如此。

吏因太子たいしおうきさきかこえ王宮おうきゅうつきもとめおう所與しょよ謀反ぼうほん賓客ひんきゃく在國ざいこくちゅうしゃさくとくはん以聞。上下じょうげ公卿くぎょうしょれん引與淮南ワイナンおう謀反ぼうほん列侯れっこうせんせき豪傑ごうけつすうせんにんみな以罪輕重けいちょう受誅。衡山おうたまもの淮南ワイナンおうおとうと也,とうすわおさむ有司ゆうし逮捕たいほ衡山おう天子てんし曰:「諸侯しょこうかく以其こく為本ためもと不當ふとうしょうすわあずか諸侯しょこうおう列侯れっこうかい肄丞しょう諸侯しょこう。」ちょうおう彭祖、列侯れっこうしんゆずるとうよんじゅうさんにんみな曰:「淮南ワイナンおうやす甚大じんだいぎゃく無道むどう謀反むほん明白めいはくとうふく誅。」にかわ西にしおうしんはし曰:「淮南ワイナンおうやすはいほうぎょうよこしまふところ詐偽さぎしん,以亂天下でんか,熒惑百姓ひゃくしょうばいほとり宗廟そうびょう,妄作妖言ようげん春秋しゅんじゅう曰『しんしょうはた而誅』。やすざいじゅう於將,謀反むほんがたやめじょうしんはし所見しょけん其書ぶししるし及他ぎゃく無道むどうごとけん明白めいはく甚大じんだいぎゃく無道むどうとうふく其法。而論こくひゃくせき以上いじょう及比しゃ宗室そうしつきんこうしん不在ふざいほうちゅうしゃ不能ふのうしょうきょうとうみな免官めんかんそぎ爵為,毋得宦為吏。其非吏,贖死きんきんはちりょう。以章しん安之やすゆきざい使つかい天下でんか明知めいち臣子しんしみち,毋敢ふくゆうよこしまへきばいほとり。」丞相じょうしょうひろし、廷尉とう以聞,天子てんし使そうただし以符節治せつじおういたり淮南ワイナンおうやす剄殺。おうきさき荼、太子たいし遷諸所與しょよ謀反ぼうほんしゃみなぞく天子てんし以伍みやび引漢よしよく勿誅。廷尉曰:「くびためおうはんはかりごとつみ赦。」とげ誅被。くにじょためきゅうぐん

衡山おうたまものおうきさきじょう舒生さんにん長男ちょうなん爽為太子たいし次男じなんこう次女じじょさいまたひめじょ來生きすぎ男女だんじょよんにん美人びじん厥姬生子おいご二人ふたり。衡山おう淮南ワイナンおう兄弟きょうだいしょうせめもち禮節れいせつあいだ相能あいのう。衡山おう聞淮みなみおう作為さくいほとりぎゃくはんまたこころゆい賓客ひんきゃく以應おそれ為所しどころ并。

もとひかりろくねん,衡山おう入朝にゅうちょう,其謁しゃまもるけいゆう方術ほうじゅつよく上書うわがきごと天子てんしおういか劾慶死罪しざいつよし榜服。衡山內史以為,卻其ごくおう使じん上書うわがきつげ內史,內史げんおうじきおうまたすうおかせだつひと,壞人冢以為田ためだ有司ゆうし請逮衡山おう天子てんしもとためおけひゃくせき以上いじょう。衡山おう以此恚,あずか奚慈、ちょうひろあきらはかりごともとめのうため兵法ひょうほうこうぼししゃにちよる從容しょうようおうひそか謀反むほんごと

おうきさきじょう舒死,たてじょらいためおうきさき。厥姬俱幸。りょう人相にんそう妒,厥姬乃惡おうきさきじょらい太子たいし曰:「じょらい使つかい婢蠱どうころせ太子たいしはは。」太子たいしこころ怨徐らいじょらいあにいたり衡山,太子たいしあずかいん,以刃刺傷ししょうおうきさきけいおうきさき怨怒,すう毀惡太子たいし於王。太子たいしおんなおとうとさいよめ棄歸,あずかやつかんまたあずかきゃくかん太子たいしすうゆずるさいさいいか與太よたどおりおうきさき聞之,そくぜんぐうさいさい及中けいこうしょうしつははおうきさきおうきさき以計あいあずかきょう太子たいしおう以故すうげきむち太子たいしもとついたちよんねんちゅうにんゆうぞくきずおうきさきかりははしゃおううたぐ太子たいし使じんきずむち太子たいしこうおうびょう太子たいししょうびょうさむらいこうおうきさきさいあく太子たいし:「太子たいしじつやまいげんびょう有喜うきしょく。」おうだいいかよくはい太子たいしたて其弟こうおうきさきおうけつはい太子たいしまたよく并廢こうおうきさきゆう侍者じしゃぜんまいおうみゆきおうきさきほっれい侍者じしゃあずかこうらん以汙よく并廢兄弟きょうだい而立じりつ其子廣代ひろだい太子たいし太子たいし爽知ねんきさきすうあくおのれやめほしあずからん以止其口。おうきさきいん太子たいしぜんためことぶきいんよりどころおうきさきまたもとめあずかおうきさきおうきさきいか,以告おうおう乃召,よくばく而笞太子たいしおうつねよくはいおのれたて其弟こう,乃謂おう曰:「こうあずかおう御者ぎょしゃかんさいあずかやつかんおうつよししょく,請上書うわがき。」そくばいおうおう使じんとめ,莫能きん,乃自おい太子たいし太子たいし妄惡ごとおう械系太子たいし宮中きゅうちゅうこうえきおやこうおうこうざいのう,乃佩おうしるしごう曰將ぐんれいきょがいたく給金きゅうきんぜに招致しょうち賓客ひんきゃく賓客ひんきゃく來者らいしゃほろ淮南ワイナン、衡山ゆうぎゃくけいにちよる從容しょうようすすむこれおう乃使こうきゃくじんすくい赫、ちん喜作きさく輣車鏃矢,こく天子てんし璽,しょうしょうぐん吏印。おう日夜にちやもとめ壯士そうし如周おかとうすうしょう引吳すわえはん時計とけい,以約束やくそく。衡山おう敢效淮南ワイナンおうもとむそく天子てんしかしこ淮南ワイナンおこり并其こく,以為淮南ワイナンやめ西にしはつへい定江さだえ淮之あいだ而有もち如是にょぜ

もとついたちねんあき,衡山おうとうあさろくねん淮南ワイナン淮南ワイナンおう乃昆おとうとじょぜん卻,約束やくそくはん。衡山おうそく上書うわがきしゃびょううえたまものしょあさ

もとついたちろくねんちゅう,衡山おう使つかいじん上書うわがき請廢太子たいし爽,たてこうため太子たいし。爽聞,そく使つかいしょぜんしろ嬴之長安ながやす上書うわがきげん孝作こうさく輣車鏃矢,あずかおう御者ぎょしゃかんよく以敗こうしろ嬴至長安ながやす上書うわがき,吏捕嬴,以淮みなみごとけいおう聞爽使しろ上書うわがきおそれげんこくかげごとそく上書うわがきはんつげ太子たいし所為しょいみち棄市ざいごとこと沛郡もとついたちなな)[かりもとねんふゆ有司ゆうし公卿くぎょう沛郡もとめ所與しょよ淮南ワイナン謀反むほんしゃとくとくひね於衡さん王子おうじこう。吏劾こうくび匿喜。こう以為ひねみやびすうあずかおうけい謀反ぼうほんおそれ其發,聞律さきつげじょ其罪,またうたぐ太子たいし使しろ上書うわがきはつ其事,そくさきつげつげ所與しょよ謀反ぼうほんしゃすくい赫、ちんとう。廷尉治驗ちけん公卿くぎょう逮捕たいほ山王さんのう治之はるゆき天子てんし曰:「勿捕。」中尉ちゅういやすだいくだりいきそくといおうおう情實じょうじつたい。吏皆かこえ王宮おうきゅう而守中尉ちゅういだいぎょうかえ,以聞,公卿くぎょう請遣そうただしだいくだりあずか沛郡ざつおうおう聞,そく剄殺。こうさきつげはんじょ其罪;すわあずかおう婢姦,棄市。おうきさきじょらいまたすわ蠱殺ぜんおうきさきじょう舒,及太子たいし爽坐おうつげ不孝ふこうみな棄市。しょあずか衡山おう謀反ぼうほんしゃみなぞくくにじょため衡山ぐん

ふとしおおやけ曰:《所謂いわゆるえびす狄是膺,荊舒懲」,信哉のぶやげん也。淮南ワイナン、衡山おやため骨肉こつにく,疆土千里せんりれつため諸侯しょこうつとむ遵蕃しんしょく以承輔天,而專はさみよこしまへきけいはかりごとためほとりぎゃく,仍父子ふしさい亡國ぼうこくかくおわり其身,ため天下でんかわらい。此非どくおう也,また其俗うす臣下しんかやや靡使しか也。おっと荊楚つよしいさむけい悍,こうさくみだれ,乃自古記こき矣。

さくかくれじゅつさん淮南ワイナンよこ,舉事せい天子てんし寬仁かんじん,其過さら。轞車致禍,鬥粟なりえいおうやすし好學こうがくおんなりょうさく詗。兄弟きょうだい不和ふわ傾國けいこく殞命。