(Translated by https://www.hiragana.jp/)
史記/卷123 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

史記しき/まき123

維基文庫ぶんこ自由じゆうてき圖書館としょかん
 酷吏こくり列傳れつでん だいろくじゅう 史記しき
まきいちひゃくじゅうさん だいあて列傳れつでん だいろくじゅうさん
ゆう俠列でん だいろくじゅうよん 

だいあてあとちょう騫。ちょう騫,かんちゅうじんけんもとちゅうためろう天子てんしとい匈奴きょうどくだしゃみなげん匈奴きょうどやぶつきおう,以其あたまためいんがつ遁逃而常怨仇匈奴きょうどあずかきょうげき漢方かんぽうほっごとめつえびす,聞此ごといんほっどおり使みち必更匈奴きょうどちゅう,乃募のう使者ししゃ。騫以ろう應募おうぼ使つかいがつあずかどう邑氏(ゆええびすやつあまちち俱出隴西。けい匈奴きょうど匈奴きょうどどくつてまいたん于。たん于留,曰:「つきざい吾北ごほくかんなに以得往使?われほっ使こしかん肯聽わが乎?」とめじゅうさいあずかつま有子ゆうこしか騫持かんぶししつ

きょ匈奴きょうどちゅうえきひろし,騫因あずか其屬ほろびきょうがつ西にしはしすうじゅうにち至大しだいあてだいあて聞漢にょうざいよくどおり騫,もん曰:「わかほしなに?」騫曰:「ためかん使がつ,而為匈奴きょうどしょ閉道。いまほろびただおう使つかいじんみちびけおくわがまこととくいたりはんかんかんまいないのこおう財物ざいぶつ不可ふかかちごと。」だいあて以為しか騫,ためはつしるべ繹,抵康かん居傳いで大月おおつき大月おおつきおうやめためえびすしょころせたて太子たいしためおうすんでしんだいなつ而居,肥饒ひじょうしょう寇,こころざし安樂あんらくまた以遠いえんかんことほうえびすしん。騫從がつ至大しだいなつ,竟不能ふのうとくがつ要領ようりょう

とめとしあまりかえ,并南山なんざんよくしたがえ羌中ふくため匈奴きょうど所得しょとくとめとしあまりたん于死,ひだりたに蠡王おさむ其太自立じりつくに內亂,騫與えびすつま及堂邑父俱亡かんかんはい騫為ふとなか大夫たいふどう邑父ためたてまつ使つかいくん

騫為じんつよしりょく寬大かんだい信人のぶと蠻夷ばんいあいどう邑父えびすじんぜんきゅうきゅう禽獸きんじゅう給食きゅうしょくはつ,騫行ひゃく餘人よにんじゅうさんさいただにんかえ

騫身しょいたりしゃだいあて大月おおつきだいなつかんきょ,而傳聞でんぶん其旁大國たいこくろくため天子てんしごと。曰:

だいあてざい匈奴きょうど西南せいなんざいかんせい西にしかんまんさと。其俗ちょ耕田こうだいねむぎゆうがますえしゅぜんうまあせ,其先天せんてん馬子まご也。ゆう城郭じょうかくしつ。其屬邑大しょうななじゅうあまりじょう,眾可すうじゅうまん。其兵ゆみほこ騎射きしゃ。其北そくやすし西にしそく大月おおつき西南せいなんそくだいなつ東北とうほくそくがらすまごひがしそく扜穼、于窴。于窴西にしのりすいみな西にしりゅうちゅう西海にしうみ;其東すいひがしりゅうちゅう鹽澤しおざわ鹽澤しおざわ潛行せんこう地下ちか,其南そくかわげん焉。玉石ぎょくせきかわちゅう中國ちゅうごく。而樓らんしゅうと邑有城郭じょうかく,臨鹽さわ鹽澤しおざわ長安ながやす千里せんり匈奴きょうどみぎかたきょ鹽澤しおざわ以東いとういたり隴西長城ちょうじょうみなみせっ羌,鬲漢どう焉。

がらすまございだいあて東北とうほく千里せんりぎょうこくずい畜,あずか匈奴きょうどどうぞくひかえつるしゃすうまん,敢戰。ふく匈奴きょうど,及盛,其羈ぞく肯往朝會ちょうかい焉。

かんきょざいだいあて西北せいほく千里せんりぎょうこくあずかつき大同だいどうぞくひかえつるしゃはちきゅうまんにんあずかだいあて鄰國。くにしょうみなみ羈事がつひがし羈事匈奴きょうど

奄蔡ざいやすしきょ西北せいほく千里せんりぎょうこくあずかかんきょ大同だいどうぞくひかえつるしゃじゅうあまりまん。臨大さわがけぶた乃北うみうん

大月おおつきざいだいあて西にしさん千里せんりきょ媯水きた。其南そくだいなつ西にしそく安息あんそくきたそくやすしきょくだりこく也,ずい移徙わたましあずか匈奴きょうどどうぞくひかえつるしゃいちじゅうまんつよしけい匈奴きょうど,及冒ひたぶるりつおさむやぶつきいたり匈奴きょうどろううえたん于,ころせつきおう,以其あたまためいんはじめがつきょ敦煌とんこう、祁連あいだ,及為匈奴きょうどしょはい,乃遠あて西にしげきだいなつ而臣とげ媯水きたためおうにわ。其餘しょう不能ふのうしゃ南山なんざん羌,ごう小月おづき

安息あんそくざい大月おおつき西にしすう千里せんり。其俗ちょ耕田こうだいねむぎかばすえしゅしろ邑如だいあて。其屬しょう大數たいすうひゃくしろ地方ちほうすう千里せんりさいため大國たいこく。臨媯すい有市ありいちみん商賈しょうこようしゃ及船,ぎょうつくりこくあるすう千里せんり。以銀ためぜにぜに如其おうめんおう輒更ぜにこうおうめん焉。かわつくりぎょう以為書記しょき。其西そくじょうえだきたゆう奄蔡、はじむのき

じょうえだざい安息あんそく西にしすう千里せんり,臨西うみあつ溼。耕田こうだいねゆう大鳥おおとりたまご如甕。ひと眾甚往往おうおうゆうしょうくんちょう,而安息あんそくやくぞく,以為外國がいこくくにぜんまぶし安息あんそく長老ちょうろう傳聞でんぶんじょうえだゆうじゃくすい西王母せいおうぼ,而未嘗見。

だいなつざいだいあて西南せいなんせんあまりさと媯水みなみ。其俗ちょ有城あるきあずかだいあてどうぞくだいおう)[きみちょう往往おうおうしろ邑置小長こなが。其兵じゃくかしこせんぜん賈市。及大月おおつき西にし徙,おさむはいみなしん畜大なつだいなつみんひゃくあまりまん。其都曰藍市城いちしろ有市ありいち販賈諸物しょぶつ。其東みなみゆうどくこく

騫曰:「しんざいだいなつ邛竹つえしょくぬのとい曰:『やすとく此?』だいなつ國人くにびと曰:『われ賈人往市どくどくざいだいなつ東南とうなんすう千里せんり。其俗ちょだいあずかだいなつどう,而卑溼暑ねつうん。其人民じんみんじょうぞう以戰。其國臨大すい焉。』以騫だいなつかんまん千里せんりきょかん西南せいなんこんどくこくまただいなつ東南とうなんすう千里せんりゆうしょくぶつ,此其去しょくどお矣。こん使つかいだいなつしたがえ羌中,けん,羌人あくしょうきたのりため匈奴きょうど所得しょとくしたがえしょくむべみちまた寇。」天子てんしすんで聞大あて及大なつ安息あんそくぞくみな大國たいこくぶつちょ,頗與中國ちゅうごく同業どうぎょう,而兵じゃくかん財物ざいぶつ;其北ゆう大月おおつきかんきょぞくへいつよし以賂のこしつらえあさ也。且誠とく而以ぞくのり廣地ひろち萬里ばんりじゅうきゅうやく,致殊ぞく威德いとくへん四海しかい天子てんし欣然きんぜん,以騫ごとためしか,乃令騫因しょく犍為はつあいだ使よんみち并出:駹,冉,徙,邛、僰,みな各行かくこういち千里せんり。其北方ほっぽう閉氐、筰,南方みなかた閉巂、こんあきらこんあきらぞくくんちょうぜん寇盜,輒殺りゃくかん使おわり莫得どおりしか聞其西にし千餘里有乘象國,めい曰滇えつ,而蜀賈姦出物でものしゃあるいたり焉,於是かん以求だいなつどうはじめどおり滇國。はつかんよくどおり西南せいなんえびすみち不通ふつうやめこれ。及張騫言以通だいなつ,乃復ごと西南せいなんえびす

騫以こうじょうしたがえ大將軍だいしょうぐんげき匈奴きょうど水草みずくさしょぐんとく以不とぼし,乃封騫為はくもちこうとしもとついたちろくねん也。其明ねん,騫為まもるじょうあずか將軍しょうぐん俱出みぎ北平きたひらげき匈奴きょうど匈奴きょうどかこえ將軍しょうぐんぐんしつほろび;而騫後期こうきとう,贖為庶人。としかん驃騎やぶ匈奴きょうど西にししろ)[いきすうまんにんいたり連山れんざん。其明ねん,渾邪おうりつ其民くだかん,而金じょう河西かさい西にし南山みなみやまいたる鹽澤しおざわそら匈奴きょうど匈奴きょうどゆうこうしゃいた,而希矣。其後ねんかんげきはしたん于於まくきた

天子てんしすうもん騫大なつぞく。騫既しつこういんごと曰:「しんきょ匈奴きょうどちゅう,聞烏まごおうごうこん莫,こん莫之ちち匈奴きょうど西にし小國しょうこく也。匈奴きょうどおさむころせ其父,而昆莫生棄於がらす嗛肉蜚其じょうおおかみ往乳たん于怪以為しん,而收ちょう。及壯,使つかい將兵しょうへいすう有功ゆうこうたん于復以其ちちみんこん莫,れいちょうもり於西(しろ)[いき]。こん莫收やしなえ其民,おさむつくりしょう邑,ひかえつるすうまん,習攻せんたん于死,こん莫乃りつ其眾どお徙,中立ちゅうりつ肯朝かい匈奴きょうど匈奴きょうどへいげきかち,以為しん而遠いん羈屬だいおさむこんたん于新こま於漢,而故渾邪そら無人むじん蠻夷ばんいぞくむさぼかん財物ざいぶつこんまこと以此而厚ぬさまいないがらすまご,招以えきひがしきょ渾邪あずかかんゆいこんおとうと,其勢むべ聽,聽則だん匈奴きょうどみぎひじ也。すんでれんがらすまご其西だいなつぞくみな招來しょうらい而為がいしん。」天子てんし以為しかはい騫為ちゅうろうはたはたさんひゃくにんうまかくひきうしひつじ以萬すう,齎金幣帛へいはくちょくすうせんきょまんぶし副使ふくしみち使使つかいのここれつくりこく

騫既いたりがらすまごがらすまごおうこん莫見かん使如單于禮,騫大慚,蠻夷ばんいむさぼ,乃曰:「天子てんし致賜,おうはいそくかえたまもの。」こん莫起はいたまもの,其他如故。騫諭使ゆび曰:「がらすまごのうひがしきょ渾邪のりかんおうしゅためこん莫夫じん。」がらすまご國分こくぶおうろう,而遠かん未知みち其大しょうもと服屬ふくぞく匈奴きょうどひさ矣,且又ちかこれ,其大臣だいじんみなかしこえびすよく移徙わたましおう不能ふのう專制せんせい。騫不とく其要りょうこん莫有じゅう,其中子なかご曰大祿ろくつよしぜんはた眾,はた別居べっきょまんだい祿ろくけいため太子たいし太子たいし有子ゆうこ曰岑娶,而太子たいしのみ臨死りんしいい其父こん莫曰:「必以岑娶ため太子たいしれい他人たにんだい。」こん莫哀ばくあい而許そつ以岑めとため太子たいしだい祿ろくいか其不とくだい太子たいし也,乃收其諸こんおとうとはた其眾ほとりはかりごとおさむ岑娶及昆莫。こん莫老,つねおそれだい祿ろくころせ岑娶,岑娶まん別居べっきょ,而昆莫有萬餘騎自備,こく眾分ためさん,而其だいすべ羈屬こん莫,こん莫亦以此敢專やく於騫。

騫因分遣ぶんけん副使ふくし使だいあてかんきょ大月おおつきだいなつ安息あんそくどく、于窴、扜穼及諸つくりこくがらすまごはつしるべやくおく騫還,騫與がらすまご使つかいすうじゅうにんうますうじゅうひき報謝ほうしゃいんれい窺漢,其廣だい

騫還いたはいためだいぎょうれつ於九きょうとしあまりそつ

がらすまご使すんで漢人かんど眾富あつほう其國,其國乃益じゅうかん。其後としあまり,騫所使つかいどおりだいなつぞくしゃみな頗與其人俱來,於是西北せいほくこくはじめどおり於漢矣。しかちょう騫鑿そら,其後使往者おうしゃみなしょうはくもちこう,以為しつ外國がいこく外國がいこくよし此信

はくもちこう騫死匈奴きょうど聞漢どおりがらすまごいかよくげき。及漢使がらすまごわか其南,抵大あて大月おおつきしょうぞくがらすまご乃恐,使つかい使けんじねがいどくなおかんおんなおうしゅためこんおとうと天子てんしとい群臣ぐんしんけいみな曰「必先おさめ聘,しかこう乃遣おんな」。はつ天子てんしはつしょえきうん神馬じんばとうしたがえ西北せいほくらい」。とくがらすまごこうめい曰「天馬てんば」。及得だいあてあせえきたけしさらめいがらすまご曰「西にしきょく」,めいだいあて曰「天馬てんばうん。而漢はじめ筑令きょ以西いせいはつおけしゅいずみぐん以通西北せいほくこくいんえきはつ使安息あんそく、奄蔡、はじむのきじょうえだどくこく。而天子てんしこうあて使者ししゃしょうもち於道。しょ使つかい外國がいこくいちやからだいしゃすうひゃくしょうしゃひゃく餘人よにんにんしょ齎操だいはくもちこう。其后えき習而おとろえしょう焉。かんりつ一歲中使多者十餘,しょうしゃろくやからとおしゃはちきゅうさいこんしゃすうさい而反。

これかんすんでめつえつ,而蜀、西南せいなんえびすみなふるえ,請吏入朝にゅうちょう。於是おけえきしゅうえつ巂、牂柯、沈黎、汶山ぐんよくせっ以前いぜんどおりだいなつ。乃遣使かしわはじめあきらりょ越人えつじんとうとしじゅうあまりやから此初ぐん抵大なつみなふく閉昆あきら為所しどころころせだつぬさざいおわり莫能どおり至大しだいなつ焉。於是かんはつさん輔罪じんいんともえしょくすうまんにんりょう將軍しょうぐんかくあきらまもるこうとう往擊こんあきらさえぎかん使者ししゃ斬首ざんしゅとりこすうまんにん而去。其後使つかいこんあきらふくため寇,竟莫のうとくどおり。而北道ほくどうしゅいずみ抵大なつ使者ししゃすんで,而外國益こくえきいやかんぬさ其物。

はくもちほうひらく外國がいこくどう以尊とうと,其後したがえ吏卒みなそう上書うわがきごと外國がいこくかい利害りがいもとめ使天子てんしため絕遠ぜつえん非人ひにんしょらく往,聽其ごとぶしつの吏民毋問しょ從來じゅうらいため具備ぐびじん眾遣,以廣其道。かえ不能ふのう毋侵ぬすめ幣物へいもつ,及使しつゆび天子てんしため其習,輒覆あん致重ざい,以激怒げきどれい贖,ふくもとめ使使つかいはし無窮むきゅう,而輕はんほう。其吏そつまた輒復もり外國がいこく所有しょゆうげんだいしゃぶしげん小者こものためふく妄言ぼうげんくだりみなそうこう。其使みなひんじんわたしけんかん齎物,よく賤市以私其利外國がいこく外國がいこくまたいやかん使人人ひとびとゆうごと輕重けいちょうかんへいとお不能ふのういたり,而禁其食ぶつ以苦かん使かん使とぼしぜっ積怨せきえんいたりしょう攻擊こうげき。而樓らんしゅうと小國しょうこくみみとうそらどうおさむこうかん使つかいおう恢等ゆう甚。而匈やつへい時時ときどきさえぎげき使西國さいこくしゃ使者ししゃそうへんげん外國がいこく災害さいがいみな有城あるき邑,へいじゃくえきげき。於是天子てんし以故したがえ驃侯やぶやつはた屬國ぞっこく及郡へいすうまんいたり匈河すいよく以擊えびすえびすみな。其明ねんげきしゅうとやぶやつあずかけいななひゃくあまりさきいたりとりころうらんおうとげやぶしゅうとよし舉兵以困がらすまごだいあてぞくかえふうじやぶやつため浞野こうおう恢數使ためろうらんしょげん天子てんし天子てんしはつへいれい恢佐やぶやつ擊破げきはふう恢為ひろしこう。於是しゅいずみれつてい鄣至玉門ぎょくもん矣。

がらすまごせんひき聘漢おんなかん宗室そうしつおんなおぎなぬし往妻がらすまごがらすまごおうこん莫以ためみぎ夫人ふじん匈奴きょうどまたじょつまこん莫,こん莫以ためひだり夫人ふじんこん莫曰「わがろう」,乃令其孫岑娶つまおきなぬしがらすまごうま,其富じんいたりゆうよんせんひき

はつかん使いたり安息あんそく安息あんそくおうれいはたまんむかえ於東おひがしかいひがしかいおうすう千里せんりくだりいたりすうじゅうしろ人民じんみんしょうぞく甚多。かん使かえ,而後はつ使ずいかん使來觀らいかんかん廣大こうだい,以大とりたまご及黎のきぜんまぶしにんけんじ于漢。及宛西小にしおこく驩潛、だいえきあてひがししゅうと、扜穼、らっきょうぞくみなずいかん使けんじ天子てんし天子てんしだいえつ

而漢使きゅうかわげんかわげん于窴,其山玉石ぎょくせきさいらい天子てんしあん圖書としょめいかわしょ出山でやま曰崑崙云。

上方かみがたすうじゅんかり海上かいじょう,乃悉したがえ外國がいこくきゃくだいひとそくこれ散財さんざい帛以賞賜しょうしあつ以饒きゅう,以覽しめせかんとみあつ焉。於是だい觳抵,おどけしょ怪物かいぶつ聚觀しゃぎょう賞賜しょうし酒池肉林しゅちにくりんれい外國がいこくきゃくへんかん)[かく倉庫そうこぞうせきかん廣大こうだいかたぶけ駭之。及加其眩しゃこう,而觳抵奇おどけとしぞうへん,甚盛えききょう此始。

西北せいほく外國がいこく使さらさらあて以西いせいみな以遠いえんなおおごほしいまま晏然,詘以れい羈縻而使也。がらすまご以西いせいいたり安息あんそく,以近匈奴きょうど匈奴きょうどこまつき也,匈奴きょうど使たん于一しんじのりこくこく傳送でんそうしょく敢留;及至かん使幣帛へいはくとくしょく畜不とくよう所以ゆえんしかしゃとおかん,而漢財物ざいぶつ必市乃得しょよくしか以畏匈奴きょうど於漢使焉。あて左右さゆう以蒲すえためしゅとみじんぞうしゅいたりまんせきひさしゃすうじゅうさい不敗ふはいぞく嗜酒,うま苜蓿うまごやしかん使其實らい,於是天子てんしはじめしゅ苜蓿うまごやしかばすえ肥饒ひじょう。及天外國がいこく使らい眾,のり離宮りきゅうべつかんつくりつきしゅ蒲萄ぶどう苜蓿うまごやしごくもち自大じだいあて以西いせいいたり安息あんそくくに雖頗げんしか大同だいどうぞく相知おうちげん。其人みなふか須髯,ぜん賈,そうぶん銖。ぞく女子じょし女子じょししょげん丈夫じょうぶ乃決ただし。其地皆無かいむいとうるし不知ふちぜに。及漢使ほろびそつくだきょうづく兵器へいきとくかん黃白こうはくきん,輒以ため不用ふようためぬさ

而漢使者ししゃ往既,其少したがえりつすすむじゅく於天げん曰:「あてゆうぜんざいじょう,匿不肯與かん使。」天子てんしすんでこうあて,聞之甘心かんしん使つかい壯士そうししゃれいとう千金及金馬以請宛王貳師城善馬。あてこくにょうかんぶつそうあずかはかりごと曰:「かんわがとお,而鹽水中すいちゅうすうはい其北ゆうえびす寇,其南とぼし水草みずくさまた且往往而ぜっ邑,とぼししょくしゃかん使すうひゃく人為じんいやかららい,而常とぼしくえ死者ししゃ過半かはん是安こりゃすのう致大ぐん乎?柰我なに。且貳あて寶馬ほうま也。」とげ肯予かん使かん使いか妄言ぼうげんしいきん而去。あて貴人きじんいか曰:「かん使いたりけい!」かん使れい其東いくなりさえぎおさむころせかん使其財ぶつ。於是天子てんしだいいかしょ嘗使あて姚定かんとうげんあてへいじゃくまこと以漢へいさんせんにんつよしいしゆみしゃそくつきとりこやぶあて矣。天子てんしやめ嘗使浞野ほうおさむろうらん,以ななひゃくさきいたりとりこ其王,以定かんとうげんためしか,而欲こう寵姬ちょうきはいひろ利為としなり將軍しょうぐんはつ屬國ぞっこくろくせん,及郡こくあく少年しょうねんすうまんにん以往いおうあていたりじょうぜんゆえごう將軍しょうぐん」。ちょうはじめなりためぐんただしひろしこうおう恢使しるべぐん,而李哆為こうじょうせい軍事ぐんじとし太初たいしょ元年がんねん也。而關東かんとういなご大起だいき,蜚西いたり敦煌とんこう

將軍しょうぐんぐんすんで西にし鹽水えんすいとうみち小國しょうこくおそれかくけんじょうもり給食きゅうしょくおさむ不能ふのうしたしゃとくしょくしたしゃ數日すうじつそくいたりいくなりいたりしゃすうせんみなひだるやめおさむいくなりいくなり大破たいはしょ殺傷さっしょう甚眾。將軍しょうぐんあずか哆、はじめなりとうけい:「いたりいくなりひさし不能ふのう舉,きょういたり其王乎?」引兵而還。往來おうらいさいかえいたり敦煌とんこう什一使つかい使上書うわがきごと:「みちとおおおとぼししょく;且士そつ患戰,患饑。ひとしょう不足ふそく以拔あてねがい且罷へいえきはつ而復往。」天子てんし聞之,だいいか,而使使さえぎ玉門ぎょくもん,曰軍ゆう敢入しゃ輒斬おそれいんとめ敦煌とんこう

其夏,かんほろび浞野へいまんあまり於匈やつ公卿くぎょう及議しゃみなねがいやめげきあてぐんせんりょくおさむえびす天子てんしやめぎょう誅宛,あて小國しょうこく不能ふのうのりだいなつぞくけいかん,而宛ぜんぜっがらすまご、侖頭えきかん使矣,ため外國がいこくわらい。乃案げんあてゆう不便ふべんしゃ鄧光とう,赦囚徒しゅうとざいかんえきはつあく少年しょうねん及邊さいあまり而出敦煌とんこうしゃろくまんにんわたし從者じゅうしゃあずかうしじゅうまんうまさんまんひきうさぎうま騾橐它以まんすう齎糧,へいいしゆみ甚設,天下てんか騷動そうどうつてしょうたてまつあて,凡五じゅうこうじょうあて王城おうじょうちゅうみな汲城がい流水りゅうすい,於是乃遣すいこう徙其じょう下水げすいそら以空其城。えきはつ戍甲そつじゅうはちまんさけいずみちょうわききたおけきょのべきゅうほふ以衛しゅいずみ,而發天下でんかななてき,及載ほしいきゅうてんしゃじんしょうれんぞくいたり敦煌とんこう。而拜習馬しゃ二人為執驅校尉,備破あて其善うん

於是きさきふくぎょうへい,而所いたり小國しょうこく莫不むかえしょくきゅうぐんいたり侖頭,侖頭したおさむ數日すうじつほふこれ此而西にし平行へいこういたりあてじょうかんへいいたしゃさんまんにんあてへい迎擊げいげきかんへいかんへいしゃはいあて走入はしり葆乘其城。へいよくぎょうおさむいくなりこわとめゆき而令あて益生ますおいつわり,乃先いたりあてけつ其水きすいげんうつりのりあてかたやめこまかこえ其城,おさむよんじゅうにち,其外じょう壞,とりこあて貴人きじん勇將ゆうしょうせんじ靡。あてだいおそれ走入はしり中城なかぐすくあて貴人きじんしょうあずかはかりごと曰:「かん所為しょいおさむあて,以王毋寡匿善而殺かん使いまころせおう毋寡而出ぜんかんへいむべかいそくかい,乃力戰りきせん而死,ばん也。」あて貴人きじんみな以為しかきょうころせ其王毋寡,もち其頭貴人きじん使やく曰:「かん毋攻わがつきぜんほしいまましょ,而給かんぐんしょくそく聽,わがつきころせぜん,而康きょすくえ且至。いたりわがきょ內,かんきょきょがいあずかかんぐんせんかんぐんじゅくけいなにしたがえ?」これかん居候いそうろうかんへいかんへいなおもり敢進。あずかちょうはじめなり哆等けい:「聞宛城中じょうちゅう新得しんとくしんじん穿井せんせい,而其內食なお所為しょいらい,誅首惡者わるもの毋寡。毋寡あたまやめいたり,如此而不もとかいへいのり堅守けんしゅ,而康居候いそうろうかんやめ而來すくいあてやぶかんぐん必矣。」ぐん吏皆以為しかもとあてやくあて乃出其善れいかんこれ,而多しょくしょくきゅうかんぐんかんぐん其善すうじゅうひき中馬ちゅうま以下いかおすめすさんせんひき而立じりつあて貴人きじん待遇たいぐうかん使ぜんしゃめい昧蔡以為あておうあずかめい而罷へいおわりとくいれ中城なかぐすく。乃罷而引

はつおこり敦煌とんこう西にし,以為じん道上みちがみこく不能ふのうしょく,乃分ためすうぐんしたがえ南北なんぼくどうこうじょうおうさるせいおおとり臚壺たかしこくとうせん餘人よにんべついたいくなりいく成城せいじょうまもる給食きゅうしょく其軍。おうさるせい大軍たいぐんひゃく,(偵)[偩]而輕せめいくなりいくなりしょく肯出,窺知きちさるせいぐんしょう,晨用さんせんにんおさむ,戮殺さるせいとうぐんやぶすうにんぬげほろびはしれいさがせあわじょう上官じょうかん桀往おさむやぶいくなりいくなりおうほろびはしやすし,桀追いたりやすしきょかんきょ聞漢やめやぶあて,乃出いくなりおう桀,桀令四騎士縛守詣大將軍。よん人相にんそういい曰:「いくなりおう漢國かんごくしょどく今生こんじょうはたそつしつ大事だいじ。」よくころせ,莫敢さきげきうえ邽騎ちょうおとうと最少さいしょう拔劍ばっけんげきいくなりおう,齎頭。おとうと、桀等逐及大將軍だいしょうぐん

はつきさきぎょう天子てんし使使つげがらすまご大發だいはつへい并力げきあてがらすまごはつせん往,もち兩端りょうたん肯前。將軍しょうぐんひがしもろしょ過小かしょうこく聞宛やぶみな使子弟してい從軍じゅうぐんにゅうけんじ天子てんしいん以為しつ焉。あて也,而軍せいちょうはじめなり力戰りきせんこう最多さいた;及上かん桀敢深入ふかいり哆為謀計ぼうけいぐんにゅう玉門ぎょくもんしゃまん餘人よにん軍馬ぐんばせんひききさきぎょうぐんとぼししょく戰死せんし不能ふのうおお,而將吏貪,あい士卒しそつおかせ牟之,以此物故ぶっこ眾。天子てんしためまんさと而伐あてろくふうこう利為としなりうみ西にしこうまたふういくなり王者おうじゃ騎士きしちょうおとうとためしん畤侯。ぐんせいちょうはじめなりためこう祿ろく大夫たいふ上官じょうかん桀為しょう哆為じょうとう太守たいしゅぐん官吏かんりためきゅうきょうしゃさんにん諸侯しょこうしょうこおりまもるせんせきしゃひゃく餘人よにんせんせき以下いかせん餘人よにん。奮行しゃかん其望,以適行者ぎょうじゃみな絀其ろう士卒しそつたまものちょくよん萬金まんきんあてさいはん,凡四歲而得罷焉。

かんやめあてたて昧蔡ためあておう而去。としあまりあて貴人きじん以為昧蔡ぜん諛,使つかい我國わがくにぐうほふ,乃相あずかころせ昧蔡,たて毋寡こんおとうと曰蟬ふうためあておう,而遣其子入質にゅうしち於漢。かんいん使使まいないたまもの鎮撫ちんぶ

而漢はつ使十餘輩至宛西諸外國,もとめぶついんふうらん以伐あて威德いとく。而敦煌置しゅ泉都せんとじょう西にしいたり鹽水えんすい往往おうおうゆうてい。而侖あたま有田ありたそつすうひゃくにんいんおけ使者ししゃまもるせきあわ,以給使外國がいこくしゃ

ふとしおおやけ曰:《禹本紀ほんぎげん河出かわでこん崙。こん崙其だかせんひゃくあまりさと日月じつげつしょしょう避隱ためこう明也あきや。其上ゆう醴泉、よう」。こんちょう騫使だいなつこう也,きゅうかわげんあく本紀ほんぎ所謂いわゆるこん崙者乎?げん九州きゅうしゅう山川やまかわ,《尚書しょうしょきんこれ矣。いたり《禹本紀ほんぎ》、《山海さんかいけい所有しょゆう怪物かいぶつ敢言也。

さくかくれじゅつさんだいあてあともといんはくもちはじめきわむかわげん,旋窺海上かいじょうじょうえだ西入にしいり天馬てんま內向。蔥嶺ちり鹽池しおいけいきなみ。曠哉絕域ぜついき往往おうおうちんさわ