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宋史/卷001 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

そうふみ/まき001

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  そうふみ
まきいち 本紀ほんぎだいいち ふとしいち
まき 

ふとし啟運けいうんりつごく英武ひでたけ睿文神德しんとくひじり功至かつじ明大めいだいこう皇帝こうていいみなただしたねせいちょう,涿郡じん也。高祖こうそ朓,ため僖祖,つかまつかられきえいきよしぶんやすかそけれい。朓生珽,ためじゅんれきはん從事じゅうじるいかんけんちゅうすすむ。珽生けいためつばされき營、あざみ、涿さんしゅう刺史ししけいせいひろいんためせんしゅう顯德けんとくちゅうせんとうとおくけいひだり驍騎まもるじょう將軍しょうぐん

せんしょう驍勇,ぜん騎射きしゃことちょうおうおう鎔,ため鎔將五百騎援唐莊宗于河上有功。そうそうあい其勇,とめてんきんぐんかんいぬいゆうちゅう,討王けいおおとりしょうかいしょくへい來援らいえんせん于陳くらはじめごうしゅう左目ひだりめわたるもり,奮擊大敗たいはい,以功遷護きよし指揮しき使しゅうひろじゅんまつあらため鐵騎てっきだい一軍いちぐん指揮しき使てんみぎひさし指揮しきりょうたけしゅう防禦ぼうぎょ使したがえせい淮南ワイナンぜんぐん却,くれじんらいじょうせん邀擊ようげきはい顯德けんとくさんねんとく軍平ぐんぺいあげしゅうあずかむねかいことぶきはることぶきはるうりもちもちうすしょうせいむねいか十餘輩將誅之,せんかた諫得しゃくるいかん檢校けんぎょう天水てんすいけんおとこ與太よたぶんてんきんへい一時いちじさかえそつおくたけきよしぐん節度せつど使ふとしじょう

ふとしせん仲子なかご也,はは杜氏とうじこうとう天成てんせいねんなま於洛夾馬營,あかこうにょうしつこうけい宿やどからだ有金ありかねしょくさんにち不變ふへんすんでちょう容貌ようぼう雄偉ゆういうつわ豁如,識者しきしゃ其非常人じょうじんがく騎射きしゃ,輒出じんじょう,嘗試あくほどこせ銜勒,うまいつ上城かみしろはすどうがくさわもん楣墜にん以為くび必碎,ふとしじょおこりさらついうまあがじょういちしょきずまた嘗與かんれいひつじさるはくしつちゅうすずめ鬬戶がいいんきおいおこり掩雀,而室ずい壞。

かんはつ漫遊まんゆうしょぐうしゃじょうそうてらゆうろうそうぜん術數じゅっすう,顧曰:「われあつはなむけなんじきた往則ゆうぐう矣。」かいしゅう以樞密使みっしせいまもるしん應募おうぼきょちょうこうじゅんはつ東西とうざいはんぎょうくびはいなめらしゅうふく指揮しき宗尹むねただきょうてん開封かいふう府馬ふまちょく軍使ぐんし

むね即位そくいふくてんきんへいきたかん來寇らいこうせいむねりつ禦之,せん於高たいらはたごう指揮しき樊愛のうとうさき遁,ぐん危。ふとし同列どうれつはせ衝其ほこさきかんへいだいつぶせじょうかつおさむ河東かとうじょう,焚其もんひだりひじちゅう流矢ながれやせいむねどめかえ拜殿はいでんまえおそれこうりょうげんしゅう刺史しし

顯德けんとくさんねん[编辑]

さんねんはるしたがえせい淮南ワイナンしゅはいまん眾於うずこう兵馬へいばかんなんのべすずとうみなみから節度せつどすめらぎはじめあきら、姚鳳眾號じゅうまんふさが清流せいりゅうせきげきはしこれついいたり城下じょうかあきら曰:「ひとかくため其主,ねがいなりれつ以決勝負しょうぶ。」ふとしわらい而許あきらせいじんふとしようこう直入なおいりあきらちゅうのうなみ姚鳳禽之。せんりつへい夜半やはんいたり城下じょうかつてよび開門かいもんふとし曰:「父子ふしかたしたしけい閉,王事おうじ也。」つめだん,乃得いれかんれいひつじさるたいらあげしゅうみなみから來援らいえんれいひつじさる退すさせいそういのちふとしりつへいせんろくごうふとしれい曰:「あげ州兵しゅうへい敢有ろくごうしゃだん其足。」れいひつじさるはじめ固守こしゅふとしひろはいひとしおうけいたちろくごうひがし斬首ざんしゅまんあまりきゅうかえ拜殿はいでんまえ指揮しき使ひろはい定國さだくにぐん節度せつど使

顯德けんとくよんねん[编辑]

よんねんはるしたがえせいことぶきはる,拔連珠れんじゅとりでとげことぶきしゅうかえはい義成よしなりぐん節度せつど檢校けんぎょうふとしたもて,仍殿まえ指揮しき使ふゆしたがえせいほり、泗,ためぜんほこさきときみなみからとりでじゅうはちさとなだせい宗方むなかた以橐駝濟,而太どくおどうま截流さきわたり麾下きかずいとげやぶ其砦。よし其戰かんじょうかつおさむ泗州,下之したのみなみからたむろしんこうふとししたがえそうつばさ淮東よるついいたり山陽さんよう,俘唐節度せつど使ひねうけたまわみことのり以獻,とげ拔楚しゅうすすむやぶ唐人とうじん于迎鑾江こうちょく抵南がん,焚其營柵,またやぶこれ于瓜淮南ワイナンたいらからおもかしこふとし威名いめいようあいだ於世むね使つかいのこふとしょ,饋白きんさんせんりょうふとし悉輸內府,あいだ乃不ぎょう

顯德けんとくねん[编辑]

ねんあらため忠武ただたけぐん節度せつど使

顯德けんとくろくねん[编辑]

ろくねんせいそうきたせいため水陸すいりく都部いちぶしょ。及莫しゅうさきいたりかわらきょうせきくだ守將しゅしょう姚內斌,せん卻數せんせき南平みなみだいらそうざいみち,閱四方しほう文書ぶんしょとく韋囊,中有ちゅううさんしゃくあまりだいうん點檢てんけんさく天子てんし」,これときちょうひさしとくため點檢てんけんせいそうかえ京師けいしおがめぶと檢校けんぎょうふとでん殿しんがりまえ點檢てんけん,以代えいいさおきょうみかど即位そくいあらためとくぐん節度せつど檢校けんぎょうふとしじょう

顯德けんとくななねん[编辑]

ななねんはるきたかんゆいちぎり入寇にゅうこういのち出師すいし禦之。つぎひねきょうえきぐんちゅうほししゃなえくん引門吏楚昭輔しょうすけ日下くさかふくゆういちにち黑光くろびかり盪者久之ひさゆきよるぐんあつまりえきもん宣言せんげんさく點檢てんけんため天子てんしあるとめ,眾不聽。おそあきら,逼寢しょふとしそうにゅうしろふとしおこりしょこうれつ於庭,曰:「しょぐん無主むしゅねがいさくふとしじょうため天子てんし。」及對,ゆう以黃ころも加太かだ,眾皆はいよびまんさいそくわきふとし乘馬じょうばふとし攬轡いいしょしょう曰:「わがゆう號令ごうれいしかのうしたがえ乎?」みな下馬げば曰:「ただいのち。」ふとし曰:「ふとしきさき主上しゅじょうわれみな北面ほくめんごとなんじやからとくおどろきはん大臣だいじんみなわが比肩ひけんとくおかせしのげ朝廷ちょうてい庶之とく侵掠しんりゃくようれいゆうじゅうしょうたがえそく孥戮なんじ。」しょしょうみなはい,肅隊以入。ふく指揮しき使かん通謀つうぼう禦之,おう彥昇遽殺どおり於其だい

ふとししんのぼり明德あきのりもんれいかぶと歸營きえい,乃退きょおおやけしょゆうごろしょしょうよう宰相さいしょう范質とういたりふとしこれ嗚咽おえつりゅう涕曰:「たがえ天地てんちこんいたり於此!」しつとう及對,れつこう彥瓌按劍厲聲いいしつとう曰:「我輩わがはい無主むしゅ今日きょう須得天子てんし。」しつとうしょう顧,けいしたがえ,乃降かいれつはい。召文武ぶんぶひゃく僚,いたり晡,はんじょう翰林かんりんうけたまわむねとうこくしゅうきょうみかどぜんせいしょ於袖ちゅうせん徽使引太就庭,北面ほくめん拜受はいじゅやめ,乃掖ふとしますたかしもと殿しんがりふく衮冕,そく皇帝こうてい。遷恭みかど及符きさき西宮にしのみやえき其帝ごう曰鄭おう,而尊きさきため周太しゅうたきさき

たてたかし元年がんねん[编辑]

たてたかし元年がんねんはる正月しょうがつおつ大赦たいしゃ改元かいげんていゆう天下でんかこれごう曰宋。たまもの內外ひゃく官軍かんぐん爵賞,貶降しゃ敘復,りゅうはいしゃ釋放しゃくほう父母ちちはは該恩しゃふうじおく使つかい徧告ぐんこく丙午ひのえうまみことのりさとししょ將帥しょうすいつちのえさるたまものしょみなみとうおくかんどおり中書ちゅうしょれいいのち以禮おさむそうおのれとりかん告祭こくさい天地てんち社稷しゃしょくふくやすしゅうはなしゅう、兗州ため節度せつどからしろん翊戴こう,以周義成よしなりぐん節度せつど使殿しんがりまえ指揮しき使せきもりしんためとくぐん節度せつど使さむらいまもるしん軍馬ぐんばぐんふく指揮しき使こうやすしぐん節度せつど使さむらいまもるしん軍馬ぐんばぐん指揮しき使だかふところとくため義成よしなりぐん節度せつど使殿しんがりぜんふく點檢てんけん武信たけのぶぐん節度せつど使さむらいまもるおやぐんぐん指揮しき使ちょうれい鐸為鎮安ぐん節度せつど使さむらいまもるしん軍馬ぐんばぐんおそれこう殿しんがりまえおそれこうおうしん琦為たいやすしぐん節度せつど使殿しんがりまえ指揮しき使とらとしみぎひさしおそれこうちょうひかり翰為こうやすしぐん節度せつど使さむらいまもるしん軍馬ぐんばぐん指揮しき使りゅうとしみぎひさし指揮しき使ちょう彥徽ため武信たけのぶぐん節度せつど使りょうぐんしゃ並進へいしん爵。みずのえたまもの宰相さいしょう樞密すうみつしょぐんこうかさねころもさいだまたい鞍馬あんばゆうみずのとうしみなみとうくだはたしゅうしげるとう歸國きこくおつ使つかいぶんしょしゅうちょういのちしゅうそうただしかく玘祀しゅうりょうびょう,仍以まつりとおるおのれ宰相さいしょうひょう請以がつじゅうろくにちためちょう春節しゅんせつみずのと,以周てんゆうぐん節度せつど使おう彥卿もりたい雄武おうむぐん節度せつど使おうけいもりふとしたもてふとしげんぐんおうじょうなんぐん節度せつど使まもりふとでん西平にしだいらおうつねいんもりふとしじょう,荊南節度せつど使高保たかやすとおるもりふとしでんりょうぶし鎮者並進へいしん爵。甲子きのえねたまものすめらぎおとうと殿どのぜんおそれこうただしめい光義みつよしおのれたてふとしびょう。鎮州かくたかしほうちぎり與北よぎたかんぐんみな遁。

がつおつみことはは南陽なんようぐん夫人ふじん杜氏とうじため皇太后こうたいごう。以周宰相さいしょう范質ぜん守司もりじけんさむらいちゅうおう溥守そらけん門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとじんうらため尚書しょうしょみぎぼくしゃけん中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとくるる密使みっしくれ廷祚同中どうちゅうしょ門下もんかひんへいいぬ長春ちょうしゅんぶしたまもの群臣ぐんしんころもかくいちかさね

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なつよんがつみずのととり,竇儼じょうまいじゅう樂曲がっきょくめい樂章がくしょうおつとりこう玉津たまつえん使つかいぶんまいきょう城門じょうもんたまものひだるみんかゆへいいぬ,浚蔡かわ癸巳きし昭義あきよしぐん節度せつど使筠叛,とくぐん節度せつど使せきもりしん討之。

五月ごがつおのれついたちにちゆうしょくかのえあきらぐん節度せつど使慕容のべ釗、あきらとくぐん節度せつど使おうちょんあきら將兵しょうへい東道とうどうあずかもりしんかい討李筠。みずのえとら,竇儼うえふとしびょうまい曲名きょくめいみずのとせきもりしんはい筠于長平ながだいかぶとたついのち諸道しょどうしん討。丙午ひのえうまさいわいたかしひとしうらだいやましおのれとり西京にしぎょうさくしゅうろくびょうなりかん奉遷ほうせんちょうみことのりおやせい,以樞密使みっしくれ廷祚留守るすじょうおそれこう光義みつよしためだい內都點檢てんけんいのち天平てんぴょうぐん節度せつど使かんれいひつじさるたむろへい河陽かわようおのれはつ京師けいしちょうしげるいしもりしんじこうふところとくやぶ筠眾于澤しゅう,禽偽節度せつど范守ころせきたかん援兵えんぺいくだしゃすうせんにん,筠遁入澤いりさわしゅうつちのえたつ王師おうしかこえこれ

ろくがつみずのととりゆうほし赤色あかいろしんからし,拔澤しゅう,筠赴いのちうめ胔骼。しゃく河東かわとうしょうまもるとおるきんひょうげかすめかぶとさるめんさわしゅう今年ことし租。ゆうほし赤色あかいろぶとほろかきれき上相かみやおつとりうわとうちょう,筠子守こもりぶし以城くだ,赦之。うえ如潞。からし大赦たいしゃげん死罪しざいめんさんじゅう今年ことし租,ろく陣歿じんぼつ將校しょうこう子孫しそんちょうおっときゅうふくさんねんかぶとうま永安えいあんぐん節度せつど使おりとく扆破きたかんすなたにとりで

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はちがつつちのえたつついたちたかしもと殿しんがりぎょう入閣にゅうかくからしかく玘饗しゅうびょうみずのえさるふくかいしゅう為永ためながきよしぐん節度せつどかぶといぬいのち宰相さいしょう禱雨。からし,以周武勝むしょうぐん節度せつど使ほうあきらため太子たいしふとしみずのえうま,以光りょうたいやすしぐん節度せつどぜん殿しんがりまえおそれこうかぶとさるたて琅琊ぐん夫人ふじんおうため皇后こうごう戊子ぼしみなみからすすむ平澤ひらさわ潞金銀器ぎんきあやぎぬせんけい

きゅうがつみずのえとら昭義あきよしぐん節度せつど使つぎくん焚北かんたいらはるかけんみずのと,三佛齊國遣使貢方物。丙午ひのえうまたてまつたまさつおくりな高祖こうそ文獻ぶんけん皇帝こうていびょうごう僖祖,高祖こうそ妣崔曰文懿皇后こうごう曾祖そうそ曰惠もと皇帝こうていびょうごうじゅん曾祖そうそ妣桑曰惠あかり皇后こうごう曰簡きょう皇帝こうていびょうごうつばさ妣劉曰簡きよし皇后こうごう皇考こうこう曰武あきら皇帝こうていびょうごうせんおのれとりこうむべはるえん中書ちゅうしょ舍人とねりちょう逢坐したがえせい避難ひなん,貶房州ぼうしゅうつかささんぐんおのれ淮南ワイナン節度せつどしげるしん以揚しゅう叛,いしもりしんとう討之。甲子きのえねかえりふとげん俘。

ふゆじゅうがつちょうしげるついたちたまもの內外文武ぶんぶかんふゆころもゆうみずのえさるていけんためもち、緊、うえなかしたれいさんねんいちちゅうみずのえうまかわけついやおつとりすすむ州兵しゅうへい鈐轄荊罕儒襲きたかん汾州,りゅうとし指揮しきせきしんじゅう九人坐不救棄市。ちょうみことのりおやせいあげしゅう,以都おそれこう光義みつよしためだい內都部署ぶしょくるる密使みっしくれ廷祚けんじょう留守るす戊子ぼしみことのり諸道しょどうちょうゆうせい,眾舉とめ請立しゃさんぐんけんじつ以聞。かのえとらはつ京師けいし

十一月じゅういちがつ丁未ていみ師傅しふあげしゅうじょう,拔之,じゅうすすむつきしつ焚。つちのえさる,誅重しんとうあげしゅうたいらいのちしょぐん習戰かん于迎鑾,みなみとうぬし懼甚。其臣もりちょ、薛良いん詭跡らい奔,みかどやまし不忠ふちゅうちょしょくはいりょういおりしゅうきばこうおのれとりあげしゅう城中じょうちゅうみんじんまいいち斛,じゅうさい以下いかしゃはんおびえ隸為ぐんしゃたまものころも屨遣かえかのえいぬきゅうおさむしろやくおっと死者ししゃ人絹じんけんさんひきふくさんねんおつみなみからおも使つかいらい犒師。庚申こうしん其子したがえ來朝らいちょう

十二月じゅうにがつおのれかえちょううえいたるあげからし泉州せんしゅう節度せつど使とめしたがえこうしょうはん

たてたかしねん[编辑]

  二年春正月丙申朔,じょうまいふときさき宮門きゅうもんしょうけいかのえうらないじょう國王こくおう使つかい來朝らいちょうみずのえとらこう造船ぞうせんつとむかん習水せんつちのえさる,以揚しゅう行宮あんぐうためたてたかしてらふとぼくしょうきょうおううけたまわあきらすわ舉官しつせめ授殿ちゅうすすむみずのえしょうしゅうねずみしょくなえみことのりめんいいおさむしん曰:「いのち使邀功へいみんとうまき其選,以見ちん。」ちょうしるべ蔡水にゅう潁。おのれかく玘饗しゅうびょうれいたけ節度せつど使馮繼ぎょうけんじひゃく、橐駝ひゃく甲子きのえねさわしゅう刺史ししちょうたかし詁坐とうしげるしん棄市。

  がつへいとらこうとびさん營閱礮車。みずのえさる,疏五たけかわみずのととり有司ゆうしそう進士しんし合格ごうかくしゃじゅういちにん。荊南だか勖進黃金おうごん什器じゅうきかぶといぬさいわい城南じょうなん觀修かんしゅうすい匱。ちょううしみなみとうしんちょう春節しゅんせつ御衣おんぞかねたい及金銀器ぎんきおのれたまものてんゆうぐん節度せつど彥卿あわきんはるなつさかなしゃとりおのれうしてい竊盜せっとうりつ

  さんがつへいさる,內酒ぼうさけこう死者ししゃさんじゅう餘人よにんじょうためぬすめしゃじゅうにんとりこさんじゅうはちにん以宰しん諫獲めんさけぼう使ひだりうけたまわぶんまわし副使ふくし田處たどころいわお以酒こうためぬすめすわ棄市。

  閏月じゅんげつおのれこう玉津たまつえんいい侍臣じしん曰:「沉湎れいちんえん偶醉,つね悔之。」みずのえたつみなみからすすむしゃたまもの生辰せいしんきんあやぎぬちょううしきむしょうぼうさんしゅうひだるこれみずのとこう迎春げいしゅんえんえんしゃ

  なつよんがつ癸巳きしついたちにちゆうしょくみずのえとらみことのりぐんこくおけ前代ぜんだい帝王ていおうけんしんりょうづかおのれとり男子だんしちょうぐう詐稱さしょうすめらぎおとうとふく誅。おのれしょうかわ縣令けんれいようすわ贓杖ひだりたたえぜん大夫たいふ申文もうしぶみぬきすわしつさとし除籍じょせき庚申こうしんはんわたし鍊貨えきしお及貨造酒ぞうしゅ麴律。

  五月ごがつみずのとついたち,以皇太后こうたいごうやまし,赦雜はん死罪しざいやめおつうし天狗てんぐ西南せいなんへいとら,三佛齊國來獻方物。ちょううし,以安邑、かいりょういけしおきゅうじょ宿やど、鄆、すみかのえとら供奉ぐぶかんつぎあきらすわぬすめうりかんせん棄市。みことのり諸道しょどう郵傳以軍そつ遞。

  ろくがつかぶとうま皇太后こうたいごうくずし於滋いさお殿どのおのれ群臣ぐんしん請聽せいしたがえこれかのえ,以太きさきけんとまときとおるからしうし百官ひゃっかん紫宸殿ししんでんもんみずのえいのり庚申こうしんしゃくふく

  あきなながつみずのえいぬ,以皇太后こうたいごう殯,受朝。からしすすむしゅう神山かみやまけん谷水たにみず泛出てつ方圓ほうえんたけさんしゃくじゅうななせんきんみずのえさる,以光ため開封かいふういん光美てるみぎょうきょうもといんおのれ,隴州しん鸚鵡おうむ

  はちがつみずのえたつついたちあさみずのえとらみことのりしょだい辟送所屬しょぞくしゅうぐんけつばんかぶとたつみなみとうぬしけい煜嗣,使つかい請追みことみかどごうしたがえこれおのれとりやすてい節度せつど使どうたいらあきらごとまご行友ゆきともそぎかん勒歸わたしだいからしさいわいたかしなつてら觀修かんしゅう三門さんもんおんなじきこく使つかい來朝らいちょうけんじ大名おおなながずみおも簿かく顗坐贓棄庚申こうしん周世すせむね實錄じつろくなり

  きゅうがつみずのえいぬついたち御殿ごてんみなみとう使つかいらいすすむ金銀きんぎん、繒彩。甲子きのえねちぎりかい。荊南節度せつど使高保たかやす勖遣其弟とら來朝らいちょう戊子ぼし使つかいみなみから賻祭。

  ふゆじゅうがつ癸巳きしみなみとう其臣かん熙載、霖來かい皇太后こうたいごうそうへいさる樞密すうみつうけたまわうま王仁わに贍賜みなみから禮物れいもつつちのえいぬきんみんぬすめ塞外さいがいからしうししゅう大雨おおあめ、雹。丙午ひのえうまそう明憲あきのり皇太后こうたいごう於安りょう

  十一月じゅういちがつからしとりついたちあさ甲子きのえねふとしきさき祔廟。おのれこう相國寺しょうこくじとげさいわい國子くにこかんみずのととりすなしゅう節度せつど使曹元ちゅうふりしゅうだんねり使曹延まましひとし使つかいけんじだまくら勒馬。

  十二月じゅうにがつみずのえさるかい鶻可あせけい瓊遣使けんじかたぶつ乙未おとみつぎくん敗北はいぼくかんぐん,俘遼しゅう刺史ししでん廷彥、おとうとくんらいけんじからしうしさいわいしんおさむかわくらかのえいぬ,畋于近郊きんこうみずのとうし使つかいたまものみなみとうえつひつじ、橐駝ゆう

たてたかしさんねん[编辑]

  さんねんはる正月しょうがつ庚申こうしんついたち,以喪朝賀ちょうがおのれやめ淮南ワイナンひだるこれ庚午こうごこう迎春げいしゅんえんえんしゃかぶといぬこうすめらぎじょうみことのりぐん國長くにおさ吏勸みん播種はしゅへいふりすな節度せつど使曹元ちゅうけんじかのえたつおんなじきこく使つかいただこつらいけんじみことのりぐんこくとくやく道路どうろきょみんみずのとさいわい國子くにこかん

  がつへいたつふくさいわい國子くにこかんとげ迎春げいしゅんえんえんしたがえかんかのえとらみことのりぶんはんかん舉堪ためまろうどれいろくしゃかくいちにん不當ふとうしゃごと連坐れんざかぶとうまみことのり自今じこん百官ひゃっかんあさたい,須陳政利まさとしびょう以觸いみなため懼。乙未おとみなめらしゅう節度せつど使ちょうたてゆたかすわ失火しっか免官めんかんおのれさらてい竊盜せっとうりつみずのえうまうえいい侍臣じしん曰:「ちんよく武臣たけおみつき讀書どくしょ以通どうなに如?」左右さゆう不知ふちしょたいきのえとらきたかん寇潞、すすむ守將しゅしょうげきはしこれ

  さんがつつちのえうまついたちいや霣霜ころせくわみずのえいぬ,三佛齊國遣使來獻。みずのと,禱雨。ちょうしげるさいわいふとししんかんとげこう開封かいふういんえんえんしゃおのれ大雨おおあめみことのりさるりつぶんさとしぐんこくはんだい辟者刑部おさかべしんくつがえおつ使つかいたまものみなみとうぬし生辰せいしん禮物れいもつちょううしおんなじきこく使つかいらいけんじちょういのち徙北かんくだひと於邢、洺。

  なつよんがつ乙未おとみのぶしゅう大雨おおあめゆきちょうまもるしゅうひでりへいさるやすししゅう大雨おおあめゆきみぞ洫冰。つちのえいぬさいわいふとししんかんかのえかい鶻阿とくとうらいけんじかたぶつみずのえとらしゅうゆきしゃくおつおくあにこうずみため邕王,おとうとこうたたえため夔王,ついさつ夫人ふじんため皇后こうごう

  五月ごがつ甲子きのえねこう相國寺しょうこくじ禱雨,とげこう迎春げいしゅんえんえんしゃおつうみしゅうひらきたいゆきうんみずのといのち使けん河北かほくもろしゅうひでりかぶとさるみことのりひとしやく,敢蔽うらないしゃ有罪ゆうざいふくこう相國寺しょうこくじ禱雨。おつとり廣大こうだい內。ひとしひろしとくそう、霸五州自春不雨,以旱げんぜんてっらく

  ろくがつからし宿やどしゅうひだる癸巳きし廷祚以雄武おうむぐん節度せつど使やめ乙未おとみたまものしゅ國子くにこかんちょうとりさいわいふとししんかんおのれげん京畿けいき河北かわきた死罪しざい以下いかみずのえとら京師けいしみずのえしげるなおなみ于等そうみやつこつとむ,以兵はん渭北,しんしゅうだかぼうげきはしこれおつこう迎春げいしゅんえんえんしゃ陂縣ゆうぞうみなみらいしょく稼。

  あきなながつ庚申こうしんみなみとう其臣翟如璧謝たまもの生辰せいしんれいみつぎ金銀きんぎんにしきあやぎぬせんまんみずのえいぬみなみとうくだそつ弱者じゃくしゃすうせんにん歸國きこくおつうしめん舒州こもがま新稅しんぜいちょうしげる,潞州大雨おおあめ雹。さく內外ぐんりつしゃはい沙門しゃもんとうおのれきたかん捉生指揮しき使たかとうらいくだからししたがえしんじゅうにんけん河北かほくひでりみずのと,兗、すみとく、磁、洺しゅう蝝。

  はちがつ癸巳きし,蔡河つとむつなかんおうさとしとう四人坐以糠土雜軍糧,はりつけ於市。乙未おとみようせい誥高すずごと諸行しょぎょうまいないこもしゃもとつげ訐,奴婢ぬひ鄰親のうつげしゃしょうみことのりちゅう諸道しょどう司法しほうさんぐんみな以律疏試ばんみことのり尚書しょうしょ吏部舉書ばん拔萃ばっすい

  きゅうがつ庚午こうご,吐蕃なおなみ于等歸伏きふく羌縣みずのえさるおさむたけしげるおうびょうへいうらないじょうこくらいけんじきんくわなつめ

  ふゆじゅうがつおつとりついたちたまもの百官ひゃっかんふゆふくゆうへいいぬさいわいふとししんかんとげこう造船ぞうせんつとむかん習水せんおのれさいわいたけしだいいのちしょぐん騎射きしゃふくこう玉津たまつえんからしうし,以樞密すうみつ副使ふくしちょうひろしためくるる密使みっしからし,畋近郊きんこう

  十一月じゅういちがつみずのときんたてまつ使つかい請托せいたく縣令けんれい考課こうか以戶こう增減ぞうげんため黜陟。へいとらみなみとう其臣顧彝來朝らいちょうへい,三佛齊國遣使李麗林等來獻,高麗こうらいこくきょうゆうとう來朝らいちょうおのれ,畋於近郊きんこうみずのえうまたまものみなみからたてたかしよんねんれき

  十二月じゅうにがつへいいぬみことのりけんおけじょう一員いちいんぬすめ訟。おけ弓手ゆんでけんためつちのえいぬかばすすむ、慈、隰、そうまもるろくしゅうひだるこれかのえはんぬすめれいかぶとたつ,衡州刺史ししちょうぶんひょう叛。

  これさいしゅうていおういずるきょ房州ぼうしゅう

乾德けんとく元年がんねん[编辑]

  いぬい德元とくもと年春としはる正月しょうがつきのえとらついたち御殿ごてんおつはつ關西かんさいきょうへい赴慶しゅうちょうおさむ畿內かわ隄。おのれ使つかいたまものみなみからえつ、橐駝、ひつじゆう庚申こうしん山南さんなん東道とうどう節度せつど使慕容のべ釗率十州兵以討張文表。おつうしこう造船ぞうせんつとむかんづくりせんせんかぶといぬみことのり荊南はつみずそつさん千應延釗于潭。おのれおんなじきこく使つかいらいけんじ

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  五月ごがつみずのえついたち,禱雨きょうじょうきのえとら使つかい禱雨だけ瀆。おつうし廣大こうだい內。庚午こうごきゅう荊南かん內符しるしみずのととりこう玉津たまつえん

  ろくがつおつとりめん潭州しょけん無名むめいはい斂。みずのえたつあつやめ營造えいぞうたまもの工匠こうしょう衫履。乙未おとみみことのり:荊南へいねがい歸農きのうしゃ聽。へいさるみことのりれきだい帝王ていおうさんねんいちきょうたてかん光武みつたけからふとし宗廟そうびょうおのれ,澶、濮、曹、絳蝗,いのち以牢さいかのえ百官ひゃっかんさん上表じょうひょう請舉らくしたがえこれげん左右さゆう仗千うしいん丙午ひのえうまあめみことのり蜡祀,びょうしゃみなよういぬいちにちおのれとりいのち習水せん於新

  あきなながつからしついたちていしゅうけんしょおけざつしょくうけたまわちょうとう名數めいすうきのえとら,以湖湘歿王事おうじ靳彥ろうおとこうけたまわ勳等くんとうさんじゅうにん殿どのじきへいたつこう新池しんいけたまものやくおっとぜにとげこう玉津たまつえんちょう安國やすくにぐん節度せつど使おうちょんあきらとうりつへいにゅうふとし原境はらざかい,以俘らいけんじきゅうぜにまい以釋おのれみことのり民有みんゆうやまし而親ぞくのこしゃざいみずのと湖南こなん疫,たまものぎょう營將こうやくちょうしげるさいわいたけしなりおうびょうとげこう新池しんいけかん習水せんおのれろうしゅう賊將ぞくしょうひろしはし寇州じょうかんいんしげる睿擊はしこれみことのりめん荊南かん內夏ぜいはんかぶといぬしゃくあまねけんざいおつみことのりつくろえろうしゅうじょうめん其管內夏ぜいちょううしふんいのち近臣きんしん禱雨。おのれはん重定しげさだけいすべとうしょ

  はちがつみずのえうま殿しんがりまえおそれこうちょう瓊以りょうあなどぐんこう珪、いしかんきょうとう為所しどころ誣譖,しも吏,瓊自殺じさつへいいぬきゅうごとちゅうりゅう朝拜ちょうはいやすりょうちょうおうちょんあきらおさむきたかん樂平よしひらけんくだこれからし,以樂平よしひらけん為平ためひらすすむぐんくだそつせんはちひゃく人為じんいこうじゅんぐんにんたまものぜに帛。みずのえたつみことのり九經舉人下第者再試。癸巳きしおんなじきこく使つかいけんじ名馬めいば。蠲登しゅう沙門しゃもん島民とうみんぜいれい專治せんじ船渡ふなとへいさるきたかんしずかじゅう八砦首領來降。泉州せんしゅうちんひろししん使つかい來朝らいちょうみつぎひとししゅうかわけつ京師けいしおのれちぎりかそけしゅう岐溝せき使しば廷翰とうらいくだみずのと宰相さいしょうしつりつ百官ひゃっかんじょう尊號そんごうまこと

  きゅうがつきのえとらさん上表じょうひょう請,したがえこれへいとらうたげこうせい殿どのはじめようらくちょうしげるせめせん徽南いん使けん樞密すうみつ副使ふくししょ耘為淄州刺史ししつちのえたつおんなじきこく使つかいけんじうみひがし青名あおなたかへいきん朝臣あそんこうこもみつぎ舉人。たまものみなみからひつじまんくちはりつけひろしはし於朗しゅうつちのえとらきたかん引契へいおさむたいらすすむ洺州防禦ぼうぎょ使かくすすむとうすくい

  ふゆじゅうがつかのえたつみことのりしゅうけんちょうおけ簿せきおのれ,畋近郊きんこう丁未ていみえつ國王こくおうしん郊祀れい金銀きんぎんたまさいぞうこうやくみなまんけい

  十一月じゅういちがつおつ,荊南節度せつど使だかつぎおきすすむ郊祀ぎんまんりょう甲子きのえね有事ゆうじ南郊なんこう大赦たいしゃ改元かいげん乾德けんとく。百官奉玉冊上尊號曰應天廣運仁聖文武至德皇帝。へいとらみなみからすすむ南郊なんこう尊號そんごうぎんきぬまんけいちょうしげるたまもの近臣きんしんかさねころもかねたいうつわぬさ鞍馬あんばゆうおつ,畋近郊きんこう

  十二月じゅうにがつかのえたつ殿しんがりぜん祗候しこう璘以ちち讎殺いん僚陳とも,璘自首じしゅ而釋からし開封かいふういん光義みつよしきょうもといん光美てるみかくえきしょく邑,たまもの功臣こうしんごう宰相さいしょうしつ、溥、ひとしうらなみ特進とくしんえきふうじえきしょく邑;くるる密使みっしひろしこう祿ろく大夫たいふえき功臣こうしんごうぶん武臣ぶしん僚各しんかいくん、爵、邑。かぶとさる皇后こうごうおうくずしからしやめとう州都しゅうととくおのれ泉州せんしゅうちんひろししん使つかいみつぎ白金はっきんせんりょう乳香にゅうこうちゃやくみなまんけいおのれみなみから主上しゅじょうひょう乞呼めいみことのりまこと

  閏月じゅんげつおのれとりついたち校醫こういかん,黜其げい不精ぶしょうしゃじゅうにんきのえとらいのち近臣きんしんいのりゆきちょうしげるくつがえためし拔萃ばっすいふうじそうしろたん利用りようとうしょうむねたまものあずかゆうからしぼくやすりょう于鞏けんおつおりとく敗北はいぼくかんぐん於府しゅう城下しろした,禽其はた楊璘。以太つねたてまつあかみかどためかんせいみかど

乾德けんとくねん[编辑]

  ねんはる正月しょうがつからしさとしぐん國長くにおさ吏勸農耕のうこうさくゆうぞう入南にゅうなんおそれじんころせこれ,以齒、かわらいけんじ京師けいしゆきかみなりみずのとこう迎春げいしゅんえんえんしゃかぶとさるみことのりちょよん聽選しきかい鶻遣使けんじかたぶつ戊子ぼししつ太子たいしふとしでん、溥以太子たいしふとしたもてひとしうら仍尚しょひだりぼくしゃやめかのえとら,以趙あまねため門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとたかしのりくるる密使みっしみずのえたつみことのりおやためしせい舉三きりかん庶,もとちょくまいかくかどすすむじょうかぶとたつみことのり諸道しょどうごくれいだい刑部おさかべけんしょうある淹留しつ致中しょ門下もんか改正かいせいしゃじゅう其罪。おつやめこう玉津たまつえんえんしゃ丁未ていみみことのり縣令けんれい簿じょう公事こうじ毋至村落そんらくれいろく簿じょうしょしょく官有かんゆうほけ耋篤やまししゃ舉劾

  がつつちのえさるついたちきたかんりょうしゅう刺史ししもりのべ韜以じょうらいくだみずのとうし使つかい陝州ひだるしるべ潩水入京にゅうきょうちょう治安ちあんりょう,隧壞,やくへい壓死あっししゃひゃくにんいのち有司ゆうし瘞恤。庚午こうごしゅう俘北かんまもるしゅう刺史しし楊璘らいけんじかぶといぬみなみからすすむ改葬かいそうやすりょうぎんあやきぬかくまんけい。浚汴かわ

  さんがつからしこうきょうせんたまもの水軍すいぐん將士しょうしころもゆう還幸かんこう玉津たまつえんえんしゃ乙未おとみきたかん耀州だんねり使しゅうしんだまとうらいくだちょうとり使つかいいのり於五だけきんしん往來おうらいかり官軍かんぐんおくからしうしふとじょう光義みつよしたてまつさつたからうえ明憲あきのり皇太后こうたいごうおくりな昭憲しょうけん皇后こうごうおくりな曰孝めぐみおうおくりな曰孝あかり

  なつよんがつちょうついたちさく賢良けんりょう方正ほうせい直言ちょくげんごく諫科,ひろししゅう判官ほうがん穎贄ちゅうだいつちのえさる河中かわなかひだるおのれとりめん諸道しょどう今年ことしなつぜいなえしゃおつそう昭憲皇太后しょうけんこうたいごう孝明たかあき皇后こうごう於安りょうおつうしはじめおけまい政事せいじ,以兵さむらいろう薛居ただしりょ餘慶よけい為之ためゆきおのれやめれいひだるうたて涇粟以饟。みずのえさる,祔きさき於別びょう。徙永しゅうしょ縣民けんみん畜蠱しゃさんひゃくじゅう六家於縣之僻處,とくふく於鄉。

  五月ごがつおのれせい誥高すずすわ受藩鎮賂,貶萊しゅう司馬しばからしそうただしきょうちょう礪坐贓杖、除籍じょせきみずのとこう玉津たまつえんえんしゃ

  六月ろくがつおのれとり,以光ため中書ちゅうしょれい光美てるみどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごととくあきらしゅう防禦ぼうぎょ使庚申こうしんこう相國寺しょうこくじとげこうきょうせん玉津たまつえんからし河南かなん北及きたおよびしんもろしゅういなごおもんみちょうしゅうしょく稼。

  あきなながつおつはるしゅう暴水おぼれみんかのえたつ,郃陽雹。からしこう玉津たまつえん還幸かんこう新池しんいけかん習水せんからしみことのり翰林かんりん學士がくしとうこく、竇儀舉堪為藩ためはんぐんどおりばんしゃかくいちにん不當ふとうしゃ連坐れんざ

  きゅうがつかぶといぬついたちしゅうえき博士はかせ奚嶼せめいぬいしゅうつかさくら員外いんがいおう貽孫せめひだりたたえぜん大夫たいふなみすわためしにんおおやけ戊子ぼしのぶしゅう雹。乙未おとみこう北郊ほっこうかん稼。からしうし太子たいしふとしでんただし薨。みずのえとらはんよしとうかつ郴州。

  ふゆじゅうがつつちのえさるしゅうおさむおう熙謹薨,輟視あさ

  十一月じゅういちがつかぶといぬいのち忠武ただたけぐん節度せつど使おうちょんあきらため西川にしかわこう營前ぐん兵馬へいば都部いちぶしょ武信たけのぶぐん節度せつどちぇ彥進ふくこれはたさんまんおおとりしゅうどうこうやすしぐん節度せつど使りゅう光義みつよしため西川にしかわこう營前ぐん兵馬へいばふく都部いちぶしょ樞密すうみつうけたまわむね曹彬ふくこれはた萬出歸州道以伐蜀。おつうたげ西川にしかわこう營將こう于崇いさお殿どのしめせかわかい地圖ちず,授攻方略ほうりゃく賜金しきんだまたいころもぶつかくゆうみずのえたつ,畋近郊きんこう

  十二月じゅうにがつおつしゃくひろみなみ州都しゅうとかんひね琄等ひゃくにんつちのえさるりゅう光義みつよし拔夔しゅうしょく節度せつどだか彥儔焚。ちょう,蠲歸、かいあきぜいからしとりおうちょんあきらかつまん仞、つばめとりでしたおきしゅうれん拔石圌等じゅうあまりとりで甲子きのえね光義みつよし拔巫やまとうとりでしょくしょう南光なんこうかいとうはちせんきゅう,禽其せんかい指揮しき袁德ひろしとうせんひゃくにんちょんあきら先鋒せんぽう進德しんとくはいしょくじんさんいずみとりで,禽其節度せつど使かん保正やすまさすすむとうみなみからすすむぎんまんりょう金銀きんぎんさらすう百事ひゃくじ庚午こうごみことのり招復山林さんりん聚匿。からし,畋北郊ほっこう

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