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宋史/卷314 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

そうふみ/まき314

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 まきさんひゃくじゅうさん そうふみ
まきさんひゃくじゅうよん 列傳れつでんだいななじゅうさん
まきさんひゃくじゅう 

范仲淹

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范仲淹まれぶんから宰相さいしょうくつ冰之。其先邠州じん也,徙家江南えなとげため蘇州そしゅうくれけんじんなかさい而孤,ははさらてき長山ながやましゅしたがえ其姓,めいせつしょう有志ゆうしみさおすんでちょう其世,乃感泣かんきゅうははこれおうてん戚同文學ぶんがく晝夜ちゅうやいきふゆがつ憊甚,以水沃面;しょくきゅういたり以糜かゆつぎにん不能ふのうこらえなか淹不也。舉進だいため廣德ひろのり軍司ぐんじさんぐんむかい其母やしなえあらためしゅうけいぐん節度せつど推官,はじめかえせいさら其名。

かんたいしゅう西にしけいしおぜい,遷大てらすすむ,徙監すわえしゅうかてりょういんははかん。晏殊おうてん,聞仲淹名,召寘がく上書うわがき請擇ぐんもり,舉縣れい,斥游惰,冗僭,まきせん舉,なで將帥しょうすい,凡萬あまりげんふくじょ,以殊こもためかくこうなか淹泛どおり六經りくけい》,ちょう於《えき》,學者がくしゃしたがえ質問しつもんためけいこうかいほろびしょ倦。嘗推其奉以食四方よもゆう諸子しょしいたりえきころも而出,なか淹晏如也。まい感激かんげきろん天下てんかごと,奮不顧身,一時士大夫矯厲尚風節,なか淹倡

てんひじりななねんしょうけんじぶときさきはた冬至とうじ受朝,天子てんしりつ百官ひゃっかん上壽じょうじゅなか極言きょくげん,且曰:「たてまつしん於內,有家ありえじんれい,顧與百官ひゃっかん同列どうれつ南面なんめん而朝不可ふかため後世こうせいほう。」且上疏請ふとしきさきかえせいほうひろどおりばん河中かわなか,徙陳しゅうときほう建太けんた一宮いちのみや及洪ぶくいん材木ざいもく陝西せんせいなか淹言:「あきらおうことぶきやすしてん戒不とおいままた土木どぼくやぶみんさん所以ゆえんじゅん人心じんしんごう天意てんい也。むべやめおさむてらかんげんつね歲市としのいちすう,以蠲じょせきまけ。」またげん:「おんこう以內降じょかん太平たいへいせい。」こと雖不ぎょうひとしそう以為ちゅう

ふとしきさきくずれ,召為みぎ諫。げんごとしゃ暴太きさき時事じじなか淹曰:「ふとしきさき受遺先帝せんてい調しらべまもる陛下へいかしゃじゅうねんむべ掩其しょう,以全きさきとく。」みかどためみことのり中外ちゅうがい,毋輒ろんふとしきさき時事じじはつふとしきさきのこ誥乙たい楊氏ため皇太后こうたいごうまいりけつぐん國事こくじなか淹曰:「ふとしきさきははごう也,いん保育ほいく而代りつしゃ今一いまいちふとしきさきくずれまたたて一太かずたきさき天下てんか且疑陛下へいか不可ふか一日無母后之助矣。」

としだいいなごひでりこう、淮、きょうあずましげる甚。なか淹請遣使循行,ほう。乃請あいだ曰:「みやわきちゅう半日はんにちしょくとうなん如?」みかどがわしか,乃命なか淹安なでこう、淮,しょいたりひらきくらこれ,且禁みんいんまつそう蠲廬舒折やくちゃ江東こうとうひのとこうしおぜに,且條じょうすくいへいじゅうこと

かいかく皇后こうごうはいりつ諫官、ふくかくそう不能ふのう明日あしたはたとめ百官揖宰相廷爭,ぽういたりまていんゆうみことのりむつみしゅうとしあまり,徙蘇しゅうしゅう大水おおみず民田みんだとくたがやせなか淹疏かわしるべたいちゅううみつのひと興作こうさく就,ひろ徙明しゅううたてうん使そうとめなか淹以畢其やくもとはい尚書しょうしょれい部員ぶいん外郎ういろうてんあきらかくまちせい召還しょうかんばん國子くにこかん,遷吏部員ぶいん外郎ういろうけん開封かいふう

どきりょえびす執政しっせいしんようしゃ其門。なか淹上《百官ひゃっかん》,ゆび其次だい曰:「如此ためじょ遷,如此ためつぎ,如此そくおおやけ,如此そくわたしきょう進退しんたい近臣きんしん,凡超かくしゃよろしぜん宰相さいしょう。」えびす簡不えつ他日たじつろん建都けんとことなか淹曰:「洛陽らくようけんかた,而汴ためよんせん太平たいへいむべきょ汴,そく有事ゆうじ必居洛陽らくようとうややひろもうか蓄,つくろえ宮室きゅうしつ。」みかどといえびす簡,えびす簡曰:「此仲淹迂闊之ろん也。」なか淹乃ためよんろん以獻,だい抵譏きり時政ときまさ。且曰:「かんなりみかどしんじちょう禹,うたぐしゅうとゆうしん莽之しんこわ今日きょうまたゆうちょう禹,壞陛家法かほう。」えびす簡怒訴曰:「なか淹離あいだ陛下へいか君臣くんしんしょ引用いんようみな朋黨ほうとう也。」なか淹對えききりゆかりやめにょうしゅう

殿中でんちゅうさむらいふみかん瀆希宰相さいしょうむね請書うけしょなか淹朋とう,揭之あさどう。於是秘書ひしょすすむあまりやすしじょうげん曰:「なか淹以一言ひとこと忤宰しょう,遽加貶竄,きょうまえしょげんしゃざい陛下へいか母子ぼし夫婦ふうふあいだ乎?陛下へいかすんでゆうよう矣,しん請追あらためぜんいのち。」太子たいしちゅうまこといん洙自訟與なか師友しゆう,且嘗こもおのれねがいしたがえ黜。かんかく校勘こうかんおうおさむ以高わか訥在諫官,坐視ざし不言ふげんうつりしょせめよしさんにんしゃ偕坐貶。明年みょうねんえびす簡亦やめ朋黨ほうとうこれろんきょう矣。なか淹既大夫たいふためろんこもしゃやめじんむねいい宰相さいしょうはりへりくだ曰:「こう貶仲淹,ため其密請建立こんりゅうすめらぎふとしおとうと也。こん朋黨ほうとうしょうこも如此,奈何いかん?」さいしたみことのり戒敕。

なか淹在にょうしゅうとしあまり,徙潤しゅうまた徙越しゅうげんひろしはん,召為てんあきらかくまちせい知永ちながきょうぐんあらため陝西せんせいてんうん使かいなつ竦為陝西せんせい經略けいりゃくやすなで、招討使しんなか淹龍かくちょく學士がくし以副えびす簡再入相いりあいみかどさとしなか淹使しゃくぜん憾。なか頓首とんしゅしゃ曰:「しんきょうろんぶた國家こっかごと,于夷簡無憾也。」

のぶしゅうしょとりでしつもりなか淹自請行,遷戶ろうちゅうけんのぶしゅうさきみことのりぶんあたりへいそう管領かんりょうまんにん,鈐轄りょうせんにんかんりょうさんせんにん。寇至禦之,のりかん卑者さきなか淹曰:「はたひと,以官ため先後せんごはい道也みちや。」於是だい閱州へいとくまんはちせんにんふんためろくかくしょうさんせんにん分部わけべきょうりょうぞく眾寡,使つかいさら禦賊。ときふさがもんうけたまわひらたしょとりですんではいようしゅ衡策,しろあお澗以よりどころぞくおきだいきょう營田,且聽みんとく互市ごし,以通有無うむまた以民どお輸勞,請建鄜城ためぐん,以河ちゅうどう華中かちゅう下戶げこぜい租就輸之。はるなつ徙兵就食,しょう糴十さん他所よそげんあずかみことのり以為かんじょうぐん

明年みょうねん正月しょうがつみことのりしょみちにゅう討,なか淹曰:「正月しょうがつ塞外さいがい大寒だいかんわが暴露ばくろ如俟はる深入ふかいりぞく瘦人ひだるいきおいえきせい也。きょう備漸おさむ有紀ゆうきぞく猖獗しょうけつかたやめ懾其矣。鄜、のべみつ邇靈、なつ西にし羌必由之よしゆき也。だい按兵不動ふどう,以觀其釁,もとしんやや以恩しん招來しょうらいしか情意じょうい阻絕,しんおそれ偃兵無期むき矣。わかしんさくこうとう舉兵先取せんしゅ綏、なだめよりどころ要害ようがいたむろ兵營へいえいため持久じきゅうけいのり茶山ちゃやま橫山よこやまみん,必挈ぞくらい矣。つぶせ疆禦寇,さくうえ也。」みかどみなよう其議。なか淹又請修うけたまわひらめなが平等びょうどうとりでやや招還流亡りゅうぼうてい堡障,つう斥候せっこうしろじゅうとりで,於是羌漢みんそうかかとぎょう

久之ひさゆきげんひろしおちいはたこう延德えんとくいんあずかなか淹約なか淹為しょ戒喻かいにんぶくはい于好水川みずかわげんひろしこたえしょ不遜ふそんなか淹對らい使つかい焚之。大臣だいじん以為不當ふとう輒通しょまた不當ふとう輒焚そう庠請斬なか淹,みかど聽。くだほん曹員外郎ういろう耀州,徙慶しゅう,遷左司郎しろうちゅうためたまきけい經略けいりゃくやすなで緣邊えんぺん招討使はつげんひろしはんかげさそえぞく羌為すけ,而環けい酋長しゅうちょうろくひゃく餘人よにんやくためきょうどう'ことひろつゆなか淹以其反復はんぷくつね也,いたりそくそうぎょうあたり,以詔しょ犒賞しょ羌,閱其人馬じんばためりつ條約じょうやく:「わかかたきやめだん,輒私ほう及傷じんしゃばっひつじひゃくうまやめころせしゃ負債ふさい爭訟そうしょう,聽告かんため,輒質ばくたいらじんしゃばっひつじじゅううまいちぞく馬入ばにゅうかいおいしゅう赴隨ほんぞく每戶まいこばつひつじしつ其首りょうぞく大入おおいり老幼ろうようにゅうほんとりでかんため給食きゅうしょくそく不入ふにゅうとりで本家ほんけばつひつじぜんぞくいたりしつ其首りょう。」しょ羌皆受命じゅめいはじめためかんよう矣。

あらため邠州觀察かんさつ使なか淹表ごと:「觀察かんさつ使はんまちせいしんもりすうねん,羌人頗親あいしんよびしんためりゅう老子ろうし』。いま退すさ而與おうきょうしゅかんためだいこわためぞくけい矣。」はい慶之よしゆき西北せいほくしきとりでとうこうきょう川口かわぐちざいぞく腹中ふくちゅうなか淹欲じょうぞく必爭,みつじゅんゆうあずかしげるはたちょうあきらさきよりどころ其地,引兵ずいしょしょう不知ふちしょこうぎょういたりやわとおはじめ號令ごうれいはんちくみな旬日じゅんじつ而城なりそくだいじゅんじょう是也これやぞくさとし,以騎さんまんらいたたかえ,佯北,なか淹戒勿追,やめ而果ゆうふくだいじゅんすんでじょう,而白ひょうきむみな敢犯,たまきけい此寇えきしょう

あかりたまめつ臧勁へいすうまんなか淹聞涇原よくかさね討之,うえげん曰:「ぞくどうけん不可ふかおさむ前日ぜんじつだかつぎかさやめ平時へいじ且懷はんがわこん討之,必與ぞく表裏ひょうりみなみいれはらしゅう西にし擾鎮えびすひがしおかせかんしゅうへん患未もぐさ也。わかきた細腰さいようえびすあし眾泉ため堡障,以斷ぞくのりぞくやす,而環しゅう、鎮戎みちどうどおりてっゆう矣。」其後,とげちく細腰さいようえびすあししょとりで

かずらふところさとしはい於定がわぞくだいかすめいたりはんげんせき中震ちゅうしんおそれみん竄山谷間たにまなか淹率眾ろくせんよし邠、涇援,聞賊やめふさが,乃還。はじめていかわごと聞,みかど按圖いい左右さゆう曰:「わかなか淹出援,われゆう矣。」そういたりみかど大喜だいぎ曰:「われかたなか淹可よう也。」しん樞密すうみつちょく學士がくしみぎ諫議大夫たいふなか淹以ぐんこう受命じゅめいみことのり聽。

ときやめいのちぶん彥博經略けいりゃく涇原,みかど以涇げんきずえびすよくたい徙仲淹,おうふところとく喻之。なか淹謝曰:「涇原じゅうだいおそれしん不足ふそくとう此路。あずかかん琦同經略けいりゃく涇原,なみちゅう涇州,琦兼はたおおとりしんけんたまきけい。涇原ゆう警,しんあずかかん琦合はたおおとりたまき慶之よしゆきへい,掎角而進;わかはたおおとりたまきけいゆう警,またりつ涇原ため援。しんとうあずか琦練へいせんはたややふく橫山よこやま,以斷ぞくひじすう年間ねんかん平定へいてい矣。ねがいみことのり龐籍けんりょうたまきけい,以成首尾しゅびいきおいしんしゅうぶん彥博,慶州けいしゅうよう滕宗りょうそうこれまご沔亦辦集。渭州,いち武臣ぶしんあし矣。」みかど採用さいよう其言,ふくおけ陝西せんせいやすなで經略けいりゃく、招討使,以仲淹、かん琦、龐籍ぶんりょうなか淹與琦開府かいふ涇州,而徙彥博そちしんそうりょうそちけいちょう亢帥渭。

なか淹為はた號令ごうれい明白めいはく愛撫あいぶ士卒しそつしょ羌來しゃ,推心せっうたぐぞくまた敢輒はん其境。げんひろし請和,召拜樞密すうみつ副使ふくしおう舉正懦默にんごと,諫官おうおさむとうげんなか淹有しょうざい,請罷舉正ようなか淹,とげあらためさん政事せいじなか淹曰:「執政しっせいよし諫官而得乎?」固辭こじはいねがいあずかかん琦出ぎょうあたりいのちため陝西せんせい宣撫せんぶ使くだりふくじょさん政事せいじかいおうりん寇淮みなみしゅうけん官有かんゆう不能ふのうもりしゃ朝廷ちょうていよく按誅なか淹曰:「平時へいじいみなげん武備ぶび,寇至而專せめもりしんごと乎?」もりれいみなとく誅。

みかどかた銳意えいい太平たいへいすうもんとう世事せじなか淹語じん曰:「うえようわがいたり矣,ことゆう先後せんご久安ひさやすへい朝夕ちょうせきかわ也。」みかどさいたまものしゅみことのりまた為之ためゆきひらきてんあきらかく,召じょうたいなか淹皇おそれ退すさ而上じゅうこと

いち曰明黜陟。二府非有大功大善者不遷,內外須在職ざいしょく滿まんさんねん在京ざいきょう百司非選舉而授,須通滿まんねん,乃得すりかん庶幾しょきこう績之ほう矣。曰抑僥倖ぎょうこうやめしょうきょうかん以上いじょうもとふし恩澤おんたく正郎まさお以下いかわかかんあたりにん,須在職ざいしょく滿まんねんはじめとくかげ大臣だいじんとくこも子弟していにんかんかくしょくかげほう冗濫矣。さん曰精みつぎ舉。進士しんししょ請罷のりめいほう參考さんこう履行りこう闕者,以名聞みょうもん進士しんしさきさくろん詩賦しふしょけんどおりけいしゃたまものだい以上いじょうみなみことのりさいあまり優等ゆうとうめんせんちゅうかん次第しだいじんもり本科ほんかせん進士しんしほう以循めい而責じつ矣。よん曰擇長官ちょうかん中書ちゅうしょ樞密院すうみついんさきせんうたてうん使ひさげてんけいごく大藩たいはんしゅうりょうせいさんつかさだい開封かいふうかんしょみちかん舉知しゅうつうばんしゅうどおりばん舉知けんれいきり人數にんずう,以舉ぬししゃしたがえ中書ちゅうしょせんじょ刺史しし縣令けんれい以得じん矣。曰均公田くでんそとかん廩給ひとしなに以求其為ぜん耶?請均其入,だいきゅう使つかいゆう以自やしなえしか以責かどぶし,而不ほうしゃ誅廢矣。ろく曰厚のうくわ每歲まいさいあずかしもしょみちふう吏民げんのう利害りがいつつみせきみぞ塘,しゅうけんせんかん治之はるゆきていすすむほう以興のうげんこげうん江南こうなん圩田,浙西かわ塘,隳廢しゃきょう矣。なな曰修武備ぶびやく兵法ひょうほうつの畿輔強壯きょうそうため衛士えじ,以助せいへいさん時務じむのう一時いちじきょうせんしょうきゅう贍之。畿輔ゆうなりほうのり諸道しょどうみな舉行矣。はち曰推おんしん。赦令ゆうしょ施行しこう主司しゅし稽違しゃじゅうおけ於法;べつ使つかい按視其所當行とうこうしゃ所在無しょざいなはいかくじょうおんしゃ矣。きゅう曰重命令めいれい法度はっと所以ゆえんしめせ信也しんやぎょういく,旋即りんあらため。請政事せいじしん參議さんぎ以久行者ぎょうじゃ,刪去はん冗,たっためせい敕行命令めいれいいたり於數變更へんこう矣。じゅう曰減徭役。戶口とぐち耗少而供おくしげるしょうけん邑戶しょうしゃため鎮,なみ使しゅう兩院りょういんためいちしょくかんはくただしきゅう以州へい,其不おう受役しゃ悉歸のうみんおもこまこれ矣。

天子てんしかたしんじこうなか淹,悉採用さいようむべちょれいしゃみな以詔書畫しょがいち頒下;どく兵法ひょうほう,眾以ため不可ふか而止。

また建言けんげん:「しゅうせい,三公分兼六官之職,かん以三こう分部わけべろくきょうから宰相さいしょうぶんばんろく曹。今中いまなかしょてんかんづかおさむ也,樞密院すうみついんなつかん司馬しば也。四官散於群有司,さんおおやけけんりょうおも。而二府惟進擢差除,循資きゅう賞罰しょうばつけんよう條例じょうれい而已。うえさん公論こうろんどうにんした六卿佐王之職,ほう也。しん請仿前代ぜんだい,以三つかさみのりしんかんながれ內銓、さんはんいん國子くにこかんふとしつね刑部おさかべしんけいだいぐんまき殿しんがりぜんうまあゆみ軍司ぐんじ各委かくい輔臣けんばん其事。凡官吏かんり黜陟、刑法けいほうじゅうけいことゆう利害りがいしゃなみしたがえ輔臣予奪よだつ:其體だいしゃ,二府僉議奏裁。しん請自りょうへいしょく,如其,請先黜降。」あきらとくぞうとうみな不可ふか久之ひさゆき,乃命さん政事せいじ賈昌あさりょうのうなか淹領刑法けいほうしかそつはてぎょう

はつなか淹以忤呂えびす簡,放逐ほうちくしゃすうねん大夫たいふにん曲直きょくちょく,交指ため朋黨ほうとう。及陝西にし用兵ようへい天子てんし以仲淹士もち所屬しょぞく,拔用。及夷簡罷,召還しょうかん,倚以ため中外ちゅうがい想望そうぼう其功ぎょう。而仲淹以天下でんかためおのれにんたっそぎこう濫,こう官吏かんりにちよるはかりごとおもんばかおき太平たいへいしかさらちょうややぶんまわし摹闊だい論者ろんしゃ以為不可ふかぎょう。及按察使しょ舉劾,にんこころえつ自任じにんおんうすすりかんほうみつ僥倖ぎょうこうしゃ不便ふべん,於是そし毀稍ぎょう,而朋とうこれろんひた聞上矣。

かい陲有警,いんあずか樞密すうみつ副使ふくしとみ弼請ぎょうあたり。於是,以仲淹為河東かとう陝西せんせい宣撫せんぶ使たまもの黃金おうごんひゃくりょう,悉分のこあたりしょう。麟州しんかかだい寇,げんしゃ請棄なか淹為おさむとりで,招還流亡りゅうぼうさんせん,蠲其ぜいやめ榷酤みんまたそうめんしゅうしょうぜいかわがいとげやすおさむしゃえききゅうなか淹亦請罷政事せいじ,乃以ためせい殿どの學士がくし陝西せんせいよん宣撫せんぶ使邠州。其在中書ちゅうしょしょほどこせためまたやややや沮罷。

以疾請鄧しゅうしんきゅうごとちゅう。徙荊みなみ,鄧人さえぎ使者ししゃ請留うけどめなか淹亦ねがいとめ鄧,もとひろ徙杭しゅうさい遷戶さむらいろう,徙青しゅうかいびょう甚,請潁しゅういたり而卒,ねんろくじゅうよんおく兵部ひょうぶ尚書しょうしょおくりな文正ふみまさはつなか淹病,みかどつね使つかいたまものやくそんとえすんでそつ,嗟悼久之ひさゆきまた使つかい就問其家,すんでそうみかど親書しんしょ其碑曰「褒賢いしぶみ。」

なか淹內ごうがいせい至孝しこう,以母ざいどきかたひん,其後雖貴,賓客ひんきゃくじゅうにく妻子さいし衣食いしょく,僅能たかし。而好ほどこせおけそうさとちゅう,以贍ぞくじん。泛愛らくぜん士多した其門,雖里ちまたこれにんみなのうどう名字みょうじにち四方しほう聞者,みなため歎息たんそく為政いせいなおちゅうあつところいたるゆうおん,邠、けい二州之民與屬羌,みな畫像がぞうりつせいほこらごと。及其そつ也,羌酋すうひゃくにん,哭之如父,ときさんにち而去。よんじゅんゆうじゅんじんじゅんれい純粹じゅんすい

じゅんゆう

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じゅんゆう天成てんせいせい英悟えいご自得じとくなおふしぎょうかたじゅうさいのう讀諸しょため文章ぶんしょうせきせきゆうしょうちちなか淹守蘇州そしゅうしゅけんぐんがく,聘胡瑗為。瑗立がくぶんまわしみつ生徒せいとすうひゃくりつきょうなか淹患じゅんゆうなおかんむり,輒白入學にゅうがくしょなまこれまつつきくだり其規,しょなまずいとげ敢犯。まなぶためしょぐん倡。たからもとちゅう西にしなつ叛,なか淹連かんせき陝,みな將兵しょうへいじゅんゆうあずか將卒しょうそつ錯處,かぎふか擿隱,とく其才よしなか淹任じんしつ,而屢有功ゆうこうなか淹帥たまきけいじょうしきとりでとりで逼夏さかいなつ懼扼其沖,おかせたわわ其役。じゅんゆうりつへいはせよりどころ其地,なつ眾大いたり,且戰且役,數日すうじつ而成,一路いちろ恃之以安。じゅんゆうごと父母ちちははこう嘗違左右さゆうおうだい。及仲淹以讒罷,じゅんゆうとくやめかげ守將しゅしょうさくかんぬし簿またためちくかん,以非しょこのみそくほどけしたがえなか淹之鄧,とくやまし昏廢,もとあきらとみ弼守淮西,しょうなおのう感慨かんがいどう忠義ちゅうぎもん弼之らいおおやけ耶私耶,弼曰「おおやけ」。じゅんゆう曰「公則まさのり」。凡病じゅうきゅうねんそつねんよんじゅうきゅう正臣まさおみまもりふとつねてらふとししゅく

じゅんれい

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じゅんれいつね叟,以父なか淹蔭,ため秘書ひしょしょう正字せいじ,簽書河南かなん判官ほうがんりょうだいれいけん永安えいあんけんえいあきらりょうけんきょう西にしてんうん使はい木石ぼくせき磚甓及工於一どく永安えいあん受令。使者ししゃ以白りょう使かん琦,琦曰:「范純れいあに不知ふち此?はた必有せつ。」他日たじつ,眾質じゅんれい曰:「りょうみなざい邑境,さいつくろえきょこん乃與ひゃくけんひとし,曷若おけ此,使つかいたてまつ常時じょうじよう乎。」琦是其對。かえあさようためさんつかさしおてつ判官ほうがん,以比部員ぶいん外郎ういろうとげしゅう

滬南ゆうごと調度ちょうど苛棘,じゅんれいいち以靜まちべん其可しゃ於民。みん圖像ずぞう於廬,而奉如神,めい曰「范公あん」。草場くさば民情みんじょううたぐこわまもり吏惕いき俟誅。じゅんれい曰:「くさしめのりせいなんそくかい!」ただし使つかいみつつぐなえこれくら吏盜いと多罪たざいいたりじゅんれい曰:「以棼しかこれいと而殺われにん也。」聽其おもむきかい以贖,いのちしゃく其株れんしゃ除戶のぞきどろうちゅうきょう西にしてんうん副使ふくし

げんゆうはつにゅうため吏部ろうちゅう,遷左また遷太つねしょうきょうこう淮荊浙發うん使。以光祿ろくきょう召,遷刑さむらいろうしんきゅうごとちゅうじゅんれい凡所ふう駁,せい名分めいぶん紀綱きこうみな國體こくたいだいしゃちょう耒除起居ききょ舍人とねりやまいのうあさ,而令さききょうしょくじゅんれい批敕曰:「しん僚未ゆう以疾謁告,赴朝さんさきことしゃ。耒能きょうしょくあに能見のうみくん?壞禮らんほうしょ當為とうい。」聞者みな悚動。ちゅうすすむげき執政しっせいはたとげだい其位,さき以諷じゅんれいじゅんれい曰:「ろんじん而奪くらいやすし避嫌よこしまいのちはてわれ必還。」宰相さいしょうそく徙純れい刑部おさかべさむらいろう,而後いのちてん吏部,あらためてんあきらかくまちせい樞密すうみつうけたまわむね亳州、つつみ舉明どうみや

徽宗りつ,以龍かくちょく學士がくし開封かいふうぜんいん以刻ふかためじゅんれい曰:「ひろしもうそうずみ聖人せいじんくんこんしょふかぶんこれわかえき以猛,以火ずみ也。ほうつとむ前之まえの苛,なおおもんばかつきあにゆうひろしため患也。」ゆかり一切いっさい以寬しょちゅうむね鞫享さわ村民そんみんはかりごとぎゃくじゅんれいしん其故,此民にゅう戲場ぎじょうかんゆう歸途きとたくみしゃさくおけ而戴於首曰:「あずかりゅう先生せんせい如何いか?」とげためたくみとりこ明日あしたいれたい,徽宗といなん以處たい曰:「愚人ぐじん村野むらのところともわか以叛ぎゃく蔽罪,おそれ辜好せいとく,以不おうためつえあし矣。」曰:「なに以戒後人こうじん?」曰:「せいよくがいあいだ陛下へいかけいけん濫,そく以為くんなんじ。」徽宗したがえこれ

拜禮はいれい尚書しょうしょ,擢尚しょみぎすすむさむらいひねます乞除やめげんかんなみ內批,よし三省みつよしすすむなずらえみぎしょう曾布りょくそう不能ふのう,乞降黜次ますじゅんれいじょすすむ曰:「つぎますなんざいぼうがらしんかく引所おや,且去おのれしゃなんじ。」徽宗曰:「しか。」乃寢ぬの

りょめぐみきょうつげおい,徽宗とい執政しっせい執政しっせいよくもとじゅんれい曰:「めぐみきょう嘗輔せい,其人かた不足ふそくじゅうしかとうそん國體こくたい。」曾布そう:「しゃゆう財用ざいよう不足ふそく,此非しょきゅう也,ねがい陛下へいか勿以ためおもんばか。」じゅんれい曰:「いにしえしゃさんねん蓄,曰國其國。こん大農だいのうつげ匱,帑庾枵空,而曰不足ふそくおもんばかめん謾邪?」いん從容しょうよう諫曰:「邇者朝廷ちょうてい命令めいれい,莫不もとゆたか而非もとゆう。以臣かんかみはじめ立法りっぽうかたぜん,吏推ぎょうあるゆう失當しっとう,以致びょうみん宣仁のぶひと聽斷,一時いちじしょうゆう潤色じゅんしょくぶた大臣だいじん識見しきけん異同いどう必盡ふところよこしまためわたし也。こん議論ぎろんしんゆうとくこころざしはさみ藉口しゃこう。以元ゆたかためのりよくけんもとゆたかこれにん;以元ゆうためのりよく斥元祐之ひろゆき,其心あに國事こくじちょくよくかいわたし忿以售其奸,不可ふかふか察也。」

また曰:「いにしえ天下でんか汨亂,けい於用じん祖宗そそう於此,さいとく其要。ふとし用呂ようろ餘慶よけいふとしむねようおう禹偁,真宗しんしゅうようちょうともしろみなしたがえれつおけしょよう人君じんくん欲得よくとく英傑えいけつしんかたとうつぎ飭拔。必待こも而後ようのり守正もりまさ特立とくりつはた終身しゅうしんみそあと矣。」ひだり諫江公望きんもちろんつぎじゅつごととう中道ちゅうどう不可ふかかかわいちへん。徽宗しめせ其疏,じゅん禮贊らいさん曰:「ねがい陛下へいか以曉中外ちゅうがい使つかいせいしょむこうまたあし以革小人こども徇利じょう。乞褒遷公もち,以勸來者らいしゃ。」

じゅんれい沉毅つよしただし,曾布はばかこれげき駙馬じょうおう詵曰:「うえよくじょくんうけたまわむね,范右すすむ不可ふか。」詵怒。かい詵館りょう使じゅんれいぬしえん,詵誣其輒斥御めいやめためはしあきら殿どの學士がくし潁昌つつみ舉崇ぶくみやたかしやすしちゅうけいとうきん,貶試しょうかんふん南京なんきんまた貶靜ぐん節度せつど副使ふくしじょしゅう安置あんち,徙單しゅうねんふくひだり朝議ちょうぎ大夫たいふつつみ舉鴻けいみやそつねんななじゅうろく

純粹じゅんすい

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純粹じゅんすいとく孺,以蔭遷至さんぜん大夫たいふけん正中せいちゅうしょけいぼうあずか同列どうれつゆうそう滕縣,遷提舉成都せいとしょみちちゃじょうもと豐中とよなかため陝西せんせいてんうん判官ほうがんとき五路出師伐西夏:こう遵裕たまきけいりゅうあきら祚出涇原,けん熙河,种諤鄜延,おうちゅう正出せいしゅつ河東かとう。遵裕いかあきら祚後よく按誅あきら祚憂恚病臥びょうが,其麾みないきどお焉。純粹じゅんすいおそれりょうぐんきょう,致生へんすすむ遵裕往問あきら祚疾,其難とげかいかみはじめせめしょしょうこうはかりごとほしさい舉。純粹じゅんすいそう:「せき陝事りょくたん竭,公私こうしだいこまわかふく騷動そうどう根本こんぽんゆうあやときげんしゃ必職しんとがめしんやすし受盡ごとつみ於今にん默默もくもく以貽後悔こうかい。」かみはじめおさめしんため副使ふくし

きょあつためきょうひがしてんうん使すうけんじともかみ宗將むねのぶ以徐しゅうだいぜにじゅうまん緡助陝西せんせい純粹じゅんすい其僚曰:「われ雖急,しのぶふく膏血こうけつ?」そくそう:「ほんとくぜにまことためじょいたるあたりろう甚矣。」こんどる受。にゅうためみぎ司郎しろうちゅうあきらむねりつきょあつはいいのち純粹じゅんすい以直りゅうかく往代つきかわ苛政かせいとき軾自のぼりしゅう召還しょうかん純粹じゅんすいあずか軾同けんつのやく,軾謂純粹じゅんすいこう此事ゆうためせいしょう

ふくだいけいじゅんじん慶州けいしゅうときあずかなつぶん疆界,純粹じゅんすい請棄しょなつ,曰:「そう棄,のりすきときじょ。如河東之ひがしのかやあし堡,鄜延べいあぶら、羲合、浮圖ふとたまき慶之よしゆきやす疆,ふかざいなつさかい,於漢かい形勢けいせいほぼところえき。而蘭、かい,耗蠹ゆうふか不可ふか棄。」しょげんみなりゃく施行しこう純粹じゅんすいまたげん:「しょみち策應さくおう舊制きゅうせい也。じょ禧罷策應さくおうわかなつへいだい舉,一路いちろ攻圍こういちからゆうかち,而鄰拱手こうしゅすわ,其不拔ふばつしゃこうなんじいまむべ修明のぶあきせんもり救援きゅうえんほう。」朝廷ちょうてい。及夏おかせ涇原,純粹じゅんすいはたきょくちんすくい,曰:「本道ほんどうくびけん應援おうえん牽制けんせいさく臣子しんしよし,忘軀徇國,いい鄰路寇,非我ひがしょく也。」めずらし即日そくじつやましはせさんひゃくやぶこれ于曲りつ,搗橫さんなつ眾遁去。げんゆうちゅうじょたからぶんかくまちせい再任さいにん,召為戶部とべさむらいろうまたのぶしゅう

紹聖はつあきらそう親政しんせい用事ようじしゃよくひらく釁,かく知章ともあきとげろん純粹じゅんすいもとゆう棄地ごとくだちょくりゅうかく明年みょうねんふく以寶ぶんかくまちせい熙州。あきらあつし、蔡卞經略けいりゃく西にしなつうたぐ純粹じゅんすいあずかきょうことあらため鄧州。こよみ河南かなんなめらしゅう,旋以もとゆう黨人とうじんだつしょくひとししゅう。徽宗りつおこり信州しんしゅうふくしょくふとはらりゅうかくちょく學士がくし再臨さいりんのぶしゅうあらため知永ちながきょうぐんひろ以言しゃ落職,きんしゅうつつみ舉鴻けいみやまたせめつねしゅうべつ,鄂州安置あんち,錮子弟していとく擅入かい赦,ふくりょうほこら久之ひさゆき,以右文ゆうぶん殿どのおさむせんひさげ舉太清宮きよみやとうきんかいふく徽猷かくまちせい致仕ちしそつねんななじゅうあまり

純粹じゅんすい沉毅ゆうみきりゃくさいおう須,嘗論うりかん濫,以為:「國法こくほうかたもとしんおさめかんしか嘗聽其理せんこん西北せいほくさんもとおさめさん千二百緡買齋郎,よんせんろくひゃく緡買供奉ぐぶしょくなみめんためしちゅうかんおっと天下でんか大夫たいふふくつとむいたり於垂沾世おん,其富民とみん猾商,捐錢せんまんのりにんさんせつなため朝廷ちょうてい惜之。」疏上,聽。凡論ごと剴切がいせつるい此。

范純ひとし

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じゅんじん堯夫,其始せいゆうははゆめ墮月ちゅううけたまわ以衣すそとくとげなまじゅんじん警悟,はちさいのうこうしょ授書。以父にんためふとつねてらふとししゅくちゅうすめらぎゆう元年がんねん進士しんしだい調ちょうたけすすむけん以遠いえんおや赴;えきちょうかずらまた往。なか淹曰:「なんじ昔日せきじつ以遠いえんためごとこんきん矣,ふくなん?」じゅんじん曰:「あにじゅう於祿しょく,而輕父母ちちははよこしま?雖近,また不能ふのうとげやしなえ焉。」なか淹門けん,如胡瑗、まごふくいしかい覯之徙,じゅんじんみなあずかしたがえゆう晝夜ちゅうや肄業,いたり夜分やぶんおけとうちょうちゅうとばりいただき如墨しょく

なかおれぼつはじめ出仕しゅっし,以著作ちょさくろうじょうぐすくけんあにじゅんゆう有心うしんやましたてまつこれ如父,くすりぜんきょふくみな躬親時節じせつ。賈昌あさまもり北都ほくと,請參幕府ばくふ,以兄そう庠薦ためしかんしょくしゃ曰:「輦轂したあにやしなえやまし也。」とみ弼責曰:「臺閣たいかくにんあにやすなにいさお如是にょぜ。」そつ就。じょうしろみんかいこすすむ使うえくわ有罪ゆうざい而情けいしゃしょうえ多寡たかじょ其罰,みんえきよりゆき慕,よびため著作ちょさくりん」。あにそう洛陽らくようかん琦、とみ弼貽しょらくいん使つかいじょ其葬,すんでそういんいぶかさき聞。じゅんじん曰:「私室ししつ力足ちからあし辦,あにむべ慁公ため哉?」

簽書もとしゅう觀察かんさつ判官ほうがんじょう邑縣。けんゆうまき衛士えじまき,以踐みん稼,じゅんじん一人ひとりつえまきはつ隸縣,おもしゃいか曰:「天子てんし宿衛しゅくえいれい敢爾よこしま?」しろ其事於上,劾治甚急。じゅんじんごと:「やしなえへい於稅うねわか使つかい暴民ぼうみん而不とくとえぜいやす所出しょしゅつ?」みことのりしゃく,且聽まき隸縣。凡牧隸縣,じゅんじんはじめときひでりひさしあめじゅんじんせきさかい內賈ぶねさとし曰:「みんはたしょくなんじしょ五穀ごこく,貯之佛寺ぶつじこうしょく闕時われため糴之。」眾賈したがえいのちしょじゅうすう萬斛ばんこくいたりはる諸縣もろかたみなひだるどくさかい內民知也ともや

治平じへいちゅう,擢江東こうとうてんうん判官ほうがん,召為殿中でんちゅうさむらい,遷侍どきかた濮王典禮てんれい宰相さいしょうかん琦、まいり政事せいじおうおさむとう尊崇そんすう翰林かんりん學士がくしおう珪等むべ如先あさ追贈ついぞうおや尊屬そんぞく故事こじじゅんじんごと:「陛下へいか受命じゅめいじんむね而為之子ゆきこあずか前代ぜんだいじょうさくにゅうつぎしゅことむべ如王珪等。」まましあずかりょ誨等さらろんかなで聽。じゅんじんかえところ授告敕,家居かきょまちざいすんで皇太后こうたいごう手書しゅしょ尊王そんのうためすめらぎ夫人ふじんためじゅんじんふくごと:「陛下へいか以長くん臨禦,奈何いかん使命しめいぼう闈,ことあるため權臣けんしん矯托非人ひにんぬしやすけい。」ひろみことのりやめついみことおこりじゅんじん就職しゅうしょくじゅんじん請出やめとげどおりばんやすしゅうあらため蘄州。こよみきょう西にしひさげてんけいごくきょう西にし陝西せんせいてんうん副使ふくし

召還しょうかんかみはじめとい陝西せんせい城郭じょうかくかぶとへいかてもうか如何いかたい曰:「城郭じょうかくほぼぜんかぶとへいほぼおさむかてもうか備。」かみはじめ愕然がくぜん曰:「きょうざいちんしょ倚信,なにためみなげんあら?」たい曰:「あらしゃせいやめ如是にょぜあし矣。ねがい陛下へいか且無留意りゅういこうわかあたりしん觀望かんぼうはたため他日たじつ意外いがい患。」はいへい部員ぶいん外郎ういろうけん起居ききょ舍人とねりどう諫院。そうごと:「おうやすしせきへん祖宗そそう法度はっと,掊克ざい民心みんしんやすし。《しょ》曰:『怨豈ざいあきら。』ねがい陛下へいか怨。」かみはじめ曰:「なにいい怨?」たい曰:「もりまき所謂いわゆる天下てんかこれにん敢言而敢怒』是也これや。」かみはじめ嘉納かのう,曰:「きょうぜんろんごとよろしためちんじょう古今ここん治亂ちらんためかん戒者。」乃作《尚書しょうしょかい》以進,曰:「其言,みな堯、しゅん、禹、ぶん武之たけゆきごと也。天下でんか以易此,ねがいふかきわむ力行りっこう。」じきしゅうけんいんどうおさむ起居ききょちゅう

かみはじめきり於求のべ疏逖しょうしん,咨訪闕失。じゅんじんごと:「小人こどもげん,聽之わかさいぎょう必有るいぶたしょう忘大,むさぼきん昧遠,ねがいふか察。」とみ弼在しょうたたえやまし家居かきょじゅんじんごと:「弼受さんあさ眷倚,とう自任じにん天下でんかおも,而恤おのれふか於恤ぶつやまし於憂くに,致主しょしゃ胥失。弼與さきしんもとあつしんざい諫省,ろくわたし謁以致忠告ちゅうこくねがいしめせ以此あきら使つかい自省じせい。」またろんりょ不當ふとうやめちゅうすすむちゅう不可ふかもりあたり

及薛こうにんはつうん使ぎょうひとし輸法于六じゅんじんごと:「しん嘗親たてまつとくおんよくおさむ先王せんおう補助ほじょせいこん乃效くわひつじひとし輸之ほう,而使小人こども為之ためゆき,掊克生靈いきりょう,斂怨もとやすせき富國強兵ふこくきょうへいじゅつけいすすむじょうこころ欲求よっきゅうきんこう,忘其きゅうがくなお法令ほうれいそくしょうしょう鞅,ことたから利則としのりはじめ軻,ひな老成ろうせいため因循いんじゅん,棄公ろんため流俗りゅうぞくおのれしゃため不肖ふしょう合意ごういしゃため賢人けんじんりゅう琦、ぜに顗等一言いちげん便蒙べんもうくだ黜。在廷ざいていしんぽう大半たいはん趨附。陛下へいかまたしたがえ而驅,其將なんしょいたりみちとおしゃとう馴致じゅんち事大じだいしゃ不可ふか速成そくせい人材じんざい不可ふかきゅうもとめせき不可ふかひたすらかわ。儻欲ごとこう亟就,必為憸佞しょじょうむべはやかえげんしゃ而退やすせきとう中外ちゅうがいもち。」聽。とげもとめやめ諫職,あらためばん國子くにこかんいよいよかく執政しっせい使さとし曰:「毋輕やめじょせい誥矣。」じゅんじん曰:「此言なんためいたり於我哉,げん不用ふようまんかねしょ顧也。」

其所うえあきら疏,げききりかみはじめ悉不づけがいじゅんじんつきろくさる中書ちゅうしょやすいしだいいか,乞加重かじゅう貶。かみはじめ曰:「かれ無罪むざいしゅうと與一よいち善地ぜんち。」いのち河中かわなか,徙成都路みやこじてんうん使。以新ほう不便ふべん,戒州けんとく遽行。やすせきいかじゅんじん沮格,いん讒者使つかいよく捃摭私事しじ不能ふのう使者ししゃ他事たじむちきず傳言でんごんしゃ屬官ぞっかんいいじゅんじん曰:「此一事足以塞其謗,請聞於朝。」じゅんじんすんでそう使者ししゃまたおりげんしゃこう竟坐しつ察僚つばめゆう左遷させん知和ちわしゅう,徙邢しゅういたりちょくりゅうかく慶州けいしゅう

闕入たいかみはじめ曰:「きょうちちざいけいちょ威名いめいこんいいしょくきょうずいちちすんでひさし兵法ひょうほう必精,へんごと必熟。」じゅんじん揣神そうゆう功名こうみょうしんそくたい曰:「しん儒家じゅか嘗學へいさきしんもりしんなおようふく記憶きおく,且今ことぜいむべゆう不同ふどう陛下へいか使臣ししんつくろえじょうるいあいやしなえ百姓ひゃくしょう敢辭;わか開拓かいたくおかせ攘,ねがいべつはかりごとそちしん。」かみはじめ曰:「きょうざいなんしょ不能ふのう,顧不肯為ちん悉心なんじ。」遂行すいこう

はたちゅうかたひだる,擅發つねひらあわかし。僚屬請奏而須むくいじゅんじん曰:「ほういたり及矣,われとうどくにん其責。」あるそし其所ぜんかつ不實ふじつみことのり使つかい按視。かいあきだいみのりみん歡曰:「おおやけじつかつわがしのぶるいこうよこしま?」晝夜ちゅうやそう輸還使者ししゃいたりやめところまけ。邠、甯間ゆうくさむらづか使者ししゃ曰:「ぜんかつ不實ふじつつみ,於此とく矣。」はつづかせきむくろ上之うえのみことのりほんかんきゅう,乃前そちすわえけんちゅうしょふう也。朝廷ちょうていけんちゅうざいじゅん仁上にがみ疏言:「けんちゅうもりほう申請しんせいあいだめんゆう殍死しゃやめすわつみやめこんえん按臣而及けんちゅういちざいさいけい也。」けんちゅうなお贖銅さんじゅうきんたまきしゅうしゅじゅく羌為ぬすめりゅう南方なんぽうけいよび冤,じゅんじん以屬吏,ぬすめ也。避罪讕訟,みことのり于寧しゅうじゅんじん就逮,みん萬數遮馬涕泗,とくぎょういたりゆうとう於河しゃごくなり誣告ぶこく謫。またじゅんじん以他,黜知しんぐん

うつりひとししゅうひとしぞく兇悍,にんかるためぬすめこうあるいい:「此嚴なお不能ふのう戢,おおやけいち以寬,こわかち其治矣。」じゅんじん曰:「ひろし於性,わかきょう以猛,のり不能ふのう持久じきゅうもう而不ひさし,以治きょうみん玩之道也みちや。」ゆう西にしいんけいしゅうつね滿まんみなほふ販盜竊而とくつぐなえしゃじゅんじん曰:「此何がい使輸納よこしま?」どおりばん曰:「此釋ふく紊,かん往往おうおうまち其以やまし斃於獄中ごくちゅうあずかみんじょがいなんじ。」じゅんじん曰:「ほういたり,以情ころせこれあに也邪?」つきよびいたりにわくん使しんそくしゃくとしとうげんねん大半たいはん

丐罷,つつみ西京にしぎょうとめだいとき耆賢ざいらくじゅんじん司馬しばひかりみなこうきゃく而家ひんそうやくため真率しんそつかいだつあわいちめしさけすうぎょう洛中らくちゅう以為かちごとふく河中かわなかしょみち閱保かぶとさまたげのうろんすくい甚力。ろくごとさんぐんそう儋年暴死ぼうしじゅんじん使子弟していしょう殮,くち鼻血はなぢじゅんじんうたぐ其非いのち,按得其妾あずかしょう吏奸,いんかい,寘毒鱉肉ちゅうじゅんじんとい食肉しょくにくざいだいいくじゅん,曰:「あにゆうすんで中毒ちゅうどく而尚のうおわりせきしゃ乎?」さい訊之,のり儋年もとしょく鱉,其曰どく鱉肉しゃぶたわらわあずか吏欲ためへんごく張本ちょうほん,以逃なんじじつ儋年よいどく於酒而殺とげせい其罪。

あきらむねりつふくちょくりゅうかく慶州けいしゅう。召為みぎ諫議大夫たいふ,以親いややめあらためてんあきらかくまちせいけん侍講じこうじょきゅうごとちゅうとき宣仁のぶひとたれすだれ司馬しばひかり為政いせいはたつきあらため熙甯、げんゆたか法度はっとじゅんじんいいこう:「其太甚者可也かなりやく一事いちじゆうとうじゅくこう緩行かんこうしかしげるためみんびょうねがいこう虛心きょしん以延眾論,必謀自己じこはかりごと自己じこのり諂諛とくじょうあいだ迎合げいごう矣。やくあるなんかいのり先行せんこう一路いちろ,以觀其究竟きゅうきょう。」ひかりしたがええき豎。じゅんじん曰:「使じんとくげんなんじわかよくこびこう以為ようえつなに少年しょうねんごうやすせき以速富貴ふうき哉。」またうん:「熙寧按問自首じしゅほうすんでやめくだり有司ゆうしりつ文太ぶんたふか四方しほう死者ししゃきゅうすうばい,殆非さきおうやすししつけい。」じゅんじんもとあずかひかり同志どうし,及臨ごと規正きせいるい如此。はつしゅいにしえいん誣純じんとまにんいたりじゅんじんこもため永興りょうごぐん鈐轄,またこも隰州。まいとがめ曰:「先人せんじんあずかたね上世じょうせいゆうちぎりよしじゅんじん不肖ふしょうため子孫しそんしょ訟,甯論きょく直哉なおや。」

げんゆうはつしん吏部尚書しょうしょ數日すうじつどう樞密院すうみついんごとはつじゅんじんあずか西にしなつ,請罷へい棄地,使つかいしょかすめ漢人かんど執政しっせい未決みけついたり,乃申ぜんまた請歸いち漢人かんどじゅう縑。ことみな施行しこうあたり俘鬼あきら以獻,じゅんじん請誅ふさがじょう,以謝じん聽。しゃよく致其おさむ河南かなん赦不ころせまたよくかんじゅんじんふくかたそうしかおに章子あきこそついたり

さんねんはい尚書しょうしょみぎぼくしゃけん中書ちゅうしょさむらいろうじゅんじん在位ざいいつとむ以博大開おおひらき上意じょうい忠篤ただあつかわ士風しふうあきらあつしとくざい朝廷ちょうてい以其父老ふろうよく畀便ぐんすんで中止ちゅうしじゅんじん請置往咎而念其私情しじょう。鄧綰そち淮東,げんしゃ斥之やめじゅんじんごと:「しん嘗為たがね誣奏すわ黜,今日きょうしょひねためたがね也,ひだりくだよろしろくじんふとふか。」宣仁のぶひと嘉納かのういんみことのり:「前日ぜんじつまれあい附會ふかいひといちしょとい。」

學士がくし軾以はつさくといためげんしゃしょおさむかん維無めいやめ門下もんかさむらいろう補外ほがいじゅんじんそう軾無ざい,維盡こころ國家こっか不可ふかいん譖黜かん。及王覿言ごと忤旨,じゅんじんおもんばか朋黨ほうとうはたおきあずかぶん彥博、りょこうちょべん於簾まえかいじゅんじん曰:「朝臣あそんほんとうただし善惡ぜんあくよこしまただしかく以類ぶん。彥博、こうちょみなるいあさ舊人きゅうじんあによう雷同らいどう罔上。むかしさきしんあずかかん琦、とみ同慶どうけいれきにんかく舉所常時じょうじ飛語ひごゆびため朋黨ほうとうさん人相にんそうつぎ補外ほがいみやつこそししゃおおやけしょうけい一網打盡いちもうだじん,此事とおねがい陛下へいか戒之。」いん極言きょくげん前世ぜんせい朋黨ほうとうわざわいなみろくおうおさむ朋黨ほうとうろん》以進。

かんぐんくれしょあつでん致蔡かくやすしゅうくるまぶたてい》,以為そし宣仁のぶひときさき上之うえの。諫官よく寘於てんけん執政しっせいみぎ其說,ただじゅんじんあずかひだりすすむおうそん以為不可ふかそう未定みてい,聞太ぶん彥博よく貶於みね嶠,じゅんじんいいひだりしょうりょだいぼう曰:「此路いぬいきょう以來いらい荊棘けいきょくきんななじゅうねん吾輩わがはいひらけこれこわめん。」だいぼうとげ敢言。及確しんしゅういのちじゅんじん于宣じんきさきすだれ前言ぜんげん:「せいあさむべつとむ寬厚かんこう不可ふか以語げん文字もじあいだ曖昧あいまい不明ふめい,誅竄大臣だいじんこん舉動むべあずか將來しょうらいためほう,此事甚不可ふかひらきはし也。且以重刑じゅうけいじょあく,如以もうくすりびょう,其過也,不能ふのうそん焉。」またあずかおうそん諫于あきらそう退すさ而上疏,其略うん:「ぶた父母ちちははゆう逆子さかご,雖天鬼神きじん不能ふのうようかし父子ふしいたりおやしゅ於恕而已。わかしょ必死ひっしのりおそれきずおん。」かくそつ貶新しゅう

だいぼうそうかく黨人とうじん甚盛,不可ふか不問ふもんじゅんじんめん諫朋とうなんべんおそれあやま及善じんとげじょう疏曰:「朋黨ほうとうおこりぶたいん趣向しゅこう異同いどうどうしゃいい正人まさとしゃうたぐためよこしまとうすんであく其異わがのりぎゃくみみげんなんいたりすんで其同わがのり迎合げいごう佞日おや。以至真偽しんぎ莫知,賢愚けんぐ倒置とうち國家こっか患,りつよし此也。いたり如王やすせき正因まさよりどうあくこととげいたり黑白くろしろぶんいたりこん風俗ふうぞくなお觀望かんぼうためのう後來こうらいしんかたごうながためしょう鑒。こん蔡確必推黨人とうじんつくり及枝しん聞孔曰:『舉直錯諸枉,のう使枉者じき。』のり舉用正直しょうじき,而可以化枉邪ため善人ぜんにん不仁ふじんしゃとうへいあと矣。なにはんぶんべん黨人とうじんあるこわゆうきずじん。」つかさ諫吳やすせいげんりゅう安世やすよ交章げきじゅんじんとうかくじゅんじんまたちからもとめやめ

明年みょうねん,以觀ぶん殿どの學士がくし潁昌。逾年,大學だいがくふとしはら。其境せまみん眾,惜地そうじゅんじん僚屬おさむ無主むしゅ燼骨,べつ男女だんじょあなそうしゃさんせんあまりまた推之一路いちろそうまんすうけいなつじんはんさかい朝廷ちょうていほっざいはた吏。じゅんひとし引咎もとめ貶。あきゆうみことのり貶官一等いっとう,徙河南かなんさい徙潁あきら

召還しょうかんふくはいみぎぼくしゃいんにゅうしゃ宣仁のぶひときさき簾中れんちゅうさとし曰:「あるいいきょう必先引用いんようおう覿、彭汝礪,きょうむべあずかりょだいぼういちしん。」たい曰:「此にんじつゆうもちしんおわり敢保蔽賢,もち陛下へいか察。」じゅんじんはたさいいれ也,楊畏えつ,嘗有ごとじゅんじん不知ふちいたりだいぼうやくかしこためすけよく引為諫議大夫たいふじゅんじん曰:「諫官當用とうよう正人まさとかしこ可用かよう。」だいぼう曰:「あに以畏嘗言こうよこしま?」じゅんじんはじめ知之ともゆきかしこ叛大ぼう,凡有以害だいぼうしゃしょいたり宣仁のぶひとやまし,召純じん曰:「きょうちちなか淹,いい忠臣ちゅうしんざいあかり皇后こうごうたれすだれただすすむあきら肅盡ははどうあかり肅上まろうどただすすむじんむねつき子道しどうきょうとうこれ。」じゅんじん泣曰:「敢不盡忠じんちゅう

宣仁のぶひときさきくずれあきらそう親政しんせいじゅんじん乞避あきらそう語呂ごろだいぼう曰:「じゅんじんゆうもちむべためちんとめ。」且趣にゅうもん:「さきあさゆき青苗あおなえほう如何いか?」たい曰:「先帝せんていあいみんほんふかただしおうやすせき立法りっぽう甚,げき以賞ばつ官吏かんりきゅうきり,以致がいみん。」退すさ而上疏,其要以為「青苗あおなえしょ當行とうこうぎょうおわりめん擾民也」。

もちいさん大臣だいじんみなしたがえ中出なかいで侍從じじゅうたい諫官,またよししんなずらえじゅんじんごと:「陛下へいかはつ親政しんせい四方しほうぬぐえ以觀,天下てんか治亂ちらんじつほん於此。しゅん舉皋すえ舉伊いん仁者じんしゃとおたてのう如古じんまた須極天下でんかこれせん。」また群小ぐんしょうりょくはい宣仁のぶひときさきたれすだれ時事じじじゅんじんそう曰:「ふとしすめらぎたすくせい躬,こうれつ誠心せいしん幽明ゆうめいどもかんしゃ國事こくじいちなんうす哉。」とげ以仁むねきん言明げんめい肅垂すだれごと詔書しょうしょ上之うえの。曰:「もち陛下へいか稽仿而行,以戒うすぞく。」

わだちろん殿どのためしさくとえ,引漢あきらへんたけみかど法度はっとごとあきらそうしんいか曰:「やすとく以漢たけ先帝せんてい?」わだち下殿しもとのまちざい,眾不敢仰じゅんじん從容しょうようごと:「たけみかどゆうざい大略たいりゃくふみ貶辭。わだち以比先帝せんていそし也。陛下へいかおやごとはじめ進退しんたい大臣だいじん不當ふとう如訶叱奴僕どぼく。」みぎすすむ鄧潤はじめえつ曰:「先帝せんてい法度はっとため司馬しばひかりわだち壞盡。」じゅんじん曰:「しかほうほんへいへいそくとうあらため。」あきらそう曰:「ひといいしんすめらぎかん。」じゅんじん曰:「わだち所論しょろんことあずかとき也,非人ひにん也。」あきらそう為之ためゆきしょう霽。わだち平日へいじつあずかじゅん仁多にたこといたり乃服しゃじゅんじん曰:「おおやけふつ地位ちいちゅうじん也。」わだち竟落しょくなんじしゅう

ぜんたいごと軾行りょめぐみきょうつげ,訕謗先帝せんてい,黜知えいしゅうじゅん仁上にがみ疏曰:「熙甯法度はっとみなめぐみきょう附會ふかいおうやすせき建議けんぎふく先帝せんていあいみんもとめ治之はるゆきいたりたれすだれさいはじめ用言ようげんしゃとくぎょう貶竄,いまやめはちねん矣。げんしゃ當時とうじ何故なぜかしこ避不即納そくのうちゅうこん乃有そうあに觀望かんぼうよこしま?」らい邵言高士こうしあつしにん成都せいと鈐轄法事ほうじ,及蘇わだちしょ謫太ちかじゅんじんごと:「これ邵為成都せいとかんあつしゆうはんとう按發。わだちあずかせい累年るいねんこれ邵已さくまた糾正,こん乃繼ゆうそう,其情可知かち。」

じゅんじん凡薦引人ざい,必以天下でんかおおやけ,其人不知ふちじゅんじん所出しょしゅつある曰:「ため宰相さいしょうあにろうかご天下でんか使つかい於門?」じゅんじん曰:「ただし朝廷ちょうていしんようしつ正人まさとなに必知於我よこしま?」あきらそうすんで召章あつし為相ためすけじゅんじんけん請去,とげ以觀ぶん殿どのだい學士がくしみぎせい大夫たいふ潁昌にゅうあきらそう曰:「きょう肯為ちんとめ,雖在がい,于時せいゆうむべ悉以聞,毋事形跡けいせき。」徙河南かなんまた徙陳しゅうはつあきらそう嘗言:「貶謫これにん,殆似ながはい。」じゅんひとしぜん曰:「陛下へいかねん及此,堯、しゅん用心ようじん也。」

すんで而呂だいぼうとう竄嶺ひょうかいあかりどう肆赦,しょうあつしさきげん:「此數じゅうにんとう終身しゅうしん勿徙。」じゅんじん聞而いきどおよく齋戒さいかいじょう疏申理之まさゆきところちかしすすむ以勿ためさわいか萬一まんいちとお斥,高年こうねんしょむべじゅんじん曰:「こといたり於此,いちにん敢言,わかうえこころとげかいしょけいだい矣。しかまたなに憾。」乃疏曰:「だいぼうとうねんろう疾病しっぺい習水ほのおあらひさしょまたゆうおそれ不測ふそくなに自存じそんしん曾與だいぼうとうどもごと排斥はいせき陛下へいかところちかしみるしんげききりとめおおせほう聖德せいとくこうらいあきらあつしりょめぐみきょう雖為貶謫,不出ふしゅつうらきょしんこう曾有ごとふかこうむ陛下へいかひらきおさめ陛下へいか以一蔡確つね軫聖ねんこん赴彥わかやめ貶所,はたとめいち蔡確矣。ねがい陛下へいかだんふち衷,はただいぼうとう引赦ばら。」疏奏,忤惇,詆為同罪どうざい,落職ずいしゅう

明年みょうねんまた貶武やすぐん節度せつど副使ふくしながしゅう安置あんちときやまし失明しつめい,聞命怡然就道。あるいいきんじゅんじん曰:「ななじゅうこれねん兩目りょうめ俱喪,萬里ばんりこれぎょうあに其欲哉?ただし區區まちまちあいくんゆうふところ不盡ふじんわか避好めいいやのり無為むい善之よしゆき矣。」まい子弟してい毋得しょうゆう不平ふへい,聞諸子しょし怨章あつしじゅんじん必怒どめこうこう赴貶しょふねくつがえ,扶純じんころもつきしめ。顧諸子しょし曰:「此豈あきらあつし為之ためゆき哉?」すんでいたりひさしかん維責ひとししゅう,其子訴維執政しっせいあずか司馬しばひかりごうとくめんぎょうじゅんじん之子ゆきこよく以純じんあずかひかりやくほう不同ふどうため請,じゅんじん曰:「われようくんじつこも,以至宰相さいしょうむかしどうちょうろんごとごうそくなんじやから以為今日きょうげんのり可也かなりゆう愧心而生しゃわか愧心而死。」其子乃止。

きょさんねん,徽宗即位そくい,欽聖あらわ肅後どう聽政,即日そくじつ授純じんこう祿ろくきょうふん南京なんきん,鄧州居住きょじゅうちゅう使つかいいたりながたまものちゃやくさとし曰:「皇帝こうていざい藩邸はんてい太皇太后たいこうたいこうざい宮中きゅうちゅうおおやけさきあさげんごと忠直ただなおこんきょしょう以待,不知ふちやまし如何いかよう何人なんにん。」じゅんじん頓首とんしゅしゃみちじょみぎせい大夫たいふつつみ舉崇ぶくみやすうがつ,以觀ぶん殿どのだい學士がくしなかふとし一宮いちのみや使みことのりゆう曰:「あにただ尊德そんとく尚齒しょうしあきらしめせちょうゆう庶幾しょき鯁論よしみはかりごとにち忠告ちゅうこく。」じゅんじん以疾,ささげみことのり而泣曰:「うえはてようわが矣,有餘ゆうよせめ。」徽宗またちゅう使つかいたまものちゃやく,促入覲,仍宣渴見

じゅんじん乞歸もとやしなえやまし,徽宗とくやめもとまい輔臣とい安否あんぴ,乃曰:「范純じんとく一識面足矣。」とげうえやましやまししょういよいよ,丐以所得しょとくかんむり帔改ふくしょくむくいみことのりたまものあきらふくれい以冠帔與ぞく侄。やましかわ,以宣じんきさき誣謗未明みめいため恨。よび諸子しょしこううらないのこひょういのち門生もんせい次第しだい。其略うん:「ぶた嘗先天下でんか而憂,まけ聖人せいじんまなべ,此先しん所以ゆえん教子きょうこ,而微しん以事くん。」またうん:「おもんみ宣仁のぶひと誣謗未明みめい,致保たすくつとむあらわ。」またうん:「かい疆埸いむいくそら帑藏せき有城あるき必守,とくなんこう。」凡八ごとけんちゅう靖國やすくに改元かいげんだん,受家じん明日あしたじゅく寐而そつとしななじゅうみことのり賻白きんさんじゅうりょう,敕許、らく官給かんきゅう其葬,おく開府かいふどうさんつかさおくりな曰「ちゅうせん」,しょがく曰「ずみ忠直ただなおこれ」。

じゅんじんせいえびすえきひろし簡,以聲しょくじんよしみ所在しょざいのりていしかしょうこごめため布衣ふいいたり宰相さいしょうれん儉如いち所得しょとくたてまつたまものみな廣義こうぎそうぜん後任こうにんおんさき疏族。ぼつにち幼子おさなごまごなおかん。嘗曰:「吾平あいらせいしょがくとくちゅうじょ一生いっしょうよう不盡ふじん。以至りつあさごとくん接待せったい僚友りょうゆう親睦しんぼく宗族そうぞく嘗須臾離此也。」まい子弟してい曰:「ひと雖至せめじん則明のりあき;雖有聰明そうめいじょおのれそく昏。苟能以責じんこころせめおのれじょおのれしんじょじん患不いたり聖賢せいけん地位ちい也。」また戒曰:「《六經りくけい》,聖人せいじんこと也。いち則行のりゆきいちよう須『造次ぞうじ顛沛必於』,のり所謂いわゆる有為ゆういしゃまたわかなんじあに不在ふざいじんよこしま?」おとうと純粹じゅんすいざいせき陝,じゅんじんおもんばか其于西にしなつゆうたてこうあずかこれしょ曰:「だい輅與しばしゃそう逐,あきらたまあずか瓦礫がれきしょうさわ君子くんしあずか小人こども鬥力,中國ちゅうごくあずかそとくにこう勝負しょうぶただ不可ふかしょうけんまた不足ふそくしょうただ不足ふそくしょう,雖勝また也。」親族しんぞくゆう請教しゃじゅんじん曰:「おもんみ儉可以助れんおもんみじょ以成とく。」其人しょ於坐すみゆう文集ぶんしゅうじゅうかんぎょう於世。正平しょうへいせいおもえ

正平しょうへい

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正平しょうへいえびすがくゆき甚高,雖庸げん必援《こうけい》、《論語ろんご》。ちちじゅんじんそつみことのりとくぞう遺澤いたくかん子孫しそん正平しょうへい推與ようおとうと。紹聖ちゅうため開封かいふうじょう有向ゆうこう於其ふんづくり慈雲じうんてら戶部とべ尚書しょうしょ蔡京以向戚,ぶんまわしほしゆいそうひらけよん鄰田いおり民有みんゆう訴者,正平しょうへい按視,以為しょつぶせみな民業みんぎょう不可ふかだつみんまた撾鼓上訴じょうそきょうすわ罰金ばっきんじゅうきんよう蓄恨正平しょうへい

及當こく,乃言正平しょうへい矯撰ちちのこひょうまたいいしょじゅつじゅんじん行狀ぎょうじょう》,妄載ちゅう使つかい克明こくめいでん二聖虛佇之意,とげ以正ひら逮之克明こくめいどうまい正平しょうへい將行まさゆき,其弟せいおもえ曰:「行狀ぎょうじょうあにかた營窀穸之ごとさんあずか筆削ひっさくしゃせいおもえ也,あになんため哉?」正平しょうへい曰:「どきしょうぞくわが,且我きょちょうわが往,兄弟きょうだい俱將めんわかにん。」とげ就獄,捶楚甚苦,みなよく誣服。どく克明こくめい曰:「舊制きゅうせい,凡傳ひじり,受本於御まえ,請寶しるしちゅうせき於內東門ひがしもん。」使つかいしたがえ其家とくながしゅうでんせんひじり本有ほんゆう御寶みたからまたけん內東もんせき皆同かいどう。其遺ひょう八事やごと諸子しょし朝廷ちょうてい大事だいじぼう後患こうかん敢上,繳申潁昌しるしよせ軍資ぐんし潁昌いたりまたごくとげかい正平しょうへい羈管ぞうしゅうこれ羈管太平おうひらしゅうせい平家へいけぞく死者ししゃじゅう餘人よにん

かい赦,とくかえり潁昌。とうくんえきためもりおもて其所きょため忠直ただなおぼうところたまものずみ忠直ただなおいしぶみがく也。正平しょうへいつげ曰:「此朝廷ちょうていしょたまものほどこせ于金せき,揭於隧,かりちょう于范子孫しそんそくわか於通こう陌中ため往來おうらい,以聳動しょうどういさおぞく可也かなり。」くんえき曰:「此有ことくんなにあずか焉?」正平しょうへい曰:「先祖せんぞ先君せんくん功名こうみょうにんところ知也ともやじゅうしつ邑,必有忠信ちゅうしんことどくわれ詒笑,きみまた受其せめ矣。」竟撤去てっきょせいひらめ退ずさ閑久,えきこうゆうちょう五言ごごんちょ《荀裏退すさきょへん》,以壽おわり


ろんいにしえいちだい帝王ていおうきょう,必有いちだいめいしんそうゆうなか淹諸けん愧乎此。なか淹初ざいせいちゅうのこ宰相さいしょうしょ極論きょくろん天下でんかごと他日たじつ為政いせいつきくだり其言。しょかずら孔明こうめいくさいおりはじめあきられつすう生平おいだいら事業じぎょう備見於是。豪傑ごうけつ知之ともゆきしんるい如是にょぜ乎!こう其當あさ,雖不能久よしひさしかさき後樂こうらくこころざしうみ內固やめしんじ其有弘毅こうきこれそくにん斯責,使つかいきわむ其所ほしためあにゆずる古人こじん哉!」じゅん仁位にい其父,而幾ゆうちちふうげんゆう建議けんぎおさむ熙、豐太とよたきゅうじゅんじんすくい蔡確一事いちじ所謂いわゆるはかりごとこく甚遠,當世とうせいわかしたがえ其言,げんゆうとう錮之いたりわかれつ也。なか淹謂諸子しょしじゅんじんとく其忠,じゅんれいとく其靜,純粹じゅんすいとく其略。知子ともこ孰與ちち哉!

本元ほんもとあさ作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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