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宋史/卷427 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

そうふみ/まき427

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 まきよんひゃくじゅうろく そうふみ
まきよんひゃくじゅうなな 列傳れつでんだいいちひゃくはちじゅうろく 道學どうがくいち
まきよんひゃくじゅうはち 

しゅうあつしほどほどはりおとうと:戩 邵雍

  「道學どうがくこれめい是也これやさんだい盛時せいじ天子てんし以是どう為政いせいきょう大臣だいじん百官有司以是道為職業,とう、庠、じゅつじょ弟子でし以是どうため講習こうしゅう,四方百姓日用是道而不知。みつるくつがえこれあいだ一民一物不被是道之澤,以遂其性。于斯也,道學どうがくなに而立じりつ哉。

  ぶんおうしゅうこうすんでぼつ孔子こうし有德うとく無位むいすんで不能ふのう使道之みちゆきようやや斯世,退すさ而與其徒てい禮樂れいがくあきら憲章けんしょう,刪《》,おさむ春秋しゅんじゅう》,さんえきぞう》,討論とうろんふん》、《てん》,使五三聖人之道昭明於無窮。曰:「夫子ふうしけん于堯、しゅんどお矣。」孔子こうしぼつ,曾子獨得どくとく其傳,でん之子ゆきこおもえ,以及孟子もうこ孟子もうこぼつ而無でんりょうかん而下,儒者じゅしゃこれろん大道だいどう,察焉而弗せい焉而どるしょう異端いたん邪說じゃせつおこり而乘いく至大しだい壞。

  せん有餘ゆうよいたりそう中葉ちゅうようしゅうあつし頤出於舂りょう,乃得聖賢せいけんつてまなべさく太極たいきょく圖說ずせつ》、《つうしょ》,推明陰陽いんようぎょういのち於天而性於人しゃりょうわかゆびてのひらちょうさく西銘にしめ》,また極言きょくげんいちふんことむねしか道之みちゆき大原おおはらいずる於天しゃ,灼然而無うたぐ焉。ひとしそうあきらどう初年しょねんほど顥及おとうと頤實せい,及長,受業じゅぎょうあまねやめ乃擴だい其所聞,おもてあきら大學だいがく》、《中庸ちゅうようへんあずかかたり》、《はじめ並行へいこう,於是じょう帝王ていおうでんしんおくしもいたり初學しょがくにゅう德之のりゆきもんとおるかい貫通かんつうふく餘蘊ようん

  までそうみなみわたりしん安朱あんしゅ熹得ほど正傳せいでん,其學親切しんせつ焉。だい抵以格物致知かくぶつちちためさき明善あきよしまことためよう,凡《》、《しょ》,六藝りくげいぶんあずかおっとあなはじめ遺言ゆいごん,顛錯于秦ささえはなれ於漢儒,かそけ沉于すすむ六朝りくちょうしゃいたりみな煥然而大明だいめい,秩然而各とく其所。此宋儒之がく所以ゆえんえつ諸子しょし,而上せっはじめしゃ歟。其于世代せだい汙隆,氣化きかさかえせがれゆうしょ關係かんけい也甚だい道學どうがくもり于宋,そうどるきわむ於用,甚至ゆう厲禁焉。こうこれくんぬしよくふく天德てんとく王道おうどう,必來此取ほう矣。

  邵雍高明こうめい英悟えいごほどじつ推重すいちょうきゅうれつ隱逸いんいつとういまおけちょう栻之がくまたほどすんでしゅ熹,そうあずかはくやくまた大進たいしん焉。其他ほど朱門しゅもんじんこう其源かく類從るいじゅうさく道學どうがくでん》。

しゅうあつし[编辑]

  しゅうあつし頤,しげ叔,どうしゅう營道じん元名もとなあつし,避英そうきゅういみなあらため焉。以舅りゅうかく學士がくしていむかいつとむためぶんやすしぬし簿ゆうごくひさしけつあつし頤至,いち訊立べん。邑人おどろき曰:「ろう吏不如也。」使者ししゃこも調しらべみなみあん軍司ぐんじさんぐんゆうしゅうほう不當ふとううたてうん使おう逵欲ふか治之はるゆき。逵,こく悍吏也,眾莫敢爭,あつし頤獨あずかこれわきまえ聽,乃委しゅばんはた棄官,曰:「如此ひさしつかまつ乎!殺人さつじん以媚じんわれ不為ふため也。」逵悟,しゅうとくめん

  うつり郴之かつらようれい治績ちせきゆうちょこおりまもるはつひらけん曰:「われよく讀書どくしょなに如?」あつし頤曰:「おおやけろう及矣,請為公言こうげん。」ねんはてゆう。徙知みなみあきらみなみ昌人まさとみな曰:「是能これよし辨分べんぶんやすしごくしゃわれぞくとくしょ訴矣。」富家ふうかだいせい、黠吏わるしょう,惴惴焉不どく以得ざい於令ためゆう,而又以污けがれ善政ぜんせいためはじこよみごうしゅう判官ほうがんことけいしゅ,吏不敢決。雖下みん肯從。使者ししゃちょう抃惑於譖こう,臨之甚威,あつし頤處超然ちょうぜんつうばんけんしゅう,抃守けん熟視じゅくし所為しょい,乃大悟たいご其手曰:「われいくしつくん矣,こん而後乃知しゅうしげる叔也。」

  熙甯はつ郴州。よう抃及りょこうちょこもため廣東かんとんてんうん判官ほうがんひさげてんけいごく,以洗冤澤ぶつためおのれにん行部ゆくべはばか勞苦ろうく,雖瘴癘しょうれいけわしとおまたなるじょ按。以疾もとめみなみやすしぐんいんいおりさん蓮花れんげほうぜんゆうけいごう于溢こう營道しょきょ濂溪以名。抃再鎮蜀,はたそうよう及而そつねんじゅうなな

  黃庭堅おうていけんしょう其「人品じんぴん甚高,胸懷きょうかい灑落,如光かぜ霽月せいげつれん于取めい而銳於求こころざしうす於徼ぶく而厚於得みん,菲於奉而燕及煢嫠,陋於希世きせい而尚とも千古せんこ。」

  博學はくがく行力ぎょうりきちょ太極たいきょく》,あきら天理てんり根源こんげんきわむ萬物ばんぶつ終始しゅうし。其說曰:

  きょく太極たいきょく太極たいきょくどう而生どうごく而靜,せい而生かげしずかごくふくどういちどういちせい,互為其根,分陰ふんいんぶんりょうりつ焉。へんかげあい,而生すいきむじゅんぬのよんぎょう焉。ぎょういち陰陽いんよう也,陰陽いんよういち太極たいきょく也。太極たいきょくほんきょく也。ぎょうなま也,かくいち其性。きょくしらげみょうあい而凝,いぬい道成みちなりおとこひつじさる道成みちなりおんな交感こうかん化生かせい萬物ばんぶつ萬物ばんぶつ生生せいせい,而變化へんか無窮むきゅう焉。

  おもんみじん也得其秀而最れいかたちすんでせい矣,かみはつ矣,五性感動而善惡分,萬事ばんじ矣。聖人せいじん定之さだゆき以中せい仁義じんぎ而主せいだてじんごく焉。聖人せいじんあずか天地てんちあい其德,日月じつげつあい其明,よんごう其序,鬼神きじんあい吉凶きっきょう君子くんし修之のぶゆきよし小人こどももとこれきょう曰:「たててんみち,曰陰あずか立地りっちみち,曰柔あずかつよしだてじんみち,曰仁あずか。」また曰:「原始げんしはんおわり故知こち死生しせいせつ。」だい哉《えき》也,斯其いたり矣。

  またちょつうしょよんじゅうへん發明はつめい太極たいきょく蘊。じょしゃいい「其言やく而道だいぶんしつ而義しらげとくあなはじめ本源ほんげんだい有功ゆうこう于學しゃ也。」

  じょうみなみやすほど珦通ばん軍事ぐんじ其氣貌非常人じょうじん與語よご其為がく知道ともみちいんあずかためとも使つかい顥、頤往受業じゅぎょう焉。あつし頤每れいひろあなかおらくしょしょらく何事なにごと,二程之學源流乎此矣。顥之げん曰:「さいしゅうしげる叔後,ぎんふう弄月ろうげつ以歸,ゆう'われあずかてん也'これ。」ほうひじりがく于程頤,さとるおとずれあつし頤,あつし頤曰:「われろう矣,せつ不可ふかしょう。」とめたい榻夜だんえつさんにち乃還。頤驚異きょうい,曰:「したがえしゅうしげる叔來耶?」其善開發かいはつ人類じんるい此。

  よしみていじゅうさんねんたまものおくりな曰元こうあつしゆう元年がんねんふうなんじみなみはくしたがえまつ孔子こうしびょうにわ

  二子ふたごことぶき、燾,燾官至寶しほうぶんかくまちせい

ほど[编辑]

  ほど顥,はくじゅんせい居中きょちゅうやましたがえ開封かいふう徙河みなみ高祖こうそふとしむねあささんつかさ使ちち珦,ひとしむねろく舊臣きゅうしん,以為陂尉。久之ひさゆき龔州。時宜じぎ獠區まれはんすんで誅,さとじんゆるがせでん其神くだげん當為とういわが南海なんかいたてほこら」,於是むかえ其神以往いおういたり龔,珦使つめ,曰:「潯,潯守以為妖,とうほこら江中えなか逆流ぎゃくりゅう而上,まもり懼,乃更致禮。」珦使ふくとう順流じゅんりゅう,其妄乃息。徙知磁州,また徙漢しゅう。嘗宴きゃくひらけもとそうしゃさけかたぎょうにん歡言ふつこうかんしゃしょうあが踐,不可ふかきん,珦安坐あんざ不動ふどうごろとげじょう。熙寧ほうぎょうためもりれいしゃたてまついのちただおそれ,珦獨抗議こうぎゆび其未便びん使者ししゃもと瑜怒,そくうつりびょう,旋致仕ちしるいうたてふとなか大夫たいふげんゆうねんそつねんはちじゅう

  珦慈じょ而剛だん平居ひらいあずかよう賤處,ただおそれゆうきず其意,いたり於犯義理ぎりのりかり也。左右さゆう使令しれいこれにんにち察其ひだる飽寒おき前後ぜんごとくにん,以均しょちち子孫しそんよめおんな,必盡其力。所得しょとくたてまつ祿ろくふん親戚しんせき貧者ひんじゃ伯母おば寡居,たてまつやしなえ甚至。したがえおんなけいすんでてきじん而喪其夫,珦迎以歸,教養きょうよう其子,ひとし于子侄。どきかん小祿ころくうす克己こっきためにん以為なんぶん彥博、頌等きゅうにんひょう其清ぶしみことのりたまものひゃく官給かんきゅう其葬。

  顥舉進士しんし調しらべ鄮、うえもとあるじ簿。鄮民有みんゆうあにたくきょしゃ發地ほつちとく瘞錢,あに之子ゆきこ訴曰:「ちち所藏しょぞう。」顥問:「いくなんねん?」曰:「よんじゅうねん。」かれきょいく?」曰:「じゅうねん矣。」吏取じゅうせんいい訴者曰:「こんかんしょぜにろくねんそくあまね天下でんか,此皆藏前くらのまえすうじゅうねんしょなに也?」其人不能ふのうこたえかやさんゆうさんりゅう如蜥蜴而しょくさちちゅう嘗取りゅういりはんぬりしつ其一,ちゅう使くもそら而逝。民俗みんぞくげんたてまつたゆ,顥捕而脯

  ためすすむしろれいとみじんちょうちちだんゆうろう叟踵もん曰:「わがなんじちち也。」おどろきうたぐ莫測,そうあずかまいけん。叟曰:「ため遠出とおでやまし,而妻生子おいごまずし不能ふのうやしなえ,以與はり。」顥質其驗。懷中かいちゅういちしょすすむ,其所曰:「ぼう年月日ねんがっぴだきあずかはりさんおきな。」顥問:「ちょうただしざいよんじゅうやすとくゆうおきなしょう?」叟駭しゃ

  みんぜいあわうつり近邊きんぺん往則どうとお,就糴そくあたいだか。顥擇とみ而可にんしゃあずか使つかい貯粟以待,だいしょうみん以事いたりけんしゃ,必告以孝弟こうてい忠信ちゅうしん入所にゅうしょ以事其父けい出所しゅっしょ以事其長じょうごうむら遠近えんきんためたもて使つかいちからやくしょうすけ,患難しょう恤,而奸にせしょよう。凡孤煢殘はいしゃせめ親戚しんせき鄉党きょうとう使つかいしつしょ行旅こうりょ於其しゃ疾病しっぺいみなゆうしょやしなえさと必有こうひまおやいたり,召父ろうあずかこれ兒童じどうしょ讀書どくしょおやためせい句讀くとうきょうしゃ不善ふぜんのりためえきおけ子弟していしゅうしゃ,聚而教之のりゆきさとみんため社會しゃかいため立科たてしなじょう,旌別善惡ぜんあく使つかいゆうすすむゆうはじざいけんさんさいみんあい父母ちちはは

  熙甯はつ用呂ようろこうちょこもため太子たいしちゅうまことかん察御うらぎょうかみはじめ其名,すう召見,まい退すさ,必曰:「しきもとめたいよくつね常見つねみきょう。」いちにち從容しょうよう咨訪,ほう正午しょうごはじめ趨出,にわちゅうじん曰:「不知ふちじょうしょく乎?」ぜん後進こうしんせつ甚多,大要たいよう以正こころ窒欲、もとめけんそだてざいためごとつとむ誠意せいいかんさとる主上しゅじょう。嘗勸みかどぼうもえほっ,及勿けい天下てんかみかど俯躬曰:「當為とういきょう戒之。」

  おうやすしせき執政しっせいさら法令ほうれい中外ちゅうがいみな以為便びんげんしゃおさむ甚力。顥被むね赴中どう議事ぎじやすいしかたいかげんしゃ,厲色まち。顥徐曰:「天下てんかごと一家いっか私議しぎねがい平氣へいき以聽。」やすせき為之ためゆき愧屈。やすせき用事ようじ,顥未嘗いち及于功利こうり居職いじょくはちきゅうがつかずろん時政ときまさ最後さいごげん曰:「智者ちしゃわか禹之行水ぎょうずいぎょう其所無事ぶじ也;しゃ而之險阻けんそ不足ふそく以言さとしきょうりつごとゆう中外ちゅうがい人情にんじょう交謂不可ふか而能ゆうなりしゃきょう排斥はいせき忠良ただよし,沮廢こうよう賤陵とうと,以邪みきせいしゃ乎?正使せいし徼幸ゆう小成しょうせい,而興利之としゆきしん日進にっしん尚德しょうとくふうひたおとろえゆう朝廷ちょうていぶく。」とげ乞去げんしょくやす石本いしもとあずかこれぜん,及是雖不あいなおけい其忠しんじふかいかただしひさげてんきょう西にしけいごく。顥固辭こじあらため簽書鎮甯ぐん判官ほうがん司馬しばひかりざい長安ながやすうえ疏求退すさしょう顥公じき,以為おのれしょ如。

  ほど昉治かわ澶卒はちひゃく而虐よう,眾逃ぐん僚畏昉,よく勿納。顥曰:「かれ逃死どるおさめ必亂。わか昉怒,われ自任じにん。」そくおや往啟もん拊勞,やくしょうきゅうさんにちふくやく,眾歡踴而いれ以事じょうとく。昉後しゅう揚言ようげん曰:「澶卒つぶせぶたほどちゅうまことさそえこれわれ且訴於上。」顥聞,曰:「彼方かなたはばかわがなにのうため。」はて敢言。

  曹村埽決,顥謂ぐんもりりゅうきよし曰:「曹村けつ京師けいしおそれ臣子しんしこれぶんふさがまたところ當為とうい,盍盡ひさしそつ見付みつけ。」きよし以鎮しるしづけ顥,たてはしけつしょげきさとし士卒しそつしゃ以為ぜい不可ふかふさが徒勞とろうじんなんじ。顥命ぜん泅者けつこう,引巨さくずみ眾,りょうきし並進へいしん數日すうじつ而合。

  もとめかんらく河竹かわたけつとむ歷年れきねん敘伐閱,とく遷太つねすすむみかどまたよく使おさむさんけいよし》,執政しっせい不可ふかいのち扶溝けんこうすみ、蔡河ざい縣境けんきょうひんかわあく生理せいりせん脅取おどしとくだりぶね財貨ざいかさい必焚ぶねじゅうすう以立。顥捕とくいちにん使つかい引其るいもらい宿惡しゅくあく分地ぶんちしょれい以挽繂為ぎょう,且察ため奸者,さかい焚剽患。內侍おう中正ちゅうせい按閱かぶとけん焰章ふるえしょ邑競侈供ちょうえつしゅ吏來請,顥曰:「われ邑貧,やすのうこう邑。於民,ほうしょきん也,どくゆうれいあおちょう可用かようなんじ。」じょばんたけまなぶじょう劾其新法しんぽうはつくびため異論いろんやめがえかんまたすわごくいっしゅうせめかんなんじしゅうしおぜいあきらむねりつ,召為そうただしすすむくだり而卒,ねんじゅうよん

  顥資せいひとたかしやしなえ有道ありみちいき,盎於めん門人もんじん交友こうゆうしたがえこれすうじゅうねんまた嘗見其忿厲之ようぐうごとゆうため,雖當倉卒そうそつ不動ふどう聲色こわいろじゅうろくあずかおとうと頤聞なんじみなみしゅうあつし頤論がくとげいや舉之習,慨然がいぜんゆう求道きゅうどうこころざし氾濫はんらん于諸出入でいり於老、しゃくしゃいくじゅうねんかえしもとめしょ六經りくけい》而後どくはたかん以來いらいゆう臻斯しゃ

  きょうじん致知いたり於知どめ誠意せいいいたり於平天下でんか,灑掃應對おうたいいたり窮理きゅうりつきせい,循循ゆうじょやまい學者がくしゃいや卑近ひきん而鶩高遠こうえんそつなり焉,其言曰:「みち不明ふめい異端いたんがい也。むかしがいきん而易いまがいふか而難べんむかし惑人也乘其迷くらいま惑人也因其高あかりいいきゅう神知しんち,而不足ふそく以開ぶつなりつとむげんためしゅうへん實則さねつねがい倫理りんりきゅうふか極微ごくび,而不可ふか以入堯、しゅんこれどう天下てんかまなべあさ陋固とどこおのり必入於此。道之みちゆき明也あきやよこしま誕妖妄之せつきおいおこりぬりせいみん耳目じもくおぼれ天下でんか於污濁,雖高ざい明智めいちにかわ見聞けんぶん醉生夢死すいせいむし自覺じかく也。みな正路まさじ蓁蕪,せいもん蔽塞,辟之而後入道にゅうどう。」

  顥之大夫たいふ識與識,莫不哀傷あいしょう焉。ぶん彥博さい眾論,だい其墓曰明どう先生せんせい。其弟頤序曰:「しゅうこうぼつ聖人せいじんみちくだりはじめ軻死,聖人せいじんまなべつてみちくだりひゃくせい善治よしはるがくつて千載せんざい儒。善治よしはるなおとく以明おっと善治よしはるこれどう,以淑諸人もろびと,以傳もろ儒,のり貿貿焉莫しょにんよく肆而天理てんりめつ矣。先生せんせいせい於千よんひゃくねんこれとくつてまなべ於遺けい,以興起こうき斯文しぶんためおのれにんわきまえ喘,辟邪せつ使つかい聖人せいじんみち煥然ふくあかり于世,ぶた孟子もうしこれ一人ひとり而已。しか學者がくしゃ于道不知ふちしょむこうのり孰知斯人ためこう不知ふちしょいたりのり孰知斯名たたえじょう也哉。」

  よしみていじゅうさんねんたまものおくりな曰純こうあつしゆう元年がんねんふう河南かなんはくしたがえまつ孔子こうしびょうにわ

ほど[编辑]

  ほど頤,せい叔。としじゅうはち上書うわがき闕下,よく天子てんし世俗せぞくこれろん,以王どう為心いしんゆうふとしがくえびす瑗問しょなま以顏しょこうなんがく,頤因こたえ曰:

  がく以至聖人せいじん道也みちや聖人せいじんがく而至歟?曰:しかがくみち如何いか?曰:天地てんちもうかしらげとくぎょうしゅうしゃためじん,其本也真而靜,其未はつ也。せい焉,曰仁、よしれいさとししんかたちすんでせい矣,外物がいぶつさわ其形而動其中矣,其中どうななじょう焉,曰喜、いかあいらくあいあくよくじょうすんでおき而益とろけ,其性鑿矣。さとししゃやく其情使ごう於中,せい其心,やしなえ其性;愚者ぐしゃそく不知ふちせいたて其情而至於邪へき,梏其せい而亡

  しかがくみち,必先あきらしょしんしょやしなえしかこう力行りっこう以求いたり所謂いわゆる自明じめい而誠」也。誠之せいしこれどうざい乎通どうあつつうどうあつし則行のりゆきはてぎょうはてそくもりかた仁義じんぎ忠信ちゅうしん不離ふり乎心,造次ぞうじ必於,顛沛必於出處しゅっしょだま必於ひさ而弗しつのりきょやすどうよう周旋しゅうせんちゅうれい,而邪へきこころ自生じせい矣。

  かおしょごとのり曰:「非禮ひれい勿視,非禮ひれい勿聽,非禮ひれい勿言,非禮ひれい勿動。」なかしょうのり曰:「とく一善則拳拳服膺而弗失之矣。」また曰:「遷怒,。」「ゆう不善ふぜん不知ふち知之ともゆき嘗復ぎょう。」此其好之よしゆきあつしがく道也みちやしか聖人せいじんそくおもえ而得,つとむ而中;がおそく必思而後,必勉而後ちゅう。其與聖人せいじん相去あいさり一息ひといきしょいたりしゃ守之もりゆき也,也。以其好學こうがくしんかり以年,のり不日ふじつ而化矣。

  後人こうじんいたる,以謂せいほんせいがくいたり,而為がくみちとげしつもとめしょおのれ,而求しょそと,以博聞強記はくぶんきょうきたくみぶんうららためこう榮華えいが其言,鮮有いたり於道しゃのりいままなべあずかかおしょこう矣。

  瑗得其文,だい驚異きょういそくのべしょ以學しょくりょまれあきらくび以師れいごと頤。

  治平じへいもと豐間とよま大臣だいじん屢薦,みなおこりあきらむねはつ司馬しばひかりりょこうちょども疏其行義ゆきよし曰:「伏見ふしみ河南かなん處士しょしほど頤,力學りきがく好古こうこやすひんもりぶしげん必忠しんじどう遵禮ほうとし逾五じゅうもとめつかまつすすむ儒者じゅしゃこう蹈,せい逸民いつみんもち擢以つぎ使つかいるいゆうしょ矜式。」みことのり以為西京にしぎょう國子くにこかん教授きょうじゅちから

  ひろ召為秘書ひしょしょうこうしょろうすんでいれ,擢崇まさし殿どのせつしょそくうえ疏言:「習與さとしちょうあずかこころなりこん夫人ふじんみんぜんきょう子弟していしゃまた必延めい德之のりゆき使つかいあずかこれしょ,以薰陶くんとうなりせいきょう陛下へいか春秋しゅんじゅうとみ,雖睿せいとく天資てんし,而輔やしなえこれどう不可ふかいたりだいりついちにちなかせっけん大夫たいふときおやてらじんみやおんなときすくなのり氣質きしつ變化へんか自然しぜん而成。ねがいせんめい儒入さむらいすすむこうこうやめとめぶんじき,以備訪問ほうもんあるゆうしょうしつずいごとけんじぶんまわし歲月さいげつせきひさし,必能養成ようせい聖德せいとく。」頤每進講しんこういろ甚莊,つぎ以諷諫。聞帝ざい宮中きゅうちゅうたらい而避ありもん:「ゆう乎?」曰:「しかまことおそれきずしか。」頤曰:「推此こころ以及四海しかい帝王ていおうよう道也みちや。」

  かみはじめじょ冬至とうじ百官ひゃっかんひょう,頤言:「ふしじょ變遷へんせんおもえかたきり,乞改ため慰。」すんでじょ有司ゆうし請開らくおけえん,頤又ごと:「じょ而用吉禮きれなおとういんごとちょうらくこん特設とくせつえん喜之よしゆき也。」みなしたがえこれみかど嘗以かさ疹不禦邇えい累日るいじつ,頤詣宰相さいしょうとい安否あんぴ,且曰:「うえ禦殿,ふとしきさき不當ふとう獨坐どくざ。且人ぬしゆうやまし大臣だいじん不知ふち乎?」翌日よくじつ宰相さいしょう以下いかはじめ奏請そうせいといやまし

  軾不えつ於頤,頤門じん賈易、しゅひかりにわ能平のっぺいごうおさむ軾。えびすむねいよいよ、顧臨詆頤むべもちいあなぶんなか極論きょくろんとげかん勾西きょう國子くにこかん久之ひさゆきちょくかくさい上表じょうひょうただしあつしいっふく摭其ゆう怨望かん。紹聖ちゅうそぎせき竄涪しゅうきよししんいんらく即日そくじつせりこれよくいれべつ叔母おばまたもと明日あしたはなむけ以銀ひゃくりょう,頤不受。徽宗即位そくい,徙峽しゅうにわかふく其官,まただつ于崇やすしそつねんななじゅう

  頤於しょしょ讀。其學ほん於誠,以《大學だいがく》、《かたり》、《はじめ》、《中庸ちゅうようためしるべゆび,而達於《六經りくけい》。どうとめだまいち以聖人為じんい,其不いたり乎聖じんとめ也。ちょうしょう兄弟きょうだいしたがえじゅうよん便びんだっしかよくがく聖人せいじんゆえそつとくあなはじめつてまなべ,以為しょ儒倡。其言むねわか布帛ふはくまめあわしか知德ちとくしゃゆう尊崇そんすう。嘗言:「こん農夫のうふ祁寒あつ深耕しんこうえき耨,播種はしゅ五穀ごこくわれとく而食ひゃくこう技藝ぎげい作為さくい器物きぶつわれとく而用かい胄之けんするど,以守土宇つちうわれとく而安こうさわ及人,而浪歲月さいげつ,晏然ため天地てんちあいだいち蠹,ただつづり緝聖じん遺書いしょ庶幾しょきゆうなんじ。」於是ちょえき》、《春秋しゅんじゅうでん》以傳於世。《えきでんじょ》曰:

  《えき》,へんえき也,隨時ずいじへんえき以從道也みちや。其為しょ也,廣大こうだい悉備,はた以順せいいのちつう幽明ゆうめいつき事物じぶつじょう,而示ひらきぶつなりつとむ道也みちや聖人せいじん憂患ゆうかん後世こうせいいいいたり矣。雖遠,のこけいなおそんしか而前儒失意しつい傳言でんごん後學こうがく誦言而忘あじしん而下,ぶたつて矣。せい千載せんざいこれ,悼斯文しぶん湮晦,はた俾後じん沿流而求げん,此《つて所以ゆえんさく也。

  「《えきゆう聖人せいじんみちよん焉:以言しゃなお其辭,以動しゃなお其變,以制しゃなお其象,以卜筮ぼくぜいしゃなお其占」。吉凶きっきょう消長しょうちょう進退しんたい存亡そんぼうみち備於やめ,推辭こう以知へんぞうあずかうらないざい其中矣。「君子くんしきょそくかん其象而玩其辭,どうそくかん其變而玩其占」,とく于辭たち其意しゃゆう矣,ゆうとく於辭而能どおり其意しゃ也。いたりほろしゃ也,いたり著者ちょしゃぞう也。體用たいよういちげん顯微けんびあいだかんかいどおり以行其典禮てんれいのりしょ不備ふびぜん學者がくしゃもとめげん必自ちかえき於近しゃげんしゃ也。所傳しょでんしゃ也,ゆかり得意とくいのりざい乎人焉。

  《春秋しゅんじゅうでんじょ》曰:

  てんなまみん,必有るいざいおこり而君ちょう治之はるゆき爭奪そうだついきしるべ而生やしなえとげ教之のりゆき倫理りんりあきらしか後人こうじんどうりつ天道てんとうなり地道じみちたいらみかど而上,聖賢せいけん隨時ずいじ有作ゆうさくじゅん乎風むべ先天せんてん以開じんかくいん而立じりつせい。暨乎さんおう迭興,三重みえすんで備,うしとらたてただしただししつぶんさらなお人道じんどう備矣,天運てんうんしゅう矣。聖王せいおうすんでふくさくゆう天下てんかしゃ雖欲仿古あとまた私意しい妄為而已。こと繆,はたいたる以建ためせいどうもとかんせん以智りょく持世もちよあにふく先王せんおう道也みちや

  夫子ふうしとうしゅうこれまつ,以聖じんふくさく也,じゅんてんおうふくゆう也,於是さく春秋しゅんじゅう》,ためひゃくおう不易ふえき大法たいほう所謂いわゆるこうしょ三王而不繆,けんしょ天地てんち而不もとしつしょ鬼神きじん而無うたぐ,百世以俟聖人而不惑」しゃ也。さき儒之でんゆうなつ不能ふのうさんいちまちさんしゃ也,げん不能ふのうあずか於斯なんじ斯道しどう也,ただかお嘗聞矣。「くだりなつときじょういん輅,ふくしゅう冕,らくそく《韶舞》,此其じゅんてき也。こう以吏春秋しゅんじゅう》,いい褒善貶惡而已,いたり經世けいせい大法たいほうのり知也ともや

  《春秋しゅんじゅう大義たいぎすうじゅう,其義雖大,炳如ほし,乃易也。おもんみ其微かくれよしとき措從よろししゃためなん知也ともやあるそもそもあるたてあるあるだつあるすすむある退すさあるほろあるあらわ,而得乎義理之まさゆきやすぶんしつなかひろしもうこれむべ是非ぜひおおやけ,乃制ごと權衡けんこう,揆道模範もはん也。おっとかん百物然後識化工之神,聚眾ざいしかこうさくしつもちい,於一事一義而欲窺聖人之用心,上智じょうち不能ふのう也。がく春秋しゅんじゅうしゃ,必優ゆう涵泳,だま識心どおりしかこうのうづくり其微也。こうおうとも春秋しゅんじゅうよしのり雖德禹、なお以法さんだい

  しん而下,其學つて悼夫聖人せいじんこころざし不明ふめい後世こうせい也,さくつて》以明,俾後人通ひとどおり其文而求其義,とく其意而法其用,のりさんだいふく也。つて》也,雖未のうごく聖人せいじん蘊奧うんおう庶幾しょき學者がくしゃとく其門而入矣。

  平生ひらお誨人倦,學者がくしゃ其門最多さいた淵源えんげんしょややみなため名士めいし。涪人ほこら頤於北岩きたいわせいたたえため伊川いかわ先生せんせいよしみていじゅうさんねんたまものおくりな曰正こうあつしゆう元年がんねんふうはくしたがえまつ孔子こうしびょうにわ

  門人もんじんりゅうあや籲、しゃりょうゆうちょう繹、昞皆はんはんしょ于左。りょだいひとしだい臨見《だいぼうでん》。

ちょう[编辑]

  ちょうあつし長安ながやすじんしょうだんへいいたりよくゆいきゃく西之にしのとしじゅういち,以書謁范なか淹,一見いっけん其遠,乃警曰:「儒者じゅしゃ有名ゆうめいきょうらく何事なにごと於兵。」よしすすむ讀《中庸ちゅうよう》。讀其しょなお以為あしまたおとずれしょしゃくおい累年るいねん究極きゅうきょく其說,所得しょとくはん而求六經りくけい》。嘗坐とらかわこうえき京師けいし聽從ちょうじゅうしゃ甚眾。一夕いっせきほどいたり與論よろんえき》,じん曰:「ほどふかあきらえきみちわれしょどる及,なんじやから。」撤坐輟講。あずか二程語道學之要,きよししか自信じしん曰:「われどう自足じそく何事なにごとつくりもとめ。」於是つき棄異がくあつし如也。

  舉進ためいのりしゅう司法しほうさんぐんくもがんれい政事せいじ以敦ほんぜんぞくためさき每月まいつききち酒食しゅしょく,召鄉じんだか年會ねんかいけんにわおやためすすむむくい使つかい人知じんち養老ようろうごとちょうよしいんといみんやましにが,及告所以ゆえん訓戒くんかい子弟してい

  熙甯はつちゅうすすむりょこうちょごと其有古學こがくかみ宗方むなかた一新いっしんひゃくおもえざい哲士てつしはかりごと,召見といどうたい曰:「為政いせい不法ふほうさんだいしゃおわり道也みちや。」みかどえつ,以為たかしぶんいんこうしょ日見ひみおうやすせきやすせきとい以新せい曰:「おおやけあずか人為じんいぜんのりじん以善こう;如教だまじんみがくだまのりよろしゆう受命じゅめいしゃ矣。」あきらしゅうなえごくおこり,往治すえころせ其罪。

  かえあさそくうつやましへいきょ南山なんざん終日しゅうじつ危坐いちしつ左右さゆう簡編,俯而讀,おおせ而思,ゆうとくそく識之,あるなかよるおこりすわしょく以書。其志どうせいおもえはじめ須臾しゅゆいきまた須臾しゅゆ忘也。敝衣へいい蔬食,あずかしょせいこうがくまいつげ以知れいなりせい變化へんか氣質きしつみちがく必如聖人せいじん而後やめ。以為知人ちじん不知ふちてんもとめため賢人けんじん而不もとめため聖人せいじん,此秦、かん以來いらい學者がくしゃだい蔽也。其學みことれい貴德たかのり樂天らくてんやすいのち,以《えきためむね,以《中庸ちゅうようためたい,以《あな》、《はじめためほう,黜怪妄,べん鬼神きじん。其家昏喪葬祭そうさいりつよう先王せんおう,而傅以今れいまた論定ろんてい井田いだたくうらはつ斂、學校がっこうほうみなよく條理じょうりなりしょ使つかい舉而措諸事業じぎょう

  りょだいぼうこも曰:「これ始終しじゅうぜん發明はつめい聖人せいじんのこむね,其論政治せいじりゃく復古ふっこむべかえ其舊しょく,以備諮おとずれ。」乃詔ふとつねれいいんあずか有司ゆうしれいごうふく以疾中道ちゅうどうやまし甚,沐浴もくよく更衣ころもがえ而寢,だん而卒。ひん以斂,門人もんじんどもかいかんたてまつ其喪かえ翰林かんりん學士がくしもとしょうとうげん其恬於進取しんしゅ,乞加おく恤,みことのりたまものかんしょくはん賻。

  がく力行りっこうためせきちゅう士人しじんむねせいたたえためよこみぞ先生せんせい著書ちょしょごうせいこうむ》,またさく西銘にしめ》曰:

  いぬいしょうちち而坤はは茲藐焉,乃混しかちゅうしょ天地てんちふさがわれ其體,天地てんちそちわれ其性,みんわれ同胞どうほうものわれあずか也。

  大君おおきみしゃわれ父母ちちはは宗子むねこ;其大臣だいじん宗子むねこ家相かそう也。みことだかねん所以ゆえんちょう其長,慈孤よう所以ゆえんよう其幼,せい其合とくけん秀也しゅうや。凡天つかれ癃殘やましまことどく鰥寡,みなわれ兄弟きょうだい顛連而無つげしゃ也。「于時保之やすゆき」,つばさ也。「らく且不ゆう」,純乎じゅんここうしゃ也。たがえ悖德はいとくがいじん曰賊,すみ惡者わるもの不才ふさい,其踐がたおもんみあやかしゃ也。

  のりぜんじゅつ其事,きゅうしんそくぜんつぎ其志,愧屋ためかたじけなそんこころやしなえせいため匪懈。あくむねしゅたかしはく之子ゆきこ顧養;育英いくえいざい,潁封じんすずるいたゆろう而底しゅん其功也;しょ逃而まち烹,さるせい其恭也。からだ其受而歸ぜんしゃまいり乎;いさみ於從而順れいしゃはく也。富貴ふうき福澤ふくさわはたあつわれなま也;ひん賤憂戚,いさおだまおんな于成也。そんわれじゅんごと;歿,われやすし也。

  ほど頤嘗ごと:「《西銘にしめあきらいち而分こと,擴前ひじりしょ未發みはつあずか孟子もうこ性善せいぜんやしなえこれろんどうこう孟子もうしぶたひつじ。」學者がくしゃいたりこんみこと其書。

  よしみていじゅうさんねんたまものおくりな曰明こうあつしゆう元年がんねんふう郿伯,したがえまつ孔子こうしびょうにわおとうと戩。

おとうと[编辑]

  戩,てん祺。おこり進士しんし調しらべ閿鄉ぬし簿金堂こんどうけん誠心せいしん愛人あいじん養老ようろう恤窮,あいだ召父ろう使つかいきょうとく子弟してい民有みんゆう小善しょうぜんみなせき。以奉ぜにため酒食しゅしょく月吉つきよし,召老しゃいんろう使つかい子孫しそんさむらいすすむ孝弟こうていみん其德,しょいたりごく訟日しょう

  熙甯はつためかん察御うらぎょうるいあきらろんおうやすせきらんほう,乞罷條例じょうれい及追かえつねひら使者ししゃ。劾曾こうあきらちんますちょう抃依たがえ不能ふのうすくいただしかん左右さゆう徇從,あずかためとうじょう以邪諂竊だい諫。且安せき擅國,輔以絳之詭隨,だいしんまたもちいていやから繼續けいぞく而來,ひこばえややもりりょめぐみきょう劾薄べんきゅうかりけいじゅつ以文奸言,あにむべすすむこうくんがわしょすうじゅうじょうまたまい中書ちゅうしょそうやすせき舉扇掩面而笑,戩曰:「戩之きょうじきよろしためおおやけわらいしか天下てんかわらいおおやけしゃしょう矣。」ちょう抃從つくりかい,戩曰:「おおやけまたとくため無罪むざい。」抃有愧色。とげしょうびょうまちざい

  公安こうあんけん,徙監ちくかんいたり舉家しょくたけのこつね愛用あいよういちそつ,及將だい其人ぬすめたけのこ籜,治之はるゆきしょうかしざいやめただしまちふく如初,ほぼ介意かいい,其德りょう如此。そつ於官,ねんよんじゅうなな

邵雍[编辑]

  邵雍堯夫。其先范陽じんちち徙衡漳,また徙共じょう。雍年さんじゅうゆう河南かなんそう其親水上すいじょうとげため河南かなんじん

  雍少ゆう其才,慷慨こうがいほっじゅ功名こうみょう。於書しょ讀,はじめためがくそくけんこく厲,さむあつおうぎよる就席しゃすうねんやめ而歎曰:「むかしじんなおとも于古,而吾どく四方しほう。」於是逾河、汾,わたる淮、かんしゅうりゅうひとし、魯、そうてい墟,久之ひさゆきはたしからい,曰:「みちざい矣。」とげふく

  北海ほっかいざいきょうしろれい,聞雍好學こうがく,嘗造其廬,いい曰:「また聞物ききもの理性りせいいのちまなべ乎?」雍對曰:「こう受教。」乃事ざい,受《かわ》、《らくしょ》、《宓義》八卦はっけろくじゅうよん圖像ずぞうこれさいつてとおゆう端緒たんしょ,而雍さがせ賾索かくれみょうさとるかみちぎりほらてっ蘊奧うんおう汪洋おうようひろしはく其所自得じとくしゃ。及其がくえきおい德益とくます邵,玩心高明こうめい,以觀おっと天地てんちうん陰陽いんよう消長しょうちょうとお而古こんへんほろ而走草木くさき性情せいじょうふかみやつこきょくとおる庶幾しょき所謂いわゆる不惑ふわく,而非仿象るいおくのり屢中しゃとげ衍宓羲先天せんてんむね著書ちょしょじゅうあまりまん言行げんこう於世,しか其道しゃ鮮矣。

  はついたりらくよもぎ蓽環芘風,躬樵爨以ごと父母ちちはは,雖平居ひらい屢空,而怡しかゆうしょ甚樂,にん莫能窺也。及執おやあい毀盡れいとみ弼、司馬しばひかりりょこうちょ諸賢しょけん退すさきょ洛中らくちゅうまさたかし雍,つねしょうしたがえゆうためえんたく。雍歲こう稼,僅給衣食いしょくめい其居曰「安樂あんらく窩」,いんごう安樂あんらく先生せんせいだんそく焚香つばめすわ,晡時しゃくしゅさんよん甌,微醺びくんそくとめつね及醉也,きょういたり輒哦えい春秋しゅんじゅうゆうじょうちゅう風雨ふううつね不出ふしゅつそくじょう小車おぐるま一人ひとり挽之,おもんみしょてき大夫たいふ識其しゃおんそうしょうむかえこうわらわ孺廝隸皆歡相いい曰:「われ先生せんせいいたり也。」ふくしょう其姓ある留信とめのぶ宿やど乃去。好事こうじしゃべつ作屋さくや如雍しょ,以候其至,めい曰「くだり窩」。

  司馬しばひかり兄事けいじ雍,而二人純德尤鄉里所慕向,父子ふしこんおとうとごとしょう飭曰:「毋為不善ふぜんこわ司馬しばはしあきら、邵先生せんせい。」みちらくしゃゆうこれおおやけ,必之雍。雍德いきしかもち其賢,しかことひょう襮,しつらえぼう畛,群居ぐんきょつばめわらい終日しゅうじつ不為ふため甚異。あずかひとごとらくどう其善而隱其惡。ゆう就問學則がくそくこたえ嘗強以語じんひと賤少ちょういちせっ以誠,賢者けんじゃえつ其德,賢者けんじゃふく其化。一時いちじ洛中らくちゅう人才じんさいとくもり,而忠あつ風聞ふうぶん天下でんか

  熙寧ぎょう新法しんぽう,吏牽はさま不可ふかためあるとう劾去。雍門せいともしゅうけんしゃみな貽書おとずれ雍,雍曰:「此賢しゃしょとう盡力じんりょくとき新法しんぽうかたいむのうひろしいちふんのりみんいちふんたまもの矣。とう劾何えき耶?」

  よしみゆうみことのりもとめのこいっ留守るすおう拱辰以雍おうみことのり,授將さくかんぬし簿ふく舉逸潁州だんねり推官,みな固辭こじ受命じゅめい,竟稱やましこれかん。熙寧じゅうねんそつねんろくじゅうななおく秘書ひしょしょう著作ちょさくろうげんゆうちゅうたまものおくりなやすしぶし

  雍高あかり英邁えいまい,迥出千古せんこ,而坦えびす渾厚,圭角けいかく以清而不げきかず而不りゅうにんあずか交久,えき尊信そんしん河南かなんほど顥初さむらい其父識雍,論議ろんぎ終日しゅうじつ退すさ而歎曰:「堯夫,內聖がいおうまなべ也。」

  雍知慮ちりょぜっじんぐうごとのうぜんほど頤嘗曰:「其心虛明きょめいのう知之ともゆき。」當時とうじ學者がくしゃいん雍超まいこれ識,つとむだか所為しょいいたりいい雍有玩世またいん雍之ぜんいい雍於凡物ごえこれしょ感觸かんしょく,輒以其動而推其變焉。於是摭世事せじ已然いぜんしゃみな以雍げんさき,雍蓋必然ひつぜん也。

  雍疾びょう司馬しばひかりちょうほど顥、ほど頤晨ゆうこうはたおわりきょうそうことがいにわ,雍皆のう聞眾じんしょげん,召子はくゆたかいい曰:「諸君しょくんほっそうわがきんしろとうしたがえさき塋爾。」すんでそう,顥為めいしょう雍之どう純一じゅんいつざつ,就其しょいたりいいやす且成矣。ところ著書ちょしょ曰《すめらぎごく經世けいせい》、《かんぶつ外篇がいへん》、《りょうきこりといたい》,曰《伊川いがわげき壤集》。

  はくあつしべつゆうでん

本元ほんもとあさ作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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