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明史/卷160 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

あかり/まき160

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まきいちひゃくろくじゅう 列傳れつでんだい48
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おうあきら げん きんせきおうとおる あやぎぬ はりかた ちょうちょうほう ひろし

  おうあきら文昭ふみあきていじんひろしじゅうねん舉於きょうこく子生こなじ使つかいさん東平とうへい糴,以廉みきたたえ,擢吏げん。逾年,かわげんあらためきゅうごとちゅうるい遷山西にしひだり參政さんせい

  永樂えいらく五年召為禮部侍郎。ちちふくじょあらため戶部とべ陝西せんせいだい疫,たてまつ使つかいまつ西嶽にしたけしんやすみん鬻子おんなつぐなえあきらそうため蠲除,贖還しょ鬻。あらためみぎふく

  陝西せんせい僉事えいげき肅州ばんためへんころせ及都指揮しきあきら劾英,おけごくてんまた劾御ちんはじめあさひ受賕枉法、文獻ぶんけんぬすめぎん、及金われ指揮しきいわお逐母やしなえみなすわ所論しょろん劾甚眾。じゅう一年從帝北巡。あきらゆうははねんはちじゅうあまり矣,いのち歸省きせいたまもの其母かんむりふくきんぬささとし曰:「君子くんしきょかん忘親,きょ忘君。凡所みん安否あんぴ,吏賢不肖ふしょう,悉以聞。」あきらかえそうごとしょうむねひさしんみぎ

  じゅうきゅうねんみかど廷臣ていしんじゅうろくにんじゅんなで天下でんかあきらあずかきゅうごとちゅうおう勵往河南かなんおわり明世あきよ大臣だいじんとくなで鄉土きょうどしゃあきらあずかはる而已。河南かなんすいわざわいみん流亡りゅうぼうちょう吏不恤。あきらそう黜貪こくしゃひゃく餘人よにんやめ不急ふきゅうせいじゅう餘事よじ。招復流民りゅうみんはつ廩振かししょぜんかつかえあさいのちとく餉北せいじんむね即位そくいかわ開封かいふういのちあきらあずか指揮しきしん往振恤。

  せんとく元年がんねんがついのちあきら良鄉よしさと南京なんきんじゅんなで軍民ぐんみんひろ以所げんりつつねことくだ敕切せめれいしょうびょう以聞。ふくさとし侍臣じしん曰:「りょうきょうしょう距數千里せんりえき使往來おうらいため擾,ある遘水ひでりしょうみんしつしょちょう使かえ及御じゅんれきみな以告,あきら往視。いましょそうおおほそゆえ大臣だいじん如此,ちんふくなんもちきょうとうとう悉朕君臣くんしん同體どうたい,勿有しょうたぐ。」ひろ召還しょうかんいのちあずかとくさんくもじゅん山海さんかいいたりきょいさおしょせき隘。逾がつかえそう將士しょうし擅離しゃみかどいのち逮治。とげいのち兵部ひょうぶさんがついちきゅうごと中點ちゅうてん閱。明年みょうねんよんがつそつ於官。

  あきらいむかい請托せいたくみなぜっしか用法ようほうこく。其母屢以ためごと不能ふのうあらためときりゅうかんためひだりひといいあきらおおやけ而不じょかんわたし而不こくくも

  げん文淵ぶんえんたてあきら縣人けんじん永樂えいらくよんねん進士しんしじょかん察御べん松江まつえとも誣。そうげん浙東ひんうみりょうめぐ按陝西にし西安しーあんだい疫,療活甚眾。そうごと:「しょくらあわせきいちせんきゅうじゅうあまりまんせきそくささえじゅうねんこんみん疫妨のう,請輸鈔代りょうぜいはん。」したがえこれりょうしゅう寇將ためへん。亟請剿,らんとげいきりょう遭喪,俱起ふくひろし熙元ねんため浙江せっこう按察副使ふくし

  せんとく三年召署刑部右侍郎。ねん河南かなんひでりあらみんてん徙。みかど以源れんせい有為ゆういいのちためひだりぬのせい使,俾馳えきにんときさむらいろうもとくるわ往撫輯,廷議またおこりちょうゆうぬのせい使あきら祺原かんみなもとあずかくるわあきら祺發くら廩,めん逋賦雜役ざつえき流民りゅうみんややあめまた旋降,さい大豐たいほうきょさんねん召還しょうかん,授刑ひだりさむらいろう明年みょうねん永豐ながとよみんなつ九旭等據大盤山為亂。みかど以源江西えにしじんいのちなでこれとくにんれいそちへいずい其後。いたり官軍かんぐんとりこきゅうあさひいんいのちにんさいよんがわけん飭邊つとむ

  えいむね即位そくいしん尚書しょうしょ正統せいとう二年五月命整飭大同、せんしょあたりもと便宜べんぎ行事ぎょうじみなもととく僉事けんもりどくせき,楊洪ふくこれ,劾萬全衛指揮杜衡戍廣西。明年みょうねんそう大同だいどうそうへいかんたんこうおいみかどいのちしん、楊洪たかし左右さゆうさんしょうきょう鎮,しょしょう肅然しゅくぜん。按行天城あまぎついたちしゅうしょ險要けんようれいしょう吏分もりしつらえとおまもるぞうおさむ開平かいへいりゅうもんじょうどくせき抵宣增置ぞうち墩堠。めんたむろぐんいちねんもうか火器かきため備,しょけん避役しゃ悉括ひろ以宣、だい軍務ぐんむひさしたゆ,請召還しょうかんじゅんなで僉都睿,而薦兵部ひょうぶさむらいろう于謙ため鎮守ちんじゅさんさん朝廷ちょうてい以謙かたなで山西さんせい河南かなん聽。於是げんかん以臨擅易おけ大臣だいじんためげんざいごう疏劾。且言げんため嘗犯贓,乃冒りょう誥命。みかど以源ゆうろうおけ不問ふもんこと竣還あさあずかちんさとししょう詈於ちょくいおりさとし以聞,みことのりりょうせめ

  としひでりろくじょう疑獄ぎごく,且請推行於天ほう。旋坐けつごく不當ふとうあずかさむらいろうなんぶんふち下獄げごくとくなだめふく以上いじょうりょうおうたか烚罪じょう不言ふげん其內らんごと與三よそうかんみなけいみことのりごく累月るいげつしゃくかえしょくみなもとざい刑部おさかべひさごく多平たへいじょ陝西せんせい僉事けいごと武臣ぶしんざつはんとうざいはん俸,謫極みなもと以所ごと深刻しんこくそうこれろう中林なかばやしあつしげんきん刁訟、つげ訐及擇けいかんかんじゅうしゅうつとむ憑贓よんことみな以源とく施行しこう。六年以足疾命朝朔望。はちねん致仕ちしそつ

  きむ濂,むね瀚,山陽さんようじん永樂えいらくじゅうろくねん進士しんし,授御せんとくはつじゅん按廣ひがしれんのうさいあらため按江西にし浙江せっこうきょぬすめすわめんぬすめ就執,乃復かん。嘗言ぐんけん吏貪にごむべ敕按察司、めぐ按御察廉のうしゃ,如洪たけあいだ故事こじ使つかいろう賚,のり清濁せいだくぶん,循良すすむみかど嘉納かのうようこも遷陝西にし副使ふくし

  正統せいとう元年がんねん上書うわがき請補まもるしょかけかんえきやすしなつ守兵しゅへいしつらえかんちゅう鎮守ちんじゅ指揮しき使ぎょう。三年擢僉都御史,さんさんやすしなつ軍務ぐんむ。濂有こころけいぜん籌畫,西にし陲晏しかやすしなつきゅうゆうみぞ,而鳴すなしゅうななほしかんはく石灰せっかいさんみぞ淤。濂請浚之,溉蕪いちせんさんひゃくあまりごろときみことのり富民とみん輸米すけあたり,千石以上褒以璽書。濂言邊地へんちあわとうと,請並旌不及額しゃもうかよし此充。六年詔僉都御史盧睿與濂更代。明年みょうねん,睿召還しょうかん,濂復鎮。ひろみぎふくあずか睿代しゃさい

  はちねんあきはい刑部おさかべ尚書しょうしょさむらいけいむしろじゅういちねんやすさとはくちょうやすしあずかおとうとそう祿ろくみことのり逮治。ほう與戶よとしょう諉,げんかん劾濂及戶尚書しょうしょ王佐おうさみぎひね鎰,さむらいろうひのと鉉、うまのぼるふくひのと璿、ほどとみとう,俱下獄げごく數日すうじつしゃく

  福建ふっけんぞく鄧茂ななとうためみだれみやこただしりゅう聚、ちょう楷征かつじゅうさんねんじゅういちがつ大發だいはつへいいのち甯陽こうひね懋等ため將軍しょうぐん往討,以濂さん軍務ぐんむいたりひのと瑄已大破たいはぞく茂七もしちぞくよう兄子せこはくまごよりどころきゅう龍山たつやまこばめ官軍かんぐん。濂與眾謀,羸師さそえふく精兵せいびょうにゅう其壘,とげとりこはくまごみかど乃移楷討浙寇,而留濂擊たいらあまりぞくしたしゃかいえいむねきたかり兵事へいじとげ召還しょうかんげんしゃ交劾濂無こうけいみかど不問ふもん太子たいし賓客ひんきゃくきゅう俸。ひろあらため戶部とべ尚書しょうしょしん太子たいしふとし

  とき四方しほう用兵ようへい,需餉きゅう,濂綜かくのこじょう撙節便宜べんぎじゅうろくことくにようとくとぼしいく上皇じょうこうかえ。也先請遣使往來おうらい如初,みかどけんぜっ。濂再疏諫,聽。はつみかど即位そくいみことのりめんけいたいねん天下でんか租十さん。濂檄有司ゆうしただしげんまいむぎ,其折おさむぎんぬのいと帛者せい如故。さんねんがつ學士がくしこうふかし以為ごといのち查理。濂內慚,抵無ゆうきゅうごとちゅうただしとう請詰天下でんか有司ゆうしたがえみことのりゆえ。濂恐ごとはい,乃言:「ぎんぬのいと帛,詔書しょうしょわかがい減免げんめんくにようなん?」於是きゅうごとちゅう劾濂しつしん於民,為國ためくに斂怨,且訐其陰ごとみかどよくなだめこれ,而侃あずかおうまことりょくそうとげ察院ごくえつさんにちしゃくそぎ宮保みやのほあらためこう。吏部尚書しょうしょなんぶんふちげん理財りざい不可ふか,乃復かえ戶部とべ。濂上疏自とげ乞骸こつみかど慰留いりゅう東宮とうぐうけんふく宮保みやのほひろふくじょうじょうふしぐんたくみ及僧どう冗食どもじゅうことねんそつかん,以軍こうついふう沭陽はくおくりなさかえじょう

  濂剛はてゆうざいしょいたり以嚴辦稱,しかせっ暴怒。ざい刑部おさかべほうややふか。及為戶部とべ,值兵きょうざい詘,頗厚斂以あしようくも

  いし璞,なかだま,臨漳じん永樂えいらくきゅうねん舉於きょう入國にゅうこくがくせん授御

  正統せいとうはつ歷任れきにん江西えにし按察使さんねんすわいっしゅうくだ副使ふくし。璞善だん疑獄ぎごくみんめとさんにちかえりやすししつ婦翁ふおう訟婿ころせおんな,誣服ろん。璞禱於神,ゆめしんしめせ以麥。璞曰:「むぎしゃ兩人りょうにんいちにん也。」あきら,械囚おもむき行刑ぎょうけいいち童子どうじ窺門へいあいだいれのり道士どうし也。しか曰:「なんじれいしか偵事乎?」童子どうじくびはて二道士匿婦槁麥中。たてろん如法にょほう在江あるえ西にしすうねん風紀ふうきせい肅,雖婦豎無不知ふちせきけん使者ししゃ

  七年遷山西布政使。明年みょうねん,以朝廷歲ようぶつりょう有司ゆうし擾民,請於おりかてぎん內歲そんせんりょうれいかんかい辦,庶官ようかんみんまた擾。したがえこれ

  こう尚書しょうしょおう巹以不能ふのうこごめおうじゅうさんねん致仕ちし。璞為ところよしとげ召為尚書しょうしょ明年みょうねんしょしゅうぞくむねとめさくみだれそうへいかんじょきょうとう往討,以璞さん軍事ぐんじいたりそうとめやめため其党ひね鑒胡しょころせじゅんなでちょう驥招降鑒胡,ぞくぜいややいき。璞等逗遛こうためちょうひろしとうしょ劾,みことのり俟師旋以聞。

  やめ而景みかど嗣位,召還しょうかん論功ろんこうけんだいてらきょうひろつの天下てんか義勇ぎゆうかえあさかいちゅう官金かんきんえい下獄げごくほう劾璞嘗賂えいとげなみ璞獄,とうとくなだめこれだし理大りだい同軍どうぐん餉。てきはん營,いのち提督ていとくせん軍務ぐんむいたりそく寇已退すさかえごと太子たいしふとしたもてきゅう俸。

  かわけつすなわんいのち治之はるゆき。璞以けつこうえきふさがべつ浚渠。くろようやまいたりじょしゅう,以通こげそう,而決こう如故。乃命內官はじむけんとう偕御彭誼すけ。于沙わんちく石堤いしづつみ以禦決河けっかひらきがつかわ引水ひきのみずえき運河うんが以殺水勢すいせいけつ乃塞。璞還ごと:「京師けいし盜賊とうぞくだしぐんあいだゆうしゃ,輒雲『かて餉虧げんつま孥饑こおゆえ』。また聞兩畿、山東さんとう河南かなん被災ひさい窮民きゅうみん多事たじひょうげかすめ及今拊循,こわかたらい甚于患。口外こうがいもりぐん夜行やこうひるふく艱苦かんくまんじょうこん邊疆へんきょうやすしよろしぞう餉以さく士氣しき,乃反げん其月かて,此實けいぬすめあやま國之くにゆきはしふしざいあしようじゅつ。」みかどふかおさめ其言。すなわんふくけつ,璞再往さいおう治之はるゆき。以母おこりふく

  ろくねんあらため兵部ひょうぶ尚書しょうしょあずか于謙きょうごと明年みょうねんみずうみこうなえみだれいのち璞總とく軍務ぐんむあずかみなみかず伯方はかたあきら討之。てんじゅん元年がんねん以捷聞。召還しょうかんいのち致仕ちしすんで而論こうたまもの鈔幣。よんねんふゆようけんこも,召為南京なんきんひだりとき璞已ろう聵,不能ふのうにんごと。七年為錦衣衛指揮僉事門達所劾罷,そつ

  おう巹,郿人。永樂えいらく中鄉なかごうこもこよみ山東さんとうひだりぬのせい使ところいたるゆうめぐみせい正統せいとう六年入為工部侍郎,だいちゅうため尚書しょうしょかえりじゅうねんそつ

  とおるがくいにしえ吉水よしみずじん永樂えいらくじゅうねん進士しんし。授御じゅんよんがわ指揮しきかく贇與きよしぐんひろし琳中交通こうつうため奸利,つう劾奏,逮治三殿みどのわざわい,偕同かんなんちゅうとうごくちん時政ときまさ闕失。忤旨,ため交阯きよししゅう

  せんとく元年がんねんはじむはんおうとおる戰敗せんぱい,擅傳げきわりきよし迤南畀賊。ぞくかたかこえきよしつうあずか指揮しきちゅう堅守けんしゅじょうあいだやぶぞく殺傷さっしょう甚眾。賊將ぞくしょう遁而げきいたりつう曰:「吾輩わがはいころせぞく出城でしろ必無ぜんあずか就縛しゅうばく,曷若盡忠じんちゅう。」乃與ちゅうえき固守こしゅぞくひさしおさむしたれいくだはた蔡福せつくだつうとう陴大ののしぞくじょう不可ふか拔,引去ひきさ。及還きょうせんむねだい獎勞あらため戶部とべいん外郎ういろうせんぐん餉。そうごと:「朝議ちょうぎもうか開平かいへいれいごとぐんうんいちせきまたとう以騎まもるぎょうけいところりつせきなな鬥而致いちせきこん軍民ぐんみんねがい輸米えきしお,請捐舊例きゅうれいふんのりじんらく輸,餉足而兵つかれ。」みかど

  正統せいとうはつ,遷兵ろうちゅうしたがえ尚書しょうしょおう驥整飭甘肅邊つとむしたがえやぶてき于兀魯乃還,以貪淫事いんじため驥所さとし。驥遣どおりそうじょうそく疏通そつうざい下獄げごく,謫廣西にしようやま閘官。やめ調しらべひがしふといかわはくしょかんきゅうねんとく僉事曹儉こも其有文武ぶんぶざい,乞收用しゅうよう。吏部不可ふか

  けいみかどかんこく,以于けんちん循薦,おこりへい部員ぶいん外郎ういろうまもりきょいさおせきにわかしんろうちゅうみかど即位そくいしんみぎふく。也先はん京師けいしべつおさむきょいさお甚急。てん大寒だいかんつう汲水きゅうすい灌城,みずけんとくちか七日なのか遁走とんそうつい擊破げきは

  けいたい元年がんねん召還しょうかんとき楊洪とくきょう營,いのちどおりさん軍務ぐんむけんいんごとげん:「しょあたりほう警,りつよし守將しゅしょうかしこちょう調ちょうかざりいつわり以惑朝廷ちょうていぐうぞくすう十輒稱殺敗數千。むこうしゃとくかちとう門外もんがい不知ふちくび幾何きか,而獲かんしゃいたりろくまんろくせん餘人よにん。輦下且然,なにきょう塞外さいがい。且韓しんおこりくだりみのる苴拔於寒ほろむべひろしさがせ將士しょうしちゅう如信、苴者,あずか軍事ぐんじわかこんこしだま珥貂,みな苟全せいいのち爵祿しゃくろくこれにんにくけんざいのうげん而不能行よしゆきあしあずか也。」ぶた詆謙あずかいしとおるやからけん疏辨,げん:「がいせめほう不實ふじつはてゆう警,そう必致誤ごととくしょう門外もんがい官軍かんぐんますきゅう惟武これたけしんこうせきとおるこうさつとうさきしゃまんきゅうせんはちひゃく餘人よにん,及陣ほろびさんせん餘人よにん而已,やす所得しょとくろくまんつう以為濫,むべはたしん及亨とうます爵削だつゆう如韓しんじみのる苴者,乞即いのちゆびこもなみやめしん營務,俾專治部じぶごと。」疏下廷議。廷臣ていしんどもげんけん及石とおる、楊洪じつこらえ其任;またいいどおりこころざしざいめつぞくみかどりょうかいひろ敕謙ろくこうとく如從まえおかせ濫,ぶたいん通言つうげん而發也。きゅうごとちゅう覃浩とうげんどおりほん以知へいようむべいんごと,乃解其兼職けんしょく

  ふさがうわ軍民ぐんみんおおため寇所かすめつう請榜しょあたりのうしゃぐんめん戍守さんねんみんふく徭役終身しゅうしんまた請懸ふう爵重しょうつののうとりこ也先、はくがおじょう甯者。やめまたげん:「いにしえ將帥しょうすいつとむさがせ拔眾ざい,如知山川やまかわ形勢けいせいしゃ使しるべぐんのうあが高越たかごえけんしゃ使覘敵,のうふうかくとりうらないしゃ使備變。いまぐんちゅう未見みけん其人,乞敕廷臣ていしんかく舉所いのちそうへいかん楊洪、副將ふくしょうまご鏜同しんこうけん。」みことのりみなぎょう

  せんゆう警,そうへいかん硃謙つげきゅう。廷推とくどう范廣そちへい往,以通提督ていとく軍務ぐんむ。寇退,ちゅうふところらいせん,以邊もうかじき召還しょうかん六月ろくがつ,于謙以山西にしきん寇,請遣大臣だいじん往鎮,楊洪また乞遣じゅう臣從しんじゅうかりもんせきまもる大同だいどうみかど以命どおりつうよくぎょう,請得あずかけんひろし俱。けんげん國家こっか多難たなん臣子しんしろうにちそう乞躬往。みかどまことそついのちどおりつうもとけんしょ舉,而每ごと牴牾もどきにんゆかり直通ちょくつう

  ねん召還しょうかん,仍贊軍務ぐんむ東宮とうぐうあらためけん太子たいししょううえごと:「みつぎ使攜馬よんまんひきむべりょう增價ぞうかむくいこれあたいぞうそく後來こうらいえき眾,此亦きょう中國ちゅうごくじゃくがい裔之一策いっさく。」みかど以所みつぎりつ不堪ふかんようわか增價ぞうかせい墮賊けいどおりそう。四年進右都御史,さん軍務ぐんむ如故。

  つうこう大言たいげんぐうじん輒談へいひねころせぞくこうもとめ世襲せしゅうしょくためきゅうごとちゅうおう竑所劾。帝釋たいしゃくつみてんじゅんはつひねあずかはかりごとむかえこわ為石ためしとおるとうしょ掩,乃授其しょ鎮撫ちんぶさんねん致仕ちしなりろくねんそつたまものさいそう如例。

  あやぎぬ,磁州じんせんとくねん進士しんしえいむね即位そくい,授御,按直隸、福建ふっけん有能ゆうのうめい

  正統せいとう九年參贊寧夏軍務。逾年當代とうだい軍民ぐんみんまい鎮守ちんじゅひね鎰乞とめ。以聞,いのちふくにんひろ擢大みぎてらすすむまいりさん如故。つね以事劾指揮任しんじちんあきら二人ふたりみなおうとうじゅういちねんよんがつしんじあきら訐綺法事ほうじ下總しもうさへいかんしんくつがえかくいいあやぎぬつね詈宦かんためろうやつ」,以激怒げきど召還しょうかんきょうほうなずらえ贖,あらためれいにしきころもまもるさい鞫。指揮しきどうじゅんきたえねりなりごく,謫戍遼東りゃおとんけいみかどりつあやぎぬ訴冤,聽。ひろよう尚書しょうしょ于謙、きむ濂薦,召復かんしんみぎしょうきょうふくみのる使かわら剌。

  上皇じょうこうかえ,以勞擢刑ひだりさむらいろう明年みょうねんがつとく雲南うんなん四川しせんぐんもうかやめだい寇深鎮守ちんじゅまつはんぞくくびたくろう糾他寨阿ゆいとうしきため寇,あやぎぬとりここれかんおうひさし高茂こうもりんただしさとししょうかたきころせ守將しゅしょう不能ふのうせいあやぎぬ搗永誅之。またはいくろとらしょふさがつがえくびさんひゃくじゅうざいななねん威名いめい甚震。

  てんじゅんはつ,召為ひだりふく,以功たまものひん祿ろくちょうほう、楊瑄劾石とおるとおるいいあやぎぬあずかみぎ耿九疇使なみ下獄げごくくだ廣東かんとん參政さんせいあやぎぬ鞅鞅赴。明年みょうねんうるうがつあやぎぬきょうじんつげ磁州どうりゅうやくきょうかえあずかあやぎぬげん天子てんし仍寵宦官かんがんこく香木こうぼくためおうかたち以葬。あやぎぬ微笑びしょううん:「朝廷ちょうてい失政しっせい,致吾輩わがはいくだ黜。」奏上そうじょうあやぎぬ吏,すわせき其家,ひねしょせきざいまかない于文はなもんしめせ百官ひゃっかんいえぞく戍邊,婦女ふじょ沒入ぼつにゅう浣衣きょくけんむねりつ,赦為みんかえ其資さん

  ときあずかあやぎぬ先後せんご四川しせんしゃちょうかた公正こうせいしん喻人。せんとくはちねん進士しんし正統せいとうはつ,授刑きゅうごとちゅうあらため吏科,たてまついのちなでひろししゅう流民りゅうみんけいたい改元かいげんきゅうごとちゅうみのる請於四川行都司設鎮守大臣,乃遷かただいみぎしょうきょう,鎮建あきらゆうせい績。三年還理寺事。山東さんどうとうおこりたてまついのちとくてき霖潦わざわい流人るにんみちかたつきこころ釁,盜賊とうぞく弭散。かえそつ於官。かたざい諫職敢言,大臣だいじん彈劾だんがいまた劾都ひね鎰等舉屬かん出身しゅっしんじょう吏者ためじょう吏不とくれきしるためれいえい宗將むねのぶきたせい,偕同かん疏諫。復辟ふくへきついねんやめそつ使つかいさとしさいかんいち黼,つかまついたり廣西ひろせ按察使

  ちょう瑄,廷璽,江浦えうらじん正統せいとうななねん進士しんし。授刑主事しゅじこよみろうちゅう有能ゆうのうごえ

  けいたいたまもの敕為吉安きちやすぞくなおみこむかいかみ無休むきゅう。瑄遇しょしつらえ神水じんずいちゅうにわか遘危やまし父老ふろうみなげんしんためたたり,請復。瑄怒,もとやましまたいよいよとしだいひだるちん牒上かん俟報,輒發廩振かし

  きょはちねんようこも擢廣ひがしみぎぬのせい使廣西ひろせぞく文章ぶんしょうとう越境えっきょうおちい連山れんざん,瑄擊これまたやぶ山賊さんぞくしゅう公轉こうてん新興しんこうぞく鄧李とうすんで大藤おおふじかいぞくしきおちいぞく邑,瑄坐とま俸。なりはつかん雍平ぞくろく瑄轉餉勞,たまものぎんぬさきゅう俸如はつ。瑄按ゆき所部ところぶとくけんあずか備倉ろくじゅうおさむ陂塘圩岸よんせんろくひゃく增築ぞうちく廣州こうしゅうしんかいしょ城垣しろがきいちじゅうみんとく瑄,おもんみおそれ其去。すんでてんひだりぬのせい使かい滿まんきゅうとう赴京,軍民ぐんみんしょうりつ乞留。じゅんなでひね濂等為之ためゆき請,乃仍にん

  八年始以右副都御史巡撫福建。ひらぞくりんことぶきろくふところさんとうぶくやすことぶき甯諸けん鄰江、浙,ぞくくび旺、はるとうけん。瑄捕誅之,つき解散かいさんみかどくだ敕勞あらためなで河南かなん議事ぎじいりひねなで流民りゅうみんとどこおざいじゅう八事やごと所司しょしぎょう黃河こうがすい溢,瑄請振,且移おう祿ろくまい於他しょとめおう輸榆りん餉濟あらせきちょくはちぜに輸榆りんみんしょう便びん

  かえいんごとひろ南京なんきん刑部おさかべさむらいろうひさしん尚書しょうしょじゅうねんほしへん劾,みかどどるといきょさんねんきゅうごとふく劾之,とげ落職。こうむねりつふくかん致仕ちしちょうほうあが霄,淶水じんけいたいねん進士しんし。授御うえ疏言:「ふところごとくん人臣じんしんしょ戒。ごとぐうせいふしあるすすむひつじにしきあやぎぬ交錯こうさく殿でん廷。むさぼまかなえあん有餘ゆうよたからたかししんたてまつ?且陛富有ふゆう四海しかいあにあしこく哉?むべ一切いっさいとまやめふさが諂諛奔競。」疏凡よんことみかど採用さいよう大同だいどうせんそう:「りょう鎮軍敝衣へいい菲食,やまいくすりかん。乞官きゅう醫藥いやくかん槥,しつらえづか,俾饗れきさい死者ししゃこうむおんのり生者しょうじゃすすむ。」みかどりつほう,且命しょあたりがいぎょうかなでとま淮、あげせいきゅううししゅ

  てんじゅん元年がんねんどうかん楊瑄劾石とおる、曹吉祥きっしょうおおとりまた偕劉たい瀚、かん驥論劾。俱得ざいしもみことのりごくしょ謫官,而鵬、瑄戍遼東りゃおとんころ赦免しゃめんふく戍南けんむねりつ廷臣ていしん交薦,召復原ふくげんかんひろちょう福建ふっけん按察使

  なりよんねん,以右僉都じゅんなで廣西ひろせ,剿蠻寇有功ゆうこう。其冬やめめぐなでかんいのちかえみなみ京都きょうと察院ごとあらためとくこげうんけんなで淮、あげよんひろかいこげつとむせんじゅんなでごとふくかえみなみいんしんふくじゅんなでやすしなつ召還しょうかんこよみ兵部ひょうぶひだりみぎさむらいろう

  じゅう八年代陳鉞為兵部尚書。まもりたま宦官かんがん韋助乞往來おうらいだかはじめ、瓊、れんかいもりじゅんかん寇。おおとり不可ふかみかど竟許南北なんぼくしるしりつくんしん、內侍,以災きずとめねんみかどふくほし內侍,おおとりとう不可ふかみかどつとむしたがえこれいのち俟後仍如故事こじ鎮守ちんじゅ大同だいどうちゅうかんひろし直言ちょくげんしょう王子おうじはただい舉,請發きょうへい援。おおとりとうげん:「だい同士どうしよんまんやめあしようしょ請宜勿許。且京ぐんこま營造えいぞう精力せいりょく銷沮,猝有きゅうなに以作厲氣,請悉停其役。」みことのりひろ太子たいししょう

  おおとりはつため剛直ごうちょくなお氣節きせつゆう盛名せいめいこうあげれき中外ちゅうがいおもんみごと安靜あんせい群小ぐんしょう竊柄,かくしんまんやすりゅうよしやからせん營私,おおとり循職而已,不能ふのうゆうしょただしすくいじゅういちねんほしへんおおとり偕僚ぞくごと:「つてたてまつたけしょくいたりはちひゃく餘人よにん,乞悉れい閑住,軍功ぐんこう毋濫授。四方しほう鎮守ちんじゅかんやり守備しゅび內官,正統せいとうあいだばらしつらえしゃ,悉宜召還しょうかん。」廷臣ていしんまた交以請,下兵しもへいふくかくおおとりかしこなかかん敢堅其議,みかどとげつきとめ時論じろんみなとがめおおとり。奸民あきら瑾獻珍寶ちんぽうとくためにしきころも鎮撫ちんぶけいかけおおとりしょじょうまことみかどぞく瑾,そく推用焉。たい諫劾大臣だいじんしょくしゃ及鵬,おおとりりょくもとめとげたまもの敕給えき以歸。弘治こうじよんねんそつおくりな懿簡。

  ひろしとく豐城とよきじんけいたいねん進士しんし。授御てんじゅんちゅうじゅん按陝西にし上安かみやすあたり八事やごといしあや濫報くびこうみことのりひろしかくあやしたがえちちとおる以書抵裕,ひろし焚之,以實聞。とおるまた旋敗。よしゆう強直きょうちょくごえ寇深ぐう僚屬げんおもんみひろし不為ふためこごめ

  以才擢山東さんとう按察使じゅうしゅうひゃく餘人よにんあるけいじゅうねんひつじばんひろし旬月じゅんげつあいだけつ殆盡。だい山賊さんぞくななじゅうあまりひろし戮其さきがけたておびえしたがえじょ其逋まけらんとげたいら

  なりはつ,遷陝西にしひだりぬのせい使にゅうためじゅんてんいんせいごえ大著たいちょすすむみぎふく總督そうとくこげうんけんじゅんなで江北こうほくもろ。浚白とうはじめ二河にこう以便こげちょうあきみなみ旺及淮安西湖さいこきゅう編木びんざさら捍沖げきろうやめひろしあずかろうちゅう楊恭とうはかりごとえき以石,とげ為永ためながとし。淮、おおとりかたひだる,而太ぼくせいあずか備馬まんひきひろしろんやめこれざいろくさいまい歲入さいにゅうけいことちんとしびょう施行しこうちちふくじょとめいんごと

  じゅう九年代戴縉為右都御史。縉附ひろしじき,嘗請ふくりつ西にししょうしゃ也,ざいたい綱紀こうきだてひろしよくこれゆうある遭箠撻,ゆかりそしひろしちょくはい,偕副ほふ滽請ゆきしょ忤直とくざいしゃみかどえつだつ俸。またすわるい調しらべみなみ京都きょうと察院。こう績赴とめためこう尚書しょうしょ

  はつ,吏部尚書しょうしょいんみんやめ,耿裕だい。以持せい不為ふためまんやすしょ。而つとむしょうほう貴幸たかゆき用事ようじよく引鄉じん,乃協はかりごと耿裕,以裕だいひろしほんかどかいまけもち,以孜しょうめい頗損。其銓敘亦たいら故事こじ考察こうさつゆうよん:曰老やまし,曰罷軟,曰貪こく,曰不謹。ひろしげん:「人材じんざいしつ不同ふどう偏執へんしゅうるいこく遲鈍ちどんるい軟。乞立『才力さいりょく及』一途いっと,以寓愛惜あいせき人才じんさい。」みかど善之よしゆきとげちょためれいこうむねりつげんかん交章劾裕しんゆかりつとむしょうひろし不平ふへいためべん誣錄》,れん疏乞きゅう正德しょうとく中卒ちゅうそつねんはちじゅうはち

  さん曰:おうあきらとうある性行せいこうじゅんため訾議。綜其生平おいだいらきず瑜互しかあげれき中外ちゅうがいろう績多有可ゆか。《しょしょうあずかひともとめ備」,《春秋しゅんじゅうよしぜんぜんちょう」,のり諸人もろびとかたしつため國家こっかみきずみざい歟。

じょういちかん したいちかん
あかり

ほん清朝せいちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう領域りょういきいんため作者さくしゃ逝世やめけい超過ちょうか100ねん

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