(Translated by https://www.hiragana.jp/)
明史/卷282 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

あかり/まき282

維基文庫ぶんこ自由じゆうてき圖書館としょかん
 列傳れつでんだいいちひゃくろくじゅうきゅう 循吏 あかり
まきひゃくはちじゅう
列傳れつでんだいいちひゃくななじゅう 儒林いち
列傳れつでんだいいちひゃくななじゅういち 儒林 

◎儒林いち

粵自司馬しば遷、はんかたそうじゅつ《儒林》,ちょかんきょうしょ儒修あかりけいげいゆかり朝廷ちょうていこう厲學かんみち與一よいちだい政治せいじしょう表裏ひょうりこう沿其體制たいせいかかえのこけい以相授受じゅじゅしゃ,雖無事業じぎょうりつるいためへん。《そうばん道學どうがく》、《儒林》ため,以明、雒淵源えんげんうえうけたまわ洙、泗,儒宗すべいとぐち,莫正於是。ところせき於世道人どうじんしんしゃ甚巨,以載せき雖繁,莫可はい也。

明太めんたいおこり布衣ふいてい天下てんかとうみきほこ搶攘ときしょいたりせい召耆儒,こうろん道德どうとくおさむ明治めいじじゅつ興起こうき教化きょうか,煥乎なりいちだい宏規ひろのり。雖天亶英姿えいし,而諸儒之こう不為ふためじょ也。せい,一以經義為先,網羅もうら碩學せきがく。嗣世うけたまわひらめ文教ぶんきょうとくもり大臣だいじん文學ぶんがく登用とうようしゃ林立りんりつあさみぎ。而英宗之むねゆき河東かわとう薛瑄以醇儒預せい,雖弗きわむ於用,其清おさむ篤學とくがくうみ內宗焉。あずか弼以めい儒被こも天子てんしおさむぬさ聘之ことれいぜんせきのべ想望そうぼう風采ふうさい,而譽たかし於實,詬誶くさむらしげるせきじゅうかぶと,儒風しょうがえしろすな而後,曠典缺如けつじょ

はらおっとあきらはつしょ儒,みな朱子しゅし門人もんじん支流しりゅうあまり裔,師承ししょうゆうのり矱秩しか。曹端、えびすきょじんあつし踐履,謹繩すみまもり儒先正傳せいでん敢改錯。學術がくじゅつこれぶんのりひねけんじあきらおうまもるひとしはじめむねけんじあきらしゃ曰江もんまなべぎょうどくまい,其傳とお宗守むねもり仁者じんしゃ曰姚まなべべつりつ宗旨しゅうしあらわあずか朱子しゅし背馳はいち門徒もんとへん天下でんか流傳りゅうでんひゃくねん,其教だいぎょう,其弊しげる甚。よしみりゅう而後,篤信とくしんほどしゅ異說いせつしゃふくいくにん矣。よう有明ありあけしょ儒,衍伊、雒之緒言しょげんさがせせいいのちおくむね,錙銖ある爽,とげけい岐趨,かさね謬承なまりゆびかえりわたるとおいたり專門せんもんけいくん授受じゅじゅ源流げんりゅうのりひゃくななじゅう年間ねんかん未聞みもん以此名家めいかしゃ經學けいがくかんとうしらげせんせいかさねそう元之もとゆき糟粕そうはく論者ろんしゃいい舉盛而儒じゅつほろ,殆其しか乎。

こん差別さべつ其人,じゅん前史ぜんしれいさく《儒林でん》。有事ゆうじこうれつ正傳せいでんしゃ,茲不ふく及。其先きよし先賢せんけん後裔こうえい明代あきよ亟為ひょうあきら,衍聖れつ爵上こう與國よこく終始しゅうし。其他かんざしえい逢掖,奕葉うけたまわおんまた儒林盛事せいじ也。こう其原そのはらはじめべつためへんもろまつ簡,以備いちだいうん

はんみきとうしゃおうよしひろしかつひろしりょうとらちょう汸陳謨薛瑄(閻禹すずしゅう蕙等)えびすきょひとしゆう蔡清ひね琛林まれもととう欽順曹端あずかえびすきゅう韶等)ちんしんあきらりょりょせんとう邵寶おうとい楊廉りゅうかんまごかなえちゅううまさとしこうおうおうでんおうたかししんしゅうあきらはんちぇずくなん瑭唐はくもとじゅん耀おとうとふち耀)

はんみきけいさき金華きんかじんしたがえどう邑許けんゆうとく其指よう。其學以誠意せいいためぬし,而嚴以慎どくもち守之もりゆきこうふとし婺州,あずかなみ召。みき大學だいがく》以進,ふとしといどうなんさきたい曰:「不出ふしゅつしょ。」ふとしれい剖陳其義,みきいい帝王ていおうみち自修じしゅうひとし以至治國平天下ちこくへいてんか,必上下じょうげよんつくり均齊きんせい方正ほうせい使つかい萬物ばんぶつかくとく其所,而後以言ふとし曰:「聖人せいじんみち所以ゆえんためまんせいほうわれおこりへい以來いらい號令ごうれい賞罰しょうばついちゆう不平ふへいなに以服眾。おっとたけじょうみだれぶん致太ひらめ,悉是道也みちや。」ふかれい貌,いのち二人為諮議,みき以親ろう文忠ふみただもりしょしゅうとく敬禮けいれいつねしょうため幹事かんじおやこう父母ちちははみなはちじゅうあまり而終。いえまずし不能ふのうそう鄉里きょうりどもため營辦,悲哀ひあいさんねんいちにち有司ゆうし以聞,いのちひょう其所きょ曰純こうぼう學者がくしゃしょうため純孝すみたか先生せんせい

けい翰,金華きんかじん受業じゅぎょう於許けんけん誨之曰:「學者がくしゃ必以せい人倫じんりん為本ためもと,以開明かいめい心術しんじゅつ變化へんか氣質きしつためさき。」朝夕ちょうせき惕厲,研究けんきゅうおくむねやめ而授こうがくそう趨之。其語學者がくしゃ曰:「聖賢せいけん言行げんこうつき於《六經りくけい》、《四書ししょ》,其微奧義おうぎのり近代きんだいさき儒之せつ備矣。よし其言以求其心,涵泳從容しょうようひさ自得じとく不可ふか先立さきだておのれ,而妄ゆう是非ぜひ也。」ふとしかつ婺州,召見,授為はか,以老びょうやめ而知おうはじめあきら聘儀及宋濂為《五經ごきょうひさしまた隱居いんきょ養親ようしんところちょゆう南陽なんようざつけやき》。沈稱其理あかり識精,一介いっかい茍。やすまずしらくどうもり不變ふへん

門人もんじんなんことぶきともとくよわいまた金華きんかじんきゅうけいもり妄幹じんひろしたけはじめ,舉孝れん,以おや俱老ちち歿,しゃしょ居宅きょたくえき以葬。學者がくしゃいん其自ごうしょう曰歸ぜん先生せんせい

どう邑汪あずかたて師道しどうみき門人もんじん。其德ぎょうあずかことぶきともひとしめい文學ぶんがくためゆう隱居いんきょ教授きょうじゅ,以高ことぶきおわり

しゃおうよしらんたけすすむじん也。ようあつし好學こうがく潛心せんしんせい,以道義どうぎ名節めいせつ勵。もといたりせいはつかくれしろつるけいじょう。構小しつかお曰「かめ」,いん以為ごうぐん辟教きょうこう子弟していさきしつぶんしょなまみな循循みやび飭。やましはし惑世,嘗輯聖賢せいけん格言かくげん古今ここんあかり鑒為《べん惑編》。ゆう舉為三衢書院山長者,就。及天下兵しもへいおこり,避地くれちゅうくれじんそうのべ致為弟子でし久之ひさゆき江南こうなんそこじょうはじめらいねんななじゅう矣。徙居かおる茂山しげやま一室いっしつ蕭然しょうぜん晏如あんじょ也。有司ゆうしせいおさむぐんつよおこし赴之。としえきだかがくゆきえき劭。いたるかん縉紳しんしんぐんしゃ,必訪於其いおりおうよし布衣ふい韋帶あずかこれこうれい議論ぎろん必關きょうきりみんかくれ,而導善之よしゆきおとろえ詩文しぶんまさうらら蘊藉,而所自得じとくしゃ理學りがくためふかそつねんきゅうじゅうなな

ひろしかつひろし德一とくいち,祁門じんはな受業じゅぎょうそうほうにょう魯,とくつとむときつてかつひろしじゅうさいちち授以そうほう問答もんどうこれしょ,輒有さとる。乃取《四書ししょ》,てい句讀くとう晝夜ちゅうや誦習,せんつとむ凡兒ぼんじしたがえちち浮梁,もんぎょう於吳なかまがえきあつしもとたいじょうちゅう,舉應きょうこころみちゅうせんかいためし以答さく直見ぬくみ黜,慨然がいぜん棄科舉業,盡力じんりょく於經がく。《春秋しゅんじゅうのり以胡安國やすくにためぬし,而博こう眾說,かい萃成しょめい曰《春秋しゅんじゅう經傳けいでん附錄ふろく纂疏》。《えきのりゆうほどしゅでんよしおとこう》。《ゆうあつまりでん音義おんぎかいどおり》。《れいゆうれいけいいっ》。《綱目こうもくゆう凡例はんれいこうこと》。四方しほう學士がくしけい門下もんかしゃ甚眾。いたりせいあいだ,蘄、へいいたりしついおり貲財つき遭焚かすめ。簞瓢屢空,怡然自得じとくひろしたけはじめ,聘至京師けいしどうおさむもと》。しょなりはた授官,固辭こじろうやましたまものぎんぬさきゅうえきかえねんふゆそつねんろくじゅうゆうきゅう

りょうとらはじめけいしん喻人。ぎょうのういえひん自力じりき於學,淹貫《五經ごきょう》、ひゃくるい舉不だいとげ棄去。辟集けい儒學じゅがく訓導くんどうきょさい,以親ろう明年みょうねん天下てんかへいおこりとげ隱居いんきょ教授きょうじゅふとしてい四方しほうせい天下でんかめい儒修じゅつ禮樂れいがくとら就征,ねんろくじゅうあまり矣。とき以禮、りつ制度せいどふんためさんきょくとらざいれいきょくちゅう討論とうろんせいしんしょ儒皆推服すいふくしょなり賜金しきんぬさはた授官,以老びょうやめかえゆいいおり石門せきもんさん四方しほう士多したしたがえがくしょうためはり五經ごきょうまたたたえ石門せきもん先生せんせい。鄰邑はついれかんまいとら請教。とら曰:「きよしまきつとむきょかんさん也。」其人とい天德てんとく王道おうどうようとら微笑びしょう曰:「げん忠信ちゅうしんぎょうあつしけいてん德也とくやきずざいがいみんおう道也みちや。」其人退すさ曰:「はりしょげんひらたひらみみ。」以不けんはいじん曰:「われ敢再石門せきもん先生せんせい。」とらそつねんはちじゅう

ちょう汸,つねきゅうやすしじんなま而姿稟卓絕たくぜつはつ就外でん,讀朱四書ししょ》,しょうたぐがた,乃盡朱子しゅししょ讀之。聞九江黃澤有學行,往從ゆう澤之さわのがく,以精おもえさとるためぬし。其教じん,引而不發ふはつ。汸一さいとうもん,乃得《六經りくけい疑義ぎぎせんじょう以歸。やめふく往,とめさいとく口授くじゅろくじゅう四卦大義與學《春秋しゅんじゅうようこうふくしたがえ臨川りんせんおそれしゅうゆう聞吳きよしこれがく。乃築東山ひがしやま精舍しょうじゃ讀書どくしょ著述ちょじゅつ其中。雞初輒起,きよしこころ默坐もくざよし造詣ぞうけいせいふかしょけい不通ふつうつらぬけ,而尤邃於《春秋しゅんじゅう》。はつ以聞於黃さわしゃため春秋しゅんじゅうせつさんかんふく廣之ひろゆきため春秋しゅんじゅうしゅうでんじゅうかんいんれいけいかいゆうぞくごと春秋しゅんじゅうきょうこれ,乃復ちょ春秋しゅんじゅうぞくはちへんまた以為がく春秋しゅんじゅうしゃ,必考《ひだりでん事實じじつためさきもりあずかちんでんりょうゆうとく於此,而各ゆうしょ蔽,乃復ちょひだり補註ほちゅうじゅうかんとう天下てんかへいおこり,汸轉がわみきほこあいだ,顛沛流離りゅうり,而進修之のぶゆきいさおたゆふとし既定きてい天下でんかみことのりおさむもと》,せい汸預其事。しょなりいくそつねんじゅうゆういち學者がくしゃたたえ東山ひがしやま先生せんせい

ちん謨,一德かずのり泰和やすかずじんようのう詩文しぶん,邃於經學けいがくつくり及子ひゃくいえわたるりゅうさがせげんべん析純駁,犁然よう至當しとう隱居いんきょもとめつかまつ,而究こころ經世けいせいつとむ。嘗謂:「がく必敦ほん,莫加於性,莫重於倫,莫先於變化へんか氣質きしつわか禮樂れいがくけいせいせんこくかぶとへい度數どすうしょうまた不可ふか講習こうしゅう。」一時經生學子多從之遊。ことおやこうとも於其おとうとさとじん有為ゆうい不善ふぜんしゃ敢使聞。ひろしたけはじめせいまい京師けいしたまものすわがく學士がくしそう濂、まちせいおう祎請とめ為國ためくにがく,謨引やまし。屢應聘為こう、浙考試こうしかん著書ちょしょ教授きょうじゅ以終。

薛瑄,とくあつし河津かわづじんちちさだひろしたけはつりょうきょうこもためもと教諭きょうゆははひとしゆめいち紫衣しえじん謁見えっけんやめ而生瑄。せい穎敏,はじめ就塾,授之《》、《しょ》,輒成誦,日記にっきせんひゃくこと。及貞あらためにん滎陽,瑄侍ぎょうどきねんじゅう,以所作詩さくしていかんかんすんで而聞高密こうみつまれぶんうみやすしはんなんじふねふか於理がくさだ乃並れいため瑄師。よしつき焚所作詩さくしきわむこころらく、閩淵源えんげんいたり忘寢しょくこうさだふくあらためかん鄢陵。瑄補鄢陵學生がくせいとげ舉河南鄉なんごうためしだいいち永樂えいらくじゅうゆうはちねん也。明年みょうねんなり進士しんし。以省おやきょちち,悉遵れいせんとくちゅうふくじょ,擢授さん楊當こくよくこれしゃ往。かんみずうみこうぎんじょうにちさがせせいもろしょがくえきしん。以繼はは

正統せいとうはつかえあさ尚書しょうしょかく琎舉ため山東さんとうひさげがく僉事。くび揭白鹿しかほらがくぶんまわし開示かいじ學者がくしゃのべしょせいおやためこう授。ざいしゃらく其寬,而不才ふさいしゃはばか其嚴,みなよびため薛夫おうさん楊:「吾鄉あごうだれためきょうきょうしゃ?」以瑄たい,召為だいひだりしょうきょう。三楊以用瑄出振意,よく瑄一往見,けん。瑄正しょく曰:「はい爵公あさ謝恩しゃおん私室ししつわれ不為ふため也。」其後議事ぎじひがしかく公卿くぎょう趨拜,瑄獨屹立きつりつ趨揖,瑄亦れい銜瑄。

指揮しきぼうわらわ有色ゆうしょくしたがえやまよくおさめ指揮しきつま肯。わらわとげ訐妻毒殺どくさつおっとげの察院訊,やめ誣服。瑄及どうかんべん其冤,さん卻之。おうぶんうけたまわむね,誣瑄及左、みぎしょうきょう嗣、顧惟けいとうだしじんざいふく諷言かん劾瑄とう受賄,なみ下獄げごくろん瑄死,嗣等まつげんゆう。繫獄まてぎま,瑄讀《えき如。さんにんねがいいちだいたかしぐんまこと。及當行刑ぎょうけいあおあたまゆるがせ泣於爨下。とい,泣益悲,曰:「聞今薛夫はたけい也。」だい感動かんどうかいけいさんくつがえそう兵部ひょうぶさむらいろうおうえらまたさるすくえ,乃免。

けいみかど嗣位,ようきゅうごと中程なかほどしんこもおこりだいてらすすむ。也先入せんにゅうはんふんもり北門きたもん有功ゆうこうひろとくしゅうぐん餉,こと竣,そく乞休,學士がくしこうふかしそうとめけいたいねん,推南京大きょうだいてらきょう富豪ふごう殺人さつじんごくひさしけつ,瑄執おけこれほう。召改北寺きたてら蘇州そしゅうだいひだる貧民ひんみんかすめ富豪ふごうあわ其居,蹈海避罪。おうぶん以閣しんすわ以叛,とう死者ししゃひゃく余人よにん,瑄力べん其誣。ぶん恚曰:「此老倔強なおむかし。」しかそつとくげん。屢疏つげおいもとえいむね復辟ふくへき拜禮はいれいみぎさむらいろうけん翰林院かんりんいん學士がくし入閣にゅうかくあずかつとむおうあや、於謙下獄げごくしも群臣ぐんしんせきとおるとうはたおけ極刑きょっけい。瑄力げん於帝,にちぶんけんげん一等いっとうみかどすう瑄,しょひねみなせき君德くんとくごとやめせきとおる、曹吉祥きっしょうらんせい,疏乞骸骨がいこつみかどこころじゅう瑄,ほろいや其老,乃許

瑄學いちほんほどしゅ,其修やめきょうじん,以復せいためぬしたかしやしなえ邃密,言動げんどう鹹可ほう。嘗曰:「こうてい以還,斯道しどうやめ大明だいめいはん著作ちょさくちょく躬行きゅうこうみみ。」ゆう讀書どくしょろくじゅうかん平易へいい簡切,みなげん所得しょとく學者がくしゃ宗之むねゆきてんじゅんはちねんろくがつそつねんななじゅうゆうおくれい尚書しょうしょ,謚文きよし弘治こうじちゅうきゅうごとちゅうはり九功請從祀文廟,みことのりまつ於鄉。やめきゅうごとちゅう楊廉請頒《讀書どくしょろく》於國がく,俾六かん誦習。且請ほこらめいみことのりめいせいがく」。りゅうけいろくねんまこと廷臣ていしん請,したがえまつせん聖廟せいびょうにわ

弟子でし閻禹すずあずか洛陽らくようじんちちはし,舉河南鄉なんごうためしだいいちため教諭きょうゆそつ。禹錫かたきゅうさい,哭父いくめつせいちょうひろしわたるぐんしょりょう正統せいとうきゅうねんきょうこもじょあきらはじむ訓導くんどう。以母いおりさんねんみことのり孝行こうこう旌其閭。聞河薛瑄こう濂、らくまなべとげやめおおやけしゃ,往受業じゅぎょう久之ひさゆきはた,瑄送いたり裏門うらもんつげ曰:「ためがくようきょけい窮理きゅうり而已。」禹錫とく其大ゆびえきつとむ力行りっこう

てんじゅんはつだい學士がくしけんこも為國ためくにがくせい。請嚴かんぶんまわし以塞奔競,ふくたけまなぶ以講備禦,みかどみなしたがえこれひろますかんすすむ,忤貴こう左遷させん徽州經歷けいれきしょなまふく闕乞とめまことさい遷至南京なんきん國子くにこかんすすむてのひらきょうまもるたけまなぶよんためどうこうかんちょうはいかん察御とく畿內がく周子かねこ太極たいきょく》、《つうしょためこうかい一時いちじ多士たしみなひびきがくなりじゅうねんそつねんじゅういち

しゅう蕙,廷芳,たいしゅうじんため臨洮まもるそつ,戍蘭しゅうとしじゅう,聽人こう大學だいがくしゅあきら,惕然感動かんどうとげ讀書どくしょしゅうじんだんけん,薛瑄門人もんじん也,かたこうがく於裏。蕙往聽之。あずかべん析,けんだいふく。誨以ひじりがく,蕙乃研究けんきゅう五經ごきょう》。またしたがえがくやすあきらあきらまた瑄門じん也,ゆかり舉人かん清水しみず教諭きょうゆがく使者ししゃ嘆其けんこもあきらだいおのれいのちした而卒。蕙從ひさがくえき邃。恭順きょうじゅんこうくれ瑾鎮陜西きょうせいよく聘為固辭こじ赴。あるとい,蕙曰:「われぐん也,召役そくわか以為あに召哉?」瑾躬送於其,蕙始おさめにえ焉。かえきょたいしゅう小泉こいずみはばはばふかころもどう必由れいしゅうじんしょうため小泉こいずみ先生せんせい。以父ひさゆう江南こうなんかえしわたり揚子ようここうもとむちちふねくつがえ溺死できし。蕙門じん著者ちょしゃ,薛敬にしきおう爵、なつしょうしらき

敬之たかゆきあらわおもえ,渭南じんさいこう讀書どくしょ逐群兒戲じぎちょうしたがえ蕙遊,雞鳴こうもんけい,輒灑掃設,跪而請教。嘗語じん曰:「しゅう先生せんせい躬行きゅうこう孝弟こうていまなぶきんらくわれ以為。陜州ひねくも忠信ちゅうしん狷介けんかいこと必持けいわれ以為とも。」けんむねはつ,以歲みつぎせい入國にゅうこくがくあずかどうしゃひねけんじあきらなみゆう盛名せいめいかい父母ちちははしょうつぎ歿,ごう哭徒ぎょう大雪おおゆきちゅうとげなりあしやましはは嗜韭,終身しゅうしんしょくにらなりまつせんおうしゅうしゅう績為天下でんかだいいち弘治こうじ九年遷金華同知。きょねん致仕ちしそつねんななじゅうよんところちょゆう道學どうがくもとみつる》、《洙泗げんがくろく》、《しかみやび便びんおん》、《おもえあん埜錄》しょしょおもえあんしゃ敬之たかゆきごう也。其門じんりょ柟最ちょゆうでん

にしきめいちゅう,鹹寧じん。舉天じゅんろくねんきょうためし入國にゅうこくがくためさいしゅ邢讓しょゆずるすわこと吏,にしきりつ眾抗あきらしろ其非辜。ようちちことははしょくやしなえつきれい不作ふさく浮屠ふとほうじゅんなでしゅんよくのべためにしき以齊おとろえ不入ふにゅう公門くもん固辭こじところきょ僅蔽風雨ふうう布衣ふい糲食,よし妄取。なりちゅうせん松江まつえどうそつかん

爵,すずたいしゅうじん弘治こうじはつよしこく學生がくせい授保やすしゅう判官ほうがんゆうたいらまことごえ。其教門人もんじん也,つとむ以誠けい為本ためもと

えびすきょひとし叔心,あまり幹人みきひと。聞吳あずか弼講がくたかしひとし,往從ゆうぜっつかまつすすむ。其學以主忠信ちゅうしんためさき,以求放心ほうしんためようみさお而勿しつ莫大ばくだい乎敬,いん以敬めい其齋。はしそうしこりじゅうたい妻子さいし如嚴まろうどおけいちさつしょうしょ得失とくしつもちいほどこううずらころも簞食,晏如あんじょ也。ちくしつ山中さんちゅう四方しほうらい學者がくしゃ甚眾,みなつげ曰:「がく以為おのれ,勿求人知じんち。」治世ちせいのり曰:「おもんみ王道おうどうのう使萬物ばんぶつかくとく其所。」しょちょゆうきょぎょうろく》,ぶた修辭しゅうじりつ誠之せいしまいげん:「あずかわれどう相似そうじ莫如禪學ぜんがく學者がくしゃ誤認ごにんそんこころりゅう於禪,あるよくへいぜっ思慮しりょ以求せい不知ふち聖賢せいけんおもんみ戒慎かいしん恐懼きょうくよこしまおもえもとめしずか嘗不靜也しずや卑者おぼれ功利こうりこうしゃ騖於空虛くうきょ,其患有二ゆうじいちざい所見しょけんしんいちざい功夫いさお間斷かんだん。」嘗作《進學しんがく箴》曰:「まことけいすんでりつ本心ほんしん自存じそん力行りっこうすんでひさし全體ぜんたいみなじん。舉而措之,家齊いえなり國治くにはる聖人せいじん能事のうじ畢矣。」

きょじん性行せいこうじゅんあつしきょこつりつつえ不能ふのうおこりさんねん不入ふにゅうもんあずか人語じんご終日しゅうじつ及利祿ろくあずかりんちょうもとただしともぜんかずかい於弋かめほう。嘗言,ひねけんじあきらがくきんぜんさとるそうあきらとめごう曠,此風既成きせいためがいほそまたやまい儒者じゅしゃ撰述せんじゅつしげるかぶらいい朱子しゅし註《まいりどうちぎり》、《かげけい》,みな不作ふさく可也かなりとくがくよわいしょうしげるしょうつぎ聘主しろ鹿しか書院しょいんにょうじょう,淮王請講《えきでん》,まち以賓れいあずか弼以學名がくめい於世,受知朝廷ちょうていしか學者がくしゃあるゆうあいだごときょじんくらおさむもり布衣ふいおわり其身,にん以為薛瑄これいきしかいち於正,きょじんいちにん而已。そつねんじゅういち。萬歷十三年從祀孔廟,ふくつい謚文けい。其弟子でしあまりゆうさいちょ

ゆうせき,鄱陽じんとしじゅうきゅう師事しじきょひとしきょじん以女つま弘治こうじじゅうねん舉進ため南京なんきん刑部おさかべいん外郎ういろう,以事忤劉瑾,落職。瑾誅,おこりためふくしゅう鎮守ちんじゅふとしかんぶつじきみんぐん訴於ゆう涕泣ていきゅう慰遣くもはたれつじょう上聞じょうぶん鎮守ちんじゅ懼,やや戢,しか恚甚,ひと入京にゅうきょうつげ其黨曰:「あまりゆう鎮守ちんじゅとくとげ也。」しかゆうもとれん,摭拾竟無所得しょとくいく,遷山東さんとう副使ふくしちちゆうふく闋,じょしゅう兵備へいび副使ふくしちゅうかんおうたかしうんしん禦物いりはさみ商船しょうせんあずかしゅう樊準、指揮しきおうりょう詬。りょうはつ其違禁物きんもつけい懼,まいゆうもとめかいゆう聽。けい誣奏じゅんとうなぐおのれとげなみ逮祐,謫為みなみやすしどうやや遷韶しゅうとう劾去。よしみやすしはつれき雲南うんなんぬのせい使,以太仆寺きょう召,くだりあらため吏部みぎさむらいろうゆうやめさきそつ祐之ひろゆきがく墨守ぼくしゅせつざい獄中ごくちゅうさくせいしょさんかん。其言ほどしゅきょうじんせん以誠けいいれ學者がくしゃまことのう其不まこと不敬ふけいしゃ患不いたり古人こじんときおうまもる仁作にさく朱子しゅし晚年ばんねん定論ていろん》,いい其學おわり於存やしなえゆういい:「朱子しゅしろん心學しんがくさんへんそんときしょげん,乃少所見しょけん,及見のべひらめ,而悟其失。こう聞五峰之學於南軒,而其げんまた一變いっぺん最後さいご改定かいていやめはつ未發みはつこれろんしかこう體用たいよう不偏ふへん動靜どうせい交致其力,此其終身しゅうしん定見ていけん也。やす少年しょうねん未定みてい,而反いい晚年ばんねん哉?」其辨まもり仁之ひとし不能ふのうなん也。

蔡清,かいおっとすすむこうじんしょうはしほうかんしたがえりんがくえき》,つき肯綮こうけい。舉成じゅうさんねんきょうためしだいいちじゅうねんなり進士しんしそく乞假こうがくやめ,謁選,とくれい祠祭しさい主事しゅじおうじょちょう吏部,じゅうきよし調しらべため稽勛主事しゅじつねおとずれ時事じじ清乃きよのじょう劄:いち請振紀綱きこう,一薦劉大夏等三十余人。じょみなおさめようひろ以母ふく闋,ふくじょ祠祭しさいいん外郎ういろう。乞便やしなえあらため南京なんきん文選ぶんせんろうちゅういちにちこころどうきゅう乞假養父ようふかえりはじめ兩月わち而父そつ家居かきょ授徒不出ふしゅつ正德しょうとく改元かいげんそくおこり江西えにしひさげがく副使ふくしやすしおう宸濠おごほしいままぐうさくのぞむしょつかささきあさおう謁文びょうしん不可ふかさきびょう而後おうおう生辰せいしんれいしょつかさ以朝ふくきよし曰「非禮ひれい也」,蔽膝而入,おうつもるえつかいおうもとむふく護衛ごえいせいゆうげんおうよく誣以詆毀みことのりむねきよしとげ乞休。おう佯挽とめ,且許以女つま其子,きおいりょく辭去じきょりゅう瑾知天下でんかおのれよう蔡京召楊故事こじおこりきよし南京なんきん國子くにこさいしゅいのちはじめ而清やめそつ正德しょうとくさんねん也,ねんじゅうろく

清之きよゆきがくはつしゅせいおもむなし以虛めいとき平生ひらお飭躬とぎぎょうひん而樂ほどこせためぞくとう依賴いらい。以善《えきめいよしみやすしはちねん,其子推官そんとお以所ちょえきけい》、《四書ししょこうむ引》しん於朝,みことのりためかんぬの。萬歷中追謚文莊,おくれいみぎさむらいろう。其門じんひね琛、おうせんえきちゅうはやしどうちょう逮、蔡烈なみ有名ゆうめい,而陳琛最ちょ

琛,おもえけんじすすむこうじんもりもん獨學どくがく清見きよみ其文こと,曰:「われとくとも人足ひとあし矣。」琛因かいとも人見ひとみきよしきよし曰:「われしょ發憤はっぷん沈潛ちんせん辛苦しんく而僅とくしゃ,以語じんつねかいやめつきこれこん且盡以付子ふし矣。」きよし歿じゅうねん,琛舉進士しんし,授刑主事しゅじあらため南京なんきん戶部とべ,就擢こうこう主事しゅじ,乞終やしなえよしみやすしななねんゆうこも其恬退しゃみことのりせい,琛辭。きょいちねんそくおこりしゅう僉事,旋改江西えにしみなとく學校がっこうなみ赴。家居かきょ,卻掃いちしつ,偃臥其中,ちょう吏莫とく其面。

どうぐんはやしのぞみもと懋貞,あずか同年どうねん進士しんしれきかん雲南うんなん僉事,すわ考察こうさつ謹罷ところちょ存疑そんぎとうしょあずか琛所ちょえきけいどおりてん》、《四書ししょあさせつ》,なみため舉業しょむね

おうせんすすむこうじん弘治こうじちゅう舉於きょう,一赴會試不第,以親ろう須養,さい赴。嘗曰:「學者がくしゃこんしゅりく為一ためいち便びん真知まち。」ためじんくるわ落豪邁,俯視いちせい

えきちゅうよしみかいまたすすむこうじん。舉於きょう,授東りゅう教諭きょうゆ,遷夏津知つちけんゆうめぐみせいやや遷順てん推官。以治えびすもりちゅうごくしつ要人ようじんはたちゅう他事たじとげ以終やしなえみちなつろうややそうけんじはて脯。しょうべつゆう哭失ごえしゃははねんきゅうじゅういち而終,ちゅうななじゅう矣,毀不しょう而卒。

ちょう逮,じゅう東平とうへいじん弘治こうじちゅう舉鄉こころみ,受《えき》於清。蔡氏《えきとめぎょう於閩みなみ,及是きたぎょうひとし、魯矣。きょはは毀瘠,後會こうかいこころみだいとげこう不出ふしゅつ生平おいだいらこう濂、らく諸子しょしまなべ,於明どくこう薛氏《讀書どくしょろく》。

蔡烈,ぶんままし龍溪りゅうけいじんちちひろし,瓊州れつ弱冠じゃっかんためしょせい,受知於清及莆ちんしげるれつ隱居いんきょづる鳴山なるやま白雲しらくもほらふくおうためしよしみやすしじゅう二年詔舉遣佚,くがきん以烈おう,以母ろうめぐ按李もとげきぐん邑建書院しょいんまた固辭こじゆるがせやまさんにちれつとげそつおも簿詹道嘗請ろんこころれつ曰:「むべろんごとあなもんもとめじん嘗出ごとがい也。堯、しゅんこれどう孝弟こうてい而已。夫子ふうしみち忠恕ただひろ而已。」學士がくしゆたか熙戍鎮海,れつ,嘆曰:「先生せんせい不言ふげん躬行きゅうこう,熙已心醉しんすい矣。」

欽順,まことます泰和やすかずじん弘治こうじろくねん進士しんし及第きゅうだい,授編修へんしゅう。遷南きょう國子くにこかんぎょうあずかまつりさけあきら懋以實行じっこうきょういくたてまつしんいん乞終やしなえりゅう瑾怒,だつしょくためみん。瑾誅,ふくかん,遷南京太きょうたつねしょうきょうさい南京なんきん吏部みぎさむらいろうにゅうため吏部ひだりさむらいろうむね即位そくいいのち尚書しょうしょごとうえ疏言ひさにんちょう遷,ほうとう疏通そつうほう大禮たいれいおこり,欽順請慎大禮たいれい以全ひじりたかしほう。遷南京なんきん吏部尚書しょうしょしょうおや乞歸。あらためれい尚書しょうしょかいきょ及拜。再起さいきれい尚書しょうしょまたあらため吏部尚書しょうしょしもみことのりあつし促,さいもと致仕ちし有司ゆうしきゅう祿ろくまいときちょうそうかつらがく以議れい驟貴,秉政じゅとうへい逐正じん。欽順はじあずか同列どうれつ屢詔おこりうらきょじゅうねんあし入城にゅうじょう潛心せんしん格物致知かくぶつちちこれがくおうまもるじん以心がく立教りっきょう才知さいち翕然きゅうぜん。欽順致書もりひとしりゃく曰:「せいもんしつらえきょう文行ふみゆきけん博學はくがく於文,厥有明ありあけくん。如謂がく於外もとめただしとうはんかん內省,のりせいしん誠意せいいよんまたなんしょ不盡ふじん,必於入門にゅうもんさい以格ぶつ工夫くふう哉?」もりじんとくしょまた以書むくい大略たいりゃくいい:「理無わりな內外,せい內外,がく內外。講習こうしゅう討論とうろん嘗非內也。はんかん內省,嘗遺がい也。」反復はんぷくせんこと。欽順さい以書べん曰:「執事しつじうん:『かくぶつしゃかく其心もの也,かく其意もの也,かく其知もの也。せいしんしゃせい其物こころ也。誠意せいいしゃまこと其物也。致知しゃ,致其ぶつ知也ともや。』ゆう大學だいがく以來いらいゆう此論。おっといいかく其心ものかく其意ものかく其知もの,凡為ぶつ也三。いいせい其物しんまこと其物,致其ぶつ,其為ぶつ也,いち而已矣。就さん而論,以程かくぶつくん推之,なおどおり也。以執事しつじかくぶつくん推之,不可ふかどおり也。就一ぶつ而論,のり所謂いわゆるものはてなんぶつ耶?如必以為もちい,雖極やすはいたくみおわりどおりにち也。また執事しつじろんがくしょゆううん:『われしん良知りょうちそく所謂いわゆる天理てんり。致吾こころ良知りょうち天理てんり於事ぶつのり事事物物じじぶつぶつみなとく其理矣。致吾しん良知りょうちしゃ,致知也ともや事事物物じじぶつぶつかくとく其理しゃかくぶつ也。」しん如所ごとのり大學だいがくとううんかくぶつざい致知』,不當ふとううん『致知ざいかくぶつ』,あずかものかく而後知至ともよし』矣。」しょ及達,まもりじんやめ歿。

欽順ためがくせんりょく窮理きゅうりそんしん知性ちせいはつよし釋氏しゃくしいれすんでさとる其非,乃力はいいい:「釋氏しゃくしあきらこころ見性けんしょうあずかわれ儒之つきこころ知性ちせい相似そうじ而實不同ふどう釋氏しゃくしまなべ大抵たいていゆう於心,於性。いまじんあきらこころこれせつこん於禪がく,而不知ふちゆう千里毫厘之謬。みち不明ふめいはたゆかり於此,欽順ゆう焉。」ためちょこま》,ごうせいあんとしはちじゅうさんそつおく太子たいしふとしたもて,謚文そう

曹端,正夫まさお,澠池じん永樂えいらくろくねん舉人。さいかわ》、《らくしょ》,そく以質ちち。及長,專心せんしんせい。其學務がくむ躬行きゅうこう實踐じっせん,而以せいそんためよう。讀宋儒《太極たいきょく》、《つうしょ》、《西銘にしめ》,嘆曰:「みちざい矣。」あつし研究けんきゅうすわしたちょあししょりょう磚皆穿ほじこと父母ちちはは至孝しこうちちはつこう釋氏しゃくしはしため夜行やこうしょくいちしょ進之しんのいい:「ふつ以空ためせい天命てんめいこれせいろう以虛ためどうりつせいみち。」ちち欣然きんぜんしたがえこれつぎおや五味ごみ入口いりくちすんでそういおりろくねん

はしはつ讀謝おうよしべん惑編》,あつし好之よしゆき一切いっさい浮屠ふとみこ覡、風水ふうすい時日じじつせつへい不用ふよう上書うわがき邑宰,毀淫ほこらひゃくあまりためしつらえうらしゃうらたにだん使つかいみんいのりほうとしあらすすむそんかつ甚眾。ため霍州がくただし修明のぶあきひじりがくしょなま服從ふくじゅう其教,ぐんじんみなはじ爭訟そうしょうかくあきらとい為政いせいはし曰:「其公れん乎。公則まさのりみん敢謾,れんのり吏不敢欺。」あきら拜受はいじゅ。遭艱,澠池、霍諸せい就墓受學。ふく闋,あらためかばのしゅうがくせい。霍、かばりょう邑各うえあきらそう,霍奏さきとく請。先後せんございじゅうろくせんとくきゅうねんそつかんねんじゅうきゅうしょなまふくこころさんねん,霍人やめちまた哭,童子どうじみな流涕りゅうていまずし不能ふのうそうとげとめそう霍。二子ふたご瑜、琛,またはしそうつぎそうはかがわ改葬かいそう澠池。

はし嘗言:「まなぶよくいたる乎聖じんみち,須從太極たいきょくじょう立根たつこん腳。」また曰:「ためじん須從勇士ゆうし忘上さん。」また曰:「あなかおらくじん也,あな子安こやすひとし而樂ざい其中,かおふちたがえじん而不あらため其樂,ほどれいじん自得じとく。」また曰:「天下てんか無性むしょう外之そとゆきぶつ,而性不在ふざい焉。せいそく也,理之まさゆき別名べつめい太極たいきょく,曰至誠しせい,曰至善しぜん,曰大德だいとく,曰大ちゅうめい不同ふどう而道則一のりかず。」はつらくしょ儒,自明じめいどう伊川いがわりゅうあや𥸤やから及二ほどこれもんいたり河南かなんもと衡、洛陽らくよう姚樞こうどうもん北方ほっぽう學者がくしゃ翕然きゅうぜん宗之むねゆき。洎明きょうさんじゅうあまり,而端おこり崤、澠間,倡明ぜっがく論者ろんしゃ推為あきらはつ理學りがくかんむりところちょゆうこうけいじゅつかい》、《四書ししょ詳說しょうせつ》、《しゅうえき乾坤けんこんかい》、《太極たいきょく圖說ずせつどおりしょ》《西銘にしめしゃくあや、《せい文集ぶんしゅう》、《儒學じゅがくそうみつる》、《存疑そんぎろくしょしょ

霍州いさおあずかはし同時どうじまたこうがく於其きょう。及見はし退すさかたしょなま曰:「まなぶいやきょう倦,曹子もり德也とくやいたり其知古今ここんたち事變じへん末學ばつがく鮮或及之。くもとくけいえきとくじんなん』,しょ生得しょうとくじん矣。」とげ避席はしまたこう其行よしみいのちしょなまのべ致之,こう明正めいせいがくはつはしさくかわがつ交映なずらえ太極たいきょく學者がくしゃしょうがつかわ先生せんせい。及歿,わたし謚靜おさむ正德しょうとくちゅう尚書しょうしょ彭澤、河南かなんじゅんなで楨請したがえまつ孔子こうしびょうにわはて

あずか弼,でんたかしじんじんちち溥,けんぶん為國ためくにぎょう永樂えいらくちゅうため翰林かんりんおさむせんあずか弼年じゅうきゅうらく淵源えんげん》,慨然がいぜんひびき慕,とげやめ舉子ぎょうつき讀《よん》、《五經ごきょう》、らく閩諸ろくしたろうしゃすうねんちゅうとしえきひん,躬親こう稼,其義,一介いっかい四方しほうらい學者がくしゃやくおのれぶんしょう飲食いんしょく教誨きょうかい倦。正統せいとうじゅういちねん山西さんせい僉事なん自學じがくこも於朝,請授以文學ぶんがくだかしょくこうぬりけんなでしゅうおう宇復こも,俱不。嘗嘆曰:「宦官かんがん釋氏しゃくしじょ,而欲天下でんか治平じへいなん矣。」けいたいななねん陳述ちんじゅつまた請禮聘與弼,俾侍けいむしろあるようなりひとし教育きょういく胄子。みことのり江西えにしじゅんなでかん雍備れいあつし,竟不いたりてんじゅん元年がんねんせきとおるよく引賢しゃためおのれじゅうはかりごと於大おだい學士がくしけんぞくくさ疏薦みかど乃命けんくさ敕加たば帛,行人こうじん曹隆,たまもの璽書,賫禮ぬさせいあずか弼赴闕。いたりみかどといけん曰:「あずか弼宜なんかん?」たい曰:「むべ以宮僚,さむらい太子たいしこうがく。」とげ授左はるぼうひだりさとしとくあずか弼疏けん請賜召問,且與かんきょう。於是召見ぶんはな殿どの,顧語曰:「聞處義高よしたかとくぎょうせい聘,奚辭職じしょくため?」たい曰:「しんくさちがや賤士,ほん高行たかゆき陛下へいかたれ聽虛ごえまた不幸ふこうゆういぬやましたば帛造もんしん慚被異數いすう匍匐ほふく京師けいし今年ことしろくじゅうはち矣,じつ不能ふのうかん也。」みかど曰:「みや僚優閑,必辭。」たまものぶんあやぎぬしゅろうちゅう使送しそうかん。顧謂けん曰:「此老迂闊うかつしゃつとむれい就職しゅうしょく。」みかど眷遇りょうあつし,而與弼辭えきりょくまた疏稱:「學術がくじゅつあら陋,茍冒昧徇祿ろく,必且曠官。」みことのりもと。乃請以白ころも就邸しゃかり讀秘かくしょみかど曰:「よくかん秘書ひしょつとむ受職みみ。」いのちかしこためさとしあずか弼留京師けいしがつ,以疾あつし請。けん請曲したがえかえ始終しじゅうおんれい,以光曠舉。みかどしかこれたまもの慰勞いろう,賫銀ぬさふく行人こうじん送還そうかんいのち有司ゆうし月給げっきゅうまいせきあずか弼歸,上表じょうひょうしゃちんたかしひじりこうひじりがくとうじゅうことなりねんそつねんななじゅうきゅう

あずか弼始いたりきょうけん推之上座かみざ,以賓れいごと編修へんしゅういんただしいたりれいすわ於側。ちょくだい慍,そくそしあずか弼。及與弼歸,ちょうたか謁見えっけんだい恚。つのひとだい其弟とう牒訟與弼,たて吏攝だいあなど慢,はじめかえあずか弼諒おとうと友愛ゆうあい如初。編修へんしゅうちょうもと不知ふち其始まつしょ誚讓,ゆう上告じょうこくもとおう正名まさな討罪,あによう先生せんせいひさ竊虛めい直後ちょくごひつ其事於《瑣綴ろく》。またげんあずか弼跋とおるぞく自稱じしょうもん下士かし大夫たいふよう此訾與弼。後顧こうこまことなりろん曰:「此好事こうじしゃ為之ためゆき也。」あずか弼門人後じんごみなしたがえまつ,而與弼竟はてところちょにちろく》,悉自ごと生平おいだいら所得しょとく

其門じんさい著者ちょしゃ曰胡きょひとしひねけんじあきら、婁諒,曰胡きゅう韶、しゃふくてい伉。えびすきゅう韶,おおとりただししょうしたがえあずか弼學。しょ生來せいらい學者がくしゃあずか弼令先見せんけんきゅう韶。及與弼歿,門人もんじんてんいえひんりょくたがやせ,僅給衣食いしょくなり中卒ちゅうそつしゃふくいち,祁門じん。聞與弼倡どう,棄科舉業したがえゆう身體しんたい力行りっこうつとむもとめ自得じとくきょ孝友たかともさいかんむりこん,悉遵れいあるといがく,曰:「知行ちぎょう並進へいしんいやのり落記誦詁くん矣。」ばんぼくしつ西山にしやまふもと學者がくしゃたたえ西山にしやま先生せんせい弘治こうじまつとしそつねんろくじゅうてい伉,孔明こうめいつね山人さんじんためしょせいためし有司ゆうし偶,そく棄去,あずか弼。にちきわむしょ論議ろんぎ一切いっさい折衷せっちゅう於朱ことおやこうしつらえがくだてしゃくら,以惠ぞくとうところちょえき發明はつめい》、《讀史どくし管見かんけん》、《かんぶつあまりろん》、《かえるしゅう》,燼於

ちんしんあきらみそとく,漳州鎮海まもるじん初治はつじ舉赴きょうこころみ,聞有ぼう察過げんまちれいはじ棄去,ゆかりあつし聖賢せいけんこれがく。讀《大學だいがくあるとい》,朱子しゅし重言じゅうげんぬしけいたかしため大學だいがくはじめもとまたとくほどぬしいちこれせつせんこころ克治かつじ,嘆曰:「《大學だいがく》,誠意せいいためてつもんせきしゅいち,乃其だま鑰匙也。」てんじゅんねんまい闕上《ほどしゅただしがく纂要》。其書くびほど學制がくせいさい朱子しゅし論說ろんせつさく,一著聖人心與天地同運,一著學者之心法天之運,おわりげんりつあかり、輔皇儲こうちょりゅう教本きょうほんすうごと,以畢圖說ずせつしょそうしもれいさむらいろう鄒幹其事。あきら,聞臨がわくれあずか弼方こうがくよく就問みなみあきらちょうもとただしとめ宿やど與語よごだい推服すいふく曰:「斯道しどうほどしゅ以來いらいおもんみ先生せんせいとく其真。如康ときしゃ不可ふかまた必見ひっけん也。」とげ閩,せんおもえ靜坐せいざごう漳南布衣ふいそつ於成じゅうねんねんろくじゅうよんあきらがく師承ししょう獨得どくとく於遺けいなか以僻しょ海濱かいひん而訪もとめ當世とうせい學者がくしゃ,雖未あずかあずか弼相しょうよう其學頗似ちかこれ

りょ柟,仲木なかぎ高陵こうりょうじんべつごう涇野,學者がくしゃしょう涇野先生せんせい正德しょうとくさんねんとう進士しんしだいいち,授修せんりゅう瑾以柟同鄉どうきょうよく致之,しゃ往。またいん西にしなつごと,疏請みかどにゅうみやおや政事せいじせんけしほん。瑾惡其直,よくころせこれ,引疾。瑾誅,以薦ふくかんいぬい清宮きよみやわざわいおうみことのりひねろくこと,其言じょ義子ぎしばんそうかい鎮守ちんじゅふとしかんゆうじんしょ敢言。ねんあき,以父びょうもりおうしゅぶしくましょう、曹珪るい疏薦。てきむね嗣位,しゅ召柟。うえ疏勸勤學きんがく以為しん政之助まさのすけりゃく曰:「克己こっきまきどくうえたい天心てんしんおやけんどお讒,下通しもとおりみん,庶太平之ひらのぎょう致。」大禮たいれいきょうあずかちょうかつら忤。以じゅうさんことひねちゅう大禮たいれい未定みてい,諂言日進にっしん,引為おのれざいうえいかしもみことのりごく,謫解しゅう判官ほうがんあるきしゅうごと。恤煢どくげんひのとやくすすむのうくわきょう水利すいりちくつつみまもる鹽池しおいけぎょうりょきょうやく》及《ぶん公家くげれい》,もとめなつたて司馬しばあつしおおやけほこら四方しほう學者がくしゃいたりため辟解はり書院しょいん以居さんねん煥等るいこもます南京なんきん宗人むねと經歷けいれきれきかんなおたからつかさきょうすわえ、閩、えつ從者じゅうしゃひゃく余人よにんすすむみなみ京太きょうた仆寺しょうきょうふとしびょうわざわい,乞罷黜,まことせん國子くにこかんさいしゅすすむ南京なんきんれいみぎさむらいろうしょ吏部ごとみかどはた躬祀あらわりょうるい疏勸どめほう。值天變てんぺんとげ致仕ちしとしろくじゅうよんそつ高陵こうりょう人為じんいやめしゃさんにちかいはり四方しほう學者がくしゃ聞之,みなしつらえもちこころ聞,うえ輟朝いちにちたまものさいそう

受業じゅぎょう渭南薛敬せっ河東かわとう薛瑄つてがく窮理きゅうり實踐じっせんためぬしかん南都なんとあずかたたえ若水わかみず、鄒守えきどもおもこうせきつかまつさんじゅうねんいえ長物ちょうぶつ終身しゅうしん嘗有惰容。どき天下でんかげん學者がくしゃ不歸ふきおうもりひとしのりたたえ若水わかみずどくもりほどしゅ不變ふへんしゃおもんみ柟與欽順くもところちょゆう四書ししょいんとい》、《えきせつつばさ》、《しょせつよう》、《せつじょ》、《春秋しゅんじゅうせつこころざし》、《れいとい外篇がいへん》、《やく》、《小學しょうがくしゃく》、《さむあつけい圖解ずかい》、《かん獻納けんのう》、《そうよんしょうしゃく》、《みなみしょうそうけやき》、《涇野詩文しぶんしゅう》。まんれきたかしただしあいだただしちょうにしき周子かねこよしおうせい、蔣德璟先請從まつあなびょう下部かぶ及行。柟弟子でし涇陽りょせん,舉於きょうかんこうつかさつとむちょうたかしかいおっと。鹹寧ていせいみなゆうがくぎょう

せんうらじんかく郛,維藩,ゆかり舉人かんうま藍田あいだおうほっりつよし舉人以趙ようけんこも,授國博士はかせ兩人りょうにん及柟もんまたしん篤學とくがくしゃ也。

邵寶,こくけんすずじんとしじゅうきゅうがく江浦えのうらそうあきらなりじゅうねん舉進,授許しゅうしゅうつきついたちかいしょなま於學みやこうあきら義利よしとし公私こうしべんせい潁考叔祠あらためぶん帝廟ていびょう以祠かん湣帝,しょうけんじ而稱湣,したがえあきられつしょ謚也。みこげん龍骨りゅうこつ地中ちちゅうため禍福かふくたからほね,毀於にわつえみこ而遣。躬課のうくわ,仿朱子しゅししゃくらたてせきほうぎょうけいくち澆田ほう,以備兇荒。

弘治こうじ七年入為戶部員外郎,れきろうちゅう,遷江西にしひさげがく副使ふくししゃくさいしゅうもとおおやけほこらおさむしろ鹿しか書院しょいん學舍がくしゃしょ學者がくしゃ。其教,以致知力ちりょく行為こういほん江西えにしぞくこう陰陽いんようげん有數ゆうすうじゅうねんそう父母ちちははしゃたかられいそうおやしゃあずかこころみ,於是しょうりつ舉葬,以せんけいやすしおう宸濠さく詩文しぶんたかし卻之。こう宸濠はい有司ゆうし校勘こうかんどくたからあと。遷浙江せっこう按察使さい遷右ぬのせい使あずか鎮守ちんじゅふとしかんかんしょしゅうぎん礦,たから曰:「しょうろうみんきずざいおもんばかなまへん。」そつそう其事。すすむみずうみこうぬのせい使

正德しょうとく四年擢右副都御史,總督そうとくこげうんりゅう瑾擅せいたからいたるきょうぜっあずかどおり。瑾怒こげそち平江ひらえはくひねぐまよく使たから劾之,こうじょう數輩すはいようたからひだりじゅんもん,危言こわこれ曰:「くだり逮汝。」ちょうあや、曹元內出,たから曰:「ぐんだい劾平こう後患こうかん矣。」たから曰:「平江ひらえ功臣こうしんとくこげひさ大過たいか不知ふちしょ劾。」にん默然もくぜんえつさんにちきゅうごとちゅう劾熊なみ及寶,勒致仕ちし。瑾誅,おこりじゅんなでしゅうひろ遷戶みぎさむらいろうしんひだりさむらいろういのちけんひだり僉都處置しょちかてうん。及會かんどおりしゅうぐすくほりそうしょうむねひろ疏請おわりやしなえからおおとりただしちゅう請用とめ便びんやしなえ,乃拜南京なんきんれい尚書しょうしょさい疏辭めんむね即位そくいおこり前官ぜんかんふく以母ろうこんもといのち有司ゆうし以禮そんとい久之ひさゆきそつおく太子たいしふとしたもて,謚文そう

たからさんさい而孤,ことはは至孝しこうはじめじゅうさいははやましためぶんつげてんねがいげんおのれさんのべははねん。及終やしなえとくやまし左手ひだりて不仁ふじんなお朝夕あさゆうさむらいおやがわたゆがく以洛、閩為てき,嘗曰:「われねがい為真ためざに大夫たいふねがいためかり道學どうがく。」舉南畿,受知於李東陽とうようため詩文しぶんてんじゅう和雅かずまさ以東いとうためむねいたり於原ほんけいじゅついきしかいち於正,のり其所自得じとく也。ひろし綜群せきゆうとくそくしょ簡,ほど今日きょうかく一物いちもつ明日あしたかく一物いちもつめい曰日格子こうしところちょがく》、簡端ろくじゅんなで廷舉じょう於朝,そと定性ていせいしょせつ》、《こげせい舉要》しょしゅう若干じゃっかんまき學者がくしゃしょういずみ先生せんせい

其門じんどう邑王とえひろし,以學ぎょうしょうよしみやすしじゅうななねんなり進士しんし。授戶主事しゅじかんじょしゅうくらげんともじゅうさん。以父老ふろう,乞便やしなえあらため南京なんきん職方しょくかた,遷車ろうちゅう廣東かんとん僉事。くだり半道はんみち,乞養ちちそつとげふくつかまつちくしつ湖上こじょう讀書どくしょさんじゅうねんくつ城市じょうしすうこもおこりこう詩文しぶん書畫しょがせいおさむまさしょう大夫たいふみな慕之。そつねんはちじゅう門人もんじんわたし謚曰ぶんせい先生せんせい

鑒,なんじあかりよしみやすしまつねん進士しんしるい官吏かんり稽勛ろうちゅうねん父老ふろうしゃびょうたてまつやしなえ不離ふりがわちち歿久しんなおたからきょうあらため南京なんきんおおとり臚卿,引年乞休。すすむふとし仆卿,致仕ちし。鑒亦ぜんゆうげんしょう其父しゃとげ終身しゅうしんふくさく

楊廉,かたふるえ豐城とよきじんちちたかしながしゅう受業じゅぎょうくれあずか弼門じんえびすきゅう韶。れんうけたまわ家學かがくはや以文ぎょうしょう。舉成まつねん進士しんしあらため庶吉弘治こうじさんねん,授南京なんきんきゅうごとちゅう明年みょうねん京師けいし地震じしん,劾用事ようじ大臣だいじん。五年以災異上六事。いちけいむしろとまやめむべにちれいこうかんさらちょくまちとい,召用言ようげんごと遷謫かん當限とうぎりだい諫及登極とうきょく以後いごさんりょう浙、さんみず患,とまがくがいみやつこよん,召林恬退しょしん,刪法條例じょうれいろくわざわいことさくめん大臣だいじんすえげんぐう大政たいせいむべ大臣だいじんめんきゅうごとしたがえにゅう駁正。みかど頗納。吏部尚書しょうしょおうじょ讒,れん請斥讒邪,為所しどころ惑。ははふく闋,おこりにんけい。請祀薛瑄,讀書どくしょろく》貯國がく明年みょうねん三月有詔以下旬禦經筵。かどごと:「故事こじけいむしろいちがつさん舉,茍以がつおわりおこり以月はつやめのり進講しんこうゆういく?且經むしろけい而後こうつぎいまおそいちにちけいむしろそく輟一旬之日講也。」ほう聞。以父ろうよく便びんやしなえふくあらため南京なんきん兵科へいかちゅうひろとく廷臣ていしんどおりまかないせきげんかん劾賄しゃみかどよくきわむ中止ちゅうしかどりつどうかんりょくそう,竟不納ふのうやめ,請申あかりまつてんいいそう儒周、ほどちょうしゅしたがえまつこれむべきょかんからしょ儒上。闕里びょうとうさら立木たちきぬし大成たいせいほんらくめいごう謚法。みなはてぎょう。遷南京なんきんこう祿ろくしょうきょう正德しょうとくはつ,就改ふとし仆,れきじゅんてんいんどききょうぐんすうくるまどうすう千金せんきんれん請大きょう遞運しょあまりぎんきょうそうめんなつぜいまんせんせきおもんばかしゅうけんたくみみんざいおけとし辦簿,吏無能むのうため奸。いぬい清宮きよみやわざわいごくちん時政ときまさかけしつ,疏留ちゅう明年みょうねん南京なんきんれいみぎさむらいろううえ疏諫みなみじゅんほうみかどちゅう南京なんきんいのち百官ひゃっかんえびすふく朝見ちょうけんかど不可ふか,乞用つねさら謁見えっけんふとびょう,俱報もとむね即位そくい,就遷尚書しょうしょ

れんあずか欽順ぜんためきょけい窮理きゅうりまなべぶん必根《六經りくけい》,禮樂れいがくぜにこくいたりほしれき算數さんすう識其本末ほんまつ學者がくしゃしょうがつみずうみ先生せんせい。嘗以帝王ていおうみち莫切於《大學だいがく》,ためきゅうごとそくじょうげん進講しんこうむべさき大學だいがく衍義》,いたりこれしゅすすむ大學だいがく衍義節略せつりゃく》。みかどゆうみことのりこたえ。疏論大禮たいれい,引程頤、しゅ熹言ためしょう,且言:「こん異議いぎしゃりつおうおさむしかおさむ於考いち,雖欲於濮おうにんぜっ於仁むねこん乃欲ぜっ於孝びょう,此又おさむしょにんげんしゃ。」ほう聞。はち疏乞きゅういたりよしみやすしねんたまもの敕、はせえききゅうおっと廩如せい家居かきょねんそつねんななじゅうよんおく太子たいししょうたもて,謚文つとむ

りゅうかんたかしかん吉水よしみずじん正統せいとうよんねんなり進士しんしかた年少ねんしょうゆるがせ引疾つげひろひのと內艱,ふくじょおわり不出ふしゅつもりもん讀書どくしょもとめ聖賢せいけんこれがく四方しほうらいとい道者どうしゃすわせき嘗不きゅう縣令けんれいりゅうしげるためちく書院しょいん於虎丘山おかやまめい曰「やしなえちゅう」。平居ひらいめしだつあわふく浣衣,翛然自得じとく每日まいにち端坐たんざいちしつたゆようあるすすむつかまつおうまたさくつとむ》、《儉》、《きょう》、《じょよん《箴》,以教其家,りょきょうやくひょうちょ,以教其鄉。かんむりこんさい,悉如《朱子しゅしれい》。ぞくゆう不能ふのう自存じそんしゃしゅうある著述ちょじゅつ,曰:「朱子しゅし及吳文正ふみまさげん尊信そんしんあし矣。ふくなんこと。」あずか弼,其鄰ぐんじん也,ごく推重すいちょう

ぜんゆうまごかなえいおりりょうじん永樂えいらくちゅうため松江まつえ教授きょうじゅ,以孝弟こうてい立教りっきょうこうとく學南がくなん畿,人稱にんしょうためさだこう先生せんせいまたゆうちゅう吉水よしみずじんかんふくごうたにひら先生せんせいざいかんため吉水よしみずさん先生せんせい

うまさとしはく循,三原みはらじんどうさと尚書しょうしょおうじょ家居かきょこうがく著書ちょしょしたがえゆうとく其指授。楊一きよしとくがくせいあずかりょ柟、かんうみぶんだい,曰:「康生こうせい文章ぶんしょううませいりょせい經學けいがくみな天下でんか也。」とうきょうこも入國にゅうこくがくあずか柟及りんおもんばかうまきょう,榆次寇天敘,安陽あんようちぇずくちょうたかしどうけんしんえら日切ひぎり劘於がくめいふるえ都下とか高麗こうらい使者ししゃ慕之,ろく其文以去。れん遭艱,あずかためしやすみなみ使者ししゃいたりもん主事しゅじきよし曰:「せき中馬ちゅうまさとし先生せんせい安在あんざいなにつかまつ也?」其為がい裔所じゅう如此。

正德しょうとくきゅうねん舉進一清かずきよため吏部尚書しょうしょそく擢理稽勛主事しゅじ調しらべ文選ぶんせん,請告おこりこうこう主事しゅじ,偕郎ちゅうちょう衍瑞とう諫南じゅんみことのり跪闕もんつえだつ俸。いくふくつげ教授きょうじゅ生徒せいとしたがえゆうしゃ眾。よしみやすしはつおこり稽勛いん外郎ういろうあずかろうちゅうあまりひろしとうふく闕爭大禮たいれいしたみことのりごくさいつえだつ俸。屢遷こうこうろうちゅう戶部とべろうちゅうそう繹者,せい德時とくどきくびしるべりゅう瑾核天下でんかぞう。瑾敗,落職。いたりそうべんもとめふく當路とうろしゃぞく力持ちからもち不可ふか其事。ねん大計たいけいがい吏,だい學士がくし賈詠、吏部尚書しょうしょ廖幻以私憾欲廣東かんとん副使ふくしこう河南かなん副使ふくししょうおおとり陜西きょうせい副使ふくしからりゅうりょくそう曰:「さんにんとくがくせい名著めいちょ天下でんか,必欲さんにん,請先。」乃止。明年みょうねん大計たいけいきょうかん,黜張すべかつらがくとう吏部ろうちゅう彭澤,そうがく竟取むねとめ南京なんきんどおりせい參議さんぎ,請急きょさんねんおこりこう祿ろくきょういくつげ。閱じゅうねんふくおこり南京なんきんこう祿ろくきょうひろ引年致仕ちしさんじゅうよんねん陜西きょうせい地震じしんあずかつまみな

理學りがくぎょうじゅんあつしきょれい司馬しばひかりしょ》、しゅ熹《いえれい折衷せっちゅうようあずかりょ柟並ためせき中學ちゅうがくしゃしょむねきよしむねりつおくみぎふく天啟てんけいはつつい謚忠けん

こうざいこん山人さんじん。其先ほんせいきょ蘇州そしゅう葑門そうみぞいんごうそうみぞ」。弘治こうじじゅうはちねんなり進士しんしれき南京なんきん刑部おさかべろうちゅう守備しゅびふとかんりゅうろう藉劉瑾勢ちょう甚,あるはんじょうおくほう,莫敢こうしゃこう直行ちょっこうおのれしょ徇。あらため兵部ひょうぶろうちゅううつやましよしみやすしはつおこりため廣東かんとんひさげがく副使ふくしちょうゆうふく闋,江西えにし兵備へいび副使ふくしるい遷國さいしゅふとしつねきょうひろ致仕ちし

こう私淑ししゅくえびすきょひとししゅけいまなべ,而貫通かんつうしょ儒之せつゆうせい。嘗與あまりゆうろんせいりゃく曰:「天地てんちしゃ陰陽いんようぎょう本體ほんたい也,不具ふぐ人物じんぶつせいみな於天しか而人とく其全,ものとく其偏。」また曰:「聖賢せいけんろんせい有二ゆうじ:其一,せいあずかじょうたいげん,此是せい本義ほんぎちょくゆび此理而言。其一,せいあずか習對ごとただしなまためよしせい所以ゆえんとくめいぶた曰天所生しょせいためせいにん所為しょい曰習みみさき儒因『せい相近すけちかいちとげいいせいけん氣質きしつ而言,知人ちじんせい上下じょうげ不可ふか添一ぶつさいちょ氣質きしつ便びんとくいいせい矣。荀子ろん性惡しょうわる楊子ようじろんせい善惡ぜんあくこんかんろんせいゆうさんひん,眾言淆亂,必折ひじりわかいい夫子ふうしせい相近すけちか一言ひとこと正論せいろんせい所以ゆえんとくめいのり前後ぜんごせつみな謬於聖人せいじん,而孟子道しどう性善せいぜんはんためいちへんこれろん矣。孟子もうこみる分明ぶんめいげんちょくとしただしげんせいためなんぶつ荀、楊、かんしょ儒得以其せつらん伊川いがわ一言ひとこと以斷,曰『せいそく也』,のり諸說しょせつみなおさむやぶ矣。」しょちょゆう大學だいがくゆび》、《六書りくしょせい蘊》。そつ,謚恭簡。とうじゅんおうおうでんおうたかししんみな弟子でし也。じゅんゆうでん

おうおうでん昭明しょうめいこん山人さんじん受業じゅぎょう於校,あつこうしゅうあや》,いいしゅうあやそう以後いごえびすひろしほんかく著書ちょしょ指摘してき其瑕釁至すうじゅう萬言まんげん。而余ことぶきおうきよしのり以為《ふゆかん嘗亡,ざつ於五かんちゅう,而更近世きんせいなんたかししんちんおおとり梧、舒芬またかく以己さらじょうしか此皆しょ儒之《しゅうあや》也。覃研じゅうすうさきもとめ聖人せいじんしんさかのぼ斯禮みなもとこう天象てんしょうぶんげんしつらえかん,推五かん離合りごうつな維統たいごくよしあらわ以探ほろよしほそ而繹だいなりしゅうあやでん詁》すうじゅうかん。以為ひゃく世繼よつぎしゅう而治,必出於此。よしみやすしちゅういえ毀於兵燹へいせんりゅうぐう江西えにし泰和やすかず。以其しょ就正ひろしさきひろしさきだいふく翰林かんりんちんあきらせき以師れいごとえびすまつなで江西えにし刊行かんこう於世。

おうでんまたけんきよしがくよりどころせつぶん所載しょさいためなまり謬甚しゃ為之ためゆき訂正ていせいめい曰《經傳けいでんせいなまり》。またちょ同文どうぶん備考びこう》、《書法しょほうゆびよう》、《六義音切貫珠圖》、《ろく相關そうかん》。そつ於泰あきらせきためけい其喪,こんやま

どきゆう如玉しゃどうやす儒生じゅせいまたせい於《しゅうあや》,ためかいようじゅうかんよしみやすし八年詣闕上之,とくむねよしみ獎,たまものかんむりたい

おうたかししん以道,長洲ながすじん江西えにし參議さんぎにわ也。じゅうきゅうためしょせい受業じゅぎょう於校。せい至孝しこうちち疽發おや吮舐。ろうとく瞀眩やましのり於榻よるかいころもほろ聞謦せきごえそく躍起やっきといやすこと繼母けいぼ如事ちちつましつはは歡,入室にゅうしつしゃじゅうさんはつ,受校だま成之しげゆきむね,嘗言議論ぎろん著述ちょじゅつ著述ちょじゅつ躬行きゅうこう居常きょじょうもりこうだん耿定こう聖賢せいけんどく成之しげゆきがくゆかりしょ誘掖ゆうえき弟子でししたがえゆうしゃいたりよんひゃく余人よにん。其學,以慎どくためさき,而指おやちょうさいおくみせきあいだためまきどくほんゆう以標りつ門戶もんこため戒。さとじんとうとためしょうみずうみ先生せんせいまんれきちゅう,以廷臣ていしんこもせい授國博士はかせくだりみことのり以所授官致仕ちしじゅういちねんじゅん按御あまふくこも。吏部以敬しんねんだか,請有ゆうれいみことのりとしはちじゅう而終。

しゅうあきらはりせき,莆田じんなりねん進士しんし知廣ともひろとくしゅう,以善政ぜんせい聞,たまもの敕旌こと。遷南京なんきんれいろうちゅうためなでしゅう調しらべ鎮遠。秩滿,しょうおや弘治こうじはつ,吏部尚書しょうしょおうじょおこりあきら四川しせん參政さんせい久之ひさゆきしんみぎぬのせい使,鹹有ぜん績,ゆう勵清ぶしきゅうごと交章こも大臣だいじんまたあきら,而瑛以母ふくじょとげ引年乞致じんこうそう嘉之よしゆきみことのりしんいちかい正德しょうとく中卒ちゅうそつねんはちじゅうななあきらはじめあずかひねけんじあきらともけんじしょうまなべしゅ於靜。あきらしかこれいいがくとう以居けいためぬしけいそくこころそんしか窮理きゅうり六經りくけいおく,以及天地てんち萬物ばんぶつこうみな不可ふかきゅうせきるいすんでのりのうどおりつらぬけ,而於どう一本いっぽんまた自得じとく矣,所謂いわゆるもとめしょ萬殊而後一本可得也。學者がくしゃしょうみどりみぞ先生せんせいだい謨,とう進士しんしつかまつそつ

はんあなおさむうえおそれじんなりまつ進士しんし。值憲むねくずれこうむね踐阼甫じゅうにちれいかん請衰ふく禦西かくもんごと明日あしたしゃくおとろええきもとつばさぜんかんむり麻衣まいこし绖。みかどもといのちじゅうななにちぎょういたりひゃくにちみかど以大ぎょうひつじそう麻衣まいおとろえ绖如ゆえいんじょう疏請ぎょうさんねん略言りゃくげん:「ためちちしんためくんみなおとろえさんねん仁之ひとしいたりつき也。漢文かんぶんみかどのこみことのりたんとめほっ便びん天下でんか臣民しんみんけいみかどとげくだり使つかい千古綱常一墜不振。すすむたけみかどよくぎょう不能ふのう孝文たかふみぎょう而不つきそうたかしむねするど復古ふっこえきがつそとなおどおりしか不能ふのう推之於下おしたあしため聖王せいおうたち孝也たかや先帝せんてい奄棄四海しかいしん庶銜あい陛下へいか惻恒よし衷,麻衣まいあさひゃくにちあらためもちはい群議ぐんぎだん聖心せいしんさんねん一如いちにょさんだい舊制きゅうせいみことのりれいかん參考さんこうせき使つかいはいれいあさはいせい,勒為彜典,つて子孫しそんあにえら哉。」疏入,おとろえ绖待ざいみことのり輔臣かいれいかんしょうなみ持成もてなしせいくだり

謁選,とく長樂ながらけんきょうみんぎょう朱子しゅしれい》。躬行きゅうこう郊野,ろうといやましにが田夫でんぷ野老ところ鹹謂おやおのれ,就求ひつ劄,輒欣しかあずかこれ。遷南京なんきん兵部ひょうぶ主事しゅじちん軍民ぐんみんびょうななことちちじょ刑部おさかべ。值旱いなごほしへんきた深入ふかいりあなびょうわざわい,疏請內修がい攘,以謹てん戒。またうえすくいじゅうよう。以便やしなえ乞南,あらため南京なんきん兵部ひょうぶ,遷武せんいん外郎ういろう尚書しょうしょぶんます其賢,ちょうはい廣東かんとんひさげがく副使ふくし雲南うんなんひるみそななにちすわえ婦人ふじん須長すながさんすんうえ弭災さんじゅつ。以母ろう乞休,待命たいめい輒歸。やめ而吏尚書しょうしょ楊一清及巡按御史吳華屢薦其學行,おわりおこりよしみやすし改元かいげんげんかん交薦,おこりふとし仆少きょうあらためふとつね致仕ちしすんでへいきょ南山なんざん布衣ふい蔬食,おもんみ發明はつめい經傳けいでん為事しごとときおうまもるじんこうがく其鄉,相去あいさりひゃく,頗有異同いどう。嘗曰:「きょかん本有ほんゆうさんうすたてまつやしなえかどほん也;とお聲色こわいろつとむほん也;讒私,あかりほん也。」また曰:「こもけんとうおもんみおそれ論功ろんこうとうおもんみおそれさき。」ねんななじゅうさんそつ故事こじよんひんとめさい宗重むねしげ孝行こうこうとくみことのりそう

ちぇずくかね安陽あんようじんちちますかん參政さんせいずく舉弘じゅうはちねん進士しんしせん庶吉,授編修へんしゅうあずかおさむこうむね實錄じつろく》,あずかどうかんぶとかんりゅう瑾,どくちょう揖不はいゆかり忤瑾。しょなりため南京なんきん吏部主事しゅじ。瑾敗,召復かんたかしけいむしろこうかんしん侍讀じどく。引疾さくみぞ書屋しょおく讀書どくしょこうがく其中。むね即位そくい,擢南きょう國子くにこかんさいしゅよしみやすしさんねんしゅう大禮たいれいひさしけつだい學士がくし蔣冕、尚書しょうしょひろししゅん俱以執くらい,其他擯斥ひんせきつえ戍者しょうもち,而張すべかつらがくとう貴顯きけん用事ようじずくじょう疏求,且劾すべがくとう曰:「しんきわむかんしゃ,其文そくおう修之のぶゆきつばあまり,其情そくうけたまわもちひびきもとめかちやめ。悍者危法以激怒げきどやわらしゃ甘言かんげん以動聽。有元ありもといさお碩德せきとく,而遽以官しょうとく毋使僥幸かかとせっいたりあずかしん天子てんしとく四海歡心以事其親,未聞みもん僅得いちにんしんしゃ也。しょうてきあきら其私昵而やめおっと守道もちためちゅう忠則ただのりぎゃくむねまれうまためよこしまよこしまそくほとりどうこんちゅうしゃ疏,而邪しゃとみいちよこしまらんくにきょう使とみ哉!」みかどらんえつれいずく致仕ちし。閱じゅうねんようこもおこりしょう詹事けん侍讀じどく學士がくし,擢南京なんきんれいみぎさむらいろういくやましさくふく致仕ちしそつおくれい尚書しょうしょ,謚文さと

ずくしょうけいしゅんこう飲酒いんしゅつきすう不亂ふらんちゅうとし厲於がく言動げんどうみなゆうそく。嘗曰:「まなぶざいしんいさおざいまきどう。」また曰:「孟子もうし所謂いわゆる良知良能りょうちりょうのうしゃしんもちい也。あいおやけいちょうせいほん也。わか良能りょうのう,而獨挈良知りょうち霸儒也。」また嘗作《せいじゅうへん,其《ついで》曰:「さんだい而上,なみ封建ほうけん,其民かたみちえきぎょうさんだい而下,阡陌こおりけん,其民みちなんなりきょう沿而趨至今日きょう乎。しか人心じんしんどるけい乎主これしゃ而已。」凡篇ちゅうしょ論說ろんせつ,悉仿此意。ゆう其書,

なに瑭,いきおっとたけのぼるじんとしななさいゆう佛像ぶつぞう抗言こうげん請去じゅうきゅう讀許衡、薛瑄遺書いしょ,輒欣然きんぜん忘寢しょく弘治こうじじゅうねんなり進士しんしせん庶吉かくためし克己こっきふくれいためじんろん》,ゆう曰:「仁者じんしゃにん也。れいそくじん元氣げんき而已,のりおかせ於風さむあつしめしゃ也。ひとのう無為むい邪氣じゃきしょしょうのりもとしょふく元年がんねんふく而其じんなり矣。」宿學しゅくがく推服すいふく焉。りゅう瑾竊せい,一日贈翰林川扇,ゆうにゅう拜見はいけんしゃ。瑭時かんおさむせんどくちょう揖。瑾怒,以贈。受贈じゅぞうしゃふくはいしゃ,瑭正しょく曰:「なに仆仆也!」瑾大いかつめ其姓めい。瑭直おう曰:「おさむせんなん瑭。」不為ふため瑾所よう,乃累疏致仕ちしこう瑾誅,ふくかん。以經むしろさわ忌諱きき,謫開しゅうどうおさむりょうおかつつみしげる,擢東あきらどう,乞歸。よしみやすしはつおこり山西さんせいひさげがく副使ふくし,以父赴。ふく闋,おこりひさげがく浙江せっこうあつしほんなお士氣しき丕變。いくすすむみなみ京太きょうたつねしょうきょうあずかたたえ若水わかみずとう修明のぶあきふとしがくほう學者がくしゃ翕然きゅうぜん宗之むねゆきれきこうれいさんさむらいろうすすむ南京なんきんみぎいく致仕ちし

おうまもるじん以道學名がくめい於時,瑭獨だま如。嘗言りくきゅうふち、楊簡まなべ流入りゅうにゅう禪宗ぜんしゅう充塞じゅうそく仁義じんぎ後學こうがくとくゆうなつ十一といち,而議ろんそくかお、曾,此吾どうだいがい也。うらきょじゅうねん教子きょうこせい孝弟こうてい忠信ちゅうしん一介いっかい必嚴。りょうしんみなあい毀。こう謚文じょうところちょ陰陽いんようりつりょ》、《儒學じゅがく管見かんけん》、《かしわひとししゅうじゅうかんみなぎょう於世。

からはくもとひとしきょうきよし海人あままんれきねん進士しんしれきまんねん泰和やすかずけんなみゆうめぐみせい民生みんせいほこら。遷南京なんきん戶部とべ主事しゅじしんろうちゅうはくもと受業じゅぎょう永豐ながとよりょなつけ,踐履篤實とくじつ,而深やましおうまもるじん新說しんせつ。及守じんしたがえまつぶんびょううえ疏爭よし請黜りくきゅうふち,而躋ゆうわか及周、ほどちょうしゅ五子於十哲之列,まつ欽順、あきら懋、りょ柟、こうりょなつけ、蔡清、ひろしさきおううしとら於鄉。疏方下部かぶ,旋為南京なんきんきゅうごとちゅうかね宇淳しょ駁,はくもと謫海しゅう判官ほうがん。屢遷なおたからつかさすすむ。吏部尚書しょうしょ楊巍みやびもりじんがくこころぜんはくもとぜん疏,ようため吏部いん外郎ういろうれきこうこう文選ぶんせんろうちゅう尚書しょうしょまご丕揚きよししん吏治,つと苴不及其もん。秩滿,推太つねしょうきょうとくいのちとき吏部推補しょ疏皆とめちゅうはくもとげん:「賢愚けんぐどうとどこお朝野あさの咨嗟,ゆかりしんなずらえ不當ふとうしょ致,乞賜やめ斥。」みかど懌,とくまこと其去,而諸疏仍とめしたきょねん,甄別吏部しょろうみかど識伯元名もとないのちあらため南京なんきん,而伯もとやめまえそつはくもとしんあわうすにんしょ不堪ふかんあまこれ如,ためみね海士あもう大夫たいふ儀表ぎひょう

じゅん耀,蘊生,よしみじょうじんためしょせいふかやまし舉文浮靡いんうらら,乃原本げんぽん六經りくけい》,いち典雅てんが名士めいしそうつとむごえどくあわばくあまことせい逐。たかしただしじゅうろくねんなり進士しんしかえりえきけん經籍けいせき,缊袍糲食,蕭然しょうぜんいちしつ京師けいしおちいぶく王立おうりつ南都なんとしょ進士しんし悉授かんあつし耀獨赴選。及南都なんとほろびよしみていまたやぶ。愾然ふとしいき,偕弟ふち耀入そうしゃはた自盡じじんそう曰:「おおやけふくかん無死むし。」あつし耀曰:「しろほろびあずかほろびあに出處しゅっしょ貳心ふたごころ。」乃索ひつしょ曰:「弘光ひろみつ元年がんねんなながつじゅうよんにち進士しんしじゅん耀自さい城西じょうさいそうしゃ嗚呼ああすすむ不能ふのうせんりょく王朝おうちょう退すさ不能ふのうきよしかくれ讀書どくしょ寡益,がくどうなり,耿耿寐,此心而已。」とげあずかふち耀相たい縊死いしねんよんじゅうゆういち

じゅん耀弱冠じゃっかんそくちょかんろく》、《ろく》,ゆう聖賢せいけんこれがくこうためれきひる所為しょいよる必書。凡語げん得失とくしつ念慮ねんりょじゅんざつ備識,よう自省じせいあらためばん而充養和ようわいき造詣ぞうけいえきふかところ作詩さくし古文こぶん,悉軌さきただし卓然たくぜん名家めいかゆうとうあんしゅうじゅうかん。其門じんわたし謚之曰貞ぶんふち耀,えらきょうしょせい好學こうがくあつしぎょう如其けい

ほん清朝せいちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう領域りょういきいんため作者さくしゃ逝世やめけい超過ちょうか100ねん

Public domainPublic domainfalsefalse