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清史稿/卷482 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

清史きよし稿こう/まき482

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列傳れつでんひゃくろくじゅうきゅう

儒林さん

うまはじめみずたつ まごさんしゅん ちょうめぐみげんなりまご うけたまわこれ 郝懿ぎょう ちんひさしたかしもみ しゃふるえ なんうん まご經世けいせい 柯蘅 もと宗彦むねひこ りょおおとり沈夢らん そう いむひとしいむもとあきら こげ廷琥 顧鳳 鍾懷 鍾泗 とみまごあにちょうまご おとうとぐうまご えびすうけたまわえびす秉虔 しゅ しのげあけぼの薛傳ひとし りゅう逢祿そうしょうおおとり 戴望 かみなりがくおうかやよわい ちぇじゅつ えびすつちかえ楊大堉 りゅうぶん毓崧 まごことぶきかたさる ちょうおう筠 曾釗はやしはくきり 黼平 やなぎきょうおんおとうとさかえむね もとかつらりん 鍾文烝 うめ ちんほうやすし こう かつらぶん ていちん鄒漢くん おう りゅうたからくすのききょう りゅうあきらみずなえ夔 龐大堃 ちんたて ひねきむみさご しきさん以周 兪樾ちょうぶんとら おう闓運 おうさきけん まご詒讓 ていそうしょます ほうえらどう

うまはじめ

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うまはじめ槤,きりじょうじんよし舉人かんひがしりゅうけん教諭きょうゆよしみけいろくねんなり進士しんしまたいちねんそつしょうしたがえしゅうと姚鼐がく古文こぶん所作しょさ沉博ぜっうららすんで而精どおり古訓こくん及地理之まさゆきがく。鄕舉,以解論語ろんごくらいますどうごう於古せいだいきょうしゅ珪亟拔之。したがえ邵晉涵、にんだい椿つばきおうねんまごゆう,其學えきしん。嘗以かいけい必先どおり訓詁くんこ,而載せききょくはくゆう匯成いち編者へんしゃ,乃偕同志どうしまごぼし衍、阮元、しゅすずかのえぶんいんへんろくてきみなみ旋中輟。其後もと視學しがくこう、浙,萃諸めい宿やどため經籍けいせき篡詁,其凡れいなおそう槤所しゅてい也。生平おいだいらあつし,寡嗜好しこうおもんみ著述ちょじゅつためらく。嘗撰ひだり補註ほちゅうさんかんひろしちょうかんしょ儒之せつ苟同りつことところちょべつ有毛ありげてい詁訓考證こうしょうしゅうあやていちゅううとしょうこくりょうつたえうとしょうせつ文字もじ義廣よしひろしょう戰國せんごくさく地理ちりかんがえ南海なんかいうつりん合浦がつぽ蒼梧そうごよんぐん沿革えんかくかんがえみねみなみ詩鈔ししょうきょうすうじゅうかんこう經堂きょうどう詩鈔ししょうかん

そう槤子 みずたつ

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みずたつもとはくよしみけいじゅうねん進士しんしせん翰林院かんりんいん庶吉かんあらためこう營繕えいぜん主事しゅじ。擢郎ちゅういんごと罣誤,はつもりきょう效力こうりょく。旋賞主事しゅじそうとめこういん外郎ういろう。复坐ごとはつ黑龍江こくりゅうこういくしゃくれきぬし江西えにししろ鹿しかほら山東さんとう嶧山、安徽あんきいおり書院しょいんこうせきはつぎゃくおちいきりじょうしゅうおどろきはしぞくおびえくだみずたつ大言たいげん曰:「われぜん翰林院かんりんいん庶吉こうすいいん外郎ういろうみず辰也たつやわれいのちだんねり鄕兵,いま仲子なかこ少子しょうし從軍じゅうぐんわれあにくだぞくしゃ耶?」ぞく其發爇其而擁これぎょうくだりすうののしいよいよ厲,とげねんななじゅうきゅうこと聞,卹廕如例,敕建せんほこら

みずたつ勤學きんがく著書ちょしょほけ而不倦。嘗謂:「ひとし、魯、かんさんいえすんでほろびせつしゃ以毛ため最古さいこよりどころていこころざしこたえちょういつうん:'ちゅう詩宗しそうためぬしもうよしかくれりゃくのりさら表明ひょうめい。'ていくんだいむねほん以述,其牋あらため讀,つきえきでん。而正義せいぎあるあやま以爲てい異義いぎていくんさきしたがえちょうきょう受韓,凡牋くんしゃほんかんせつ。其答ちょういつまたうん:'如有不同ふどうそくおのれ。'而正義せいぎまたあるあやまごうでん、牋爲いちもうよう古文こぶん,其經假借かしゃくるいみなほん於雙ごえ疊韻じょういん,而正義せいぎある有未ゆみたち。」於是乃撰でん牋通しゃくさんじゅうかん,以さんいえべん異同いどう,以全けいあかり其義れい,以古おんしょう其譌互,以雙ごえ疊韻じょういんべつ其通あつしもり家法かほうよりどころどおりふか同時どうじ長洲ながすひね奐著でんうとまたためせんもんこれがくよししゃ推此兩家りょうけこれしょ

みず辰子たつこ さんしゅん

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さんしゅんいのちゆうみつぎせい。舉孝れん方正ほうせいがくむねほどしゅ。以國なんかたきいきどおほしころせぞく。咸豐よんねんろくがつりつねりいさむついぞくいたりしゅう瑜城,力戰りきせんねんさんじゅうしる有馬ありましるしくんのこしゅう

ちょうめぐみげん

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ちょうめぐみげん皋聞,たけすすむじんしょう受易けいそくどおり大義たいぎとしじゅうよんため童子どうじ修學しゅうがくりつぎょうあつしれいもりにんみなしょうけいよしみけいよんねん進士しんし大學だいがくしゅ珪爲吏部尚書しょうしょ,以惠げんがくぎょうとくそうあらため庶吉充實じゅうじつろくかん纂修かんろくねんかんあらためぞく,珪复とくそう翰林院かんりんいん編修へんしゅうななねんそつねんよんじゅうゆう

めぐみげん鄕、かいりょうためしみなしゅ珪門,嘗以しょのうこと默然もくぜんずいぐん弟子でし進退しんたい而已。珪潛察得のり大喜だいぎ屢進たち,而惠ごとまた龂龂しょういさかい敢隱。珪言天子てんしとう以寬だいとくみんめぐみ言言げんげん:「國家こっかうけたまわひらひゃく年餘ねんよいたりじん涵育,遠出とおでかんとうそううえ,吏民習於寬大かんだいかん萌芽ほうが其間,むべ大伸たいしんばつ以肅内外ないがいせい。」珪言天子てんしとう優有ゆうゆ大臣だいじんめぐみ言言げんげん:「いさお猥之やからこう致通あらわ,复壞朝廷ちょうてい法度はっと,惜全とうなん所用しょよう?」珪喜しん淹雅めぐみ言言げんげんとうすすむないかん外治そとじ疆埸しゃ」,あずかどうけんひろし亮吉りょうきち於廣すわいさかい

めぐみげんしょうためなずらえ司馬しばしょう如、あげゆうぶん。及壯,またまなべかんいよいよおうおさむ篆書てんしょ初學しょがくよう冰,後學こうがくかんいしぶみがく及石ぶん。嘗奉いのちまいもりきょう篆列せい尊號そんごうだまたからめぐみ言言げんげん當事とうじいいきゅうぞうたからとくすりまたいい翰林かんりんたてまついのち篆列せいたからむべ奏請そうせいはせえき,以格於例はてぎょう

生平おいだいらせいおもえぜっじん,嘗從歙金榜問,其學ようろくけい,而尤ふかえきれいしるゆうしゅうえきおそれおそれ消息しょうそくじょ曰:「かんなりみかどりゅうこうこうしょこうえきせつ,以爲しょえきみなでんなに、楊叔、ちょう將軍しょうぐん大義たいぎりゃくどうおもんみきょうためこと。而孟受易陰陽いんよう,其説えきほん於氣,而後以人事じんじあかり八卦はっけろくじゅうよんぞうよんせいななじゅうこう變通へんつう消息しょうそくしょ祖述そじゅつ,莫能とうかんねん,扶風うまとおるさくえきでん,授鄭康成やすなりさくえきちゅう。而荊しゅうまきりゅうひょうかい太守たいしゅおうあきら、潁川荀爽、南陽なんようそうただしみな以易名家めいかかくゆうしょじゅつただこぼしでんはじめがくすんでさくえきちゅう奏上そうじょうけんじみかどこぼしげんえき,以陰消息しょうそくろく爻,發揮はっきつくりどおりしょうくだ上下じょうげかえり於乾もとようきゅう而天ものるいつらぬけ穿ほじはじめわか瑣碎,及其沉深かい剝,はなれ暢茂のぶしげ條理じょうりとげ於大おだいどう儒罕のうどおりおう弼以虚空こくうげんかいえきとうりつまなべかん,而漢しょ儒之せつほろどくしゅうかなえ祚作しゅうえきしゅうかい,頗採えきげん,而翻ちゅうため。其後古書こしょつきほろび,而宋道士どうしひね摶以づくりためりゅう,其徒りゅうまき以爲えきかわらくしょ也,河南かなん邵雍またため先天せんてん後天こうてんそうせつ易者えきしゃ翕然きゅうぜん宗之むねゆき,以至於今,ろう不可ふか拔,而易陰陽いんよう大義たいぎぶたつきみそ矣。だいせいゆう天下でんか元和がんわちょうめぐみとうはじめ考古こうこはじめきょう、荀、ていおそれさくえき漢學かんがくまたため解釋かいしゃく,曰周えきじゅつしか掇拾於亡はいこれ左右さゆうじゅうさん。其所じゅつだい氐宗祢虞,而未のうつきどおりのりつくりちょうせつ以合ぶたしたがえとうだいそうもとあきらくち散亂さんらんせん有餘ゆうよねん區區まちまち修補しゅうほ收拾しゅうしゅうよく一旦而其道復明,斯固なん也。こぼしまなべすんで邃,またてい、荀、そうしょこう其是いな其義ためせいまた古書こしょほろび,而漢、せつしゃじゅういえしかただてい、荀、おそれ三家略有梗概可指説,而虞ゆう較備。しかのりもとめななじゅうほろげんなに、楊叔、ちょう將軍しょうぐん所傳しょでんしゃしゃおそれちゅう,其何しょ焉?もとめ其條つらぬけあきら其統れいしゃく其疑とどこおしん其亡闕,ためおそれきゅうかんまたおもて其大むねため消息しょうそくかん。」またしるゆうおそれえきれいかんおそれえきこういちかんおそれえきげんかん

はつめぐみとうさくしゅうえきじゅつだいむね遵虞こぼし以鄭、荀諸儒,學者がくしゃ以未のうせんいちしょうこれちょう阮元いいかんじんえきはじめ諸家しょかかくゆう師承ししょういきおい不能ふのうあいめぐみ言傳ことづておそれえきそくつてかんはじめえき矣,けいぜっがく也。めぐみげんまたしるしゅうえきていさんかんしゅうえき荀氏きゅういえいちかんしゅうえきてい荀義さんかんえきべつろくじゅうよんかんえきぬきりゃくさんかんえきじょうべんかん。其易べつろくじょいい不盡ふじん其辭而欲ろん是非ぜひなお以偏げんけつごく也。其所ちょみなおそれ易者えきしゃ。於禮ゆう儀禮ぎれいいちかん,讀儀禮ぎれいかんみなとくせいしんまたゆう茗柯ぶんかんいちかん

めぐみげん なりまご

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なりまご彦惟。少時しょうじめぐみげん以説ぶんれいぶん六書りくしょなりぞうがたかんめぐみげんちょせつぶん諧聲かいせい竟而そつなりまごしたがえそうじゅつゆうとく大要たいよう,乃續成之しげゆきまきだいへんれいしょぞうえき,凡五じゅうかん。其書ぶんちゅう、僮、薨、はやしいわかたみさかえ、蓁、詵、せん、萋、肄、揖、ささえかわいとばと、芼、蔞、そわじゅう,此乃於毛ちゅうひね其最さきためけんくび以易いんこごめいん,而又以説ぶんこえぶんしたがえこれ,犁然紊,ゆうかく家所いえどころ及者。嘗以しめせちょう阮元,もと歎其ちょうたく精細せいさいなりまごけんせいてんがくどうさとただしゆうまこと歿,ためこうかん其遺しょまたしるゆうはしきょつとむいちきょ文集ぶんしゅう

うけたまわこれ

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こううけたまわこれあんはじめ,歙縣じんがく於惠ごととき弟子でししたがえめぐみげん受易、禮者れいしゃじゅうすう,其甥ただしすず受易,つう陰陽いんようぎょうげんうけたまわこれけん受易、れいしるゆうしゅうえき爻義、おそれやすへんひょう儀禮ぎれい名物めいぶつていねんじゅうゆうはち

郝懿ぎょう

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郝懿ぎょうまこときゅう,棲霞じんよしみけいよんねん進士しんし,授戸主事しゅじじゅうねん江南こうなんつかさ主事しゅじみちこうさんねんそつねんろくじゅうきゅう

行爲こういじんけん退すさ,訥若出口でぐちしかもりかどかいけいあずかひとすすむせっぐうもと知者ちしゃ相對そうたい竟日いち,迨談ろんけいよしのり喋喋ちょうちょう忘倦。ところきょよんかべ蕭然しょうぜんにわいんよもぎ蒿常滿まん,僮僕不備ふび,懿行しょ晏如あんじょ。浮沉ろうしょかんさかえせがれわかあずか於己しゃ,而一肆力於著述ちょじゅつしもよんしゃよんじゅうねんところちょゆうしか雅義まさよしうとじゅうきゅうかん春秋しゅんじゅうせつりゃくじゅうかん春秋しゅんじゅういちかん山海さんかいけい牋疎じゅうはちかんえきせつじゅうかんしょせつかん

懿行嘗曰:「邵晉涵爾まさ正義まさよし蒐輯較廣,しか聲音こわね訓詁くんこはらなお壅閡,發明はつめいいまさくうと,於字こえてんしょしげるころせ,殆欲あかり其所以然。」また曰:「餘田はぐりきょぐう草木くさきむしぎょゆうどる知者ちしゃ,必詢其名,しょう察其がたこう古書こしょ,以徴其然こん茲疎ちゅう其異於舊せつしゃみなけいけん憑胸肊,此餘しょ所以ゆえんべつ乎邵也。」懿行於爾みやびようりょくさいひさわら凡數えきたれ歿而なり。於古訓こくんどうこと名物めいぶつ疑似ぎじ,必詳辨論べんろん疎通そつう證明しょうめいところづくり較晉涵爲ふか。髙郵おうねんまご爲之ためゆきてん閲,よせちょう阮元刊行かんこうもと總裁そうさいかいためししたがえけいちゅう識拔懿行しゃ也。

其牋うと山海やまみけい援引えんいんかくせき正名まさなべんぶつことかんうと謬,やめ雅馴がじゅん。阮元いいひろちゅうちょう引雖はくしつ蕪雜ぶざつ;畢沅校本こうほん訂正ていせい文字もじひさし疎略そりゃくおもんみ懿行せい而不鑿,ひろし而不濫。

懿行つまおうあきらえんみずだまひろしわたるけい當時とうじ著書ちょしょゆう「髙郵おう父子ふし,棲霞郝夫婦ふうふこれしるゆうせついちかんれつおんなでん補註ほちゅうはちかんおんなろくいちかんおんなこういちかんまたあずか懿行以詩こたえとえ,懿行ろくためといななかん,其爾雅義まさよしうとまた間取まどりあきらえんせつちょゆう詩經しきょう拾遺しゅういいちかん,汲冢しゅうしょ輯要いちかんたけしょ紀年きねん校正こうせいじゅうよんかん,荀子補註ほちゅういちかんすすむそうしょいちかんすすむしょ刑法けいほうこころざしいちかんしょく貨志いちかん文集ぶんしゅうじゅうかんあきらえんまたゆうれつせんでん校正こうせいかん

ちんひさし

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ちんひさしきょうはじめ閩縣ひとしょう能文のうぶんとしじゅうはち臺灣たいわんひらめせんうえぶくやすしやすひゃくいん并序,沉博ぜっうららつていちよしみけいよんねんなり進士しんしせん翰林院かんりんいん庶吉かん編修へんしゅうひろつげせい至孝しこうにんげんつかまついえまずし​​しょくちちいのちいりきゅうねんたかし廣東かんとん鄕試ふくこうかんじゅうねんたかし河南かなん鄕試ふくこうかんじゅうよんねんたかしかいこころみどうこうかんきょう一等いっとう記名きめいことぶき以不とくむかいよう二親ふたおやつね愀然らくはたつげ矣,にわか聞父歿,慟幾ぜっ,奔歸。ふくじょ,乞養はははは歿,おわりとしじゅうさんゆうみつこも於朝しゃそつ不出ふしゅつ

ことぶきかいためししゅ阮元もん,乃專ためかん儒之がくまた及見ぜにだいだんだまさいおうねんまごほどよう諸人もろびとがくえきせいはくかいけいとくりょうかん大義たいぎまいいち,輒有折衷せっちゅう

りょうかんけい莫先於ふくせい,莫備於もとていことぶき闡明せんめい遺書いしょちょ尚書しょうしょ大傳だいでんさんかんじょろくいちかんていあやまいちかん漢書かんしょぎょうこころざしつづり以他しょしょりゅうぎょうでんろんさんかんじょ曰:「ふくせい大傳だいでんじょうせん大義たいぎいんけいぞく恉,其文辭ぶんじしかみやび深厚しんこう最近さいきんだいしょう戴記ななじゅう所説しょせつかんしょ儒傳くんこれしょのう及也。康成やすなりひゃくせい儒宗,どくちゅう大傳だいでん,其釋さんれいまい援引えんいん。及注古文こぶん尚書しょうしょひろしはんことかん誥孟こうぶんおうたかし、愬耆とししゅうこうかついん、踐奄これねん,咸據大傳だいでん以明ごとあに閎識はく通信つうしん舊聞きゅうぶんしゃ哉?且夫ふくせいこれがくゆうぜん於禮,其言じゅんかりあさ覲、郊屍、むかいにちびょうさいぞくつばめもんじゅく學校がっこう養老ようろうみつぎこう績、郊遂、ぼうどうみちこれせい夫人ふじんにゅう禦,太子たいしむかえとい諸侯しょこうほうさんせいすべふくいろななはじめもとはちはくらくみなとうおそれさんだい遺文いぶん往往おうおう六經りくけいしょ不備ふび諸子しょしひゃくいえしょしょうこん其書散逸さんいつじゅうよんゆうたからしげるそう朱子しゅしあずかつとむとき儀禮ぎれい經傳けいでんどおりかい,攟摭大傳だいでんどくしょうぶたゆう裨禮がくきょ也。ぎょうでんしゃなつこうはじめあきらいたりりゅう父子ふしでんみなぜんぶくちょ天人てんにんおうかん儒治けい,莫不明ふめいぞうすう陰陽いんよう,以窮極性きょくせいいのちえきゆうはじめきょうこうゆうつばさたてまつさいよう春秋しゅんじゅうゆうおおやけひつじわざわいこれじょうしょゆうなつこうりゅうもとしょうひろひろし範之のりゆきろんはんかたほん大傳だいでん,攬なかべつむかい,以傳春秋しゅんじゅうつげ往知らい王事おうじひょう不可ふかはい也。以録漢書かんしょぎょうこころざし於後,以備一家いっかまなべうん。」

またしる五經ごきょう異義いぎうとしょうさんかん左海さかいけいべんかん左海さかい文集ぶんしゅうじゅうかん左海さかい駢體ぶんかん絳趺どう詩集ししゅうろくかんひがしえつ儒林文苑ぶんえんでんかんひがしかんそんわらいちかん

ことぶき阮元のべ詁經精舍しょうじゃ生徒せいともと纂群けいためけい郛,ことぶきためせん條例じょうれいあきら所以ゆえん原本げんぽん訓辭くんじかいどおり典禮てんれいそん家法かほう而析異同いどうこうぬし泉州せんしゅうせいはじめ書院しょいんじゅうねんあるじ鼇峰書院しょいんじゅういちねんあずかしょなまげん修身しゅうしん勵學,きょう以經じゅつさく義利よしとしべんはじせつ舉論以示學者がくしゃ規約きやくせい肅,はつ久乃ひさの悅服えっぷく家居かきょあずかしょ當事とうじしょ,於桑あずさとしへい,蒿目痗心,雖觸忌諱ききしょかくれあきら黃道こうどうしゅうちゅうぜっがくことぶきさがせ遺文いぶん爲之ためゆき刊行かんこうまたていだい吏,乞疎請從まつあなびょうじょう,如所請。みちこうじゅうよんねんそつねんろくじゅうよん

ことぶき祺子 たかしもみ

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たかしもみしらきえんみちこうねん舉人,じゅうよんねん,以大挑知けんぶんはつ江西えにしれきかんぶんよろし弋陽德化とっか南城なんじょうしょけんしょ袁州臨江なでしゅう。以經じゅつかざり吏治,きょ官有かんゆうごえどうななねんそつ於官,ねんろくじゅういちはつことぶき以鄭ちゅうれいあらため讀,また嘗鉤こうひとしかんさんいえ佚文いつぶん、佚義あずかもう異同いどうしゃ,輯而就。やまいかわいいたかしもみ曰:「しか好漢こうかんがくけいほう他日たじつ能成よしなりわれこころざしきゅうはら憾矣!」たかしもみ舊聞きゅうぶん,勒爲定本ていほんなりれいてい讀考ろくかん三家詩遺説考じゅうかんまたしるひとしつばさがくうとしょうかんぬきしゅうしょうよんかんいいひとしまなべ宗旨しゅうし有三ゆうぞう:曰四はじめ,曰五ぎわ,曰ろくじょうみな以明天地てんち陰陽いんよう終始しゅうしこれこう人事じんじ盛衰せいすい得失とくしつはらげん王道おうどう治亂ちらん安危あんきひとしさきほろびさいため寡證,どくつばさたてまつそんひゃくいち,且其せつぬき,察躔ぞう,推歴すうしるしきゅうとがめぶたひとしがくしょほん也。ぬきほろび而齊とげためぜっがく矣。またしるこんぶん尚書しょうしょけいせつこうさんじゅうよんかんおうなつこうけいせつこういちかんいい:「じゅうきゅうへんいま文具ぶんぐそんじゅう六篇既無今文可考,とげ莫能つきどおり其義。凡古文こぶんえきしょれい論語ろんごこうけい所以ゆえんでん,悉由こんぶんため先驅さきがけこんぶんしょ輒廢。こうほろふくせいのり萬古ばんこ長夜ちょうや矣。おう大小だいしょうなつこうかくもりほう,苟能とく其單へんよし,以尋せんひゃくねんつていとぐちのりこんぶん維持いじせいけい於不墜者,あにあさ尟哉!」またゆう詩經しきょう四家異文考五巻,もうてい牋改せつよんかんれいどうけいせつかん最後さいごため尚書しょうしょせつとき宿學しゅくがくややかぶらこうよりどころため訾謷,どく湘鄕曾國籓見其書以爲でんもと和惠かずえ、髙郵おうがいおもんみたかしもみのうおさむぎょうちょうだい其家ほう

ことぶき祺同里治さとはる古學こがくしゃゆうしゃふるえなにうん

しゃふるえ

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ふるえ原名げんめいざいふるえ甸男,ほうかんじんいぬいたかしじゅうよんねん舉人,かんじゅんあきらがく教諭きょうゆふるえ嘗與閩縣りんいちかつら、甌寧まんせい倶精さんれいふるえゆう篤學とくがく嗜古。しか龂龂漢學かんがくこう排撃はいげきそう儒鑿そら逃虚せつことぶき祺與ふるえどう舉鄕こころみしょうふるえろくさいため畏友いゆうふるえじゅうよしみ有志ゆうしよう,而不ぐう於時,ねんよんじゅうそつ弟子でし輯其遺著いちょ有禮ありのりあんかんせい覈勝敖氏。またゆう四書ししょしょういちかん四聖しせい年譜ねんぷいちかんこうゆう櫻桃おうとうのき詩集ししゅうかん

なんうん

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うんささえ阝海,閩縣じんよしみけいじゅうねん舉人。ひろし聞彊識,篤志とくし漢學かんがく。粵督阮元嘗聘纂廣東通ひがしどおりこころざしこうゆう浙中,じゅんなでちんわか霖爲鋟其けいかい論辨ろんべん文字もじよんかんめいなんがくみちこう元年がんねんそつねんよんじゅうななうんあずかことぶき祺友,及卒,ことぶき祺以いいあずかためしつ以輔なり其學也。

まご經世けいせい

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まご經世けいせいずみこうめぐみやすじんことぶき弟子でしことぶき祺課不一ふいつかくゆう其門しゃわか仙遊せんゆうおうとしみなみれい春秋しゅんじゅうもろすすむこうもり彦士小學しょうがくめぐみやすひね金城きんじょうかんえきはたらくはりぶんせいたてやすしちょうなんじきょう德化とっかよりゆき其煐、たてようちょうぎわあきら文辭ぶんじみなあし名家めいか。而經世けいせいがくなりのみせい以儒りん推之。經世けいせいしょう讀近おもえろく沉研けいよしいい不通ふつう經學けいがく以爲理學りがく不明ふめい訓詁くんこ以通けい不知ふち聲音こわね文字もじはら以明訓詁くんこちょせつぶんかいどおりじゅうろくかんしかみやびおとうとろくかんしゃくぶんべんしょうじゅうよんかんいんがく溯源さくげんよんかんじゅう三經正讀定本八十巻,經傳けいでんしゃく續編ぞくへんはちかんまたちょ春秋しゅんじゅうれいべんはちかんこうけいせつかんなつ小正おばさせついちかんいんていかん,惕齋けいせつろくかん讀經どきょうこうよんかん

柯蘅

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柯蘅,にかわしゅうじんしたがえことぶき祺受もとていまなべ,嘗以かん諸表しょひょうためつて綱領こうりょう,而譌誤ますだつさいため難治なんじ,乃條而理ちょ漢書かんしょななひょうこうじゅうかんためれいじゅう:一曰辨事誤,二曰辨文字誤,三曰辨注誤,四曰辨諸家考證之誤,五曰以本書證本書之誤,ろく曰史、かん互證而知其誤,なな曰漢しょ、荀紀互證而知其誤,はち曰漢しょみずけい註互しょう而知其誤,きゅう曰據つて以補ひょう闕,十曰據今地以證表之誤。かぎ稽隱賾,凡前じんせつみな而辨其是非ぜひいたり前人ぜんじん及者,またさんじゅうことまたせんもんまなべ也。ゆうちょう於詩,ちょゆうごえ闡微かんきゅうあめ草堂そうどう詩集ししゅうよんかん,其説經せっきょうせつさく門人もんじんしゅうためきゅうあめ草堂そうどうさつ

もと宗彦むねひこ

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もと宗彦むねひこせききょうとく淸人きよひときゅうさいのう讀經どきょうぜんぞくぶんさむらいろうおうあきらあい其才,さくせききょうせつ以贈。よしみけいよんねん進士しんし,授兵主事しゅじ,就官兩月わち,以親ろう遽引やましおや歿,そつ不出ふしゅつきょ杭州こうしゅうもりもん讀書どくしょ爲事しごと。其學しょ不通ふつうさがせ賾索かくれ,識力卓然たくぜんはつせんねん儒者じゅしゃしょ未發みはつこうしゅうびょう祧,以爲しゅうせいびょうそとべつゆう祧,ため遷廟ころせ,以厚おやおやじん宗廟そうびょうそとべつりつ祖宗そそうあずか禘、郊同爲重ためしげさい,以大みことみことしょけい無文むもんびょう毀之せつあやまはじめ於韋げんなり,而劉歆因てい康成やすなりまたいん。祧者遷廟,乃謂ため遷之びょう名實めいじつ乖矣。またこうぶんせいしつ,以爲しゅうぶんたけみなはい於明どうたいしつゆうぶんたけしつこれごうあな穎達あやまいいはく禽稱「ぶんしつ」,しゅう公稱こうしょうたけしつ」。以公ひつじでんしゅう公稱こうしょうふとしびょう」、魯公稱こうしょうしつ」、ぐん公稱こうしょうみやしょうます甚。

またこう禹貢三江みえ,以爲かんこころざしごとぶんすいくび受江,ひがしいたりあまり入海いりうみ」。おっと曰「ぶんすい」,曰「くび受江」,のり南江なみえせいりゅう可知かち;曰「ひがしいたりあまり入海いりうみ」,のりざいくれ入海いりうみ可知かちあずか禹貢三江みえあずかまたかんがえぶととし太陰たいいん,以爲ふとしとししゃさいほしあずかどうつぎ鬥杓しょけん辰也たつや太陰たいいんはじめとらおわりみにくふとしさいはじめおわりかんりつこころざし曰:「太初たいしょ元年がんねんさいまえじゅういちがつついたちだん冬至とうじさいざいほし婺女ろくさいめいこまあつし。」此太としはじめ碻證。たけみかどみことのり曰:「としめい焉逢、ひさげかく。」此太陰たいいんはじめとら碻證。漢書かんしょ天文てんもんこころざしはじめあやま以甘、いしげん太陰たいいんしゃがかりふとしとし,而與太初たいしょふとしさいとげりょうたつ,乃以ためほしゆう贏縮,矣。

またせつ六書りくしょ轉注てんちゅう,以爲したがえ偏旁へんぼうてんしょうちゅうせつぶん曰:「轉注てんちゅうしゃけんるいいちしゅ同意どういしょう受,こうろう是也これや。」じょ曰「其建くび也,たていちため耑」,そくけんるいいちしゅいい也。如示ため部首ぶしゅしたがえしめせ偏旁へんぼうちゅうため神祇じんぎとうしたがえ神祇じんぎちゅうためほこらまつさいしゅくとうてんてんしょうちゅうみな同意どういため一類いちるい。戴震ゆびしかみやび詁訓ため轉注てんちゅう,而不知ふち詁訓於後らいせいしょゆう也。だんだまさい引戴せつまたげんしかみやび假借かしゃく,而不知ふち假借かしゃくしゃほん其字,こん如初、哉、くび基之もとゆきくんほんくび,而假はつ、哉諸以當也。其他しょちょ學説がくせつのうかんそう儒者じゅしゃたいられいろんろんしょへんみな稽古けいこしょういま通達つうたつ政體せいたい

ゆうせい天文てんもんとく泰西たいせい推歩秘法ひほう自製じせい渾金だまべつかみかい。嘗援ぬきしょ四遊以疎本天髙卑,而知不同ふどうこころ渾圓こうしゅう髀北ごく璿璣,以推古人こじんはかけんほう。七政皆統於天,而知ひがしかん以前いぜんよう赤道せきどう不用ふよう黃道こうどうためとく諸行しょぎょうほんろん左右さゆう一理いちり,以王すず闡解黃道こうどうみぎ旋、赤道あかみち平行へいこう,戴震ぶんごくためぎょう,其説頗不分明ふんみょうため剖析ほらてっ微妙びみょうみなげんてんしょ及。

せい孝友たかともまき於交ゆうたい羸而しん澂淡,しゃみな肅然しゅくぜん敬之たかゆきちょう阮元,かいためし舉主也,じゅう學術がくじゅつぎょうよしみ,以子おんなため★I2いえ

りょおおとり

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りょおおとりうんうら,旌德じんしたがえやすしこくしのげ廷堪れい,廷堪,以爲のうでん其學。山陽さんようひろし廷珍視學しがく安徽あんきどおりけいよしおおとりけんがくせい

おおとりしょう讀周れいちょう而癖嗜,廷堪嘗著しゅうかん九拜きゅうはいきゅうさいかい、鄕射ぶつかんがえ,援據れいけい疎通そつう證明しょうめいあしはつ前人ぜんじんしょ未發みはつおおとり其意而變どおりなるしゅうれい補註ほちゅうろくかん。其大むね以鄭ためむね自序じじょ曰:「かんしゅう禮者れいしゃ,如賈逵、ちょう衡、まごえん、薛綜、ちん劭、ちぇれいおんちゅう遺文いぶん軼事いつじ散見さんけんぐんせきあるあずかていよし符合ふごうあるあずかていよし乖違,どうしゃとく其會どおりことしゃはく旨趣ししゅようこう蒐衆せつしょ備,じょうけい經文きょうもんしたあるつくりけいきゅうちゅうあるかねきん儒經せつよう於申あきら而已。」またしるしゅうあや古今ここん文義ふみよししょうろくかん,嘗考かん成本なりもとおさむしょう戴禮,以古けいこう其於義長よしなが且順しゃためていがくまたちゅうしょう戴所でんれいよんじゅうきゅうへんまた嘗作牋:「いまていまなべしょうていちゅうのりえきりょうしかそく彼此ひし互歧、前後ぜんご錯出,またはん得失とくしつやめあきら於三者刺取爲多。いたりもとせつぶんかいしるし引周れい彼此ひし互異,以推こうていよしいや牴牾もどき。其他さつ流傳りゅうでんことけい本朝ほんちょうれい遵週てんまた採擇さいたくよう俟辯あきらなおていきょう以漢ほう也。」

平居ひらい書齋しょさいかくめい誡,いきしか於儒さき道學どうがく。鄕飢,籌粟倡賑,にん德之のりゆきゆうそうべん一言ひとことりつしゃく。嘗戒其子けんもと曰:「なりめいえき成人せいじんなん。」また曰:「げんかん不易ふえきため,毋陳而昧大體だいたい,毋挾わたし而務髙名。」其本ぎょう如此。けんもとそつ以忠ぶしちょみちこうじゅうきゅうねんそつねんななじゅうさんけんもとこうみぎさむらいろうおくりな文節ぶんせつゆうでん

有淸ありきよためしゅうれい學者がくしゃゆうめぐみ、沈彤、そうそんあずか、沈夢らんだんだまさいじょようはらそう犖。

沈夢らん

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ゆめらんはるがらすほどじんいぬいたかしよんじゅうはちねん舉人,かん湖北こほくむべ都縣とけんけんゆめらんはくどおりしょけい實事じつごともとめゆう邃於しゅうかんなるしゅうれいがくいちしょぶんみぞ洫、畿封、邦國ほうこく都鄙とひ城郭じょうかく宮室きゅうしつしょくかん祿ろくみつぎ軍旅ぐんりょくるまじょうれいりつ度量衡どりょうこうじゅうさんもん司馬しばほういっしゅうしょかんりょらんふくでん、戴記しょ古書こしょさん考證こうしょうごうこれしょれい三傳さんでん孟子もうしさき儒所びょう牴牾もどきしゃとく其會どおりため若干じゃっかんなみけいつてぶんあずかしゅうかんしょう發明はつめいしゃしゃく於篇。ちょゆうえきしょ孟子もうこがくしょうみぞ圖説ずせつ。其易がく自序じじょうん:「輯周れいがく,於易ぞうとく、訟、同人どうじんだいゆう若干じゃっかん錯綜さくそうさんえきためどう先王せんおう一切之治法於是乎在。」而孟がくのりまた以疎しょうしゅうかん,匯其あまりせつ以成ちつしゃ。其溝洫圖説ずせつまきみつるすん,凡南きた形勢けいせいかわ道原どうばら歴代れきだい沿革えんかくしゅうせつ異同いどうあずかおっとみぞとげけい畛之たいこうふかひろじゃくすう,以及蓄水、とめすい、盪水、ひとしすいしゃすい、瀉水ことみな備。复證しゅうかん考究こうきゅうしょう覈。かん湖北こほくたてまつげきじょうちく荊州つつみこう上江うわえつつみ埽工及荊ろん。沔陽すいわざわい,复奉げきかいかんさく水利すいりせつ以諭沔民。原本げんぽんけいじゅつゆう實用じつようみな此類也。

そう

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犖,卣勳,臨海りんかいじんいぬいたかしじゅうさんねん舉人,以教習きょうしゅうかん陝西せんせい扶風けんとうかわぞうあなどう夫馬ぶま悉斂みんけいうねりつぜにめい曰「おおやけきょく」。犖多しょさいかわ妄取。とききょう匪初じょうしゅうけん以獲ぬすめ遷擢。扶風民有みんゆうときため怨家しょ訐者,大府おおぶ飛檄ひげきいたり而鞫みな良民りょうみんしゃくどる顧。やめ,揅求けいくんじゅく於諧ごえ假借かしゃくたとえしるしゅうあやしょうとしょうろくかん儀禮ぎれい古今ここんぶんうとしょうかん

いむひとし

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いむひとしけいぶんがらすほどじんよしみけいねん舉人,かん建德けんとくけん教諭きょうゆ,引疾ひとし博聞はくぶんきょう識,せいこうよりどころまなべあずか姚文どうせつぶんためせつぶん長編ちょうへんまたいいるいこうゆう天文てんもん算術さんじゅつ地理ちりるい草木くさき鳥獸ちょうじゅうむし魚類ぎょるいこえるいせつぶん引群しょぐんしょ引説ぶんるいせきよんじゅうさつまた輯鐘かなえ拓本たくほんためせつぶんつばさじゅうへん將校しょうこう定説ていせつぶんせんためうとよしまごぼし衍促其成,乃撮舉大りゃく。就毛汲古かくはつしるし本別ほんべつためこうさんじゅうへんせんせいじょ鉉之しつ

またあずかちょう溶同から石經いしきょうちょこうぶんじゅうかん自序じじょうん:「弱冠じゃっかんけいややそう槧本。すんでまたねんわかかんわかわかとうわかはじめしょくわかそうよしみゆう紹興しょうこうかく立石たていしけいこん僅嘉ゆうよんせき紹興しょうこうはちじゅうななせきみなざんほん。而唐大和やまと石壁いしかべひゃくじゅうはちせき,巋然どくそん,此天あいだけいほんさいかんさいきゅうしゃ也。おっととうだいよんとみらち於梁、ずい,而鄭覃​​、からもとやからみなどおり儒,頗見古本ふるほん。苟能しおりせいせき於眞そくかた熹平なん,而僅とめ於是。こん也古ほんみなほろびよく復舊ふっきゅうかんやめなんためりょく嘅也!しか而後とうばんじつ石經いしきょう鈔寫,れきそうもとあきらてんこくうたてあやま,而石ほん倖存,たて不足ふそくあずか復古ふっこ,以匡こん繆有あまり也。どくかいすうひゃく年來ねんらい學士がくし大夫たいふ鮮或問者もんじゃあいだゆういち好古こうこまたあずかづか碣、てら同類どうるい而並どうかん熙初,顧炎たけはじめりゃくこう焉,かん其所さくきゅうけい誤字ごじ金石かねいし文字もじとげ寥寥りょうりょう是非ぜひ寡當,また誤信ごしんおう堯惠以誣石經いしきょう。顧氏且然,きょう其他乎?がらす乎!石經いしきょうしゃ古本ふるほんおわり今本いまもとけい及見古本ふるほん,而並荒石あらいしけい,匪直あらまた交口誣之,あにけいこう哉?あまり揆,ほしためいま版本はんぽんせい其誤,ためから石經いしきょうしゃく其非,ため顧氏とう袪其惑。ずい讀隨こう凡石ぼんせきけいみがけあらためしゃつくりぞうしゃあずか今本いまほん互異しゃみなろく,輒據ちゅううとしゃくあやつくり稽史、つて及漢、唐人とうじんしょちょう引者,爲之ためゆき左證さしょう,而石だいこうけい其後焉。」

よしみけいじゅうさんねんみことのりひらけぜんからぶんかんひとし以越ざいくさちがや無能むのうためやく慨然がいぜん曰:「とうぶんもり矣哉!から以前いぜんようとうゆうそうしゅう。斯事からだだいあまりせめ也。」乃輯上古じょうこ三代秦漢三國六朝文,使つかいあずかぜんから文相ぶんしょうせっいたりさんせんあまりにんかくかかり以小でんそく考證こうしょうぶんみなしたがえ蒐羅ざん賸得くつがえけんぐんしょいちいちややゆう異同いどう校訂こうていいち手寫しゅしゃじょうかり效力こうりょくから以前いぜんぶん,咸萃於此焉。またこう輯諸けいいっちゅう及佚しょとうすうじゅうしゅごうふみあつまりため四録堂類集千二百餘巻。

つけ いむもとあきら

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いむもとあきらきゅうのうやすじんじゅうさいのうためよんたいしょしょせいちょう阮元、だいきょうしゅ珪深しょうじゅく於爾みやびさくただしめいはちかんつくりぶん軼訓,かぎ稽而うとしょうしるゆう悔葊ぶん鈔、詩鈔ししょう鈔,娯親雅言がげんとうしょ

こげ

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こげ循,うらどうあまいずみじんよしみけいろくねん舉人,曾祖そうそげんちち蔥,せいでん易學えきがく。循少穎異,八歳在阮賡堯家與賓客辨壁上「馮夷」,曰:「此當如楚讀皮冰切,不當ふとう讀如ぬい。」阮奇つま以女。すんでたけしまさしょうけいじゅつあずか阮元ひとしめいもととくがく山東さんとう浙江せっこう,倶招循往ゆうせい至孝しこうちょうちち及嫡ははしゃ艱,あい毀如れい一應いちおうれいこころみこう生母せいぼいんびょう癒而しんけんふくきたぎょういん歿,循毀如初。ふくじょとげたくあしやまし入城にゅうじょうしゃじゅうねん。葺其ろう,曰半きゅうしょじゅく,复構いちろう,曰雕こもろうゆう湖光こうこう山色さんしょくかち讀書どくしょ著述ちょじゅつ其中。嘗歎曰:「いえ雖貧,こう蔬菜そさいとぼしてんやましわがぶくわが也。われろう於此矣!」よしみけいじゅうねんそつねんじゅうはち

博聞強記はくぶんきょうき,識力せいたくまいぐういちしょ無論むろんかくれ奧平おくだいら衍,必究其源,以故けいこよみさん聲音こわね訓詁くんこしょ不精ぶしょうようこうえきちちといしょう畜「密雲みつうん」二語何以復見於小過,循反復はんぷく其故不可ふかとくすんでがくほらふちきゅうようじゅつ,乃以すう比例ひれいもとめえき比例ひれいややのう理解りかいちょえきどおりしゃくじゅうかんいいしょ悟得ごとくしゃ,一曰哦曰旁通,曰相錯,さん曰時ぎょうまた以古精通せいつうえきふか羲、ぶんしゅうあな恉者,莫如孟子もうしなま孟子もうしのうふか其學しゃ,莫如ちょうにせうと踳駮,のう發明はつめいしる孟子もうし正義せいぎさんじゅうかんいいため孟子もうこさくうと,其難ゆうじゅうしか近代きんだいどおり儒,やめとくはちきゅういんはく諸家しょかせつ,而下以己ごうあなはじめ相傳そうでんせい恉,またしるろくけいうとじゅうかん。以説かん易者えきしゃごと屛王弼,しか弼解ようちょうまろうどせつ,讀彭ためつくり雍爲つうまことため浮,かい斯爲廝,ぶた六書りくしょどおり。其解けいほうどお於馬、ていしょ儒,ためしゅうえきおう註補うとかん。以尚しょにせあな傳説でんせつぜんしゃ,如金かがわがこれ闢」,くん闢爲ほうきょひがしそく東征とうせい罪人ざいにんそくかん、蔡,だい誥周こう自稱じしょうおう,而稱なりおうめいじみなうまていしょのう及,ため尚書しょうしょあなでんうとかん。以詩ていよしゆう異同いどう正義まさよし往往おうおうざつてい於毛,比毛ひも於鄭,ためてい牋補うとかん。以左でんしょうくんくん無道むどうしょうしんしんつみ」,もりあずかあげ其詞而暢衍之,あずかため司馬しば懿女むこ目見まみなりずみことはた以爲司馬しばかざりそくよう以爲おのれかざりまん斯大、めぐみ、顧棟髙等のう摘姦而發くつがえため春秋しゅんじゅうでん杜氏とうじしゅうかいうとかん。以禮以時ためだい訓詁くんこ名物めいぶつまたしょむべきわむためれいていちゅううとさんかん。以論いちしょ發明はつめい羲、ぶんしゅうこう恉,まいり錯綜さくそう,引申さわるいまたあずかえきれいどうため論語ろんごなんしゅうかいうとさんかんごうためじゅうかんまたろく當世とうせいどおり儒説尚書しょうしょしゃよんじゅう一家いっかしょじゅうなな,仿衞湜禮たとえ,以時先後せんごためじょとくよんじゅうかん,曰書くさむら鈔。またちょ禹貢てい註釋ちゅうしゃくいちかんもう地理ちりしゃくよんかんもう鳥獸ちょうじゅう草木くさきむしぎょしゃくじゅういちかんりく璣疎考證こうしょういちかんぐんけい宮室きゅうしつかん論語ろんごどおりしゃくいちかんまたしるゆう雕菰ろう文集ぶんしゅうじゅうよんかんさんかん詩話しわいちかん

循壯ねんそくめいじゅう海内かいだいぜにだい昕、おうもりほどようとうみな推敬はじめいり,謁座ぬし英和えいわかず曰:「われ知子ともこ曰裡どう江南こうなんろう名士めいしこごめひさ矣!」歿後ぼつご,阮元さくでんしょう其學「せいふか博大はくだいめい曰通儒」,せいいい愧雲。

循子じゅんこ 廷琥

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廷琥,とらだまゆう廩生。せいあつしあつしぜんうけたまわ家學かがく,阮元しょうためはし。循嘗與廷琥纂孟長編ちょうへんさんじゅうかんこうせん正義せいぎ,其廷琥有所見しょけんまたほん范氏こくはりたとえ爲之ためゆきろくそん。循又以測えんうみきょうえきえんじだんしょしょうひらけかたほう,以常ほう推之ごう既得きとくしん道古どうこ數學すうがくきゅうしょう有正ありまさまどかひらく方法ほうほうためひらけかたどおりしゃく,乃謂廷琥曰:「なんじれつえきえんじだんろくじゅうよんもんよう正員せいいんひらき方法ほうほう推之。」廷琥ぬのさくさんいちいち符合ふごうちょえきえんじだんひらけかたいちかんみずうみまごぼし不信ふしん西人せいじんえんせつ,以楊こうさき斥地えん孟子もうこ距楊、すみ。廷琥いいいにしえげんてんしゃさんいえ,曰宣よる,曰周髀,曰渾てんせんよる師承ししょう,渾蓋せつみないいえんたいしゅうちんせんじょううめ悉以東西とうざいはかけいゆう時差じさ南北なんぼくはかほしゆうあずか圓形えんけいあいためせつ。且大戴有曾子げんないけいゆう岐伯げんそうゆう邵子、ほどげん,其説西人せいじんしょそういんはくさがせせきちょえんせつかんちょゆうみつ梅花ばいかかん詩文しぶん鈔。

顧鳳

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顧鳳ちょうむね江蘇ちぁんすーきょうじんいぬいたかしよんじゅうきゅうねんみなみじゅん召試れつとうじゅうさんねんふく榜貢せいちちきゅうつと文子ふみこちょう於詩、れいきゅうつとははつとむだい椿つばきしゅうとつうけいたちきゅうつとまなべははしょきょう也。いぬいたかしよんじゅうろくねん進士しんしそつ於路,著述ちょじゅつつておおとりまた受經於祖ははねんじゅういちつう五經ごきょう。及長,あずかこげ循同がく,循就おおとりといなんはじめようりょく於經。おおとりもうまたがくおん韻律いんりつりょ於嘉てい錢塘ぜんどもせんすわえいんかんがえ入聲にっしょういんかんがえもういんかんがえみなとく塘旨。またせん詩集ししゅうかいただしもとめかんがえさんだい田制たせいこう未成みせい而卒,ねんじゅうななそつ,循理其喪,さく招亡とも哭之。

鍾懷

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鍾懷、鍾泗みな有名ゆうめいひとしあまいずみじん。鍾懷,岐。ゆうみつぎせいあずか阮元、こげ循相ぜんきょうため經學けいがく旦夕たんせき討論とうろんつとむもとめ其是。きょつね禮法れいほうもりあずかそうめい交遊こうゆう中稱ちゅうしょうため君子くんしよしみけいじゅうねんそつねんよんじゅうちょゆう M2厓考古こうころくよんかん。其漢儒考,較陸德明のりあき所載しょさいぞうじゅう餘人よにん

つけ 鍾泗

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鍾泗,はませきよしみけいろくねん舉人,けいせいひだり春秋しゅんじゅうせんぶんまわしぶんまわしいちしょそもそもりゅうしんもりこげ循服其精はく

とみまご

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とみまごすんで汸,よしみ興人こうじんよしみけいろくねん拔貢せい年來ねんらいまごりょうねんゆうでんしたがえしゅうけいどういぬいたかしじゅうはちねん進士しんしかん鄖縣けんせいけん經學けいがく,以漢、からためむね,嘗爲がくぶんまわしろん​​以課きゅうけい經濟けいざいしる有原ありはらまなぶときぶん鈔。

とみまごがくゆう原本げんぽんあずかはくけいちょうまご從弟じゅうていぐうまごゆうさんこれちょうゆう四方しほう,就正於盧ぶん弨、ぜにだい昕、おうあきらまごぼし衍,飫聞緒論しょろん。阮元なで浙,肄業詁經精舍しょうじゃとげたたえふかけいじゅつゆうこう讀易,ちょえきかい賸義。いい易學えきがくさん有漢うかん儒之がくていおそれ、荀、りく諸家しょかせい矣;ゆうすすむとうまなべおう弼、あな穎達諸家しょかそくきたそうえびす瑗、いしかいひがし坡、伊川いがわなお支流しりゅうあまり裔;いたりそうひね、邵之がく本道ほんどうがくじゅつそうため圖説ずせつ,舉羲、ぶんしゅうあなこれしょ及,かん以後いごしょ儒之しょげんしゃ,以自しん其附かいせつ其理而非えき所謂いわゆるすう其數而非えき所謂いわゆるかず,而前ひじりえきどうみそ矣。からかなえ祚所輯易かい精微せいび廣大こうだい聖賢せいけんのこむねほぼ於此。しか其於さんじゅうろくいえせつなお,其遺文いぶん賸義,あいだしょなお蒐輯。爰綴而録なりしょさんかんまたなり校異こういかん

またしるななけいぶんしゃく,就經、ふみつてちゅう諸子しょしひゃくしょ引,以及かんとうそう石經いしきょうそうもと槧本,こう異同いどうあるゆう古今ここんあるおときんつうかりある沿襲乖舛,悉據よしみ而疎しょう;而前儒之論説ろんせつなみため蒐輯,使つかいせい其譌謬,べん得失とくしつ折衷せっちゅう以求いち。凡易ろくかん尚書しょうしょはちかんもうじゅうろくかん春秋しゅんじゅうさんつてじゅうかんれいはちかんどうさと馮登しょう其詳かくおくひろしため異義いぎしゃしゅう大成たいせいまたいいせつぶんいちしょたもつ六書りくしょむねよりゆき以僅そん篆變ため隸,隸變爲眞ためざに文字もじしげる,譌偽錯出。ある有形ゆうけいごえ意義いぎだいしょう區別くべつまたゆう近似きんじ而其じつこと後人こうじんこん而同あるゆういち篆之がたしたがえぼうためいにしえ、籀,ためあるからだ後人こうじん竟析而二經典きょうてん文字もじ往往おうおう昧於音訓おんくん,擅爲改易かいえき,甚與本義ほんぎしょう迕,またがく大變たいへんおっと假借かしゃく通用つうようせつぶんゆう本字ほんじゆうとくどおりしゃゆうようどおり而並ためぞくあやましゃ。援據經典きょうてん以相しょうちぎり,俾世かかと謬沿譌焯しかわきまえためせつぶんべんせいぞくはちかんどうさとぜにたいきちいい其書だいむね折衷せっちゅうだんちゅう,而亦ゆうだんしょ及者,讀説ぶんはり也。

ちょ有漢うかん六朝墓銘纂例四巻,づるちょうろくはちかんこうろくじゅうかん曝書ばくしょていななかんうめ里志さとしじゅうろくかんこうけい庼文わらじゅうはちかん

とみまごはくけい ちょうまご

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ちょうまご字引じびきじゅよしみけいろくねん舉人,かんかい稽縣教諭きょうゆ。剖析けいよしゆうふか於詩。嘗以草木くさきむしぎょのりゆううと名物めいぶつそくゆうかい地理ちりそくゆうかんがえ,而詩ちゅうしょしょうひとそくゆう纂輯なりしょしゃいん詩人しじん氏族しぞく名字みょうじひろしこうけいふみ諸子しょし及近儒所著述ちょじゅつ並列へいれつこく,洎其じん行事ぎょうじさがせ薈集,ため氏族しぞくこうろくかんかんかい稽時,しょなまやすしかみなり钅宏がくぶんまわし條約じょうやく習日じょうまたしるつたなもりときしゅう

とみまご從弟じゅうてい ぐうまご

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ぐうまごきん瀾,しゅうまごゆうみつぎせいしょしゅう訓導くんどうようでんくん,淹貫けいしるゆう尚書しょうしょ隸古ていしゃくぶんはちかんかんあな安國やすくに以科鬥文なんふくせいこんぶん次第しだいため隸古じょうそう薛宣いんなり古文こぶんくんぐうまごまた以隸古文こぶんなん,引説ぶんしょしょ疎通そつう,譌者是正ぜせいうたぐしゃそく闕。せい嗜金せきゆうしば省齋せいさいいしぶみろくはちかん金石かねいしまなぶろくよんかんかんしょしゅう,以處しゅうへきやまとお,阮元りょう浙金石志いししめん脱漏だつろう,乃搜輯數百餘種爲括蒼金石志八巻。ちょゆうろく補正ほせいいちかん校正こうせいいちかん文苑ぶんえん拾遺しゅういじゅうかん天香てんこうろくはちかん隨筆ずいひつろくかん詩文しぶんしゅうじゅうはちかん

えびすうけたまわ

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えびすうけたまわ珙,すみそう,涇縣じんよしみけいじゅうねん進士しんしせん翰林院かんりんいん庶吉かん編修へんしゅうじゅうねんたかし廣東かんとん鄕試ふくこうかんひろ遷御てんきゅうごとちゅう以身きょげんとう周知しゅうち天下でんかへいひね於上,ぽうまけしょくすうねん中陳なかじんそう甚多,施行しこう。而其さいきり中時なかとき病者びょうしゃのりゆうじょうひね虧空へいはしかくじょう:「一曰冒濫宜禁。つかさささえはつぜにかてむかいゆう扣除こうじょさん成之しげゆきへい籓司しょ吏將おう藉支款,おかせささえ濫借。此在りょうしゃ便びん於急需,敢望其足すう;而在しゃ於多扣,ふくとい其合よろしすなわち雖應而仍與浮冒こと。一曰抑勒宜禁。しゅうけん交代こうたいれいげん綦嚴,ひとしじゅんたかし抵。近日きんじつ仍多以議たんかけひょうきょひらけじつ抵者,そうよし上司じょうしおおかたそもそも勒,逼令新任しんにん擔承。一曰糜費宜省。各省かくしょう攤捐名目めいもくあにつき不可ふかしょう。聞州けんしょかいかく上司じょうし衙門めししょくぶんまわしとうぎん,逐歳增加ぞうか。如邸ほう一事いちじ安徽あんきしょう毎年まいとしどおりかくぞく萬金まんきんいちしょう如此,しょう可知かち一事いちじ如此,他事たじ可知かち。一曰升調宜愼。せん人員じんいん​​けい初任しょにんあるなおのう輕易けいい接受せつじゅおもんみ雜題ざつだいます,及調しげるかけしゃまい多久たくれきつかまつ,習成ずるすべりざいだいますしゃきゅう於得かけ明知めいち此地るいふく顧後而瞻ぜんざい調ちょうしゃ遷就いちてん因原いんばらにんゆう虧,まれ挪彼以掩此。きわむ擔承わたるおぎなえみなぞく空名くうめい剜肉かさ,甚且へんほん厲。」其言深切しんせつちょあかりじゅうよんねん,授福建ふっけんぶんじゅんのべけん邵道,へん査保かぶと設立せつりつ緝捕章程しょうていはちじょう匪徒ひと斂跡。調しらべしょ台灣たいわん兵備へいびどう,緝獲ようぬすめちょうたかしとうおけ於法。旋乞かりかいせき台灣たいわんもとしょう難治なんじうけたまわ珙力ぎょうきよしそう弭盜ほうみんばんやす肅、うけたまわ珙去あきら淡水たんすいそく以械鬥起釁矣。みちこうじゅうねんそつねんじゅうなな

うけたまわ珙究こころ經學けいがくゆうせん於毛でんざとかぎ著書ちょしょあずか長洲ながすひね往復おうふく討論とうろんぜっちょさんじゅうかん。其書ぬし於申じゅつもうよし註疎而外,於唐、そうもとしょ儒之せつ,及近人爲じんい詩學しがくしゃこうちょう博引はくいん,而於名物めいぶつ訓詁くんこ及毛與三よそう詩文しぶんゆう異同いどうるいみな剖析精微せいび折衷せっちゅう至當しとう。而其さいせいしゃのう於毛でん本文ほんぶん前後ぜんごかいゆびまたのう於西かん以前いぜん古書こしょちゅう反覆はんぷくひろかんがえ貫通かんつうよし證明しょうめいむね。凡さんよんえきうつしじょういたり魯頌泮水あきら而疾さく遺言ゆいごんしょくひね奐校おぎなえ,奐乃ためぞく成之しげゆきまた以鄭くんちゅう儀禮ぎれいさんよういにしえこんぶんほんつまみ其大れいゆう必用ひつよう正字せいじしゃゆうそくよう其借しゃゆうつとむ以存いにしえしゃゆうけん以通いましゃゆういんかれ以決此者,ゆう互見而並存へいそんしゃ。閎意みょうむねゆうせき於經おびただしとげちゅうちゅうたたみなみ「讀如」、「讀爲」、「當爲とういかくじょうはい梳櫛すきぐしこう訓詁くんこあきら假借かしゃくまいり稽旁疎通そつう證明しょうめいさく儀禮ぎれい古今ここんぶんうとじゅうななかんまたいいめぐみとう九經古義未及爾雅,とげせんすうじゅうじょうなりかんしょうなんじみやび原本げんぽんつてこんそんあなくさむら子中こなかせいいいため偽書ぎしょさくしょうしか雅義まさよししょうじゅうさんかんだん以爲しん。复著ゆうもとめどう詩文しぶんしゅうさんじゅうよんかん

えびす秉虔

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えびす秉虔,はくけい,績溪じんよしみけいよんねん進士しんしかん刑部おさかべ主事しゅじあらため甘肅かんせいれいだいけんけんます噶爾どうそつ於官。秉虔よう嗜學,はくどおりけい。嘗入肄業なりひとしよる讀必つきしょくじょうゆうせい於聲おん訓話くんわしるいんろんさんかんべんこう、戴、だんあな諸家しょかせつ細入ほそいり毫芒,はなわ不可ふかえきせつぶん管見かんけんさんかん發明はつめい古音こおん,​​獨得どくとくすえろんじょしょゆう灼見ぶた其所致力也りきやちょゆうしゅうえき尚書しょうしょ論語ろんごしょう識各はちかんほんこういちかん尚書しょうしょじょろくいちかんかん西京にしぎょう博士はかせこうかんあましゅうあきら成仁しげひとろくよんかんかわしゅうけいちゅうろくさんかん

しゅ

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しゅ珔,らん坡,涇縣じん。珔生さんねん而孤,いのちためちち,嗣母ひろし未婚みこんもりこころざし,珔孝ごとあずか生母せいぼどうこんおとうとひとししょう友愛ゆうあいよしみけいななねんなり進士しんしせん翰林院かんりんいん庶吉あずかこう翰林院かんりんいんかしわはりたい聯句れんくえんかん編修へんしゅう,擢至侍讀じどくあずか修明のぶあきかんすわうけたまわ纂官るいくだ編修へんしゅうみちこう元年がんねん直上ちょくじょう書房しょぼう,屢蒙よしみ獎,ゆうしながくけんゆう褒。ますみぎはるぼうみぎさんぜんつげやしなえうえひんあつしぞく,獎誘後進こうしんれきぬし鍾山、せいよしみむらさきよう書院しょいんそつねんはちじゅうゆう

珔愛しょ如命,まなぶ有本ありもとげんおもこうせきいくさんじゅうねんきょう以通經學けいがくためさきあずかきりじょう姚鼐、みずうみすもも兆洛並負儒林宿望,ぶたかなえあしさんくもちょゆうせつぶん假借かしゃくしょうじゅうはちかん經文きょうもんこうじゅうかん文選ぶんせんしゅうしゃくじゅうよんかんしょうまんかんとき詩文しぶんしゅうななじゅうかん。輯有こくあさ古文こぶん匯鈔ひゃくななじゅうかんまたゆう經文きょうもんろくじゅうかん,匯有きよししょ名家めいか説經せっきょうぶん標題ひょうだいへんはばかんぜんゆうあしため後學こうがく逮雲。

しのげあけぼの

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しのげあけぼのあかつきろうこうみやこじん國子くにこかんせいあけぼの好學こうがく根性こんじょういえひん,讀よんしょ畢,そく鄕,雜作ぞうさやといたもて,而績がく倦。としじゅうため童子どうじもんしょとうぎょう於涇つつみしんせいしん曰:「けい必守家法かほうせんほう一家いっか,以立其基,のり諸家しょかすすむどおり。」乃示以武しんちょうめぐみげんしょ輯四子書漢説數十事。あけぼの乃稽典禮てんれい考古こうこくんため四書ししょ典故てんころくかん,歙洪梧甚しょうすんでおさむていがくとく要領ようりょうまたしたがえ沈欽かんとい疑義ぎぎえきつらぬけ穿ほじせいしんこう聞武しんりゅう逢祿ろんなんこうひつじ春秋しゅんじゅう而好。及入ためちょう阮元こう輯經郛,つきすすむ以來いらい諸家しょか春秋しゅんじゅうせつふかねん春秋しゅんじゅうよしそん於公ひつじ,而公ひつじまなべでんただしただし春秋しゅんじゅうしげる,識禮義之よしゆきむねたちけいけんこれよう行仁ぎょうにん爲本ためもと正名まさなためさきはか陰陽いんようぎょうへんあかりせいれい作樂さくらはらからだだいおもえしらげ,推見いたりかくれいいぜんはつほろげん大義たいぎしゃしかむねおく賾,えきとく其會どおりあさ嘗之おっとよこせい訾議,けいこころせいぜっ如線。乃博稽旁討,うけたまわこころざしくしけず其章,くし其句,ためじゅうななかんまたやまいそうもと以來いらい學者がくしゃ空言くうげんおもんみ實事じつごともとめ庶幾しょきちかこれ,而事切實せつじつ於禮,ちょこうひつじれいうとじゅういちかんおおやけひつじれいせついちかんおおやけひつじ問答もんどうかん家居かきょ讀禮,以喪ふくため人倫じんりんだいけい儒舛是非ぜひ頗謬,さくれいろんひゃくへん,引申ていよし。阮元のべあけぼのにゅう粵課諸子しょしあけぼのしょあずかもとしょう榷,乃刪あいさんじゅうきゅうへんためいちかんみちこうきゅうねんそつねんじゅう

あけぼのゆうおいしるしりゅうぶん淇,ひん穎悟えいごあい而課とげ知名ちめい,其學じつあけぼのうん

薛傳ひとし

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薛傳ひとしいんあまいずみじんしょせい博覽はくらんぐんせき強記きょうきせい識。就福建ふっけんがくせいひねようこう聘,ようこう見所みどころ著書ちょしょ,恨相ばん。旋以やましそつ於汀しゅうためしいんねんよんじゅういちでんひとしじゅうさんけい註疎功力くりき最深さいしんだいはしゆうざい小學しょうがく,於許くん原書げんしょかぎ稽貫くしほら其義而熟其辭,よしみていぜにだい文集ぶんしゅうないゆうせつぶんこたえといいちかんふか明通あけどおりてん假借かしゃくよしでんひとし博引はくいんけい以證なりせつぶんこたえというとしょうろくかんまた以文せんちゅう多古たこじょう舉件けい疎通そつう證明しょうめいため文選ぶんせんどおりじゅうかん

りゅう逢祿

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りゅう逢祿,申受もうしうけたけすすむじん綸,だい學士がくしおくりなぶんじょうゆうでんそとおうちちそうそんあずかしゅうとそうじゅつなみ以經じゅつめい,逢祿つきでん其學。よしみけいじゅうきゅうねん進士しんしせん翰林院かんりんいん庶吉かんあらためれい主事しゅじじゅうねんひとしむね大事だいじ,逢祿蒐集しゅうしゅう大禮たいれいそうため長編ちょうへんはじめごといたり奉安ほうあん山陵さんりょう典章てんしょう具備ぐびみちこうさんねんつう政司せいじ參議さんぎ浙請以尚しょあきらしたがえまつぶんびょうしゃ以斌やすし熙中ざいうえ書房しょぼう譴,いぬいたかしちゅう嘗奉駮難。逢祿攬筆しょ曰:「こう夔典らくなおゆうしゅひとしりょもちひねしょなんただしかん、蔡。」尚書しょうしょひろし廷珍ぜん而用とげたてまつ兪旨。よんねんせい主事しゅじえつみなみみつぎ使ひね請爲其國おうはは乞人葠,とくむねしょうきゅう。而諭中有ちゅううそとえびすみつぎどうこれ,其使臣ししんよく請改ためそと籓」,ちゅう以詔しょなんさらえき。逢祿くさ牒復曰:「しゅうかん職方しょくかたおう畿之がいぶんきゅうふくえびすふく王國おうこくなな千里せんり,籓服きゅう千里せんり籓遠而夷ちかせつぶん羌、狄、蠻、貊字みなしたがえぶつつくりおもんみえびすしたがえだいしたがえゆみこう東方とうほう大人おとなくにえびすぞくひとし仁者じんしゃことぶきゆう東方とうほう不死ふしくに孔子こうしよくきょいぬいたかしあいだたてまつ上諭じょうゆさる飭四庫館不得改書籍中'えびす'さく'つね',しゅん東夷あずまえびすこれにんぶんおう西にし夷之えびすのじんわが​​あさろくごう一家いっかつきかんから以來いらいかかわ嫌疑けんぎ陋,使者ししゃとく以此ためうたぐ。」えつみなみ使者ししゃとげ而退。逢祿ざいれいじゅうねんつね以經けつうたぐことためしゅしょ欽服るい如此。

其爲學務がくむどおり大義たいぎせん章句しょうくよしただしなま春秋しゅんじゅう六藝りくげい家法かほうよし六藝求觀聖人之志。嘗謂:「げんけいしゃ,於​​さきかんそく古詩こしこうかんそくこんえきおそれぶんややためかんしかもうこうしょう古訓こくん而略ほろげんおそれこぼしせいぞうへん而罕大義たいぎもとめ其知るい通達つうたつほろあらわ闡幽しゃのりこうひつじざいさきかんゆうただしせいこうかんゆうなん劭公なつ喪服もふくでんゆうてい康成やすなり而已。さきかんまなべつとむ大體だいたいただしなま所傳しょでん章句しょうく訓詁くんこまなべ也。こうかん條理じょうり精密せいみつよう以何劭公、てい康成やすなりためむねしか喪服もふく於五禮特其一端。春秋しゅんじゅう文成ふみなりすうまん,其旨すうせん天道てんとう浹,人事じんじ備,以之ぬきぐんけい往不とく其原そのはら;以之だん以決天下でんかうたぐ;以之治世ちせいのり先王せんおうみちふく也。」於是ひろ其餘つらぬけせい其統ためこうひつじ春秋しゅんじゅうなんしゃくれいさんじゅうへんまた析其疑とどこおつよ守衞しゅえいためいちかんとうなんかんまた推原こくりょうひだり得失とくしつためさるなんなんていよんかんまたはくちょうもろけいれいちゅうしゃため儀禮ぎれいけつごくよんかんまた推其ため論語ろんごじゅつなになつ經傳けいでん牋、中庸ちゅうようたかしれいろんかんじゅつれいかくいちかんべつゆうぬきりゃくかん春秋しゅんじゅう賞罰しょうばつかくいちかん。愍時學者がくしゃせつ春秋しゅんじゅうみなかさねそう儒「直書じきしょ其事、はん褒貶ほうへんやめどくあなこうもりためこうひつじ通義みちよしのうこじ其蔽,しかなお不能ふのうしんじさん、九旨爲微言大義所在,乃著春秋しゅんじゅうろんじょうしたへん以張ひじりけんまたなりひだり春秋しゅんじゅう考證こうしょうかん知者ちしゃいいあずか閻、めぐみわきまえ古文こぶん尚書しょうしょとう

逢祿於易ぬしおそれ,於書ただしてい、於詩はつなおがくこうさんいえゆうえきおそれ變動へんどうひょう、六爻發揮旁通表、ぞう陰陽いんよう大義たいぎおそれえきげんかくいちかんまたためえきぞう頌,つつみ其指よう尚書しょうしょこん古文こぶんしゅうかいさんじゅうかんしょじょじゅついちかんごえじゅうななかん所爲しょい連珠れんじゅろんじょいしぶみぶんやくじゅうへんみちこうきゅうねんそつねんじゅうゆうろく弟子でしはんじゅんそう繽樹、ちょういのりみなしたがえがくおおやけひつじ及禮有名ゆうめい

つけ そうしょうおおとり

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そうしょうおおとり於庭,長洲ながすじんよしみけいねん舉人,かん湖南こなんしんやすしけんけんまたそうじゅつおいじゅつゆうりゅうおいそうおいともこれりゅういい逢祿,そういいしょうおおとり也。しょうおおとりとおる訓詁くんこ名物めいぶつこころざしざい西にしかん家法かほうほろげん大義たいぎとくそう眞傳しんでんちょ論語ろんごせつじゅうかんじょ曰:「論語ろんごせつ曰,なつろくじゅう四人共撰仲尼微言,以當もとおうほろげんしゃせいあずか天道てんとうげん也。此じゅうへんひろ條理じょうりもとめ其恉おもむき,而太平之ひらのもとおうこれぎょう備焉。かん以來いらい諸家しょかせつあいはなれ不能ふのう畫一かくいつ。嘗綜覈古今ここんゆう纂言さく。其文繁多はんたいんべつろくわたしせつだいためせつ。」またゆう論語ろんごていじゅうかん大學だいがくせつかん孟子もうしちょうちゅう補正ほせいろくかん孟子もうしりゅう熙註いちかん,四書釋地辨證二巻,かいいちかん尚書しょうしょせついちかん尚書しょうしょいちかんしかまさしゃくふくいちかんしょうなんじまささとしろくかん五經ごきょう要義ようぎいちかん五經ごきょうどおりいちかんにわろくじゅうろくかん。咸豐きゅうねんじゅう鹿しか。逾年,そつねんはちじゅう

戴望

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戴望,髙,とく淸人きよひとしょせいはじめこう詞章ししょうつぎ讀博がおもとしょためがおがく最後さいご謁長しゅうひね奐,つう聲音こわね訓詁くんこふくしたがえかけおおとり授公ひつじ春秋しゅんじゅうとげどおりおおやけひつじこれがくちょ論語ろんごじゅうかんようこうひつじ家法かほうえんじ逢祿論語ろんごじゅつなにほろげんちょゆうかんこうじゅうよんかんかおがくじゅうかん,謫麟どうのこしゅうよんかん

かみなりがく

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かみなりがく淇,瞻叔,じゅんてんどおりしゅうじんちち鐏,そうつねいぬいたかしじゅうななねん舉人,せん江西えにしたかしじんけんけんみちこうはつもとみことのり天下でんか臣民しんみんげんかんむりふくわきまえ,鐏著古今ここんふくぬき以申そもそも奢侈しゃしいたりきゅうねんしょなりねんきゅうじゅう矣。

がく淇,よしみけいじゅうきゅうねん進士しんしにん山西さんせいかずじゅんけんけんあらためしゅうひさししたがえけんけん生平おいだいらこう討論とうろんまなべまいとくいちかい,必求其會どおりつとむ於諸けいぶんしょ牴牾もどき。以父鐏著古今ここんふくぬき爲之ためゆき註釋ちゅうしゃく以釋といいちへん異同いどうひょうへんまた以夏小正おばさ一書備三統之義,きわむこころ參考さんこうじゅうねん。以堯てんちゅうほししょ經歴けいれきすうおそれはく夷之えびすのせつよりどころしゅうこうたれみつるぶん檢校けんぎょう異同いどうてい其譌誤,網羅もうらしつひろ厥指ちょなつ小正おばさ經傳けいでんこうかんまたかんがえていけいつてぶんためうとしょうなりなつ小正おばさ本義ほんぎよんかん

まい慨竹しょ紀年きねんだい以來いらい頗多殘闕ざんけつ,爰博こうから以前いぜんしょしょしょしょう引者,せききゅうねん蒐輯,頗復舊觀きゅうかん。嘗謂:「孟子もうしさきいたりはりいたりひとし,此經明文あきふみそくひだりけんまたとうしたがえためせつきょうちくしょ紀年きねん曰'りょうめぐみなりおうきさきもとじゅう五年齊威王薨','じゅうななねんめぐみなりおうそつ',しかのりめぐみおうきさきもとじゅう六年齊宣王始即位,孟子もうこいたりはりとうそくざいもとじゅうろくねんおうそつぜんいちさい也。史記しきあやまいいめぐみ王立おうりつさんじゅうろくねんそくそつうんさんじゅうねん孟子もうしいたりはり,而以めぐみおう改元かいげんのちじゅう六年爲襄王之世。こんよりどころちくしょたたえりょうめぐみかい諸侯しょこう於徐しゅう改元かいげんしょうおう孟子もうこよび曰王。いい孟子もうこいたりはりねんめぐみおうそつじょう王立おうりつ,以本けいこう,其言しんただしそつ改元かいげんじゅうななねんさんじゅうろくねん也。じょうおうすんでりつ孟子もうこみる其不人君じんくん,乃東いたりひとしよりどころちくしょそくひとしせん即位そくいねん也。りょういたるひとしせんすうひゃく曰:'千里せんり而見おう'。わか孟子もうこ先見せんけんひとしせんおうゆかり鄒之ひとしろくひゃくあまりうらとくうん千里せんり矣。ひとしじんつばめ孟子もうしあきらいいせんおう時事じじ史記しき於齊おさいしつ悼子、ほうだいはたたけし宣之のぶゆきりつみなうつりぜんじゅうねん於齊おさいじんつばめごと不知ふち折衷せっちゅう孟子もうし,而年ひょういいざい湣王じゅうねん司馬しばあつしおおやけおわりもとめ其説而不,乃將せん即位そくいうつりじゅうねん,以遷就孟こうせつしゃうたぐしんじかくはんじつみな有定ありさだろんこんよりどころ紀年きねんのりつばめざいせんおうななねんじつしゅう赧王元年がんねん。凡孟しょしょ古人こじんねんとし,以史漢書かんしょせつ推之みなごうしゃ,以紀ねん推之ごう。」且以ちくしょちょうれき推驗れつ宿やどとし歴代れきだい日蝕にっしょくとうおそれ以來いらいゆうかし。嘗自うん:「つて、牋、ちゅううと取捨しゅしゃこと敢訾前賢ぜんけん於事理之まさゆきごううんなんじ。」ちょゆうこう輯世ほんかん古今ここん天象てんしょうこうじゅうかん圖説ずせつかんまた囂囂ごうごうときけいこう及文しゅうさんじゅうかん

おうかやよわい

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おうかやよわいきたどう昌平しょうへいじんみちこう元年がんねんふくみつげ,旋舉こうれん方正ほうせいかんしんやすかしわ鄕兩けん教諭きょうゆ。嗜漢がくせい訓詁くんこ受業じゅぎょう於髙郵王引之,けいじゅつ聞中引其せつしるゆうしゅうしんめい字解じかい詁補いちかんそく引之しょ闕疑しゃ

つけ ちぇじゅつ

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ちぇじゅつうけたまわだい名人めいじんいぬいたかしじゅうななねん舉人,せん福建ふっけんはじめけんけん武弁ぶべん藉海ぬすめ邀功,誣商せんためぬすめじゅつひらたはんこれいくとうこう著書ちょしょさんじゅうしゅ,而考しんろくいちしょゆう生平おいだいら心力しんりょくしょせんちゅう。凡考古こうこ提要ていようかん上古じょうここうしんろくかんからおそれこうしんろくよんかんなつしょうこうしんろくよんかんゆたか鎬考しんろくはちかんゆたか鎬別ろくさんかん,洙泗こうしんろくよんかん,洙泗餘録よろくさんかん孟子もうこごと實録じつろくかん考古こうこぞくせつかん附録ふろくかんまたゆう王政おうせいさん大典たいてんこうさんかん,讀風偶識よんかん尚書しょうしょべんにせかん論語ろんごあまりせついちかん讀經どきょうあまりろんかんめい考古こうころく

其著しょだいむねいい以傳ちゅうざつ於經,諸子しょしひゃくいえざつ於傳ちゅう。以經ためぬしつてちゅうこれごう於經しゃちょごうしゃべん異説いせつけいげんのり闢其謬而そぎ。如謂えきでん僅溯いたりふく羲,春秋しゅんじゅうでん僅溯いたりみかどおう後人こうじんしょはん於古じん。凡緯しょしょげんじゅうしょうん天皇てんのうすめらぎ人皇じんのうみな妄也。いい戰國せんごく楊、ぼく橫議おうぎつね堯、しゅんうすたけ,以快其私。毀堯そくたくしょもとゆかり,毀禹そくたくしょ​​髙,毀孔のりたくしょろう聃,毀武おうのりたくしょはくえびすたいおおやけみことおいこうはしざつせつ學者がくしゃただしとうしんろんはじめ不當ふとうしんじ史記しきいいなつしょうしゅうゆうごうためぼうおおやけしゃおおやけ亶父しょうれん成文せいぶんなお所謂いわゆるおおやけりゅう也。 「おおやけ亶父」,なおげんむかしおおやけ亶父」也。いいただしためそう邑,かしこただしそうほん一事いちじ,「匡人まさと其如なん」、「桓魋其如なん」,いち一事いちじげん記者きしゃ小異しょういみみ。其説みなためゆう

じゅつためがくこうよりどころしょうあかり如漢儒,而未嘗墨守舊しゅきゅうせつ而不もとめ其心やすべん析精ほろ如宋儒,而未嘗空だんきょ而不かく乎事しかいさむ於自しんじ任意にんい軒輊けんちしゃまたちょゆうえき圖説ずせついちかんふく異同いどう彙考さんかん大名だいみょう水道すいどうこういちかん,聞見雜記ざっきよんかんあじろくかんしゅうさんかん聞集かんしょうくさしゅうかんよしみけいじゅういちねんそつとしななじゅうなな

えびすつちかえ

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えびすつちかえ翬,ひらめ,績溪じんただし衷,しらきさいみつぎせい。於經しょ發明はつめい苟與さき儒同ことちょゆうさんれい劄記、しゅうあや井田いだかんがえ井田いだいずるかんがえ儀禮ぎれいしゃく官等かんとうしょ。其於井田いださるていよし,而授一事いちじ,以遂じんしょげん鄕遂せいだいつかさしょげん都鄙とひせいていちゅう相違そういもどさく畿内きない授田こうじついちへん積算せきさんとく精密せいみつ。其釋かんそく以周れいれいひだりでん國語こくご與儀よぎれいしょうさんしょう論據ろんきょ精確せいかくそく補注ほちゅううとところ及。またしるゆうしゅうえきでんよしうたぐさんじゅうかんひだりでんつばさふく論語ろんご古本ふるほんしょうこと論語ろんご牋、そうしゅうひょうはなれ騷集ちゅうしらきとき文集ぶんしゅうとしななじゅうよんそつ

つちかえ翬,よしみけいじゅうよんねん進士しんしかんないかく中書ちゅうしょ戸部とべ廣東かんとん主事しゅじきょかんつとむ而處ごとみつ人稱にんしょう其治かん如治けい,一字不肯放過。ぜっ受財まかなえ,而抉かくれゆびへい,胥吏咸憚かりあきらあんはつつかさいんしつ察者すうじゅうにんおもんみつちかえ翬及蔡紹こうしょけがれしかなお以隨どうだく鐫級さとこうあるじこう鍾山、雲間くもま,於涇かわいちさいいたりなみ引翼後進こうしんためおのれにん涇川門人もんじんしつらえいんはなむけしゃしょうもち於道。あつし友誼ゆうぎ,郝懿ぎょうえびすうけたまわ珙遺しょみなよりゆきつちかえ翬次だいづけあずさみちこうじゅうきゅうねんそつねんろくじゅうはち

績溪えびす自明じめいしょなま東峰ひがしみね以來いらいせいでん經學けいがくつちかえ翬涵濡先さわまたがく於歙しのげ廷堪,邃精さんれいはつちょつばめこうさんかんおう引之而喜すんでため儀禮ぎれい正義まさよしうえ推周こう孔子こうしなつたれきょうむね發明はつめいていくん、賈氏得失とくしつつくり鴻儒こうじゅけいせいこれしょちょうすめらぎかそけびょう,闡揚せいいとぐち千餘歳絶學也。其旨あずか順德じゅんとくあつし衍書曰:「つちかえ翬撰正義まさよしやくゆうよんれい:一曰疎經以補注,二曰通疎以申注,三曰匯各家之説以附註,四曰採他説以訂注,しょ凡四じゅうかんいたり賈氏公彦きみひこうとあるかいけい而違けいむねあるさるちゅう而失注意ちゅうい不可ふかべんべつため儀禮ぎれい賈疎ていうたぐいちしょ宮室きゅうしつ制度せいどこん以朝せいびょうせいせいためつな,以天諸侯しょこう大夫たいふため學制がくせいそく分別ふんべつ庠、じょかんせいのり分別ふんべつこうわたしみなさきはた宮室きゅうしつこうじょう,而以じゅうななへん所行しょぎょうれいじょうけい於後,めい宮室きゅうしつひさげつなりく經典きょうてんしゃくぶん儀禮ぎれい頗略,なずらえかくけい音義おんぎ及集しゃくぶん以後いごかくいえおんきり,挨次ろくめい儀禮ぎれいしゃくぶんこう。」つちかえ翬覃せいしょ凡四じゅうねんばんとし患風しびれなおちからやまし從事じゅうじなおゆう昏禮、鄕飲しゅれい、鄕射れいつばめあやだいへん卒業そつぎょう而歿。門人もんじんこうやすし楊大堉從がくれいため成之しげゆきちょゆう禘祫問答もんどうとぎろくしつぶん鈔。

つちかえ翬門じん 楊大堉

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だい堉,みやびしょせい篤學とくがく寡交,けんきゅうけいくんはつしたがえ元和がんわ顧廣圻、くれけんぼたんじゅだまゆう,備聞あおまさ閫奧。ちょせつぶん重文じゅうぶんこうろくかんじゅん以聲おともとむ叚借,以偏つくりしげるしょうもとめいにしえ、籀異同いどうへんまたさくびょうかんがえせん駮王肅之しつこうただしすえ澍以ぼううみこころみしょせいだい洋洋ようよう千言せんげん大略たいりゃくいい:「中國ちゅうごくかん恃客きょじょう臨下,ようじんわかしょうまけ販。顧彼雖好,而越すうまんさと海洋かいよういたり此,此必しょはさみしゃ。鹵莽ぎょう,必生すき。」うけたまわひらひさにん習附和之かずゆきだんどくだい卓識たくしき正論せいろんただししか忌諱ききわかぼくゆうりつ、璞鼎査之ごと讀者どくしゃしょくへんちょ論語ろんご正義まさよしもう補注ほちゅう、三禮義疎辨正,みな佚。

りゅうぶん

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りゅうぶん淇,はじめ瞻,ちょうじんよしみけいじゅうよんねんゆうみつぎせいちちすず瑜,以醫めいぶん淇稍ちょうそくけんきよしせきぬきくしぐんけい。於毛、てい、賈、あなこれしょ及宋、もと以來いらいどおりけいかいよしみ博覽はくらんめいさがせ折衷せっちゅういちゆう肆力春秋しゅんじゅうひだりでん,嘗謂ひだりよしためもりちゅう剝蝕ひさし,其稍觀覽かんらんしゃみながかりかさねきゅうせつ。爰輯ひだりでんきゅうちゅううとしょういちしょ先取せんしゅ賈、ふくていさんくんちゅう疎通そつう證明しょうめい。凡杜しょ排撃はいげきしゃ糾正しょ剿襲しゃ表明ひょうめい。其沿よう韋氏國語こくごちゅうしゃまたいち​​いちうと如五經異義所載左氏説,みなほんひだり先師せんしせつぶんしょ引左でんまた古文こぶんせつ漢書かんしょ五行志所載劉子駿説。じつひだり一家いっかまなべけいうとふみちゅう御覽ごらんとうしょしょ引左でんちゅう姓名せいめい而與もりちゅうことしゃみな賈、ふくきゅうせつ。凡若此者,みなしょうためきゅうちゅう,而加以疎しょう。其顧、めぐみ補注ほちゅう及近じんせんしゃくひだりしょせつ有可ゆか,咸與とうれつすえはじめ以己てい其從たがえうえ稽先しん諸子しょししもこうとう以前いぜん史書ししょつくり及雜筆記ひっき文集ぶんしゅうみなためしょう實事じつごともとめ,俾左大義たいぎ炳然ちょあかり草創そうそうよんじゅうねん長編ちょうへんやめしかはいなりしょためひだりきゅうちゅううとしょうまたいい:「ひだりでんよしうとかさねりゅうひかりはくじゅつずい經籍けいせき及孝けいうとくもじゅつしゃじゅつ其義,うとしかのりこうはくほんきゅううと得失とくしつ,其引きゅううと,必當ろく其姓めいあな穎達ひだりでんうとじょ祗雲よりどころ以爲ほんはつかさね其説。いたりなが徽中しょしんしょうじょう,乃將きゅうちゅう姓氏せいしそぎかさねためおのれ。」よしほそ剖析,なりひだりでんきゅううとかんがえせいはちかん

またよりどころ史記しきはたすわえさい月表げっぴょう項羽こうう曾都かく其時ぜい,推見割據かっきょじゅつなりすわえかん諸侯しょこう疆域こころざしさんかんよりどころひだりでんえつ春秋しゅんじゅうみずけい註等しょいいとうそう以前いぜんあげしゅう地勢ちせいみなみ髙北,且東西とうざいりょうきし未設みせつ堤防ていぼうあずかこん運河うんが形勢けいせい迥不しょうどうなるあげしゅう水道すいどうよんかんまた讀書どくしょ隨筆ずいひつじゅうかん文集ぶんしゅうじゅうかんいちかん

ぶん淇事おや純孝すみたかちちねんあつしろうもく眚,さむらい起居ききょ朝夕ちょうせき扶掖,さむよるあしこおさむらいおや以温其足。しゅうとしのげあけぼの極貧ごくひんのこ毓瑞,ぶん淇收そだてこれのべどう里方さとかたさるため其師,なみしょせいさるどおりおそれえきみな其教也。そつねんろくじゅうゆうろく

ぶん淇子毓崧

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毓崧,はくやまみちこうじゅうねん舉優みつぎせいしたがえちち受經,ちょうえき致力於學。以文淇故,ひだり纘述さきぎょうなり春秋しゅんじゅうひだりでん大義たいぎかん。以文淇考證左しょうさでんきゅううといんうけたまわ其義れいしるしゅうえき尚書しょうしょもうれいきゅううとこうただしかくいちかんまたいい六藝りくげいきょうさきまなぶかくゆうかん惟史ただしかんたてため最古さいこどく史家しかかくからだかくるいなみささえ裔之小説しょうせつ家出いえで於史かんそくけいしゅう三部及後世之幕客書吏,淵源えんげんしょ仿,また於史かんはんこころざし藝文げいぶん論述ろんじゅつ史官しかんなお未發みはつ斯旨。其敘きゅうりゅう,以明諸子しょし所出しょしゅつかん,必有しょ授,而其ちゅう仍有ぶんしょう失當しっとうしゃすんで析九流中小説家流歸入史官,またわきまえ道家みちやせん於史かんあらためため於醫かんまた增益ぞうえきしゃさんいえ:曰名於司かん兵家へいか於司かん藝術げいじゅつ於考こうかんみつるためじゅう一家いっかひろし稽載せき窮極きゅうきょくようなり史乘しじょう諸子しょし通義みちよしかくよんかんまた經傳けいでんどおりじゅうかんおう船山ふなやま年譜ねんぷかん,彭城けんじちょうろくじゅうかんきゅうとくろくいちかん通義みちよしどう筆記ひっきじゅうろくかん文集ぶんしゅうじゅうろくかん詩集ししゅういちかんそつねんじゅう

まごことぶき

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まごことぶき曾,きょうはじめどうさんねんひかりいとぐちねんりょうちゅうふく榜。毓崧ぬしきんりょうしょきょくため曾國籓所じゅう。毓崧そつ,招壽曾入きょくちゅうしょかんぐんせきためこうじょうはつぶん淇治ひだり春秋しゅんじゅう長編ちょうへん晩年ばんねん編輯へんしゅうなりうとはじめとくいちかん,而文淇沒。毓崧おもえそつ其業,はてことぶき曾乃發憤はっぷん以繼こころざしじゅつごとためにんいむたて課程かていいたりじょうおおやけよんねん而卒,ねんよんじゅうまた讀左劄記,春秋しゅんじゅうじゅう凡例はんれいひょうみなひだりうとときつくり交通こうつう發明はつめいよしみしゃちょ昏禮べつろんたい駮義,みなみこうしゅうひょうでんみやびどうしゅうしばくも雜記ざっきかく若干じゃっかんまき

かたさる

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ほうさるはしときしょう,受學於文淇,つうえきちょ諸家しょかえきぞうべつろくおそれえきぞう匯編、しゅうえきぞうしゅうしょうしゅうえき互體詳述しょうじゅつしゅうえきへん舉要。

ちょう

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ちょう晏,柘堂,江蘇こうそ山陽さんようじん。阮元ためこげとく,以漢えきじゅういえはつさく,晏條たいまんことせいおくため當世とうせいかんむりみちこう元年がんねん舉人。晏以顧炎たけうんうめ賾偽古文こぶんまさひそか賾所のうためこういえじょ及釋ぶん正義まさよし,而斷ためおう偽作ぎさくぶた肅雅ざい博學はくがくこうさくにせ以難ていくんていくんまなべ昌明まさあき於漢,肅爲古文こぶんあなでん以駕其上,誤信ごしん近世きんせいめぐみとうおうもり頗疑肅作而未のうとおる其旨,とくちょろんさるべんせん尚書しょうしょあまりろんかんまた以胡渭禹みつぎきりゆびのうにせ古文こぶん,而不能ふのう信好のぶよし古學こがくかかと謬沿譌,たくまし臆見おっけん學者がくしゃなんしょただしすんでため正誤せいご以匡其失,复採古文こぶん,甄録きゅうせつ,砭俗てい譌,だん以己發揮はっき經文きょうもんどろいにしえ引用いんよう前人ぜんじんせつかくけい姓氏せいし於下おした,輯禹みつぎしゅうしゃくさんかん

生平おいだいらあつしこうていまなぶ,於詩牋、れいちゅうとぎ討尤ふか。以毛こうまなべとく聖賢せいけん正傳せいでん,其所しょうどうあずかしゅうはた諸子しょししょう出入でいり康成やすなりさるとおるもうよしおさむ敬作けいさく牋。あなうと不能ふのうひろ繹,あやまいいやぶあらため援引えんいん疎漏そろうしつていむねいんはく稽互かんがえあかししょみやびよしわか合符あいふせんていしゃくよんかん康成やすなりそうおうほろびいまどおりこころざしどう刊本かんぽん譌脱踳駮。爰據正義せいぎはい比重ひじゅうへんせんていこうせいいちかん。以康なりけんさんいえおうおう麟有さんいえかんがえかんたまかいこれます謬錯善本ぜんぽん。乃蒐採原書げんしょこう是正ぜせいせんこう補註ほちゅうかん補遺ほいいちかん

ていちゅうれいいたりしらげとお不爲ふため憑虚臆説おくせつまでこんこうしゃ,如儀禮ぎれい喪服もふくちゅううまとおるせつおそれちゅうがつ而禫,註じゅうなながつ戴禮喪服もふくへんじょしゅうあやだいつかさらくちょう》,ちゅうもと叔重せつあずかせんてい不同ふどうしょう胥縣しょうかおる,註はちじゅうろくまいざいいち虡,りゅうこう五經ごきょう要義ようぎしょう宗伯そうはく註五せいみかどりゅうこう五經ごきょう通義みちよしじんちゅうしょうこん儒家じゅか賈侍ちゅう註。こうこうやま以章,ちゅうさく麞,うまちょうちゅうれいだんゆみかわらなりあじちゅうとうさくあわはんかた白虎びゃっこどおり王制おうせいだい綏小綏,ちゅうとうさく緌,りゅうせいせつえん玉藻たまももとはし朝日あさひてい讀爲冕,だい戴禮あさことまつりほうかそけそう雩祭,てい讀爲禜,もとせつぶんていくんしんじ好古こうこ原本げんぽんさき儒,かくゆう依據いきょ。凡此釋義しゃくぎあなのこ闕,みな前人ぜんじん未發みはつ疎通そつう證明しょうめいわか爟火。せん三禮釋注共八巻,また輯鄭康成やすなり年譜ねんぷしょ其堂曰「六藝りくげい」,康成やすなり六藝りくげいろん,以深おおせどめおもえしか晏治經學けいがく掊撃そう儒,嘗謂漢學かんがくそうまなぶこれぶん門戸もんこ也。かん儒正其詁,詁正而義以顯;そう儒析其理,あかり而詁以精:しゃ不可ふかへんはい。其於えきじゅつほどつてせんしゅうえきじゅつでんかん;於孝けいしゅうとうげんむねそう司馬しばひかり、范祖禹之ちゅうせんこうけいじゅついちかん

ゆうじゅく於通かん經世けいせいゆうひろし。嘗與じんろん鈔弊,いいけいぜにぎょう鈔,必有利ゆうり無害むがいろんきんよう菸,いい禁則きんそくみん以弱,中國ちゅうごく必疲,禁則きんそく在所ざいしょそうそとえびす必畔。且禁煙きんえんとう以民いのち爲重ためしげ不當ふとうけい立法りっぽうとう中國ちゅうごくためさき不當ふとう擾夷。こう悉如其言。在籍ざいせき辦堤こうつかさにぎわいつとむおさむじょう,浚市かわ開通かいつうぶんみぞちゅうささえひとし有功ゆうこう於鄕さと

咸豐さんねん,粵匪蔓延まんえん大江おおえみなみきたとくなでげきぎょう府縣ふけんねりいさむつもるこくためもり禦計。淮安以晏ぬし其事,旋以ごとためじんしょ劾,たてまつむねいぬ黑龍江こくりゅうこう,繳費めんぎょうじゅうねんねじ匪擾淮安北關きたのせき,晏號召團ねりふん佈要隘,しろ以獲ぜんじゅういちねん,以團ねり大臣だいじん晏端しょこも,敘前もりじょう績,ゆかり侍讀じどく銜内かく中書ちゅうしょ三品みしな銜。

晏少疾病しっぺい,迨長讀書どくしょやしなえにちえき強固きょうこいちしょ畢,ほうおさむしょこう書籍しょせきごくおお,必徹終始しゅうしひかりいとぐち元年がんねんそつねんはちじゅうゆうところ著書ちょしょよんじゅうななしゅ,凡一ひゃくさんじゅうろくかん,其已かんしゃため頤志とき叢書そうしょ

おう

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おう筠,貫山ぬきさんあんたかしじんみちこう元年がんねん舉人,かん山西さんせい鄕寧けんけん。鄕寧ざいまん山中さんちゅうみんしらきごと簡,訟至りつばんひまそく抱一ほういつへんけんじょみぞさいけんきょく沃,ごう繁劇はんげきけんみなしかまた嘗廢がく

筠少篆籀,及長,ひろしわたるけいゆうちょう於説ぶんせつぶんまなべせい推桂、だん兩家りょうけ,嘗謂:「かつらせん臚古せき足達あだちもとせつ而止,したおのれおもんみ引據しつ於限だん,且泛及藻繢之だんたいだいおもえしらげ所謂いわゆる通例つうれいまた前人ぜんじんしょ未知みちおもんみ武斷ぶだんささえはなれあるめん。」またいい:「文字もじおくかたちおとさんはし古人こじんみやつこ也,正名まさなひゃくぶつ,以義爲本ためもと,而音したがえこれ,於是乎有がた後人こうじん識字しきじ也,よしがた以求其音,よしおん以考其義,而文字もじせつ備。六書りくしょ指事しじ象形しょうけいためくび,而文字もじ樞機すうきそくざい乎此。其字爲事しごと,而作しゃそくよりどころごと以審,勿由以生ごと。其字ためぶつ,而作しゃそくよりどころぶつ以察,勿泥以造ぶつ。且勿かり他事たじ以成此事,勿假他物たぶつ以爲此物かたち,而後あずかあお頡、籀、斯相しつ一堂いちどう也。いませつぶんそくしたがえこうしたがえ屮,とり鹿足かのあし相似そうじしたがえ匕,苟非後人こうじんしょ竄亂,のりもとくんあら矣。」乃標舉分べつ疎通そつう證明しょうめいちょせつぶんしゃくれいじゅうかんしゃくれいうんしゃそくもとしょ而釋其條れいなおもりもと凱之於春秋しゅんじゅう也。また以二徐書多渉草略,以李燾亂其次第しだい,致分べつきょ脈絡みゃくらく不可ふか推尋。だんだまさいすんでそうため通例つうれい,而體裁ていさいしょかかわのうしょう備。乃採かつらだん諸家しょかせつちょせつぶん句讀くとうさんじゅうかん句讀くとううんしゃようちょうなんじ儀禮ぎれいていちゅう句讀くとういい漢人かんどけいせつりつめい章句しょうく,此書うとかいもとせつあきらげん曰句讀也。

筠治せつぶんまなべたれさんじゅうねん,其書どく闢門みち折衷せっちゅういちはた於人。論者ろんしゃ以爲もと功臣こうしんかつら段之だんし勁敵。またゆうせつ文系ぶんけいでんこうろくさんじゅうかん文字もじこうむもとめよんかんちょ有毛ありげ重言じゅうげんいちかんそうごえ疊韻じょういんせついちかんなつ小正おばさ正義せいぎよんかん弟子でししょくせいおといちかん正字せいじりゃくかんじゅつへん、禹貢正字せいじ、讀儀禮ぎれいていちゅう句讀くとうかんあやま四書ししょせつりゃく。咸豐よんねんそつねんななじゅういち

曾釗

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曾釗,さとおさむ南海なんかいじんみちこうねん拔貢せいかん合浦がつぽけん教諭きょうゆ調しらべ欽州がくせい。釗篤がく好古こうこ,讀一書必校勘譌字脱文。ぐう秘本ひほんある人影ひとかげうつしあるふところもち就鈔,せきななはちねんとくすうまんかんけんもとむけいよし文字もじそくこうせつぶんたまへん訓詁くんこそく稽之方言ほうげんしかみやび,雖奧みそなんどおり,而因ぶんとくよしいんとくおんるいのう以經かいけいかくゆう依據いきょいりたけすすむりゅう逢祿,逢祿曰:「篤學とくがくわか冕士,われ道東どうとう矣!」冕士。釗號也。

ちょう阮元とく粵,ふるえさわつとむ兆麟見釗所校字林,以告もともと驚異きょういのべ請課こうひらきがく海堂かいどう,以古がくづくり特命とくめい釗爲學長がくちょう,獎勸後進こうしん。嘗因もとせつ日月じつげつためやすためごうついたちわきまえざいついたちえきさら發明はつめいはじめ,引繫やめがかぞう莫大ばくだい乎日がつたまかい於壬みずのとにちじょう月下げっかぞう未濟みさいためみそもと以爲あしはつむべさいとおるげん,以明はじめまなべよしちょしゅうえきおそれななかんちょゆうしゅうれいちゅううとしょうよんかんまたせつかんまたてい異同いどうべんいちかんもう經文きょうもん定本ていほんしょうじょいちかんこういちかん音讀おんどくいちかんおそれしょいのち羲和あきらかいいちかん論語ろんごじゅつかいいちかん讀書どくしょ雜誌ざっしかんめんじょうろうしゅうじゅうかん

釗好こう經濟けいざいまなべじゅういちねん英人ひでと焚掠うみ疆,以祁かえとくりょう粵,ばん禺舉じんりく殿どのくにけんじ,塡大せきりょうとく、瀝かわどう以阻せん舉以とい釗,釗言:「えきしょうしつらえけんしゃ恃天塹,藉地ざい人相にんそうしつらえ而已。入省にゅうしょうかわどうさんりょうとく、瀝みなあさゆかり大石おおいしいたる大黃だいおう水深すいしんすうたけさん四月夷船從此入,とうさきごとぼう,以固しょうじょうしろかたしかこうよし内達ないたつがい。」甚韙ゆだね釗相ふさが形勢けいせい,釗以大石おおいしためだいいちかなめ,糾南海なんかいばん禺二縣團勇三萬六千晝夜演練,ぼうつとむとげみつじゅうさんねんはかりごと修復しゅうふくとらもん砲台ほうだい,釗進砲台ほうだい形勢けいせいじゅうじょうやめ而廉ようぞくおこり以釗習知しゅうちれんしゅうじょうがた釗與軍事ぐんじ海賊かいぞく投首なげくび。咸豐よんねんそつ於家。

りんはくきり

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はやしはくきりきりくんばん禺人。よしみけいろくねん舉人。生平おいだいらこうためこうよりどころまなべ宗主そうしゅかん儒,而踐くつそく服膺ふくよう朱子しゅし門戸もんこことおやこうみちこうろくねんためしれいちちやめそつ,悲慟よくせいきょ悉遵れい,蔬食、入内じゅだいしゃさんねんふくじょうおおやけしゃ一意いちいたてまつははあずかりょうおとうと友愛ゆうあい教授きょうじゅ生徒せいとひゃく餘人よにん,咸敦ないぎょうつとむ實學じつがく。粵督阮元、鄧廷楨皆敬禮けいれいもとのべためがく海堂かいどう學長がくちょう,廷楨聘課其二そのじじゅうよんねん,以選授德慶州けいしゅうがくただし,閲さんねんそつ於官,ねんななじゅう

はくきり於諸けい不通ふつうゆうふか於毛いいでん不同ふどうしゃ大抵たいていもうよしためちょうあなうと以王肅語ためまた往往おうおうこんてい於毛。ため詩學しがくしゃとう分別ふんべつかん庶幾しょきしつ家法かほうよしこうてい異義いぎためどおりこうさんじゅうかんまたちょでんれいかんまたつづり其碎瑣辭,ちょ識小さんじゅうかんみなごくしらげ覈。ちょゆうえきぞうしゃくれいじゅうかんえきぞうみやびくんじゅうかん,三禮注疎考異二十巻,かん昏喪祭儀さいぎこうじゅうかんひだりでん風俗ふうぞくじゅうかん古音こおん勸學かんがくさんじゅうかん史學しがく蠡測さんじゅうかんきょう小言こごとかん古諺こげんじゅういちかんりょう粵水けいよんかん,粵風よんかんおさむ本堂ほんどうわらよんかん詩文しぶんしゅうじゅうよんかん

つけ 黼平

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黼平,繡子,よしみおうしゅうじんよう穎異。としじゅうよん精通せいつう樂譜がくふ。及長,漢學かんがくこう考證こうしょうよしみけいじゅうねん進士しんしせん翰林院かんりんいん庶吉かんあらため昭文あきふみけんけんこと一以寬和慈惠爲宗,にんようむちなぐごくずいいたりずいゆいおおやけあまりそくしゅいちへん民間みんかんいんゆうじゅう書生しょせいこれ。以虧挪落しょく繫獄,すうねん乃得かい粵督阮元ひらきがく海堂かいどう,聘閲げいとげとめ諸子しょしけいところちょじゅうよんかんみちこうじゅうねんそつねんろくじゅうさんちょゆうえきかんあやまかん文選ぶんせん異義いぎかん,讀杜かん筆記ひっきかん

やなぎきょうおん

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やなぎきょうおん原名げんめいきょうむねまろうど叔,じんみちこうじゅうねん舉人。受業じゅぎょう於儀ちょう阮元。はつ,以毛おおやけ荀卿,荀卿こくはりこくはりはる鞦韆ぜっがくもとこくすめらぎきよしけいかいおおやけひつじひだり倶有せん,而穀はりかけ焉。乃發憤はっぷん沉思,なりこくはり春秋しゅんじゅう大義たいぎじゅつさんじゅうかん,以鄭六藝りくげいろんうんこくはりぜん於經」,とげ專從せんじゅうぜんけい入手にゅうしゅ,而善けいそく以屬ごとためよりどころことあずかそく春秋しゅんじゅう日月じつげつとうめいれい定之さだゆき。其書凡例はんれいいいせいけいすんで以春秋定あきさだめい,而無事ぶじなお必舉よんくびがつこう儒謂日月じつげつけいだいれいため通論つうろんこくはり日月じつげつたとえどろそくなんどおりそくえきあずか其議でん而轉いいけいあやまわかしんけい並存へいそん傳説でんせつじゅつ月例げつれいだいいちいい春秋しゅんじゅう治亂ちらん已然いぜんれい乃防らん未然みぜんこくはりおや受子なつ,其中典禮てんれいなお與論よろんなつしゅう冕相ひょううらじゅつれいれいおとうといいこくはりあずかひだりおおやけひつじことしゃ以百すう漢書かんしょ儒林でんうん:「こくはり魯學,おおやけひつじ乃齊がく也。」此或よしひとし、魯異讀,おとてん而字またぶんじゅつぶんおとうとさんいいこくはりおや受子なつつてちゅうよう孔子こうし孟子もうこせつ,其他暗合あんごうしゃさらじゅつ古訓こくんおとうとよんいいかん以來いらいこくはり授鮮ゆうせんようとく擯諸せつそとじゅつせつおとうといいかん儒師せつしゃおもんみいん更始こうしりゅうこういえしかさがせ寥寥りょうりょう。其説やめほろび,而名僅存しゃかん以後いごなみ三傳者亦收録焉。じゅつけい師弟していろくいいこくりょうひさぞくけい,茲於所見しょけんせきわたるこくはりしゃ,循次摘録てきろく論斷ろんだんなみちょほんけいはいきょう源流げんりゅうじゅつ長編ちょうへんおとうとななばん禺陳澧嘗ためこくはり牋及條例じょうれい未成みせい後見こうけんきょうおんしょ,歎其せいはくとげ其説備採,ふくさく

ちょゆうしゅうえきよんかんおそれいっぞうこうかん尚書しょうしょ篇目へんもくこうかんもうちゅううと糾補さんじゅうかんぞくおうおう麟詩こうかんぐんけい異義いぎよんかんりゅうこう年譜ねんぷかん儀禮ぎれいしゃくみやこうべんかん史記しき漢書かんしょみなみひとししょ校勘こうかんせつぶんかい校勘こうかん宿やどいちとき詩文しぶんしゅうひかりいとぐちろくねんそつねんはちじゅうゆうろく

きょうおんおとうとさかえむね

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おとうとさかえむねつばさみなみちょゆうせつぶん引經こうじゅうろくかん同時どうじためこくはり學者がくしゃゆう南海なんかいほうやすしうみしゅうもとかつらりんよしみぜん鍾文烝、こうみやこうめ毓。ほうやすしゆうでん

もとかつらりん

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もとかつらりんどう叔,うみしゅうじんよしみけいじゅういちねん舉人。しょうこう於母及生母せいぼあいだごといえひん以厚ぬさえきどおゆうにち以詁けい爲事しごとみちこう元年がんねんちょうない艱,以毀そつねんよんじゅうさんかつらりん於諸けいみなゆう發明はつめいゆう篤信とくしんこくはりまなべちょ春秋しゅんじゅうこくりょうこくでん日月じつげつ書法しょほうしゃくれいよんかん。其書ゆう引公ひつじ而互しょうしゃゆう駮公ひつじ而專ぬししゃみずうみまごぼし衍嘗以條理じょうり精密せいみつろん辨明べんめい允許いんきょまたちょえきかくじゅうかんだいむね以乾ためぬしいいぜんえきみないぬい所生しょせいはくかんやく,於易義實よしざねゆう發明はつめいべつ有毛ありげはちかん春秋しゅんじゅう三傳さんでん地名ちめい考證こうしょうろくかんかんべつほんれい長義ながよしよんかん大學だいがく中庸ちゅうよう講義こうぎかん四書ししょいんろんかん。嘗以其餘りょく六書りくしょきゅうすうちょもとせつおんじゅうかん,以配せつぶんまたちょせつぶんかいじゅうかんまた以岐はくごと大氣たいき舉之」。がいから,其氣はたがいゆうから,此殼なにおもえとく一説以補所未及。ぶたてんじつ一氣いっき,而其ざいきた北極ほっきょく是也これや北極ほっきょく當爲とういてんくるる,而當爲とういははよし採集さいしゅうせんよる遺文いぶん以西いせいほうどおりちょせん西にしどおりさんかんまた以算以簡ためとうと,乃取欽定きんてい數理すうりせい蘊,つまみ其切於日ようしゃちょさんよんかん生平おいだいらしょ著書ちょしょよんじゅうしゅ凡百ぼんぴゃくすうじゅうかんあまいずみ琳從ゆう以西いせいさんめい

鍾文烝

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鍾文烝,つとむよしみ善人ぜんにんみちこうじゅうろくねん舉人,こうせんけん。於學しょ不通ふつう,而其全力ぜんりょくゆうざい春秋しゅんじゅうよし沉潛反覆はんぷくさんじゅうねんなりこくはり經傳けいでん補註ほちゅうじゅうよんかん。其書網羅もうらしゅ折衷せっちゅういち。其未けい人道じんどうしゃ於梅鷟之べん偽書ぎしょひねだいこれだんいんりゃく引其いとぐち,以待けんぶん烝兼きわむそうもとしょ儒書,書中しょちゅうわかしゃく禘祫、祢諡ほう以及こころこころざし不通ふつうひとしかちどう、以道受命じゅめいとうみなのう提要ていよう挈綱,實事じつごともとめまたちょろん語序ごじょしょうせいいちかんそつねんろくじゅう

うめ

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うめ毓,のべこうみやこじんどうきゅうねん舉人,こうせん教諭きょうゆしるゆうこくりょう正義まさよし長編ちょうへんいちかん

ちん

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ちん澧,らんはじめばん禺人。みちこうじゅうねん舉人,かわみなもとけん訓導くんどう。澧きゅうさい能文のうぶんふくとい詩學しがく於張維屛,もん經學けいがく於侯やすし。凡天文てんもん地理ちりらくりつ算術さんじゅつ、篆隸研究けんきゅう中年ちゅうねん讀諸けい註疎、ふみ朱子しゅししょにちゆう課程かていはつちょごえりつどおりこうじゅうかんいい:「しゅうれいろくりつ、六同皆文之以五聲,れいこえろくりつじゅう二管還相爲宮,いま俗樂ぞくがくゆうななこえ而無じゅうりつゆうなな調ちょう而無十二宮じゅうにきゅう,​​ゆうこうじゃく不知ふちみやしょうすみちょうはね。懼古らくとげぜっ,乃考古今ここんごえりつためいちしょ。」またきりいんこうろくかん外篇がいへんさんかんいい:「まご叔然、りくほうげんまなべそん於廣いんむべあきら其法,而不惑於沙門しゃもんせつ。」またかんこころざし水道すいどう圖説ずせつななかんいい地理ちりまなべとう水道すいどうはじめかん水道すいどうそくこうかんこおりけん

其於漢學かんがくそうまなぶ能會のうかい其通,いい:「かん儒言義理ぎり於宋儒,そう輕蔑けいべつかん儒者じゅしゃ也。きん儒尊かん儒而講義こうぎまた也。」ちょかん儒通ななかん晩年ばんねんひろもとめ大義たいぎ及經がく源流げんりゅうただしへん得失とくしつ所在しょざい而論たたえこれそと及九りゅう諸子しょしりょうかん以後いご學術がくじゅつためひがしじゅく讀書どくしょじゅういちかん

其教じん自立じりつせつ,嘗取顧炎たけろんがくかたり而申いい:「博學はくがく於文,とうさき習一げいかん外傳がいでん曰'こういちのりはく',好則よしのりざつ也,博也ひろや讀經どきょうふみしゅうよんしょみながく也,而當以經ためぬしゆうとう以行おのれゆうはじためぬし。」ためがく海堂かいどう學長がくちょうすうじゅうねんいたりおいおもこうきく坡精しゃあずかしょせいこうろん文藝ぶんげいつとむ篤行とっこうりつひん成就じょうじゅ甚衆。ひかりいとぐちななねん,粵督ちょういつきごえじゅんなでひろしひろし以南いなんうみしゅ琦與澧皆耆年碩德せきとく奏請そうせい褒異,きゅうひんきょう銜。はちねんそつねんななじゅうさん

ちょゆうせつぶんごえひょうじゅうななかんみずけい註提つなよんじゅうかんみずけい西南せいなんしょみずこうさんかんさんすべじゅつ詳説しょうせつさんかん三角さんかくたいらほういちかんきんりついちかんさるはんいちかん,摹印じゅついちかんひがしじゅくしゅうろくかん

つけ ほうやすし

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ほうやすしくん謨,またばん禺人。みちこうじゅうねん舉人。しょうことははこういえひんよくかいしょははたたえかしとくぜにかいじゅうなな,讀之,巻帙かんちつみな敝,とげどおり史學しがく。及長,せいけんちゅううとたたえふかけいじゅつあずかどうさとひね灃交さいひさ。嘗謂:「かんこころざし春秋しゅんじゅうけいじゅうへんしゃひだりけい也,けいじゅういちかんしゃおおやけこくけい也。こん以三でんさんこう大要たいようけいためゆうこくりょういずるさいさき,其誤なお寡。おおやけひつじさいばん,其誤しげる甚。」乃取其義ひろしゃ疎通そつう證明しょうめいちょ春秋しゅんじゅうけいせつかん又治またじこくはり以證さんれい,以公ひつじざつしゅへん駮,はい詆獨ちょこくりょうあやしょう未完みかんちつ,僅成かんまた彷裴まつ三國志さんごくしれいちゅう,嘗曰:「ちゅう古史こしあずかちかことちゅうこんしゃぐんしょだい備;ちゅう古史こししゃのこせき罕存。當日とうじつため唾棄だき今日きょうみな見聞けんぶんじょむべ而存。」いんため漢書かんしょ補注ほちゅうぞくいちかん三國志さんごくし補註ほちゅういちかんこうかんしょうつづけしゃ,以有めぐみとうちゅう;三國志杭世駿注未完善,しょうぞく也。またかんさんこく藝文げいぶんこころざしかくなりけいふみよんかん未成みせいまたこうかん六朝りくちょう禮儀れいぎぬきくしさんれい著書ちょしょすうじゅうへん,澧嘗嘆以ためせいふかひろしはくじゅうななねんそつねんよんじゅう

かんおとうと

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おとうときんあずかかんどう榜舉じん,以大挑知けんぶんはつ廣西ひろせしょかわ池州いけすしゅう廣西ひろせぞくおこり伐木ばつぼくためしがらみいんやまぜい聯絡れんらく堅固けんごもりぞく退すさ,以病つげいたりとげそつねんじゅうななあまねつくづく經傳けいでんゆうちょうれいがくたたえこう」。よしみきょうぜにきち嘗稱其研覈傳ちゅう,剖析異同いどう,如辨懿伯、めぐみはくため父子ふしさんろう五更ごこうためいちにん證明しょうめいていよしみなゆうよりどころところ著書ちょしょためえびす寇所焚,其説經文きょうもんこくがく海堂かいどう集中しゅうちゅう

つけ かつらぶん

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かつらぶん燦,しろぶん燿之おとうとみちこうじゅうきゅうねん舉人。どうねん正月しょうがつおうみことのりひねごと:曰嚴甄別以淸つかまつ,曰設まくしょく以重こうなり,曰分三途以勵科甲,曰裁孱弱以節糜費,曰鑄ぎんぜに以資利用りようわか​​きょういん製造せいぞうせん海運かいうん滇銅,先後せんごまことぎょうひかりいとぐちきゅうねんせん湖北こほく鄖縣けん善治よしはるごく,以積ろうそつ於任。ぶん燦守阮元遺言ゆいごんいい:「しゅうこう尚文なおふみ範之のりゆき以禮;あまやまろんどう教之のりゆき以孝。苟博ぶん不能ふのうやくれいあかりべん不能ふのう篤行とっこう聖人せいじんまなべ也。ていくん朱子しゅしみな大儒たいじゅ,其行どう,其學またどう。」いんちょ朱子しゅしじゅつていろくかんちょ四書集注牋四巻,もうしゃくろくかんしゅうあやどおりしゃくろくかん經學けいがくはく採録さいろくじゅうかん

ていちん

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ていちんいん,遵義じんみちこうねん拔貢せいじゅうななねん舉人,以大挑とうせん茘波けん訓導くんどう。咸豐ねん,叛苗はん茘波,けん蔣嘉こくびょうちんりつへいこばめせんそつかん其城。なえ退すさつげどうねんだい學士がくし祁俊こも於朝,特旨とくし以知けんぶんはつ江蘇ちぁんすーようそつ不出ふしゅつさんねんそつねんじゅうきゅう

めずらしはつ受知於歙けんほど恩澤おんたく,乃益しんもとめしょ聲音こわね文字もじはらあずか宮室きゅうしつかんむりふくこれせいほうただし海内かいだいたかしなおこうよりどころちん師承ししょう其説,實事じつごともとめたてこと苟同。ふくしたがえ莫與儔遊,えきあずか聞國あさろくなな鉅儒宗旨しゅうし。於經最深さいしんさんれいいい:「小學しょうがく有三ゆうぞう:曰形,曰聲,曰義。かたちそくさんだい文體ぶんたいただしざいせつぶんわか歴代れきだいがねかなえ款識及汗簡、古文こぶん四聲韻所收奇字,すんで不盡ふじん識,また偽造ぎぞうごう六書りくしょ不可ふか以爲つね也。こえそくこんやま顧氏おんがくしょ,推證古音こおんしん而有ちょうあきらわかはつこうむまことひゃくせい祧之義則よしのり凡字しょ韻書いんしょ訓詁くんここれしょひろし如煙うみ,而欲どおりけいくん,莫詳於段だまさいせつぶんちゅう,邵晉涵、郝懿ぎょうしかみやびうと及王ねんまごこうみやびうとしょうぬきくしはく衍,超越ちょうえつ前古ぜんこみな小學しょうがく全體ぜんたい大用おおゆう。」

其讀れいけいつねよしみ以還せきややなまへいごうむね髙密,また出新いでしん未見みけんゆうしょうせついよいよしげる而事いよいよかぶらげんさんれいぼく守司もりじのう敢苟ゆう出入でいりいたり於諸けいりつふるちゅうためまた以餘りょくつくりどおりるいのう提要ていようかぎげん儀禮ぎれいじゅうななへんみなゆう發明はつめいはんだつ稿こうところしげる儀禮ぎれいわたし牋,僅有昏、おおやけしょく大夫たいふ喪服もふくよんへん,凡はちかん;而喪ふくいちへん反覆はんぷくひろ繹,ようりょくゆうふかまた以周れいこうこう輿こしていちゅう精微せいび賈疎以來いらいとく正解せいかいせつしゃえきささえづるなり輿こしわたしさんかんゆうちょうせつぶんまなべところちょせつぶんいっかん附録ふろくいちかんせつぶん新附しんぷこうろくかんみなしょう於時。ちょゆうけり圖説ずせつふかころもかんがえあせ簡牋ただしせつ隸等しょまたゆうけいけいせつ詩鈔ししょうぶん鈔,あきら鹿しか忠節ちゅうせつこう無欲むよくときちゅう

鄒漢くん

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鄒漢くん叔績,しんじんちちぶんさいみつぎせい,以古がく教授きょうじゅ鄕里,闢學しゃ曰古經堂きょうどうあずかしょなま肄士れい其中。其考よりどころてんぶつちからみこと漢學かんがく,而談心性しんせい則宗のりむね朱子しゅしかんくんどおりひだり佐伯さえきあにかんせんひだり圖説ずせつまた仲兄ちゅうけいかん潢撰ぐんけいひゃくぶつとしじゅうはちきゅうせんろくこく春秋しゅんじゅう,於天文てんもん推歩、ほう輿こし沿革えんかく六書りくしょきゅうすう,靡不研究けんきゅうどうけん鄧顯づるふかこれあずか​​おさむたからけいこころざしまたいたり黔中おさむだいじょうきょうよしあんじゅんしょぐんこころざし。咸豐元年がんねん,舉於鄕。おとずれげん於髙郵,どうせん堯典しゃくたかしいちかん

かい粵賊おちいこうやすしかんくん以援、まもり三策上書曾國籓,いい援江西にし廣西ひろせ湖南こなんまた不能ふのうもりくに籓用其言,いのち偕江ちゅうよしりつすわえいさみせんにん援南あきらかこえかい,敘勞以知けんようすんでしたがえこうただしげん於廬しゅうまもり大西おおにしもんぞくため隧道すいどうさんおさむしろ坍數たけ賊將ぞくしょうとう陴,かんくんげき卻之。堅守けんしゅさんじゅうななにち地雷じらいふくはつしろおちいかんくんすわしろろうじょういのちしゅしゃくもちけん大呼たいこころせぞくぞくいたり與格よかく鬥,すうにんちから竭死ねんよんじゅうきゅうおくみち銜。

ところちょ讀書どくしょ偶識さんじゅうろくかんげんやぶ前人ぜんじんくん,必求から以前いぜんくんふるかた敢用;たがえ牋傳ことしょう,必求かん以前いぜんことしょうかた敢從。以漢じんとおしょけい註皆ゆう師承ししょう推闡漢學かんがくのこ餘力よりょくゆうふかおとひとしまなべはつしるこういんひょうじゅうかんばんためひとしろんせつゆう精粹せいすい以江、戴目生平おいだいら於易、れい春秋しゅんじゅう論語ろんごせつぶんみずけいみなゆう撰述せんじゅつ,凡じゅうしゅごうひゃくかんどうねん土匪どひ焚其,熸焉。こんそんしゃ讀書どくしょ偶識僅はちかんひとしろんかん,顓頊れきこうかん,斅藝ときぶんさんかんいちかんべにがけ石刻せっこくしゃくぶんいちかんみなみ髙平物産ぶっさんかん

おう

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おう崧,樂山らくざんなみ穹人。よしみけいよんねん進士しんし,授山西武せいぶ鄕縣けん。崧學問がくもん淹通,ちょう阮元總督そうとくくもたかのべ崧主おさむどおりこころざしちょゆうせつぬきろくかん

りゅうたからくすのき

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りゅうたからくすのきすわえ楨,たからおうじんちちくつまことすすむきゅういぬいたかしじゅういちねん舉人,國子くにこかんてん簿しる有秋ゆうしゅう槎札

たからくすのきせいさい而孤,ははたかし教育きょういく以成。はじめたからくすのきしたがえちちだい拱漢がくせいふかたからくすのき請業於台拱,以學ぎょう聞鄕さとためしょせい與儀よぎしるしりゅうぶん淇齊めいにん稱揚しょうようしゅうりゅうみちこうじゅうねんなり進士しんし,授直隸文やすけんけんぶんやすしょうくぼつつみせきおさむぐうふく秋水しゅうすいもりみなぎ,輒爲みんがいたからくすのきしゅうくつ堤防ていぼう,詢知やましにが,爰檢きゅうさつれいとくたむろ及民どうおさむ,而旗たむろつね怙勢しょう觀望かんぼうたからくすのきほうおもねこうとげずみさい補元ほげんかいとしひでり縣西けんせい北境きたざかいいなご,袤延じゅうあまりうらたからくすのき禱東郊蠟ほこらいなごそうとう阬井,あるだき禾死,さいそくだいじゅく。咸豐元年がんねん調しらべさんかわひがししょうへいさかい故事こじへいしゃみなうらたからくすのきいいへいじゅうみんしょこらえやといしゃおうきゅう以民みんとく擾。

たからくすのき在官ざいかんじゅうろくねんころもかんむりしらき如諸せいつとむ於聽訟,かんぶんやすしんゆいせきあんせんよんひゃく餘事よじにわとりはつすわどうすめらぎりょうみやつこ具備ぐび當時とうじとぎ鞫。こと鉅細,ひとし如其ゆいあんもとしゃあきられいざい。凡渉おやぞくぞく訟者,さとし以睦★L5,がいれい解釋かいしゃく。訟獄すんで簡,吏多せき歸耕きこう遠近えんきん翕然きゅうぜんちょ循良しょう。咸豐ねんそつねんろくじゅう

たからくすのき於經,初治はつじもうていれいあずかりゅうぶん淇及うめうえ、涇包まきげんやなぎきょうおんようひねりつやくかくいちけいたからくすのきはつさくとく論語ろんごやまいすめらぎ、邢疎かぶら陋,乃蒐輯漢儒舊せつえき以宋じん長義ながよし,及近世きんせい諸家しょか,仿焦循孟正義せいぎれいさきため長編ちょうへん乃薈萃而折衷せっちゅうちょ論語ろんご正義せいぎじゅうよんかんいんかんごとしげる卒業そつぎょういのちきょう冕續成之しげゆきちょゆうしゃくこくよんかん,於豆、むぎあさ三種多補正程氏九穀考之説。かんせきれいろくかん,於碑からだれい考證こうしょうしょうはくたからおうけいろくかんしょうあさ殉揚ろくさんかんぶんやすつつみこうろくろくかん

たからくすのき きょう

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きょう冕,叔俛。ひかりいとぐちねん舉人。まもり家學かがくつうけいくんにゅう安徽あんきがくせいしゅらんまくためこう貽德春秋しゅんじゅう賈服ちゅう輯述,うつりひゃくすうじゅうことこうあるじこう湖北こほくけいこころ書院しょいんあつしひん飭行,たかしなおしらきがくよう習毛ばん年治としはるおおやけひつじ春秋しゅんじゅう發明はつめいしんしゅうよし,闢何劭公謬説,同時どうじどおり儒皆韙之。そつねんろくじゅうしるゆう論語ろんご正義せいぎおぎなえなにきゅう論語ろんごちゅうくんじゅつこうけいしつぶん鈔。

りゅうあきらみず

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りゅうあきらみず翰臣,臨桂じんみちこうじゅういちねんいちかぶといちめい進士しんし,授翰林院かんりんいんおさむせんじゅうよんねんたかし廣東かんとん鄕試ふくこうかんじゅうななねんだいこう翰詹とうななめい,以侍こうますようなながつ,簡湖きたがくせいちょ經籍けいせき舉要いちしょ,以示學者がくしゃまた以學政之まさゆきしょくゆうさんよういち曰防へい曰勵實學じつがくさん曰正人心じんしん風俗ふうぞくさんじゅうねんちょうちちゆうかいせき。咸豐元年がんねんろくがつ廣西ひろせじゅんなで鄒鳴づるそう辦廣西にしだんねり,以啓みずそう其事。ねんなながつしょうじょうかこえかい,以守じょう出力しゅつりょく,以侍こう學士がくしますようろくねんよんがつ,授通政司せいじ副使ふくし十一月じゅういちがつ,簡江西にしがくせいななねんさんがつ,遷江西にしぬのせい使はちねんきゅうがつそつ於官。

けいみずきり劘經よしゆうこうもとめ音韻おんいんまなべつらぬけ穿ほじ於顧、こうだんおうあなちょうりゅうこう諸家しょかこれしょ,而著いん通説つうせつじゅうかん。以爲ろんいんしゃ顧氏以前いぜんしつうとだん以後いご於密,こうしゃくちゅうまたためつきぜんみずうみちょうぶんじゅう一部いちぶげん:「凡言いんしゃふんいやみつごういやひろおもんみぶんみつ,其合脈絡みゃくらく分明ふんみょういたりいん一字而疑各韻可通,またいたりいんかくいん而疑いち不可ふかどおり。」けいみず服膺ふくようごと其集いん也,ぬし於嚴,而其ため通説つうせつ也,のり較之顧氏而尚さとし其寬。かかわなりせつ私見しけんさん古書こしょ,以求其是而​​やめ。其論本音ほんねろんどおりいんろんてんおんみなかくゆうよりどころ,而以ろん通説つうせつそう以名其全しょ焉。ちょゆうしか雅經まさつね註集しょうさんかんけいとくどうしゅうじゅうかん

なえ

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なえ夔,せん簏,肅寧じんおさなそく嗜六しょ形聲けいせいまなべ,讀許せつぶんわかゆう夙悟。やめまたとく顧炎たけおとがくしょ,慕之わたるあつし。曰:「われもり終身しゅうしん矣!」舉道こうじゅういちねんゆうみつぎせい,髙郵おうねんまご父子ふしれいさき於夔,ゆかりほまれもちたかし。夔以ためもと叔重遺書いしょ有爲ゆうい後人こうじん妄刪あるえきしゃ,乃訂正ていせいせつぶんはちひゃくためせつぶんごえていかん。顧氏おんがくしょたて古音こおんひょうじゅうひろしつなやめしかなおやまい其太みつ,而戈、あさすんでざつ西にしおんおうべつりつ一部いちぶ。於是なみたがやせきよしあおふけとう於東おひがしふゆなみほこあさ於支、ひとしていななかくれくくぐんけいいん以聲したがえいん部分ぶぶんためせつぶんごえ讀表ななかんもうつたえてい牋而しゅ義理ぎりしゃしゅこえひとししゃしょう,雖有りくもとろう詩經しきょう音義おんぎまた不能ふのうせんぬし古音こおんしか古音こおん有未ゆみつきあらためしゃ。夔治ゆうせい於諧ごえまなべ,嘗以ひとし、魯、かんさんいえしょう,而又以許洨長こえ讀參錯其あいだ太平たいへい戚氏漢學かんがく諧聲かいせい詩經しきょうせい讀,すずやすひとしちょうためひとしていじゅうかん。咸豐ひのとがつそつねんななじゅうゆう

龐大堃

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龐大堃,子方こかたつねじゅくじんよしみけいじゅうよんねん舉人,きわむこころ音韻おんいんまなべ,嘗謂顧、こう、戴、だんあなおう諸家しょか分部わけべ互有出入でいりしゃ,以入ごえはい隸無じゅんみみ入聲にっしょう有正ありまさひもはんひもこんいんしたがえせいひもいんしたがえはんひもかげ偶,兩兩りょうりょうしょうはい,一從陸氏法言所定爲正紐,いちしたがえ顧、こう、戴、おう所定しょていためはんひも。其轉おんほうゆう一正かずまさてんどうしゃ是也これやいち遞轉,同音どうおんしゃ是也これやいちつくりてんそう及相生者しょうじゃ是也これや一雙いっそうごえ同母どうぼしゃ是也これやまたいいよくあきら古音こおん,必先きわむからいん,乃可てい分合ぶんごうためからいん輯略かん備考びこういちかん形聲けいせい輯略いちかん備考びこういちかん古音こおん輯略かん備考びこういちかんとういん輯略さんかんちょゆうえきれい輯略かん

ひねりつ

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ひねりつたくじんようじんみちこうじゅういちねん進士しんしじゅうよんねんおう殿どのためしせん翰林院かんりんいん庶吉かんあらため刑部おさかべ主事しゅじしょうろうちゅう,授雲みなみきょくやすし請訓せいくんぶんそうゆうためじんせいまこと褒,以道梗不克之かつゆきにんしょうきゃくあげしゅううめうえ,受詩、文辭ぶんじしのげあけぼのしるしりゅうぶん淇,受公ひつじ春秋しゅんじゅうもとせつぶんていれい,而於こうひつじ致力ゆうふか

ぶん淇嘗いいかん儒之がくけい唐人とうじんさくうと,其義えきみそじょ彦之うとおおやけひつじ空言くうげんとうきんひと如曲阜孔たけすすむりゅう,謹守なんせつしょうれい而略典禮てんれい訓詁くんこたて乃博稽載せき,凡唐以前いぜんおおやけひつじ及國あさしょ儒説こうひつじしゃ左右さゆうせいしょう草創そうそうさんじゅうねん長編ちょうへんはじめみなみ,乃整齊せいせいはいとおるかい貫通かんつうなりこうひつじうとななじゅうろくかん

はつこうひつじ也,いん及漢儒説經せっきょうほういい莫備於白とらどおりさきためうとしょう,以條舉舊聞きゅうぶんとおるかくれ扶微ためぬし,而不ごと辨駁べんばくなり白虎びゃっこどおりうとしょうじゅうかんよう受爾みやびいん唐人とうじん五經正義中所引犍爲舍人、樊光、りゅう歆、じゅんまごえんいえ悉甄ろくいいかくちゅうちゅうせいげん妙諦みょうていだいりつ胎此。つけ以郭音義おんぎ及顧、沈、ほどこせしゃ諸家しょかきりしゃくなりしかみやびきゅうかん

また以古いんまなべ敝蝕やめひさし,而聲おんはらおこり文字もじせつぶん諧聲かいせいそくいんはは也。よし推廣やす姚氏せつぶんごえけいたとえとげもと書中しょちゅう諧聲かいせいぶん部分ぶぶん而綴敘之。以像がた指事しじ會意かいいためはは,以諧ごえため,其子これしょ諧,またそくかくつづり於子。其分そくかね顧、こう、戴、あなおうだんりゅうもと諸家しょかせいけん而審かくていためじゅうなりせつぶん諧聲かいせい孳生じゅつさんかん。其文ふち雅典まさのりせき大抵たいていこうていふくせい典禮てんれい及聲音訓おんくん詁爲成句せいくけいざつちょろくかんそつねんろくじゅういち

ちん

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ちん奐,せきはじめ長洲ながすじんしょせい。咸豐元年がんねん,舉孝れん方正ほうせい。奐始したがえこう沅治古學こがくきむだんだんだまさいぐうあずか沅祖ごえぜん。嘗曰:「わがさく六書りくしょ音韻おんいんひょうおもんみこうまご知之ともゆき尟有知者ちしゃ。」奐盡一晝夜いっちゅうやさがせ其梗がい。沅嘗かりたまさいけいいんろうしゅう,奐竊硃墨。こうたまさいこれしょう其學識出あな、賈上,ゆかり奐受がくだまさい。髙郵おうねんまご暨子引之、棲霞郝懿ぎょう、績溪えびすつちかえ翬、涇胡うけたまわ珙、臨海りんかいきんみさご,咸與しめ交。

奐嘗ごと大毛おおけこう詁訓傳言でんごん簡意賅,とげ殫精竭慮,專攻せんこうでん。以毛でん一切いっさいれいすう名物めいぶつかん以來いらい人稱にんしょう引,韜晦とうかいあきら,乃博ちょう古書こしょ發明はつめい其義。大抵たいていよう西にしかん以前いぜんきゅうせつ,而與ひがし漢人かんどせつしゃ苟同。また以毛まなべみなもといずる荀子,而善うけたまわもうしゃおもんみていなかもと叔重兩家りょうけ於周れいちゅうせつぶんかいしょせつちょでんうとさんじゅうかんまた以疎中稱ちゅうしょう引,ひろしこうなんあきらさら舉條れいたて表示ひょうじためせついちかんじゅん以古おん四始爲毛詩音四巻。仿爾みやびれいへんもうつたえためるいじゅうきゅうへんいちかん。以鄭ほんさんいえあずかことためてい牋考ちょういちかんまたゆう詩語しごじょさんじゅうかんおおやけひつじいっれいこうちょういちかん師友しゆう淵源えんげんいちかん,禘郊あるとえそうほんしゅういん校勘こうかんかく若干じゃっかんまき

其論尚書しょうしょ大傳だいでんあずかもうつたえどうじょうどもつらぬけろん春秋しゅんじゅうまなべしたがえこうひつじ以知れいこくはり以明れいこくはり文句もんくごく簡,必得れいすう十年而後可明其要義。ろんしゃくめいあずかもうつたえせつぶんごうしか以討かんそう説經せっきょう源流げんりゅう。其論丁度ちょうどしゅういんうん:「あつまりいんそうるいへんさき以類へんこうしゅういんさいさんしゃくあやせつぶんたまへんこういん博雅はくがのりこう讎之功過こうかはん矣。 」またうん:「りくしゃくぶんそうほんとう於集いんもとめこれこん尚書しょうしょしゃくあやけいひらけたから中陳なかじん諤等刪改ほんしゅういんそくけい刪改しゃ也。」於子書中しょちゅうゆうこうかん,嘗令其弟子でし元和げんなひのと涵爲かんあんよんかん

家居かきょ授徒,したがえゆうしゃすうじゅうにんどうぐんかんけい祺、ひのと涵、うま釗、つばとくきよし戴望,其尤ちょ也。どうねんそつねんななじゅうゆうはち

きんみさご

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きむみさごまこととき臨海りんかいじんゆうみつぎせい博聞はくぶんきょう識,邃精さんれいこれがく。受知於山陽さんようひろし廷珍,あずか析難辨論べんろんなりれいせつかんよしみけいじゅうよんねんそつ於京ていところちょもとめろくいちしょ宮室きゅうしつ衣服いふく、郊祀、井田いだこれるいぬきくしかんからしょ儒之せつじょうこう而詳べんみさごまた嘗輯論語ろんご鄕黨ちゅう,釐正きゅうせつ,頗得意とくいかいそつ稿こうぜん佚,ちん奐求どく,釐爲もとめろくれいせつじゅうかん,鄕黨正義せいぎいちかん

しきさん

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しきさんぜんまいてい海人あまとしみつぎせいことおやこう,嘗赴鄕試,はは裘暴やましそつ於家,はせ慟絶。父老ふろう且病,臥床がしょうすうねん衣食いしょく靧洗,必躬おや歿,もち以禮,ちかい再應さいおう鄕試。於學たて門戸もんこひろし綜群けいえき春秋しゅんじゅう,而尤ちょうさんれいろん禘郊宗廟そうびょう,謹守ていまなぶろんふういき井田いだへい學校がっこうあかりどう宗法しゅうほうもろせいゆうだい疑義ぎぎ,必釐正之まさゆきゆうふくれいせつたかしれいせつやくれいせつ。嘗著論語ろんごあんじゅうかんためじょちょゆうしょけいよんかんくさむらせついちかん序説じょせつどおりかんでん牋考かん春秋しゅんじゅうしゃくかんしゅうへんりゃくきゅうかん,儆居しゅうけいせつよんかんせつよんかんどう元年がんねんそつねんななじゅうよん以周,したがえ以恭,倶能でん其學。

しきさん 以周

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以周,本名ほんみょうもとどうあらためいまめい,以元どうためどうきゅうねんゆうみつぎ。旋舉於鄕,だい挑以教職きょうしょくよう分水ぶんすいけん訓導くんどう。以學しんそう中書ちゅうしょ銜,以教授升よう,旋選しょしゅう教授きょうじゅ,而年やめななじゅうとげ就。以周あつもり家學かがく,以爲さんだい下之したの經學けいがくかんていくんそう朱子あかねためさい。而漢がくそうがく流弊りゅうへい乖離かいりせいけいなおごう於鄭、しゅなにろんあなはじめ有淸ありきよこうがくふう,倡自顧亭りん。顧氏嘗云:「經學けいがくそく理學りがく。」乃體顧氏くんうえついあなはじめ遺言ゆいごん,於易、春秋しゅんじゅうみなゆう著述ちょじゅつ,而さんれいゆうため宗主そうしゅところちょれいしょどおりひゃくかんれつじゅうもく先王せんおうれいせい備焉。また以孟がく孔子こうし由博よしひろはんやく,而未嘗親炙しんしゃあなひじり。其間有子ゆうこおもえ,綜ななじゅうぜん聞,うけたまわあなせい以啓孟子もうこ,乃著おもえ輯解ななかん。而舉おもえしょじゅつ夫子ふうしきょう,必始於詩、しょ,而終於禮、らく,及所あかり仁義じんぎため利之としゆきせついい傳授でんじゅだい恉,ふか信博のぶひろぶんやくれい經學けいがくためぎょう義之よしゆきせい軌,而求孟子もうこがくあなひじり師承ししょう,以子おもえため樞軸すうじくくれねんおおやましいん曰:「すうねんおもえ輯解なり,斯無憾!」すんでしょなり而疾瘥,さらごう哉生。江蘇こうそまなぶせい黃體おうたいよしけんみなみ菁講しゃ於江かげ延之のぶゆきぬしこう。以周きょう以博ぶんやくれい實事じつごともとめみち髙而たて門戸もんこそうはじめ瀚建べんこころざし精舍しょうじゃ於寧,請以しゅうじょう名義めいぎ規制きせい,而專經學けいがく著録ちょろく弟子でしせん餘人よにんそつねんななじゅうゆう

しきさんしたがえ 以恭

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以恭,しつにわひかりいとぐち元年がんねん舉人。しるゆう尚書しょうしょけい幪疎じゅうはちかん,讀詩管見かんけんじゅうかん

兪樾

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兪樾,廕甫,とく淸人きよひとみちこうさんじゅうねん進士しんしあらため庶吉。咸豐ねんかん編修へんしゅうねん,簡放河南かなんがくせい奏請そうせい以鄭公孫こうそん僑從まつぶんびょうせいあにはじめかわはいとおるたかしとくほこらなみ邀兪允。ななねん,以御登庸とうよう劾試だいわりきれ罷職ひしょく。樾歸,僑居蘇州そしゅうおもこう蘇州そしゅうむらさきよう上海しゃんはいもとむこころざしかく書院しょいん,而主杭州こうしゅう詁經精舍しょうじゃさんじゅうねんさいひさ一依阮元成法,ゆう其門しゃわか戴望、以周、しゅ一新いっしんほどこせはなおう詒壽、馮一うめけい坻、うけたまわこころざし、袁昶とう,咸有ごえ於時。東南とうなん遭赭寇之みだれ典籍てんせきとろけしか,樾總辦浙江せっこうしょきょく建議けんぎこう、浙、あげ、鄂四書ししょきょくぶんこくじゅうよんまた於浙きょくせいこくしょじゅうしゅ海内かいだいしょうため善本ぜんぽん

生平おいだいらせん著述ちょじゅつ先後せんご著書ちょしょ巻帙かんちつしげるとみ,而群けいひらしょ子平しへい古書こしょ疑義ぎぎ舉例さんしょゆうのうかくもり家法かほう有功ゆうこう經籍けいせき。其治けい以髙郵王ねんまご、引之父子ふしためむねいいけいみち大要たいようざいせい句讀くとうしん字義じぎつう古文こぶん假借かしゃくさんしゃちゅうつう假借かしゃくためゆうようおう父子ふししょちょけいじゅつ聞,ようかん儒「讀爲」、「讀曰」れいしゃきょはん發明はつめいくん是正ぜせい文字もじいたりためせいしんよしちょぐんけいひら,以附じゅつ聞之。其諸子平しへいのり仿王讀書どくしょ雜誌ざっし而作,こうあやまぶんあきら所得しょとくぐんけいためまたきゅうけい諸子しょし舉例はちじゅうゆうはちごと一條各舉數事以見例,使つかい讀者どくしゃ習知しゅうち其例,ゆうしょよりどころため讀古しょ一助いちじょ

樾於しょけいみなゆう纂述,而易がくためふかしょちょえきつらぬけせん發明はつめい聖人せいじんかんぞう繫辭。玩易へんのり出新いでしん拘泥こうでいさき儒之せつふくさくうしとら宦易せつかんがえぞくかんがえ,邵易ばらえききゅうどおり變化へんかろん,互體方位ほういせつみなあししょう一家いっかこれがく晩年ばんねんしょちょちゃしつけいせつよし精確せいかく古文こぶんかかわ宗派しゅうはふちしかゆう經籍けいせきひかりところ作詩さくし温和おんわ典雅てんがきんしろきょえきこう篆、隸。同時どうじ如大學士がくし曾國籓、鴻章こうしう尚書しょうしょ彭玉麟、じょいつきめいじはん廕,咸傾こころおさめ交。日本にっぽん文士ぶんしゆうらいぎょう門下もんかしゃ

樾湛ふか經學けいがくりつおのれゆうげんあつ天性てんせいなお廉直れんちょく布衣ふい蔬食,海内かいだい翕然きゅうぜんしょうきょくえん先生せんせいひかりいとぐちじゅうはちねん,以鄕舉重逢,みことのり復原ふくげんかんじゅう赴鹿むしろえんさんじゅうねんそつねんはちじゅうゆうろくちょゆうぐんけいひらさんじゅうかんしょ子平しへいさんじゅうかん及第きゅうだいいちろう叢書そうしょきょくえん雜纂ざっさん,兪樓雜纂ざっさんまろうどもえしゅうはるざいどう雜文ざつぶん詩編しへんろく隨筆ずいひつみぎだいせんかん筆記ひっきちゃしつくさむら鈔、けいせつ,其餘ざつちょしょうはるざいどう全書ぜんしょ

つけ ちょうぶんとら

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同時どうじ以耆ねん篤學とくがくぬしこうせきしゃのりゆうみなみ匯張ぶんとらぶんとら嘯山。しょせい。嘗讀もと和惠かずえ、歙江きゅうやすし戴氏、よしみていぜに諸家しょかしょ慨然がいぜん嘆爲がく有本ありもとのりかんとうそうちゅううとけいせつゆかり形聲けいせい以通其字,ゆかり訓詁くんこ以會其義,ゆかり度數どすう名物めいぶつ以辨其制作せいさくよしげん事蹟じせき以窺聖賢せいけん精義せいぎつくり及子,莫不こう其源りゅうどうことせいてんさんゆうちょう校勘こうかんどうねんりょうしょきょくひらけぶんとらためこう史記しきさんちゅうなりさつかんさいしょうせいぜんそつねんななじゅうゆういちしるゆう舒藝しつ遺書いしょ

おう闓運

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おう闓運,みずのえあき,湘潭じん。咸豐さんねん舉人。よう好學こうがくしつ魯,にち不能ふのうひゃくこと發憤はっぷん自責じせき勉強べんきょう而行。昕所習者,なり誦不しょくゆうしょ誦者,とくかい。於是ねんじゅうゆう五明ごみょう訓詁くんこじゅう而通章句しょうくじゅうよん而言れいこうさんだい制度せいどしょう品物しなもの所用しょようじゅう八而達春秋微言,ちょうこうひつじさるなんがくとげどおりしょけい潛心せんしん著述ちょじゅつゆう肆力於文。さかのぼそうれつさがせ賈、ただし,其駢儷則揖顏、庾,詩歌しかそくこう阮、ひだり記事きじからだ,一取裁於龍門。

闓運刻苦こっく勵學,さむあつあいだけいふみひゃくいえ,靡不誦習。牋、ちゅうしょうこうにち有定ありさだぐう有心うしん隨筆ずいひつ記述きじゅつ闡明せんめい奧義おうぎちゅう前賢ぜんけん未發みはつくつがえ。嘗曰:「けい:於易,必先えき有數ゆうすうよし不當ふとうきょ衍卦めい;於書,必先だん句讀くとう;於詩,必先男女だんじょ贈答ぞうとうやめ不足ふそく以頒がくかんつて後世こうせいいちあらいさん陋,乃可げんれいれいあきらしかこう春秋しゅんじゅう。」また曰:「説經せっきょう識字しきじためとうと,而非識説ぶんかいためとうと。」また曰:「ぶんたっ於古そくほろびほうぶん而畢摹乎のりほろび。」また嘗慨しか歎曰:「わが文人ぶんじん,乃學じん也!」

がく成出なるでゆうはつ館山たてやまひがしじゅんなでたかしおんいり。就尚しょ肅順聘。肅順たてまつこれわか軍事ぐんじはか而後ぎょうひだりむね棠之ごく。闓運じつかいやめ而參曾國籓幕。えびすはやしつばさ、彭玉麟等みな敬禮けいれい。闓運自負じふ奇才きさいしょ如多ごう。乃退いきふくようこころざしただ出所しゅっしょがく以教後進こうしん。四川總督丁寶楨聘主尊經書院,まち以賓れいなりざい甚衆。かえりためちょうすなおもえけんこうしゃ、衡州船山ふなやま書院しょいんやまちょう江西えにしじゅんなでなつ★J9のべため髙等學堂がくどうそうきょうひかりいとぐちさんじゅうよんねん湖南こなんじゅんなで岑春蓂上其學ぎょうとく檢討けんとう。鄕試じゅう逢,侍讀じどく。闓運ばん睹世へんあずかひと忤,以唯おもねようにゅうみんこく,嘗一りょうかんとげへいたつねんそつねんはちじゅうゆう

ところ著書ちょしょ以經がくため,其已かんしゃゆうしゅうえきせつじゅういちかん尚書しょうしょさんじゅうかん尚書しょうしょ大傳だいでんななかん詩經しきょうじゅうかんれい牋四じゅうろくかん春秋しゅんじゅうこうひつじでんじゅういちかんこくりょうつたえじゅうかんしゅうかんろくかん論語ろんごかんしかみやびしゅうかいじゅうろくかんまたすみそう、鶡冠かいじゅういちかん,湘軍こころざしじゅうろくかん,湘綺ろう詩文しぶんしゅう日記にっきとう子女しじょなみのうどおりけいつて其家がく次子じしだいゆたか早世そうせいしるゆうおおやけひつじれいひょう

おうさきけん

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おうさきけんえきわれちょうすなじんどうよんねん進士しんしせん庶吉,授編修へんしゅうひかりいとぐち元年がんねんだいこうとう,擢中まことたかしにちこう起居ききょちゅうかんれきじょううと言言げんげんぼうへい,請籌東三ひがしさんしょうぼうつとむなみ劾雲みなみじゅんなでじょめいろくねんすすむ國子くにこかんさいしゅはちねんちょうゆうふく闋,仍故かんうとさんうみとまこうため江蘇ちぁんすーがくせいじゅうよんねん,以太かんれんえい招搖,うと懲戒ちょうかい略言りゃくげん:「宦寺患,ためあきら本朝ほんちょう法制ほうせい森嚴しんげんしたがえふとしかん攬權がいごと皇太后こうたいごうたれすだれ聽政,いち禀前謨,毫不ひろしかり,此天臣民しんみんしょどもどもしゃ。乃有そうかんふとしかんれんえい,秉性かんかい,肆無忌憚きたん。其平けがれごえれつあと敢形しょそう牘。おもんみおもえぶとかんとうきゅう使みやきんとく以日きん天顏てんがんあるいん奔走ほんそうほろちょう,偶邀宸顧,また事理じり所有しょゆうなにどく該太かん誇張こちょうおんぐうだい肆招ゆら,致太かんへらしょうこれめいかたぶけどう中外ちゅうがいおどろき駭物聽,此即其不安ふあん本分ほんぶん明證めいしょうえき曰'くつしもけん冰' ,やや也。皇太后こうたいごうすめらぎじょう於制治保はるもり邦之くにゆきどう,靡不つとむもとめ夙夜,ぐうごとぼう維。今宵こよいしょう橫行おうこうやめゆうはしちょうわかいむ懲辦,以振綱紀こうき而肅ぐんじょう。」うとじょうほう

さきけんれきてん雲南うんなん江西えにし浙江せっこう鄕試,さがせ人才じんさいのこ餘力よりょくすんで江蘇ちぁんすーさきそうしつらえしょきょく,仿阮もとすめらぎきよしけいかいれいかんこくぞくけいかいいちせんよんひゃくさんじゅうかんみなみ菁書いんそう於黃たいよしさきけんこう籌經まい拔取ぬきとざい入院にゅういん,而督きょう誘掖ゆうえき獎勸,成就じょうじゅ人材じんざい甚多。ひらきかけかえいえれきぬしおもえけんこうしゃたけふもと城南じょうなんりょう書院しょいん,其培うえ人才じんさいあずかぜんことさんじゅうさんねん總督そうとくひね夔龍、じゅんなで岑春蓂奏以所著書ちょしょ進呈しんていしょうないかく學士がくし銜。せんすべねんちょうすなひだるみんもんどもかこえなでしょ衞兵えいへいひらきやりげきすうにん民情みんじょういよいよいきどお匪徒ひとじょう放火ほうかしょうしょしょうじょう紳士しんし電請でんせいえきじゅんなで,以先けんめいくびれつさきけん知也ともや總督そうとくみず澂奏さんくだきゅうどう鄕京かんえびす廕等以冤そもそもてい遞都察院,またほうくにへん改名かいめい遯,遷居鄕間,えつろくねんそつしるゆう尚書しょうしょあなでんさんせいさんじゅうろくかん,三家詩集義疎二十八巻,漢書かんしょ補註ほちゅういちひゃくかん,荀子しゅうかいじゅうかん日本にっぽん源流げんりゅうこうじゅうかん外國がいこくどおりかんさんじゅうかんきょ受堂詩文しぶんしゅうさんじゅうろくかんとう

まご詒讓

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まご詒讓,なかひろしみずやすじんちちころもごとゆうでん。詒讓,どうろくねん舉人,かん刑部おさかべ主事しゅじはつ讀漢がく師承ししょう及皇きよしけいかいやや窺通儒治けいふみ小學しょうがく家法かほういいぐんけいゆうさんだい文字もじつうかりゆうはたかん篆隸變遷へんせんゆうすすむせいくさ混淆こんこうゆうろくあさ唐人とうじん俗書ぞくしょ流失りゅうしつゆうそうもとあかりこう讎之羼改。ただしたがえ捃佚,必有よしみよりどころさきなりさつじゅうかん

またしるしゅうあや正義せいぎはちじゅうろくかん,以爲:「有淸ありきよけいじゅつ昌明まさあき,於諸けいひとしゆうしんうとしゅうあや以周公致きんゆきふとし平之ひらのしょ,而秦、かん以來いらいしょ不能ふのうとおるかい貫通かんつうぶたどおりけいみな實事じつごと實字じつじ天地てんち山川やまかわだい城郭じょうかく宮室きゅうしつ衣服いふく制度せいどしらげさけ漿、醯醢ほそていちゅう簡奧,賈疎疎略そりゃく讀者どくしゃなん於深きわむ,而通於治,ゆう謬盭。りゅう歆​​、綽之於新、しゅうおうやすしせき於宋,にかわばしら鍥舟,いちつぶせ不振ふしんとげため此經詬病。詒讓乃以しかみやびせつ文正ふみまさ訓詁くんこ,以禮けい大小だいしょう戴記しょう制度せいどけん覃廿わらくさ屢易,とげはくかんから以來いらいまでよしみしょけい儒舊せつまいり互繹しょう,以發ていちゅうふちおく,裨賈うとこれのこ闕。其於古制こせい疎通そつう證明しょうめい,較之きゅううとじつため淹貫。而注ゆうたがえ牾,輒爲ただし糾。凡所はつ正數せいすうじゅう百事ひゃくじ,匪敢壞'うと不破ふわちゅう'家法かほう,於康なりきょくしたがえもりていじつまた誖。而以國家こっか富強ふうきょうしたがえ政教せいきょういれのり無論むろん新舊しんきゅうがくひとし折衷せっちゅう於是しょ。」識者しきしゃ韙之。

ひかりいとぐちみずのと,以經濟けいざいとくちょうおうせんすべ元年がんねんれいせいかんちょうまた就。いくそつねんろくじゅうところちょまたゆうぼくあいだじゅうかん目録もくろく附録ふろくかんかんせいふか閎博,一時いちじ推爲ぜっまい拾遺しゅういさんかんいっしゅうしょ斠補よんかんきゅうはたじゅついちかん

てい

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てい杲,あずまはじめ,遷安じんちちおかためそくぼくれいそつ於官。まずし不能ふのういん焉。杲事ははこうひかりいとぐちねん,舉山東さんとう鄕試だいいち明年みょうねんなり進士しんし,授刑主事しゅじ。肆力於學,以讀經どきょうため正課せいかつくり及朝あきらこく,矻矻終日しゅうじつつかまつすすむはく如也。嘗謂:「けいざいしん古傳こでんけいしゃふちかいつて其航也。かんだいしょ儒,しゅ乎此しゃ不能ふのうどおり乎彼;とうそう而降,のうかん其通矣,乃舉いにしえせつ而悉はいおもんみだん以己わかしゃみな善治よしはるけいしゃ也。」杲以ははおもこう濼源書院しょいんふく闋,遷員がいとき朝政ちょうせい維新いしんりょうみややめせきうたぐ釁,杲獨惓惓げん天子てんしとう竭誠以盡孝道たかみちうとくさ,莫敢爲かんいげんしゃじゅうろくねんなつ,熒惑入南にゅうなん,复上書うわがき請修しょうほういくそつ

杲之がくふか春秋しゅんじゅう,其言曰:「ひだりあかり魯史きゅうあきらつてそくあなはじめ推廣しん口授くじゅでんゆびおおやけひつじあかり魯道しゃ也,こくはり明王みょうおう道者どうしゃ也,ひだりそく備載當時とうじ行用ぎょうようみち當時とうじ行用ぎょうようみち,霸道也みちや所以ゆえん必明魯道しゃためじん子孫しそんみちざいほう其祖也。こくはりそく損益そんえき四代之趣咸在焉。おもんみ聖人せいじん蹶起けっきざい帝位ていいしゃ,乃能よう也。」其爲せつけん綜三でん,而尤致嚴於事てんことくんことおやべんいい:「春秋しゅんじゅうくび致謹於元ねん正月しょうがつ正月しょうがつしゃせい即位そくい也。正月しょうがつ謹始也,必能ためちち之子ゆきこしかこうのうためてん之子ゆきこ矣。春秋しゅんじゅうゆうさんせいゆかり其有てんきみちちさんいのち也。はるしゃてん也,王者おうじゃくん也,正月しょうがつしゃちち也,はた以備せめさんせい,而單舉正がつなに也?ことてんことくんみな以事おやためはじめ也。」凡杲所論しょろんちょ如此。

そうしょます

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あずか杲同しゃゆうそうしょますすすむ,濰縣じんひかりいとぐちじゅうはちねん進士しんしあらため庶吉さときょじゅうねん,殫心けいじゅつえきしょひとしゆう撰述せんじゅつゆうせい推歩これがく

ほうえらどう

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ほうえらどう小山こやまにかわしゅうじんひかりいとぐちじゅうねん進士しんしかんあおしゅう教授きょうじゅせいけん音韻おんいんまなべこうていりく德明のりあき經典きょうてんしゃくあや前人ぜんじんしょ未發みはつ

 まきよんひゃくはちじゅういち かえしかいいただき まきよんひゃくはちじゅうさん

1996ねん1がつ1にち,这部作品さくひん在原ありはら著作ちょさく國家こっかある地區ちくぞく公有こうゆう領域りょういきこれぜんざい美國びくにしたがえ出版しゅっぱん,其作しゃ1919ねん逝世,ざい美國びくに以及版權はんけん期限きげん作者さくしゃ終身しゅうしん100ねん以下いかてき國家こっか以及地区ちくぞく公有こうゆう領域りょういき

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