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漢書/卷018 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

漢書かんしょ/まき018

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 けい武昭たけあきせんもと成功せいこうしんひょう だい 漢書かんしょ
まきじゅうはち 外戚がいせき恩澤おんたくこうひょう だいろく
百官ひゃっかん公卿くぎょうひょう だいなな 

受命じゅめい中興ちゅうこうきみ,必興めつつぎぜっおさむはい舉逸,しか後天こうてんじん四方しほう政行まさゆき焉。[1]つてたたえたけおうかついんついそんけんきよしいたり乎不及下車げしゃ[2]世代せだい雖殊,其揆一也かずや。髙帝ばちらん誅暴,庶事草創そうそうにちひまきゅうしかなおおさむまつろくこくもとめ聘四あきらそくちょうはかてきちょうのりふうらくあつしこれ[3]及其行賞こうしょう而授也,爵以こうため先後せんごかんようのうため次序じじょ後嗣こうしどもおのれ遵業,舊臣きゅうしんつぎかかときょ[4]いたり乎孝たけもとこう宿將しゅくしょうりゃくつきかいじょうまたきょう文學ぶんがくしん拔幽かくれ公孫こうそんひろしうみひん而登宰相さいしょう[5]於是ちょう以列こう爵。また疇咨前代ぜんだい,詢問耆老,はつとくしゅうふく爵邑。これ宰相さいしょう畢侯矣。もと成之しげゆきあいだばんとくいん,以備賔位。

かんきょう外戚がいせきあずかてい天下てんかほうしゃにん[6]ちかい曰:「りゅうおうわかゆうほろびいさおうえしょおけ而侯しゃ天下てんかども誅之。」以髙きさきほっおうしょりょおうりょう廷爭;こうけいしょうこうおうおさむこうはんしょく[7]そつようはい黜。うすきあきら、竇嬰、上官じょうかんまもる、霍之こう,以功受爵。其餘きさきちちよりどころ春秋しゅんじゅう襃紀よし[8]みかどしゅうとえん大雅たいがさるはく[9]寖廣はく矣。[10]以別而叙

髙祖けい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
臨泗こうりょこう 以漢おうきさきちちたまものごう 元年がんねんふうじよんねん薨,髙后元年がんねんついみこと曰呂せんおう        
しゅうりょれいたけこうさわ 以客したがえいれかん定三ていぞうはた將兵しょうへい碭,かんおうはい彭城,往從じょう天下でんか ろくねん正月しょうがつへいいぬふうじさんねん薨。 ほうたい嗣,髙祖九年更封爲鄜侯,よんねん,髙后元年がんねんためりょおうねん薨,おくりな曰肅,ついみことれいたけ曰悼たけおう

さんねんおうよしみ嗣,すわおごはいほうとおるよしみおとうとろくねんよんがつちょうとりふうじはちねんためつばめおうきゅうがつたん,誅。

   
        東平とうへい

ほう庀,つうおとうとはちねんがつへいたつふうじきゅうがつたん,誅。

曰:「腄音みずはん。庀音ひきくつはん。」

   
     

ほうさんだいおとうと,髙后元年がんねんよんがつからしふうじろくねんためりょおうななねんためはりおうはちねんたん,誅。

曰:「汶音とい。」

     
たて成康なりやすこうしゃくこれ 以客したがえげきしんかんおういれかん使つかいしゃくゆたかまもるふとし上皇じょうこう ろくねんよんがつへいいぬふうじきゅうねん薨。 孝惠たかえねんほうのり嗣,ななねん有罪ゆうざいめんのりおとうとしゅ,髙后元年がんねんよんがつおつとりふうじたてまつりょせん王國おうこくななねんさらため其侯,はちねんたん,誅。      
      かん

ほう祿ろくしゅおとうと,髙后元年がんねんきゅうがつへいとらふうじはちねんためちょうおうついみことやすしこう曰趙あきらおうきゅうがつたん,誅。

     

みぎ髙祖さんにん

髙后けい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
扶柳こうりょひらた 皇太后こうたいごう姊長姁子こう

曰:「ひらすんでりょ所生しょせい不當ふとうせいりょぶた史家しかただははぞく也。姁音きょう于反。またおときょうはん。」

元年がんねんよんがつへいとらふうじはちねんたん,誅。        
じょうじょうほうよし 以孝惠子えここう よんがつからしふうじさんねんためつね山王さんのう        
軹侯あさ 以孝惠子えここう よんがつからしふうじよんねんためつね山王さんのう        
つぼせきほうたけし 以孝惠子えここう よんがつからしふうじろくねんため淮陽おう        
昌平しょうへいこうだい 以孝惠子えここう がつみずのとふうななねんためりょおう        
ぜい其侯りょしょう 皇太后こうたいごうこん弟子でし淮陽丞相じょうしょうこう よんがつへいさるふうじはちねんたん,誅。        
滕侯りょ更始こうし ため舍人とねりろうちゅうじゅうさい,以都じょうたむろ霸上,ようすわえ丞相じょうしょうこう よんがつへいさるふうじはちねんたん,誅。        
りょなりこうりょ忿 皇太后こうたいごうこん弟子でしこう よんがつへいさるふうじはちねんたん,誅。        
しゅく茲侯りょ

曰:「瑩音滎,またおとがらすつむはん。」

皇太后こうたいごうこん弟子でしこう はちねんよんがつちょうとりふうじきゅうがつたん,誅。        
けんりょうこうちょうしゃくてらじん 以大謁者すすむおうしょりょこう よんがつちょうとりふうじきゅうがつめん        

みぎ髙后じゅうにんにんずいちち,凡じゅうにん

こう文系ぶんけい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
軹侯うすきあきら 髙祖ななねんためろう從軍じゅうぐんじゅうななねん,以中大夫たいふむかえみかど於代,以車將軍しょうぐんむかえ皇太后こうたいごうほうまん 元年がんねん正月しょうがつおつふうじじゅうねんすわころせ使者ししゃ自殺じさつみかど臨,ためおけ じゅういちねんえきこうえびすやつ嗣,さんじゅうねん薨。 たてもとねんほうはり嗣。    
鄔侯ひとし

曰:「鄔音いちはんまたおと於度はん。」

以齊おうしゅうとこう よんがつからしふうろくねんすわすみきたおうきょうきょ舉兵はんどるすくえめん        
周陽しゅうようこうちょうけん 以淮みなみおうしゅうとこう よんがつからしふうろくねん有罪ゆうざいめん        

みぎ孝文たかふみさんにん

こうけいけい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
あきらたけけいこう竇廣こく 皇太后こうたいごうおとうとこうまんいちせん 孝文たかふみななねんろくがつおつふうじななねん薨。 こうけいななねんきょうほうじょう嗣,じゅうはちねん薨。 もとひかりさんねんほう常生つねお嗣,じゅうねんもとかり元年がんねんすわ謀殺ぼうさつじんころせめん    
みなみかわこう竇彭 皇太后こうたいごう兄子せここう ろくがつおつふうじじゅういちねん薨。 たてもとろくねんえびすほうりょう嗣,ねん薨。 もとひかりねんほうくわりん嗣,じゅうはちねんもとかなえねんすわ酎金めん    
其侯竇嬰 以將ぐんたむろ滎陽扞破くれすわえななこくこう皇太后こうたいごうこん弟子でし さんねんろくがつおつふうじじゅうさんねんもとひかりよんねん有罪ゆうざい,棄市。        
ぶたやすしこうおうしん 皇后こうごうけいこう ちゅうねんがつかぶといぬふうじじゅうねん薨。 もとひかりさんねんころほうたかし嗣。 ほう受嗣,もとかなえ五年坐酎金免。    

みぎこうけいよんにん

こうたけけい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
武安たけやすこう 皇太后こうたいごう同母どうぼおとうとこう こうけいさんねんさんがつふうじじゅうねん薨。 もとひかりよんねんほう恬嗣,ねんもとついたちさんねんすわころも襜褕にゅうみや不敬ふけいめん

曰:「ころもいいちょ也。襜褕,ちょくすそ裨衣也。襜音あきらうらないはん。褕音踰。」

     
周陽しゅうよう懿侯しょう 皇太后こうたいごう同母どうぼおとうとこう さんがつふうじじゅうねん薨。 もとひかりろくねんほう嗣,はちねんもとかりさんねんすわとう軹侯たくあずかめん      
長平ながだいれつほうまもるあお 以將ぐんげき匈奴きょうどついたちかたこうやぶみぎけんおうえきふうじまたふうじさん皇后こうごうおとうと もとついたちねんがつへいたつふうじじゅうさんねん薨。 むべはる

ほう伉,五年四月丁未以靑功封,もとかなえ元年がんねんすわ撟制がいまぬかれ太初たいしょ元年がんねん嗣侯,ねんたけなわにゅうみやかんためじょうだん

     
      かげやす

ほううたぐ,四月丁未以靑功封,じゅうねんもとかなえねんすわ酎金めん

     
      はつ

ほうのぼる,四月丁未以靑功封,すわ酎金めん

元康もとやすよんねんみことのりたまものあおまごぜにじゅうまんふく えいはじめ元年がんねんあお曾孫そうそん玄以げんい長安ながやすこうじょうためさむらいろう 元始げんしよんねんたまものあお玄孫げんそんしょう爵關ないこう
平津ひらつけんじこう公孫こうそんひろし 以丞しょうみことのりしょ襃侯,さんひゃくななじゅうさん もとついたちさんねんじゅういちがつおつうしふうじろくねん薨。 もとかりさんねんほう嗣,じゅうさんねんもとふうよんねんすわため山陽さんよう太守たいしゅみことのりちょう鉅野れいなりかんためじょうだん     髙城
かんむりぐんけい桓侯霍去びょう 以校じょうげき匈奴きょうどこう以將ぐんやぶいのりれんむかいこんよこしまおうえきふう皇后こうごう姊子。 ろくねんよんがつみずのえさるふうじななねん薨。 南陽なんよう もとかなえ元年がんねんあいこう嬗嗣,ななねん薨,ほろび

曰:「嬗音うえせんはん。」

樂平よしひら

ほうやまぶしねん四月癸巳以從祖祖父大將軍光功封,さんせんよんねんすわ謀反ぼうほん,誅。

  ひがしぐん
        かんむりよう

ほうくもやまおとうと,三年四月戊申以大將軍光功封,せんはちひゃくよんねんすわ謀反ぼうほん,誅。

  南陽なんよう
周子かねこ南君なぎみひめよしみ 以周みことのりしょ襃侯,さんせん もとかなえよんねんじゅういちがつちょうしげるふうじろくねん薨。 もとふうよんねんきみおけ嗣,じゅうよんねん薨。 はじめもとよんねんきみとう嗣,じゅうろくねんぶしさんねんすわ使つかいやつころせすすむ,棄市。   ちょうしゃ
        元康もとやす元年がんねんさんがつへいいぬきみのべねん以當おとうと紹封,はつもとねん正月しょうがつ癸巳きしさらふうためしゅううけたまわきゅうこう諸侯しょこうおうじゅうきゅうねん薨,おくりな曰考。 たてあきらさんねんしつこうやす嗣,よんねん薨。 ついたちねん,釐侯世嗣せいしはちねん薨。
      ろくせい

えいはじめねんほうとう嗣,ななねん綏和元年がんねんしん爵爲こう滿まんひゃく元始げんしよんねんためていこうおう莽篡ためあきら牟公。

ななせい

てんおおとり元年がんねんおおやけつね嗣,たてたけしねん五月戊辰更爲周承休侯。

はちせい

ねんほう武嗣たけしじゅうさんねんさらためまもるおおやけ

かん
らくどおりこう欒大 以方じゅつみことのりしょ襃侯,さんせん よんねんよんがつおつふうじねんすわ罔上,よう       髙平
牧丘まきおか恬侯せきけい 以丞しょう及父まん石積いしつみぎょうこう ねんきゅうがつちょううしふうじじゅうねん薨。 太初たいしょさんねんほういさお嗣,ねん天漢てんかん元年がんねんすわためふとつねしつほう罔上,ほこら如令,かんためじょうだん     平原ひらはら
富民とみんじょうこうしゃ千秋せんしゅう 以丞しょうこうはちひゃく,以遺みことのりえきふうじ,凡千ろくひゃく せいよんねんろくがつちょうふうじじゅうねん薨。 もとおおとりよんねんほうじゅん嗣,ろくねんもとはじめさんねんすわためとらきば將軍しょうぐんげき匈奴きょうどいつわりぞうとりこ自殺じさつ    

みぎこうきゅうにんさんにんずいちち,凡じゅうにん

孝昭たかあきけい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
ひろしりくせんなりこう霍光 以奉しゃじょうはんしゃ莽何こうせんさんひゃくじゅうこう大將軍だいしょうぐんえきふうじまんななせんひゃく はじめもとねん正月しょうがつみずのえとらふうじじゅうななねん薨。 ぶしねんよんがつみずのとほう禹嗣,よんねん謀反むほんよう   元始げんしねんよんがつおつとりほうよう以光したがえちちこんおとうと曾孫そうそんりゅう勒士紹封,さんせんおう莽篡ぜっ 北海ほっかい 河間こうま ひがしぐん

曰:「ひかりはつふうしょく北海ほっかい河間こうまこうえきふうまたしょくひがしぐん。」

安陽あんようこう上官じょうかん 以騎じょうはんしゃ莽何こうせんさんひゃくおんなまごため皇后こうごう 正月しょうがつみずのえとらふうじねんもとおおとり元年がんねんはん,誅。 くわらくこうやすはじめもとねん六月辛丑以皇后父車騎將軍封,せんひゃくねんたん,誅。     とろけかげ

曰:「桀所しょく也。」

せんじょう

曰:「やすしょしょく也。」

むべ春敬はるよしこうおう 以丞しょうこうたんあずか大將軍だいしょうぐんこうじょうさくえきふうじすわほうそぎひゃくじょうろくひゃくはち もとおおとりよんねんがつおつうしふうじねん薨。 もとおおとりろくねんかんほうたん嗣,よんじゅうねん薨。 たてはじめさんねんこうこう咸嗣,じゅうはちねん薨。 もとのべ元年がんねん,釐侯あきら嗣,はちねん薨。 なんじみなみ

たてひらさんねんほうつよし嗣,じゅうろくねん更始こうし元年がんねんためへいしょころせ

安平あびらけいこう楊敞 以丞しょうこうななひゃくあずかだい司馬しば大將軍だいしょうぐんこうじょうさくえきふうただし,凡五せんひゃくよんじゅうなな ろくねんがつおつうしふうじいちねん薨。 もとひら元年がんねんころほう忠嗣ただつぐじゅういちねん薨。 元康もとやすさんねんほうたん嗣,きゅうねんおおとりよんねんすわためてん屬國ぞっこくちち惲有ざいたんげんそしめん   なんじみなみ
富平とみひらけいこうちょう安世やすよ 以右將軍しょうぐんこう祿ろくくん輔政勤勞きんろうこう,以車將軍しょうぐんあずか大將軍だいしょうぐんこうじょうさくえきふうじ,凡まんさんせんろくひゃくよんじゅう 十一月じゅういちがつおつうしふうじじゅうさんねん薨。

元康もとやすよんねんあいほう延壽えんじゅ嗣,じゅういちねん薨。元康もとやすさんねんさんがつ乙未おとみほう彭祖以世ちちわきにわれいゆう舊恩きゅうおんふうじせんろくひゃくよんねんかみさんねんため小妻こづましょころせ

甘露かんろさんねん,繆侯たかし嗣,よんねん薨。

曰:「たかし以下いか至純しじゅんみな延壽えんじゅ嗣也。」

はつもとねんともこう臨嗣,じゅうねん薨。 平原ひらはら

おもえこう嗣,さんじゅうろくねん薨。

      ろくせい

たてひら元年がんねんほうじゅん嗣,おう建國けんこく四年更爲張鄕侯,けん武中たけなかためたけはじめこう

     
陽平ようへいふしこう蔡義 以丞しょうこうぜんため大夫たいふあずか大將軍だいしょうぐんこうじょうさくえきふうじ,凡ななひゃく もとひら元年がんねんきゅうがつつちのえいぬふうじさんねんもとはじめよんねん薨,ほろび        

みぎ孝昭たかあきろくにん一人ひとりくわらくこうずいちち,凡ななにん

こうせんけい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
營平たけしこうちょうたかしこく 以後いご將軍しょうぐんあずか大將軍だいしょうぐんこうじょうさくこうこうせんひゃくななじゅうきゅう もとはじめ元年がんねんはちがつからしふうじゅうねん薨。 甘露かんろさんねんしつほうひろし嗣,じゅうねん薨。 たてはじめよんねんこうこう欽嗣,ななねん薨。 ついたちさんねんほう岑嗣,じゅうねんもとのべさんねんすわちち欽詐以長やす女子じょしおうくん俠子ため嗣,めんせんきゅうひゃくよんじゅうよん すみみなみ
平丘ひらおかこうおう 以光祿ろく大夫たいふあずか大將軍だいしょうぐんこうじょうさくこうこうせんひゃくじゅうさん はちがつからしふうねんぶしねんすわひら尚書しょうしょ聽請受臧ろくひゃくまん自殺じさつ

如淳曰:「りつしょためじん請求せいきゅう於吏以枉ほう,而事ゆきため聽行しゃみなため寇。」 曰:「有人ゆうじんわたし請求せいきゅう,而聽受之。」

      こえじょう
あきらみずこう廣明ひろあき 以鴻臚撃たけはん氐賜爵關ないこう,以左馮翊與大將軍だいしょうぐんこうじょうさくこうせんななひゃく はちがつからしふうさんねんすわため祁連將軍しょうぐんげき匈奴きょうどいたり自殺じさつ       於陵
じょうこうのべねん 以大つかさみのりあずか大將軍だいしょうぐんこうじょうさくこうこうせんよんひゃくじゅうさん はちがつからしふうねんすわためだいつかさみのりぬすめ都内とないぜにさんせんまん自殺じさつ

如淳曰:「天子てんしぜにぞうちゅう都内とないまた曰大ない。」

      すみ
爰氏肅侯便びんらくなり

曰:「《もりしゅうでんさくらくなり。《霍光でんさく使らくなりこん此云せい便びんさんしゃ不同ふどううたぐおもてあやま。」

以少あずか大將軍だいしょうぐんこうじょうさくこうこうせんさんひゃくじゅうなな はちがつからしふういちねん薨。 もとはじめねんかんこう輔嗣,さんねん薨。 ぶし元年がんねんあいこう臨嗣,ねん薨,ほろびぜっ 元始げんしねん閏月じゅんげつひのととりほうおおとり以樂なり曾孫そうそん紹封,せんおう莽敗,ぜっ たんちち
扶陽ぶしこう韋賢 以丞しょうこうななひゃくいちじゅういち さんねんろくがつかぶとたつふうじじゅうねん薨。 かみ爵元ねんきょうほうげんなり嗣,きゅうねん有罪ゆうざいそぎいちきゅうため關内せきうちこう永光ながみつねん二月丁酉復以丞相侯,ろくねん薨。 たてあきらさんねんころほうひろし嗣。 もとのべ元年がんねん,釐侯そだて嗣。 しょう

ほうじん嗣,元始げんし中戸なかどせんよんひゃくじゅうおう莽敗,ぜっ

ひらおん戴侯もとこうかん 以皇太子たいし外祖父がいそふあきら成君なりぎみこうせんろくひゃく ぶしさんねんよんがつつちのえさるふうじななねん薨,ほろび はつもと元年がんねんきょうほうよしみ以廣かん弟子でしちゅうつねさむらい紹侯,じゅうねん薨。 かわひらめいちねんいむこうきょう嗣。 おおとりよしみねんしつこうだん嗣,じゅうきゅうねん薨。 建國けんこくよんねんほうたかし嗣,おう莽敗,ぜっ
髙平けんほうたかししょう 以丞しょうこうはちひゃくいちじゅうさん ぶしさんねんろくがつみずのえいぬふうじはちねん薨。 かみさんねんほうひろし嗣,ろくねん甘露かんろ元年がんねんすわ宗廟そうびょういたり司馬しばもん不敬ふけいそぎいちきゅうため關内せきうちこう    
たいらあきらふしこうおうゆえ 以帝しゅうと關内せきうちこうこうろくひゃく よんねんがつきのえとらふうじきゅうねん薨。 おおとり元年がんねんこうこうせっ嗣,じゅうろくねん薨。 永光ながみつさんねん,釐侯臨嗣,じゅういちねん薨。 おおとりよしみ元年がんねんほう嗣,さんじゅうはちねんたてたけしねん詔書しょうしょふく

曰:「以其しつ爵復也。ふくおんかたはん。」

 
らくあきらどもこうおうたけし 以帝しゅうと關内せきうちこうこうろくひゃく がつきのえとらふうじじゅうよんねん薨。 甘露かんろねんもどほうしょう嗣,じゅうななねん薨。 かわひらめよんねんほうやすし嗣,じゅうななねん元始げんしさんねんためおう莽所ころせ   なんじみなみ
じょう繆侯りゅういさお 以宗せい關内せきうちこうぎょう謹重ため宗室そうしつりつほう子安こやすみん以戸ひゃく贖弟更生こうせいざいげん一等いっとうていろくひゃくよんじゅう よんねんさんがつきのえとらふうじじゅうねん薨。 おおとりねんふしこうやすみん嗣,はちねん薨。 はつもと元年がんねん,釐侯けい嗣,じゅういちねん薨。 元年がんねんほう颯嗣,おう莽敗,ぜっ

曰:「颯音りつ。」

なんじみなみ
らくりょうやすこう 以悼皇考こうこうしゅうとさむらい中關なかせきないこうあずかはつ霍氏かんほうせんさんひゃく

曰:「あずか讀曰。」

はちがつおつうしふうじじゅうよんねん薨。 永光ながみつねんいむこうじゅつ嗣,じゅういちねん薨。 たてはじめねんかんほうたかし嗣,よんねん薨,ほろびもとのべねんろくがつ癸巳きしほうよし以崇おとうと紹封,ほろび 元始げんしよんねんほう岑以髙曾まご紹封,おう莽敗,ぜっ  
    たけようごろほうまこと おおとりよしみ元年がんねん四月庚辰以帝爲太子時輔導有舊恩侯,せんさんひゃくななねん薨。 えいはじめよんねん,煬侯邯嗣,じゅういちねん薨。 もとことぶきねんほう嗣,更始こうし元年がんねんためへいしょころせ
邛成どもこうおうたてまつひかり 皇后こうごうちち關内せきうちこうこうせんななひゃくじゅう 元康もとやすねんさんがつみずのとふうじゅうはちねん薨。 はつもとねんほうたかし嗣,じゅうはちねん薨。 おおとりよしみねんほういさお嗣,じゅうよんねんたてひらねんすわせん舉不以實,ののし廷史,だい不敬ふけいめん 元始げんし元年がんねんほう堅固けんご以奉こう曾孫そうそん紹封,おう莽敗,ぜっ すみかげ
    安平あびらえびすほうしゅん はつもと元年がんねんみずのと皇太后こうたいごうけいさむらいちゅうちゅうろうはたふうじせんよんひゃくじゅうさんねん薨。 たてあきらよんねんつよしほうあきら嗣,じゅうよんねん薨。 ついたちよんねん,釐侯ふち嗣,じゅうねん薨。 元始げんしねんふところこうかい嗣,おう莽敗,ぜっ
はたりょうあいこう 以悼皇考こうこうしゅうとさむらいちゅうちゅうろうはた關内かんないほうゆう舊恩きゅうおんこうせんひゃく さんがつ乙未おとみふうじねんかみよんねん薨,ほろび        
平臺ひらだいやすしこうげん 以悼皇考こうこうしゅうとさむらいちゅうちゅうろうはた關内かんないほうゆう舊恩きゅうおんこうせんきゅうひゃく さんがつ乙未おとみふうじじゅうねん薨。 たてあきら元年がんねん,戴侯恁嗣,じゅうきゅうねん薨。

曰:「恁音おんなりんはん。」

おおとりよしみねんほう習嗣。   常山つねやま
ひろしもちごろこうもとしゅん 以皇太子たいし外祖父がいそふどうさんおとうと長樂ながらまもるじょうゆう舊恩きゅうおんこうせんひゃく さんがつ乙未おとみふうじよんねん薨。 かみさんねんかんほうたかし嗣,はちねん薨。 甘露かんろさんねんもどほうとう嗣,じゅうろくねん薨。 かわひらめよんねん,釐侯なみ嗣,薨,ほろび  
          もとのべねんろくがつ癸巳きしほうほう以並おとうと紹封,せんおう莽敗,ぜっ  
らくなりけいこうもと延壽えんじゅ 以皇太子たいし外祖父がいそふどうさんおとうとさむらいちゅう關内かんないほうゆう舊恩きゅうおんこうせんひゃく さんがつ乙未おとみふうじじゅうねん薨。 甘露かんろ元年がんねんおもえこう嗣,ろくねん薨。 はつもとねんあいこうつね嗣,きゅうねん薨。   たいら
        もとのべねんせつほうきょう以常おとうと紹封,せん たてあきら元年がんねんかんこうやまし嗣,じゅういちねんおおとりよしみさんねん薨,ほろびほうおさむ嗣,おう莽敗,ぜっ  
ひろしじょうこうへいきち 以御大夫たいふ關内かんないほうゆう舊恩きゅうおん功德くどくしげこうせんさんひゃくさんじゅう 元康もとやすさんねんがつ乙未おとみふうじはちねん薨。 おおとりさんねんほうあらわ嗣,ねん甘露かんろ元年がんねんすわ宗廟そうびょういたり司馬しばもん不敬ふけいだついちきゅうため關内せきうちこう おおとりよしみ元年がんねんろくがつおのれかんほうあきら以吉まご紹封。 元始げんしねん,釐侯なみ嗣。 みなみとみ

ほうまさるきゃく嗣,おう莽敗,ぜっ

たてしげるじょうこう 以丞しょうこうろくひゃくほうしょう以定とうふとしきさきむべだてごうえきふうじせんひゃく おおとりさんねんがつみずのえさるふうじよんねん薨。 甘露かんろさんねんおもえこうしょう嗣,さんじゅうねん薨。 ついたちさんねんちゅうこう輔嗣,じゅうななねん薨。 ねんほう輔嗣,おう莽敗,ぜっ
西にし平安へいあんこう于定こく 以丞しょうこうろくひゃくろくじゅう 甘露かんろさんねんがつ甲子きのえねふうじじゅういちねん薨。 永光ながみつよんねんころほうひさし嗣,じゅうよんねん薨。 おおとりよしみ元年がんねんほう恬嗣,よんじゅうさんねん更始こうし元年がんねんぜっ   臨淮

みぎこうせんじゅうにん一人ひとりこうずいちち,凡じゅういちにん

こうもとけい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
陽平ようへいごろこうおうきん 皇后こうごうちちこうせんろくひゃくおおとり大將軍だいしょうぐんえきふうせんよんひゃく,凡八せん はつもと元年がんねんさんがつみずのとふうじろくねん薨。 永光ながみつねんけいなりこうおおとり嗣,じゅうねん薨。 ついたちさんねん,釐侯じょう嗣,じゅうきゅうねん薨。 たてひらよんねんかんこう岑嗣,じゅうさんねん薨。 ひがしぐん

建國けんこくさんねんほう莫嗣,じゅうねん更始こうし元年がんねんためへいしょころせ

    安成やすなりきょうほうたかし たてはじめ元年がんねんがつみずのえ,以皇太后こうたいごうははおとうとこう祿ろく大夫たいふ關内せきうちこうこうまんねん薨。 たてはじめさんねんやすしこうたてまつ世嗣せいしさんじゅうきゅうねん薨。 建國けんこくねんほうゆみ嗣,おう莽敗,ぜっ なんじみなみ
    ひらめおもねやすほうたん かわひらめねんろくがつおつ,以皇太后こうたいごうおとうと關内せきうちこうこうせんいちひゃくじゅういちねん薨。 えいはじめ元年がんねん,剌侯じん嗣,じゅうきゅうねんためおう莽所ころせ 元始げんしよんねんほうじゅつ嗣,たてたけしねん薨,ぜっ
    成都せいとけいなりこうしょう ろくがつおつ,以皇太后こうたいごうおとうと關内せきうちこうこうせん,以大司馬しばえきふうせんじゅうろくねん薨。 もとのべよんねんほうきょう嗣,よんねん綏和ねんすわ山陵さんりょう未成みせいおけしゅ歌舞かぶめん   山陽さんよう
        たてひら元年がんねんほう邑以きょうおとうと紹封,おう莽篡ため隆信たかのぶおおやけあずか莽倶    
    べにあらこうりつ ろくがつおつふうじ,以皇太后こうたいごうおとうと關内せきうちこうこうせんいちひゃくさんじゅうねん薨。 元始げんしよんねんほうはしら嗣,おう莽敗,ぜっ 曾孫そうそん

たけ桓侯泓,たてたけし元年がんねん以父ため將軍しょうぐん戰死せんし,往與じょうゆうきゅうこう

南陽なんよう
    きょく煬侯 ろくがつおつ,以皇太后こうたいごうおとうと關内せきうちこうこうさんせんななひゃくさい以大司馬しばえきふうななせんななひゃくあいみかどまたえきせん,凡まんせんよんひゃくじゅういちねん薨。 たてひら元年がんねんほうわたる嗣,おう莽篡ため直道なおみちおおやけため莽所ころせ   きゅう
    髙平戴侯逢時 ろくがつおつ,以皇太后こうたいごうおとうと關内せきうちこうこうさんせんじゅうはちねん薨。 もとのべよんねんほうおけ嗣,おう莽敗,ぜっ   臨淮
      新都しんとこう えいはじめ元年がんねん五月さつき乙未おとみ,以帝しゅうと曼子こうせんひゃくこう篡位,誅。 襃新

ほうやすし元始げんし四年四月甲子以莽功侯,せん,莽篡爲信ためのぶ遷公,病死びょうし

しょう

ほう臨,四月甲子以莽功侯,せん。莽篡ため天子てんしほうためすべおう自殺じさつ

南陽なんよう
らくやすほうただし 以丞しょうこうろくひゃくよんじゅうなな たてあきらさんねんなながつみずのとふうじななねんたてはじめよんねんすわ顓地ぬすめめん      

みぎこうもとにん一人ひとり安平あびらこうずいちち,凡さんにん

こうなりけい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
あんあきらふしこうちょう 以丞しょうこうろくひゃくいちじゅうなな益戸ましどよんひゃく かわひらめよんねんろくがつ丙午ひのえうまふうじじゅういちねん薨。 たてひらねんほうひろし嗣,じゅうはちねん更始こうし元年がんねんためへいしょころせ     なんじみなみ
髙陽こう薛宣 以丞しょうこうせんきゅうじゅう おおとりよしみ元年がんねんよんがつかのえたつふうじねんえいはじめねんすわ西にししゅう盜賊とうぞくぐんやからまぬかれ,其年ふくふうじじゅうねん綏和ねんすわ忠孝ちゅうこう父子ふしぞくきず近臣きんしんめん       ひがしふとい
安陽あんようけいこうおうおん 皇太后こうたいごう從弟じゅうていだい司馬しばしゃ將軍しょうぐんこうせんろくひゃくしゅんえきふう 六月ろくがつおのれふうじねん薨。 えいはじめねんほうしゅん嗣,おう莽篡爲安ためやすしんおおやけ 建國けんこくさんねんおおやけ嗣,さらごうしんおおやけあずか莽倶  
なりぶしこうちょう 皇后こうごうちちこうせん えいはじめ元年がんねんよんがつおつふうじねん薨。 もとのべねんほう訢嗣,たてひら元年がんねんすわおとうとあきらぜっ繼嗣けいしまぬかれ,徙遼西にし     しんいき
    新成しんせいこう 綏和二年五月壬辰以皇太后弟封,いちねんたてひら元年がんねんすわおとうとあきらぜっ繼嗣けいしまぬかれ,徙遼西にし     みのる
髙陵どもこう翟方すすむ 以丞しょうこうせんあいみかど卽位そくい益子ましこせんひゃく えいはじめねんじゅういちがつみずのえふうじはちせんはちねん薨。 綏和ねんほうせん嗣,じゅうねん元年がんねんおとうとひがしぐんたい守義もりよし舉兵よく討莽,莽滅其宗。     琅邪
ていりょうほうあつし于長 以侍ちゅうまもるじょうごとあきらりょう不可ふかなりこうせん皇太后こうたいごう姊子。 もとのべさんねんがつ丙午ひのえうまふうじねん綏和元年がんねんすわだいぎゃく下獄げごく       なんじみなみ
いん紹嘉こうあななんひとし 以殷孔子こうしきちてきこうせんろくひゃくななじゅうろくがつすすむ爵爲こう地方ちほうひゃくたてひらねん益戸ましどきゅうひゃくさんじゅう

曰:「てき讀曰嫡。あな吉之よしゆきてき也。」

綏和元年がんねんがつ甲子きのえねふうじはちねん元始げんしねんさらためそうこう      
むべ鄕侯馮參 以中山王さんのうしゅうとこうせん 綏和元年がんねんがつ甲子きのえねふうじたてひら元年がんねんすわ中山なかやまふとしきさきしゅくのろい自殺じさつ        
氾鄕こうなん

曰:「氾音凡。」

以大そらこうせんあいみかど卽位そくいえきせん よんがつおつうしふうじじゅうねん元始げんしさんねんため莽所ころせたまものおくりな曰剌。 元始げんしよんねんほうきょう嗣,建國けんこくよんねん薨。     南陽なんよう
ひろしやま簡烈こうあなこう 以丞しょうこうせん元始げんし元年がんねんえきまん ねんさんがつへいいぬふうじねんたてひらねんすわしゅうしょくはいまぬかれもとことぶき元年がんねん五月乙卯復以丞相侯,ろくねん薨。 元始げんしねんほう嗣,おう莽敗,ぜっ     じゅん

みぎこうなりじゅうにん安成やすなりたいらおもね成都せいとべにきょく、髙平、新都しんとたけようこうはちにんずいちち,凡じゅうはちにん

こうあいけい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
やすこうちょうあきら 以帝しゅうとこうせん 綏和ねんよんがつみずのえとらふうじななねん元始げんし元年がんねんためおう莽所ころせ        
あな鄕侯でん 皇后こうごうちちこうさんせんまたえきせん よんがつみずのえとらふうじろくねんもとことぶきねんすわらん妻妾さいしょうまぬかれ,徙合うら       なつたかし
ひらしゅうこうちょう滿みつる 以帝しゅうとこうせんななひゃくさんじゅうきゅう 五月ごがつおのれうしふうじ元始げんしさんねんすわせいめん       湖陽こよう
髙樂ぶしこう 以大司馬しば關内かんないこうこうせんさんじゅうろく 綏和ねんなながつ庚午こうごふういちねんたてひら元年がんねんすわ泄免,元始げんし三年二月癸巳更爲義陽侯,がつ薨。 ほうぎょう嗣,おう莽敗,ぜっ     新野しんの

東海とうかい

髙武さだこうでん 以帝祖母そぼすめらぎふとふとしきさきしたがえちちおとうとだい司馬しばこうせんさんじゅう たてひら元年がんねん正月しょうがつひのととりふうじじゅうねん薨。 建國けんこくねんほう勁嗣,おう莽敗,ぜっ     もり
楊鄕こうしゅひろし 以丞しょうこうせんじゅう上書うわがき故事こじせんかえせんじゅう たてひらねんよんがつおつふうじはちがつすわ誣罔,自殺じさつ       湖陵こりょう
しんはじめこうおうよしみ 以丞しょうこうせんろくじゅうはち さんねんよんがつちょうとりふうじさんねんもとことぶき元年がんねん,罔上,下獄げごく瘐死。 元始げんしよんねんほうたかし紹封,おう莽敗,ぜっ     新野しんの
なんじあきらこうでんしょう 以皇ふとふとしきさきしたがえちちおとうとふうじせんこう以奉さきこうまつえきふうじ,凡五せん よんねんがつみずのとふうじいちねんもとことぶき元年がんねんすわそと諸侯しょこうめん もとことぶきねんがつほうあきら以商兄子せこ奉祀ほうしふうじはちがつすわせいめん     こく
しんほうていぎょう 以皇ふとふとしきさき同母どうぼ弟子でしこうせん はちがつからしふうじねんもとことぶきねんすわせいめん       新野しんの
髙安ほうただしけん 以侍ちゅう駙馬じょうつげ東平とうへいおうくもしゅくのろい反逆はんぎゃくこうせんこうえきふうじせん たてひらよんねんはちがつからしふうじねんもとことぶきねんすわためだい司馬しばごうしゅこころまぬかれ自殺じさつ       しゅ
ほうようこうまごちょう 以騎じょうあずかいきおっと躬告東平とうへいおうはんはかりごとこうせん はちがつからしふうじねんもとことぶきねんすわぜんためかん讒免,徙合うら       りゅう
むべりょうこういきおっと 博士はかせ弟子でしいんただしけんつげ東平とうへいおうはんはかりごとこうせん はちがつからしふうじねんもとことぶきねんすわしゅくのろい下獄げごく       もり
長平ながだいごろこう彭宣 以大そらこうせんななじゅうよん もとことぶきねんがつ甲子きのえねふうじよんねん薨。 元始げんしよんねんせつほうきよし嗣,じゅうよんねん薨。 てんおおとりねんほうぎょう嗣,おう莽敗,ぜっ   すみみなみ

みぎこうあいじゅうさんにん新成しんせい新都しんとたいらよう、營陵、とくにんずいちち,凡じゅうはちにん

孝平たかひらけい外戚がいせきひょう[编辑]

ごうおくりな姓名せいめい ほうじょう戸數こすう はじめふう まご 曾孫そうそん 玄孫げんそん
扶德こううまみや 以大こうせん 元始げんし元年がんねんがつへいたつふうじおう莽篡ため太子たいしそつかん       贛楡
扶平こうおうたかし 以大そらこうせん がつへいたつふうじさんねんためでん婢所どく,薨。       臨淮
廣陽こうようこう甄豐 以左將軍しょうぐんこう祿ろくくんじょうさくやす宗廟そうびょうこうせんさんひゃくろくじゅう がつ癸巳きしふうおう莽篡ためこうしんおおやけためおう莽所ころせ       南陽なんよう
うけたまわこう甄邯

曰:「うけたまわおと烝。」

以侍ちゅうたてまつくるまじょうじょうさくやす宗廟そうびょうこうこうせんよんひゃく さんがつみずのとふうじおう莽篡ためうけたまわしんおおやけ       なんじみなみ
襃魯ぶしほう公子きみこひろし 以周こう魯頃こう玄孫げんそん玄孫げんそんたてまつしゅうまつほうせん ろくがつ丙午ひのえうまふうじ,薨。 十一月じゅういちがつほうしょう如嗣,さらせい公孫こうそんさらためひめ     みなみ陽平ようへい
襃成こうあなひとし 以孔襃成れつくん霸曾まごたてまつ孔子こうしまつほうせん ろくがつ丙午ひのえうまふう       きずおか
ぼう鄕侯ひら 以長たのししょうあずかりゅう歆、あなひさしまご遷四人使治明堂辟雍得萬國驩心功侯,かくせん ねん閏月じゅんげつひのとうしふうじおう莽篡ため就新こう        
べにきゅうこうりゅう 以侍ちゅう犧和與平よへい晏同こうこう 閏月じゅんげつひのととりふうじおう莽篡爲國ためくにおおやけため莽所誅。        
やすし鄕侯あなひさし 以侍ちゅう五官中郎將與平晏同功侯。 閏月じゅんげつひのととりふうじおう莽篡ためだい司馬しば        
てい鄕侯まご 以常さむらい謁者與平よへい晏同こうこう 閏月じゅんげつひのととりふう        
つね鄕侯おう

曰:「惲音於粉はん。」

以太ぼくあずか閻遷、ちんたかしとう八人使行風俗齊同萬國功侯,かくせん 閏月じゅんげつひのととりふう        
もち鄕侯閻遷 以鴻臚與おう惲同こうこう 閏月じゅんげつひのととりふう        
みなみ鄕侯ちんたかし 以大司直しちょくあずかおう惲同こうこう 閏月じゅんげつひのととりふう        
邑鄕こう 以水衡都じょうあずかおう惲同こうこう 閏月じゅんげつひのととりふう        
ちん鄕侯郝黨 以中ろうはたあずかおう惲同こうこう 閏月じゅんげつひのととりふう        
あきら鄕侯しゃいん 以中ろうはたあずかおう惲同こうこう 閏月じゅんげつひのととりふう        
こうむ鄕侯逯普

曰:「逯音ろくあるさく逮。せいみなゆう。」

以騎じょうあずかおう惲同こうこう 閏月じゅんげつひのととりふうじおう莽篡ためだい司馬しば        
鄕侯ひねおおとり 以中ろうはたあずかおう惲同こうこう 閏月じゅんげつひのととりふう        
なりたけこうまごけん 以強やつ將軍しょうぐんゆう折衝せっしょうこう 閏月じゅんげつひのととりふうじおう莽篡爲成新ためなりしんこう        
あかりすべこうこう 以騎じょうあかりため人後じんご一統いっとうこう 閏月じゅんげつひのととりふう        
やぶえびすこうひね 以父湯前ゆのまえためふくこうじょう討郅ささえたん于侯,せんよんひゃく なながつへいさるふう        
討狄こうもりくん 以前いぜんためぐんかりすすむしゅ郅支たん于首こうせん なながつへいさるふう        

孝平たかひらじゅうにん,邛成、はくりょうせんひらめべにまいよう、秺、らくりょうみやこしげるあたらしはじめ、爰氏、ごうよしあきら鄕、信成のぶなりずいもも、襃新、しょうじゅうななにんずいちちつぎ,凡さんじゅうきゅうにん

曰:「よりどころ功臣こうしんひょう》及《王子おうじこうひょう》,ひらみかどべにこうただしゅう玄孫げんそんきょう元始げんしねん紹封絳侯。うたぐべに當爲とうい絳,轉寫てんしゃしゃあやまみみまた功臣こうしんひょうさくわらわ鄕侯,こん此作あきら鄕,ひょう不同ふどうまたとうゆうあやま也。」


 まき017 かえしかいいただき まき019

ほんひがしかん作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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  1. 曰:「論語ろんご孔子こうしひね帝王ていおうほううんしん法度はっとおさむはいかん,四方之政行焉;きょうめつこくつぎ絶世ぜっせい,舉逸じん天下てんかひと歸心きしん焉。』此序引之也。」
  2. 曰:「れいうんたけおうかついん下車げしゃ,而封みかどこう於薊,ふうみかど堯之於祝,ふうみかどしゅんこれ於陳。』此其ごと也。」
  3. 曰:「髙紀じゅうねんみことのりうん:『はた皇帝こうていすわえかくれおうやす釐王、ひとし愍王、ちょう悼襄おうみな絶無ぜつむ。其與しん皇帝こうていもりじゅういえすわえひとしかくじゅういえちょう及魏公子こうしかくいえ。』ちょうりょうでん髙帝いいよんにん曰『われもとめこうおおやけ避逃わがこんおおやけなんしたがえわれゆう乎?』また髙紀じゅうねんもとめらくあつしゆう乎,とく其孫叔,ふうらく鄕,ごうはなしげるくん』也。すわえひとしちょうみなきゅうろくこく緫云ろくこく。四皓須眉皓白,いいよんあきら稱號しょうごうざいおうみつぐりょう龔鮑でん。」
  4. 曰:「きょう讀曰きょう。」
  5. 曰:「うみひんいい近海きんかいひんおんしきまたおと賔。」
  6. ふくけん曰:「りょきさきけいしゅうりょこうさわたてしげるこうしゃく。」曰:「あずか讀曰げん其功也。」
  7. 曰:「おさむおんじょう。」
  8. おう劭曰:「春秋しゅんじゅう天子てんしはたおさめきさき於紀,きの本子もとこ爵也,さき襃爲こうげん王者おうじゃ於小こく。」
  9. おう劭曰:「さるはくしゅうせんおうもとしゅうと也,ため邑於しゃ後世こうせいほっこうちょうがいおやしゃえんさるはくおん,援此以爲さとし也。」
  10. 曰:「寖,やや也。」