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資治通鑑/卷199 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

どおりかん/まき199

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 まきいちひゃくきゅうじゅうはち どおりかん
まきいちひゃくきゅうじゅうきゅう からじゅう
まきひゃく 

おこりちょ雍涒なだよんがつつき閼蒙たんきゅうがつ,凡ななねんゆう

どおりかん だい199かん

からじゅう】 おこりちょ雍涒なだよんがつつき閼蒙たんきゅうがつ,凡ななねんゆう

ふとしそう文武ふみたけ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうてい下之したのさだかんじゅうねんつちのえさるおおやけもとろくよんはちねん

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なつよんがつちょうみぎたけこう將軍しょうぐんりょうけんかたげきまつがい蠻,やぶこれ

はつ,巂州とくりゅうはくえいじょうげん:「まつがいしょ蠻暫降ふく叛,請出討之,以通西にし洱、天竺てんじくみち。」敕建かたはつともえしょくじゅう州兵しゅうへい討之。蠻酋そう捨帥眾拒せんけんかたげきはいころせせん餘人よにんぐん蠻震懾,ほろび竄山だにけんかた分遣ぶんけん使者ししゃさとし利害りがいみならい前後ぜんごいたりしゃななじゅうじゅうまんきゅうせんさんひゃくけんかたしょ其酋ちょうこうむとうため縣令けんれいかくみつる所部ところぶ,莫不かんえついん使つかいまい西にし洱河,其帥楊盛だい駭,せんはた遁,使者ししゃあかつきさとし以威しんじもりとげ請降。其地ゆう楊、ちょうただしとうすうじゅうせいかくよりどころいちしゅうだいしゃろくひゃく小者こものさんひゃく大君おおきみちょうあいすべいち雖小なまり,其生ぎょう風俗ふうぞく大略たいりゃくあずか中國ちゅうごくどうくもほんみな華人かじん,其所ことしゃじゅうがつためとしくび

おのれちぎりはずかしめ紇主きょくよりどころそち眾內。以其おけげんしゅう,以曲よりどころため刺史しし,隸營州都しゅうととく

甲子きのえねがらすえびす鎮將かみかん將兵しょうへい浮海げき高麗こうらいぐうだかうららせんせん於易さんやぶこれ。其夜,高麗こうらいまん餘人よにんかさねかみかんせんかみかんしつらえふくまたやぶこれ而還。はつ西にし突厥おつ毘咄りくあせ以阿那賀なか魯為まもるきょ邏斯すいざい西にししゅうきたせんひゃくみつるしょがつしょみつはじめうた邏祿、しつ畢五せい眾。おつ毘咄りく奔吐おつ毘射匱可あせへいはさま逐之,部落ぶらくほろびおつ魯帥其餘眾數せんちょう內屬,みことのりしょ於庭しゅう莫賀じょうはいひだり驍衛將軍しょうぐん魯聞とうへい討龜茲,請為きょうみちびけ,仍從すうじゅう入朝にゅうちょううえ以為こんたかし道行みちゆきぐんそうかんあつえんたまもの而遣

五月ごがつかのえみぎまもるりつちょうおうげんさくげきみかどふく帝王ていおうおもねじゅん大破たいは

はつちゅう天竺てんじくおうかばねいつへい最強さいきょうよん天竺てんじくみなしんげんさくたてまつ使つかいいたり天竺てんじく諸國しょこくみな使つかい入貢にゅうこうかいかばねいつそつ國中くになか大亂たいらん,其臣おもねじゅん自立じりつはつえびすへいおさむげんさくげんさくそち從者じゅうしゃさんじゅうにんあずかたたかえちから不敵ふてき,悉為しょとりこおもねじゅんつきかすめ諸國しょこく貢物みつぎものげんさくだつよい遁,抵吐しげる西境にしさかい,以書せい鄰國へい,吐蕃精銳せいえいせんひゃくにんどろばばこくななせん赴之。げんさくあずか其副蔣師じんそち國之くにゆきへいしんいたりちゅう天竺てんじくしょきょちゃ餺和しろ連戰れんせんさんにち大破たいは斬首ざんしゅさんせんきゅう,赴水溺死できししゃまんにんおもねじゅん棄城はしさらおさむあまり眾,かえあずかじんせんまたやぶこれとりこおもねじゅん眾奉其妃及王,阻乾陀衛こうじん進擊しんげき,眾潰,其妃及王とりこ男女だんじょまんせんにん。於是天竺てんじくひびきしんしろ邑聚落降しゃひゃくはちじゅう餘所よそ,俘阿じゅん以歸。以玄さく為朝ためとも散大さんだいおっと

ろくがつおつうし,以白べつためきょのぶしゅう

みずのととり特進とくしんそうこうしょう瑀卒,ふとしつね謚曰「とく」,尚書しょうしょ謚曰「肅」。うえ曰:「謚者,ぎょうあととうとく其實,謚曰さだ褊公。」するど嗣,なおうえおんなじょうじょう公主こうしゅうえよく為之ためゆき營第,公主こうしゅ固辭こじ,曰:「ごとしゅうとしゅうととう朝夕ちょうせきさむらいがわわかきょべつだいしょ闕多矣。」上乃うえのいのちそく瑀第而營

うえ以高うららこまへい以明ねんはつさんじゅうまん眾,いち舉滅ある以為大軍たいぐん東征とうせい,須備けい歲之としゆきかて畜乘しょのうむべふねかんため水運すいうんずいまつけんみなみどく寇盜,ぞくしゃ遼東りゃおとんこれやくけんみなみふくあずか及,其百姓ひゃくしょうとみ庶,むべ使つかいみやつこふねかんうえしたがえこれあきなながつみぎりょうひだり右府うふちょうきょうえら於劍南道みなみどう伐木ばつぼくづくりふねかんだいしゃあるながひゃくしゃく,其廣はんべつ使つかい行水ぎょうずいどうみこかい抵江、あげおもむき萊州。

かのえとら西にし突厥しょうこごめすす請帥しょしたがえ討龜茲。

はつひだりたけまもる將軍しょうぐん武連むれけんおおやけ武安たけやすくんともちょくげん武門ぶもん太白たいはく屢晝ふとしうらないうん:「おんなぬしあきら。」民間みんかんまたつてうん:「とうさんせいこれおんなぬしたけ王代おうだいゆう天下でんか。」じょうあくかいあずかしょ武臣ぶしんえん宮中きゅうちゅうぎょうさけれい使つかいかくげん小名しょうみょうくんともげんめいむすめうえ愕然がくぜんいんわらい曰:「なにぶつ女子じょし,乃爾いさむけん!」また以君ともかんしょうふう邑皆ゆうたけふかあくためはなしゅう刺史ししゆう布衣ふいいん道信みちのぶげんのうぜっつぶあかつき佛法ぶっぽうきみともふかたかし信之のぶゆきすうそうしたがえへい人語じんごそうくんともあずか妖人交通こうつうはかりごと不軌ふきみずのえたつきみともすわ誅,せきぼつ其家。

うえひそかといたいれいあつしふう:「《しょうんしんゆう乎?」たい曰:「しんおおせ天象てんしょう,俯察歷數れきすう,其人やめざい陛下へいか宮中きゅうちゅうためおやぞく自今じこんさんじゅうねんとうおう天下でんかころせから子孫しそん殆盡,其兆既成きせい矣。」じょう曰:「疑似ぎじしゃつきころせこれなに如?」たい曰:「てんこれしょいのちにん不能ふのうたがえ也。王者おうじゃ不死ふしころせ無辜むこ。且自いま以往いおうさんじゅうねん,其人やめおい庶幾しょき頗有慈心,ためあるあさいま使つかいとく而殺てんあるなま壯者そうしゃ肆其怨毒,おそれ陛下へいか子孫しそんのこるい矣。」上乃うえのとめ

つかさそらりょう文昭ふみあき公房こうぼうげんよわい留守るす京師けいしやましあつしうえほろ赴玉はなみやかた輿こしいれ殿どのいたり御座ぎょざがわ乃下,相對そうたい流涕りゅうていいんとめ宮下みやげ,聞其しょういよいよのりがた於色,げきそくゆうせがれげんよわいいい諸子しょし曰:「われ受主じょう厚恩こうおんこん天下てんか無事ぶじただ東征とうせいやめ群臣ぐんしん莫敢諫,われ不言ふげん有餘ゆうよせめ。」乃上ひょう諫,以為:「《老子ろうし》曰:『知足ちそくはずかしめとめ殆。』陛下へいか功名こうみょう威德いとくまたあし矣,つぶせひらき疆亦とめ矣。且陛ごとけついちじゅうしゅう,必令さんくつがえそうしんもとぜんとめ音樂おんがくしゃじゅう人命じんめい也。いま無罪むざい士卒しそつほこさきした使つかいきものうぬりどく不足ふそく愍乎!こう使つかいだかうららたがえしつ臣節しんせつ,誅之可也かなりおかせ百姓ひゃくしょうめつ可也かなり他日たじつのうため中國ちゅうごく患,じょ可也かなりこんさんじょう而坐はん中國ちゅうごく,內為前代ぜんだいゆきはじ外為がいためしんほうかたきあに所存しょぞんしゃしょうしょそんしゃふとし乎!ねがい陛下へいかもとだかうららしん,焚陵ふねやめ應募おうぼ眾,自然しぜんはなえびす慶賴よしよりとお肅邇やすしん旦夕たんせき入地いりじ,儻蒙ろく此哀不朽ふきゅう!」げんよわい遺愛いあいなおうえおんなだか公主こうしゅうえいい公主こうしゅ曰:「かれびょうあつし如此,なおのうわが國家こっか。」じょう臨視,握手あくしゅあずか訣,悲不かちみずのと,薨。

やなぎかおる曰:げんよわいふとそうじょう天下でんか,及終しょう,凡さんじゅうねん天下てんかごうためけんしょうしかあとひろとくまたいたり矣。ふとしそうじょうらん而房、もり不言ふげんこうおうぜん諫諍而房、もりゆずる其賢,えいまもるぜん將兵しょうへい而房、もりぎょう其道,致太ひらめぜんじんぬしためからむねしんむべ哉!

はちがつおのれとりついたちにちゆうしょく

ちょううし,敕越州都しゅうととく及婺、ひろしとうしゅうづくりうみせん及雙舫千いちひゃくそう

からしひだりりょうぐん大將軍だいしょうぐんしつおもえりょく出金しゅっきん山道さんどうげき薛延陀餘寇。

きゅうがつかのえたつこんたかし道行みちゆきぐんだいそうかんおもねしゃしかげきしょがつそとみつやぶこれ眾悉降。

みずのと,薛萬徹等伐高麗還。まんてっざいぐんちゅう使つかいりょうぶつ,裴行方ゆくえそう其怨もちすわ除名じょめいりゅうぞうしゅう

おのれうししんそうため百濟くだらしょおさむやぶじゅう三城みき

おのれ,以黃もんさむらいろう褚遂ため中書ちゅうしょれい

つよえらとうはつみん造船ぞうせんやく及山獠,まさ、邛、まゆさんしゅう獠反。みずのえとらしげ州都しゅうととくはりたかみぎまもる將軍しょうぐんりょうけんかたはつ隴右、かいちゅうへいまん餘人よにん以擊しょくじん造船ぞうせんやくある乞輸ちょくやとい潭州じん造船ぞうせんじょうもとしゅうけんとくさこいわおきゅうみんいたりうりたく、鬻子おんな不能ふのうきょうたに踴貴,けんがい騷然そうぜん上聞じょうぶんつかさみのりしょうきょうちょうまご知人ちじんはせえき往視知人ちじんそうしょう:「しょくじん脆弱ぜいじゃくたいろうげき大船おおぶねいちそういさおきぬせんひゃくさんじゅうろくひき山谷さんややめこれ,挽曳畢,ふくせいせんいさおことなみしゅうみん不能ふのうこらえむべそんやしなえ。」上乃うえの敕潭しゅうせんいさおみなしたがえ官給かんきゅう

ふゆじゅうがつみずのとうしくるまかえ京師けいし

かい紇吐迷度兄子せこがらす紇蒸其叔母おばがらす紇與俱陸莫賀たちかん俱羅勃,みな突厥しゃはなあせ婿むこ也,そうあずか謀殺ぼうさつ吐迷以歸しゃはながらす紇夜引十餘騎襲吐迷度,ころせこれつばめしかふくみやこまもるもとれいしん使じんさそえがらす紇,もとそう以為瀚海とくがらす紇輕まいれいしんしゃれいしん而斬,以聞。うえおそれかい部落ぶらく離散りさん兵部ひょうぶ尚書しょうしょちぇあつしれい往安なでこれ久之ひさゆき,俱羅勃入うえとめ

おもねしゃしかすんでやぶしょがつしょみつ,引兵焉耆西にし趨龜茲北さかいふんへいためみち不意ふい,焉耆おう薛婆おもねささえ棄城奔龜茲,其東さかいしゃしかへい追擊ついげきとりこ而斬たて其從ちちおとうとさきじゅんため焉耆おう使つかいおさむしょくみつぎかめ茲大ふるえ守將しゅしょう棄城はししゃしかすすむたむろ磧口,其都じょうさんひゃくしゅう刺史ししかんたけしそちせんためぜんほこさき,驍衛將軍しょうぐん曹繼叔次いたり褐城,かめ茲王訶利ぬのしつ畢、其相、羯獵顛帥眾五まんこばめせんほこさきはじめせっ引兵にせ遁,かめ茲悉眾追ぎょうさんじゅうあずかままし叔軍あいかめ茲懼,はた卻,つぎ叔乘かめ大敗たいはい,逐北はちじゅうさと

きのえいぬ,以回紇吐迷度翊左ろうはたばばうるうためひだり驍衛大將軍だいしょうぐんだい俟利はつ、瀚海とく

十一月じゅういちがつかのえちぎりそちくつ哥、奚帥しゃなみそち所部ところぶ內屬。以契ためまつばく,以窟哥為とくまた以其べつそちたち稽等ため峭落とう九州きゅうしゅうかく以其はずかしめ紇主ため刺史しし。以奚ためにょうらく,以可しゃためとくまた以其べつそちおもねかいとうためじゃくみずとうしゅうまたかく以其はずかしめ紇主ため刺史ししからしうしおけ東夷あずまえびすこう尉官いかん於營しゅう

十二月じゅうにがつ庚午こうご太子たいしため文德ふみのり皇后こうごうさくだい慈恩寺じおんじなり

かめ茲王ぬのしつ畢既はいはし都城みやこのじょうおもねしゃしか進軍しんぐん逼之,ぬのしつ畢輕騎西きさいはししゃなんじ拔其じょう使つかい安西あんざいまもるかくたかしつとむ守之もりゆきすなしゅう刺史ししうみせいなお輦奉薛萬備帥精騎追布失畢,ぎょうろくひゃくぬのしつ畢窘きゅうばちかわしろしゃなんじ進軍しんぐんおさむよんしゅん閏月じゅんげつちょううし,拔之,とりこぬのしつ畢及羯獵顛。だつはしせん引西突厥眾並其國へいまん餘人よにん襲擊しゅうげきこうつとむこうつとむ營於じょうがいかめ茲人あるつげこうつとむ以為奄至,こうつとむそちしょせん餘人よにんしょう入城にゅうじょう利之としゆき眾已登城とじょう矣。城中じょうちゅうくだえびすあずかこれ相應そうおうきょうげきこうつとむ如雨。こうつとむ不能ふのうてきはたふく於西もん城中じょうちゅうだい擾,倉部くらべろうちゅうちぇよしちょう召募しょうぼとくひゃくにんまもる軍資ぐんし財物ざいぶつあずかかめ茲戰於城ちゅう,曹繼叔、かんたけしまた營於じょうがい城西じょうさいきたすみげきけい宿やど乃退,斬首ざんしゅさんせんきゅう城中じょうちゅうはじめじょうこう旬餘じゅんよふく引山ひきやまきたかめまん餘人よにんおもむき都城みやこのじょうつぎ叔逆げき大破たいは斬首ざんしゅはちせんきゅう單騎たんきはしかめ茲人これ,以詣軍門ぐんもん

おもねしゃなんじ前後ぜんこうやぶ其大じょうひだりまもるろうしょうけん祗甫まいしょしろ開示かいじ禍福かふくみなしょうそち請降,凡得ななひゃくあまりじょうとりこ男女だんじょすうまんくちしゃなんじ乃召其父老ふろうせん國威こくいれいさとし以伐ざいたて其王おとうとまもるためぬしかめ茲人大喜だいぎ西域せいいき震駭しんがい西にし突厥、于闐、安國やすくにそう饋駝ぐんかてしゃしか勒石きのいさお而還。

つちのえとら,以昆おかどう行軍こうぐんそうかんひだり驍衛將軍しょうぐんおもね那賀なか魯為どろふくすな缽羅まもるたまもの以鼓纛,使つかい招討西にし突厥ふくしゃ

みずのとしん相金そうがね春秋しゅんじゅう及其ぶんおういれ春秋しゅんじゅう德之のりゆきおとうと也。うえ春秋しゅんじゅうため特進とくしんぶんおうためひだりたけまもる將軍しょうぐん春秋しゅんじゅう請改あきら服從ふくじゅう中國ちゅうごく,內出ふゆふくたまもの

ふとしそう文武ふみたけ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうてい下之したのさだかんじゅうさんねんおのれとりおおやけもとろくよんきゅうねん

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はる正月しょうがつからしかめ茲王ぬのしつ畢及其相とういたり京師けいしうえせめゆずる而釋,以布しつ畢為ひだりたけまもるちゅうろうしょう

西南せいなん莫祗とう蠻內,以其ためはたもちらんおかよんしゅう,隸朗州都しゅうととく

うえ以突厥車はなあせ入朝にゅうちょうみぎ驍衛ろうはたこうただしはつかい紇、ぼくほねとうへい襲擊しゅうげきへいにゅう其境,しょ部落ぶらくしょうつぎ。拔悉みつ吐屯こえ察降,以其おけしんはじむしゅう

がつへいいぬおけよういけとく,隸安西都さいとまもる戊子ぼし,以左まもる將軍しょうぐんおもね那賀なか魯為よういけとく

さんがつへいたつおけゆたか州都しゅうととく使つかいつばめしかみやこまもるもとりつけんとく

ふゆひでりいたりはじめからしとり上力じょうりきやましいたりあらわどう門外もんがい,赦天ちょうしげる,敕太子たいし於金えきもん聽政。

なつよんがつおつうえ行幸ぎょうこうみどりほろみや

うえいい太子たいし曰:「才智さいち有餘ゆうよしかなんじあずかこれおんこわ不能ふのうふところふくわがいま黜之,わか即行そっこう,俟我なんじ於後ようためぼくしゃ親任しんにんわか徘徊はいかい顧望,とうころせみみ。」がつつちのえうま,以同中書ちゅうしょ門下もんか三品李世勣為疊州都督;勣受みことのりいたり而去。

からしとり開府かいふどう三司衛景武公李靖薨。

うえぞうげき太子たいし晝夜ちゅうや不離ふりがわある累日るいじつしょくはつゆうへんしろしゃうえ泣曰:「なんじのうこうあい如此,われなん恨!」ちょうしげるやましあつし,召長まごにゅう含風殿どのうえ引手ひきて捫無頤,哭,悲不かちじょう竟不とくゆうしょげんいんれいおのれふく召無及褚とげにゅう內,いい曰:「ちんこん悉以後事こうじづけおおやけやから太子たいし仁孝にんこうおおやけやからしょぜん輔導ほどう!」いい太子たいし曰:「とげざいなんじ勿憂天下でんか!」またいいとげ曰:「盡忠じんちゅう於我,わがゆう天下でんか力也りきやわが,勿令讒人あいだ。」仍令とげくさのこみことのりゆうごろうえくずし

太子たいしよう頸,ごう慟將ぜっ攬涕,請處分しょぶん眾事以安內外。太子たいしあいごうやめ曰:「主上しゅじょう宗廟そうびょう社稷しゃしょくづけ殿下でんかあにとくこう匹夫ひっぷただ哭泣乎!」乃秘不發ふはつ庚午こうごとう太子たいしさきかえ、勁兵及舊はたみなしたがえからし太子たいし入京にゅうきょうじょうだいぎょう御馬おんま輿こしさむらいまもる如平ままし太子たいし而至,ひたすら於兩ただし殿どの。以太子たいしひだり庶子しょし於志やすしためさむらいちゅうしょう詹事ちょうこうなりけんさむらいちゅう,以檢こう刑部おさかべ尚書しょうしょみぎ庶子しょしけん吏部さむらいろうだか輔兼中書ちゅうしょれいみずのえさるはつ太極たいきょく殿どのせんのこみことのり太子たいし即位そくい軍國ぐんこく大事だいじ不可ふかとま闕;平常へいじょうほそつとむ有司ゆうし諸王しょおうためとく刺史しししゃなみ聽奔,濮王やすし在來ざいらいげんやめ遼東りゃおとんこれやく及諸土木どぼくこう。四夷之人入仕於朝及來朝貢者數百人,聞喪みな慟哭どうこく,剪髮、剺面、わりみみ流血りゅうけつ灑地。

ろくがつきのえいぬついたちこうはじめ即位そくい,赦天

ちょううし,以疊州都しゅうととく勣為特進とくしん檢校けんぎょうらくしゅう刺史しし洛陽らくようみや留守るす

さきふとしむねめいれい天下てんか連言れんげんしゃ勿避;いたりはじめあらためかんめいはん先帝せんていいみなしゃ

みずのと,以長まごためふとしじょうけん檢校けんぎょう中書ちゅうしょれい尚書しょうしょ門下もんかしょうごと固辭こじ尚書しょうしょしょうごとみかどもと,仍令以大尉たいい同中どうちゅうしょ門下もんかさんひん

癸巳きし,以李勣為開府かいふどうさんつかさどう中書ちゅうしょ門下もんかさんひん

おもねしゃなんじやぶかめ茲也,行軍こうぐんちょう薛萬備請因兵威說于闐王伏闍信入朝,しゃしかしたがえこれあきなながつおのれとりふく闍信ずいまん入朝にゅうちょうみことのりにゅう謁梓みや

はちがつみずのととりよる地震じしんすすむしゅうゆう甚,壓殺あっさつせん餘人よにん

かのえとらそうぶん皇帝こうてい於昭りょうびょうごうふとしむねおもねしゃしかちぎり苾何りょく請殺殉葬,うえひとさとし以先むねもと蠻夷ばんいくんちょうため先帝せんていしょとりこふくしゃ頡利とうじゅうよんにんみなみがくせきため其像,こくめいれつ於北馬門まかど內。

ちょうとりれい尚書しょうしょもとけいむねそうひろのうくんびょうおう毀,請藏ぬし於西夾室;したがえこれ

きゅうがつおつ,以李勣為ひだりぼくしゃ

ふゆじゅうがつ,以突厥諸おけ捨利とう五州隸雲中都督府,みのりとう六州隸定襄都督府。

おつうえといだいきょうから臨系しゅうすうたい曰:「しゅうじゅう餘人よにんただにんおう。」うええつうえ嘗錄けいしゅうぜんきょうしょしょしゃごう呼稱こしょう冤,臨所しょしゃどく無言むごんうえかいもん其故。しゅう曰:「からきょうしょしょほん冤。」じょう歎息たんそく良久よしひさ,曰:「ごくしゃ不當ふとう如是にょぜよこしま!」

うえ以吐しげるさんろうさんため駙馬じょうふう西海さいかいぐんおうさんひろし致書於長まごとううん:「天子てんしはつ即位そくい臣下しんかゆう不忠ふちゅうしゃとう勒兵赴國討除。」

十二月じゅうにがつみことのり濮王たい開府かいふおけ僚屬,くるまふくちんぜんとくゆうこと

こうはじめ天皇てんのう大聖たいせいだい弘孝ひろたか皇帝こうてい上之うえのじょう

ふとしそう文武ふみたけ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうてい下之したの下永しもなが徽元ねんかのえいぬおおやけもとろくれいねん

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はる正月しょうがつからしうしついたち改元かいげん

丙午ひのえうまだておうため皇后こうごうきさきおもえ政之まさゆきまご也。以后ちちじんゆうため特進とくしんこくこう

おのれ,以張ぎょうなりためさむらいちゅう

からしとりうえ召朝しゅう使いい曰:「ちんはつ即位そくいことゆう不便ふべん百姓ひゃくしょうしゃ悉宜ひね不盡ふじんしゃさらふうそう。」日引ひびき刺史ししじゅうにん入閣にゅうかくもん百姓ひゃくしょうやましにが,及其政治せいじ

ゆう洛陽らくようじん弘泰ひろやす誣告ぶこくちょうまご謀反ぼうほんうえりついのちこれあずか褚遂りょう同心どうしん輔政,じょうまたみことれいにんきょうおのれ以聽なが徽之せい百姓ひゃくしょう阜安,ゆうさだかん遺風いふう

ふとしそうおんな衡山公主こうしゅおうてきちょうまご有司ゆうし以為ふくすんでこうじょよく以今秋成あきなり昏。於志やすしじょうげん:「漢文かんぶんりつせいほんため天下でんか百姓ひゃくしょう公主こうしゅふくほんおとろえたて使ふくずいれいじょあにじょうずいれいあらため,請俟三年喪畢成昏。」じょうしたがえこれ

がつからしたて皇子おうじこうためもとおううえきんため杞王,もとぶしため雍王。

なつ五月ごがつみずのえいぬ,吐蕃さんろうさんそつ,其嫡子ちゃくし早死はやじにたて其孫ためさんさんあまね幼弱ようじゃく政事せいじみなけつ於國しょう祿ろくひがしさん祿ろくひがしさんせい明達めいたつ嚴重げんじゅうぎょうへいゆうほう,吐蕃所以ゆえん強大きょうだい威服いふく氐、羌,みな其謀也。

ろくがつこうただしげき突厥,いたりおもねいきさんくるまはなあせ召諸へいみな赴,あずかすうひゃく遁去。ただしそちせいおいいたり金山かなやまとりこ以歸,其眾みなくだ

はつおもねしゃしかとりこかめ茲王ぬのしつ畢,たて其弟ためおうとうへいすんでかえ,其酋ちょうそうりつさらしょう攻擊こうげきあきはちがつみずのえうまみことのりふく以布しつ畢為かめ茲王,歸國きこくなで其眾。

きゅうがつかのえこうただしくるまはなあせいたり京師けいししゃくはいひだりたけまもる將軍しょうぐんしょ其餘眾於いくとくぐんやまおけおおかみ山都やまとただし以統。以高ただしためまもる將軍しょうぐん。於是突厥つきためふう內之しんふんおけたん于、瀚海まもるたん于領おおかみさんくもちゅうくわさんとくみのりとういちじゅうよんしゅう;瀚海りょう瀚海、きむ徽、あたらしはじむとうななとくせんがくとうはちしゅうかく以其酋長しゅうちょうためとく刺史しし

みずのと上出かみで畋,ぐうもん諫議大夫たいふあきららくたにりつ曰:「あぶらころもわかためのり?」たい曰:「以瓦為之ためゆき,必不。」うええつためやめりょう

勣固もとめ解職かいしょくふゆじゅうがつつちのえたつかい勣左ぼくしゃ,以開府かいふどうさんつかさどう中書ちゅうしょ門下もんかさんひん

おのれかん察御たけ韋思けん劾奏中書ちゅうしょれい褚遂そもそもかい中書ちゅうしょ譯語やくごじんだいしょうきょうちょう睿冊以為じゅん估無ざいおもえけんそう曰:「估價しつらえ,備國家こっかしょ須,臣下しんか交易こうえきあにとくじゅん估為じょう!睿冊まいぶん罔上,つみとう誅。」左遷させんとげためどう刺史しし,睿冊循州刺史ししおもえへりくだめいじんやく,以字ぎょう

十二月じゅうにがつ庚午こうごあずさ州都しゅうととくしゃまんさい、兗州とくしゃほうきょうあずか黔州とくはじめ嘗討琰州叛獠;まんさいほうきょうにゅうほら招慰,ため獠所ころせ

ふとしそう文武ふみたけ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうてい下之したの下永しもながねんからしおおやけもとろくいちねん

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はる正月しょうがつおつ,以黃もんさむらいろう宇文うぶんぶし中書ちゅうしょさむらいろうやなぎ奭並同中どうちゅうしょ門下もんかさんひん。奭,とおる兄子せこおう皇后こうごうしゅうと也。

ひだり驍衛將軍しょうぐんよういけとくおもね那賀なか招集しょうしゅう離散りさんいおりちょうややもり,聞太むねくずれはかりごとかさね西にしにわしゅうにわしゅう刺史しし駱弘義知よしとも其謀,おもてげんうえ通事つうじ舍人とねりきょうたからあきらはせ慰撫いぶたからあきらせつ魯,れい長子ちょうし咥運にゅう宿衛しゅくえい,授右驍衛ちゅうろうはたひろふく。咥運乃說其父よう眾西はし擊破げきはおつ毘射匱可あせなみ其眾,けんきば於雙かわ及千いずみごうすな缽羅あせ,咄陸すすつとむしつ畢五俟斤みなしょうへいすうじゅうまんあずかおつ毘咄りくあせれんへいしょがつしょみつ西域せいいき諸國しょこく。以咥うんため莫賀咄葉まもる

焉耆おうばばとぎそつ國人くにびとひょう請復りつおう突騎ささえなつよんがつみことのり突騎ささえみぎたけまもる將軍しょうぐんかえこく

きむしゅう刺史しし滕王もと驕奢きょうしゃたてはぐれきょあきらかげちゅう,畋游ふしすう開城かいじょうもんろう百姓ひゃくしょうある引彈だんじんあるうめじんゆきちゅう以戲わらいうえたまものしょきりゆずる,且曰:「てきこれかたまたおういとぐちすすむれいあらくんなんそくためそくちん以王いたりおや不能ふのう致王於法,いましょおう下上しもかみこう以愧おうしん。」

もと嬰與蔣王惲皆こう聚斂,うえ嘗賜諸王しょおう帛各ひゃくだんどく及二おう,敕曰:「滕叔、蔣兄のうけい須賜ぶつきゅうあさりょうくるま以為ぜにぬき。」二王におうだい慚。

あきなながつ西にし突厥すな缽羅あせ寇庭しゅうおさむおちいきむみねじょう及蒲るいけんころせりゃくすうせんにんみことのりひだりたけこう大將軍だいしょうぐんはりけんかたみぎ驍衛大將軍だいしょうぐんちぎり苾何りょくため弓月ゆづき道行みちゆきぐんそうかんみぎ驍衛將軍しょうぐん高德こうとくはぐれみぎたけこう將軍しょうぐん薛孤ひとしためふくはつはたなり、岐、雍府へいさん萬人及回紇五萬騎以討之。

癸巳きしみことのりしょれいかん學士がくしあかりどう制度せいど,以高祖こうそはい天帝てんていふとしむねはいにんみかど

はちがつおのれ,以於こころざしやすしためひだりぼくしゃちょうこうなりためみぎぼくしゃこう輔為さむらいちゅうこころざしやすしくだりなり仍同中書ちゅうしょ門下もんかさんひん

おのれろうしゅう白水しらみ蠻反,寇麻しゅうひだりりょうぐん將軍しょうぐんちょうたかしとうはつへい討之。

きゅうがつ癸巳きしはいだまはなみやため佛寺ぶつじつちのえいぬさらいのちきゅう成宮なるみやためまんねんみや

かのえいぬひだりたけしこう引駕ぶんみさお逾牆ぬすめひだりぞうぶつうえ以引しょくざい糾繩,乃自ためぬすめいのち誅之。諫議大夫たいふしょうひとし諫曰:「ぶんみさお情實じょうじつなんはらしかほういたり。」上乃うえのめんぶんみさお,顧侍臣じしん曰:「此真諫議也!」閏月じゅんげつちょうまごとう上所かみところ刪定律令りつりょうしききのえいぬみことのり頒之四方しほう

うえいい宰相さいしょう曰:「聞所ききどころ在官ざいかん行事ぎょうじなお互觀顏面がんめん不盡ふじんこう。」ちょうまごたい曰:「此豈敢言しか肆情きょくほうじつまた敢。いたり於小しょうおさむ人情にんじょうおそれ陛下へいかひさし不能ふのうめん。」以元しゅうと輔政,凡有しょげんうえ嘉納かのう

ふゆ十一月じゅういちがつからしとりうえまつ南郊なんこう

みずのととりみことのり:「自今じこんきょうかん及外しゅうゆうけんじたかはやぶさ犬馬けんばしゃつみ。」

つちのえとらとくなみ羌酋ただし悉奉もとめ、辟惠羌酋ぼく簷莫かくそちしゅ落萬餘戶詣茂州內附。

竇州、よししゅう蠻酋たからまこととうはんかつら州都しゅうととくりゅうはくえい討平

ろうしゅうどうそうかんちょうたかし討白すい蠻,蠻酋禿かぶろすりがま及儉わたる於帥眾據けんこばめせんこうみなげきこれかい大雪おおゆき,蠻饑こお死亡しぼうりゃくつきこうそうごと:「さだかんちゅう討昆しゅうがらす蠻,はじめひらきあお蛉、ろうとうためしゅうけんろうとう西にしゆうしょう勃弄、だい勃弄がわつねおうぎさそえろうとうよく使はん。其勃ろう以西いせいあずかふり榆、西にし洱河しょうせっにん眾殷於蜀がわだい酋長しゅうちょうこうゆい仇怨きゅうえんこんいんやぶ白水しろみずへい,請隨便びんよん討,なで而安。」敕許

十二月じゅうにがつみずのえしょがつしゅよこしまちゅうころせ招慰使たん道惠みちえあずか突厥魯相ゆい

これさい,百濟遣使入貢,じょう戒之,使つかい「勿與しん高麗こうらいしょうおさむしかわれしょうはつへい討汝矣。」

ふとしそう文武ふみたけ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうてい下之したの下永しもながさんねんみずのえおおやけもとろくねん

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はる正月しょうがつおのれついたち,吐谷渾、しん高麗こうらい、百濟並遣使入貢。

みずのとりょうけんかたちぎり苾何りょくとう大破たいはしょがつしゅよこしまちゅう於牢やまちゅうよる遁,けんかた使ふくそうかん高德こうとくいっけいおいぎょうひゃくあまりさとなまとりこちゅう斬首ざんしゅきゅうせんきゅうぐんかえ劾奏りょうけんかたへい力足ちからあし追討ついとう,而逗留とうりゅうすすむ高德こうとくいっ敕令駿しゅんしゃうえ以建かたとう有功ゆうこうしゃく不問ふもんだいきょうみちひろしそうごと:「とくいっしょこれ筋力きんりょく異常いじょう,請實ちゅう廄。」じょういい侍臣じしん曰:「みちひろし法官ほうかんしん其本しょく,妄希我意がいあにちん行事ぎょうじ不為ふため臣下しんか所信しょしんよこしまちんかたとがめふく黜道ひろしみみ。」

おのれ,以同しゅう刺史しし褚遂ため吏部尚書しょうしょどう中書ちゅうしょ門下もんかさんひん

へい,以饗ふとしびょうひのときょうさきのう,躬耕せきでん

がつきのえとらうえ安福やすふくもんろうかんひゃくおどけおつうえいい侍臣じしん曰:「さく登樓とうろうよく以觀人情にんじょう及風たにおご儉,ため聲樂せいがくちん聞胡じんぜんためげききくおどけ,嘗一かんさくはつますろうそくゆうぐんえびすげききくいいちんあつ好之よしゆき也。帝王ていおう所為しょいあによろし容易よういちんやめ焚此きく,冀杜えびすじん窺望じょうまたいん以自誡。」

さんがつからし,以宇文節ぶんせつためさむらいちゅうやなぎ奭為中書ちゅうしょれい,以兵さむらいろう三原韓瑗守黃門侍郎、どう中書ちゅうしょ門下もんかさんひん

なつよんがつちょうたかし大破たいは西にし南蠻なんばんしょう勃弄酋長しゅうちょう歿盛,とりこだい勃弄酋長しゅうちょう楊承顛。自餘じよみなたむろ聚保けわしだいしゃゆう眾數まん小者こものすうせんにんこうみなやぶこれ西南せいなん蠻遂じょう

きのえうま,澧州刺史しし彭思おうもとのり薨。

ろくがつつちのえさる兵部ひょうぶ尚書しょうしょちぇあつしれいとうはたなみ、汾步まんにん往茂しゅうはつ薛延陀餘眾渡河とかおけ祁連しゅう以處

あきなながつちょうたてひねおうただしため皇太子こうたいし,赦天おう皇后こうごうやなぎ奭為きさきはかりごと,以忠ははりゅうほろ賤,すすむ皇后こうごうりつちゅうため太子たいし,冀其おやおのれがいそく諷長まごとう使請於じょううえしたがえこれおつうし,以於こころざしやすしけん太子たいししょうちょうこうなりけんしょうでんこう輔兼しょう

ちょううしうえとい戶部とべ尚書しょうしょだか履行りこう:「去年きょねんしん多少たしょう?」履行りこうそう:「去年きょねんしんそういちじゅうまん。」いんといずいだい及今日見ひみ履行りこうそう:「ずいひらきすめらぎちゅうはちひゃくななじゅうまん即今そっこんさんひゃくはちじゅうまん。」履行りこうれん之子ゆきこ也。

きゅうがつまもり中書ちゅうしょさむらいろうらいすみ同中どうちゅうしょ門下もんかさんひん

ふゆ十一月じゅういちがつかのえとらひろしちょう公主こうしゅ吐谷渾來朝らいちょう

癸巳きし,濮恭おうやすし薨於ひとししゅう

つねさむらいぼう遺愛いあいひさしふとそうおんなだか公主こうしゅ公主こうしゅおごほしいまま甚,ぼうげんよわい薨,公主こうしゅきょう遺愛いあいあずかあにのこちょくざいすんで而反譖遺じきのこちょくげんふとしそうふかしせめゆずるぬしゆかりちょうおとろえしゅ怏怏おうおうえつかい劾盜,とく浮屠ふとべんたからまくらくもぬししょたまものおもあずかべん私通しつう,餉遺おくけいさら女子じょしさむらい遺愛いあいふとしむねいかこしべんころせ奴婢ぬひじゅう餘人よにんぬしえき怨望,ふとしそうくずし戚容。うえ即位そくいおもまたれい遺愛いあいあずかのこちょくさらしょう訟,遺愛いあいすわため房州ぼうしゅう刺史ししのこちょくため隰州刺史ししまた浮屠ふとさとし勖等すうにんわたしさむらいぬししゅ使つかいわきにわれいちんげんうん伺宮しょう禨祥。

さき,駙馬じょう薛萬徹坐事除名,徙寧しゅう刺史しし入朝にゅうちょうあずか遺愛いあい款暱,たい遺愛いあいゆう怨望,且曰:「こん雖病あしすわおけ京師けいし鼠輩そはいなお敢動。」いんあずか遺愛いあいはかりごと:「わか國家こっかゆうへんとうたてまつつかさ荊王もとけいためぬし。」もとけいおんなてき遺愛いあいおとうとのこのりゆかりあずか遺愛いあい往來おうらいもとけい嘗自ごとゆめしゅ日月じつげつ。駙馬じょうしばれいたけ,紹之也,なおともえりょう公主こうしゅじょまもるしゅう刺史ししたく以主やましとめ京師けいしもとめいんあずか遺愛いあい謀議ぼうぎしょうゆいこう公主こうしゅはかりごと黜遺じきだつ其封爵,使つかいじん誣告ぶこくのこちょく無禮ぶれい於己。のこちょくまたげん遺愛いあい及主ざいうん:「つみみつるあくみのりおそれるいしんわたしもん。」うえれいちょうまご鞫之,さら遺愛いあい及主はんじょう

つかさそらやす州都しゅうととくおうつとむははずい煬帝おんな也。つとむゆう文武ぶんぶざいふとしそうつね以為るいおのれよくりつため太子たいしかたそう而止,ゆかりあずかしょうあくつとむ名望めいぼうもとだかため物情ぶつじょうしょむこうふかよくいんごと誅恪以絕眾望。遺愛いあい知之ともゆきいんごとあずかつとむどうはかりごと,冀如紇干うけたまわもととくめん

ふとしそう文武ふみたけ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうてい下之したの下永しもながよんねんみずのとうしおおやけもとろくさんねん

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はるがつきのえさるみことのり遺愛いあいまんてっれいみなもとけいつとむこうようともえりょう公主こうしゅなみたまもの自盡じじんうえじゅんいい侍臣じしん曰:「荊王,ちん叔父おじくれおうちんけいよく丐其乎?」兵部ひょうぶ尚書しょうしょちぇあつしれい以為不可ふか,乃殺。萬徹臨刑大言曰:「薛まんてっだい健兒けんじとめため國家こっかこう死力しりょくあにけい,乃坐ぼう遺愛いあいころせ乎!」おうつとむ且死,ののし曰:「ちょうまご竊弄けん,構害りょうぜんむねしゃゆうれいとうぞくほろびひさ!」

おつとりさむらいちゅうけん太子たいし詹事宇文うぶんぶし特進とくしんふとしつねきょう江夏えなつ王道おうどうむねひだり驍衛大將軍だいしょうぐん駙馬じょうしつおもえりょくなみすわあずかぼう遺愛いあい交通こうつうりゅうみねひょうふしあずか遺愛いあい親善しんぜん,及遺あい下獄げごくせつ左右さゆう江夏えなつ王道おうどうむねもとあずかちょうまご、褚遂りょうきょうみなとくざい戊子ぼしはいつとむははおとうとしょくおう愔為庶人,おけともえしゅうぼうのこちょく貶春しゅうどうりょうじょう,萬徹弟萬備流交州;やめぼうげんよわいはいきょう

開府かいふどう三司李勣為司空。

はつはやし邑王范頭そつりゅうりつ大臣だいじんとぎどく弒之,つきめつ范氏。とぎどく自立じりつ國人くにびとどるしたがえ,乃立あたま利之としゆき婿むこ婆羅門ばらもんためおう國人くにびと鹹思范氏,ふくやめ婆羅門ばらもんたてあたま利之としゆきじょためおうおんな不能ふのう治國ちこくゆうしょかずらしゃとう利之としゆきしゅうと也,ちちためあたま利所ききどころころせみなみ奔真臘,大臣だいじんりんおうじょう使つかいむかえ而立じりつつま以女おう,眾然じょうなつよんがつ戊子ぼし使つかい入貢にゅうこう

あききゅうがつみずのえいぬみぎぼくしゃきた平定へいていこうちょうこうなり薨。かぶといぬ,以褚とげためみぎぼくしゃどう中書ちゅうしょ門下もんかさんひん如故,仍知せんごと

ふゆじゅうがつかのえうえみゆき驪山溫湯ぬるゆおつかえみや

はつむつみしゅう女子じょしちんせきさだ妖言ようげん惑眾,あずかいもうとおっとあきら叔胤舉兵はん自稱じしょうぶんけい皇帝こうてい,以叔たねためぼくしゃ甲子きのえねよる,叔胤そち眾攻きりいおりおちいこれせき撞鐘焚香,引兵千攻陷睦州及於潛,進攻しんこう歙州,かつ。敕揚しゅう刺史ししぼうじんひろしはつへい討之。せき其黨わらわぶんたからすすむよんせんにん寇婺しゅう刺史ししちぇよしげんはつへいこばめこれ民間みんかんなまりごとせきゆうしんはん其兵しゃ必滅ぞく眾兇懼。つかさいさおさんぐんちぇげんせき曰:「おこり兵仗ひょうじょうじゅんなお且無なりきょう憑妖妄,其能ひさ乎!」よし玄以げんいげんせきためぜんほこさきしょう州兵しゅうへいつぎいたり淮戍,ぐうぞくあずかせん左右さゆう以楯蔽義げんげん曰:「刺史しし避箭,にんだれ致死ちし!」いのち撤之。於是士卒しそつひとし奮,ぞく眾大つぶせ斬首ざんしゅすうせんきゅう。聽其あまり眾歸くびしんいたりむつみしゅうさかいくだしゃまんけい十一月じゅういちがつかのえいぬぼうじんひろしぐんごうせきしん、叔胤,これとう悉平。よし玄以げんいこうはい大夫たいふ

みずのとうし,以兵尚書しょうしょちぇあつしれいためさむらいちゅう

十二月じゅうにがつかのえさむらいちゅう蓨憲おおやけだか輔薨。

これさい西にし突厥おつ毘咄りくあせそつ,其子頡苾たちしつらえごう真珠しんじゅまもるはじめあずかすな缽羅あせゆうすきあずか五弩失畢共擊沙缽羅,やぶこれ斬首ざんしゅせんあまりきゅう

ふとしそう文武ふみたけ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうてい下之したの下永しもながねんきのえとらおおやけもとろくよんねん

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はる正月しょうがつみずのえいぬ,羌酋凍就內,以其おけつるぎしゅう

さんがつつちのえうまうえ行幸ぎょうこうまんねんみや

庚申こうしんおく武德ぶとく功臣こうしんこごめ突通つきとおとうじゅうさんにんかん

はつおう皇后こうごうしょうよしゆうちょうおうきさきやまし上之うえのため太子たいし也,にゅうさむらいふとそう才人さいじんたけし而悅ふとしそうくずしたけずい眾感ぎょうてらためあま忌日きじつうえまいてらぎょうこれたけ泣,じょうまた泣。おうきさき聞之,かげれいたけし長髮ちょうはつすすむじょう內之後宮こうきゅうよく以間よしちょうたけたくみとしけんすうはついれみや,卑辭こごめたい以事きさききさきあいかずしょう其美於上。いく大幸だいこうはいためあきらきさき及淑ちょうみなおとろえさらしょうあずかきょう譖之,うえみな不納ふのうあきらよく追贈ついぞう其父而無めいたく以褒しょう功臣こうしんへんおくこごめ突通つきとおひとし,而武擭預焉。

おつうしうえみゆきおおとりいずみおのれかえまんねんみや

なつよんがつ大食たいしょくはつへいげき斯,ころせ斯王嗣侯,嗣侯之子ゆきこ卑路斯奔吐火大食たいしょくへい,吐火はつへいたて卑路斯為斯王而還。

閏月じゅんげつへい,以處がつおけきん滿州まんしゅう

ちょううしよる大雨おおあめ山水さんすいみなぎ溢,おきげん武門ぶもん宿衛しゅくえいみなはしみぎりょうぐんろうはた薛仁曰:「あんゆう宿衛しゅくえい天子てんしゆうきゅう而敢かしこ乎!」乃登もん大呼たいこ以警みや內。うえ遽出じょうだかにわか而水にゅう寢殿しんでんみず漂溺衛士えじ及麟ゆうきょじん死者ししゃさんせん餘人よにん

みずのえたつしん女王じょおうきんとくそつみことのりりつ其弟春秋しゅんじゅうためしんおう

ろくがつ丙午ひのえうまつねしゅう大水おおみずよび沱溢,漂溺せんさんひゃくいえ

中書ちゅうしょれいやなぎ奭以おう皇后こうごうちょうおとろえ,內不やす,請解政事せいじみずのとやめため吏部尚書しょうしょ

あききゅうがつちょうとりくるまいたり京師けいし

つちのえいぬうえいいひん以上いじょう曰:「ごろざい先帝せんてい左右さゆうひん以上いじょうろんごとある仗下めんひねある退すさうわふうごと終日しゅうじつぜっあに今日きょうどく無事ぶじよこしまなにおおやけとうみな不言ふげん也?」

ふゆじゅうがつやとい雍州よんまんいちせんにんちく長安ながやす外郭がいかくさんしゅん而畢。みずのとうし,雍州さんぐん薛景せんじょうふうごとげん:「かんめぐみみかどじょう長安ながやすひろ晏駕;こんふくじょう,必有だいとがめ。」於志やすしとう以景宣言せんげんわたる不順ふじゅん,請誅うえ曰:「けいせん雖狂妄,わかいんじょうふうごととくざいおそれぜっげん。」とげ赦之。

こううらら其將やすかたはた高麗こうらい、靺鞨へいげきちぎりまつばくとくくつ哥御大敗たいはいだかうらら於新じょう

これさいだいみのりらくしゅうあわべいりょうぜにはん粳米うるちまいじゅういちぜに

おう皇后こうごうしょうよしあずか武昭たけあきさらしょう譖訴,うえ不信ふしんきさきよしこれどく信昭のぶあききさき不能ふのう曲事きょくじじょう左右さゆうははこく夫人ふじんやなぎ及舅中書ちゅうしょれいやなぎ奭入ろくみやまた不為ふためれい武昭たけあき伺后しょ不敬ふけいしゃ,必傾こころあずかあいゆい所得しょとく賞賜しょうし分與ぶんよよしきさき及淑動靜どうせいあきら必知みな以聞於上。

きさきちょう雖衰,しかうえ有意ゆういはい也。かいあきらせいおんなきさき憐而ろうきさきあきらせん扼殺やくさつくつがえこれ以被。うえいたるあきら歡笑,はつかんおんなやめ矣,そくおどろき啼。とい左右さゆう左右さゆうみな曰:「皇后こうごうてきらい此。」上大かみおおいか曰:「きさきころせわれおんな!」あきらいん泣訴きゅうそ其罪。きさき自明じめいうえゆかりゆう廢立はいりつこころざしまたかしこ大臣だいじんしたがえ,乃與あきらさいわいふとしじょうちょうまごだいたけなわいんごく歡,席上せきじょうはい寵姬ちょうきさんにんみな為朝ためとも散大さんだいおっと,仍載金寶きんぽう繒錦じゅうしゃ以賜うえいん從容しょうようげん皇后こうごう以諷たい以他,竟不じゅんむねうえ及昭みなえつ而罷。あきらまたれいはは楊氏まいだい,屢有いのり請,おわりもとれい尚書しょうしょもとけいむねまたかずすすむ厲色おり

ふとしそう文武ふみたけ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうてい下之したの下永しもながろくねんおつおおやけもとろくねん

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はる正月しょうがつみずのえさるついたちうえ謁昭りょうかぶといぬかえみや

おのれうし,巂州どう行軍こうぐんそうかん曹繼叔破えびすくさむらあらわやしなえくるま魯等蠻於はすさん,拔十あまりじょう

かのえとらたて皇子おうじひろためだいおうかしこため潞王。

こううららあずか百濟くだら、靺鞨れんへいおかせしん北境きたざかいさんじゅう三城みきしんおう春秋しゅんじゅう使つかいもとめ援。がつおつうし營州とくほど名振なぶりひだりまもるちゅうろうはた定方さだかたはつへいげきだかうらら

なつ五月ごがつみずのえうま名振なぶりとうわたりりょうすい高麗こうらいみる其兵しょう開門かいもんわたりはしすいぎゃくせん名振なぶりとう奮擊,大破たいはころせせん餘人よにん,焚其外郭がいかく村落そんらく而還。

みずのと,以右たむろまもる大將軍だいしょうぐんほどぶしため蔥山どう行軍こうぐんだいそうかん,以討西にし突厥すな缽羅あせ

みずのえたつ,以韓瑗為さむらいちゅうらいすみため中書ちゅうしょれい

ろくがつ武昭たけあき誣王きさきあずか其母こく夫人ふじんやなぎためいやしょう,敕禁きさきははやなぎとくにゅうみやあきなながつつちのえとら,貶吏尚書しょうしょやなぎ奭為とげしゅう刺史しし。奭行いたり扶風,岐州ちょう於承もとまれむねそう漏洩ろうえい禁中きんちゅうふく貶榮しゅう刺史しし

からいんずいせい後宮こうきゅうゆうとうとよしとくけんみな一品いっぴんうえよくとくおけ宸妃,以武あきら為之ためゆきかん瑗、らいすみ諫,以為故事こじこれ,乃止。

中書ちゅうしょ舍人とねりにょうよしためちょうまごしょあく左遷させんかべしゅう司馬しば。敕未いたり門下もんかよしみつ知之ともゆきといけい於中しょ舍人とねりかそけしゅうおういさお儉,とく儉曰:「うえほっりつ武昭たけあきためきさき猶豫ゆうよ未決みけつしゃちょくおそれおさむしん異議いぎみみくんのうけんさくりつのりてんためぶく矣。」よししかこれだいとく儉直宿やど,叩閣上表じょうひょう,請廢皇后こうごうおうたて武昭たけあき,以厭ちょう庶之しんうええつ,召見,與語よごたまものたまいち鬥,とめきゅうしょくあきらまたみつ使つかいろうつとむひろちょうはい中書ちゅうしょさむらいろう。於是まもるじょうきょうもとけいむね大夫たいふちぇよしげんなかすすむ袁公瑜皆せんぬの腹心ふくしん於武あきら矣。おつとり,以侍ちゅうちぇあつしれいため中書ちゅうしょれい

はちがつなおくすりたてまつ蔣孝あきら員外いんがいとくおけ,仍同正員せいいん員外いんがいどうせいこうあきらはじめ

長安ながやすれい裴行儉聞はたたて武昭たけあきためきさき,以國家こっかわざわい必由此始,あずかちょうまご、褚遂りょう私議しぎ其事。袁公瑜聞,以告あきらはは楊氏,ぎょう儉坐左遷させん西にし州都しゅうととくちょうくだり儉,ひとし基之もとゆき也。

きゅうがつつちのえたつ,以許けいむねためれい尚書しょうしょ

うえいちにち退すさあさ,召長まご勣、於志やすし、褚遂りょうにゅう內殿。とげ曰:「今日きょう召,ため中宮ちゅうぐう上意じょうい既決きけつぎゃく必死ひっしふとしじょうもとしゅうとつかさそら功臣こうしん不可ふか使じょうゆうころせもとしゅうと功臣こうしんとげおこり於草ちがや汗馬かんばろう,致位いたり此,且受顧托,以死そうなに以下いか先帝せんてい!」勣稱やまし不入ふにゅうとういたり內殿,うえ顧謂曰:「皇后こうごう武昭たけあき有子ゆうここんよくりつあきらためきさきなに如?」とげたい曰:「皇后こうごう名家めいか先帝せんていため陛下へいかしょめと先帝せんてい臨崩,陛下へいかしゅいいしん曰:『ちんけいけいこん以付きょう。』此陛しょ聞,ことなおざいみみ皇后こうごう未聞みもんゆうあにけいはいしん敢曲したがえ陛下へいかうえたがえ先帝せんていいのち!」じょうえつ而罷。明日あしたまたげんとげ曰:「陛下へいか必欲えき皇后こうごうふく請妙天下てんかれいぞくなに必武たけけいごと先帝せんてい,眾所ども天下てんか耳目じもくやす蔽也。萬代ばんだいこれいい陛下へいかため如何いかねがいとめ三思さんししんこん忤陛つみとう!」いんおけしゃく於殿かいかいはば叩頭こうとう流血りゅうけつ曰:「かえ陛下へいかしゃく,乞放でんうら。」上大かみおおいかいのち引出。あきらざい簾中れんちゅう大言たいげん曰:「なに撲殺ぼくさつ此獠!」曰:「とげ受先あさ顧命,有罪ゆうざい不可ふかけい!」於志やすし敢言。

かん瑗因間奏かんそうごと涕泣ていきゅうごく諫,うえ不納ふのう明日あしたまた諫,悲不かちうえいのち引出。瑗又じょう疏諫曰:「匹夫ひっぷひきなおあい選擇せんたくきょう天子てんし乎!皇后こうごうはは萬國ばんこく善惡ぜんあく由之よしゆき嫫母輔佐ほさみかど,妲己かたぶけくつがえいんおう,《うん:『赫赫かくかくそうあまね,褒姒めつ。』まいらん前古ぜんこつねきょう歎息たんそくいい今日きょうちり黷聖だいさく而不ほう後嗣こうしなんかんねがい陛下へいかしょう無為むい後人こうじんしょわらい使臣ししんゆう以益こく,菹醢戮,しんぶん也!むかしくれおう不用ふよう胥之げん而麋鹿しかゆう於姑しんおそれうみ失望しつぼうとげ荊生於闕にわ宗廟そうびょうしょくゆう矣!」らいすみ上表じょうひょう諫曰:「王者おうじゃ立后りっこううえほう乾坤けんこん,必擇れいきょう名家めいかかそけあいだれいよしふく四海しかいもちしょうしんしめせしゅうぶんづくりふね以迎ふとし姒,而興《せき雎》これ,百姓蒙祚;こうなりたてよく,以婢ためきさき使つかい皇統こうとうほろびぜっ社稷しゃしょくかたぶけ淪。ゆうしゅうりゅうすんで如彼,だいかんわざわいまた如此,おもんみ陛下へいかしょう察!」じょうみな不納ふのう

它日,勣入うえとい曰:「ちんほっりつ武昭たけあきためきさきとげ固執こしつ以為不可ふかとげすんで顧命大臣だいじんこととう且已乎?」たい曰:「此陛家事かじなに必更とい外人がいじん!」上意じょういとげぎまもとけいむね宣言せんげん於朝曰:「田舍いなかおうおさむじゅう斛麥,なおよくえききょう天子てんしほっりついちきさきなにしょ人事じんじ而妄せい異議いぎ乎!」あきられい左右さゆう以聞。庚午こうご,貶遂ため潭州とく

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