佐藤 宏志(さとう ひろし、1977年8月11日 - )は、広島県三原市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。
瀬戸内高等学校から亜細亜大学に進学し同大学硬式野球部に所属。1996年、1年秋に明治神宮大会で初戦先発も敗れる。1997年、2年春の全日本大学野球選手権大会決勝の近畿大学戦では登板せず、4年生エース小池俊児が先発し、近大4年生清水章夫投手に4年井端弘和や3年赤星憲広擁する亜大打線も抑えられ準優勝。1998年、3年春の大学選手権で初戦を完投勝利。同年秋の明治神宮大会準決勝は、前年の大学選手権決勝と同じ相手、宇高伸次投手や二岡智宏らの4年生擁する近畿大を下し、決勝の東北福祉大戦では先発し優勝を果たした[2]。全日本代表選手にも選ばれた[1]。東都大学リーグでは通算50試合登板し、23勝12敗、防御率2.27、206奪三振。最高殊勲選手に1回、最優秀投手に2回、ベストナインに1回選出された。
大学在学中に巨人のキャンプにゲスト参加。当時の長嶋茂雄監督に認められた。そして、1999年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから3位指名を受けて入団[1]。
2001年には二軍で10勝を挙げ、2002年に一軍デビューを果たす。
2003年は一軍登板がなかった。
2004年は新監督の堀内恒夫の目に留まり、自己最多の26試合に登板し一軍に定着。プロ初勝利、プロ初セーブを含む3勝1セーブを挙げた。8月1日の阪神タイガース戦でプロ初先発を務め、7回1死まで阪神打線を無失点に抑える好投で、初先発勝利を飾っている。
2005年は開幕から13試合連続無失点を記録。この好投により4月早々に退団したダン・ミセリの後任として抑え投手に指名された。しかし、抑えとして最初の登板となった5月3日の横浜ベイスターズ戦で、1点リードの9回表に先頭打者の種田仁に本塁打を打たれたのを皮切りに、相川亮二、小池正晃にも本塁打を打たれるなど1イニングで3本塁打を喫し逆転される。この試合を境に、自身の不注意による怪我などで精彩を欠き、防御率6.87でシーズンを終えた。
2006年は急性胃腸炎で出遅れるも、交流戦中にワンポイント投手として活躍。防御率2点台をキープする。しかし、オフの10月2日に戦力外通告を受けた。
2006年オフに無償トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。「ゼロからの出発」ということで背番号は0に決定。
2007年の唯一の登板は、9月19日の北海道日本ハムファイターズ田中幸雄の東京ドームでの引退試合だったが、守備陣のミスもあり田中賢介にランニングホームランを許した。
2008年も1試合の登板に終わり、10月1日に再び戦力外通告を受けた。その後12球団合同トライアウトに参加したが、獲得球団はなかった。
2010年に台湾のクラブチーム「台灣中皇工程棒球隊」でプレーしたのち[要出典]、引退後は静岡県へ居住し、中古車販売業・株式会社ワールドスターエンタープライズに勤務[3]。そのかたわらで少年野球の指導にあたっており[4]、2020年6月27日には古巣の巨人とOBスカウトとしての契約を締結。静岡エリアの有望選手の情報を巨人に提供する役割を担っている[5]。
勢いのある直球とスライダーが持ち味の左腕投手。サイドスローに似た変則フォームが最大の特徴である。登板時はゴーグルをかけている。視力も良くないが、コンタクトを装着しているので度は入っていない。本人曰く「世界が明るく見える」とのこと。交代後ベンチに戻るとすぐにゴーグルを外すシーンがよく見られる。
年度別投手成績
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- 初登板:2002年4月7日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、8回裏に2番手で救援登板、1回無失点
- 初奪三振:同上、8回裏にマイク・グランから見逃し三振
- 初勝利:2004年6月3日、対中日ドラゴンズ8回戦(東京ドーム)、3回表に2番手で救援登板、3回1/3を無失点
- 初先発・初先発勝利:2004年8月1日、対阪神タイガース21回戦(阪神甲子園球場)、6回1/3を無失点
- 初セーブ:2004年9月11日、対ヤクルトスワローズ25回戦(東京ドーム)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回無失点
- 初ホールド:2005年4月3日、対広島東洋カープ3回戦(東京ドーム)、7回表に4番手で救援登板、1回無失点
- 40(2000年 - 2006年)
- 0(2007年 - 2008年)
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