ウクライナ21

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ドニプロペトロウシクの狂人きょうじんたち
生誕せいたん
ヴィクトル・I・サイェンコ
(Viktor I. Sayenkoウクライナ: Віктор І. Саєнко ロシア: Виктор И. Саенко)
(1988-03-01) 1988ねん3月1にち(36さい
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽうウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく ドニプロ
イーホル・V・スプルニューク
(Ihor V. Suprunyukウクライナ: Ігор В. Супрунюк ロシア: Игорь В. Супрунюк)
(1988-04-20) 1988ねん4がつ20日はつか(36さい
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽうウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく ドニプロ
オレクサンドル・O・ハンジャー
(Oleksandr O. Hanzhaウクライナ: Олександр О. Ганжа ロシア: Александр А. Ганжа)
(1988-02-16) 1988ねん2がつ16にち(36さい
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽうウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく ドニプロ
刑罰けいばつ 終身しゅうしんけい(サイェンコ、スプルニューク)
懲役ちょうえき9ねん(ハンジャー)
有罪ゆうざい判決はんけつ 殺人さつじんざい動物どうぶつ虐待ぎゃくたい(サイェンコ、スプルニューク)
およ強盗ごうとう(サイェンコ、スプルニューク、ハンジャー)
くに ウクライナ
都道府県とどうふけん ドニプロペトロウシクしゅう
死者ししゃ 21にん
逮捕たいほ
2007ねん7がつ23にち

ウクライナ21(ウクライナにじゅういち)とは、ウクライナ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくげんウクライナ)のドネプロペトロフスクしゅうげんドニプロペトロウシクしゅう)に若者わかものらが男性だんせい拷問ごうもんすえ殺害さつがいする顛末てんまつ録画ろくがしたホームビデオの通称つうしょうである。通称つうしょうの「21」は、この若者わかものらによって殺害さつがいされた被害ひがいしゃ人数にんずうが21にんであるのが由来ゆらいとされる[1]。このビデオは、犯人はんにんたちが殺害さつがい映像えいぞう販売はんばいする予定よていであったとの証言しょうげんもあることから、「有史ゆうしはつスナッフ・フィルムである[2]」とされる。

この殺人さつじん事件じけん犯人はんにんたちは「ドネプロペトロフスクの狂人きょうじんたち」(英語えいご: Dnepropetrovsk maniacsウクライナ: Дніпропетровські маніяки, ロシア: Днепропетровские маньяки)とばれている。主犯しゅはんである当時とうじ19さいヴィクトル・イーホロヴィチ・サイェンコVíktor Íhorovych Sayénkoウクライナ: Віктор Ігорович Саєнкоロシア: Виктор Игоревич Саенко1988ねん3月1にちまれ)とイーホル・ヴォロディームィロヴィチ・スプルニューク(Íhor Volodýmyrovych Suprunyúkウクライナ: Ігор Володимирович Супрунюкロシア: Игорь Владимирович Супрунюк、1988ねん4がつ20日はつかまれ)は逮捕たいほされ、21けん殺人さつじんざい起訴きそされた[3][4]共謀きょうぼうしゃであるオレクサンドル・オレクサンドロヴィチ・ハンジャー(Oleksándr Oleksándrovych Hanzháウクライナ: Олександр Олександрович Ганжаロシア: Александр Александрович Ганжа、1988ねん2がつ16にちまれ)は武装ぶそう強盗ごうとう起訴きそされた[5][6]2009ねん2がつ11にち、3にん被告ひこく全員ぜんいん有罪ゆうざい判決はんけつけ、サイェンコとスプルニュークには終身しゅうしんけい、ハンジャーには懲役ちょうえき9ねんがいいわたされた[4]。サイェンコとスプルニュークの弁護士べんごし控訴こうそしたが、2009ねん11月にウクライナ最高さいこう裁判所さいばんしょ棄却ききゃくされた[7][8][9]

概要がいよう[編集へんしゅう]

ソビエト連邦れんぽう時代じだいのウクライナのドニプロペトロウシクしゅう当時とうじ19さい若者わかもの2にんが、2007ねん6がつから7がつにかけてのわずか1ヶ月かげつ程度ていどあいだ快楽かいらく目的もくてきで21にん殺害さつがいし、所持しょじしていた携帯けいたい電話でんわ金品きんぴん強奪ごうだつして質屋しちや換金かんきんした。この常軌じょうきいっした連続れんぞく強盗ごうとう殺人さつじん事件じけん外国がいこくメディア報道ほうどうにより国際こくさいてきに「ドネプロペトロフスクの狂人きょうじんたちドネプロペトロフスク・メイニアックス)」とばれている。なお当時とうじのウクライナはソビエト連邦れんぽう加盟かめいこくだったため、この名称めいしょうはウクライナではなくロシア準拠じゅんきょしている。

犯人はんにんらは殺人さつじん行為こういをビデオに録画ろくがしていたが、2008ねんまつごろ容疑ようぎしゃのパソコンのなかにあったいくつかの殺人さつじん映像えいぞうおさめられたビデオが流出りゅうしゅつした。そのうち完全かんぜん状態じょうたい流出りゅうしゅつしたものが「ウクライナ21」である。流出りゅうしゅつ時点じてん犯人はんにんらは逮捕たいほ拘禁こうきんされており[1]流出りゅうしゅつ原因げんいん本人ほんにんたちによるものではないとかんがえられている。

犯行はんこう[編集へんしゅう]

この3にん事件じけんの5ねんまえからいじめったいする恐怖きょうふ克服こくふくするために、おも誕生たんじょうおなアドルフ・ヒトラー傾倒けいとうしていた(ハーケンクロイツえがいたり、ヒトラーふうのちょびひげばしていたこともある)スプルニュークの発案はつあん様々さまざま度胸どきょうだめしをおこなっていた。最初さいしょはアパートの15かいバルコニーなんあいだつづけたり手摺てすりからぶらがったりする程度ていどだったが、やがて野良犬のらいぬ野良猫のらねこつかまえてきて暴行ぼうこうくわえたのち近所きんじょ樹木じゅもくおお場所ばしょけて臓器ぞうき摘出てきしゅつ写真しゃしんるようになった。

事件じけんの2ねんまえ、スプルニュークがとある少年しょうねんなぐたおしてうばった自転車じてんしゃをサイェンコにったことで2人ふたりとも補導ほどうされた。高校こうこう卒業そつぎょう、サイェンコは製鋼せいこうしょ警備けいびいんとなり、ハンジャーはケーキ建設けんせつ作業さぎょうなどバイトを転々てんてんとした。スプルニュークは無職むしょくだったが、誕生たんじょう両親りょうしんからおくられた緑色みどりいろコンパクトセダンまわしていた。そしてこのセダン行灯あんどんけて普通ふつうのタクシーをよそおい、2人ふたり協力きょうりょくしてだまされた乗客じょうきゃくおそ金品きんぴん強奪ごうだつするようになった。

そうしたこともあってか、この事件じけん被害ひがいしゃはいずれも老人ろうじんやホームレスや女性じょせい子供こどもなどのように、かれらが自分じぶんより弱者じゃくしゃだと判断はんだんしたひとたちであった。犯行はんこう内容ないようは、セダンにせたきゃく適当てきとうところろしたのち、すれちがいざまに鈍器どんき頭部とうぶ殴打おうだし、アイスピック目玉めだま内臓ないぞうし、きたままからだをいたぶるようにじっくりと損壊そんかいするというきわめて悪質あくしつかつ残忍ざんにんなものであった。

しかしかれらの強奪ごうだつした被害ひがいしゃ携帯けいたい電話でんわけた質屋しちや店主てんしゅ動作どうさ確認かくにんのために電源でんげんれたことで、位置いち情報じょうほう記録きろくから質屋しちやされて捜査そうさすすみ、2007ねん7がつ23にちになって3にん若者わかもの逮捕たいほされた。

裁判さいばん[編集へんしゅう]

2008ねんまつになって、快楽かいらく殺人さつじんうつした動画どうが動画どうが共有きょうゆうサイトひとし流出りゅうしゅつしたことにより、この事件じけん残虐ざんぎゃくせいふたた世界中せかいじゅうらしめることとなった。被疑ひぎしゃ3にん早々そうそう犯行はんこうみとめたものの、主犯しゅはんかくのひとりスプルニュークがふたた供述きょうじゅつくつがえして犯行はんこう否認ひにんしたため、被疑ひぎしゃらの両親りょうしんたちによる手厚てあつ弁護べんごもあり裁判さいばんは2年間ねんかん長期ちょうきわたった。

いちしんは2009ねん2がつ11にち終結しゅうけつし、ドニプロペトロウシク地方裁判所ちほうさいばんしょは、主犯しゅはんかく2人ふたり実行じっこうはんのスプルニュークと撮影さつえいがかりのサイェンコ)にはそれぞれ21人ひとりと18にん殺人さつじんおよび、15けん強盗ごうとう多数たすう動物どうぶつ虐待ぎゃくたい直接ちょくせつ関与かんよしたとして終身しゅうしんけいをいいわた[10]のこ1人ひとりハンジャーは血液けつえき恐怖症きょうふしょうひとしわずらっていたため殺人さつじん動物どうぶつ虐待ぎゃくたいには関与かんよしなかったものの(動物どうぶついたっては「火傷かしょうさせてしまうかもれない」とねこ風呂ふろれるのもいやがるほど)、強盗ごうとうざい適用てきようされ懲役ちょうえき9ねん判決はんけつくだった[11][12]

終身しゅうしんけい宣告せんこくされた2人ふたりは、そのウクライナ最高さいこう裁判所さいばんしょ量刑りょうけい不服ふふくとして上告じょうこくしたものの、ウクライナ最高裁さいこうさい判決はんけつのドニプロペトロウシク地裁ちさいへの差戻さしもどしをおこない、どう地裁ちさいいちしん量刑りょうけい変更へんこうしなかったことから、同年どうねん11がつ24にち量刑りょうけい確定かくていし、どう事件じけんすべての裁判さいばん終結しゅうけつした[13]

ドニプロペトロウシクの判事はんじ少年しょうねんたち事件じけん動機どうきについて「病的びょうてきなまでの自己じこ肯定こうていしん発露はつろ」であるとひょう[8]当時とうじ世論せろん調査ちょうさではドニプロペトロウシク市民しみんの50.3%が量刑りょうけい公正こうせいである、48.6%は量刑りょうけいがよりおもいはずであっただろうと回答かいとうした[14]

ウクライナは2000ねん2がつ死刑しけい制度せいど廃止はいしされているくにであるが、2011ねん4がつ世論せろん調査ちょうさではウクライナ国民こくみんの60%がほん事件じけんのようなきわめて凶悪きょうあく連続れんぞく殺人さつじんたいしては死刑しけい適用てきようすべきであると回答かいとうしたという[15]

2019ねん4がつ共犯きょうはんしゃのハンジャーが満期まんき出所しゅっしょ結婚けっこんして2人ふたり子供こどもがいることが報道ほうどうされている[16]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b “Three 19‑year-old youths committed 19 murders in Dnipropetrovsk during a month”. UNIAN. http://www.unian.net/eng/news/news-204617.html 
  2. ^ 福田ふくだひかりむつみ放送ほうそうできないかい事件じけん』(ミリオン出版しゅっぱん、2014ねん)188ぺーじ、190ぺーじ
  3. ^ “Three 19‑year-old youths committed 19 murders in Dnepropetrovsk during a month”. UNIAN. オリジナルの2012ねん1がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120115153056/http://www.unian.net/eng/news/news-204617.html 2008ねん12月25にち閲覧えつらん 
  4. ^ a b “Case 92: Dnepropetrovsk Maniacs - Casefile: True Crime Podcast” (英語えいご). Casefile: True Crime Podcast. (2018ねん8がつ11にち). オリジナルの2018ねん8がつ27にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180827075335/https://casefilepodcast.com/case-92-dnepropetrovsk-maniacs/ 2018ねん8がつ27にち閲覧えつらん 
  5. ^ “Dnepropetrovsk maniacs did not Show Regret” (ロシア). Novomoskovsk City News. オリジナルの2011ねん8がつ24にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110824215220/http://poleznaya.dp.ua/news.php?v=010_10_29.12.2008&n=8 
  6. ^ “Dnepropetrovsk maniacs that operated in Dneprodzerzhinsk are already in Court” (ロシア). Dneprodzerzhinsk News. オリジナルの2011ねん2がつ17にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110217100128/http://dndz.tv/news-3072.html 2009ねん1がつ13にち閲覧えつらん 
  7. ^ “Dnepropetrovsk maniacs: Court delivers its verdicts” (ロシア). オリジナルの2012ねん2がつ12にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120212122119/http://most-dnepr.info/news/crime/10500.htm 2009ねん2がつ11にち閲覧えつらん 
  8. ^ a b “Dnepropetrovsk maniacs: Verdict readout (with television news video)” (ロシア). オリジナルの2012ねん2がつ23にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120223115255/http://podrobnosti.ua/podrobnosti/2009/02/10/581897.html 2009ねん2がつ11にち閲覧えつらん 
  9. ^ “Dnepropetrovsk maniacs: Sentence tomorrow” (ロシア). オリジナルの2012ねん4がつ4にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120404194334/http://gazeta.ua/ru/post/281950 2009ねん2がつ11にち閲覧えつらん 
  10. ^ Ilyinskaya, Marina. “Dnepropetrovsk Maniacs hear verdict” (Russian). blik.ua. 2012ねん12月31にち閲覧えつらん
  11. ^ Olinikova, Oksana. “Dnepropetrovsk Maniacs sentenced to life in prison (with television news video)” (Russian). podrobnosti.ua. 2012ねん12月31にち閲覧えつらん
  12. ^ Dnepropetrovsk Maniacs sentence is read out by Judge Ivan Senchenko (television news video)” (Russian). new-most.info. 2012ねん12月31にち閲覧えつらん
  13. ^ “Dnepropetrovsk Maniacs will serve life sentences” (Russian). smi.dp.ua. http://smi.dp.ua/zagolovki/2632-dnepropetrovskie-manyaki-budut-sidet-pozhiznenno.html 2009ねん11月25にち閲覧えつらん 
  14. ^ “Sentencing of Maniacs "fair", say half of Dnipropetrovsk citizens in poll” (Russian). Novi Most. http://www.new-most.info/news/society/10632.htm 2009ねん2がつ14にち閲覧えつらん 
  15. ^ “Tenth anniversary of ban on death penalty in Ukraine (with television news video featuring the Maniacs)” (Russian). podrobnosti.ua. (2011ねん4がつ5にち). http://podrobnosti.ua/podrobnosti/2011/04/05/762384.html 2011ねん4がつ13にち閲覧えつらん 
  16. ^ “Дело "днепропетровских маньяков": на свободу вышел один из членов банды, убившей 21 человека(2019ねん4がつ記事きじ)”. (Russian).Fakty.ua. オリジナルの2019ねん10がつ3にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20191003121909/https://amp.fakty.ua/301827-delo-dnepropetrovskih-manyakov-na-svobodu-vyshel-odin-iz-chlenov-bandy-ubivshej-21-cheloveka 2022ねん3がつ17にち閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]