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安部彰・有馬斉「あとがき」
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あとがき
安部
あべ
彰
あきら
・
有馬
ありま
斉
ひとし
2009/03/19
立命館大学
りつめいかんだいがく
グローバルCOEプログラム「
生存
せいぞん
学
がく
」
創成
そうせい
拠点
きょてん
20090319
安部
あべ
彰
あきら
・
有馬
ありま
斉
ひとし
『ケアと
感情
かんじょう
労働
ろうどう
――
異
こと
なる
学
がく
知
ち
の
交流
こうりゅう
から
考
かんが
える』
立命館大学
りつめいかんだいがく
生存
せいぞん
学
がく
研究
けんきゅう
センター,
生存
せいぞん
学
がく
研究
けんきゅう
センター
報告
ほうこく
8,248p. ISSN 1882-6539 pp.193-214
本
ほん
冊子
さっし
成立
せいりつ
の
経緯
けいい
については「まえがき」を
参照
さんしょう
していただきたいのだが、
参加
さんか
者
しゃ
の
相互
そうご
交流
こうりゅう
/
浸透
しんとう
を
大切
たいせつ
にしたいというパム・スミス
先生
せんせい
とヘレン・カウイ
先生
せんせい
たってのご
希望
きぼう
もあり、
少
しょう
人数
にんずう
のアットホームな
形式
けいしき
で
催
もよお
された
国際
こくさい
研究
けんきゅう
交流
こうりゅう
企画
きかく
は、ふたを
開
あ
けてみれば、
驚
おどろ
くほど
盛況
せいきょう
なる
会
かい
となった。グローバルCOEプログラム「
生存
せいぞん
学
がく
」
創成
そうせい
拠点
きょてん
(
以下
いか
、「
生存
せいぞん
学
がく
」)のホームページでの
告知
こくち
がその
効果
こうか
をいかんなく
発揮
はっき
したことが
一因
いちいん
かとも
思
おも
うが、
何
なに
よりも
日本
にっぽん
、とりわけ
看護
かんご
学
がく
/
界
かい
におけるパム・スミス
先生
せんせい
の
多大
ただい
なる
影響
えいきょう
力
りょく
と
学的
がくてき
貢献
こうけん
にあらためて
感銘
かんめい
をうけたことを、
編者
へんしゃ
らの
忘
わす
れえぬ
記憶
きおく
としてまず
書
か
き
留
と
めておきたい。
その
国際
こくさい
研究
けんきゅう
交流
こうりゅう
企画
きかく
の
記録
きろく
に、
翌日
よくじつ
のクローズドな
研究
けんきゅう
交流
こうりゅう
会
かい
でのやりとり(
以下
いか
、
両者
りょうしゃ
をあわせて「
本
ほん
企画
きかく
」とする)、そこから
各自
かくじ
がもちかえった
問
と
いにたいする
応答
おうとう
論文
ろんぶん
を
加
くわ
えてできあがったのが
本
ほん
冊子
さっし
である。
自画
じが
自賛
じさん
を
恐
おそ
れずにいえば、ここには「ケアと
感情
かんじょう
労働
ろうどう
」という
主題
しゅだい
をめぐり
今後
こんご
研究
けんきゅう
を
進
すす
めていくうえで、きわめて
示唆
しさ
に
富
と
む
論考
ろんこう
/
論点
ろんてん
が
出揃
でそろ
ったと
編者
へんしゃ
らは
考
かんが
えている。いいかえれば、かかる
主題
しゅだい
にかんして
看護
かんご
学
がく
・
臨床
りんしょう
心理
しんり
学
がく
・
社会
しゃかい
学
がく
・
倫理
りんり
学
がく
のそれぞれが
互
たが
いに
今後
こんご
引
ひ
き
受
う
けていくべき
課題
かだい
が
示
しめ
されていると
思
おも
う。そしてそれは、
文字
もじ
どおり、
本
ほん
企画
きかく
=
異
こと
なる
学
がく
知
ち
の
交流
こうりゅう
の
賜
たまもの
でもある。
以下
いか
、
本
ほん
冊子
さっし
の
結
むす
びに、その
要点
ようてん
を
振
ふ
り
返
かえ
っておくことで、
読者
どくしゃ
の
用
よう
に
資
し
することとしたい。
まずスミス
氏
し
とカウイ
氏
し
の
共著
きょうちょ
論文
ろんぶん
が
教
おし
えてくれるのは、
看護
かんご
という「
現場
げんば
」で、またさまざまな
職業
しょくぎょう
の「
現場
げんば
」で
去来
きょらい
する
感情
かんじょう
とその
管理
かんり
──その
双方
そうほう
のままならなさ──という「
現実
げんじつ
」と、その「
現実
げんじつ
」が
豊
ゆた
かさと
同時
どうじ
にあわせもつ
問題
もんだい
──いじめなど──の
解消
かいしょう
に
向
む
け、あらためて
地
ち
に
足
あし
のついた/
実証
じっしょう
的
てき
な
思考
しこう
を
鍛
きた
えあげていくことの
重要
じゅうよう
性
せい
である。その
甚大
じんだい
なる
意義
いぎ
を
確認
かくにん
するためにも、
読者
どくしゃ
にはスミス
氏
し
とカウイ
氏
し
の
研究
けんきゅう
報告
ほうこく
と
論考
ろんこう
に
繰
く
り
返
かえ
しあたってほしい。また、その
感情
かんじょう
社会
しゃかい
学
がく
史
し
における
意義
いぎ
についても
崎山
さきやま
論文
ろんぶん
に
詳
くわ
しいので、ここであらためて
屋上
おくじょう
屋
や
を
重
かさ
ねる
愚行
ぐこう
は
控
ひか
える。
そのうえでしかし、
編者
へんしゃ
らにとって
印象深
いんしょうぶか
かったのは、
両氏
りょうし
の
問題
もんだい
意識
いしき
がまさに、「
現場
げんば
」と「
現実
げんじつ
」にしっかりと
根
ね
ざしたもの──にもかかわらず、ではなく──であるからこそ、そこからみれば
異
い
声
こえ
とも
響
ひび
きかねない
我々
われわれ
コメンテーターの
問
と
いが──というか
日本語
にほんご
という
異
こと
なる
言語
げんご
/
意識
いしき
のもと
発
はっ
せられた
声
こえ
であるから、
文字
もじ
どおり「
異
い
声
こえ
」にほかならない──、ときにそうであるように、
無意識
むいしき
的
てき
な
防衛
ぼうえい
機
き
制
せい
による「
忘却
ぼうきゃく
の
穴
あな
」(H・アレント)に
落
お
としこまれることなく、ちゃんと
受
う
けとめられたことである。「
現場
げんば
」から
発
はっ
せられる
声
こえ
はつねに/すでに
真摯
しんし
である。そうした「
現場
げんば
」の
声
こえ
と
学問
がくもん
との
対話
たいわ
をこれからも、これまで
以上
いじょう
に
豊
ゆた
かにしていく
意義
いぎ
と
意欲
いよく
を、
両氏
りょうし
はいわば
行為
こうい
遂行
すいこう
的
てき
に
喚起
かんき
してくれたと
思
おも
う。
そのようなスミス−カウイ
氏
し
による
問題
もんだい
提起
ていき
を、いわば
正面
しょうめん
から
受
う
けとめ
応答
おうとう
したのが
崎山
さきやま
論文
ろんぶん
である。
周知
しゅうち
のように、
崎山
さきやま
氏
し
はわが
国
くに
における
感情
かんじょう
社会
しゃかい
学
がく
を
理論
りろん
・
実証
じっしょう
の
両面
りょうめん
で
牽引
けんいん
する
少壮
しょうそう
気鋭
きえい
の
若手
わかて
研究
けんきゅう
者
しゃ
であるが、
今回
こんかい
寄
よ
せられた
論考
ろんこう
は
大
おお
きく
3
みっ
つの
意義
いぎ
をもっているといえる。すなわち
第
だい
一
いち
に、スミス−カウイ
氏
し
によって
提起
ていき
された
論点
ろんてん
の
最良
さいりょう
なる
解題
かいだい
としての
性格
せいかく
をもつ。また、それにとどまらず
第
だい
二
に
に、
感情
かんじょう
労働
ろうどう
について、さらに
包括
ほうかつ
的
てき
で
沈潜
ちんせん
した
視点
してん
からの
問題
もんだい
提起
ていき
が
展開
てんかい
されていることである。その
意味
いみ
で、
本
ほん
論文
ろんぶん
は──
崎山
さきやま
氏
し
のほかの
著作
ちょさく
とならんで──
今後
こんご
の
感情
かんじょう
労働
ろうどう
研究
けんきゅう
には
欠
か
かすことのできない
必読
ひつどく
文献
ぶんけん
である。さらには
第
だい
三
さん
に、
感情
かんじょう
労働
ろうどう
という
個別
こべつ
的
てき
な
主題
しゅだい
を
扱
あつか
うにとどまらない、ひろく
現代
げんだい
社会
しゃかい
論
ろん
として
読
よ
まれるべき
論考
ろんこう
であるという
点
てん
である。つまり、ほかのいかなる
現象
げんしょう
でもなく、
感情
かんじょう
労働
ろうどう
という
事象
じしょう
をいわば
除
のぞ
き
穴
あな
にしてこそ、
現代
げんだい
社会
しゃかい
の
形象
けいしょう
が
鮮明
せんめい
に
見
み
とおせることを
説得
せっとく
的
てき
に
示
しめ
した
論考
ろんこう
である。
さて、そこで
展開
てんかい
された
多岐
たき
にわたる
議論
ぎろん
を
消化
しょうか
するには
直接
ちょくせつ
本
ほん
論文
ろんぶん
をあたるに
如
ごと
くはないが、その
要諦
ようたい
をごく
簡単
かんたん
にまとめておけば、
以下
いか
の3
点
てん
になると
思
おも
う。
第
だい
一
いち
に、
本
ほん
論文
ろんぶん
では、
今日
きょう
にあっては
主
おも
に
感情
かんじょう
労働
ろうどう
論
ろん
の
文脈
ぶんみゃく
において
論及
ろんきゅう
されるにすぎない
感情
かんじょう
管理
かんり
という
実践
じっせん
が、
正
まさ
しくも
我々
われわれ
の
日常
にちじょう
的
てき
な
相互
そうご
作用
さよう
の
場面
ばめん
に
差
さ
し
戻
もど
される。また
第
だい
二
に
に、
我々
われわれ
の
誰
だれ
もが
経験
けいけん
する「
多様
たよう
でままならない
自己
じこ
感情
かんじょう
」にあらためて
注目
ちゅうもく
することで、「
感情
かんじょう
の
用法
ようほう
」における(をとりまく)
現代
げんだい
の
概念的
がいねんてき
/
社会
しゃかい
的
てき
貧困
ひんこん
が
批判
ひはん
され、その
彫琢
ちょうたく
が
目指
めざ
される。そして
第
だい
三
さん
に、その「
多様
たよう
でままならない
自己
じこ
感情
かんじょう
」が
統御
とうぎょ
不可能
ふかのう
であるにもかかわらず/であるがゆえに、それを
肯定
こうてい
することに「
社会
しゃかい
」が──
企業
きぎょう
が、
学
がく
知
ち
が、ほかならぬ
当事
とうじ
者
しゃ
自身
じしん
が──
躍起
やっき
になるさまが
跡
あと
づけられ、そこに
現代
げんだい
社会
しゃかい
における「
真
しん
の
疎外
そがい
」が
剔抉
てっけつ
される。
なお、
鋭
するど
い
読者
どくしゃ
は
気
き
づかれたかもしれないが、
感情
かんじょう
労働
ろうどう
を
読
よ
み
解
と
く
鍵
かぎ
は「
多様
たよう
でままならない
自己
じこ
感情
かんじょう
」にあるとする
崎山
さきやま
氏
し
の
見解
けんかい
と、
第
だい
二
に
部
ぶ
における
三井
みつい
さよ
氏
し
の
一連
いちれん
の
発言
はつげん
は
奇
く
しくも
共鳴
きょうめい
している──「エモーションという
言葉
ことば
が
指
さ
しているのは、
抑
おさ
えられない、“I can’t stand it.”と
感
かん
じるとか、“I cannot control it.”と
感
かん
じるような
瞬間
しゅんかん
のことじゃないか……そういう
瞬間
しゅんかん
がいっぱいケアリングの
現場
げんば
になかにあるということを、emotional labourという
言葉
ことば
が、ぴっと
指
さ
したんだと
思
おも
う」。「いろんな、いろんな
思
おも
いが
出
で
てくるターミナルケアのときにも、
感情
かんじょう
労働
ろうどう
だと
看護
かんご
職
しょく
は
強
つよ
く
感
かん
じている。ただ、そのときに
問題
もんだい
になるのは、フィーリング・ルールに
合
あ
わせて
自分
じぶん
の
感情
かんじょう
を
抑
おさ
えるという
話
はなし
というのはないと
思
おも
う……つまり、いろんな、わあっと
感
かん
じる
感情
かんじょう
があって、このことを
言
い
いたくて、
私
わたし
はこんなにいっぱい
感
かん
じるということを
言
い
いたくて、
看護
かんご
職
しょく
の
多
おお
くがemotional labourという
言葉
ことば
に
飛
と
びついたと
理解
りかい
をしたんです」。
看護
かんご
という「
現場
げんば
」のフィールド・ワークをかつてともにした
両者
りょうしゃ
のかかる
一致
いっち
はきわめて
興味深
きょうみぶか
いものであると
編者
へんしゃ
らには
思
おも
われる(その
調査
ちょうさ
の
内容
ないよう
については、
崎山
さきやま
治男
はるお
『
心
しん
の
時代
じだい
と
自己
じこ
──
感情
かんじょう
社会
しゃかい
学
がく
の
視座
しざ
』勁草
書房
しょぼう
2005
年
ねん
、
三井
みつい
さよ
『ケアの
社会
しゃかい
学
がく
──
臨床
りんしょう
現場
げんば
との
対話
たいわ
』
勁草
書房
しょぼう
2004
年
ねん
ほかをあたられたい)。
読者
どくしゃ
のみなさんは、どうだろうか。
他方
たほう
で、
同
おな
じくスミス
氏
し
とカウイ
氏
し
による
問題
もんだい
提起
ていき
に
触発
しょくはつ
されつつ、
崎山
さきやま
論文
ろんぶん
とはまた
異
こと
なる
視角
しかく
から
感情
かんじょう
労働
ろうどう
/
感情
かんじょう
管理
かんり
について
考究
こうきゅう
したのが
天田
あまだ
論文
ろんぶん
である。このたびもまた
天田
あまだ
氏
し
一流
いちりゅう
の
重厚
じゅうこう
で
幾重
いくえ
にも
重畳
ちょうじょう
化
か
された
論理
ろんり
を
約言
やくげん
するのは
至難
しなん
の
業
わざ
だが、
暴挙
ぼうきょ
を
承知
しょうち
でやってみよう。
たしかに「
方法
ほうほう
論
ろん
としての
冷徹
れいてつ
・
無関心
むかんしん
な
態度
たいど
/ルーティーンワーク」は、ケアワーカーがその
現場
げんば
においてある
種
しゅ
必然
ひつぜん
的
てき
に
生
い
きざるをえない
現実
げんじつ
──「
感情
かんじょう
の
感受
かんじゅ
(
怒
いか
りの
感情
かんじょう
)→
暴力
ぼうりょく
的
てき
な
出来事
できごと
」──を
回避
かいひ
するうえで
一定
いってい
の
効果
こうか
をもつ。しかしながら、かかる
方法
ほうほう
論
ろん
の
実践
じっせん
がまさに
呼
よ
びこんでしまう
患者
かんじゃ
との「
抜
ぬ
き
差
さし
しならぬ
関係
かんけい
」や「
更
さら
なるアイロニカルな
事態
じたい
」を
回避
かいひ
する
戦略
せんりゃく
として、さらなる「
方法
ほうほう
論
ろん
としての
感情
かんじょう
労働
ろうどう
/
感情
かんじょう
管理
かんり
」が
採用
さいよう
されることになり、たしかにその
戦略
せんりゃく
もまた、ケアワーカーの
社会
しゃかい
的
てき
評価
ひょうか
や
動機
どうき
づけ、
感情
かんじょう
的
てき
/
肉体
にくたい
的
てき
負担
ふたん
の
最小
さいしょう
化
か
・
軽減
けいげん
化
か
に
一定
いってい
の
効果
こうか
をもつ。そしてそうした
効果
こうか
にたいする
正
せい
のサンクションによって、「
方法
ほうほう
論
ろん
としての
感情
かんじょう
労働
ろうどう
/
感情
かんじょう
管理
かんり
」の
制度
せいど
化
か
、つまりその「エコノミー(
政治
せいじ
経済
けいざい
)」への
編入
へんにゅう
──ケアの
社会
しゃかい
化
か
/
有償
ゆうしょう
化
か
──が
招来
しょうらい
する。
天田
あまだ
論考
ろんこう
の
力点
りきてん
の
第
だい
一
いち
は、かかるエコノミーにおいて、「
方法
ほうほう
論
ろん
としての
感情
かんじょう
労働
ろうどう
/
感情
かんじょう
管理
かんり
」の
採用
さいよう
が「
誰
だれ
/
何
なに
かにとっての
利得
りとく
と
損失
そんしつ
となっているという
利害
りがい
をめぐる
現実
げんじつ
」を
押
お
さえておくことの
重要
じゅうよう
性
せい
である。
そのうえで
第
だい
二
に
に、
我々
われわれ
に
要請
ようせい
されるのは、「
方法
ほうほう
論
ろん
としての
感情
かんじょう
労働
ろうどう
/
感情
かんじょう
管理
かんり
」が
胚胎
はいたい
する「
否定
ひてい
的
てき
評価
ひょうか
」についての
踏
ふ
みこんだ
思考
しこう
である。すなわち、1: まさしくそうした「
方法
ほうほう
論
ろん
としての
感情
かんじょう
労働
ろうどう
/
感情
かんじょう
管理
かんり
」の
採用
さいよう
によって
新
あら
たに
生
しょう
じることになった
感情
かんじょう
的
てき
/
肉体
にくたい
的
てき
負担
ふたん
──バーンアウト、
感情
かんじょう
の
摩耗
まもう
──の
問題
もんだい
。2: それへの
対応
たいおう
のためにも、かかる
負担
ふたん
の
社会
しゃかい
的
てき
配置
はいち
(
分配
ぶんぱい
)をいかに
見定
みさだ
めるかという
問題
もんだい
。さらには、3:「
方法
ほうほう
論
ろん
としての
感情
かんじょう
労働
ろうどう
/
感情
かんじょう
管理
かんり
」それじたいの
社会
しゃかい
による
統制
とうせい
/
強制
きょうせい
という
問題
もんだい
。これらの
問題
もんだい
が
考
かんが
えられるべき
問題
もんだい
としてあるとされ、じっさい「
感情
かんじょう
労働
ろうどう
の
位置
いち
」(3
節
せつ
)では
天田
あまだ
自
みずか
ら・についての
思考
しこう
実践
じっせん
を
試
こころ
みている。
以上
いじょう
のうえで
第
だい
三
さん
に、しかし
決定的
けっていてき
に
重要
じゅうよう
なのは、
感情
かんじょう
労働
ろうどう
/
感情
かんじょう
管理
かんり
が「
何
なに
をいかに
産
う
み
出
だ
しているのかについて
思考
しこう
すること」である。そして
同時
どうじ
にそれは、
生
なま
−
権力
けんりょく
の「
老
お
い
衰
おとろ
えゆく
人々
ひとびと
」への
作動
さどう
、「ケアの
社会
しゃかい
化
か
/
有償
ゆうしょう
化
か
」の
理由
りゆう
について
考究
こうきゅう
することでもある。ここでも
天田
あまだ
は、その
課題
かだい
を
後期
こうき
フーコーの「
統治
とうち
論
ろん
」を
徹底的
てっていてき
(radical)に
読
よ
み
解
と
きつつ
自
みずか
ら
実践
じっせん
する。それにより
導
みちび
かれるのは、
感情
かんじょう
労働
ろうどう
/
感情
かんじょう
管理
かんり
が
生
う
みだしているのは、「
国力
こくりょく
増強
ぞうきょう
」にも「
秩序
ちつじょ
維持
いじ
」にも「
社会
しゃかい
的
てき
なもの」にも
直結
ちょっけつ
しない〈
何
なに
か〉、すなわち
既存
きそん
のエコノミーの
根底
こんてい
にある「
真
しん
の」エコノミーを
生成
せいせい
(generate)する〈
何
なに
か〉ではないか、あるいはあらゆるエコノミーの
外部
がいぶ
においてこそ
生成
せいせい
する〈
何
なに
か〉ではないか、との、きわめてスリリングな
問題
もんだい
提起
ていき
である。
では「
真
しん
の」エコノミー、あるいはその
外部
がいぶ
において
生成
せいせい
する〈
何
なに
か〉とは
何
なに
か。
編者
へんしゃ
らの
考
かんが
えでは、おそらくその
手
て
がかりは「
老
お
い
衰
おとろ
えゆくこと」と「
感情
かんじょう
労働
ろうどう
」の
結
むす
び
目
め
にある。すなわち
我々
われわれ
の
身体
しんたい
/
感情
かんじょう
(
的
てき
同一
どういつ
性
せい
)の「ままならなさ」と、その「
偶然
ぐうぜん
性
せい
への
開
ひら
かれ/
自由
じゆう
」にあると
思
おも
われる。なお、「ケアの
社会
しゃかい
化
か
」という
論点
ろんてん
をめぐっては、『
現代
げんだい
思想
しそう
』の
「
特集
とくしゅう
:ケアの
未来
みらい
──
介護
かいご
・
労働
ろうどう
・
市場
いちば
」
(2009
年
ねん
2
月
がつ
号
ごう
)に、
本
ほん
論文
ろんぶん
でも
触
ふ
れられた
天田
あまだ
氏
し
による「
統治
とうち
論
ろん
」のより
詳細
しょうさい
な
展開
てんかい
をはじめとした、きわめて
示唆
しさ
に
富
と
む
対談
たいだん
と
論考
ろんこう
が
収録
しゅうろく
されている。
本
ほん
冊子
さっし
とあわせて
参照
さんしょう
されたい。
さて、あらためて
確認
かくにん
すれば、
本
ほん
冊子
さっし
の
主題
しゅだい
は「ケアと
感情
かんじょう
労働
ろうどう
」である。
先
さき
の
崎山
さきやま
論文
ろんぶん
と
天田
あまだ
論文
ろんぶん
が
社会
しゃかい
学
がく
的
てき
なアプローチから、かかる
主題
しゅだい
をめぐる
議論
ぎろん
の
刷新
さっしん
を
図
はか
るものであったとすれば、
倫理
りんり
学
がく
的
てき
なアプローチから
同
おな
じく
迫
せま
ったのが
残
のこ
る
有馬
ありま
論文
ろんぶん
と
安部
あべ
論文
ろんぶん
である。
有馬
ありま
論文
ろんぶん
で
瞠目
どうもく
すべきは、
何
なに
を
措
お
いても、ケアと
感情
かんじょう
労働
ろうどう
という
主題
しゅだい
を
媒介
ばいかい
にメインストリームである(
医療
いりょう
/
感情
かんじょう
)
社会
しゃかい
学
がく
・
看護
かんご
学
がく
と
倫理
りんり
学
がく
が
交錯
こうさく
しているという
現状
げんじょう
の
確認
かくにん
のもとに、その
現状
げんじょう
の
理論
りろん
的
てき
な
精査
せいさ
が
試
こころ
みられている
点
てん
である。
すなわち
第
だい
一
いち
に
闡明
せんめい
されるのは、
社会
しゃかい
学
がく
・
看護
かんご
学
がく
と
医療
いりょう
倫理
りんり
学
がく
との
交錯
こうさく
である。
看護
かんご
ケアを
感情
かんじょう
労働
ろうどう
として
捉
とら
える
見方
みかた
は、
一方
いっぽう
において、
看護
かんご
職
しょく
の
専門
せんもん
性
せい
をどのように
理解
りかい
するかという
問題
もんだい
とも
関
かか
わっているが、こうした
見方
みかた
は──
技術
ぎじゅつ
や
知識
ちしき
などよりもむしろ──
感情
かんじょう
を
巧
たく
みに
働
はたら
かせる
力
ちから
を、
看護
かんご
職
しょく
の
専門
せんもん
性
せい
を
裏
うら
づける
特殊
とくしゅ
な
技能
ぎのう
と
捉
とら
える
理解
りかい
につながっている。だが
近年
きんねん
では、
看護
かんご
職
しょく
の
専門
せんもん
性
せい
にかんして、こうした
感情
かんじょう
社会
しゃかい
学
がく
における
認識
にんしき
とほぼ
同様
どうよう
の
見解
けんかい
をもつ
研究
けんきゅう
者
しゃ
が、
実
じつ
は
医療
いりょう
倫理
りんり
学
がく
の
分野
ぶんや
の
研究
けんきゅう
者
しゃ
のあいだに
現
あらわ
れてきている。
また
第
だい
二
に
に、
社会
しゃかい
学
がく
・
看護
かんご
学
がく
と「ケア
倫理
りんり
」との
交錯
こうさく
が
明
あき
らかにされる。
近年
きんねん
、
倫理
りんり
学者
がくしゃ
や
教育
きょういく
学者
がくしゃ
なかにも、
看護
かんご
職
しょく
の
仕事
しごと
を「ケア
倫理
りんり
」と
呼
よ
ばれる
道徳
どうとく
理論
りろん
の
実践
じっせん
として
捉
とら
える
研究
けんきゅう
者
しゃ
が
出
で
てきた。
有馬
ありま
によれば、
感情
かんじょう
社会
しゃかい
学者
がくしゃ
もケア
倫理
りんり
学者
がくしゃ
も、
両者
りょうしゃ
が
分析
ぶんせき
に
用
もち
いる
概念
がいねん
の
違
ちが
いにも
関
かか
わらず、
結論
けつろん
としては、
看護
かんご
職
しょく
を
取
と
り
巻
ま
く
現状
げんじょう
に
対
たい
して、たがいに
非常
ひじょう
に
似
に
た
批判
ひはん
を
浴
あ
びせている。すなわち
両者
りょうしゃ
はともに、
医師
いし
の
方
ほう
が
看護
かんご
師
し
よりも
高
たか
い
専門
せんもん
性
せい
を
有
ゆう
するという
見方
みかた
を
批判
ひはん
して、
両者
りょうしゃ
の
専門
せんもん
性
せい
に
質的
しつてき
な
違
ちが
いがあることを
指摘
してき
している。また、この
指摘
してき
を
踏
ふ
まえて、
看護
かんご
師
し
の
社会
しゃかい
的
てき
な
地位
ちい
向上
こうじょう
や、
新
あたら
しい
体系
たいけい
的
てき
な
教育
きょういく
プログラムの
構築
こうちく
の
必要
ひつよう
性
せい
を
訴
うった
えるに
至
いた
っている。
かかる
現状
げんじょう
確認
かくにん
のうえで
第
だい
三
さん
に、
有馬
ありま
は
看護
かんご
ケアに
関
かん
する
感情
かんじょう
社会
しゃかい
学者
がくしゃ
の
理解
りかい
と、ケア
倫理
りんり
学者
がくしゃ
の
理解
りかい
のあいだに、ひとつ「
興味深
きょうみぶか
い」
差異
さい
が
存在
そんざい
することを
指摘
してき
する。すなわち
感情
かんじょう
を
働
はたら
かせる
仕事
しごと
が、
看護
かんご
師
し
本人
ほんにん
の
福利
ふくり
に
及
およ
ぼす
影響
えいきょう
の
善
よ
し
悪
あ
しについて、
両者
りょうしゃ
は
正
せい
反対
はんたい
の
結論
けつろん
を
導
みちび
いているというのである。
有馬
ありま
によれば、この
差異
さい
は、
両者
りょうしゃ
が
用
もち
いている
概念
がいねん
──「
感情
かんじょう
労働
ろうどう
」と「ケア
倫理
りんり
」──の
違
ちが
いに
由来
ゆらい
する。
このように
有馬
ありま
論文
ろんぶん
は、とりわけ
社会
しゃかい
学
がく
と
倫理
りんり
学
がく
との
接点
せってん
に
学問
がくもん
上
じょう
のテクニカルな
関心
かんしん
をもつ
読者
どくしゃ
や、また
看護
かんご
師
し
の
地位
ちい
向上
こうじょう
といった
現実
げんじつ
的
てき
な
訴
うった
えの
背景
はいけい
にある
論理
ろんり
に
関心
かんしん
のある
読者
どくしゃ
に、
有用
ゆうよう
な
視座
しざ
を
与
あた
えてくれるものである。
ところで、そもそも
感情
かんじょう
と
倫理
りんり
はいかなる
関係
かんけい
にあるのだろうか。
崎山
さきやま
論文
ろんぶん
にも
言及
げんきゅう
があるボルトンが
区分
くぶん
しているように、
感情
かんじょう
管理
かんり
は「
慈悲
じひ
的
てき
」な
側面
そくめん
を(も)もつが、そのさいそれは
他者
たしゃ
への
共感
きょうかん
(
共
とも
苦
く
)を
前提
ぜんてい
としている。
我々
われわれ
は
他者
たしゃ
の
苦
くる
しみに
同調
どうちょう
し、
緩和
かんわ
するために
自
みずか
らの
感情
かんじょう
を
統御
とうぎょ
することがある。しかし、いったいそれはいかなる
機
き
制
せい
によるのか。まずこうした
疑問
ぎもん
がある。
他方
たほう
で、
現代
げんだい
は「
感情
かんじょう
の
時代
じだい
」である。そこでは、
他者
たしゃ
の
苦
くる
しみを
頭
あたま
で「
理解
りかい
」するよりも、
感情
かんじょう
によってその
苦
くる
しみに
共振
きょうしん
することに
価値
かち
が
置
お
かれる。とすれば、
倫理
りんり
は──
伝統
でんとう
的
てき
な
倫理
りんり
学
がく
が
考
かんが
えてきたのとは
異
こと
なって──
理性
りせい
よりも
感情
かんじょう
と、より
内在
ないざい
的
てき
な
関係
かんけい
にあるのか。その
真偽
しんぎ
や
是非
ぜひ
はともかく、いずれにせよ「
我々
われわれ
」のリアリティがそこにあるということは
現代
げんだい
の
社会
しゃかい
学
がく
的
てき
な
事実
じじつ
である。
以上
いじょう
のような
疑問
ぎもん
と
事実
じじつ
を
起点
きてん
としつつ
書
か
かれたのが
安部
あべ
論文
ろんぶん
である。
その
意義
いぎ
は
偏
ひとえ
に、
感情
かんじょう
と
倫理
りんり
という
主題
しゅだい
にかんして、
主流
しゅりゅう
派
は
の
位置
いち
をしめる
進化
しんか
倫理
りんり
学
がく
とは
異
こと
なる
視座
しざ
からその
問題
もんだい
に
迫
せま
ることである。すなわち
感情
かんじょう
と
倫理
りんり
の
関係
かんけい
をめぐる、いわばオルタナティブ・ストーリーとしてのローティの
非
ひ
−
基礎
きそ
づけ
主義
しゅぎ
的
てき
アプローチと、その
先
さき
を
追究
ついきゅう
する
佐藤
さとう
の
現象
げんしょう
学
がく
的
てき
アプローチの簡にして
要
よう
をえた
紹介
しょうかい
を
試
こころ
みたことである。その
試
こころ
みの
帰結
きけつ
については、
同
どう
論文
ろんぶん
の「むすびにかえて」を
参照
さんしょう
してほしい。また、ローティや
佐藤
さとう
の
議論
ぎろん
に
興味
きょうみ
をもたれた
方
ほう
は
何
なに
よりも
原著
げんちょ
にあたっていただければと
思
おも
う。ここでは
最後
さいご
に、この
論文
ろんぶん
を
書
か
きながら
何
なん
度
ど
も
反芻
はんすう
した
編者
へんしゃ
(
安部
あべ
)の
問
と
いを
書
か
きつけておきたい。
一方
いっぽう
に、
虐
しいた
げられてきた
者
もの
の
痛
いた
みや
怒
いか
りがある。
他方
たほう
に、
虐
しいた
げてきた
者
もの
の
怒
いか
りや
痛
いた
みがある。
我々
われわれ
はこれらそれぞれの
感情
かんじょう
が「わかる」。このほかにも、いろんな
感情
かんじょう
が「わかる」。いや、「わかった
気
き
になる」。だが、この「わかる/わかった
気
き
になる」ということがいかなることであるのかについては、よくわかっていないと
思
おも
う。もちろん
私
わたし
には(も)わからない。そのうえで、けれども/だからこそ
問
と
いを
発
はっ
しておく。
果
は
たしてそれはいまだ
不
ふ
分明
ぶんめい
な
客観
きゃっかん
的
てき
事実
じじつ
や
人間
にんげん
本性
ほんしょう
に
根
ね
ざしたことがら、つまりさらなる
探究
たんきゅう
によって
闡明
せんめい
されるものなのだろうか。それとも、「わかりたい」という、
我々
われわれ
が
他者
たしゃ
へと
差
さ
し
向
む
ける
信
しん
/
志向
しこう
性
せい
の
余剰
よじょう
がもたらす
錯覚
さっかく
にすぎないのだろうか。ローティがいうように、
連帯
れんたい
は──
事実
じじつ
として──「
発見
はっけん
」されるのだろうか、あるいは「
創造
そうぞう
」されるのだろうか。やはりよくわからない。ただ、にもかかわらず/だからこそ、この
問題
もんだい
が
依然
いぜん
考
かんが
えられるべきものとしてあるとだけはいえると
思
おも
う。
我々
われわれ
はときに
単
たん
独行
どっこう
として、ときに
異
こと
なる
学
がく
知
ち
との
交流
こうりゅう
を
経
へ
ながら、さらに
思考
しこう
を
繰
く
り
延
の
べていかねばならないことだけは
疑
うたが
いない。
最後
さいご
に、
大谷
おおや
いづみ
氏
し
により
提起
ていき
された
重要
じゅうよう
な
論点
ろんてん
について
触
ふ
れておきたい。まず
銘記
めいき
されてよいのは、
大谷
おおや
氏
し
による
問題
もんだい
提起
ていき
によって、スミス
氏
し
が『
感情
かんじょう
労働
ろうどう
としての
看護
かんご
』を
執筆
しっぴつ
した
当時
とうじ
の
社会
しゃかい
/
医療
いりょう
状況
じょうきょう
と、
同書
どうしょ
の(
真
しん
の)ねらいが
明
あき
らかになったことである。
編者
へんしゃ
らは、
実
じつ
は
編集
へんしゅう
過程
かてい
でその
事実
じじつ
に
気
き
づいたが、それによって『
感情
かんじょう
労働
ろうどう
としての
看護
かんご
』の
新
あら
たなる/
別
べつ
なる
読
よ
みが
開
ひら
かれたと
確信
かくしん
する。また、
大谷
おおや
氏
し
による「ターミナルケアの/という
語
かた
りの
政治
せいじ
性
せい
」についての
問題
もんだい
提起
ていき
は、
今日
きょう
きわめてアクチュアルな
論点
ろんてん
であるといってよい。ふつう
生死
せいし
をめぐる
価値
かち
観
かん
は
極
ごく
私的
してき
なものと
考
かんが
えられているが、それさえその
個人
こじん
が
生
い
きている
社会
しゃかい
が
抱
いだ
く
価値
かち
観
かん
の
影響
えいきょう
下
か
にある。このように「
尊厳
そんげん
死
し
」や「
安楽
あんらく
死
し
」は、
社会
しゃかい
学
がく
的
てき
な
視座
しざ
のもとであらためて
再考
さいこう
されねばならない
重要
じゅうよう
な
問題
もんだい
だからである。
編者
へんしゃ
らもその
問題
もんだい
意識
いしき
を
共有
きょうゆう
しつつ
共同
きょうどう
研究
けんきゅう
を
進
すす
めており、その
成果
せいか
の
一部
いちぶ
はすでに
世
よ
に
問
と
うている(
堀田
ほった
義太郎
よしたろう
・
有馬
ありま
斉
ひとし
・
安部
あべ
彰
あきら
・
的場
まとば
和子
かずこ
「
英国
えいこく
レスリー・バーグ
裁判
さいばん
から
学
まな
べること──
生命
せいめい
・
医療
いりょう
倫理
りんり
の
諸
しょ
原則
げんそく
の
再
さい
検討
けんとう
」、
『
生存
せいぞん
学
がく
vol.1』
、
生活
せいかつ
書院
しょいん
)。
今後
こんご
はさらに、「
自殺
じさつ
幇助
ほうじょ
法
ほう
」「
緩和
かんわ
ケア
法
ほう
」をめぐる
彼
かれ
の
地
ち
の
動向
どうこう
を
追尾
ついび
しつつ、イギリスの
尊厳
そんげん
死
し
・
安楽
あんらく
死
し
をめぐる
現実
げんじつ
と
言説
げんせつ
の
精査
せいさ
と
検討
けんとう
が
継続
けいぞく
される。
興味
きょうみ
のある
読者
どくしゃ
にはそちらの
仕事
しごと
にもぜひ
注目
ちゅうもく
してほしいが、
現状
げんじょう
においてこの
論点
ろんてん
については、
大谷
おおや
氏
し
による
一連
いちれん
の
著作
ちょさく
とともに、
立岩
たていわ
真
しん
也
『
良
よ
い
死
し
』
(
筑摩書房
ちくましょぼう
、2009
年
ねん
)が
格好
かっこう
の
手引
てび
きとなろう。
以上
いじょう
の
論点
ろんてん
は、「ケアと
感情
かんじょう
労働
ろうどう
」について
思考
しこう
/
研究
けんきゅう
する
人々
ひとびと
のみならず、
異
こと
なる
身体
しんたい
の
生
せい
の
様式
ようしき
/
技法
ぎほう
の
精査
せいさ
と
異
こと
なる
学
がく
知
ち
の
相互
そうご
交流
こうりゅう
によって
触発
しょくはつ
された
知見
ちけん
/
視角
しかく
のもとに「もうひとつの」
社会
しゃかい
を
構想
こうそう
せんとする、
我々
われわれ
「
生存
せいぞん
学
がく
」のメンバーにとっても
看過
かんか
できない
課題
かだい
である。じっさい
編者
へんしゃ
らが
主催
しゅさい
しているケア
研究
けんきゅう
会
かい
でも、メンバーが
独自
どくじ
に、あるいは
共同
きょうどう
研究
けんきゅう
をつうじて、その
課題
かだい
に
取
と
り
組
く
んでいる。その
旺盛
おうせい
でバラエティに
富
と
んだ
活動
かつどう
内容
ないよう
については
http://www.arsvi.com/o/c05.htm
。また、
未
み
整備
せいび
であるが
今後
こんご
充実
じゅうじつ
する「ケア」
http://www.arsvi.com/d/c04.htm
、「
感情
かんじょう
/
感情
かんじょう
の
社会
しゃかい
学
がく
」
http://www.arsvi.com/d/e01.htm
のページもあわせて
参照
さんしょう
してほしい。
今後
こんご
は、
研究
けんきゅう
会
かい
での「
集積
しゅうせき
と
考究
こうきゅう
」をもとに、「ケア」や「
感情
かんじょう
(
労働
ろうどう
)」をめぐる
研究
けんきゅう
動向
どうこう
レビューの
作成
さくせい
や、それらを
論
ろん
じる
新
あら
たな
視座
しざ
の
提起
ていき
もおこなっていく
予定
よてい
である。なお、
同
どう
研究
けんきゅう
会
かい
はすべての
学
まな
ぶ
人
ひと
たちに
開
ひら
かれている。
上記
じょうき
ホームページ、または
本
ほん
冊子
さっし
をつうじて
興味
きょうみ
をもたれた
方
ほう
があれば
気兼
きが
ねなくご
参加
さんか
ください。
歓迎
かんげい
します。
最後
さいご
に、
私事
しじ
ながら
謝辞
しゃじ
を
述
の
べさせていただくことをお
許
ゆる
しいただきたい。
本
ほん
冊子
さっし
の
真
しん
の
生
う
みの
親
おや
ともいうべき
方々
かたがた
へ。
パム・スミス
先生
せんせい
とヘレン・カウイ
先生
せんせい
は、
日々
ひび
のご
多忙
たぼう
をぬって、
研究
けんきゅう
交流
こうりゅう
企画
きかく
での
我々
われわれ
のコメントと
質疑
しつぎ
にたいする
応答
おうとう
論文
ろんぶん
をわざわざお
寄
よ
せくださった。かかる
僥倖
ぎょうこう
によって、
本
ほん
冊子
さっし
の
彩
いろど
りがさらに
豊
ゆた
かになったことはもとより、
多
おお
くの
読者
どくしゃ
にとってもこのうえないプレゼントになったと
思
おも
います。ありがとうございました。
大谷
おおや
いづみ
先生
せんせい
と
三井
みつい
さよ
先生
せんせい
には、
研究
けんきゅう
交流
こうりゅう
会
かい
の
記録
きろく
の
収録
しゅうろく
をご
快諾
かいだく
いただきました。
編集
へんしゅう
過程
かてい
であらためて
読
よ
み
返
かえ
してみるに、お
二
に
人
にん
からはとても
啓発
けいはつ
的
てき
な
問題
もんだい
提起
ていき
がなされていて、
考
かんが
えさせられました。
編者
へんしゃ
らの
今後
こんご
の
研究
けんきゅう
課題
かだい
とさせていただきたく
存
ぞん
じます。ありがとうございました。
グローバルCOEプログラム「
生存
せいぞん
学
がく
」
創成
そうせい
拠点
きょてん
リーダーである
立岩
たていわ
真
しん
也
先生
せんせい
には、いわばこの
冊子
さっし
のもとになる、そのおおもとの
機会
きかい
を
与
あた
えていただきました。そのご
厚恩
こうおん
とご
学
がく
恩
おん
はもとより
本件
ほんけん
だけに
限
かぎ
りようがないのですが、ありがとうございました。
「
生存
せいぞん
学
がく
」プロジェクトマネージャーの
片岡
かたおか
稔
みのる
さんには
日々
ひび
、
編者
へんしゃ
ら「
生存
せいぞん
学
がく
」のポストドクトラルフェローのみならず、
先端
せんたん
研
けん
の
院生
いんせい
も
陰日向
かげひなた
に
大変
たいへん
お
世話
せわ
になっております。そのご
厚恩
こうおん
はこの
冊子
さっし
においても
例外
れいがい
ではありません。
編者
へんしゃ
らは、
片岡
かたおか
さんに
常
つね
日頃
ひごろ
から、
駆
か
け
出
だ
しの
研究
けんきゅう
者
しゃ
としてその
成果
せいか
を
果敢
かかん
に
世
よ
に
問
と
うよう
強
つよ
く
奨
すす
めていただいております。そのような
教
おし
えのもと
培
つちか
われたレディネスがあればこそ、どちらかといえば
世事
せじ
に
疎
うと
い
編者
へんしゃ
らも、このたびのお
話
はなし
を
躊躇
ちゅうちょ
なくお
受
う
けすることができました。ありがとうございました。
いうなればヒュレーとしての
単
たん
なる
文字
もじ
が
活字
かつじ
というエイドスにこうして
転変
てんぺん
するには、また
別
べつ
の、けれども
決定的
けっていてき
な
作業
さぎょう
が
必要
ひつよう
です。だから
本
ほん
冊子
さっし
を
仕上
しあ
げてくださった
方々
かたがた
にも
謝意
しゃい
を
表
あらわ
させていただきます。
生活
せいかつ
書院
しょいん
の
高橋
たかはし
淳
あつし
さん、そして
本
ほん
冊子
さっし
を
担当
たんとう
してくださった「
生存
せいぞん
学
がく
」
事務
じむ
局
きょく
の
佐山
さやま
佳世子
かよこ
さん、
同
どう
事務
じむ
局
きょく
の
荒
あら
堀
ほり
弓子
ゆみこ
さん、
植田
うえだ
香織
かおり
さん。このたびは(も)
大変
たいへん
お
世話
せわ
になりました。ありがとうございました。さらに、
本
ほん
冊子
さっし
のもとになったのは
国際
こくさい
研究
けんきゅう
交流
こうりゅう
企画
きかく
のテープ
起
お
こしの
原稿
げんこう
であったが、その
英語
えいご
部分
ぶぶん
の
校正
こうせい
をローラ・シャオさんにお
願
ねが
いした。
口語
こうご
の
調子
ちょうし
を
残
のこ
しながらも、
読
よ
みやすい
文章
ぶんしょう
になるよう
丁寧
ていねい
にチェックしてくれたこと、
感謝
かんしゃ
しています。
末筆
まっぴつ
ながら、
天田
あまだ
城
しろ
介
かい
先生
せんせい
と
崎山
さきやま
治男
はるお
先生
せんせい
には、
本
ほん
企画
きかく
でのコメントや
寄稿
きこう
のみならず、
本
ほん
冊子
さっし
の
編者
へんしゃ
を
努
つと
める
機会
きかい
まで
与
あた
えていただきました。また
編集
へんしゅう
作業
さぎょう
においても、
文字
もじ
どおり
手取
てど
り
足取
あしど
り、
多
おお
くをご
教示
きょうし
いただきました。
両
りょう
先生
せんせい
のご
厚恩
こうおん
とご
学
がく
恩
おん
もまた、いまにはじまったことではないのですが、あらためて
記
しる
して
深謝
しんしゃ
いたします。ありがとうございました。
こうしたいろんな
方々
かたがた
との
類
るい
い
希
まれ
なる
出会
であ
いと
大
おお
いなる
助力
じょりょく
のもとに、この
冊子
さっし
は
成
な
りました。この
幸運
こううん
なる
偶然
ぐうぜん
の
結晶
けっしょう
が、なるべく
多
おお
くのみなさんのご
関心
かんしん
を
喚起
かんき
/
満
み
たすことにささやかながらでも
資
し
するところがあれば、
編者
へんしゃ
としては、なんていうか、
最高
さいこう
です。
2009
年
ねん
2
月
がつ
安部
あべ
彰
あきら
×
有馬
ありま
斉
ひとし
□
安部
あべ
彰
あきら
・
有馬
ありま
斉
ひとし
20090319 「あとがき」
安部
あべ
彰
あきら
・
有馬
ありま
斉
ひとし
『ケアと
感情
かんじょう
労働
ろうどう
――
異
こと
なる
学
がく
知
ち
の
交流
こうりゅう
から
考
かんが
える』
,
立命館大学
りつめいかんだいがく
生存
せいぞん
学
がく
研究
けんきゅう
センター,
生存
せいぞん
学
がく
研究
けんきゅう
センター
報告
ほうこく
8,pp.238-248.
UP:20090911 REV:
◇
ケア
研究
けんきゅう
会
かい
◇
ケア
◇
「
感情
かんじょう
/
感情
かんじょう
の
社会
しゃかい
学
がく
」
◇
生存
せいぞん
学
がく
創成
そうせい
拠点
きょてん
の
刊行
かんこう
物
ぶつ
◇
テキストデータ
入手
にゅうしゅ
可能
かのう
な
本
ほん
◇
身体
しんたい
×
世界
せかい
:
関連
かんれん
書籍
しょせき
2005-
◇
BOOK
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇