(Translated by https://www.hiragana.jp/)
安部彰・有馬斉「あとがき」
HOME >

あとがき

 安部あべ あきら有馬ありま ひとし 2009/03/19
立命館大学りつめいかんだいがくグローバルCOEプログラム「生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん 20090319
安部あべ あきら有馬ありま ひとし 『ケアと感情かんじょう労働ろうどう――ことなるがく交流こうりゅうからかんがえる』
立命館大学りつめいかんだいがく生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター,生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター報告ほうこく8,248p. ISSN 1882-6539 pp.193-214


 ほん冊子さっし成立せいりつ経緯けいいについては「まえがき」を参照さんしょうしていただきたいのだが、参加さんかしゃ相互そうご交流こうりゅう浸透しんとう大切たいせつにしたいというパム・スミス先生せんせいとヘレン・カウイ先生せんせいたってのご希望きぼうもあり、しょう人数にんずうのアットホームな形式けいしきもよおされた国際こくさい研究けんきゅう交流こうりゅう企画きかくは、ふたをけてみれば、おどろくほど盛況せいきょうなるかいとなった。グローバルCOEプログラム「生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん以下いか、「生存せいぞんがく」)のホームページでの告知こくちがその効果こうかをいかんなく発揮はっきしたことが一因いちいんかともおもうが、なによりも日本にっぽん、とりわけ看護かんごがくかいにおけるパム・スミス先生せんせい多大ただいなる影響えいきょうりょく学的がくてき貢献こうけんにあらためて感銘かんめいをうけたことを、編者へんしゃらのわすれえぬ記憶きおくとしてまずめておきたい。

 その国際こくさい研究けんきゅう交流こうりゅう企画きかく記録きろくに、翌日よくじつのクローズドな研究けんきゅう交流こうりゅうかいでのやりとり(以下いか両者りょうしゃをあわせて「ほん企画きかく」とする)、そこから各自かくじがもちかえったいにたいする応答おうとう論文ろんぶんくわえてできあがったのがほん冊子さっしである。自画じが自賛じさんおそれずにいえば、ここには「ケアと感情かんじょう労働ろうどう」という主題しゅだいをめぐり今後こんご研究けんきゅうすすめていくうえで、きわめて示唆しさ論考ろんこう論点ろんてん出揃でそろったと編者へんしゃらはかんがえている。いいかえれば、かかる主題しゅだいにかんして看護かんごがく臨床りんしょう心理しんりがく社会しゃかいがく倫理りんりがくのそれぞれがたがいに今後こんごけていくべき課題かだいしめされているとおもう。そしてそれは、文字もじどおり、ほん企画きかくことなるがく交流こうりゅうたまものでもある。以下いかほん冊子さっしむすびに、その要点ようてんかえっておくことで、読者どくしゃようすることとしたい。
 まずスミスとカウイ共著きょうちょ論文ろんぶんおしえてくれるのは、看護かんごという「現場げんば」で、またさまざまな職業しょくぎょうの「現場げんば」で去来きょらいする感情かんじょうとその管理かんり──その双方そうほうのままならなさ──という「現実げんじつ」と、その「現実げんじつ」がゆたかさと同時どうじにあわせもつ問題もんだい──いじめなど──の解消かいしょうけ、あらためてあしのついた/実証じっしょうてき思考しこうきたえあげていくことの重要じゅうようせいである。その甚大じんだいなる意義いぎ確認かくにんするためにも、読者どくしゃにはスミスとカウイ研究けんきゅう報告ほうこく論考ろんこうかえしあたってほしい。また、その感情かんじょう社会しゃかいがくにおける意義いぎについても崎山さきやま論文ろんぶんくわしいので、ここであらためて屋上おくじょうかさねる愚行ぐこうひかえる。
 そのうえでしかし、編者へんしゃらにとって印象深いんしょうぶかかったのは、両氏りょうし問題もんだい意識いしきがまさに、「現場げんば」と「現実げんじつ」にしっかりとざしたもの──にもかかわらず、ではなく──であるからこそ、そこからみればこえともひびきかねない我々われわれコメンテーターのいが──というか日本語にほんごということなる言語げんご意識いしきのもとはっせられたこえであるから、文字もじどおり「こえ」にほかならない──、ときにそうであるように、無意識むいしきてき防衛ぼうえいせいによる「忘却ぼうきゃくあな」(H・アレント)にとしこまれることなく、ちゃんとけとめられたことである。「現場げんば」からはっせられるこえはつねに/すでに真摯しんしである。そうした「現場げんば」のこえ学問がくもんとの対話たいわをこれからも、これまで以上いじょうゆたかにしていく意義いぎ意欲いよくを、両氏りょうしはいわば行為こうい遂行すいこうてき喚起かんきしてくれたとおもう。
 そのようなスミス−カウイによる問題もんだい提起ていきを、いわば正面しょうめんからけとめ応答おうとうしたのが崎山さきやま論文ろんぶんである。周知しゅうちのように、崎山さきやまはわがくににおける感情かんじょう社会しゃかいがく理論りろん実証じっしょう両面りょうめん牽引けんいんする少壮しょうそう気鋭きえい若手わかて研究けんきゅうしゃであるが、今回こんかいせられた論考ろんこうおおきくみっつの意義いぎをもっているといえる。すなわちだいいちに、スミス−カウイによって提起ていきされた論点ろんてん最良さいりょうなる解題かいだいとしての性格せいかくをもつ。また、それにとどまらずだいに、感情かんじょう労働ろうどうについて、さらに包括ほうかつてき沈潜ちんせんした視点してんからの問題もんだい提起ていき展開てんかいされていることである。その意味いみで、ほん論文ろんぶんは──崎山さきやまのほかの著作ちょさくとならんで──今後こんご感情かんじょう労働ろうどう研究けんきゅうにはかすことのできない必読ひつどく文献ぶんけんである。さらにはだいさんに、感情かんじょう労働ろうどうという個別こべつてき主題しゅだいあつかうにとどまらない、ひろく現代げんだい社会しゃかいろんとしてまれるべき論考ろんこうであるというてんである。つまり、ほかのいかなる現象げんしょうでもなく、感情かんじょう労働ろうどうという事象じしょうをいわばのぞあなにしてこそ、現代げんだい社会しゃかい形象けいしょう鮮明せんめいとおせることを説得せっとくてきしめした論考ろんこうである。
 さて、そこで展開てんかいされた多岐たきにわたる議論ぎろん消化しょうかするには直接ちょくせつほん論文ろんぶんをあたるにごとくはないが、その要諦ようたいをごく簡単かんたんにまとめておけば、以下いかの3てんになるとおもう。だいいちに、ほん論文ろんぶんでは、今日きょうにあってはおも感情かんじょう労働ろうどうろん文脈ぶんみゃくにおいて論及ろんきゅうされるにすぎない感情かんじょう管理かんりという実践じっせんが、まさしくも我々われわれ日常にちじょうてき相互そうご作用さよう場面ばめんもどされる。まただいに、我々われわれだれもが経験けいけんする「多様たようでままならない自己じこ感情かんじょう」にあらためて注目ちゅうもくすることで、「感情かんじょう用法ようほう」における(をとりまく)現代げんだい概念的がいねんてき社会しゃかいてき貧困ひんこん批判ひはんされ、その彫琢ちょうたく目指めざされる。そしてだいさんに、その「多様たようでままならない自己じこ感情かんじょう」が統御とうぎょ不可能ふかのうであるにもかかわらず/であるがゆえに、それを肯定こうていすることに「社会しゃかい」が──企業きぎょうが、がくが、ほかならぬ当事とうじしゃ自身じしんが──躍起やっきになるさまがあとづけられ、そこに現代げんだい社会しゃかいにおける「しん疎外そがい」が剔抉てっけつされる。
 なお、するど読者どくしゃづかれたかもしれないが、感情かんじょう労働ろうどうかぎは「多様たようでままならない自己じこ感情かんじょう」にあるとする崎山さきやま見解けんかいと、だいにおける三井みついさよ一連いちれん発言はつげんしくも共鳴きょうめいしている──「エモーションという言葉ことばしているのは、おさえられない、“I can’t stand it.”とかんじるとか、“I cannot control it.”とかんじるような瞬間しゅんかんのことじゃないか……そういう瞬間しゅんかんがいっぱいケアリングの現場げんばになかにあるということを、emotional labourという言葉ことばが、ぴっとしたんだとおもう」。「いろんな、いろんなおもいがてくるターミナルケアのときにも、感情かんじょう労働ろうどうだと看護かんごしょくつよかんじている。ただ、そのときに問題もんだいになるのは、フィーリング・ルールにわせて自分じぶん感情かんじょうおさえるというはなしというのはないとおもう……つまり、いろんな、わあっとかんじる感情かんじょうがあって、このことをいたくて、わたしはこんなにいっぱいかんじるということをいたくて、看護かんごしょくおおくがemotional labourという言葉ことばびついたと理解りかいをしたんです」。
 看護かんごという「現場げんば」のフィールド・ワークをかつてともにした両者りょうしゃのかかる一致いっちはきわめて興味深きょうみぶかいものであると編者へんしゃらにはおもわれる(その調査ちょうさ内容ないようについては、崎山さきやま治男はるおしん時代じだい自己じこ──感情かんじょう社会しゃかいがく視座しざ』勁草書房しょぼう2005ねん三井みついさよ『ケアの社会しゃかいがく──臨床りんしょう現場げんばとの対話たいわ勁草書房しょぼう2004ねんほかをあたられたい)。読者どくしゃのみなさんは、どうだろうか。
 他方たほうで、おなじくスミスとカウイによる問題もんだい提起ていき触発しょくはつされつつ、崎山さきやま論文ろんぶんとはまたことなる視角しかくから感情かんじょう労働ろうどう感情かんじょう管理かんりについて考究こうきゅうしたのが天田あまだ論文ろんぶんである。このたびもまた天田あまだ一流いちりゅう重厚じゅうこう幾重いくえにも重畳ちょうじょうされた論理ろんり約言やくげんするのは至難しなんわざだが、暴挙ぼうきょ承知しょうちでやってみよう。
 たしかに「方法ほうほうろんとしての冷徹れいてつ無関心むかんしん態度たいど/ルーティーンワーク」は、ケアワーカーがその現場げんばにおいてあるしゅ必然ひつぜんてききざるをえない現実げんじつ──「感情かんじょう感受かんじゅいかりの感情かんじょう)→暴力ぼうりょくてき出来事できごと」──を回避かいひするうえで一定いってい効果こうかをもつ。しかしながら、かかる方法ほうほうろん実践じっせんがまさにびこんでしまう患者かんじゃとの「さししならぬ関係かんけい」や「さらなるアイロニカルな事態じたい」を回避かいひする戦略せんりゃくとして、さらなる「方法ほうほうろんとしての感情かんじょう労働ろうどう感情かんじょう管理かんり」が採用さいようされることになり、たしかにその戦略せんりゃくもまた、ケアワーカーの社会しゃかいてき評価ひょうか動機どうきづけ、感情かんじょうてき肉体にくたいてき負担ふたん最小さいしょう軽減けいげん一定いってい効果こうかをもつ。そしてそうした効果こうかにたいするせいのサンクションによって、「方法ほうほうろんとしての感情かんじょう労働ろうどう感情かんじょう管理かんり」の制度せいど、つまりその「エコノミー(政治せいじ経済けいざい)」への編入へんにゅう──ケアの社会しゃかい有償ゆうしょう──が招来しょうらいする。天田あまだ論考ろんこう力点りきてんだいいちは、かかるエコノミーにおいて、「方法ほうほうろんとしての感情かんじょう労働ろうどう感情かんじょう管理かんり」の採用さいようが「だれなにかにとっての利得りとく損失そんしつとなっているという利害りがいをめぐる現実げんじつ」をさえておくことの重要じゅうようせいである。
 そのうえでだいに、我々われわれ要請ようせいされるのは、「方法ほうほうろんとしての感情かんじょう労働ろうどう感情かんじょう管理かんり」が胚胎はいたいする「否定ひていてき評価ひょうか」についてのみこんだ思考しこうである。すなわち、1: まさしくそうした「方法ほうほうろんとしての感情かんじょう労働ろうどう感情かんじょう管理かんり」の採用さいようによってあらたにしょうじることになった感情かんじょうてき肉体にくたいてき負担ふたん──バーンアウト、感情かんじょう摩耗まもう──の問題もんだい。2: それへの対応たいおうのためにも、かかる負担ふたん社会しゃかいてき配置はいち分配ぶんぱい)をいかに見定みさだめるかという問題もんだい。さらには、3:「方法ほうほうろんとしての感情かんじょう労働ろうどう感情かんじょう管理かんり」それじたいの社会しゃかいによる統制とうせい強制きょうせいという問題もんだい。これらの問題もんだいかんがえられるべき問題もんだいとしてあるとされ、じっさい「感情かんじょう労働ろうどう位置いち」(3せつ)では天田あまだみずから・についての思考しこう実践じっせんこころみている。
 以上いじょうのうえでだいさんに、しかし決定的けっていてき重要じゅうようなのは、感情かんじょう労働ろうどう感情かんじょう管理かんりが「なにをいかにしているのかについて思考しこうすること」である。そして同時どうじにそれは、なま権力けんりょくの「おとろえゆく人々ひとびと」への作動さどう、「ケアの社会しゃかい有償ゆうしょう」の理由りゆうについて考究こうきゅうすることでもある。ここでも天田あまだは、その課題かだい後期こうきフーコーの「統治とうちろん」を徹底的てっていてき(radical)にきつつみずか実践じっせんする。それによりみちびかれるのは、感情かんじょう労働ろうどう感情かんじょう管理かんりみだしているのは、「国力こくりょく増強ぞうきょう」にも「秩序ちつじょ維持いじ」にも「社会しゃかいてきなもの」にも直結ちょっけつしない〈なにか〉、すなわち既存きそんのエコノミーの根底こんていにある「しんの」エコノミーを生成せいせい(generate)する〈なにか〉ではないか、あるいはあらゆるエコノミーの外部がいぶにおいてこそ生成せいせいする〈なにか〉ではないか、との、きわめてスリリングな問題もんだい提起ていきである。
 では「しんの」エコノミー、あるいはその外部がいぶにおいて生成せいせいする〈なにか〉とはなにか。編者へんしゃらのかんがえでは、おそらくそのがかりは「おとろえゆくこと」と「感情かんじょう労働ろうどう」のむすにある。すなわち我々われわれ身体しんたい感情かんじょうてき同一どういつせい)の「ままならなさ」と、その「偶然ぐうぜんせいへのひらかれ/自由じゆう」にあるとおもわれる。なお、「ケアの社会しゃかい」という論点ろんてんをめぐっては、『現代げんだい思想しそう』の特集とくしゅう:ケアの未来みらい──介護かいご労働ろうどう市場いちば(2009ねんがつごう)に、ほん論文ろんぶんでもれられた天田あまだによる「統治とうちろん」のより詳細しょうさい展開てんかいをはじめとした、きわめて示唆しさ対談たいだん論考ろんこう収録しゅうろくされている。ほん冊子さっしとあわせて参照さんしょうされたい。
 さて、あらためて確認かくにんすれば、ほん冊子さっし主題しゅだいは「ケアと感情かんじょう労働ろうどう」である。さき崎山さきやま論文ろんぶん天田あまだ論文ろんぶん社会しゃかいがくてきなアプローチから、かかる主題しゅだいをめぐる議論ぎろん刷新さっしんはかるものであったとすれば、倫理りんりがくてきなアプローチからおなじくせまったのがのこ有馬ありま論文ろんぶん安部あべ論文ろんぶんである。
 有馬ありま論文ろんぶん瞠目どうもくすべきは、なにいても、ケアと感情かんじょう労働ろうどうという主題しゅだい媒介ばいかいにメインストリームである(医療いりょう感情かんじょう社会しゃかいがく看護かんごがく倫理りんりがく交錯こうさくしているという現状げんじょう確認かくにんのもとに、その現状げんじょう理論りろんてき精査せいさこころみられているてんである。
すなわちだいいち闡明せんめいされるのは、社会しゃかいがく看護かんごがく医療いりょう倫理りんりがくとの交錯こうさくである。看護かんごケアを感情かんじょう労働ろうどうとしてとらえる見方みかたは、一方いっぽうにおいて、看護かんごしょく専門せんもんせいをどのように理解りかいするかという問題もんだいともかかわっているが、こうした見方みかたは──技術ぎじゅつ知識ちしきなどよりもむしろ──感情かんじょうたくみにはたらかせるちからを、看護かんごしょく専門せんもんせいうらづける特殊とくしゅ技能ぎのうとらえる理解りかいにつながっている。だが近年きんねんでは、看護かんごしょく専門せんもんせいにかんして、こうした感情かんじょう社会しゃかいがくにおける認識にんしきとほぼ同様どうよう見解けんかいをもつ研究けんきゅうしゃが、じつ医療いりょう倫理りんりがく分野ぶんや研究けんきゅうしゃのあいだにあらわれてきている。
 まただいに、社会しゃかいがく看護かんごがくと「ケア倫理りんり」との交錯こうさくあきらかにされる。近年きんねん倫理りんり学者がくしゃ教育きょういく学者がくしゃなかにも、看護かんごしょく仕事しごとを「ケア倫理りんり」とばれる道徳どうとく理論りろん実践じっせんとしてとらえる研究けんきゅうしゃてきた。有馬ありまによれば、感情かんじょう社会しゃかい学者がくしゃもケア倫理りんり学者がくしゃも、両者りょうしゃ分析ぶんせきもちいる概念がいねんちがいにもかかわらず、結論けつろんとしては、看護かんごしょく現状げんじょうたいして、たがいに非常ひじょう批判ひはんびせている。すなわち両者りょうしゃはともに、医師いしほう看護かんごよりもたか専門せんもんせいゆうするという見方みかた批判ひはんして、両者りょうしゃ専門せんもんせい質的しつてきちがいがあることを指摘してきしている。また、この指摘してきまえて、看護かんご社会しゃかいてき地位ちい向上こうじょうや、あたらしい体系たいけいてき教育きょういくプログラムの構築こうちく必要ひつようせいうったえるにいたっている。
 かかる現状げんじょう確認かくにんのうえでだいさんに、有馬ありま看護かんごケアにかんする感情かんじょう社会しゃかい学者がくしゃ理解りかいと、ケア倫理りんり学者がくしゃ理解りかいのあいだに、ひとつ「興味深きょうみぶかい」差異さい存在そんざいすることを指摘してきする。すなわち感情かんじょうはたらかせる仕事しごとが、看護かんご本人ほんにん福利ふくりおよぼす影響えいきょうしについて、両者りょうしゃせい反対はんたい結論けつろんみちびいているというのである。有馬ありまによれば、この差異さいは、両者りょうしゃもちいている概念がいねん──「感情かんじょう労働ろうどう」と「ケア倫理りんり」──のちがいに由来ゆらいする。
 このように有馬ありま論文ろんぶんは、とりわけ社会しゃかいがく倫理りんりがくとの接点せってん学問がくもんじょうのテクニカルな関心かんしんをもつ読者どくしゃや、また看護かんご地位ちい向上こうじょうといった現実げんじつてきうったえの背景はいけいにある論理ろんり関心かんしんのある読者どくしゃに、有用ゆうよう視座しざあたえてくれるものである。
 ところで、そもそも感情かんじょう倫理りんりはいかなる関係かんけいにあるのだろうか。崎山さきやま論文ろんぶんにも言及げんきゅうがあるボルトンが区分くぶんしているように、感情かんじょう管理かんりは「慈悲じひてき」な側面そくめんを(も)もつが、そのさいそれは他者たしゃへの共感きょうかんとも)を前提ぜんていとしている。我々われわれ他者たしゃくるしみに同調どうちょうし、緩和かんわするためにみずからの感情かんじょう統御とうぎょすることがある。しかし、いったいそれはいかなるせいによるのか。まずこうした疑問ぎもんがある。他方たほうで、現代げんだいは「感情かんじょう時代じだい」である。そこでは、他者たしゃくるしみをあたまで「理解りかい」するよりも、感情かんじょうによってそのくるしみに共振きょうしんすることに価値かちかれる。とすれば、倫理りんりは──伝統でんとうてき倫理りんりがくかんがえてきたのとはことなって──理性りせいよりも感情かんじょうと、より内在ないざいてき関係かんけいにあるのか。その真偽しんぎ是非ぜひはともかく、いずれにせよ「我々われわれ」のリアリティがそこにあるということは現代げんだい社会しゃかいがくてき事実じじつである。以上いじょうのような疑問ぎもん事実じじつ起点きてんとしつつかれたのが安部あべ論文ろんぶんである。
 その意義いぎひとえに、感情かんじょう倫理りんりという主題しゅだいにかんして、主流しゅりゅう位置いちをしめる進化しんか倫理りんりがくとはことなる視座しざからその問題もんだいせまることである。すなわち感情かんじょう倫理りんり関係かんけいをめぐる、いわばオルタナティブ・ストーリーとしてのローティの基礎きそづけ主義しゅぎてきアプローチと、そのさき追究ついきゅうする佐藤さとう現象げんしょうがくてきアプローチの簡にしてようをえた紹介しょうかいこころみたことである。そのこころみの帰結きけつについては、どう論文ろんぶんの「むすびにかえて」を参照さんしょうしてほしい。また、ローティや佐藤さとう議論ぎろん興味きょうみをもたれたほうなによりも原著げんちょにあたっていただければとおもう。ここでは最後さいごに、この論文ろんぶんきながらなん反芻はんすうした編者へんしゃ安部あべ)のいをきつけておきたい。
 一方いっぽうに、しいたげられてきたものいたみやいかりがある。他方たほうに、しいたげてきたものいかりやいたみがある。我々われわれはこれらそれぞれの感情かんじょうが「わかる」。このほかにも、いろんな感情かんじょうが「わかる」。いや、「わかったになる」。だが、この「わかる/わかったになる」ということがいかなることであるのかについては、よくわかっていないとおもう。もちろんわたしには(も)わからない。そのうえで、けれども/だからこそいをはっしておく。たしてそれはいまだ分明ぶんめい客観きゃっかんてき事実じじつ人間にんげん本性ほんしょうざしたことがら、つまりさらなる探究たんきゅうによって闡明せんめいされるものなのだろうか。それとも、「わかりたい」という、我々われわれ他者たしゃへとけるしん志向しこうせい余剰よじょうがもたらす錯覚さっかくにすぎないのだろうか。ローティがいうように、連帯れんたいは──事実じじつとして──「発見はっけん」されるのだろうか、あるいは「創造そうぞう」されるのだろうか。やはりよくわからない。ただ、にもかかわらず/だからこそ、この問題もんだい依然いぜんかんがえられるべきものとしてあるとだけはいえるとおもう。我々われわれはときにたん独行どっこうとして、ときにことなるがくとの交流こうりゅうながら、さらに思考しこうべていかねばならないことだけはうたがいない。
 最後さいごに、大谷おおやいづみにより提起ていきされた重要じゅうよう論点ろんてんについてれておきたい。まず銘記めいきされてよいのは、大谷おおやによる問題もんだい提起ていきによって、スミスが『感情かんじょう労働ろうどうとしての看護かんご』を執筆しっぴつした当時とうじ社会しゃかい医療いりょう状況じょうきょうと、同書どうしょの(しんの)ねらいがあきらかになったことである。編者へんしゃらは、じつ編集へんしゅう過程かていでその事実じじつづいたが、それによって『感情かんじょう労働ろうどうとしての看護かんご』のあらたなる/べつなるみがひらかれたと確信かくしんする。また、大谷おおやによる「ターミナルケアの/というかたりの政治せいじせい」についての問題もんだい提起ていきは、今日きょうきわめてアクチュアルな論点ろんてんであるといってよい。ふつう生死せいしをめぐる価値かちかんごく私的してきなものとかんがえられているが、それさえその個人こじんきている社会しゃかいいだ価値かちかん影響えいきょうにある。このように「尊厳そんげん」や「安楽あんらく」は、社会しゃかいがくてき視座しざのもとであらためて再考さいこうされねばならない重要じゅうよう問題もんだいだからである。編者へんしゃらもその問題もんだい意識いしき共有きょうゆうしつつ共同きょうどう研究けんきゅうすすめており、その成果せいか一部いちぶはすでにうている(堀田ほった義太郎よしたろう有馬ありまひとし安部あべあきら的場まとば和子かずこ英国えいこくレスリー・バーグ裁判さいばんからまなべること──生命せいめい医療いりょう倫理りんりしょ原則げんそくさい検討けんとう」、生存せいぞんがく vol.1』生活せいかつ書院しょいん)。今後こんごはさらに、「自殺じさつ幇助ほうじょほう」「緩和かんわケアほう」をめぐるかれ動向どうこう追尾ついびしつつ、イギリスの尊厳そんげん安楽あんらくをめぐる現実げんじつ言説げんせつ精査せいさ検討けんとう継続けいぞくされる。興味きょうみのある読者どくしゃにはそちらの仕事しごとにもぜひ注目ちゅうもくしてほしいが、現状げんじょうにおいてこの論点ろんてんについては、大谷おおやによる一連いちれん著作ちょさくとともに、立岩たていわしん筑摩書房ちくましょぼう、2009ねん)が格好かっこう手引てびきとなろう。

 以上いじょう論点ろんてんは、「ケアと感情かんじょう労働ろうどう」について思考しこう研究けんきゅうする人々ひとびとのみならず、ことなる身体しんたいせい様式ようしき技法ぎほう精査せいさことなるがく相互そうご交流こうりゅうによって触発しょくはつされた知見ちけん視角しかくのもとに「もうひとつの」社会しゃかい構想こうそうせんとする、我々われわれ生存せいぞんがく」のメンバーにとっても看過かんかできない課題かだいである。じっさい編者へんしゃらが主催しゅさいしているケア研究けんきゅうかいでも、メンバーが独自どくじに、あるいは共同きょうどう研究けんきゅうをつうじて、その課題かだいんでいる。その旺盛おうせいでバラエティにんだ活動かつどう内容ないようについてはhttp://www.arsvi.com/o/c05.htm。また、整備せいびであるが今後こんご充実じゅうじつする「ケア」http://www.arsvi.com/d/c04.htm、「感情かんじょう感情かんじょう社会しゃかいがくhttp://www.arsvi.com/d/e01.htmのページもあわせて参照さんしょうしてほしい。今後こんごは、研究けんきゅうかいでの「集積しゅうせき考究こうきゅう」をもとに、「ケア」や「感情かんじょう労働ろうどう)」をめぐる研究けんきゅう動向どうこうレビューの作成さくせいや、それらをろんじるあらたな視座しざ提起ていきもおこなっていく予定よていである。なお、どう研究けんきゅうかいはすべてのまなひとたちにひらかれている。上記じょうきホームページ、またはほん冊子さっしをつうじて興味きょうみをもたれたほうがあれば気兼きがねなくご参加さんかください。歓迎かんげいします。

 最後さいごに、私事しじながら謝辞しゃじべさせていただくことをおゆるしいただきたい。ほん冊子さっししんみのおやともいうべき方々かたがたへ。
 パム・スミス先生せんせいとヘレン・カウイ先生せんせいは、日々ひびのご多忙たぼうをぬって、研究けんきゅう交流こうりゅう企画きかくでの我々われわれのコメントと質疑しつぎにたいする応答おうとう論文ろんぶんをわざわざおせくださった。かかる僥倖ぎょうこうによって、ほん冊子さっしいろどりがさらにゆたかになったことはもとより、おおくの読者どくしゃにとってもこのうえないプレゼントになったとおもいます。ありがとうございました。
 大谷おおやいづみ先生せんせい三井みついさよ先生せんせいには、研究けんきゅう交流こうりゅうかい記録きろく収録しゅうろくをご快諾かいだくいただきました。編集へんしゅう過程かていであらためてかえしてみるに、おにんからはとても啓発けいはつてき問題もんだい提起ていきがなされていて、かんがえさせられました。編者へんしゃらの今後こんご研究けんきゅう課題かだいとさせていただきたくぞんじます。ありがとうございました。
 グローバルCOEプログラム「生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてんリーダーである立岩たていわしん先生せんせいには、いわばこの冊子さっしのもとになる、そのおおもとの機会きかいあたえていただきました。そのご厚恩こうおんとごがくおんはもとより本件ほんけんだけにかぎりようがないのですが、ありがとうございました。
 「生存せいぞんがく」プロジェクトマネージャーの片岡かたおかみのるさんには日々ひび編者へんしゃら「生存せいぞんがく」のポストドクトラルフェローのみならず、先端せんたんけん院生いんせい陰日向かげひなた大変たいへん世話せわになっております。そのご厚恩こうおんはこの冊子さっしにおいても例外れいがいではありません。編者へんしゃらは、片岡かたおかさんにつね日頃ひごろから、しの研究けんきゅうしゃとしてその成果せいか果敢かかんうようつよすすめていただいております。そのようなおしえのもとつちかわれたレディネスがあればこそ、どちらかといえば世事せじうと編者へんしゃらも、このたびのおはなし躊躇ちゅうちょなくおけすることができました。ありがとうございました。
 いうなればヒュレーとしてのたんなる文字もじ活字かつじというエイドスにこうして転変てんぺんするには、またべつの、けれども決定的けっていてき作業さぎょう必要ひつようです。だからほん冊子さっし仕上しあげてくださった方々かたがたにも謝意しゃいあらわさせていただきます。生活せいかつ書院しょいん高橋たかはしあつしさん、そしてほん冊子さっし担当たんとうしてくださった「生存せいぞんがく事務じむきょく佐山さやま佳世子かよこさん、どう事務じむきょくあらほり弓子ゆみこさん、植田うえだ香織かおりさん。このたびは(も)大変たいへん世話せわになりました。ありがとうございました。さらに、ほん冊子さっしのもとになったのは国際こくさい研究けんきゅう交流こうりゅう企画きかくのテープこしの原稿げんこうであったが、その英語えいご部分ぶぶん校正こうせいをローラ・シャオさんにおねがいした。口語こうご調子ちょうしのこしながらも、みやすい文章ぶんしょうになるよう丁寧ていねいにチェックしてくれたこと、感謝かんしゃしています。
 末筆まっぴつながら、天田あまだしろかい先生せんせい崎山さきやま治男はるお先生せんせいには、ほん企画きかくでのコメントや寄稿きこうのみならず、ほん冊子さっし編者へんしゃつとめる機会きかいまであたえていただきました。また編集へんしゅう作業さぎょうにおいても、文字もじどおり手取てど足取あしどり、おおくをご教示きょうしいただきました。りょう先生せんせいのご厚恩こうおんとごがくおんもまた、いまにはじまったことではないのですが、あらためてしるして深謝しんしゃいたします。ありがとうございました。

 こうしたいろんな方々かたがたとのるいまれなる出会であいとおおいなる助力じょりょくのもとに、この冊子さっしりました。この幸運こううんなる偶然ぐうぜん結晶けっしょうが、なるべくおおくのみなさんのご関心かんしん喚起かんきたすことにささやかながらでもするところがあれば、編者へんしゃとしては、なんていうか、最高さいこうです。

2009ねん2がつ
安部あべあきら×有馬ありまひとし

安部あべ あきら有馬ありま ひとし 20090319 「あとがき」 安部あべ あきら有馬ありま ひとし 『ケアと感情かんじょう労働ろうどう――ことなるがく交流こうりゅうからかんがえる』立命館大学りつめいかんだいがく生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター,生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター報告ほうこく8,pp.238-248.



UP:20090911 REV:
ケア研究けんきゅうかい  ◇ケア  ◇感情かんじょう感情かんじょう社会しゃかいがく  ◇生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん刊行かんこうぶつ  ◇テキストデータ入手にゅうしゅ可能かのうほん  ◇身体しんたい×世界せかい関連かんれん書籍しょせき 2005-  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)