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ケア

Care / Ethics of Care

last update:20160529


ケア研究けんきゅうかい

■ このページは、「ケア(care)」についての諸々もろもろ情報じょうほう集積しゅうせきしています
うえ事項じこうめいしたにある西暦せいれきのリンクさきには、そのとしにあった/ある「ケア(care)」に関連かんれんする出来事できごと/イベント、文献ぶんけん記事きじとう掲載けいさいされています
ほんページ内容ないよう概略がいりゃく以下いかとおりです
・「ケア(care)」についての論及ろんきゅう
…「ケア(care)」についての論及ろんきゅう抜粋ばっすいしたもの。ジョンソン、メイヤロフ、バベック、トロント、佐藤さとう義之よしゆき品川しながわ哲彦てつひこ上野うえの千鶴子ちづことう
・「ケア(care)」関連かんれん項目こうもくにん
生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてんないHPにある関連かんれんする事項じこうにんへのリンクしゅう
・「ケア(care)」関連かんれん邦文ほうぶん
日本語にほんご文献ぶんけん参考さんこう文献ぶんけんひょう(生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてんHPない紹介しょうかいファイルがあるものにはリンクがってあります)。関連かんれんする記事きじ文章ぶんしょうなどの掲載けいさいもあります。
・「ケア(care)」関連かんれん欧文おうぶん
外国がいこく文献ぶんけん参考さんこう文献ぶんけんひょう(生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてんHPない紹介しょうかいファイルがあるものにはリンクがってあります)。関連かんれんする記事きじ文章ぶんしょうなどの掲載けいさいもあります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Ethics_of_care

生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター関係かんけいしゃによる文章ぶんしょう

安積あさか 純子じゅんこ尾中おちゅう ぶん哉・岡原おかはら 正幸まさゆき立岩たていわ しん也 20121225 なま技法ぎほう――いえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく だいはん生活せいかつ書院しょいん文庫ぶんこばん,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 [amazon][kinokuniya] ※
立岩たていわ しん也・堀田ほった 義太郎よしたろう 20120610 差異さい平等びょうどう――障害しょうがいとケア/有償ゆうしょう無償むしょう青土おうづちしゃ,342+17p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02, f04
安部あべ あきら,2011/03/**,「ケアにおける承認しょうにん問題もんだい――パターナリズムと「安楽あんらく」をめぐって」,現代げんだい社会しゃかい学理がくりろん研究けんきゅう』5: 30-42. [pdf]
安部あべ あきら 2010/05/16   だい36かい日本にっぽん保健ほけん医療いりょう社会しゃかい学会がっかい 理事りじかい企画きかく 若手わかてテーマセッション
「ケアの最前線さいぜんせん――アポリアとコンフリクトの諸相しょそう」  
堀田ほった 義太郎よしたろう 2010/05/16 だい36かい日本にっぽん保健ほけん医療いりょう社会しゃかい学会がっかい 発表はっぴょう要旨ようし
障害しょうがいしゃ運動うんどう介助かいじょ社会しゃかいろん
有馬ありま ひとし 2010/05/16 だい36かい日本にっぽん保健ほけん医療いりょう社会しゃかい学会がっかい  発表はっぴょう要旨ようし
感情かんじょう労働ろうどうとく
大谷おおや とおるだか 2010/05/16 だい36かい日本にっぽん保健ほけん医療いりょう社会しゃかい学会がっかい  発表はっぴょう要旨ようし
対人たいじん支援しえんにおける消極しょうきょくてき意義いぎ積極せっきょくてき意義いぎ考察こうさつ――犯罪はんざい被害ひがいしゃ対人たいじん支援しえん検討けんとうから」
片山かたやま とも 2010/05/16 だい36かい日本にっぽん保健ほけん医療いりょう社会しゃかい学会がっかい  発表はっぴょう要旨ようし
養育よういく関係かんけいない文化ぶんか主義しゅぎ――身体しんたい状況じょうきょう差異さいによるコンフリクト,たたまれたポリティクス」
安部あべ あきら堀田ほった 義太郎よしたろう へん 20100226 『ケアと/の倫理りんり立命館大学りつめいかんだいがく生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター,生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター報告ほうこく11, 258p. ISSN 1882-6539 ※
立岩たていわ しん也 2008/09/05 筑摩書房ちくましょぼう,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,
立岩たていわ しん也 2006/03/00「「仕方しかたのなさ」について・2――・8」,『Webうぇぶちくま』
立岩たていわ しん也 20001023 よわくある自由じゆうへ――自己じこ決定けってい介護かいご生死せいし技術ぎじゅつ青土おうづちしゃ,357+25p. ISBN:4791758528 2940 [amazon][kinokuniya] ※
安積あさか 純子じゅんこ尾中おちゅう ぶん哉・岡原おかはら 正幸まさゆき立岩たていわ しん也 19950515 なま技法ぎほう――いえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく 増補ぞうほ改訂かいていばん藤原ふじわら書店しょてん,366p.,ISBN:489434016X 2900+ [amazon][kinokuniya] ※ ds.
安積あさか 純子じゅんこ尾中おちゅう ぶん哉・岡原おかはら 正幸まさゆき立岩たていわ しん也 1990 『なま技法ぎほう――いえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく』、藤原ふじわら書店しょてん→1995 増補ぞうほ改訂かいていばん藤原ふじわら書店しょてん

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■ 「ケア(care)」についてのいくつかの論及ろんきゅう

・ジョンソン
・メイヤロフ
・バベック
・トロント
佐藤さとう義之よしゆき
品川しながわ哲彦てつひこ
  ・20040310「正義せいぎさかいせっするもの―責任せきにんという原理げんりとケアの倫理りんり」『平成へいせい15年度ねんど関西大学かんさいだいがく重点じゅうてん領域りょういき研究けんきゅう 現代げんだい倫理りんりてき課題かだい対処たいしょしうる規範きはんがく構築こうちく
   「ケアの倫理りんり共同きょうどうたい主義しゅぎとく倫理りんりことなる」
   「ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんり統合とうごう不可能ふかのうせい補完ほかん可能かのうせい異質いしつせい
   「ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんり相互そうご補完ほかんせい
  ・200201「〈ケアの倫理りんりこういち)〉」,『関西大学かんさいだいがく 文学ぶんがく論集ろんしゅう
   「1 主題しゅだい説明せつめい
   「2 ケアと正義せいぎの「統合とうごう論争ろんそう
  ・200403「〈ケアの倫理りんりこう)〉―ノディングスの倫理りんりてき自己じこ観念かんねん」,『関西大学かんさいだいがく文学ぶんがく論集ろんしゅう
   「1. ケアの倫理りんり他者たしゃ志向しこう自己じこ志向しこうか」
   「2. ノディングスの倫理りんりてき自己じこ観念かんねん位置いちづけ」
   「3. ノディングスのケアリングの理論りろん
   「4. 正義せいぎかかわるいは正義せいぎなしでこたえうるか」
   「5. 結語けつご
立岩たていわしんべつぺーじ
上野うえの千鶴子ちづこ
   「ケアをかたることの理由りゆう意義いぎ
   「ケアとはなにか」
   「ケアの定義ていぎ
   「ケアワークとはなにか」
   「ケアの概念がいねん
   「ケアへの人権じんけんアプローチ」
   「ケアへの規範きはんてきアプローチ批判ひはん
   「メイヤロフの「ケアの本質ほんしつろん」への批判ひはん
   「ケアの社会しゃかいがく


■ ジョンソン(※西谷にしたに[2006]を参考さんこうさい構成こうせい訳文やくぶん西谷にしたに。)

 ケアとはキリスト教きりすときょうてき隣人りんじんあい一種いっしゅなのか。ケアをあい一種いっしゅととらえ、「ケア‐あい」をろんじるジョンソンは、ケアは隣人りんじんあいよりも包括ほうかつてき概念がいねんである、と指摘してきする。隣人りんじんあいは、無私むし差別さべつてきであることによって普遍ふへんてきあいとなるのが、ジョンソンによれば、それは「自己じこ犠牲ぎせいてき普遍ふへんてきで、公平こうへいであることに徹底てっていするまったくの理想りそうである」。ひるがえって、「ケア‐あい」は、「あいされるものの福祉ふくしwellbeingを包含ほうがんするものであり、その目標もくひょうはただただその対象たいしょうぜんのみである」。かくて「ケア‐あい」の対象たいしょうは、人間にんげんのみならず、動物どうぶつ植物しょくぶつ無生物むせいぶつ所有しょゆうぶつ主義しゅぎ主張しゅちょう)にまでおよぶとされる。また、「効果こうかてきなケア‐あいは、それの対象たいしょうからのある程度ていど距離きょりないし分離ぶんり前提ぜんていしている。なぜならくケアするためには、あい対象たいしょうだれであり、なにであるべきかを明確めいかく把握はあくし、なにがそれの福利ふくり寄与きよするかを見極みきわめねばならないからである」といわれる。これはあるべきケアについてろんじたものであって、もちろん現実げんじつのケアがすべてそうであるとはかぎらない。ケアがうまくいかないこともあれば、不注意ふちゅういなケアもあるだろう。だがこうしたとき、すなわちケアがケアの対象たいしょう福利ふくり寄与きよせず、かえってがいになることがあるにしても、ケアするひと/あいするひとは、そのあいする対象たいしょうぜんはかっているならば、やはりケアしていることになる。ここに成果せいかのないケアをみとめないメイヤロフ、あるいは大勢おおぜいと、ジョンソンとの相違そういがある。

「ケア‐あいは、あいされるものの福祉ふくし(wellbeing)を包含ほうがんするものであり、その目標もくひょうはただただその対象たいしょうぜんのみである。」(Johnson[2001: 24, 30, 41])


■ メイヤロフ(※西谷にしたに[2006]を参考さんこうさい構成こうせい訳文やくぶん西谷にしたに。)

 メイヤロフによれば、「他者たしゃをケアするとは、そのもっともふか意味いみにおいて、そのひとの成長せいちょう自己じこ実現じつげんたすけることである」。メイヤロフの特徴とくちょうはまず、ケアの成果せいか、あるいはケアされるものよりも、ケアするがわ態度たいど行動こうどう考察こうさつしようとしたてんにある。ケアは対称たいしょうてきではない関係かんけいなので、どうしてもケアするがわ態度たいど問題もんだいにならざるをえない、とかんがえる。また、他者たしゃ限定げんていされず、ひとのした思想しそう理想りそう共同きょうどうたいもケアの対象たいしょうふくまれる。具体ぐたいてきなひとをケアすることと、かれ彼女かのじょによってされたものをケアすることのあいだにはたしかに重大じゅうだい相違そういがあるが、他者たしゃ成長せいちょうするのをたすけることには共通きょうつうのパターンがあるとかんがえるのである。ここでは、ケアされる対象たいしょう成長せいちょうするのは価値かちあることであり、それを必要ひつようとしていることがケアの問題もんだい前提ぜんていとなっているといえよう。メイヤロフはまた、ケアにおいて他者たしゃは、わたし延長えんちょうとして、しかし独立どくりつした存在そんざいであり、成長せいちょうする必要ひつようをもったものとして経験けいけんされるとする。すなわち他者たしゃはあくまでも他者たしゃなのだが、ケアをつうじて自己じこ密接みっせつむすびつく。かくて、ひとはケアをつうじて他者たしゃ成長せいちょう自己じこ実現じつげん専心せんしんする。他者たしゃ成長せいちょうたすけるようにケアすることは、他者たしゃ必要ひつようおうじることであると同時どうじに、ケアするひと自身じしん幸福こうふくともむすびついているからである。

■ ノディングス


■ バベック(※西谷にしたに[2006]をもとにさい構成こうせい訳文やくぶん西谷にしたに。)

 バベックは〈ケアではない活動かつどう〉と区別くべつすることで、ケアに厳密げんみつ定義ていぎあたえようとする。たとえば、ひとが健康けんこうでそれをおこなう身体しんたい能力のうりょくがあるのであれば原則げんそくとして自分じぶんでできることが―できるにもかかわらず―、必要ひつようとされることがある。バベックによれば、そうしたことを他者たしゃがおこなうのはケアではなく、サービスである。また、社会しゃかいてき要因よういんによってしょうじた必要ひつようで、社会しゃかいてき分業ぶんぎょう専門せんもんのためにその必要ひつよう自分じぶんではたすことができないことがある。この場合ばあいでも、技術ぎじゅつならうとか、職業しょくぎょうえるとかすればその必要ひつようたされうるし、たとえそうでなくても社会しゃかいてき相互そうご依存いぞんにもとづく社会しゃかいてき必要ひつようについてケアはかかわらない。ケアがかかわるのは、人間にんげんとして必要ひつようで、しかし自分じぶんではできないので他者たしゃ依存いぞんしなければならないような必要ひつようごとである。またケアは、あい友情ゆうじょうおもいやりの表現ひょうげんである行動こうどうとは区別くべつされる。たとえば、はたらつかれて帰宅きたくしたおっとにおちゃすのはケアであろうか、あい表現ひょうげんであろうか。それがケアであるのは、そのおちゃおっと必要ひつようとしており、自分じぶんではその必要ひつようたすことができない場合ばあいかぎられる。またおな行為こういはケアであるともサービスであるともみられることがあるだろう。かくてバベックにおいては、ケアはこのように「機能きのうてき定義ていぎ」される。

「ケアすることとは、あるひとが必要ひつようとしていることがしゃによって対処たいしょされることである。そのさいケアするものとケアされるものとの直接的ちょくせつてき相互そうご作用さよう活動かつどう全体ぜんたいにとって決定的けっていてきである。またそこで必要ひつようとされることは、必要ひつようとしているそのひとじしんによってはどうしてもたしえないものである。」(Bubeck[1995: 129])


■ トロント(※訳文やくぶん西谷にしたに[2006]にった)

 「ケアとは、世界せかいのなかでできるだけよくきることができるように、それを維持いじ継続けいぞく修復しゅうふくするために我々われわれがなすあらゆることをふくむ一種いっしゅ活動かつどうである。」(Tronto[1993:103])


佐藤さとう義之よしゆき

 このケアの倫理りんりがくもレヴィナスとおながおという事象じしょう中心ちゅうしんてきなテーマにえていると理解りかいできる。レヴィナスと思想しそうてき背景はいけいはかなり異質いしつだが、おな事象じしょうあつかっている以上いじょうすくなくとも事象じしょうてき分析ぶんせき参考さんこうになるはずである。むろん、ことなった思想しそうてき背景はいけいをもつということには細心さいしん注意ちゅういはらわねばならないが……。/なお、ケア倫理りんりがく援用えんよう物語ものがたりてき論理ろんりやくつだけではない。完全かんぜん受動じゅどうせいというような、レヴィナスにおいて障害しょうがいとなっていた主張しゅちょうにとらわれない立場たちばから、べつ方向ほうこうせい見出みだせないか、示唆しさがえられるかもしれない。おながおという事象じしょうあつかっているので、能動のうどうせい許容きょようし、かお命令めいれい解釈かいしゃく必要ひつようとするかお倫理りんりかんがえるうえで、とく参考さんこうにできるのではないかという期待きたいをもつことができる。 (佐藤さとう[2004: 96-97])


品川しながわ哲彦てつひこ

 ◆20040310「正義せいぎさかいせっするもの―責任せきにんという原理げんりとケアの倫理りんり」『平成へいせい15年度ねんど関西大学かんさいだいがく重点じゅうてん領域りょういき研究けんきゅう 現代げんだい倫理りんりてき課題かだい対処たいしょしうる規範きはんがく構築こうちく』: 116-129

 ケアの倫理りんり共同きょうどうたい主義しゅぎとく倫理りんりことなる
 ケアの倫理りんり注目ちゅうもくされるのは、心理しんりがく発達はったつ理論りろんとしてだけではない。倫理りんりがくからみると、アネット・ベイアーのことばをりれば、ケアの倫理りんり近代きんだい正統せいとうてき倫理りんり理論りろんたいする異議いぎもうてだからだ。ここにいう正統せいとうてき倫理りんり理論りろんには、社会しゃかい契約けいやくろん、カントの義務ぎむ倫理りんりがく功利こうり主義しゅぎ、ロールズの正義せいぎろんぞくしている。義務ぎむ倫理りんりがく功利こうり主義しゅぎのように対比たいひされることのおおいこれらの思想しそうは、しかし、類似るいじ状況じょうきょう類似るいじ立場たちばのひとを一律いちりつ公平こうへいにあつかう正義せいぎ原理げんり立脚りっきゃくしているてん共有きょうゆうしている。…/とすれば、これに批判ひはんてき立場たちばとしてはすぐさま、80年代ねんだい以降いこう自由じゆう主義しゅぎ対立たいりつしている共同きょうどうたい主義しゅぎとく倫理りんり(virtue ethics)が連想れんそうされます。それでは、ケアの倫理りんり共同きょうどうたい主義しゅぎとく倫理りんりしたしい関係かんけいにあるといえるのか。たしかに、ケアの倫理りんり主張しゅちょうするケア、関係かんけい強調きょうちょうは、共同きょうどうたい主義しゅぎとく倫理りんり基礎きそ概念がいねんである友愛ゆうあいかさなるめんがある。しかし、ケアの倫理りんり共同きょうどうたい主義しゅぎとく倫理りんりのなかに包摂ほうせつしきることはできないとおもわれる。なぜなら、共同きょうどうたい主義しゅぎ共同きょうどう体内たいない共有きょうゆうされた価値かちかんとく倫理りんり社会しゃかいてき役割やくわりむすびつきやすい美徳びとく強調きょうちょうするのにたいして、ケアの倫理りんり特定とくてい内容ないよう価値かちかん社会しゃかいてき役割やくわりかかわりなく、ただ、きずつきやすい、たすけを必要ひつようとする人間にんげんかん立脚りっきゃくしてケアの必要ひつようせいいているからだ。いつ、見知みしらぬ他人たにんがケアすべき対象たいしょうとしていつでもあらわれてくる可能かのうせいいたノディングスや、特定とくてい役割やくわり執行しっこう意識いしきしすぎるとケアする感受性かんじゅせいなまることを指摘してきしたベナーは、とく倫理りんりとケアの倫理りんり区別くべつ示唆しさしている。 (品川しながわ[2004: 125-126])

 ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんり統合とうごう不可能ふかのうせい補完ほかん可能かのうせい異質いしつせい
 ケアの倫理りんりをめぐっては、ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんりとが統合とうごうできるかどうかがわれてきた。ケアの倫理りんりのいう成熟せいじゅくした人間にんげんは、だれもがだれかにケアされていることを理想りそうとする。これは、一見いっけん、すべてのひとがひとしくあつかわれるべしとする正義せいぎ倫理りんりおな結論けつろんたっしているかにみえる。正義せいぎ倫理りんりにもとづいてすべての人間にんげんしん尊重そんちょうされている事態じたいとケアのネットワークがあますところなくすべての人間にんげん網羅もうらしている事態じたいとは、たしかに、かさなりう。しかし、それは、正義せいぎとケアが同時どうじはたらいていることを意味いみしているにすぎない。……これにたいして、正義せいぎ倫理りんりとケアの倫理りんり統合とうごうできるかという問題もんだいは、倫理りんり根底こんてい身近みぢか他者たしゃづかう気持きもちなのか、それとも、身近みぢかであるかかにかかわりなく、一律いちりつ原理げんりひとしく適用てきようすることなのか、という基礎きそづけの問題もんだいである。正義せいぎとケアのどちらを倫理りんり基礎きそとしてえらぶかというてんでは、両者りょうしゃ統合とうごうできない。/それでは、ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんりたいしてどのような意味いみをもっているのか。/どのひとの意見いけんにもみみかたむけるべきであること、いわれなきくるしみにおちいっているひとを手助てだすけすべきこと、これは正義せいぎ倫理りんり要請ようせいすることである。しかし、げんのまえにいるひとがこまっていることにづくこと、こちらの手助てだすけがあればそのひとの状況じょうきょう改善かいぜんできることにづくことは、正義せいぎをわきまえているだけではらない。まえ状況じょうきょう敏感びんかんかん態度たいどづかい、ケアをようする。…たんに一律いちりつ平等びょうどう権利けんりみとめるだけでは、この平等びょうどう現実げんじつ差異さい隠蔽いんぺいして、結果けっかてき弱者じゃくしゃたいする不正ふせいともなりかねない。ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんりだけでは見過みすごされうるこうした正義せいぎづき、排除はいじょするてん正義せいぎ倫理りんり補完ほかんするわけである。しかし、それだけではなく、ケアの倫理りんりは、くるしんでいるひとをづかうというその精神せいしんから、場合ばあいによっては、社会しゃかいのなかでっている既存きそん正義せいぎ観点かんてんからすれば、尊重そんちょうすべき存在そんざい範疇はんちゅうからはずれている存在そんざい(たとえば、犯罪はんざいしゃ敵国てきこく人間にんげんなど)へのケアをも要請ようせいする。この意味いみでは、ケアの倫理りんりはたんに正義せいぎ補完ほかんするだけでなく、正義せいぎ適用てきよう範囲はんいえて適用てきようされる異質いしつ原理げんりだといえよう。 (品川しながわ[2004: 126-127])

 ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんり相互そうご補完ほかんせい
 しかし、正義せいぎさかいせっするものは、畢竟ひっきょう正義まさよしたいしててき原理げんりにとどまるのではないか。/このてんかんがえるには、責任せきにん原理げんり、あるいはまたケアの倫理りんり正義せいぎ原理げんり一切いっさいりずにちうるかについてかんがえればよい。……/ケアするひとが他人たにんをケアするあまり消耗しょうもうしてしまう危険きけんはたやすく予想よそうできる。したがって、ケアの倫理りんりは、本人ほんにん本人ほんにん自身じしんをケアできることを前提ぜんてい条件じょうけんとしている。自分じぶん自身じしんたいするケアは、ギリガンがいみじくもいったように、「自分じぶんたいしてただしい(right)」ことなのである。/ヨナスの責任せきにん原理げんりでも、ケアの倫理りんりでも、責任せきにんかんじるか、ケアをしなくてならないとかんじるかは、その本人ほんにん事態じたいたいする敏感びんかんさ、洞察どうさつにかかっている。それでは、責任せきにんかんじるべきところで責任せきにんかんじなかったらどうするか、また、責任せきにん放棄ほうきしたらどうするか。あるいは、ケアすべき相手あいてたいしてケアの必要ひつようせいかんじなかったらどうするか、また、ケアを放棄ほうきしたらどうするか。むろん、かならずそこにはなんらかのサンクションが要請ようせいされねばならない。しかし、責任せきにん原理げんりでも、ケアの倫理りんりでも、そのサンクションは第三者だいさんしゃによる裁定さいていというかたちではかたられていない。ヨナスでは、さけぶみどり世話せわしなくてはならないという状況じょうきょう責任せきにん原型げんけいであり、無視むしされたさけびは無視むしした人間にんげんをさいなむであろうが、さばきはしない。ノディングスでは、ケアをひきうけるかかの判断はんだん本人ほんにん自身じしん倫理りんりてき自己じこへのケアにかかっている。こうしたてんで、正義せいぎ観点かんてん導入どうにゅうしないで責任せきにん原理げんりやケアの倫理りんりかたるとき、いずれも実効じっこうてき拘束こうそくりょくとぼしい倫理りんりにみえてくる。/しかし、ぎゃくに、ケアなき正義せいぎは、たとえば、のまえの正義せいぎ正義せいぎとして感受かんじゅできない事態じたいのように、正義せいぎおよぶべきところで実質じっしつてき正義せいぎ機能きのうしないことを意味いみしている。また、責任せきにん原理げんり倫理りんりてき尊重そんちょうされる範囲はんいそとへのまなざしをもったものであるとすれば、責任せきにん原理げんりは、さしあたりみとめられている正義せいぎ妥当だとう範囲はんい外側そとがわ顧慮こりょすることでその正義せいぎ全体ぜんたいとして正義せいぎおちいらないことを監視かんししている原理げんりだといえる。その意味いみで、両者りょうしゃはたんに正義せいぎ付加ふかされて正義せいぎ補完ほかんするというだけでなく、正義せいぎもまた両者りょうしゃなしには存立そんりつしえないという意味いみしん相互そうご補完ほかんてき関係かんけいにあるといわなくてはならない。 (品川しながわ[2004: 127-128])


◆200201「〈ケアの倫理りんりこういち)〉」,『関西大学かんさいだいがく 文学ぶんがく論集ろんしゅう』51-3:1-24
1)本文ほんぶんからの引用いんようぺーじすうは( )にてしめ
2)ノディングスからの引用いんようのみ原典げんてん参照さんしょうし、適宜てきぎ訳文やくぶん変更へんこうした

1 主題しゅだい説明せつめい
1・1ケアの倫理りんりとはなに

一般いっぱんに、男性だんせい状況じょうきょう抽象ちゅうしょうし、類似るいじ状況じょうきょう普遍ふへんてき妥当だとうする法則ほうそく同等どうとう資格しかくをもっている全員ぜんいんひとしくあつかう正義せいぎにもとづいて、自他じたのあいだにしょうじる葛藤かっとう解決かいけつしようとする傾向けいこうにある。一方いっぽう女性じょせいは、目下もっか状況じょうきょうこまかな脈絡みゃくらく当事とうじしゃそれぞれの事情じじょう、ひとりひとりの必要ひつようづかうことで葛藤かっとう除去じょきょしようとする傾向けいこうにある(2)

 ギリガンによれば、主要しゅよう発達はったつ理論りろんはこれまで自我じが成長せいちょうを「他人たにん(とくに母親ははおや)からの分離ぶんり個別こべつ進展しんてん」によってはかってきた。しかし、この発達はったつモデルは男性だんせいにこそよく適合てきごうするものであり、したがって「性別せいべつえた人間にんげん一般いっぱん発達はったつモデルなどはない」。ディレンマを仮設かせつ二者択一にしゃたくいつせまるテスト。そこでは、かかる性差せいさによるちがいが顕著けんちょ反映はんえいされている。たとえば競争きょうそうった場合ばあい女性じょせい男性だんせいして葛藤かっとうかんじやすい。男性だんせい問題もんだいを「能力のうりょく」とそれにおうじた処遇しょぐうにしぼりこむことで勝者しょうしゃをすんなりゆうしゃみかえる傾向けいこうにある。他方たほう女性じょせいは、勝敗しょうはいによって自他じた懸隔けんかくあきらかになることによって、人間にんげん関係かんけい破綻はたんすることのほうをおそれる。
発達はったつ心理しんり学者がくしゃL・コールバーグは、かかるテスト結果けっかをもとに、道徳どうとくてき発達はったつ程度ていどはか理論りろん提示ていじした。そこでは、発達はったつは3レヴェル6段階だんかい、すなわち「ぜん慣習かんしゅうてき権威けんいへの盲従もうじゅう自己じこ利益りえきにもとづく規則きそく遵守じゅんしゅ)」「慣習かんしゅうてき社会しゃかいてき役割やくわり遂行すいこう社会しゃかい秩序ちつじょ維持いじ)」「だつ慣習かんしゅうてき社会しゃかい構成こうせいいん社会しゃかい契約けいやくにもとづく倫理りんり普遍ふへんてき倫理りんり)」にけられる。さてコールバーグの理論りろんによれば、周囲しゅういひとびとに配慮はいりょする女性じょせいは「慣習かんしゅうてきレヴェル」にとどまっていることになる。だがギリガンは、むしろ女性じょせいべつ成熟せいじゅくみち辿たどっていると主張しゅちょうする。すなわち、「他人たにん自分じぶんたいするづかいの深化しんか」をそこに看取かんしゅする。ここからギリガンは、コールバーグ理論りろん代表だいひょうされる正義せいぎ普遍ふへんてき原理げんりにもとづく倫理りんりを「正義せいぎ倫理りんり」とび、自他じた適切てきせつづかう配慮はいりょにもとづく倫理りんりを「ケアの倫理りんり」とづけ、それに対置たいちした。

ギリガンのケアの倫理りんりはこのように発達はったつ心理しんりがく研究けんきゅう由来ゆらいしている。しかし、ギリガンの提起ていきした問題もんだいはまた倫理りんりがく歴史れきし倫理りんりがくそのものをいなおすものとして解釈かいしゃくされていった(3)

 コールバーグの倫理りんりかんはカントやロールズにっている。それは近代きんだい倫理りんりがく正統せいとうであるといってよい。すなわちカントとロールズ、そしてロールズがその系譜けいふぞくする社会しゃかい契約けいやくろんしゃらは、「正義まさよし」、「普遍ふへん可能かのうせい」、「普遍ふへんする能力のうりょくとしての理性りせい」に倫理りんり本質ほんしつ見出みいだ解釈かいしゃく共有きょうゆうしてきた。ケアの倫理りんりは、かかる正統せいとう疑問ぎもんとうじる論者ろんしゃたちに注目ちゅうもくされ、さまざまな思想しそう―ヒューム、功利こうり主義しゅぎ、ヘーゲル、アリストテレス、キリストきょう―とむすびつけてけとめられた。

わたしはケアの倫理りんりをめぐるいを大別たいべつしてふたつの連関れんかんのなかに位置いちづけている(4)

X)実証じっしょうてき研究けんきゅうにかんする
X-1)実証じっしょうてき研究けんきゅう内部ないぶこたえられるべきい:「ギリガンの指摘してきする性差せいさ事実じじつ対応たいおうしているか」、「性差せいさがあるとすれば、女性じょせいはケア対象たいしょうとの同化どうか男性だんせい分離ぶんりをめざすからなのか、あるいはべつ要因よういんによるのか」
X-2)記述きじゅつてき研究けんきゅうびているイデオロギーを科学かがくろんてきい:「ギリガン以前いぜん研究けんきゅう性差せいさをとらえそこねていたとすれば、研究けんきゅう方法ほうほうふくまれていたせい差別さべつ批判ひはんわれねばならない」、「ギリガン(ノディングス)は性差せいさ固定こていした生物せいぶつがくてき決定けっていろん意図いとしておらず、それでもケアの倫理りんり結果けっかてき女性じょせい特定とくてい倫理りんりかんふうめる役割やくわりたしているとすれば、ケアの倫理りんりこそかえってせい差別さべつさい生産せいさんしているのではないか」

Y)倫理りんりがくにかんする
Y-1) 規範きはんてき倫理りんりがく次元じげんい:「ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんりはいかなる関係かんけいにあるか(排除はいじょしあうのか/か、統合とうごうされるとすればいかにしてか)」、「倫理りんりもっと根底こんていとなる道徳どうとく規範きはんはケア/正義せいぎか」
Y-2) だいかい次元じげんい:「そもそも、なぜわたしたちはケアすべきなのか(なぜケアすることをケアすべきなのか)」
せつでは、Y-1)の論点ろんてんのみをあつか

 1・2ケアの特徴とくちょう

ケアの倫理りんりのなかでかたられているケアを暫定ざんていてき特徴とくちょうづけておこう。ギリガン、周囲しゅうい文献ぶんけん、ノディングス、それにノディングスに部分ぶぶんてき継承けいしょうされているM・メイヤロフに参照さんしょう範囲はんいかぎれば、論者ろんしゃごとに力点りきてん相違そういはあるものの、およそつぎのような定式ていしきられる(5)

ケアとは「ある特徴とくちょうびた態度たいどのもとに行為こういすること」。そしてその特徴とくちょうとは、「ケアするもの対象たいしょうんでいること」。すなわち、自分じぶん対象たいしょうとのその一体いったいかんゆえに、ケアは同時どうじにケアするもの自己じこ実現じつげんにほかならない。しかしその一体いったいかんは「ケアするもの対象たいしょう併呑へいどん同化どうかしてえたものではない」。それは「対象たいしょう他者たしゃせいただしくけとめ」た、その結果けっかとしてしょうじる一体いったいかんでなければならない。そのうえでケアの対象たいしょうは「いつも特定とくていのだれかであり特定とくていなにか」としてとらえられるのである。また、「ケアするもの責任せきにんはしばしばえらべない」(A・ベイアー)。自分じぶんまねいたのではなくても、「身近みぢか他者たしゃ」(ノディングス)がまずその対象たいしょうとなる。同時どうじにそこにある/きているという事実じじつによってたがいにケアすることが要請ようせいされる。したがってまた、「ぎゃく方向ほうこう同化どうか対象たいしょうのための自己じこ犠牲ぎせいもまた成熟せいじゅくしたケアではない」。他者たしゃ同様どうよう、「本質ほんしつてき無力むりょく」(ギリガン)な存在そんざいであるみずからもまたケアされるべき対象たいしょうだからである。それゆえケアは「ケアするがわ、されるがわのいずれか一方いっぽう主導しゅどうによるのではなく、両者りょうしゃ関係かんけいにこそそんしている」。対話たいわ同様どうよう、ケアの意義いぎはあらかじめめられた目標もくひょう達成たっせいにあるのではない。「過程かていそれ自身じしん重要じゅうようである」。すなわちケアの倫理りんりでは、「ケアすること、関係かんけいきずくことそれ自体じたい価値かちがある」。最後さいごに、ケアとそれにちかふたつの観念かんねんとの相違そういについて。「共感きょうかん」はケアときわめてちかい。だが自分じぶん自身じしん他者たしゃ投影とうえいするという意味いみでの「共感きょうかん(empathy)」は、他者たしゃ同化どうかであってケアではない(ノディングス)。また「あい」はしばしばケアと同義どうぎてきもちいられる。だがあいしていなくとも、ケアする責任せきにんえない。

 1・3ケアについての倫理りんり

ケアが不可欠ふかけつとされる営為えいいがある。看護かんご教育きょういくはそのれいである。したがって、これらの分野ぶんやでは、ケアについてのあるべきぞう、ケアについての倫理りんりが―ときに職業しょくぎょう倫理りんりという性格せいかくびて―かれることになるだろう。それでは、このような文脈ぶんみゃくかたられるケアについての倫理りんりとギリガンに由来ゆらいするケアの倫理りんりとはどのような関係かんけいをもつのだろうか。ここでは看護かんごにのみ言及げんきゅうする(7)

 「看護かんご本質ほんしつはケアである」(M・レイニンガー)。ここには、看護かんごしょく医師いしとは独立どくりつした仕事しごととして位置いちづけようとする志向しこうがみてとれる。看護かんご学者がくしゃのフライが、生物せいぶつ医学いがく視点してんからのみ患者かんじゃをとらえる見方みかたから脱却だっきゃくした看護かんご探求たんきゅうする手引てびきとしてノディングスのケアリングの倫理りんり推奨すいしょうしているのも、おな脈絡みゃくらくにおいて理解りかいできる。しかしこれを看護かんごがケアの倫理りんりそとから移入いにゅう応用おうようしたと解釈かいしゃくすべきではない。むしろ看護かんごという営為えいいそのもののなかから「しんひらき、応答おうとうする」(P・ベナー)ケアが要請ようせいされているからである。看護かんご自己じこ理解りかいもとめるうちはつりょくこそがケアとケアの倫理りんりという観念かんねんさぐてたとみるべきである。
 ケアの倫理りんり倫理りんりがく全体ぜんたい文脈ぶんみゃくのなかに位置いちづけられたのと同様どうよう看護かんごにおけるケアの尊重そんちょうもまた、生命せいめい倫理りんりがく医療いりょう倫理りんりがくというよりひろ文脈ぶんみゃくのなかに位置いちづけられる。生命せいめい倫理りんりがく医療いりょう倫理りんりがくは1970年代ねんだいには、患者かんじゃ自己じこ決定けっていをはじめとする普遍ふへんてき原理げんりにもとづいて個々ここ医療いりょう状況じょうきょうにおける倫理りんりてきディレンマを解決かいけつしようとする志向しこうのもとにあった。しかし80年代ねんだい以降いこう、そうした原理げんりにもとづくかんがかたたいする批判ひはん提出ていしゅつされはじめた。その批判ひはんは、「原理げんり一律いちりつ適用てきようされることへの疑問ぎもん」、「状況じょうきょう個別こべつせい重視じゅうし」という視点してんをケアの倫理りんり共有きょうゆうしている。よってケアの倫理りんり媒介ばいかいとして、看護かんご分野ぶんやでの議論ぎろん倫理りんり思想しそうとむすびつくこともありうる。

2 ケアと正義せいぎの「統合とうごう論争ろんそう―Y-1)の検討けんとう

80年代ねんだい以降いこう、〔ケアと正義まさよし〕「どちらの倫理りんりすぐれているか」があらそわれてきた。しかし、それについてかんがえるには、截然せつぜんとはけられぬものの、意識いしきして区別くべつするてんがある。ひとつは、ケアの倫理りんりおよび正義せいぎ倫理りんりというたい規範きはんとしてのケアおよび正義せいぎというたいとを区別くべつすることであり、もうひとつは、発達はったつ理論りろんとしてのケア(正義まさよし)の倫理りんりとケア(正義まさよし)のもとづく倫理りんりという意味いみのそれとを区別くべつすることである(9)

 2・1結婚けっこん比喩ひゆ
 『もうひとつのこえ』の末尾まつびで、ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんり関係かんけいが「結婚けっこん」になぞらえられていることからも、ギリガンがふたつの倫理りんりたがいに排除はいじょするものとかんがえていなかったことはあきらかである。むしろギリガンにおいては、ケアと正義せいぎ双方そうほうにつけることこそしん成熟せいじゅくであったといってよい。

 2・2正義せいぎ倫理りんりからの統合とうごう
 コールバーグらは男性だんせいだけを被験者ひけんしゃとしていたことを反省はんせい、その調査ちょうさ対象たいしょう女性じょせいひろげた。そのうえでかれらがした結論けつろんは、ギリガンの指摘してきはみずからの理論りろんゆたかにこそすれ、その本質ほんしつてき修正しゅうせいせまるものではない、というものであった。その批判ひはんよんてんにまとめると、@統計とうけいてき有意ゆういなほどの性差せいさみとめられない、A女性じょせいのケア指向しこうは、性差せいさよりも教育きょういく職業しょくぎょうなどべつ要因よういん起因きいんする、Bケアは家族かぞく友人ゆうじんなどのしたしい間柄あいだがらにみられ、正義せいぎ人間にんげん関係かんけい一般いっぱん妥当だとうする、Cケアの倫理りんりは、他者たしゃにかかわり普遍ふへん可能かのうせい立脚りっきゃくする倫理りんりではなく、「自己じこへの関心かんしんぜんせい構想こうそう」を機軸きじくとする個人こじん人格じんかく形成けいせい問題もんだいぞくするものである、となる。
 さき問題もんだい連関れんかんにおくと、これらの批判ひはんはまずX-1)に位置いちづけられる。しかしBはY-1)にもかかわっており、CはY-2)に位置いちづけられる。Bについて。その趣旨しゅしは、ケアは正義せいぎによってはじめて根拠こんきょづけられ、正当せいとうされるということにほかならない。たとえばひとつに、被験者ひけんしゃがケアのみおもんじている事例じれいは、問題もんだい領域りょういき特殊とくしゅせい本人ほんにん発達はったつ未熟みじゅくさにされている。またひとつに、コールバーグらは、〈正義せいぎ倫理りんり完全かんぜん義務ぎむ〉、〈ケアの倫理りんり不完全ふかんぜん義務ぎむ〉とそれぞれ対応たいおうさせているが、完全かんぜん義務ぎむへの違反いはん罪科つみとがを、不完全ふかんぜん義務ぎむ遂行すいこう功績こうせき意味いみしている以上いじょう、そこからは「ケアなき正義せいぎ許容きょようされうるが、正義せいぎなきケアは許容きょようされえない」と当然とうぜん結論けつろんされることになる。

 2・3ケアの倫理りんりからの異論いろん

ケアと正義せいぎ統合とうごうした最終さいしゅう段階だんかい描写びょうしゃは、一見いっけん、〔…〕大差たいさがないかのようにみえる。はたして、そうだろうか。注意ちゅういしなくていけないのは、正義せいぎ倫理りんりでは、どの人間にんげんも「わたし」にとってひとしく尊重そんちょうすべき存在そんざいであるのにたいして、ケアの倫理りんりでは、どの人間にんげんかならずだれかにケアされるべきことが主張しゅちょうされているのであって、「わたし」がすべての人間にんげんひとしくケアすることは要求ようきゅうされていないということである(13)

P)道徳どうとくてき目的もくてきとしてのケア、ケアという道徳どうとくてき観点かんてん優位ゆうい
 ノディングスによれば、「普遍ふへんてきなケアは成立せいりつしえない」。ケアすべきは、まず身近みぢか他者たしゃである(「わたしがケアする責務せきむっている人々ひとびと見捨みすてないかぎり、アフリカのえているどもたちへのケアをまっとうすることができないのなら、アフリカのえているどもたちをケアする責務せきむわたしにはない」(Noddings[1984: 86]))。とすれば、ケアは自己じこ中心ちゅうしんせいをまぬかれないのだろうか。そうではない。見知みしらぬ他者たしゃ視界しかいにはいってくるのはさまたげられていないし、これまで見知みしらぬ他者たしゃであったものも、わたし身近みぢかひと身近みぢかひととしてわたし視野しやにいつでもはいりうる(かかる連鎖れんさ関係かんけい未来みらい世代せだいにもおよぶ)。つまりノディングスにおいても正義せいぎ排除はいじょされていない。普遍ふへんてきなケアの否定ひていは、見知みしらぬ他者たしゃをケアすべきでない/しなくともよい、という倫理りんりてき指令しれいではない。それは、しんをこめたケアの現実げんじつてき範囲はんいについての事実じじつてき制約せいやくにほかならない。したがってノディングスにおいては、ケアの対称たいしょう拡張かくちょうして正義せいぎ倫理りんり要求ようきゅうする普遍ふへんせいどう程度ていど満遍まんべんなく配慮はいりょするケア)を獲得かくとくしうるとかんがえるなら、それはケアを正義せいぎにつうじるたんなる動機どうきしてしまうおそれなしとしない。ケアする能力のうりょくわすれたケアは、空洞くうどうするか、自己じこ欺瞞ぎまんおちいらざるをえない。すべてをケアするとは実質じっしつてきには、なにもケアしない、なに大切たいせつにしないということになる。それゆえノディングスは、その正当せいとう拒否きょひできたのである。この視点してんからすれば、正義せいぎ倫理りんり主張しゅちょう反転はんてんし、ケアは倫理りんりてき行為こうい不可欠ふかけつ要素ようそだが、ケアなき正義せいぎは、倫理りんりてき実践じっせんいた空疎くうそ概念がいねんにすぎない。
他方たほうで、ケアの倫理りんりからは、普遍ふへんせい標榜ひょうぼうする正義せいぎ倫理りんりはそもそもそれを具現ぐげんしているのか、との批判ひはんもある。ひとつに、正義せいぎ倫理りんり歴史れきしてき系譜けいふたいする懐疑かいぎ。だがそれは、正義せいぎ適用てきよう範囲はんい拡大かくだいによって克服こくふくされることがらである。ひとつに、だから正義せいぎ概念がいねんそれ自体じたいうたがわれる。「対象たいしょうひとしさによってくくる」というその概念がいねんは、そこから逸脱いつだつする存在そんざい排除はいじょをはらんでいる。たとえば子供こどもがはずれる。だが子供こども道徳どうとく共同きょうどうたい継承けいしょうする次世代じせだいである。よって正義せいぎ倫理りんりがその存在そんざい対処たいしょしていないなら、正義せいぎ倫理りんりはそれがそこで実践じっせんされるとう土台どだい道徳どうとく共同きょうどうたい)をみずからくずしていることになる。つまり正義せいぎ倫理りんりは、子供こどもをはじめとする弱者じゃくしゃへの配慮はいりょ、すなわちケアにその存続そんぞくさい生産せいさんっていることになる。

Q)自他じた非対称ひたいしょうせい個別こべつせい重視じゅうし
 (親子おやこ世代せだいあいだ関係かんけいのように)ケアすべき対象たいしょうはしばしば自由じゆうえらべない。一方いっぽう正義せいぎ倫理りんりでは、正義せいぎ正義せいぎ社会しゃかい契約けいやくたしたあとではじめて、すなわち契約けいやくしゃたちのあいだだけでつ。ここから、ケアの倫理りんりによる社会しゃかい正義せいぎ倫理りんりによる社会しゃかいよりも「わきまえた(decent)」社会しゃかいであるといわれる(ベイアー)。すなわち正義せいぎ倫理りんり正義せいぎ適用てきようされない対象たいしょうひとしからざるしゃ(たとえば、契約けいやく当事とうじしゃ以外いがいもの)にたいする関心かんしんをしばしば黙過もっかしうる。それは暴力ぼうりょくであっても、定義ていぎじょう正義せいぎではない。これにたいしてケアの倫理りんりは、寛大かんだいで、たしなみをもってせっすることを推奨すいしょうする。もちろんひとしからざるしゃ正義せいぎのもとに包摂ほうせつできないわけではない。だがそのとき、ひとしからざるしゃは(たとえば、子供こども将来しょうらい大人おとなと、病人びょうにんなおるはずの病人びょうにんとみなされるように)「かけの平等びょうどう達成たっせいするよう『上昇じょうしょう』させられる」(ベイアー)。したがって実質じっしつ差異さい看過かんかされてしまう。だが自他じた実質じっしつ差異さい看過かんかされるのであれば、正義せいぎ倫理りんりにおける普遍ふへんとはなんいいなのか。ノディングスは普遍ふへん可能かのうせいそのものを否定ひていする。そのつどの状況じょうきょう普遍ふへんされえないほど個別こべつだからだ。そもそも正義せいぎ倫理りんり個別こべつ差異さい普遍ふへんちがえている。そこでは自他じたは「同一どういつ権利けんり義務ぎむあたえられたひとりの理性りせいてき存在そんざいしゃ」、「一般いっぱんされた他者たしゃ」にすぎなくなり、そのあいだにはもはや普遍ふへんすべきものはなにもない、とS・ベンハビブはいう。そこにあるのは(カントやロールズのように)モノローグだけで、「特定とくていだれか」(メイヤロフ)「具体ぐたいてき他者たしゃ」(ベンハビブ)とのあいだのダイアローグはない。ベンハビブによれば、ケアの倫理りんりがめざすのは、かかる「現実げんじつ対話たいわ」(ベンハビブ)をとおして合意ごういして獲得かくとくする普遍ふへん可能かのうせいである。また、正義せいぎ倫理りんり原理げんり加害かがい原理げんり)を重視じゅうしするが、ケアこそが状況じょうきょう個別こべつせいをくみとるなら、ある状況じょうきょうへの原則げんそく適用てきようもケアなしにはできない。

P)Q)をふまえ、Y-1)への回答かいとう

以上いじょう指摘してきかんがえれば、ケアの倫理りんりはとうてい正義せいぎ倫理りんり根拠こんきょづけられない。〔…〕そのぎゃくつともいえない。正義せいぎ倫理りんり共同きょうどうたい存続そんぞくをケアにうているとしても、それは、正義せいぎ発生はっせいする条件じょうけんとしてケアをようするということである。だが、どもを正義せいぎ共同きょうどうたい一員いちいんそだてあげるには、論理ろんりてきには、正義せいぎ教育きょういく目標もくひょうとしてすでにみとめていなくてはならない。正義せいぎ個別こべつ状況じょうきょう適用てきようするのにケアをようするのは、正義せいぎいだすケアの発見はっけん法的ほうてき役割やくわりのゆえである。だが、正義せいぎづく感受性かんじゅせい正義せいぎ感覚かんかく表裏一体ひょうりいったいである。見知みしらぬ他者たしゃにもケアしなくてはならないというノディングスの要請ようせいにも、だれにもひとしく対応たいおうすべきだという正義せいぎ規範きはんがすでにはたらいている。だとすれば、ケアと正義せいぎのどちらの規範きはんがいっそう根底こんていてきかといういには一義的いちぎてきこたえがない。〔…〕すくなくとも、規範きはん倫理りんりがくてき問題もんだい連関れんかんにおいては、ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんりの「統合とうごう」をうことは問題もんだい設定せっていとして不適切ふてきせつだといわざるをえない(17)

 2・4反転はんてん図形ずけい比喩ひゆ
 以上いじょう確認かくにんしたうえで、もうすこしかんがえる。ギリガンはのちに、結婚けっこんとはべつ比喩ひゆ、すなわち「反転はんてん図形ずけい比喩ひゆ」を提示ていじした。その含意がんいは、人間にんげん関係かんけい両義りょうぎせいへの注目ちゅうもくにある。
その比喩ひゆ提起ていきされた論文ろんぶん(「道徳どうとく指向しこう道徳どうとくてき発達はったつ」1987)において、まず対置たいちされているのは、(ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんりではなく)、ケアの見方みかた正義せいぎ見方みかたである。また、そのふたつの見方みかた発達はったつ過程かてい性差せいさとの関連かんれんへの関心かんしんうしなわれてはいないものの、女性じょせいであれ男性だんせいであれ、同一どういつ人間にんげんがどちらの見方みかたもとりうることが強調きょうちょうされている。したがってこの解釈かいしゃくは、ふたつの見方みかたが「統合とうごう融合ゆうごうされる用意よういがあるという暗黙あんもく了解りょうかい否定ひていしている」(ギリガン)。かかる反転はんてん図形ずけい比喩ひゆのほうが結婚けっこんよりも適切てきせつだろう。つまり…

この比喩ひゆ長所ちょうしょはふたつの見方みかた異質いしつさを明言めいげんしているてんにある。両者りょうしゃ統合とうごうや、その場面ばめんでどちらの見方みかた適切てきせつかをあらかじめ指示しじする別個べっこ原理げんりはない。したがって、見方みかたえて、ことなる見方みかたじゅくとおし、そのあいだで均衡きんこうをとるようにしてぞうむすんでいくほかない。〔…〕ことなる見方みかたのあいだで均衡きんこうのとれた適切てきせつ理解りかいは、ひとりの人間にんげんのなかでのみ完成かんせいされる必要ひつようはなく、複数ふくすう人間にんげん意見いけん交換こうかんをとおして追求ついきゅうしていくこともできるだろう。だとすれば、他者たしゃ異質いしつせい対話たいわ重要じゅうようせい強調きょうちょうしてきたケアの倫理りんりには、この解釈かいしゃくこそがいっそうふさわしいのである(18)

 2・5ケアの倫理りんりとく倫理りんり
 ケアの倫理りんりによる社会しゃかい正義せいぎ倫理りんりによる社会しゃかいよりも「わきまえた(decent)」社会しゃかいである、といわれたのだった(ベイアー)。とすれば、どちらの倫理りんり支持しじするかは、どちらの社会しゃかいえらぶかという問題もんだいでもある。ケアの倫理りんり近代きんだい倫理りんりがく正統せいとうへの批判ひはんとして受容じゅようされたのだった。おなじように、共同きょうどうたい主義しゅぎとく倫理りんりも、近代きんだい個人こじん主義しゅぎてき社会しゃかい批判ひはんする。ここではS・トゥールミンを参照さんしょうする。
 トゥールミンによれば、原理げんりにもとづくかんがかた倫理りんりではなくほう思考しこうである。ほうは、(文化ぶんか価値かち共有きょうゆうしない)たがいに見知みしらぬもの一律いちりつ適用てきようされるからだ。一方いっぽう倫理りんり関係かんけい(relationship)に立脚りっきゃくする。ほう倫理りんり混同こんどうは、平等びょうどうと「衡平こうへい(equity)」の混同こんどうにつうじている。平等びょうどう全員ぜんいんひとしくあつかうことだが、衡平こうへい人間にんげん関係かんけい事情じじょう個別こべつせいおうじて適切てきせつな、したがってことなる対応たいおうをすることだからである。トゥールミンがもちいる、かかる概念がいねんをケアの倫理りんりのなかに見出みいだすことは容易よういであろう―すなわち、個別こべつ状況じょうきょうをケアするのであれば、原理げんり一律いちりつ適応てきおうとはいかない、ケアの倫理りんり衡平こうへい依存いぞんする(ギリガン)、ケアを拒絶きょぜつするものには人間にんげんはすべて見知みしらぬものす(ノディングス)。トゥールミンをはなれて一般いっぱんてきにいっても、共同きょうどうたい主義しゅぎもケアの倫理りんり正義せいぎ優先ゆうせんことをとなえ、それぞれ正義せいぎたいするぜん/ケアの優位ゆういく。さらには、ケアの倫理りんりとく涵養かんようむすびつくのも納得なっとくされよう。対象たいしょう多様たようせい所与しょよとし、それぞれの必要ひつようせい対応たいおうしようとするケアの能力のうりょくは、経験けいけんのなかでしだいにつちかわれていくものだからである。
 しかし、にもかかわらず、ケアの倫理りんり主導しゅどうしゃとく倫理りんり肯定こうていてきというわけではない。たしかに、それらの批判ひはん一部いちぶは、概念がいねん欠如けつじょ誤解ごかい起因きいんするとみることができるだろう。しかしもっと根底こんていてき要因よういんは、ケアの関係かんけい相手あいてがそこにいるという事実じじつによってすでに要請ようせいされるのであり、わたし相手あいて)が相手あいてわたし)にとってなにであるのかによってはかならずしも掣肘せいちゅうされないというてんにあるとかんがえられる。よってとく特定とくてい社会しゃかいてき役割やくわり根拠こんきょ推奨すいしょうされるかぎり、ケアの倫理りんりはかかる制約せいやくから解放かいほうされることをのぞむのである。
結局けっきょく、ケアの倫理りんりとく倫理りんりもっと根底こんていてき対立たいりつてんはおそらくつぎてんにある。正義せいぎ倫理りんり正義せいぎよりぜん優先ゆうせんする。どのかたしとするかは個人こじん選択せんたくにゆだねられる。ケアの倫理りんり各自かくじかたをすることができるようにたがいにケアしあう必要ひつようく。ゆえに正義せいぎよりぜん優先ゆうせんする。一方いっぽう共同きょうどうたい主義しゅぎしゃとく倫理りんりもまた正義せいぎよりぜん優先ゆうせんする。後者こうしゃはさらに、「人間にんげんのもろもろのぜんのヒエラルキー」(A・マッキンタイア)を想定そうていする。それがなければ、なに(だれ)をなに(だれ)よりもケアすべきかについて体系たいけいてき指示しじすことはできないとし、ケアの倫理りんりはそれをくがゆえに批判ひはんされる。だがケアの倫理りんりのほうから反論はんろんすれば、まさしくそうであるがゆえに、ケアの倫理りんり身近みぢか他者たしゃへのケアを優先ゆうせんしながら、しかもだれもがその身近みぢか他者たしゃとなりうる可能かのうせい保持ほじしているのである。


◆200403「〈ケアの倫理りんりこう)〉―ノディングスの倫理りんりてき自己じこ観念かんねん」,『関西大学かんさいだいがく文学ぶんがく論集ろんしゅう』53-4:39-62

以下いかみやすさをして適宜てきぎ〔 〕による補足ほそく改変かいへんほどこした。また品川しながわから引用いんようは( )にて、ノディングス(1984→2003 Caring, 2nd)からの引用いんようは〈 〉にて、それぞれぺーじすうしめした。

 1. ケアの倫理りんり他者たしゃ志向しこう自己じこ志向しこう
 ある倫理りんり理論りろんについて、一方いっぽうで、その倫理りんり理論りろん他人たにん重視じゅうしするものであるという解釈かいしゃくくだされ、他方たほうで、おな倫理りんり理論りろん自己じこ人格じんかく完成かんせいをめざしたものであるという解釈かいしゃくくだされるとすれば、このふたつの解釈かいしゃくはまずはあい矛盾むじゅんしているようにみえる。ギリガンによって正義せいぎ倫理りんり命名めいめいされ、その原則げんそくてき思考しこう抽象ちゅうしょうせい批判ひはんされたコールバーグがわがギリガンのケアの倫理りんりせた反論はんろんのなかには、こうしたあい対立たいりつする評価ひょうかふくまれている」。(39)
 「ケアの倫理りんり自己じこ完成かんせい志向しこうするものであるという評価ひょうかを、たとえば、コールバーグはヌナー-ウィンクラーによるギリガンにたいするさい反論はんろん引用いんようしつつこうべている。「ヌナー-ウィンクラーによれば、ケアの倫理りんりは、厳密げんみつ他者たしゃ配慮はいりょしている普遍ふへん可能かのう意味いみでの倫理りんりむすびついているというよりもむしろ、あるひとりの自我じが関心かんしんぜんせい理想りそうのほうにむすびついているのだが、このことは、ケア志向しこうにおいてくだされる判断はんだんおおくが形式けいしきてき観点かんてん意味いみからいうと道徳どうとくてきというよりも個人こじんてき(personal)であるとわれわれがべてきたことと符合ふごうしている」(コールバーグほか1992『道徳どうとくせい発達はったつ段階だんかい―コールバーグ理論りろんをめぐる論争ろんそうへの回答かいとう』、片瀬かたせ一男かずお高橋たかはしただしじんやくしん曜社: 225)。(40)

 ケアの倫理りんり他者たしゃ志向しこうであるのか、それとも、自己じこ人格じんかくをめざす自己じこ志向しこうであるのか。一見いっけんあい矛盾むじゅんするこのふたつの評価ひょうかは、しかし、それぞれの議論ぎろん展開てんかいされている次元じげんけることで両立りょうりつする。/コールバーグがわのいう「形式けいしきてき観点かんてん」とは、その判断はんだん普遍ふへん可能かのうせいたしているということを意味いみしている。これは倫理りんり理論りろんたすべき基準きじゅんかんする議論ぎろん倫理りんりとはいかなるものかをうメタ倫理りんりがく次元じげん議論ぎろんである。普遍ふへん可能かのう判断はんだんは、すべてのひとにひとしく配慮はいりょすること、つまり、正義せいぎ要請ようせいする。……それにくらべて、ケアの倫理りんりは「形式けいしきてき観点かんてん意味いみからいうと道徳的どうとくてき」とはいいがたい。倫理りんり理論りろん正義せいぎ倫理りんりとそれ以外いがいのものに大別たいべつすれば、有徳うとく性格せいかくをめざす倫理りんり後者こうしゃにあたる。ケアの倫理りんりはケアするものという自己じこ理想りそうかたてんで「個人こじんてき」であり、「あるひとりの自我じが関心かんしんぜんせい理想りそうのほうにむすびついている」。ケアの倫理りんり自己じこ志向しこうであるという批判ひはんは、このように、倫理りんり要請ようせいする規準きじゅん倫理りんり根底こんていにあるものにかんする見解けんかい相違そうい由来ゆらいしている。(41)

 ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんりについては、従来じゅうらい両者りょうしゃ統合とうごうする可能かのうせいろんじられてきた。……両者りょうしゃ根本こんぽんてき対立たいりつは、倫理りんり規準きじゅんとして両者りょうしゃ要請ようせいするもののちがい、倫理りんり基底きていにおくものについてのちがいにある。このてんでは、両者りょうしゃ―ケアにもとづく倫理りんりという意味いみでのケアの倫理りんり正義せいぎもとづく倫理りんりという意味いみでの正義せいぎ倫理りんり―はけっして統合とうごう可能かのうではない。これにたいして、ケアの倫理りんりのなかに正義せいぎという規範きはんれたり、正義せいぎ倫理りんりのなかにケアという規範きはんれたりすることは、れられる規範きはん他方たほう倫理りんりのなかでかちとるほどの評価ひょうかられず、また、意味いみ変容へんようほどこされるにしても、可能かのうである(cf.品川しながわ[2002: 9])。(41)

 ギリガンが……のちになって導入どうにゅうした「反転はんてん図形ずけい」の比喩ひゆ(Gilligan, Carol 1987 "moral orientation and moral development")のほうが、両者りょうしゃ関係かんけい適切てきせつあらわしている
(cf.品川しながわ[2002: 17])。……ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんりことなる根源こんげんってつことをいっそう的確てきかくしめしているからである。ケアの倫理りんりによる成熟せいじゅく説明せつめい(「どのひともだれかによってケアされなければならない」)が「すべてのひとがケアされる」事態じたいあらわしているとしても、それを「どのひともケアされる権利けんりをもつ」とか「どのひとも平等びょうどうにケアされるべきだ」というように、権利けんり平等びょうどうなどの正義せいぎ倫理りんりのなかで多用たようされる概念がいねんもちいて翻訳ほんやくすることはできない。というのも、権利けんり平等びょうどう正義せいぎかたる「どのひと」「すべてのひと」は特定とくていのだれでもない抽象ちゅうしょうてき人格じんかくしているのにたいして、ケアの倫理りんり到達とうたつをめざしている理想りそうてき状況じょうきょうは、「どの特定とくていのひともだれか特定とくていのひとによってケアされ、後者こうしゃ特定とくていのひともまただれ特定とくていのひとによってケアされる」というしかたでケアのネットワークがすべての個人こじんあますことなく事態じたいしているからだ。ケアの倫理りんりのこの理想りそうからすれば、「どのひともケアされる権利けんりをもつ」といった普遍ふへんてき定式ていしきはあまりに抽象ちゅうしょう一般いっぱんぎ、そのはなが、いま自分じぶんまえにいる特定とくてい他者たしゃへのケアをすることを保証ほしょうしない。はな鈍感どんかんにも身近みぢか他者たしゃへの現実げんじつのケアをわすれているかもしれない。まさにこのことがケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんり批判ひはんするてんである。(42)

 ケアの倫理りんり自己じこ志向しこう他者たしゃ志向しこうかというあい矛盾むじゅんする評価ひょうかは、前述ぜんじゅつのように、コールバーグの視点してんから整理せいりできる。しかし、それでは、おな事態じたいをケアの倫理りんり視点してんから評価ひょうかするとどうなるだろうか。ケアの倫理りんり基底きていにある(コールバーグがわからは自己じこ志向しこうとみなされた)ケアと(コールバーグが他者たしゃ志向しこうひょうする)特定とくてい他者たしゃけられた個々ここのケアとのあいだには、どのような関係かんけいがあるのだろうか。(42)

 2. ノディングスの倫理りんりてき自己じこ観念かんねん位置いちづけ
 この目的もくてきするものとして、本稿ほんこうでは、ネル・ノディングスのケアリング理論りろんのなかにかたられている「倫理りんりてき自己じこ」の観念かんねんをとりあげる。私見しけんによれば、倫理りんりてき自己じこにたいするケアは、ノディングスの倫理りんり理論りろんのなかで、他者たしゃへのケアをふく爾余じよ一切いっさいのケアをささえる機能きのうたしている。したがって、ケアの倫理りんりはその根底こんていにおいて自己じこ人格じんかく完成かんせいをめざしているという解釈かいしゃく適切てきせつだとすれば、それはどのような意味いみでそうなのかということをたしかめるためには、この観念かんねん解明かいめい役立やくだつという見通みとおしがられるわけである。さらに、倫理りんりてき自己じこへのケアと個々ここ他者たしゃへのケアとの関係かんけい考察こうさつすることで、前述ぜんじゅつの、基底きていとしてのケアと個々ここ他者たしゃへのケアとのあいだの関係かんけい解明かいめいするがかりもられるだろう。(43)

 ギリガンのケアの倫理りんりには、わたしのみるところ、ノディングスの倫理りんりてき自己じこ観念かんねん以上いじょうみぎ目的もくてきへの展望てんぼうける端緒たんしょ見出みいだされない。たしかに、ギリガンのケアの倫理りんりにおけるだいさんレベルの成熟せいじゅく段階だんかいでは、……「他者たしゃだけではなく、わたしもまたケアされなければならない」という把握はあくかたられているが、この自分じぶん自身じしんへのケアは他者たしゃのケアとまったく同列どうれつあつかわれているにすぎない。他人たにん要求ようきゅうづかうのと同様どうように、自分じぶん自身じしん要求ようきゅう顧慮こりょすることは「自分じぶんにたいしてもただしい(right)」(ギリガン 1982=1986『もうひとつのこえ』: 165)|はし妬にただしさの問題もんだいなのである。/〔また、ギリガンにおける「結婚けっこん」「反転はんてん図形ずけい」といった〕いずれの比喩ひゆにおいても、両者りょうしゃ〔ケアの倫理りんり正義せいぎ倫理りんり〕は並列へいれつされている。……彼女かのじょにとってケアの倫理りんり文字通もじどおり「もうひとつのこえ」であって、正義せいぎ倫理りんりのさらに根底こんていにあるものではない。これは、結局けっきょくのところ、発達はったつ心理しんり学者がくしゃギリガンの問題もんだい関心かんしんはやはり道徳どうとく理解りかい発達はったつ過程かていにあって、ケアの倫理りんりしめしている倫理りんりかん基礎きそづけにはかっていないことを意味いみしている。(43)

 これにたいして、ノディングスでは、ケアこそが一切いっさい倫理りんり基盤きばんである。ケアするという「道徳どうとくてき視点してんをとることに正当せいとうはありえない―この道徳どうとくてき観点かんてんこそどんな種類しゅるい正当せいとうよりも先行せんこうするからだ」〈95〉。……ここではケアこそが倫理りんり基礎きそづけているとされるのだから、いは「なぜ、ケアすることをケアするべきなのか(why care about caring)」〈7〉というかたちをとる。このいへのこたえのかくに、倫理りんりてき自己じこへのケアは位置いちしている。(43-44)

 3. ノディングスのケアリングの理論りろん
 3-1. ケアの特徴とくちょう
 ケアリングとは、ノディングスによれば、相手あいて、つまりケアされるひとの「権利けんり保護ほご向上こうじょう」〈23〉のために、相手あいてを「れ、敏感びんかん応答おうとうし、かかわりあう」こと〈2〉である。そのとき、相手あいてをこちらの期待きたいするように理解りかいしたり操作そうさしたりせず、相手あいての「しんのありよう」を把握はあくするために、ケアするひとは「わたししんのありようから他者たしゃしんのありようへ関心かんしん転移てんいし」〈14〉、「自分じぶん個人こじん準拠じゅんきょわくから他者たしゃ準拠じゅんきょわくむ」〈24〉。/だが、自分じぶん準拠じゅんきょわくからだっして他者たしゃ準拠じゅんきょわくむなどということが、いったいどうして可能かのうだろうか。ノディングスによれば、相手あいて精確せいかく分析ぶんせきして理解りかいすることや、相手あいてかかえている「問題もんだい定式ていしき解決かいけつ」の共有きょうゆうから出発しゅっぱつしてそこに到達とうたつできない。「出発しゅっぱつてん感情かんじょう共有きょうゆうにある」〈31〉。そして、そのためには「対象たいしょうあらわれるままにじっとゆだね」「自分じぶん変容へんようされてゆくのをゆるしておく」「情感じょうかんてき受容じゅようてき様態ようたい」〈34〉をとらなくてはならない。(45)

 ノディングスの説明せつめいは、わたしわたし準拠じゅんきょわくをあまりにたやすく脱却だっきゃくし、しかも他者たしゃしんのありようをそれととっきとめることができるかのような印象いんしょうあたえてしまう。それはひょっとして他者たしゃ同化どうかにすぎないのではないか。他者たしゃ同化どうか他者たしゃへの暴力ぼうりょくにほかならず、かりに、相手あいてがそれを甘受かんじゅしたとすれば、それは相手あいてわたしへの依存いぞん意味いみしている。これはケアにつきまとう根本こんぽんてき懸念けねんである。46)

 だが、ノディングスがケアを自己じこ同化どうか同視どうししていなかったこともたしかである。他者たしゃへの感情かんじょう移入いにゅう誤解ごかいされないように「共感きょうかん」をけて受容じゅよう強調きょうちょうするてんにも、それはうかがわれる〈30〉。ここに整合せいごうてき解釈かいしゃくもとめるなら、他者たしゃ理解りかいよりも自己じこ変容へんよう力点りきてんをおくべきである。比喩ひゆてきにいえば、他者たしゃわたし一方いっぽうてき理解りかいによって変容へんようされてしまうことをできるかぎりけるしかたで他者たしゃあらわれうる「」へとわたし自身じしん変容へんようすること、そしてその「」のなかに、他者たしゃ反応はんのうしてわたしのなかにうごしてくる「ケアするもの」の登場とうじょうけ、そのうごくのにまかせ、はぐくむこと、それをつうじて、他者たしゃわたしによって「ケアされるしゃ」としてぐうされる確保かくほしつづけること―これがケアのはじまる過程かていなのであろう。だとすれば、他者たしゃにたいするケアには、ケアされる他者たしゃとケアするわたしのみならず、すくなくともそのほかに、ケアするわたし見守みまもわたしふくまれているのである。(46-47)

3-2. 原理げんりにもとづく倫理りんり拒否きょひ
ノディングスは原理げんり依拠いきょする思考しこう峻拒しゅんきょする。……倫理りんりてき観点かんてんからどのように行動こうどうすべきかということは、そのつど「発見はっけん」〈8〉されなくてはならない。たとえ、すべてのひとは平等びょうどうにあつかわれなくてはならないという正義せいぎ原理げんりっていても、いまのまで平等びょうどうにあつかわれていないひとの存在そんざいづくには、ケアする感受性かんじゅせいようする。……したがって、あるひとがいかに倫理りんりてきであるかは、ケアリングの倫理りんりにしたがえば、……「そのひとが実際じっさい他者たしゃれてきた態度たいど」〈114〉におうじて判定はんていされる。 (47)

 3-3. 自然しぜんなケアリング
ケアを発動はつどうさせるものはなにか。ヒュームが倫理りんり根底こんてい感情かんじょうをおいたことに賛意さんいひょうするノディングスはまずは「あい自然しぜんしん傾向けいこう」にはっする「自然しぜんなケアリング」〈4〉だとき、自然しぜんなケアリングのれい母子ぼし関係かんけいをあげる。……「自然しぜんなケアリングが倫理りんりてきなものを可能かのうにする」〈43〉……/ところで、ノディングスはまたべつ箇所かしょ母子ぼし関係かんけいについて、「どんな倫理りんりてき心情しんじょうも、それを可能かのうにする最初さいしょ心情しんじょうがなければ、ありえない」から「母親ははおやをケアしたいからケアする」としるしつつ、それにつづけて、この「だいいち心情しんじょう想起そうき反応はんのうしてしょうじる」感情かんじょうがケアをささえるともべている〈79〉。さらに、母子ぼし関係かんけい以外いがいはなしひろげてみよう。「わたしたちがれようとする態度たいどをとっているなら、自然しぜんなケアリングのこる頻度ひんどたかい」。「きわめてめぐまれない(ないし堕落だらくしている)状態じょうたいにあるひとはのぞき、だれしも他者たしゃいたみやよろこびをかんじる。わたしたちはそれぞれ記憶きおくをとおして、自分じぶん自身じしんがケアしたりケアされたりした経験けいけんちかづく」〈104〉。当面とうめん相手あいてわたしとのあいだにそのような関係かんけいがあったとはかぎらない。そのような関係かんけいがなかった場合ばあいはいくらでもある。それなのに、わたし相手あいてをケアしはじめるとすれば、わたしはだれかのひとからケアされ、のひとをケアした経験けいけん想起そうきして、その相手あいてをケアしはじめるのだ。ケアする気持きもちが自然しぜんてき発露はつろしないときに、ケアリングを誘発ゆうはつするのは過去かこのケアリングの記憶きおくだとすれば、さき一文いちぶん自然しぜんなケアリングが倫理りんりてきなものを可能かのうにする―は、自然しぜんなケアリングは倫理りんりてき行為こうい発生はっせいろんてき必要ひつよう条件じょうけんであるというふうにも解釈かいしゃくしうる。そして、わたしたちが無力むりょく存在そんざいとしてまれてくることをおもかべれば、わたしたちの根源こんげんてきなケア経験けいけんはまずは「ケアされた」という受動じゅどうてき経験けいけんから出発しゅっぱつしているはずである。(47-49)

 3-4. 倫理りんりてきケアリング
 自然しぜんなケアリングが発露はつろしないとき、または阻害そがいされているとき、かつてケアされケアした経験けいけん記憶きおくは、「他人たにん窮状きゅうじょうへの応答おうとうとそれとあい対立たいりつする自己じこ利益りえき増進ぞうしんしたいという欲求よっきゅう応答おうとうするなかで、『わたしはしなければならない(I must)』という感情かんじょうとなってわたしたちにしのびこむ」〈79-80〉。「ケアしたい」という自然しぜんなケアリングではない、「しなければならない」ケアリングは倫理りんりてきケアリングとばれる。/自然しぜん傾向けいこうせいにもとづく行為こうい義務ぎむにもとづく行為こういとの区別くべつはカントを想起そうきさせる。……しかし、カントが動機どうきから自然しぜん傾向けいこうせいはいしてひとえに義務ぎむにもとづく行為こうい尊重そんちょうするのにたいして、ノディングスは、自然しぜんなケアリングと倫理りんりてきケアリングのあいだに倫理りんりてき価値かちちがいをみとめない。……〔また〕ケアしたくないという欲求よっきゅう克服こくふくするのは自分じぶんがケアしケアされた経験けいけん記憶きおくからしょうじる欲求よっきゅうである。カントとことなり、理性りせい命令めいれいではない。/しかし、ケアしケアされた経験けいけん記憶きおくからしょうじる欲求よっきゅうは、なぜ、ケアしたくないという欲求よっきゅうつのだろうか。たとえば、相手あいてのことなどにかけず私欲しよくをまっとうしたいという欲求よっきゅう一方いっぽうにあり、他方たほうに、他人たにんをケアする自分じぶんでありたいという欲求よっきゅうがある。これだけでは葛藤かっとうにとどまる。後者こうしゃ習慣しゅうかんてき前者ぜんしゃ圧倒あっとうするとすれば、後者こうしゃ一過いっかてき前者ぜんしゃ欲求よっきゅうとは次元じげんことにした欲求よっきゅうなのだろう。……フランクファートのこの概念がいねんだいいちかい欲求よっきゅうだいかい欲求よっきゅう〕をりれば、ケアを放擲ほうてきしたいのはだいいちかい欲求よっきゅうだが、他人たにんをケアする自分じぶんでありたいというのはだいかい欲求よっきゅうである。「道徳どうとくてきでありたいというつよ欲求よっきゅうがあるなら、わたしたちはそれを拒絶きょぜつしない。道徳どうとくてきでありたいというこのつよ欲求よっきゅうは、関係かんけいをもち、関係かんけい維持いじしたいといういっそう根本こんぽんてきかつ自然しぜん欲求よっきゅうから反省はんせいによってみちびされる」〈83〉。こうして、ひとは往々おうおうにしてケアを放擲ほうてきしたいという欲求よっきゅう誘惑ゆうわくされながらも、だいかい欲求よっきゅうにしたがって倫理りんりてきケアリングを開始かいしし、ケアするひととなっていく。だから、「自分じぶんのしているケアが自然しぜん倫理りんりてきかはかならずしも確実かくじつにはさだめがたい」。むしろ、当初とうしょ自然しぜんなケアリングにおける「道徳どうとく以前いぜんぜん」が「しだいに道徳どうとくてきぜんになっていく」過程かていあゆむことによって、ひとはケアするひとになっていくのである。(49-50)

 3-5. 倫理りんりてき自己じこ
 このだいかい欲求よっきゅうを、ノディングスは倫理りんりてき自己じこへのケアとぶ。この倫理りんりてき自己じこだいかい欲求よっきゅう主体しゅたいとしてではなく、わたしのケアする対象たいしょうとしてかたられているてん留意りゅういしなくてはならない。……「のひとにたいするケアリングは倫理りんりてき自己じこへの関心かんしんからしょうじるのではなく、のひとにたいするケアリングから倫理りんりてき自己じこへの関心かんしんしょうじる」〈50〉。しかも、「のひとをケアすると同時どうじに、そのひとたちにケアされるときに、わたし自分じぶん自身じしん倫理りんりてき自己じこ〕をケアすることが可能かのうになる」〈49〉。……倫理りんりてき自己じこがケアされつづけられなくてはならないのは、のひとにたいするケアは挫折ざせつ意気いき阻喪そそう裏切うらぎりに見舞みまわれやすいからである。……倫理りんりてき自己じことは、平易へいいにいいかえれば、「ケアするひととしてのわたし自身じしん」という意味いみにほかなるまい。……〔自然しぜんなケアリングができているときにはわすれられている〕それは、わたし相手あいてから反発はんぱつされたり、……かいない努力どりょくつかれたりするとき、わたしがなおかつケアするひとでありつづける可能かのうせいのよすがとしてあらわれてくるものなのだろう。/ノディングスのケアリングの理論りろんは、倫理りんりてき態度たいど維持いじ倫理りんりてき自己じこ保持ほじにかかっているてんで、コールバーグがわのいうように、自己じこ完成かんせいをめざしたものだといえる。……〔しかし〕ケアリングの目的もくてき有徳うとく性格せいかく完成かんせいではない。ケアはしょとくたばではないからだ〈80〉。それは、むしろ、現実げんじつてき倫理りんりてきであるために、自分じぶん倫理りんりてきでありうるという可能かのうせい想起そうきもど一種いっしゅ自己じこ浄化じょうかすすめなのである。 (51-52)

 3-6. 相互そうごせい―ケアするひととケアされるひととの関係かんけい
 倫理りんりてき自己じこはケアするわたしがケアされる相手あいてによってケアされることによってはぐくまれていく。すると、わたし相手あいて対等たいとう関係かんけいなのだろうか。である。「ケアされるひとがケアするひとである必要ひつようはない」〈30〉。ケアするひとは自分じぶん準拠じゅんきょわくのほかにケアされるひとの準拠じゅんきょわく理解りかいしなくてはならないが、……そのぎゃくりたない。それにもかかわらず、ノディングスは両者りょうしゃ関係かんけい相互そうごせい(reciprocity)とんでいる。ただし、ここでは「あげる贈物おくりものともらう贈物おくりものおなじではない」〈74〉。では、ケアするひとはケアされるひとからなにをうけとるのだろうか。/わたしはそれをケアするひとの倫理りんりてき自己じこへのケアへのはげましだとかんがえる。むろん、ケアされるひとが直接ちょくせつはげますわけではない。……そうではなくて、ケアするひとは自分じぶんのケアリングが相手あいてこころよれられ、相手あいて成長せいちょう寄与きよしているのをみて、ケアするひととしての自分じぶん自身じしんる。おそらくこれがケアされるひとからの贈物おくりもの意味いみであろう。……ノディングスでは、ケアするわたしは〔コールバーグ発達はったつ理論りろんだいレベルのだいさん段階だんかいにおける〕相手あいてへの期待きたい追随ついずいにとどまらず、ケアするものとしてのわたし倫理りんりてき自己じこ)をケアしている。倫理りんりてき自己じこは、ひょっとするとコールバーグ理論りろんだいろく段階だんかいのなかに良心りょうしんとしてしめされたような、社会しゃかいてき価値かちかんとは独立どくりつのその本人ほんにん首尾しゅび一貫いっかんとした判断はんだん基準きじゅんでもありうる。というのも、ケアするひととしての倫理りんりてき自己じこへの配慮はいりょには、当然とうぜん自分じぶんのしているケアがしんのケアであるかどうか―相手あいて必要ひつよう的確てきかくおうじているか、相手あいて自分じぶん理解りかいしつけていないか、相手あいてそこなっていないか、相手あいて成長せいちょう寄与きよしているか―と自分じぶんのケアを規整きせいする批判ひはんてき視点してんぞうしているだろうからだ。(52-53)

 3-7. 超越ちょうえつ?―ケアするわたしとそれをケアするわたし
 しかし、だとすれば、図式ずしきてきにいえば、ケアリングの根底こんていには倫理りんりてき自己じこへのケアがあり、そのうえに個々ここ他者たしゃへのケアがきずかれることになるのだろうか。ケアするわたしをケアするわたしとは、目下もっか必要ひつよう関心かんしんわれた、いわば世俗せぞくてき社会しゃかい慣習かんしゅうてきなケアに没頭ぼっとうしているこのわたしからの一種いっしゅ超越ちょうえつ意味いみしていないか。……実際じっさい、ノディングスもまた〔「なんじ人格じんかくのなかのうちなる人間にんげんせい」(カント)や「うちなるひと」(アウグスティヌス)同様どうように〕、倫理りんりてき自己じこを「うちなる他者たしゃ」〈49〉とんでいる箇所かしょがある。/ところが、ノディングスは倫理りんりてき自己じこがこの具体ぐたいてきわたしから遊離ゆうりするのをつとめてけてもいる。……かりに、ノディングスの構想こうそうのなかに、個々人ここじんがみずからを超越ちょうえつする契機けいきもとめるとすれば、関係かんけいむすぶことそのことがまさにそれである。しかも、そこには享受きょうじゅよろこび(joy)がともなう。……このよろこびは他者たしゃへの操作そうさやそれによる自己じこ目的もくてき達成たっせいからしょうじるものではない。……わたし自身じしん他者たしゃあらわれるへと変容へんようし、他者たしゃれるとともにわたしわっていくことのよろこびにほかならない。かくして、ノディングスによれば、「れ、れられること、ケアし、ケアされること。これが人間にんげん基本きほんてきなありようであり、その根本こんぽんてき目的もくてきである」〈73〉。/だとすれば、倫理りんりてき自己じこへのケアはたしかにケアリングの倫理りんり根底こんていをなしているとしても、これと個々ここ他者たしゃへのケアを階層かいそうをなしたもとづけ関係かんけいのようにとらえてはあやまることとなる。ケアリングの倫理りんりからすれば、日常にちじょうおこなわれる他者たしゃへのケアこそがわたし倫理りんりてき自己じこつよめ、ケアの維持いじ賦活ふかつしてくれるのであり、一方いっぽう倫理りんりてき自己じこをケアすることで、ともすれば私欲しよく疲労ひろう不和ふわゆえに途絶とぜつしかねない日常にちじょうのケアはささえられつづけていくものなのである。(53-54)

 3-8. 理想りそう涵養かんよう他者たしゃ倫理りんりてき自己じこ
 倫理りんりてき自己じこはケアの経験けいけんから形成けいせいされ、わたしたちはまずケアされるがわとしてうまれてくる。それゆえ、大人おとなどもに適切てきせつなケアをする責任せきにんをもっている。……むろん、だれ他者たしゃ倫理りんりてき自己じこ形成けいせいすることはできない。だが、ども自身じしんのなかに倫理りんりてき自己じこそだっていくための必要ひつよう条件じょうけんたすようなケアをすることは、ケアリングの倫理りんりからして可能かのうであり、また教育きょういく目的もくてきであろう。(54-55)

 4. 正義せいぎかかわるいは正義せいぎなしでこたえうるか
 ふさわしいものにそれにふさわしい権利けんり資格しかく授与じゅよすることは正義せいぎ問題もんだいだ。ケアについても、「だれがケアされる権利けんりをもつか」「ケアされる権利けんりをもつもの平等びょうどうにケアされているか」「ケアされるもの権利けんりとして要求ようきゅうできる限度げんどはどこまでか」といった正義せいぎをめぐるいがある。ケアしケアされる関係かんけい維持いじこそをぜんとする「ケアの倫理りんり正当せいとう強調きょうちょうしない」〈95〉としても、……ケアリングの倫理りんりはこれらのいにたいして、権利けんり平等びょうどう資格しかくといった正義せいぎかかわる概念がいねんもちいずにどのようにこたえをせるのだろうか。(55)

 4-1. ケアされる範囲はんい
 ケアにもとづく倫理りんりは、その批判ひはんしゃ指摘してきするように、身近みぢかなひとだけを配慮はいりょするような倫理りんりだろうか。たしかに、「わたしたちの責務せきむ関係かんけいによって制限せいげんされ、範囲はんいさだめられる」〈86〉以上いじょう普遍ふへんてきなケアは否定ひていされる。だが、……このことは不平等ふびょうどう是認ぜにんするものではない。なぜなら、見知みしらぬ他人たにんだったひとがわたしのケアすべき範囲はんいはいってくる可能かのうせい否定ひていされていないからだ〈93〉。したがって、普遍ふへんてきなケアの否定ひていは、見知みしらぬ他人たにんをケアすべきではないとかケアしなくてもよいという倫理りんりてき指令しれいではなく、しんをこめたケアのできる範囲はんい現実げんじつにはかぎられているという事実じじつじょう制約せいやくとみるべきである。ケアする自分じぶん能力のうりょく散逸さんいつ消尽しょうじんするのをふせぎ、現実げんじつにケアできる範囲はんいみとどまることが、倫理りんりてき自己じこへのケアから帰結きけつするわけである。(55-56)

 4-2. ケアのディレンマ
 ノディングスはディレンマのひとつに、黒人こくじん友人ゆうじん人種じんしゅ差別さべつ主義しゅぎしゃ親類しんるいいたばさみになるれいをあげている。ケアするものとしては友人ゆうじん親類しんるい両方りょうほうをケアしなくてはならない。だが、友人ゆうじん親類しんるいそうそいしたらどうするか。この場合ばあいおびやかされているほうを優先ゆうせんすべきである〈111〉。……正義せいぎ倫理りんりからすれば、とがめ人種じんしゅ差別さべつ主義しゅぎしゃにある。人種じんしゅ差別さべつ主義しゅぎしゃ攻撃こうげきされる場合ばあい、なぜ、まもらなくてはならないのか。原理げんり原則げんそくによって裁断さいだんすることこそケアリングの倫理りんりにとってもっとむべきことだからだろう。それは正義せいぎ倫理りんりからすれば正当せいとうできるふるまいだとしても、ケアするひととしての倫理りんりてき自己じこ放棄ほうき意味いみしている。「正義まさよし」にうらづけられた一方いっぽう支持しじし、他方たほう糾弾きゅうだんする態度たいどよりも、対立たいりつする両者りょうしゃをケアすることで、場合ばあいによっては、両者りょうしゃ対立たいりつ解消かいしょうされ、たとえそのひとが断罪だんざいされるべくして断罪だんざいされてきたのだとしても、そのひとをひょっとすると改悛かいしゅんさせる効果こうかをあげることがあるかもしれない。ケアにもとづく倫理りんり断罪だんざい裁断さいだん不毛ふもう指摘してきしているともいえる。……ケアしケアされる体験たいけん倫理りんりてき自己じこ成立せいりつにとっての必要ひつよう条件じょうけんであったとしても、それは十分じゅうぶん条件じょうけんではない。かりに、わたしがだれをもケアするひとであろうとしているにしても、わたしがケアしているひともまたそうである保証ほしょうにはならない。倫理りんりてき自己じこという規準きじゅん自己じこ誠実せいじつせいにとどまり、他者たしゃ倫理りんりせい判断はんだんする規準きじゅんとはなりえないのだ。ケアリングの倫理りんり整合せいごうてき解釈かいしゃくしようとすれば、指弾しだんされているがわ孤立こりついやるのではなく、積極せっきょくてきにケアすることで、指弾しだんされているがわ自身じしん当人とうにん倫理りんりてき自己じこへのケアをとりもどし、(正当せいとうにも)指弾しだんされているような態度たいど行為こういをみずからやめるようにうながすことしか、なしうることはないだろう。(56-57)

 4-3. ケアの限界げんかい
 正義せいぎによる制約せいやくがなければ、ケアは際限さいげん要請ようせいされるのではないか。……ノディングスもまたケアの限界げんかい設定せっていする。倫理りんりてき自己じこ維持いじする可能かのうせいがそれである。「ケアするひとは、他者たしゃ故意こい自分じぶん身体しんたいてき自己じこ倫理りんりてき自己じこにたいする明確めいかく脅威きょういとならないかぎり、ケアするひととして他者たしゃせっしなくてはならない」〈115〉。倫理りんりてき自己じこにたいする脅威きょういとは、ケアする意欲いよくをすっかりうしなうほどの打撃だげき疲労ひろう意味いみしていよう。裏返うらがえしていえば、ノディングスがケアするひとの有限ゆうげんせい強調きょうちょうしているわけである。だから、ケアするはずのもの絶望ぜつぼうてき状況じょうきょうでケアされるべき対象たいしょうころしてしまったとしても、「ころすなかれ」という原理げんりのもとに裁断さいだんすることはできないとされる〈107〉。/だとすれば、ケアの限界げんかい各人かくじんのケアする能力のうりょく、おかれた状況じょうきょう左右さゆうされることになるだろう。実際じっさい、ノディングスはそうべている。「ケアするひとの内的ないてき対話たいわのうちに真偽しんぎ正邪せいじゃかんする最終さいしゅう決定けっていがある」〈108〉。ただし、すぐにこうくわえる。「だから、自己じこ欺瞞ぎまん倫理りんりてき理想りそう破壊はかいする潜在せんざいりょくをもっている」。したがって、ケアするひとが自身じしんのケアの限界げんかい設定せっていするとしても、その設定せってい恣意しいてきであってよいわけではない。それが自己じこ欺瞞ぎまんおちいっていない保証ほしょうは、ひとえに、内的ないてき対話たいわ相手あいてである倫理りんりてき自己じこうちなる他者たしゃとしての他者たしゃせい確保かくほしているかどうかにかかっている。そして、それは……、他者たしゃ受容じゅようすべく自分じぶん自身じしん変容へんようしていくことと関連かんれんしている。(57-58)

 5. 結語けつご
 ……ノディングスがあきらかに整合せいごうせいいているとおもわれるてん性差せいさのあつかいである。ノディングスはケアリングの倫理りんり女性じょせい倫理りんりともんでいる。だが、生物せいぶつがくてき性差せいさとケア志向しこうとをむすびつける経験けいけんてき問題もんだいろんじないと宣言せんげんする〈2〉。しかしまた、女性じょせいとしての経験けいけん素朴そぼく論拠ろんきょとして援用えんようされる〈28〉箇所かしょ散見さんけんする。……生物せいぶつがくてき説明せつめい力点りきてんをおけば、育児いくじがケア経験けいけんふかつうじている以上いじょう、ケアリングの倫理りんり性差せいさ決定けっていろんささえられてしまうはめになるだろう。このてんでは、ケアリングの倫理りんりは、女性じょせい特定とくてい価値かちかんしつける「お馴染なじみの説教せっきょうおんなとなえただけ」というクーゼのひょうがまことにてきたものにおもえてくる。/本稿ほんこうでは、ケアリングの倫理りんり基底きてい倫理りんりてき自己じこへのケアにみた。ただし、この倫理りんりてき自己じこそれ自身じしん他者たしゃへのケアのなかで育成いくせいされ、維持いじされる。しかも、この倫理りんりてき自己じこ維持いじが、ケアすべき範囲はんいさだめ、ディレンマを解決かいけつし、ケアの限界げんかい設定せっていするときにも究極きゅうきょく条件じょうけんとしてはたらいている、倫理りんりてき自己じこへのケアが内的ないてき対話たいわにとどまるというまさにこのてんに、ケアリングの倫理りんりにたいする評価ひょうかはかかっている。批判ひはんするがわは、クーゼのように「外部がいぶ道徳どうとくてき支店してん欠如けつじょ」をつく。私見しけんによっても、ケアリングの倫理りんりには、たとえば、はからいをなくし、しんきよらかにたもてば、すべてがただしい姿すがた自分じぶんしんかがみうつってくるとしんじるような神秘しんぴ主義しゅぎしゃ信念しんねん吐露とろにひとしくみえるめんがある。……/ケアリングの倫理りんりにたいして積極せっきょくてき評価ひょうかあたえるとすれば、それがなま経験けいけんいちめん的確てきかくあらわしているてんである。ケアには「大切たいせつにする」という意味いみふくまれているので、ケアの要請ようせいは「人生じんせいきるにあたいするものの大半たいはんあたえてくれる機会きかいである」〈52〉。……その享受きょうじゅよろこびは意図いとてき設計せっけいによるのではなく、自分じぶん偶然ぐうぜん出会であうものを受容じゅようし、それによってみずから変容へんようしていく過程かていにある。……ノディングスが倫理りんりてき自己じこ事実じじつとしてのこのわたしから遊離ゆうりした超越ちょうえつてきなものとしてかたらなかったことについての解釈かいしゃくもとめるとすれば、つぎのようになるだろう。それは、ひとつには、日常にちじょうてき社会しゃかい慣習かんしゅうてきおこなわなくてはならないケアのなかにもなま根源こんげんてき意義いぎよろこびとがふくまれていることを指摘してきするためである。そしてまたひとつには、倫理りんりてき自己じこ個々ここ経験けいけんとは独立どくりつ堅忍不抜けんにんふばつなものとして確立かくりつされると主張しゅちょうするのではなくて……、ケアすることとそれをささえる倫理りんりてき自己じこは、それ自体じたい、つねにケアされなくてはたもたれない、きずつきやすいものであることをあらわすためである。(58-60)

山根やまねじゅんけい 


上野うえの千鶴子ちづこ

◆ケアをかたることの理由りゆう意義いぎ
ケアは社会しゃかい現象げんしょうであり、それもケアが社会しゃかい現象げんしょうになったのは最近さいきんのことである。ケアが社会しゃかい現象げんしょうになったことを、ちょう高齢こうれいやそれにともなう介護かいご負担ふたん増大ぞうだいする論者ろんしゃもいるが、社会しゃかいなに負担ふたんかんじるかは、その社会しゃかいによってことなる。どんなにたくさんの高齢こうれいしゃがいても、それらの人々ひとびとをケアの対象たいしょうかんがえず、それにたいする責任せきにん社会しゃかいわなければ、ケアの負担ふたん社会しゃかいには発生はっせいしない。/なぜケアをかたるのか?はそれ自体じたい歴史れきしてきいである。したがってそのいには、歴史れきしてき意義いぎがある。「ケア」というあたらしい用語ようごは、それが登場とうじょうすることによってこれまで存在そんざいしなかったいをうかがらせ、それまでだれもが「問題もんだい」とおもわなかったものを問題もんだいproblematizeする効果こうかつからである。(上野うえの[2005: 18])

◆ケアとはなに
 ケアという用語ようごが、いつごろからだれによって使つかわれはじめたかは、判然はんぜんとしない。英語えいごけんでは80年代ねんだいごろから使つかわれはじめ、90年代ねんだいにはケアを主題しゅだいとする研究けんきゅうしょ次々つぎつぎ刊行かんこうされるにいたった。だが、そのおおくは、ケアを第一義だいいちぎてきに、チャイルド・ケアと同義どうぎとみなしており、エルダー・ケア(高齢こうれいしゃ介護かいご)をふく包括ほうかつてき用語ようごとしては、おずおず使つかわれはじめたにすぎない。/まず英語えいごけんにおけるcareの用語ようごほう検討けんとうしておこう。動詞どうしのcareは、care of(世話せわする)のほかに、care about(配慮はいりょする、にかける)、care for(ほしがる)などと多義たぎてきもちいられる。名詞めいしとしてのcareは、したがって、世話せわ配慮はいりょ関心かんしん心配しんぱいなどの意味いみっている。「世話せわ」に注目ちゅうもくすれば、身体しんたいてき物理ぶつりてき側面そくめんを、「関心かんしん」や「配慮はいりょ」に焦点しょうてんをおけば、心理しんりてき側面そくめん強調きょうちょうすることになる。形容詞けいようしとしてのcaringは、自動的じどうてき母性ぼせいむすびついてcaring motherともちいられ、nurturing motherとほぼ同義どうぎもちいられてきた。研究けんきゅうしめすように、ケアは第一義だいいちぎてきに「どものケア」をし、その、「高齢こうれいしゃ介護かいご」や「病人びょうにん看護かんご」「障害しょうがいしゃ介助かいじょ」、さらには「しんのケア」というように、拡張かくちょうして使つかわれるようになった。/この事情じじょうは、日本語にほんごけんでは逆転ぎゃくてんしている。日本語にほんごでは「どものケア」については「保育ほいく」や「育児いくじ」という用語ようご確立かくりつしており、……ケアという用語ようご使つかわれはじめたのは、90年代ねんだい以降いこう。むしろ高齢こうれいしゃ介護かいご分野ぶんやさきだった。その英語えいごけん研究けんきゅう動向どうこう影響えいきょうされて、「育児いくじ」「介助かいじょ」「介護かいご」、場合ばあいによっては「看護かんご」もふくむジェネリックな用語ようごとして、わる適切てきせつ用語ようごがなかったために、この用語ようごはカタカナことばのまま流通りゅうつうするようになった。/ケアという用語ようご採用さいようには、ふたつの系譜けいふがあった。ひとつは看護かんごがく、もうひとつは福祉ふくし分野ぶんやである。前者ぜんしゃは、医療いりょうcureと看護かんごcareを区別くべつし、さらに看護かんご医療いりょうにたいする職業しょくぎょうてき自律じりつせいたかめるという看護かんごがく業界ぎょうかい戦略せんりゃくによって、積極せっきょくてき採用さいようされた。後者こうしゃは、たかまりつつある高齢こうれいしゃ介護かいご負担ふたん対応たいおうして、介護かいご可視かしてき主題しゅだいとし、福祉ふくし政策せいさくれようとする研究けんきゅうしゃによって自覚じかくてき採用さいようされた。後者こうしゃは、前者ぜんしゃ医療いりょう改革かいかくにとっても、つごうがよかった。社会しゃかいてき入院にゅういんなどの増大ぞうだいする高齢こうれいしゃ医療いりょう負担ふたんたいして、医療いりょう介護かいご区別くべつすることは、高齢こうれいしゃ福祉ふくし医療いりょう政策せいさくからはな制度せいど設計せっけいのうえでも、こうつごうだったからである。/ケアをタイトルに使つかった書物しょもつ翻訳ほんやくしょのぞいておおくない。そのこと自体じたいが、「ケア」という用語ようご日本語にほんごとしてのじゅくかたがじゅうぶんでないことを示唆しさするが、……そうじて「ケア」をタイトルとして書物しょもつおおくは、「ケア」を定義ていぎせずにもちいるか、定義ていぎあたえたとしても抽象ちゅうしょうてき本質ほんしつ規定きていか、さもなくば漠然ばくぜんとしすぎているために、それ以降いこう議論ぎろん展開てんかいには意味いみをなさないものがおおい。(上野うえの[2005: 19-20])

◆ケアの定義ていぎ
 メアリー・デイリーによれば、これまでのところ、「もっとも妥当だとうせいのある」「ケア」の定義ていぎとは以下いかのようなものである。「依存いぞんてき存在そんざいである成人せいじんまたはどもの身体しんたいてきかつ情緒じょうちょてき要求ようきゅうを、それがになわれ、遂行すいこうされる規範きはんてき経済けいざいてき社会しゃかいてき枠組わくぐみのもとにおいて、たすことにかかわる行為こうい関係かんけい」。/わたしはこの定義ていぎ同意どういするが、この定義ていぎ採用さいようする効果こうかには、以下いかむっつがある。だいいちは、この定義ていぎ社会しゃかいてきかつ歴史れきしてき文脈ぶんみゃく依存いぞんせいきこまれていること(つまり社会しゃかいがくてきであること)、したがって社会しゃかいてきかつ歴史れきしてき比較ひかく可能かのう概念がいねんであることである。/だいに、……それが相互そうご作用さようてきであることである。すなわち、ケアとは、ケアするものとケアされるものとの「相互そうご行為こういinteraction」であって、複数ふくすう行為こういしゃactorの「あいだ」に発生はっせいする。……/だいさんに、役割やくわりとその遂行すいこう社会しゃかいてき配置はいちふくむことで、この定義ていぎがジェンダー、さらには階級かいきゅう人種じんしゅのような変数へんすうれ、そのあいだの比較ひかく可能かのうにすることである。/だいよんに、この定義ていぎ成人せいじんどもをふくむことで、介護かいご介助かいじょ看護かんご、そして育児いくじまでの範囲はんいをおおい、だい身体しんたい情緒じょうちょ両方りょうほうふくむことで、ケアの世話せわ配慮はいりょ両面りょうめんをカバーし、だいろく規範きはんから実践じっせんまでをふくむことで、ケアの規範きはんてきアプローチと記述きじゅつてきアプローチをともに可能かのうとする。(上野うえの[2005: 21-22])

◆ケアワークとはなに
 ケアにワークをつければ、ケアワークとなるが、ケアとケアワークとはどうちがうだろうか。/そのものずばり "Care Work"をタイトルとする英語えいごけん主要しゅよう編著へんちょ―Daly, Mary, ed., 2001, Care Work: The Quest for Security, International Labor Office.とMeyer, Maddonna Harrington, ed., 2000, Care Work: Gender, Class, and the Welfare State, Routledge.―では、ケアとケアワークの定義ていぎ互換ごかんてきもちいられている。後者こうしゃ書物しょもつでは、ケアについての明示めいじてき定義ていぎはなく、そのわりにエイベルによる「ケアの歴史れきしてきパースペクティブ」(2000)という論文ろんぶん収録しゅうろくされており、ケア概念がいねんが、歴史れきしてきにどう変化へんかしてきたかがろんじられている。ケアが文脈ぶんみゃく依存いぞんてきであるとすれば、当然とうぜんそれにたいして(暫定ざんていてき定義ていぎのほかには)定義ていぎあたえることができない。そして、これらの著者ちょしゃたちは、ケアが愛情あいじょう労働ろうどう両方りょうほうふくむことをみとめるが、ケアがいつ愛情あいじょうになり、どこから労働ろうどうになるかもまた文脈ぶんみゃく依存いぞんてきであるから決定けっていできない。/おおくはフェミニストのになるこれらの著作ちょさくが、ケアをろんじるのに、ケアワークを自明じめい前提ぜんていとして概念がいねんするのは、「家事かじ労働ろうどう」「不払ふばら労働ろうどう」「あい労働ろうどうとう理論りろん蓄積ちくせきがすでにあるからである。そしてケアワークという概念がいねんもちいるからこそ、ケアがワークではない特殊とくしゅケースを理論りろんすることができる。そして「不払ふばら労働ろうどう」という概念がいねんがすでに利用りよう可能かのうだからこそ、ケアワークのなかで、有償ゆうしょう労働ろうどう無償むしょう労働ろうどう両方りょうほう考察こうさつすることもできる。/たとえば先述せんじゅつのエイベル(2000)は、19世紀せいきには上流じょうりゅう階級かいきゅうにとっては高齢こうれいしゃ病人びょうにん障害しょうがいしゃどもとうのケアは家事かじ使用人しようにん仕事しごとであり、わって家事かじ使用人しようにんたちは自分じぶん家族かぞくのケアに従事じゅうじすることができないディレンマをかかえていたことを指摘してきする。ケアが「中産ちゅうさん階級かいきゅう」の「既婚きこん女性じょせい」の無償むしょう労働ろうどうになったのは、近代きんだい家族かぞく成立せいりつ以後いごのことであり、したがってケアには(家事かじおなじく)、ジェンダー、階級かいきゅう人種じんしゅ民族みんぞく)が変数へんすうとして色濃いろこ刻印こくいんされていた。/本論ほんろんでも、わたしは基本きほんてきにフェミニストのケアワークろん継承けいしょうする。そのてんで、デイリーらの以下いか立場たちば共有きょうゆうしている。だいいちに、ケアの価値かち尊重そんちょうされるべきこと。だいに、ケアは労働ろうどうとしてあつかわれるべきこと。だいさんに、ケアはジェンダー公正こうせい立場たちばから配分はいぶんされるべきこと。(Daly ed. [2001: 59])(上野うえの[2005: 22-23])

◆ケアの概念がいねん
 デイリーらの著作ちょさくは、それ自体じたい、ケアの概念がいねんこころみでもある。……ガイ・スタンディングによれば、ケアワークは「一人ひとりもしくはそれ以上いじょう人々ひとびとたいして、身体しんたいてき心理しんりてき情緒じょうちょてき、および発達はったつじょう必要ひつようたす労働ろうどう」(Daly ed. [2001: 17])と定義ていぎされる。「発達はったつじょう」がふくまれていることは、ケアが一義的いちぎてきには育児いくじすことを意味いみしている。/スタンディングはケアワークを以下いかのように定式ていしきしている。ケアワーク=時間じかん所要しょよう時間じかん待機たいき時間じかん)+努力どりょく技能ぎのう社会しゃかいてきスキル+情緒じょうちょてき投資とうし+ストレス(ケアののニーズにこたえられないのではないかという不安ふあん監督かんとくしゃ周囲しゅうい期待きたいこたえられないのではないかという不安ふあん)(Daly ed. [2001: 18])。/これらの項目こうもくがケアワークのしょ要素ようそについて網羅もうらせいつかどうかには検討けんとう余地よちがあるが(たとえば報酬ほうしゅうという項目こうもく社会しゃかいてき経済けいざいてきであれ、情緒じょうちょてきであれ―がけていることはただちに指摘してきできる)、この定義ていぎでもケアワークはしゅとしてケアのあたしゅ帰属きぞくする活動かつどう行為こうい一種いっしゅであるとなされる。これに「関係かんけい」の概念がいねんくわえたのはデイリーである。/デイリーはさき引用いんようした定義ていぎにたどりつくまえに、ケアの「慣習かんしゅうてき定義ていぎ」として「病人びょうにん高齢こうれいしゃ障害しょうがいしゃおよび依存いぞんてきどもを世話せわすることにかかわる行為こうい関係かんけい」(Daly ed. [2001: 34])という定義ていぎげているが……これにたいして……(1)「自分じぶんうごける成人せいじんも、ケアを必要ひつようとしている」(Daly ed. [2001: 176])ことを概念がいねんできないこと、(2)「依存いぞんてき」とはどういう状態じょうたいをいうのかの判定はんていがむずかしいこと、(3)「行為こうい」のうち、ケアにあたるものとケアにあたらないものの境界きょうかいせんをどうくかが決定けっていできない、とナンシー・フォルバーは批判ひはんする。フォルバーの批判ひはん重要じゅうようなものである。一番いちばんめの批判ひはんは、「依存いぞんてき存在そんざい」の構築こうちくが、かえってだれにも依存いぞんしないロビンソン・クルーソーてきな「自立じりつした個人こじん」の神話しんわ成立せいりつさせてしまうことの危惧きぐからている。……ばんめの「依存いぞんてき」についての境界きょうかい問題もんだいふくみである。……さんばんめのケアとケアでないものとの境界きょうかいせんは、たとえば身体しんたいてき情緒じょうちょてきケア以外いがいの、……ほとんどあらゆる活動かつどうが〔その外延がいえん拡張かくちょうしていけば〕「ケア」にふくまれてしまうことになる。そうなれば、ケアという概念がいねん失効しっこうしてしまう。/現実げんじつには、経験けいけんてき研究けんきゅうのために、暫定ざんていてき境界きょうかいせんを(文脈ぶんみゃく依存いぞんてきに)そのつどくしかないことに彼女かのじょ同意どういし、「抽象ちゅうしょうてき概念がいねん論議ろんぎはなれて、もっと錯綜さくそうした経験けいけん研究けんきゅう領域りょういきはいること」(Daly ed. [2001: 179])を提案ていあんする。……/以上いじょうのような議論ぎろん経緯けいいからすれば、ケアの概念がいねん定義ていぎそれ自体じたいには、それほどの意味いみはない。むしろ、ケアおよびケアワークの概念がいねん文脈ぶんみゃく依存いぞんてきであることが確認かくにんされればよい。……〔したがってわれるべきは〕いかなる文脈ぶんみゃくのもとで、ある行為こういはケアになるのか? またいかなる文脈ぶんみゃくのもとで、ケアは労働ろうどうとなるのか?〔である〕。(上野うえの[2005: 23-24])

◆ケアへの人権じんけんアプローチ
 デイリーらが依拠いきょするケアへの基本きほんてきアプローチを、わたしもまた、採用さいようする〔が〕……それはケアへの人権じんけんアプローチ human right approach careというべきものである。それはケアをひろ人権じんけんのうちの「社会しゃかいけん」の一部いちぶととらえる見方みかたである。
 人権じんけんhuman rightsとは、文字もじどおり「市民しみんてきしょ権利けんり集合しゅうごう a set of civil rights」をす。そしてこの「しょ権利けんり集合しゅうごう」の範囲はんいは、歴史れきし社会しゃかいてき文脈ぶんみゃくによって変動へんどうする。……「ケアの権利けんり」とは、特定とくてい歴史れきしてき文脈ぶんみゃくのもとで登場とうじょうしたものであり、また特定とくてい社会しゃかいてき条件じょうけんのもとではじめて権利けんりとして性格せいかくのものである。したがって、ケアの人権じんけんアプローチとは、規範きはんてきアプローチの一種いっしゅであるが、つぎふたつの重要じゅうよう意義いぎつ。
 だいいちに、それはケアをだつ自然しぜんする効果こうかつ。つまり、ケアが「自然しぜんじょう」でも「母性ぼせいてき本能ほんのう」でもなく、社会しゃかいてき権利けんりとしててられるべき構築こうちくぶつであることをあきらかにする。だい、それは一定いってい社会しゃかいてき条件じょうけん明示めいじすることで、ケアの社会しゃかいてきさい配置はいちについてのビジョンを提示ていじするはたらきをする。
 ……ケアへの人権じんけんアプローチによれば、ケアの権利けんりとは以下いかよっつの権利けんり集合しゅうごうからっている。(1)ケアする権利けんり(2)ケアされる権利けんり(3)ケアすることを強制きょうせいされない権利けんり(4)ケアされることを強制きょうせいされない権利けんり……(4)には「不適切ふてきせつなケアをけることを強制きょうせいされない権利けんり」をふくめることもできる。……
 しょ権利けんり集合しゅうごうとしての人権じんけん内容ないようは、歴史れきしてき文脈ぶんみゃくによって変化へんかするが、わけても社会しゃかいけん社会しゃかい変化へんかにともなって拡張かくちょうされてきた。社会しゃかいけんとしてのケアのよっつの権利けんりのうち、歴史れきしてき最初さいしょ登場とうじょうしたのは「ケアする権利けんり」である。それは自分じぶん親密しんみつ関係かんけいにある他者たしゃどもをふくむ)を自分じぶんでケアする権利けんりをさすが、それというのも、階級かいきゅう人種じんしゅ変数へんすうによって、おおくの男女だんじょが「ケアする権利けんり」をうばわれてきたからである。……
 ケアする権利けんりは、その裏面りめんに「ケアを強制きょうせいされない権利けんり」をつことで、自発じはつせい選択せんたくせいふくんでいる。その意味いみで、「ケアするせい」の自然しぜんというジェンダーイデオロギーは、その自然しぜんせいのもとに選択せんたく余地よちのない強制きょうせいせいふくんでいる。この観点かんてんから、おおくの家族かぞく介護かいご実質じっしつてきには「強制きょうせい労働ろうどう forced Labor」である、とデイリーらは喝破かっぱする。……
 これにたいして「ケアされる権利けんり」は、歴史れきしてきにはおくれて登場とうじょうしたものである。……ケアされる権利けんりは、ども、高齢こうれいしゃ障害しょうがいしゃなどの社会しゃかいてき弱者じゃくしゃ権利けんりだから、国家こっか共同きょうどうたいがそのメンバーの福祉ふくしwell-beingに責任せきにんつという福祉ふくし国家こっか(もしくは社会しゃかい)とそのもとでの社会しゃかいけん理念りねん登場とうじょうしなければまれない。……
 他方たほうで、「ケアされることを強制きょうせいされない権利けんり」、わけても「不適切ふてきせつなケアをけることを強制きょうせいされない権利けんり」は、社会しゃかいてき弱者じゃくしゃにとってきわめて重要じゅうよう権利けんりだろう。ケアする権利けんりがケアを強制きょうせいされない権利けんり表裏ひょうりむすびついているように、ケアされる権利けんりはケアを強制きょうせいされない権利けんり表裏ひょうりむすびつくことで、ケアの自己じこ決定けっていけん保証ほしょうする。そのてんでは、措置そちのような、ケアの内容ないよう公的こうてき機関きかん利用りようしゃ意向いこうにかかわらず専断せんだんてき決定けっていする行政ぎょうせい専門せんもんのパターナリズムは、この「ケアされる権利けんり/ケアを強制きょうせいされない権利けんり」の侵害しんがいであるといえる。
 もちろんおおくの人権じんけんおなじく、「ケアの権利けんり」もおおくの場合ばあい侵害しんがいされているし、一定いってい社会しゃかいてき条件じょうけんがなければ行使こうしすることはできない。……本論ほんろんが〔「ジェンダー公正こうせい」をその基準きじゅんとする〕設計せっけい科学かがくであるためには、それが可能かのう条件じょうけんfeasibilityを探究たんきゅうすることにある。……
 ケアする権利けんり選択せんたくせいをともなうためには、ケアを選択せんたくすることで社会しゃかいてき損失そんしつけないことが担保たんぽされる必要ひつようがある。つまりケアのあたしゅが、ケアすることをえらんでもえらばなくても、そのどちらの選択せんたくをしえもソンもトクもしない、「選択せんたく中立ちゅうりつてきな」制度せいどてき条件じょうけん必要ひつようである。……スタンディングはケアする権利けんりについてろんじるなかで、「ケアをあたえることは組織そしきてきおとしめられている」(Daly ed. [2001: 19])と指摘してきする。なぜならば、ケアすることを選択せんたくすることによって、「労働ろうどう障害しょうがいとなることで依存いぞんてき存在そんざいとなる」ばかりでなく、「社会しゃかいてき地位ちい低下ていかまねき」、そのうえ「蔑視べっしあわれみの対象たいしょうとさえなる」(Daly ed. [2001: 17-19])からである。……
 他方たほうで、ケアすることを強制きょうせいされない権利けんりは、ケアを選択せんたくしない場合ばあい代替だいたい選択肢せんたくし第三者だいさんしゃによるケアの供給きょうきゅうや、ケアサービス商品しょうひん購入こうにゅうなどの可能かのうせい)がどれだけあるかに依存いぞんしている。……介護かいご保険ほけんにいう介護かいご社会しゃかい目的もくてきは、この代替だいたい可能かのうせい供給きょうきゅう可能かのうにすることにある。介護かいご保険ほけんほう策定さくてい過程かていで、家族かぞく介護かいごしゃへの現金げんきん給付きゅうふ議論ぎろん対象たいしょうになったが、以上いじょう議論ぎろん沿えば、この現金げんきん給付きゅうふは、(1)第三者だいさんしゃによる代替だいたいサービスが利用りよう可能かのう選択肢せんたくしとしてじゅうぶんに存在そんざいしており、(2)そのうえでその利用りよう選択せんたくしなかった家族かぞく介護かいごしゃが、その選択せんたくをしなかった場合ばあい同等どうとう所得しょとく保障ほしょう水準すいじゅんたっする場合ばあいにのみ、正当せいとうされることになる。
 ケアされる権利けんり/ケアされることを強制きょうせいされない権利けんりは、ケアする権利けんり/ケアすることを強制きょうせいされない権利けんり以上いじょう侵害しんがいされているといわなければならない。というのも、社会しゃかいてきにはケアのあたしゅよりものほうがはるかに社会しゃかいてき弱者じゃくしゃであることがおおいからである。したがって、ケアされる権利けんりについては、第三者だいさんしゃによる権利けんり擁護ようごadvocacyが不可欠ふかけつとなる。だが、その場合ばあいでも、代理だいり代行だいこうによる当事とうじしゃ意志いし決定けっていけん侵害しんがい可能かのうせいのこる。ケアはあたしゅ相互そうご行為こういとはいえ、対等たいとう交換こうかんとはえない。双務そうむせいたない交換こうかんは、そのあたしゅのあいだに債権さいけん債務さいむ関係かんけい発生はっせいさせる。そのあいだに対等たいとうせい担保たんぽするのが、契約けいやく関係かんけいであり、金銭きんせんてき報酬ほうしゅうである。ケアの有償ゆうしょうせいは、ケアされるがわ自己じこ決定けっていけん保証ほしょうのためには重要じゅうようだが、ここでも、ケアは無償むしょうであることで社会しゃかいてき価値かちたかめ、有償ゆうしょうであることで価値かちひくめるという奇妙きみょうなディレンマに出会であう。……
 ケアを相互そうご行為こういとしてとらえる立場たちばは、以上いじょうのようにケアの権利けんりをもまた、そのあたしゅじゅうせい、しかも能動のうどうせい受動じゅどうせい両義りょうぎせいにおいてとらえることを可能かのうにする。(上野うえの[2005: 24-29])

◆ケアへの規範きはんてきアプローチ批判ひはん
 わたしがここでしゅとして批判ひはん対象たいしょうとするのは日本語にほんごけん文脈ぶんみゃくにおける「ケア」概念がいねん受容じゅようであり、それも本質ほんしつ主義しゅぎてき系譜けいふぞくするものである。/結論けつろん先取さきどりすれば、ケアへの哲学てつがくてき倫理りんりがくてきアプローチには以下いかのような共通きょうつうてんがある。/だいいちは、ケアをそれ自体じたいで「よきもの」とする規範きはんせいである。/だいは、ケアをあつかさい抽象ちゅうしょうせい過度かど一般いっぱんである。したがって、ケアをろんじるにあたって、どのような行為こうい実践じっせんてき具体ぐたいてきにケアにあたるかについての言及げんきゅうがきわめてすくない。/だいさんは、本質ほんしつ主義しゅぎ、すなわちだつ文脈ぶんみゃくせいである。べつなことばでいえば、どんな文脈ぶんみゃくにも妥当だとうするような普遍ふへん理論りろんへの志向しこう共有きょうゆうしている。/だいよんに、だつ文脈ぶんみゃくせいから帰結きけつする効果こうかのひとつだが、とりわけそのだつジェンダーせい指摘してきできる。……ケアの本質ほんしつろんは、しばしば「ケアとはなにであるべきか?」という規範きはんてきアプローチをとる。というのも、もしケアとは「本質ほんしつてき」にXであり、現実げんじつのケアがYでしかなければ、YはXにわせて否定ひていされるなにものかになるからである。そしてこのたね規範きはんてきアプローチは、ケアの実践じっせんてき具体ぐたいてき内容ないようについて関心かんしんたない傾向けいこうがある。/したがって本論ほんろん関心かんしんはそうでないアプローチ、すなわちつぎのようなものとなる。(1)規範きはんてきアプローチから記述きじゅつてき経験けいけんてき)アプローチへ (2)規範きはんてきアプローチそれ自体じたい文脈ぶんみゃく歴史れきし)。(上野うえの[2005: 29-30])

◆メイヤロフの「ケアの本質ほんしつろん」への批判ひはん
nn ……メイヤロフへの批判ひはん以下いかよんてんにわたってくわえよう。/だいいちは、ケアの対象たいしょう人格じんかくからアイデアまでをふくむような過度かど一般いっぱんることによって、かえって定義ていぎ概念がいねんし、分析ぶんせき記述きじゅつじょう妥当だとうせいうしなっていることである。/だいに、「ケア」概念がいねんのインプリケーションが「どもへのケア」に限定げんていされているために、病人びょうにん障害しょうがいしゃ高齢こうれいしゃへの言及げんきゅう不在ふざいである。/だいさんに、ケアの対象たいしょう依存いぞん保護ほご、そしてコントロールの対象たいしょう限定げんていされることで、パターナリズムをまぬがれない。/だいよんに、「父親ちちおやのケア」がしばしばべられるのにたいし、「母親ははおやのケア」は見事みごと不可視ふかしされていることをつうじて、ここでは言説げんせつによるだつジェンダー政治せいじはたらいている。実践じっせん場面ばめんではジェンダーされていることが周知しゅうちのケアを、あたかもジェンダー関与かんよであるかのようにあつかうこと自体じたいが、言説げんせつじょう遂行すいこうせいっている。(上野うえの[2005: 31-32])

◆ケアの社会しゃかいがく
 ケアの倫理りんりろんじた社会しゃかい学者がくしゃ研究けんきゅうには、Chambliss, Daniel, 1996, Beyond Caring, University of Chicago(=2000 浅野あさの耀子ようこやく『パヂのこうがわ看護かんごおや直面ちょくめんする道徳どうとく妬‘倫理りんり矛盾むじゅん日本にっぽん看護かんご協会きょうかい出版しゅっぱんかい)がある|ぐみたきぎろん研究けんきゅうしゃであるチャンブリベは‖詳細しょうさい観察かんさつとツンタビュー調査ちょうさにもとづいて、看護かんごしょく倫理りんりてきジレンマについてろんじたが、かれ結論けつろん明快めいかいなものである。倫理りんりうためには、選択せんたく自発じはつせいとそれにともな責任せきにんがなければならないが、おおくの看護かんごしょくかれている状況じょうきょうは、医師いしとの権力けんりょく関係かんけいにおける従属じゅうぞくてきなものである。看護かんごしょくが「自律じりつてき決定けっていしゃ」であるという想定そうてい現実げんじつてきであれば、看護かんごしょくに「倫理りんり」をうことはむずかしくなる。そしてチャンブリスは、この状況じょうきょうおおくの女性じょせいしょく)に共通きょうつうすることを指摘してきするのをわすれない。ケアのあたしゅ共通きょうつうするのも、おな状況じょうきょうである。ケアが強制きょうせい労働ろうどうであるような現実げんじつのなかで、倫理りんりうことはなに意味いみするだろうか。かれがこのような結論けつろんたっすることができたのも、かれが「ケアがなにであるべきか」ではなく、「ケアが実際じっさいなにであるか」を、経験けいけんてき観察かんさつにもとづいて、研究けんきゅうした結果けっかである。わたしたちに必要ひつようなのも、このような態度たいどであろう。(上野うえの[2005: 34-35])


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関連かんれん事項じこうにん

関連かんれん事項じこう
ケア研究けんきゅうかい
介助かいじょ介護かいご
ケア/国境こっきょう
立岩たていわさく

安部あべ あきら 2009/02/25 「ケア倫理りんり批判ひはん序説じょせつ」,生存せいぞんがく』1:279-292

ひと
安部あべ あきら
有馬ありま ひとし
伊藤いとう 佳世子かよこ
大野おおの 真由子まゆこ
大谷おおや とおるだか
小幡おばた 光子みつこ
齊藤さいとう 由香ゆか
櫻井さくらい 浩子ひろこ
渋谷しぶや 光美てるみ
篠木しのき すずか
竹林たけばやし 弥生やよい
藤原ふじわら 信行のぶゆき
堀田ほった 義太郎よしたろう
松枝まつえだ 亜希子あきこ
的場まとば 和子かずこ
三野みの 宏治こうじ
吉田よしだ 幸恵ゆきえ
山口やまぐち 真紀まき
渡邉わたなべ あい

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文献ぶんけん[邦文ほうぶん](発行はっこうねんじゅん

【-1990】

【1990-2000】

さいくび さとる 1996「教育きょういくにおける自立じりつ依存いぞん」『岩波いわなみ講座こうざ 現代げんだい社会しゃかいがく』12かん岩波書店いわなみしょてん,pp.97-104.
さいくび さとる 1998『星子ほしこる――言葉ことばなくかたりかける重度じゅうど重複じゅうふく障害しょうがいむすめとの20ねん』,せい書房しょぼう
有賀ありが 美和子みわこ 1991 「「経済けいざいてき依存いぞんせい」とジェンダー」,『東京女子大学とうきょうじょしだいがく紀要きよう論集ろんしゅう』41(2),pp.113-132.
掛川かけがわ 典子のりこ 1993 「フェミニスト・エシクスのしょ問題もんだい」,『女性じょせい文化ぶんか研究所けんきゅうじょ紀要きよう』(昭和女子大学しょうわじょしだいがく)11:31-40 <205>
川本かわもと 隆史たかし  1993 「介護かいご世話せわ配慮はいりょ――《ケア》を問題もんだいするために」,『現代げんだい思想しそう』21-12(1993-11):152-162
広井ひろい 良典よしのり 19971120 『ケアをいなおす――「深層しんそう時間じかん」と高齢こうれい社会しゃかい』,筑摩書房ちくましょぼう,ちくま新書しんしょ,236p. ISBN:9784480057327 (4480057323) 756 [amazon][boople] ※ c04
小山内おさない 美智子みちこ 19970301 『あなたはわたしになれますか――心地ここちよいケアをけるために』中央ちゅうおう法規ほうき,269p. 1575 ISBN-10: 4805815485 ISBN-13: 978-4805815489 [amazon] ※ d c04
川本かわもと 隆史たかし池川いけがわ 清子せいご 199805 『ケアすることといやすこと・1』(シリーズ対談たいだん人間にんげん看護かんごかんがえる いやしの諸相しょそう5) 『看護かんご展望てんぼう』23-6(1998-5):60-67 
川本かわもと 隆史たかし池川いけがわ 清子せいご 199806 『ケアすることといやすこと・2』(シリーズ対談たいだん人間にんげん看護かんごかんがえる いやしの諸相しょそう6) 『看護かんご展望てんぼう』23-7(1998-6):66-73 
◆ネッサ コイル・ロビン グリーン・中村なかむら めぐみ・小迫こさこ 富美恵ふみえ 19980810 緩和かんわケア ケース・スタディ』小学館しょうがくかん,108p. ISBN-10:4796520236 ISBN-13:9784796520232  \1890 [amazon][kinokuniya] ※ c04 (新規しんき)
藤野ふじの ひろし,1998,「帰属きぞくについて」『倫理りんりがく研究けんきゅう』28: 123-129.
早川はやかわ みさお 1999 「「ケアリングマインド」育成いくせいのための教育きょういく理論りろんとその課題かだい : N.ノディングズによるケアの連鎖れんさ構造こうぞう同心円どうしんえん構造こうぞう考察こうさつ中心ちゅうしんに」,『名古屋大学なごやだいがく教育きょういく学部がくぶ紀要きよう 教育きょういくがく』Vol.45,No.2,pp.85-103.
広井ひろい 良典よしのり 20000915 『ケアがく――越境えっきょうするケアへ』医学書院いがくしょいん,268p. ISBN:426033087X 2,415 [amazon][kinokuniya][boople] ※ c04

【2001-2010】

川本かわもと 隆史たかし 2000「自己じこ決定けっていけんうちはつてき義務ぎむ――〈生命せいめいけん政治せいじがく〉の手前てまえで」,『思想しそう』908ごう岩波書店いわなみしょてん,pp.15-33.
小林こばやし のぼる,2000『そだそだてるふれあいの子育こそだて―胎児たいじからの子育こそだがく』,ふう濤社.
有賀ありが 美和子みわこ 2000 『現代げんだいフェミニズム理論りろん地平ちへい――ジェンダー関係かんけい公正こうせい差異さい』,しん曜社.
立岩たていわしん 2000 よわくある自由じゆうへ――自己じこ決定けってい介護かいご生死せいし技術ぎじゅつ青土おうづちしゃ
川本かわもと隆史たかし 2001「均衡きんこう義務ぎむ介護かいご――現代げんだい正義せいぎろん方法ほうほう課題かだい」,『哲学てつがく』52(1),pp.1-13.
中村なかむら 直美なおみ 2001「ケア,正義まさよし自律じりつとパターナリズム」,中村なかむらすすむ高橋たかはし隆雄たかおへん『ケアろん射程しゃてい』,九州大学きゅうしゅうだいがく出版しゅっぱんかい,pp.89‐116.
生田いくた 久美子くみこ 2002「教育きょういくてき関係かんけい基礎きそ概念がいねんとしての「ケア」」,『近代きんだい教育きょういくフォーラム』No.11,教育きょういく思想しそう学会がっかいへん,pp.141-150.
土屋つちや よう 2002 『障害しょうがいしゃ家族かぞくきる』,勁草書房しょぼう
品川しながわ 哲彦てつひこ,2002,「〈ケアの倫理りんりこういち)」『関西大學かんさいだいがく文学ぶんがく論集ろんしゅう』51-3(2002-1): 1-24
川本かわもと 隆史たかし 2003「ケアの倫理りんり制度せいど――さんにんのフェミニストを真剣しんけんけとめること」『ほう哲学てつがく年報ねんぽう』Vol.2003,pp.19-31.
野崎のさき 綾子あやこ 2003『正義まさよし家族かぞくほう構造こうぞう転換てんかん:リベラル・フェミニズムのさい定位ていい』,勁草書房しょぼう
岡野おかのはちだい  2003『シティズンシップの政治せいじがく国民こくみん国家こっか主義しゅぎ批判ひはん』,白澤しらさわしゃ
齊藤さいとう 純一じゅんいち 2003「依存いぞんする他者たしゃへのケアをめぐって――非対称ひたいしょうせいにおける自由じゆう責任せきにん――」,『日本にっぽん政治せいじ学会がっかい 年報ねんぽう政治せいじがく』 ,pp.179−196
浜野はまの けんさん 2004「自立じりつ依存いぞん:「自立じりつした個人こじん」の虚実きょじつ」,『人文じんぶん論究ろんきゅう 』54(1),pp. 1-13.
品川しながわ 哲彦てつひこ,2004,「ケアの倫理りんりこう)――ノディングスの倫理りんりてき自己じこ概念がいねん」『関西大學かんさいだいがく文学ぶんがく論集ろんしゅう』53-4(2004-3): 39-62.
品川しながわ 哲彦てつひこ,20040310,「正義せいぎさかいせっするもの――責任せきにんという原理げんりとケアの倫理りんり」『平成へいせい15年度ねんど関西大学かんさいだいがく重点じゅうてん領域りょういき研究けんきゅう 現代げんだい倫理りんりてき課題かだい対処たいしょしうる規範きはんがく構築こうちく』: 116-129.
平山ひらやま 正実まさみ朝倉あさくら 輝一きいち 20040415 『ケアの生命せいめい倫理りんり, 日本にっぽん評論ひょうろんしゃ, 172p. ISBN-10: 4535982295 ISBN-13: 978-4535982291 2004 [amazon] ※ be c04
佐藤さとう 義之よしゆき,20040430,『物語ものがたりとレヴィナスの「かお」』,あきらよう書房しょぼう
小沢おざわ 牧子まきこ中島なかじま ひろし籌 20040621 しん商品しょうひんする社会しゃかい――「しんのケア」のあやうさをう』よういずみしゃ新書しんしょy112,222p. ISBN:4-89691-826-6 777 [amazon][kinokuniya][boople][bk1] ※ m.,
三井みつい さよ 20040825 『ケアの社会しゃかいがく――臨床りんしょう現場げんばとの対話たいわ,勁草書房しょぼう,270p. ISBN:4326652969 2730 [amazon][boople] ※ b c04
田中たなか マキ子まきこ 20050325 看護かんご教育きょういく病理びょうり――バーンアウトさい生産せいさんのしくみ』多賀たが出版しゅっぱん,240p. ISBN-10:4811570219 ISBN-13:978-4811570211 \6090 [amazon][kinokuniya]※ c04
立岩たていわ しん 2005/06/24 書評しょひょう三井みついさよ『ケアの社会しゃかいがく――臨床りんしょう現場げんばとの対話たいわ』」,『季刊きかん社会しゃかい保障ほしょう研究けんきゅう』41-1(Summer 1995):64-67
川本かわもと 隆史たかし へん 20050825 『ケアの社会しゃかい倫理りんりがく――医療いりょう看護かんご介護かいご教育きょういくをつなぐ』有斐閣ゆうひかく有斐閣ゆうひかく選書せんしょ1662,369+5p. ISBN: 4641280975 \2100 [boople][amazon] ※
岡野おかの はちだい,20050901,「つくろいのフェミニズムへ」『現代げんだい思想しそう』33-10(2005-9): 80-91.
上野うえの 千鶴子ちづこ,200509,「ケアの社会しゃかいがく――序章じょしょう ケアとはなにか」『クォータリー[あっと]』1(2005-9): 18-37.
はまうず たつ へん,20051105,『〈ケアの人間にんげんがく入門にゅうもん』,知泉ちせんしょかん
山根やまね じゅんけい,2005,「「ケアの倫理りんり」と「ケア労働ろうどう」――ギリガン『もうひとつのこえ』がかたらなかったこと」,『ソシオロゴス』29: 1-18.
土屋つちや 典子のりこ大渕おおふち 修一しゅういち長谷ながたに 憲明のりあき 200606 『ケアプランのつくりかた サービス担当たんとうしゃ会議かいぎ(ケアカンファレンス)のひらかた モニタリングの方法ほうほう――改正かいせいしん制度せいど重要じゅうようポイントを解説かいせつ! (居宅きょたく介護かいご支援しえん専門せんもんいんのためのケアマネジメント入門にゅうもん (1))』瀬谷せたに出版しゅっぱん,199p. ISBN-10: 4902381087 ISBN-13: 978-4902381085 1943 〔amazon〕 b
塩川しおかわ 伸明のぶあき 200605 「読書どくしょノート:川本かわもと隆史たかしへん『ケアの社会しゃかい倫理りんりがく』」
 http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/ethicsofcare.htm
立岩たていわ しん也 2006/08/25 分担ぶんたん執筆しっぴつおよたんちょほん医療いりょう社会しゃかいブックガイド・63),『看護かんご教育きょういく』47-08(2006-08):-(医学書院いがくしょいん
中根なかねしげる寿ことぶき 2006『知的ちてき障害しょうがいしゃ家族かぞく臨床りんしょう社会しゃかいがく――家族かぞく社会しゃかいでケアを分有ぶんゆうするために』,明石書店あかししょてん
浜野はまの研三けんぞう 2006「人間にんげん条件じょうけんとしての依存いぞん:それを支持しじするしょ事実じじつ」,『関西学院かんせいがくいん哲学てつがく研究けんきゅう年報ねんぽう』 39, pp. 1-16.
金井かない淑子としこ 2006 a「よわいパターナリズムとしての〈ケア倫理りんり〉―触発しょくはつする現場げんば臨床りんしょうとおして―」,『横浜国立大学よこはまこくりつだいがく 教育きょういく相談そうだん支援しえん総合そうごうセンター研究けんきゅう論集ろんしゅうだいごう
◆―――― 2006b『岩波いわなみ 応用おうよう倫理りんりがく講義こうぎせいあい』,岩波書店いわなみしょてん
◆―――― 2006c「「家族かぞく問題もんだい」から「ファミリー・トラブル」のあいだ――暴力ぼうりょくせいびてしまった家族かぞく暗部あんぶへ」,『ファミリー・トラブル――近代きんだい家族かぞく/ジェンダーのゆくえ』,明石書店あかししょてん
土屋つちや 2006 「障害しょうがいしゃ自立じりつ生活せいかつ運動うんどうと「だつ家族かぞく」――「愛情あいじょう」による「かこみ」をう」,『ファミリー・トラブル――近代きんだい家族かぞく/ジェンダーのゆくえ』,明石書店あかししょてん,pp.253-266.
川本かわもと 隆史たかし,2006,「ケアへの規範きはんてきアプローチ―その隘路あいろ突破口とっぱこうについてのおぼがき」『東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいん教育きょういくがく研究けんきゅう 教育きょういくがく研究けんきゅうしつ 研究けんきゅう紀要きよう』32(2006-6): 71-80.
中野なかの 啓明ひろあき立山たてやま 善康よしやす伊藤いとう 博美ひろみ,200604,『ケアリングの現在げんざい――倫理りんり教育きょういく看護かんご福祉ふくし境界きょうかいえて』,あきらよう書房しょぼう
西谷にしたに たかし,2006,『関係かんけいせいによる社会しゃかい倫理りんりがく』,あきらよう書房しょぼう
佐藤さとう千登勢ちとせ 2006 「福祉ふくし国家こっか後退こうたい移民いみん女性じょせい労働ろうどう――福祉ふくし改革かいかくとケア労働ろうどうのグローバル中心ちゅうしんに」,『シリーズ・アメリカ研究けんきゅう越境えっきょう だいさんかん ゆたかさと環境かんきょう』,ミネルみねるァ書房ぁしょぼう,pp.267-292.
小澤おざわ いさお 20060501 『ケアってなんだろう』医学書院いがくしょいん,300p ISBN: 4-260-00266-X 2000 [amazon][kinokuniya] ※ a06 b01 c06,
読売新聞社よみうりしんぶんしゃ生活せいかつ情報じょうほう へん  20061030 『やさしい介護かいご 介護かいご──ストレスをためない家族かぞく介護かいごマニュアル』生活せいかつ書院しょいん,261p. ISBN-10: 4903690008 ISBN-13: 978-4903690001 \1800 [amazon] [kinokuniya] ※ a02 c04 l (新規しんき)
樋口ひぐち明彦あきひこ,2007「『ケアの倫理りんり』と『正義せいぎ倫理りんり』をめぐる対立たいりつ諸相しょそう――ギリガンとキッティ」,有賀ありがまことほかへん『ポスト・リベラリズムの対抗たいこうじく』,ナカニシヤ出版しゅっぱん
吉澤よしざわ夏子なつこ 2007 「他者たしゃとのきょうざい可能かのうせい」,『社会しゃかいがく評論ひょうろん』Vol.57,No.4,pp.748-762.
有賀ありが美和子みわこ 2007「フェミニズム正義せいぎろんしん展開てんかい――ケアワークのさい分配ぶんぱいじくとして」,『東京女子大学とうきょうじょしだいがく紀要きよう論集ろんしゅう』,57(2),pp.151−183.
三井みつい さよ・鈴木すずき 智之としゆき へん 20070331 『ケアとサポートの社会しゃかいがく法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく,301p. ISBN-10: 4588672061 ISBN-13: 978-4588672064 3360 [amazon][boople] ※ b c04
天田あまだ しろかい 200705 「自明じめい世界せかい記述きじゅつすることの社会しゃかいがくてき困難こんなん痛感つうかんするしょとして――書評しょひょう三井みついさよ・鈴木すずき智之としゆきへん『ケアとサポートの社会しゃかいがく』」,『図書としょ新聞しんぶん』2007ねん5がつ
 http://www.josukeamada.com/bk/betc25.htm
堀田ほった 義太郎よしたろう 20070810 「「ケアの社会しゃかい」を再考さいこうする――有償ゆうしょう専業せんぎょう可能かのうせい限界げんかい研究けんきゅうかい: 「公共こうきょう」におけるケアについてかんがえる
樋口ひぐち 明彦あきひこ 20071208 「「ケアの倫理りんり」と「正義せいぎ倫理りんり」をめぐる対立たいりつ諸相しょそう――ギリガンとキッティ」,有賀ありが まこと伊藤いとう 恭彦やすひこ松井まつい あきらへん 『ポスト・リベラリズムの対抗たいこうじく,ナカニシヤ出版しゅっぱん,251p. ISBN-10:4779501954  ISBN-13: 978-4779501951 2940 [amazon] ※
岡野おかのはちだい 2007「シティズンシップろん再考さいこう――責任せきにんろん観点かんてんから」,『日本にっぽん政治せいじ学会がっかい 年報ねんぽう政治せいじがく』No.2,pp.122-141.
天田あまだ しろかい,20071201,「ケア・1」(世界せかい感受かんじゅただちゅうで・08)『看護かんごがく雑誌ざっし』71(12): 1110-1114,医学書院いがくしょいん
http://www.josukeamada.com/bk/bs07-8.htm
◆――――,20080101,「ケア・2」(世界せかい感受かんじゅただちゅうで・09)『看護かんごがく雑誌ざっし』72(1): 64-69.医学書院いがくしょいん
http://www.josukeamada.com/bk/bs07-9.htm
◆――――,2008201,「ケア・3」(世界せかい感受かんじゅただちゅうで・10)『看護かんごがく雑誌ざっし』72(2): 154-158,医学書院いがくしょいん
http://www.josukeamada.com/bk/bs07-10.htm
◆――――,20080301,「ケア・4」(世界せかい感受かんじゅただちゅうで・11)『看護かんごがく雑誌ざっし』72(03): 248-252,医学書院いがくしょいん
http://www.josukeamada.com/bk/bs07-11.htm
吉長よしなが 真子しんじ 2008 「日本にっぽんにおける〈子育こそだての社会しゃかい〉の問題もんだい構造こうぞう教育きょういく福祉ふくしをつらぬく視点してんから」,『東京大学とうきょうだいがく教育きょういくがく研究けんきゅう 教育きょういくがく研究けんきゅうしつ紀要きようだい34ごう,pp.1-13.
足立あだち 真理子まりこほかへん 2007『フェミニスト・ポリティクスのしん展開てんかい――労働ろうどう・ケア・グローバライゼーション』,明石書店あかししょてん
品川しながわ 哲彦てつひこ 2007 『正義せいぎさかいせっするもの――責任せきにんという原理げんりとケアの倫理りんり』,ナカニシヤ出版しゅっぱん
上野うえの 千鶴子ちづこ大熊おおくま 由紀子ゆきこ大沢おおさわ 真理まり神野かみの 直彦なおひこ副田そえだ 義也よしや へん 20080410 『ケアという思想しそう――ケア その思想しそう実践じっせん1』岩波書店いわなみしょてん,249p. ISBN-10: 4000281216 ISBN-13: 978-4000281218 2310 [amazon][kinokuniya] ※ c04.
上野うえの 千鶴子ちづこ大熊おおくま 由紀子ゆきこ大沢おおさわ 真理まり神野かみの 直彦なおひこ副田そえだ 義也よしや へん 20080509 『ケアすること――ケア その思想しそう実践じっせん2』岩波書店いわなみしょてん,256p. ISBN-10: 4000281224 ISBN-13: 978-4000281225 2310 [amazon][kinokuniya] ※ c04.
上野うえの 千鶴子ちづこ大熊おおくま 由紀子ゆきこ大沢おおさわ 真理まり神野かみの 直彦なおひこ副田そえだ 義也よしや へん 200808 『ケアされること――ケア その思想しそう実践じっせん3』岩波書店いわなみしょてん,256p. ISBN-10: 4000281232 ISBN-13: 978-4000281232  2310 [amazon][kinokuniya] ※ c04.
上野うえの 千鶴子ちづこ大熊おおくま 由紀子ゆきこ大沢おおさわ 真理まり神野かみの 直彦なおひこ副田そえだ 義也よしや へん 200809 家族かぞくのケア 家族かぞくへのケア――ケア その思想しそう実践じっせん4』岩波書店いわなみしょてん,238p. ISBN-10: 4000281240 ISBN-13: 978-4000281249  2310 [amazon][kinokuniya] ※ c04.
上野うえの 千鶴子ちづこ大熊おおくま 由紀子ゆきこ大沢おおさわ 真理まり神野かみの 直彦なおひこ副田そえだ 義也よしや へん 200806 『ケアをささえるしくみ――ケア その思想しそう実践じっせん5』岩波書店いわなみしょてん,244p. ISBN-10: 4000281259 ISBN-13: 978-4000281256  2310 [amazon][kinokuniya] ※ c04.
上野うえの 千鶴子ちづこ大熊おおくま 由紀子ゆきこ大沢おおさわ 真理まり神野かみの 直彦なおひこ副田そえだ 義也よしや へん 200807 『ケアを実践じっせんするしかけ――ケア その思想しそう実践じっせん6』岩波書店いわなみしょてん,283p. ISBN-10: 4000281267 ISBN-13: 978-4000281263  2520 [amazon][kinokuniya] ※ c04.
堀田ほった 義太郎よしたろう,2008,「ケアと市場いちば」『現代げんだい思想しそう』36-3(2008-3): 192-210.
◆――――,2009a,「ケア・さい分配ぶんぱい格差かくさ」『現代げんだい思想しそう』37-2(2009-2): 212-235.
◆――――,2009b,「介護かいご社会しゃかい公共こうきょうせい周辺しゅうへん」『生存せいぞんがく』1: 265-278、生活せいかつ書院しょいん.
安部あべ あきら 2009/02/25 「ケア倫理りんり批判ひはん序説じょせつ」,生存せいぞんがく』1:279-292
安部あべ あきら有馬ありま ひとし へん 20090319 『ケアと感情かんじょう労働ろうどう――ことなるがく交流こうりゅうからかんがえる』立命館大学りつめいかんだいがく生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター,生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター報告ほうこく8, 248p. ISSN 1882-6539 ※
白崎しらさき 朝子あさこ 20090331 介護かいご労働ろうどうきる』現代書館げんだいしょかん,206p. ISBN-10:4768434908 ISBN-13: 978-4768434901 \1680 [amazon][kinokuniya] ※
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岡野おかのはちだい  200908『シティズンシップの政治せいじがく国民こくみん国家こっか主義しゅぎ批判ひはん』,増補ぞうほばん白澤しらさわしゃ,302p. ISBN-10: 4768479324 ISBN-13: 978-4768479322  2730 [amazon][kinokuniya]
樫村かしむら 愛子あいこ 20091120『臨床りんしょう社会しゃかいがくならこうかんがえる』,青土おうづちしゃ,344p. ISBN-10: 4791765184 ISBN-13: 978-4791765188  \2520 [amazon][kinokuniya] ※
高宮たかみや ゆうかい へん  20010427 『ナースができるがん疼痛とうつうマネジメント』,メジカルフレンドしゃ,204p. ISBN-10:4839210543 ISBN-13:9784839210540 \2300 [amazon][kinokuniya] ※ c04
山根やまね じゅんけい 20100225『なぜ女性じょせいはケア労働ろうどうをするのか――性別せいべつ分業ぶんぎょうさい生産せいさんえて』,勁草書房しょぼう,305p. ISBN-10: 4326653523 ISBN-13: 978-4326653522  \3465 [amazon][kinokuniya] ※
安部あべ あきら堀田ほった 義太郎よしたろう へん 20100226 『ケアと/の倫理りんり立命館大学りつめいかんだいがく生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター,生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター報告ほうこく11, 258p. ISSN 1882-6539 ※
三井みつい さよ 20100305『看護かんごとケア――こころうごかされる仕事しごととは』,角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん,190p. ISBN-10: 4046536012 ISBN-13: 978-4046536013  \2310 [amazon][kinokuniya] ※



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児玉こだま 真美まみ 2010/07/** 英国えいこくNHSの介護かいごしゃ支援しえんサイトCarers Direct」介護かいご保険ほけん情報じょうほう』 2010ねん7がつごう


作成さくせい安部あべ あきら
REV:...20060812, 20070223, 0320, 0508, 0907, 20080706, 0812, 1115, 20090222, 0421,0730,0817,0823, 0901, 1030, 20100330(篠木しのき すずか), 1106, 20100122,0721, 20140504, 20160529
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