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立岩真也「「仕方のなさ」について・2――良い死・8」
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Tateiwa
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「
仕方
しかた
のなさ」について・2
良
よ
い
死
し
・8
立岩
たていわ
真
しん
也
2006/03 『
Web
うぇぶ
ちくま』
http://www.chikumashobo.co.jp/new-chikuma/index.html
http://www.chikumashobo.co.jp
>
全体
ぜんたい
の
目次
もくじ
1
/
2
/
3
/
4
/
5
/
6
/
7
/ 8/
9
/
10
/
11
*『
Web
うぇぶ
ちくま』に
掲載
けいさい
されしだい、ここでの
本文
ほんぶん
の
掲載
けいさい
を
停止
ていし
します。
*この
原稿
げんこう
は
改稿
かいこう
され、
以下
いか
の
本
ほん
に
収録
しゅうろく
されました。
◇
立岩
たていわ
真
しん
也 2008/09/05
『
良
よ
い
死
し
』
,
筑摩書房
ちくましょぼう
,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193
[amazon]
/
[kinokuniya]
※ d01.et.,
■
個別
こべつ
から
語
かた
ることの
流行
りゅうこう
他人
たにん
のことが、あるいは
自分
じぶん
のことが、
好
す
き/きらいだから、その
気持
きも
ちに
添
そ
って
決
き
めるということであってよいではないか。しかじかになった
自分
じぶん
がきらいだから、そうなったら
死
し
んでしまおう。とにかく
私
わたし
にはそう
思
おも
えてしまう。こうした
正直
しょうじき
な、あるいは
居直
いなお
った
言葉
ことば
にどう
答
こた
えたらよいだろう。このことについて
考
かんが
えている。
第
だい
5
回
かい
で、それは
自然
しぜん
な
感情
かんじょう
だと
言
い
われ、それに
対
たい
して、そうでない、
好悪
こうお
等々
とうとう
は
作
つく
られたものだ、
時代
じだい
や
地域
ちいき
に
相対
そうたい
的
てき
なものだと
言
い
っても、あまり
納得
なっとく
してもらえないだろうと
述
の
べた。そして、
気持
きも
ちわるいという
気持
きも
ちを
感
かん
じてははならないとは
言
い
えないだろう。それを
禁圧
きんあつ
すべきであるとされることの
方
ほう
がかえってよくないようにも
思
おも
える。
そしてそのような
正直
しょうじき
さは、この
社会
しゃかい
にあって、
肯定
こうてい
されること、
積極
せっきょく
的
てき
に
肯定
こうてい
されることがある。なにか
抽象
ちゅうしょう
的
てき
な
原理
げんり
があるからでなく、
実際
じっさい
に
人
ひと
が
思
おも
い
感
かん
じることからこそ
連帯
れんたい
や
協力
きょうりょく
やは
起
お
こるとされる。
言
い
われるとそんな
気
き
もする。どのように
考
かんが
えたらよいか。 まず、
人
ひと
の
世
よ
のことは
人
ひと
の
行
おこ
ないによって
形作
かたちづく
られる。そしてその
行
おこな
いには
人
ひと
の
思
おも
いが
関
かか
わっている。
以上
いじょう
はそれとしていつでもまったく
否定
ひてい
しようのないことだ。その
限
かぎ
りにおいて、
私
わたし
たちは「
人間
にんげん
的
てき
なもの」から
抜
ぬ
けることはできない。しかし、
間違
まちが
えない
方
ほう
がよいのは、この
自明
じめい
なこと、いつもそうであったしこれからもそうであるほかないことと、
今
いま
語
かた
られることとは
異
こと
なるということである。
今
いま
語
かた
られるのは、
個々人
ここじん
の
思
おも
い、
感情
かんじょう
から、
関係
かんけい
のあり
方
かた
、
社会
しゃかい
のあり
方
かた
を
立
た
てていこうということである。
実際
じっさい
の
関係
かんけい
、
実際
じっさい
の
関係
かんけい
に
発
はっ
する
実感
じっかん
をもとに
据
す
えていこうという
行
おこ
ないである。このようにして
何
なに
かを
語
かた
るのがすこし
流行
りゅうこう
している。その
事情
じじょう
はわからないでもない。わからないではないと
思
おも
うのは、
一
ひと
つに、ただ
抽象
ちゅうしょう
的
てき
な
原理
げんり
を
言
い
われ、
教義
きょうぎ
を
説
と
かれても
納得
なっとく
することはできないという
感覚
かんかく
、
不満
ふまん
がある。これが
正
ただ
しいから
従
したが
えと
言
い
われてしまうと、
納得
なっとく
できない。かえって
信用
しんよう
できなくなってしまう。そのように
思
おもえ
のはもっともかもしれない。
「ケアの
倫理
りんり
」
★
などというものが
語
かた
られるのもこんなことに
関係
かんけい
しているところがあるのだろう。その
心性
しんせい
が、なにやら
天然
てんねん
自然
しぜん
のもの、
本能
ほんのう
のように
語
かた
られることには
批判
ひはん
がある。あるいはまた、それが
特定
とくてい
の
性
せい
に
偏
かたよ
ったものとして、「
女性
じょせい
的
てき
なもの」として
想定
そうてい
されていることについても
批判
ひはん
がある。それらの
批判
ひはん
はもっともなものではあるが、そのような
契機
けいき
があること、そしてそれは
肯定
こうてい
されてよいものであること。このことは
認
みと
めるとしよう。
ただ、それにしても
難
むずか
しい
場面
ばめん
があるように
思
おも
われるし、そのことは
指摘
してき
される。つまり、
具体
ぐたい
的
てき
な
関係
かんけい
に
生起
せいき
する
感情
かんじょう
からその
人
ひと
に
対
たい
する
行
おこ
ないが
起動
きどう
するとしよう。しかしそうした
関係
かんけい
がなかったり
薄
うす
かったりする
人
ひと
がいるだろう。すると、それらの
人
ひと
には
何
なに
もなされないことになるのではないか。また、
今
いま
私
わたし
はしかじかが
人
ひと
に
気
き
にいられてそれでうまいぐあいに
行
い
っているのだが、それはいつまで
続
つづ
くのだろうと
思
おも
う。
もちろんこれに
対
たい
して、ケアする
心性
しんせい
はそのように
狭隘
きょうあい
なものではない、などと
言
い
われもしようし、それもかなりの
程度
ていど
当
あ
たっているのだが、それでも
不偏
ふへん
・
普遍
ふへん
に
対
たい
する
懐疑
かいぎ
から「ケアの
倫理
りんり
」
等々
とうとう
といった
話
はなし
は
始
はじ
まっているのでもあるから、
限界
げんかい
は
認
みと
めざるをえない。それで
前回
ぜんかい
見
み
た、ローティ
★
のような
漸進
ぜんしん
主義
しゅぎ
も
出
で
てくる。つまりだんだんと
人
ひと
の
輪
わ
を
広
ひろ
げていこうなどと
言
い
われる。また
教育
きょういく
の
必要
ひつよう
性
せい
が
説
と
かれる。
人
ひと
には
類推
るいすい
の
能力
のうりょく
があるのだから、しみじみとした
話
はなし
をし、それで
身近
みぢか
な
人
ひと
との
間
あいだ
にたしかに
存在
そんざい
することが
確認
かくにん
された
感情
かんじょう
を、
他
た
の
人
ひと
にも
差
さ
し
向
む
けられるように
誘導
ゆうどう
していこうというのである。
それはたぶん
有効
ゆうこう
な
手立
てだ
てだと
思
おも
う。
反対
はんたい
する
理由
りゆう
はない。けれども、この
戦術
せんじゅつ
がうまくいくいかないと
別
べつ
に、ここで
押
お
さえておくべきことは、このような
道筋
みちすじ
の
話
はなし
をするときには、あるいはこの
種
たね
の
議論
ぎろん
の
弱点
じゃくてん
を
言
い
うときには、
既
すで
に、
予
あらかじ
め、
気遣
きづか
われるその
範囲
はんい
が
世界
せかい
の
全体
ぜんたい
に
及
およ
ぶことがよしとされているということである。そうあってほしいのだが、それはなかなか
難
むずか
しく、それで
具体
ぐたい
的
てき
なところから
順々
じゅんじゅん
とやっていこうという
筋
すじ
になっているのである。もちろんそんな
拡張
かくちょう
は
不可能
ふかのう
であり、また
望
のぞ
みもしないという
人
ひと
もいるだろうが、そうでない
人
ひと
は、
実現
じつげん
可能
かのう
性
せい
は
別
べつ
として、それを
期待
きたい
しているということである。このことが
何
なに
を
意味
いみ
しているかである。つまり、を
超
こ
えたものがあった
方
ほう
がよいと
思
おも
っているということである。ならばそう
言
い
えばよいではないか。それなのになぜ、その
方向
ほうこう
に
進
すす
まないのだろう。
普遍
ふへん
主義
しゅぎ
のなにか
批判
ひはん
されているのだろう。
■
思
おも
いを
超
こ
えてあるとよいという
思
おも
いの
実在
じつざい
プラトンやカントが
持
も
ち
出
だ
されて「
西洋
せいよう
形而上学
けいじじょうがく
」が
批判
ひはん
される。その
人
ひと
たちが
何
なに
を
言
い
ったのか
知
し
らないし、その
人
ひと
たちの
味方
みかた
にならなければならない
特段
とくだん
の
事情
じじょう
もない。ただ、
批判
ひはん
する
人
ひと
たちは、
批判
ひはん
する
相手
あいて
をなにか
攻撃
こうげき
しやすいものにして、
小
ちい
さなものにして、それから
攻撃
こうげき
しているように
思
おも
えるところがある。
批判
ひはん
者
しゃ
たちは、
批判
ひはん
される
相手
あいて
が「
普遍
ふへん
的
てき
な
道徳
どうとく
原理
げんり
なるもの」の
実在
じつざい
を
主張
しゅちょう
していると
言
い
い、しかしそんなものは
実在
じつざい
しないのだと
言
い
う。だが、この
場合
ばあい
に
実在
じつざい
するとはどんなことなのか。もちろん、それは
物
もの
がそこにあるように
存在
そんざい
することではないだろう。このことは
誰
だれ
もが
認
みと
めるはずのことだ。とするとどのような
意味
いみ
であるとかないとか
言
い
っているのだろう。もののようにあるのでないとすればどのようにあるのか。ある
理念
りねん
があればよいと
思
おも
うのと、
理念
りねん
があることと、
違
ちが
うとは
言
い
えよう。しかし、いずれにしても、まずは
人
ひと
の
思
おも
いとしてある。その
行
おこ
ないとして
現実
げんじつ
のことになる。ものがある(と
思
おも
う)こと、ものがあるとよいと
思
おも
うこととが
異
こと
なることであるようには、
異
こと
ならない。そして、
言葉
ことば
は
人
ひと
に
対
たい
するあり
方
かた
として
現実
げんじつ
のことになる。
実現
じつげん
しないこともある。しかし、その
時
とき
でも
遂行
すいこう
されねばならないこととして
想念
そうねん
されてはいる。
それ
以上
いじょう
・
以外
いがい
のことを
批判
ひはん
される
側
がわ
は
言
い
っているのだろうか。よくはわからないが、
一
ひと
つに
考
かんが
えられるのは、その
態度
たいど
、
主張
しゅちょう
を
後
うし
ろから
支
ささ
えて
前
まえ
に
押
お
す
強
つよ
さがあったらよいと
思
おも
っているのかもしれない。
実際
じっさい
、
超越
ちょうえつ
者
しゃ
への
信仰
しんこう
は、
世界
せかい
の
全体
ぜんたい
を
見
み
れば
減
げん
じてはいない。ただ
他方
たほう
、そのことが
疑
うたが
わしさを
招
まね
いてもいるということなのかもしれない。ことのよしあしは
別
べつ
として、
見
み
たことのないものは
信
しん
じられないという
思
おも
いをもつ
人
ひと
はいて、そのような
人
ひと
に
対
たい
しては、
経験
けいけん
の
世界
せかい
の
外
そと
にあるものを
持
も
ち
出
だ
すのは
逆
ぎゃく
効果
こうか
でもある。
ただそれでも、そんな
人
ひと
たちにとっても、もう
一
ひと
つ、
私
わたし
が
思
おも
っていたり
私
わたし
が
思
おも
われたりするのとべつに、
私
わたし
や
他
た
の
人
ひと
たちが
生
い
きて
暮
く
らせたらよいと
思
おも
う。それは、やはり
私
わたし
が
思
おも
ってはいるのではある。
人間
にんげん
の
感覚
かんかく
ではある。しかし、その
感覚
かんかく
とは
自分
じぶん
の
感覚
かんかく
で
決
き
めないという
感覚
かんかく
であり、
個人
こじん
の
心情
しんじょう
に
還元
かんげん
しないという
心情
しんじょう
である。
そしてこのことは、
直接
ちょくせつ
に、
規範
きはん
が
誰
だれ
にでも
及
およ
ぶという
意味
いみ
での
普遍
ふへん
性
せい
につながる。その
前
まえ
に、
普遍
ふへん
性
せい
に、
皆
みな
が
思
おも
うという
契機
けいき
と
皆
みな
に
及
およ
ぶという
契機
けいき
と
二
ふた
つの
契機
けいき
があることさえ、ときに
私
わたし
たちは
忘
わす
れるから、このことを
確認
かくにん
しよう。そしてその
一
ひと
つめのものもまた、
私
わたし
が
思
おも
うこと、
私
わたし
が
思
おも
うのでしかないことの
位置
いち
づけに
関
かか
わってはいる。
■
誰
だれ
もが、について
普遍
ふへん
性
せい
の
一
ひと
つは、
信
しん
じたり
是
これ
としたりする
側
がわ
の
人
ひと
の
普遍
ふへん
性
せい
である。そしてそれに
対
たい
する
批判
ひはん
は、
主張
しゅちょう
されるもは
誰
だれ
もが
信
しん
じているのではない、
是
ぜ
とするようなものではない、そんなものは
存在
そんざい
しないという
批判
ひはん
である。どこででも
信
しん
じられていることではない、その
意味
いみ
で
特殊
とくしゅ
なものだ、すべてがそうだと
言
い
うのだ。これについてはいくらか
前回
ぜんかい
にも
述
の
べたが、いくらか
補
おぎな
おう。
一
ひと
つに、
実際
じっさい
には
言
い
われているよりは
普遍
ふへん
的
てき
であると
言
い
う。
一
ひと
つに、
普遍
ふへん
的
てき
であろうとなかろうとかまわないと
言
い
う。
まず
一
ひと
つめ。
批判
ひはん
者
しゃ
は、
例
たと
えば
人権
じんけん
といった
理念
りねん
が、ある
時期
じき
以降
いこう
の
西欧
せいおう
の
国々
くにぐに
に
生
しょう
じた
限
かぎ
られたものであるといったことを
言
い
う。ただ、この
点
てん
については、
批判
ひはん
される
側
がわ
もそう
違
ちが
ったことは
言
い
ってこなかった。その
人
ひと
たちは、
例
たと
えば、
特定
とくてい
の
時期
じき
・
場所
ばしょ
に
出現
しゅつげん
したことを
認
みと
め、しかし、やがて
他
た
の
社会
しゃかい
も
進化
しんか
してその
場所
ばしょ
に
辿
たど
り
着
つ
くはずといったことを
言
い
うのだ。つまり、
時間
じかん
軸
じく
に
差異
さい
を
配置
はいち
し、
終極
しゅうきょく
を
同
おな
じくすることによって
普遍
ふへん
主義
しゅぎ
が
確保
かくほ
される。
両者
りょうしゃ
は、
問題
もんだい
になっている
思想
しそう
は
西欧
せいおう
・
近代
きんだい
の
特殊
とくしゅ
なものであるといったお
話
はなし
をする
点
てん
については
同
おな
じである。やがて
他
た
も
追
お
いつくと
考
かんが
えるかそうは
考
かんが
えないか、またそれを
正
ただ
しいものと
認
みと
めるか、そうでないか、
態度
たいど
を
保留
ほりゅう
するかで
異
こと
なるものの、
事実
じじつ
認識
にんしき
においてはあまり
違
ちが
わない。
しかしそんなことは
信
しん
じる
必要
ひつよう
のないことだと
思
おも
う。どんな
社会
しゃかい
で、
誰
だれ
が、このような
私
わたし
であるまま
生
い
きていけたらよいと
思
おも
わないだろうか。
人
ひと
のそんな
思
おも
いを
認
みと
めたら
損
そん
をする
人
ひと
たちはそう
思
おも
わず
言
い
わないかもしれない。しかしそれは、それは、
言
い
ったら
得
とく
にならないから、その
人
ひと
たちが
言
い
わないのだと
考
かんが
えた
方
ほう
が
理
り
にかなっている。そんな
人
ひと
たちでない
人
ひと
たちも
常
つね
にたくさんいて、その
人
ひと
たちは
大
おお
きな
声
こえ
で
言
い
わないあるいは
言
い
えないかもしれないが、そう
思
おも
っている。
私
わたし
がどんなであろうと、よく
生
い
きていられることがよいと
思
おも
うことが、
限
かぎ
られた
地域
ちいき
や
時間
じかん
の
中
なか
にだけしかないと
考
かんが
えなけれはならない
根拠
こんきょ
はない。そんな
物語
ものがたり
を
信
しん
じる
必要
ひつよう
はない。
ここで、さらにその「もと」があるかとかないとかいう
議論
ぎろん
をしても
仕方
しかた
がない。しかじかの
知見
ちけん
によれば
結局
けっきょく
人間
にんげん
は
利己
りこ
的
てき
であることが、あるいは
利己
りこ
的
てき
な
遺伝子
いでんし
のために
利他
りた
的
てき
であることがわかったとしよう。しかし、それでどうなのだろう、そう
思
おも
ったことがないだろうか。たしかに
新
あら
たに
得
え
られたとされる
知見
ちけん
や
仮説
かせつ
はなにかおもしろそうではあって、なにかをもたらすかもしれないと
思
おも
うことがないではない。
何
なに
か
今
いま
まで
思
おも
いつかなかったことが
現
あら
われるという
可能
かのう
性
せい
を
否定
ひてい
しない。しかし
知
し
らなかったとしよう。とすれば、
知
し
らないことによって
私
わたし
たちは
間違
まちが
えるのだろうか。どうもそんなことがあるようには、
私
わたし
にはあまり
思
おも
えない。そして
私
わたし
には、その
知識
ちしき
によって
基礎
きそ
づけられるということもまたわからない。ここでは
存在
そんざい
と
当為
とうい
とは
別
べつ
だといったことを――それはそのとおりだが――
言
い
いたいわけではない。
何
なに
かを
知
し
ることが
信
しん
じることを
強
つよ
めるということは、
予
あらかじ
め
知
し
ることをありがたがっている
場合
ばあい
には
有効
ゆうこう
かもしれない。しかしその
有効
ゆうこう
性
せい
はそのような
特殊
とくしゅ
な
趣味
しゅみ
をもっている
人
ひと
たちだけに
限
かぎ
られる。
次
つぎ
にもう
一
ひと
つのこと。いま
述
の
べたことが
本当
ほんとう
であるとして、それでも、すべての
人
ひと
がなにか
同
おな
じことを
信
しん
じたり
肯定
こうてい
したりすることはない。その
意味
いみ
では、たしかに
普遍
ふへん
的
てき
な
価値
かち
は
存在
そんざい
しない。しかし、このことは
当然
とうぜん
のことであり、
仕方
しかた
のないことだ。
実際
じっさい
、
神
かみ
さまが
一意
いちい
に
定
さだ
めた
掟
おきて
があることを
信
しん
じている
人
ひと
たちにしても、
現実
げんじつ
にみなが
信
しん
じていることを、
想定
そうてい
はしていない。またそうでなければそれを
信
しん
じるに
足
た
る
理由
りゆう
がないなどとも
思
おも
っていない。むろん、
多
おお
くの
人
ひと
が
受
う
け
入
い
れたり、
合意
ごうい
があったりすることは
大切
たいせつ
ではあるだろう。まず
現実
げんじつ
の
問題
もんだい
として、
人々
ひとびと
が
受
う
け
入
い
れないものは
実現
じつげん
したり
維持
いじ
されたりすることが
難
むずか
しい。そして、
人
ひと
の
思
おも
いを
否定
ひてい
するのがよくないとすると、その
人
ひと
の
思
おも
いに
反
はん
することを
行
おこ
なうことは
好
この
ましいことではない。
行
おこ
なおうとすることにその
人
ひと
も
同調
どうちょう
してもらえた
方
ほう
がよい。しかしこのいずれも
同意
どうい
・
合意
ごうい
を
絶対
ぜったい
化
か
するものではない。とくに、
既
すで
に
現実
げんじつ
の
社会
しゃかい
があり
損得
そんとく
が
配分
はいぶん
されてしまっているなら、その
現状
げんじょう
で
得
とく
をしている
人
ひと
はその
状態
じょうたい
を
変
か
えることに
同意
どうい
しないだろう。この
場合
ばあい
に
皆
みな
が
反対
はんたい
しない
案
あん
しか
採用
さいよう
しないことは、
今
こん
得
とく
をしている
人
ひと
を
喜
よろこ
ばせることでしかない。この
意味
いみ
で、
人
ひと
はそれぞれだから
比較
ひかく
しない、
誰
だれ
もが
文句
もんく
を
言
い
わないところが
落
お
ち
着
つ
かせどころだという
筋
すじ
の
話
はなし
は、まったく
反動
はんどう
的
てき
な
話
はなし
である。ときに、
比較
ひかく
し、
誰
だれ
かを
誰
だれ
かより、
何
なに
かを
何
なに
かより
優先
ゆうせん
せざるをえないことがある。それは、
比較
ひかく
が
可能
かのう
か
否
ひ
かという
問題
もんだい
への
答
こたえ
としてではなく、それをすべきであるという
要請
ようせい
によってなされる。いつも
合意
ごうい
がなければならないと
思
おも
うのは
間違
まちが
っている。
だから、ここで
普遍
ふへん
主義
しゅぎ
を
非難
ひなん
する
人
ひと
たちと
一部
いちぶ
同
おな
じで
一部
いちぶ
違
ちが
うことを
言
い
うことになる。たしかに
皆
みな
が
同
おな
じことを
信
しん
じている
必要
ひつよう
はなく、
何
なに
かに
皆
みな
が
合意
ごうい
しなければならないわけでもない。しかし
他方
たほう
で、
例
たと
えばどのように
暮
く
らせればよいかについて、
人々
ひとびと
の
思
おも
いにそう
大
おお
きな
違
ちが
いはないはずだ。
■
誰
だれ
をも、について
もう
一
ひと
つは
価値
かち
や
規範
きはん
が
誰
だれ
にでも
及
およ
ぶという
意味
いみ
での
普遍
ふへん
性
せい
である。たしかに
人
ひと
に
対
たい
する
濃淡
のうたん
は
違
ちが
う。ほとんど
実感
じっかん
しないことはたしかにある。
近
ちか
い
人
ひと
になら「
死
し
ぬな」と
言
い
いたい
気持
きも
ちにわりあい
簡単
かんたん
になるけれども、そうでない
人
ひと
ならそうではない。
ただ、このことについても
幾
いく
つかのことは
言
い
える。
一
ひと
つは、
遠近
えんきん
と
濃淡
のうたん
とが
関
かか
わることは
認
みと
めるとして、その
距離
きょり
は
自然
しぜん
の
距離
きょり
と
言
い
えないことが
多
おお
いことだ。
例
たと
えば、
関
かか
わりにならないのがよいから
遠
とお
ざかることもある。
遠
とお
ざけられることもある。このことは
前回
ぜんかい
に
述
の
べた。
もう
一
ひと
つ。
人
ひと
に
接
せっ
し、
知
し
るのであれば、その
人
ひと
を
大切
たいせつ
にすることになるのか。このことについてあまり
単純
たんじゅん
に
純情
じゅんじょう
にならない
方
ほう
がよい。
慣
な
れることに
積極
せっきょく
的
てき
な
契機
けいき
があることを
後
あと
で
述
の
べるけれど、それとともに、
死
し
ぬことに
慣
な
れる
人
ひと
が
死
し
なせることにも
慣
な
れることもあるだろう。そして
苦労
くろう
が
多
おお
く、それが
蓄積
ちくせき
された
人
ひと
は、その
相手
あいて
を
恨
うら
み、
殺
ころ
そうとすることがあるだろうし、
実際
じっさい
に
殺
ころ
すこともある。それでも
近
ちか
しい
関係
かんけい
を
称揚
しょうよう
したい
人
ひと
は、そのような
関
かか
わりは
本当
ほんとう
の
関
かか
わりでないと
言
い
うのだろうが、すくなくともその
関
かか
わりは
事実
じじつ
存在
そんざい
する
関
かか
わりではある。
そして
一
ひと
つ。
近
ちか
い
人
ひと
に
対
たい
する
関係
かんけい
が
特別
とくべつ
なものではあること、それはよいことでもあり、また
苦痛
くつう
でもあること、
両者
りょうしゃ
は
並存
へいそん
するのだが、さらに
同時
どうじ
に、
誰
だれ
がどのような
位置
いち
にいてどのような
関
かか
わりをもっているとかもっていないとかと
別
べつ
にうまく
生
い
きていけたらよいと
思
おも
うということがある。
欲望
よくぼう
の
複数
ふくすう
性
せい
についてはまたあとでも
述
の
べるけれども、これら
複数
ふくすう
が
同時
どうじ
にあってすこしも
不思議
ふしぎ
なことではない。
さらにもう
一
ひと
つ、
誰
だれ
であってもよく
遇
ぐう
されてよいという
方
ほう
に
向
む
かうことが、なにかリアルなことから
離
はな
れた
抽象
ちゅうしょう
的
てき
なことだとは
言
い
えない。それはまず
私
わたし
について
言
い
える。
私
わたし
がどのような
私
わたし
であるかによって、
様々
さまざま
が
左右
さゆう
されるし、ときには
左右
さゆう
されたいとも
思
おも
う。しかし、それはそれとして、そうした
思
おも
いがあるのとともに、
私
わたし
がどんな
私
わたし
であるにせよ、よく
生
い
きられたらよいと
思
おも
う。これはまったく
具体
ぐたい
的
てき
な
現実
げんじつ
的
てき
な
思
おも
いだが、その
思
おも
いは、
誰
だれ
でもが
生
い
きられるという
普遍
ふへん
を
指示
しじ
する。そしてそのことは
一人
ひとり
ひとりが
有
ゆう
している
属性
ぞくせい
を
無視
むし
したり
否定
ひてい
することではない。むしろ
保存
ほぞん
したり
享受
きょうじゅ
したりできることもある。このことについては『
自由
じゆう
の
平等
びょうどう
』
★
の
第
だい
3
章
しょう
で
述
の
べた。また、
自分
じぶん
がどう
思
おも
っているというのと
別
べつ
に、
他人
たにん
が
存在
そんざい
しているのはまったくの
事実
じじつ
であり、
自分
じぶん
の
好
す
き
嫌
きら
いがそのままその
人
ひと
の
存在
そんざい
を
規定
きてい
してしまうなら、その
人
ひと
はもう
他人
たにん
ではなくなってしまう。
好
す
きだとか
嫌
きら
いだとか
思
おも
うのはつまり
私
わたし
であり、そのことは
否定
ひてい
できず、
否定
ひてい
する
必要
ひつよう
もないとしても、
他方
たほう
で、
同時
どうじ
に、その
私
わたし
は、それですべてを
決
き
めてはつまらないとか、うっとおしいとか、おこがましいとか
思
おも
っている。それもまた
私
わたし
の
現実
げんじつ
的
てき
な
思
おも
いである。このことについては『
私的
してき
所有
しょゆう
論
ろん
』
★
の
第
だい
4
章
しょう
で
述
の
べた。
こうして、
誰
だれ
かのそのときどきの
思
おも
いに
左右
さゆう
されないものとして、
自分
じぶん
自身
じしん
や
他
た
の
人々
ひとびと
があってほしいと
思
おも
う。むろんその
上
じょう
でも、
恣意
しい
や
好悪
こうお
は
残
のこ
る。なくなることはない。それは
仕方
しかた
のないことでもあり、また
享受
きょうじゅ
されることでもある。
一人
ひとり
ひとりに
向
む
かって
個々
ここ
に
異
こと
なるあり
方
かた
だけがリアルなものであり、どんな
人
ひと
であれどんな
状態
じょうたい
であれと
思
おも
う
方
ほう
が
観念
かんねん
的
てき
なものであるとは
言
い
えない。
自分
じぶん
がどんな
者
もの
であったとしても、ここに、この
社会
しゃかい
にいさせてほしいと
思
おも
うことも、また
現実
げんじつ
的
てき
で
具体
ぐたい
的
てき
な、ときにはまったくさし
迫
せま
ったことである。
両者
りょうしゃ
ともに
同
おな
じ
人
じん
の
欲望
よくぼう
であり、いずれも
具体
ぐたい
的
てき
に
現
げん
に
存在
そんざい
する
欲望
よくぼう
である。 こうして、たしかに
私
わたし
たちが
考
かんが
え
思
おも
っていることであり、
思
おも
っていることでしかないのだが、そのことの
中
なか
に、
私
わたし
の
個々
ここ
の
思
おも
い、
個々
ここ
の
関係
かんけい
から
離
はな
れたところで、
私
わたし
が、
人々
ひとびと
が
生
い
きていられるとよいと
思
おも
う
思
おも
いがある。この
意味
いみ
での
普遍
ふへん
性
せい
が、まったく
具体
ぐたい
的
てき
に
現実
げんじつ
的
てき
に
要請
ようせい
されるのである。
それ
以外
いがい
の
何
なに
かが
必要
ひつよう
なのだろうか。それを
押
お
す
強
つよ
さ、あるいは
強
つよ
さのもとのようなものがあってほしいと
思
おも
うのだろうか。あってほしいと
思
おも
うのと、あると
思
おも
うのと、
後者
こうしゃ
の
方
ほう
が
強
つよ
い。
誰
だれ
がどうであろうとだいじょうぶであるように、もう
決
き
まっているのだと、
神
かみ
さまが
決
き
めたのだと
思
おも
えた
方
ほう
がその
規範
きはん
は
安定
あんてい
するし、
日々
ひび
思
おも
いわずにすんでよいかもしれない。
強
つよ
い
信
しん
が
得
え
られ、
気弱
きよわ
にならずにすむかもしれない。だから、
自分
じぶん
がどう
思
おも
うのかと
別
べつ
に、それはすでに
命
めい
じられ
決
き
められたことしてそこにあった
方
ほう
がよいのかもしれない。しかし、
残念
ざんねん
ながらであるのか、
残念
ざんねん
ながらでないのか、
信
しん
じようにも
信
しん
じることはできず、かえってそのような
水準
すいじゅん
に
訴
うった
えると、
嘘
うそ
のようだと
思
おも
えてしまう。
人々
ひとびと
は、
人々
ひとびと
に
押
お
しつけたいものを
人間
にんげん
の
上
うえ
の
方
ほう
に
持
も
ち
上
あ
げるという
仕掛
しか
けを
知
し
ってしまっているから、この
所作
しょさ
はあまり
効
き
かないのかもしれない。とすれば、かえって
人間
にんげん
界
かい
のこととして
語
かた
った
方
ほう
がよいのかもしれない。あること、あるいはあるというい
方
いかた
が、なにか
天
てん
から
降
ふ
ってきたようで、どうも
実感
じっかん
できない、
嘘
うそ
のように
感
かん
じられるという
人
ひと
がいたら、
人
ひと
が、そのようであってらよいとどうやら
思
おも
っている、そういうことのようだと
答
こた
えるしかない。
■
けれどやはり、について
こうして、
私
わたし
がしかじかの
私
わたし
であって、それを
受
う
け
取
と
める
誰
だれ
かがいて、その
人
ひと
がなにがかしかを
感
かん
じて、というのと
別
べつ
の
水準
すいじゅん
に
価値
かち
・
規範
きはん
が
設定
せってい
されるべきであることをひとまず
言
い
えるはずだと
思
おも
う。そしてこのことは
安楽
あんらく
死
し
・
尊厳
そんげん
死
し
のことを
考
かんが
える
上
じょう
でも
大切
たいせつ
だと
思
おも
う。この
水準
すいじゅん
で
肯定
こうてい
されていないこと、
生存
せいぞん
・
生活
せいかつ
が
位置
いち
づけられていないことが その
観念
かんねん
と
行
おこ
ないに
関
かか
わっている。この
水準
すいじゅん
で
普遍
ふへん
的
てき
に
肯定
こうてい
されるなら、
死
し
なずにすむ
人
ひと
が
死
し
ぬことは
少
すく
なくなる。
ただ、
一
ひと
つ、その
上
うえ
でもやはり
私
わたし
は、
私
わたし
の
一存
いちぞん
のこととして
決
き
めるのだと
言
い
う
人
ひと
はいるかもしれない。このことについて、まず『
思想
しそう
』に
掲載
けいさい
された
原稿
げんこう
★
で
考
かんが
えた。
私
わたし
の
一存
いちぞん
としての
想念
そうねん
や
行
おこ
ないを
否定
ひてい
できない
理由
りゆう
はある。しかし、そうであったとしても、その
人
ひと
の
思
おも
いや
決定
けってい
に
口
くち
をさしはさめないということではない。そして、
自分
じぶん
の
頭脳
ずのう
を
含
ふく
む
身体
しんたい
の
大
おお
きな
変容
へんよう
がここでは
理由
りゆう
になっているのだが、この
場合
ばあい
に、
私
わたし
は
私
わたし
のことを
決
き
めていると
言
い
えるのか、
多
おお
くそうは
言
い
えないだろうことも
述
の
べた。
自分
じぶん
はこう
感
かん
じてしまうということは、それが
事実
じじつ
であるとしても、そう
多
おお
くのことを
正当
せいとう
化
か
するわけではない。しかしそれにしても、
正
ただ
しいことかそうでないかはべつとしても、
人々
ひとびと
はまったく
個別
こべつ
の
関係
かんけい
や
感情
かんじょう
に
左右
さゆう
され、
右往左往
うおうさおう
して、それで
死
し
んでしまうこともあるではないか。
一般
いっぱん
的
てき
に
普遍
ふへん
的
てき
に
生存
せいぞん
が
保障
ほしょう
されたとして、それでも
生
い
きていられないと
思
おも
うことはあるだろう。この
部分
ぶぶん
はどうなるのだと
思
おも
う
人
ひと
はいるし、
思
おも
うことはある。こんどはその
問
と
いについて、いくらかでも
考
かんが
えてみることにしよう。
UP:20060215 REV:20140504(
誤字
ごじ
訂正
ていせい
)
◇
安楽
あんらく
死
し
・
尊厳
そんげん
死
し
◇
立岩
たていわ
真
しん
也
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇