(Translated by https://www.hiragana.jp/)
パム・スミス・ヘレン・カウイ・大谷 いづみ・三井 さよ・崎山 治男・有馬 斉・安部 彰「研究交流会 異なる学知のポリフォニー」
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研究けんきゅう交流こうりゅうかい ことなるがくのポリフォニー

 パム・スミス・ヘレン・カウイ・大谷おおや いづみ・三井みつい さよ・崎山さきやま 治男はるお有馬ありま ひとし安部あべ あきら 2009/03/19
立命館大学りつめいかんだいがくグローバルCOEプログラム「生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん 20090319
安部あべ あきら有馬ありま ひとし 『ケアと感情かんじょう労働ろうどう――ことなるがく交流こうりゅうからかんがえる』
立命館大学りつめいかんだいがく生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター,生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター報告ほうこく8,248p. ISSN 1882-6539 pp.99-125


 
じょ

 ここに収録しゅうろくした研究けんきゅう交流こうりゅうかいは、2008ねんがつにちほん冊子さっしだい一部いちぶ収録しゅうろくした国際こくさい研究けんきゅう交流こうりゅう企画きかく翌日よくじつ午後ごご)、立命館大学りつめいかんだいがくそうおもえかん生存せいぞんがく研究けんきゅうセンターにておこなわれた。前日ぜんじつ国際こくさい研究けんきゅう交流こうりゅう企画きかくでは、あらかじめ内容ないよう準備じゅんびされた講演こうえん指定してい質問しつもんだけにほぼ終始しゅうしし、自由じゆうかつんだやりとりをするときあいだることがあまりできなかったため、翌日よくじつに、よりしょう人数にんずうでの交流こうりゅうかい企画きかくされたのである。
 ほん研究けんきゅう交流こうりゅうかい先立さきだって、パム・スミスとヘレン・カウイは、当日とうじつ午前ごぜんちゅう京都きょうと市内しない介護かいごケア関連かんれん施設しせつ見学けんがくした(同行どうこうしゃは、崎山さきやま治男はるお法政大学ほうせいだいがく社会学部しゃかいがくぶじゅん教授きょうじゅ三井みついさよ有馬ありま)。ここで見学けんがくしてきた施設しせつについて、以下いかでも言及げんきゅうされているので、簡単かんたん午前ごぜんちゅうのスケジュールを紹介しょうかいしておく。
当日とうじついちぎょうは10まえから京都きょうと上京かみぎょう立売たちうりどおりにある「むつきあん」を見学けんがくした。「むつきあん」は、高齢こうれいしゃ排泄はいせつケアにかんする情報じょうほう提供ていきょう相談そうだんへの対応たいおう目的もくてきとして、2003ねんにオープンした情報じょうほうかんである(ホームページはhttp://www.mutsukian.com/)。館内かんないは、かべいちめんにさまざまなニーズにおうじて開発かいはつされたやく300種類しゅるいかみせい布製ぬのせいのオムツが展示てんじされている。またゆかには、さまざまなデザインのポータブル・トイレがいてあり、実際じっさいれてみることができるようになっている。一行いっこうおとずれたさいは、代表だいひょう浜田はまだきよさんから、展示てんじひん特徴とくちょうや、むつきあん活動かつどう内容ないようについての解説かいせつくことができた。なかでも、オムツの品質ひんしつくなかったり、利用りようしているひと体質たいしつわなかったりして、内側うちがわれやはずしの困難こんなんなどの問題もんだいがあると、利用りようしている高齢こうれいしゃはどうしても不快ふかいかんじるため、いらいらしたりいかりっぽくなったりすることがあるという浜田はまださんのおはなしは、カウイとスミスにとってもとく興味深きょうみぶかかったようである。以下いか冒頭ぼうとうでもカウイがこのはなし言及げんきゅうし、介護かいご場面ばめんにおける感情かんじょうあつかいの問題もんだい関係かんけいづけている(また、おな話題わだいについて、ほん冊子さっしだいさん収録しゅうろくしたスミスとカウイ共著きょうちょ論文ろんぶん「Impressions and Comments Arising from the Meeting on Emotional Labour: Ritsumeikan University, July 31st, 2008」でも、さらに考察こうさつ展開てんかいされている。論文ろんぶんした「解題かいだい」もあわせて参照さんしょうされたい)。
 そのいちぎょうは12時半じはんから、京都きょうと上京かみぎょう和泉いずみどおりにあるデイサービスセンターをおとずれた。聚楽じゅらくは、京都きょうと伝統でんとうてき町屋まちや改装かいそうした建物たてものきのあるつくりが特徴とくちょうてき介護かいご施設しせつである(ホームページはhttp://www.nananokai.com/shisetsu/juraku.html)。ここでも主任しゅにん黒田くろだたか哉さんから、施設しせつ活動かつどうや、利用りようしゃかかえる困難こんなん介護かいごしゃがわ工夫くふうやこだわりなどについておはなしうかがうことができた。センターの利用りようしゃだれもがたのしんで参加さんかできる活動かつどうがなかなかつからないなかで、演歌えんか歌手かしゅ氷川ひかわきよしててファン・レターをくことを企画きかくしたさいには、利用りようしゃのほとんどが参加さんかしたといったおはなしは、センターの具体ぐたいてき工夫くふうるうえでも、いちぎょうにとってもとくに興味深きょうみぶかかった。また、聚楽じゅらくでは家庭的かていてき雰囲気ふんいき重視じゅうししており、食事しょくじかた内容ないようにもくばっているということであった。実際じっさいいちぎょう利用りようしゃ方々かたがたとも昼食ちゅうしょくをご馳走ちそうになったが、手作てづくりの和食わしょく(ひじき、豆腐とうふ、おから、ぎょとう)が陶製とうせいのおさらやおわんられて6ひんほどもてきた。いただいた食事しょくじ非常ひじょう美味びみりょうおおかったが、小食しょうしょくであるスミスでさえ、ベジタリアンとしてべなかったしなのぞいては「おいしい」といってすべてたいらげていた。また、食事しょくじのあともいちぎょう実際じっさいにセンターの利用りようしゃほうのさまざまな活動かつどうもよおし、みなどをせていただいた。
 そのいちぎょう立命館大学りつめいかんだいがく衣笠きぬがさキャンパスへかい、立命館大学りつめいかんだいがく大学院だいがくいん社会しゃかいがく研究けんきゅう教授きょうじゅ大谷おおやいづみ安部あべ参加さんかしておこなわれた研究けんきゅう交流こうりゅうかいは、午後ごご3から5までやく2あいだにわたった。以下いか収録しゅうろくしたのはその記録きろくである。


国際こくさい研究けんきゅう交流こうりゅう企画きかく施設しせつ訪問ほうもんかえって

 崎山さきやま本日ほんじつはどうもおあつまりいただいて、ありがとうございました。今日きょうは、昨日きのうのようなだい人数にんずうというかたちではなく、しょう人数にんずうで、昨日きのうのご講演こうえんあるいはご自身じしん研究けんきゅうまえ、とくにイギリスのご事情じじょうなどについて自由じゆう意見いけん交換こうかんができればとおもっています。
 通訳つうやくについては昨日きのう同様どうよう有馬ありまさんにおねがいするかんじになるかとおもいます。有馬ありまさん、よろしくおねがいします。では最初さいしょに、昨日きのうのミーティングの印象いんしょうをカウイ先生せんせいとスミス先生せんせいからおうかがいできればとおもいます。

 カウイ:昨日きのうのディスカッションでとく面白おもしろかったのは、ひとつには、西川にしかわ先生せんせいわれたことだとおもうのですが、感情かんじょうというのはどこにあるものなのか、どこでこるものなのかということです。感情かんじょうひと内面ないめんこるものと普通ふつうおもわれがちだけれど、じつひとひととの関係かんけいのなかでこってくる。またどういう場所ばしょひとがいるかということとはなしてとらえることはできない。天田あまだ先生せんせいっておられたことですが、感情かんじょうというのは結局けっきょく社会しゃかいのありようによって変化へんかしてくる。社会しゃかいがコントロールしているような部分ぶぶんもある。そういう論点ろんてんがすごく面白おもしろかった。
 もうひとつ。昨日きのうのディスカッションのなかで面白おもしろかったのは、感情かんじょうというのは自然しぜん感情かんじょうなのか、本当ほんとうの/真実しんじつ感情かんじょうなのか、そういう質問しつもんてきたことです。ひと経験けいけんする感情かんじょう表出ひょうしゅつする感情かんじょうは、どういう職業しょくぎょういているかによってわってくる。そんなふうに、職業しょくぎょうによってわってくる感情かんじょうというのは本当ほんとう自然しぜんなのか、本物ほんものなのか。そういう論点ろんてん興味深きょうみぶかかったです。
 さらにもうひとつ。今日きょう午前ごぜんちゅうに、むつきあんというところへって──ここはいろんな100種類しゅるいぐらいのおむつがいっぱいてくるところなんですけど──はなしいたときに面白おもしろかったことは、じっさいここでは、おむつをめぐっておこったり、いらいらしたりする患者かんじゃさんがおおいということでした。つまり患者かんじゃさんの感情かんじょう原因げんいんというのをさぐらなければいけないというはなし昨日きのうのディスカッションでもてましたが、それのひとつの理由りゆうとして、おむつの状態じょうたいがよくないからというのがありえるんじゃないかということでした。おむつがれているとか、気持きもちがわるいとか、トイレにきたくてもけないとか。そういうことのために、病院びょういんのなかを徘徊はいかいしたり、いかりっぽくなったり、いらいらしているひとがいる。そういったおはなしいて、ひとひととのかかわりだけではなく、そういうもっと物理ぶつりてき条件じょうけんひと感情かんじょうをコントロールしている側面そくめんがあることをあらためて確認かくにんしました。
 最後さいごに、日本にっぽんでもたくさんの研究けんきゅう蓄積ちくせきがあるとおもうのですが、日本語にほんごのものはむことができないので、いずれ英語えいご翻訳ほんやくされて、ヨーロッパやどこかで出版しゅっぱんされればうれしいです。

社会しゃかいによる感情かんじょう統御とうぎょはどこまでゆるされるか

 スミス:感情かんじょうというのは社会しゃかい統御とうぎょするというはなしについて、「社会しゃかい制御せいぎょすることはいいことなのか、わるいことなのか」という質問しつもんたら、どんな社会しゃかいかんがえたってかなら個人こじん感情かんじょうというのはある程度ていど制御せいぎょされている、それは現実げんじつとしてそうだといわざるをえない。そういったことがない、個人こじん感情かんじょう社会しゃかいによって制御せいぎょされないような社会しゃかいというのはかんがえられない。まず現実げんじつとしてはたしかにそのとおりなのだとおもいます。
けれども、その個人こじん感情かんじょう社会しゃかいがどこまで制御せいぎょするべきか。あまり制御せいぎょしすぎるというのはよくないんじゃないか。それとも、それはそれでいいんじゃないか。そういうところはかんがえられるべき問題もんだいとしてのこります。たとえば社会しゃかい制御せいぎょがあまりにつよいと、個人こじん自分じぶん感情かんじょうしこめければならない、おさえなければならない。そういうことがこったときにどうするかという問題もんだいがあるとおもいます。

 崎山さきやま:おっしゃられたように、感情かんじょうをマネジメントすることの評価ひょうかといったものは、かなり複雑ふくざつかんがえなければならない。まったく感情かんじょうがコントロールされない社会しゃかいというのは想像そうぞうできないけれども、その一方いっぽうで、ぎゃくにケアをするうえで感情かんじょうといったものをどこまで/いかにマネジメントするかという問題もんだいも、やはり重要じゅうようであることは間違まちがいない。そのあたりのことをどうかんがえるべきかは、たしかにおおきな問題もんだいだとおもいます。

感情かんじょう/ケアへのアプローチはひとつではないし、そうあるべきでもない

 スミス:感情かんじょう労働ろうどうについて、昨日きのうのディスカッションでのポイントをいくつかげてみたいとおもいます。
まず感情かんじょう労働ろうどうという概念がいねんは、定義ていぎあるいは枠組わくぐみとして実際じっさいにさまざまな現場げんばしょうじている感情かんじょうについて理解りかいし、組織そしきによるそのマネジメントをいかに構築こうちくしていくかかんがえるうえでやくつ。ただ定義ていぎ枠組わくぐみとして非常ひじょうやくつものだとおもうけれども、かんがえるべきことがらは、もっとこまかくあるだろう。そこからはっする問題もんだい意識いしきというものがあります。
 それから、これはカウイ先生せんせい報告ほうこくからちょっと面白おもしろいなとおもったところをひとげれば、感情かんじょうには肯定こうていてき感情かんじょう否定ひていてき感情かんじょうというのがあるということです。職場しょくばでのいじめについての研究けんきゅうということで、否定ひていてき感情かんじょうとく焦点しょうてんてられているのが面白おもしろかったです。職場しょくばでのいじめについての研究けんきゅうは、感情かんじょう社会しゃかいがく社会しゃかいがく伝統でんとうのなかでろんじられようとしているところがあって、その意味いみでは現場げんば問題もんだいである。今後こんご、いじめの問題もんだいについての研究けんきゅう感情かんじょう社会しゃかいがく伝統でんとうてき社会しゃかいがくとのあいだの対話たいわすすんでいくのではないかというかんがあり、大変たいへん興味深きょうみぶかかったです。
 もうひとつ。べつ論点ろんてん昨日きのう面白おもしろかったとおもったのは、自然しぜんなケアというものとプロフェッショナルなケアというものの対比たいひ焦点しょうてんたっていたことです。自然しぜんにケアするだけではなく、ケアする義務ぎむというのがてくる社会しゃかいで、家族かぞくにたいするケアが一方いっぽう義務ぎむとしてかんじられることがあるし、病院びょういんのようなシチュエーションのなかでは、専門せんもんしょくとしてプロフェッショナルのケアの義務ぎむといったものがある。そのような場合ばあいに、自然しぜんなケアとプロフェッショナルなケアはいったいどういう関係かんけいにあるのかということをかんがえるのも面白おもしろいかもしれない。
 さらにもうひとつは、今日きょうあさ、むつきあんったのがやはり印象いんしょうのこりました。むつきあんとく面白おもしろかったのは、高齢こうれいしゃひとにたいする介護かいご問題もんだいです。そこでは、高齢こうれいしゃひとたちのなかでもとくにトイレへくのが困難こんなんひとたちを対象たいしょうにしているわけですが、そういうひとたちというのは偏見へんけんけていたり、周縁しゅうえんされていたりする。そういう状況じょうきょうにあって、けれどもむつきあんひとたちのっていたアプローチというのは、すごくポジティブなアプローチでした。そのアプローチの興味深きょうみぶかてんかんがえると、それは社会しゃかいてきなアプローチとんでいいんじゃないかとおもいます。これまでのわたし研究けんきゅうは、いわばプロフェッショナルなアプローチとでもいうべきものでした。つまり専門せんもんしょくとしてどういう技術ぎじゅつ学習がくしゅうしていけばそういうひとたちにどういうケアをあたえることができるか、そういう仕方しかたてきたわけです。けれども、むつきあんひとたちがやっているのは、そういうアプローチとはすこちがう。もうちょっとあたらしいアプローチだったとおもいます。
 カウイ先生せんせい最後さいご一言ひとことつけくわえておられたように、むつきあんひとたちのはなし面白おもしろかったのは「技術ぎじゅつ」のことです。べつ意味いみ技術ぎじゅつですけど、たとえばおむつです。本当ほんとうにいろんなおむつがつくられていて、いろんな会社かいしゃひとたちがアイデアをしあって、どんどんいろんなおむつがてくる。それから、ポータブルトイレもありました。うごいて、どこでも使つかえるトイレがあった。そういった技術ぎじゅつ開発かいはつみたいなことともケアはかかわってくる。そういう社会しゃかいてきアプローチというのもあるわけで、とても興味深きょうみぶかかったです。
 最後さいごになりましたが、やっぱりわたしも、日本にっぽん研究けんきゅう海外かいがいでもっと発表はっぴょうされる機会きかいがあればうれしいですね。

感情かんじょう管理かんりじたいは善悪ぜんあく彼岸ひがんにある

 安部あべ:ではぼくからいいですか。ちょっと散漫さんまんですけど、おはなしいておもったことを。
 まず、感情かんじょうって自然しぜんなのかというのがあります。たしかに、おこったり、よろこんだりといった基本きほんてき感情かんじょうのようなものは、人間にんげん動物どうぶつとしてというか、それはたぶんあって。ただ「いかり」とか「よろこび」っていうのは、感情かんじょう表出ひょうしゅつになるわけですよね。そうなると、表出ひょうしゅつがどういうふうに意味いみづけられるかというか、それは文脈ぶんみゃくによってわるわけじゃないですか。たとえばなみだながす。すると「ああかなしいんだ、うれしいんだ、くやしいんだ」とか。いろいろあるけど、その文脈ぶんみゃくによる。たとえば、まれたてのあかちゃんが「おぎゃあ」といている。あれをだれかなしいとはおもわないですよね。でもうれしいというのともちがうようながする。ではあれはいったいなになのだろう、なんてことを素朴そぼくおもったりします。ともあれなにをいいたいのかというと、有馬ありまさんとも以前いぜんはなしたことですが、そもそも「自然しぜん」な感情かんじょうってなになのかというところが、まずはよくわからないなとおもうわけです。
 つぎに、感情かんじょう管理かんり、つまりマネジメントできるということは、ようするに対象たいしょうできるということですよね。ということは、感情かんじょうというと、ふつうはそのままならなさ、その制御せいぎょ不可能ふかのうせい強調きょうちょうされるわけだけれども、そんなふうに対象たいしょう、つまり操作そうさもできるわけです。かつマネジメントするうえで、やはりホクシールドのはなしですが、ルールやコードみたいなものがあって、それにそくしてマネジメントすらできる。
ところで、こうした感情かんじょう管理かんりだれもが/どこの社会しゃかいでもやっているというとき、それを社会しゃかいてきなものといってはよいだろう。関係かんけいのなかでしょうじるものというか。そしてその意味いみでは、対人たいじんコミュニケーションにおける感情かんじょう管理かんりという実践じっせんそれ自体じたいについては、おそらく批判ひはん肯定こうていもないのだとおもいます。つまり価値かちてきにはニュートラルなはずだといえるのではないかとおもいます。そうでないと畢竟ひっきょうひとひととが関係かんけいすること、相互そうご作用さようそれ自体じたいい/わるいという、なんだかおかしなことにもなるので。

だれにとってのしかが問題もんだい

 安部あべ:けれども、そのうえでスミス先生せんせいもカウイ先生せんせいもおっしゃっているように、いい感情かんじょうわる感情かんじょうみたいなものがあるとはおもいます。もちろん感情かんじょうしをいうとき、そこにはすでにあるしゅ価値かちづけがはいりこんでいるわけですが。だから重要じゅうようてんはやはり、それがいったいだれにとってのしなのか、あるいはその評価ひょうかだれがするのかということです。本人ほんにんなのか社会しゃかいなのか。社会しゃかいだとおおきいので、自分じぶんいている集団しゅうだん関係かんけいしゃにしましょうか。ただ、その場合ばあいも、たとえば感情かんじょうおさえることが周囲しゅういにとってはプラスかもしれないけど、本人ほんにんにとってはすごくつらいことだとしたときに、それはくない。そんなふうに、相反あいはんしたりも当然とうぜんするわけです。そのとき、じゃあなにのために感情かんじょう管理かんりするのかというはなしになってくると、単純たんじゅんかんがえるとやっぱり関係かんけいのため、関係かんけい秩序ちつじょというか、その集団しゅうだん維持いじのためにやるわけですよね。それを目的もくてきとして。
 この場合ばあい、これは天田あまだ先生せんせい昨日きのうおっしゃっていたことだとおもうのですが、たとえば、しんどい仕事しごとをしていて、同僚どうりょう同士どうしでおたがいにケアしあって「なにとか頑張がんばろうよ」「大変たいへんだけど頑張がんばろうね」というかんじでやっていくことで、そのはなんとかまるおさまるかもしれない、うまくいくかもしれない。そのこと自体じたいは、ぼくわるいことではないとおもいます。けれども結局けっきょく、ハード・ワークではたらかなければならないという状況じょうきょうなんわらない。それによってむしろ、その状況じょうきょう不可視ふかしすることさえある。ようするに、やはりそういう個々ここ関係かんけいというのも、それがかれている社会しゃかいてきなというか、もっとマクロな場所ばしょ位置いちというものと同時どうじにみていかないといけないというのが、昨日きのう天田あまだ先生せんせいのおはなしのひとつのポイントだったとおもいます。ぼくもそうおもいます。
 ていうか、ちょっとどころじゃないですね。かなり散漫さんまんでしたね。すいません(笑)。

自然しぜん社会しゃかい線引せんひきは可能かのう

 カウイ:はじめに安部あべさんがおっしゃった基本きほんてき感情かんじょうみたいなことについては、たぶんダーウィンなどが、よろこびとかいかり、嫌悪けんおかんとかかなしみといったものをげています。そういうのは、もしかしたらはっきりと定義ていぎすることができるのかもしれません。わるいことをされたらくというのも、ある状況じょうきょうにおいてはもうかんじずにはいられないような感情かんじょうというものを、おそらく基本きほんてき感情かんじょうとして定義ていぎできるのではないでしょうか。そのうえであかちゃんなども成長せいちょうにするにしたがって、徐々じょじょにいろんな感情かんじょうというのを学習がくしゅうしていく。だから、そこのところのプロセスというのは、ある程度ていど線引せんひきできるのではないでしょうか。

 安部あべ:そこまでいれて自然しぜんということなのかな。

 有馬ありま:そうでしょうね。でも、そこがになるところですよね。

 安部あべぼくはだから、「自然しぜん」をどういう意味いみ使つかっているのかなと。人間にんげんというたねだったらだれしもがもっているもの、つまり普遍ふへんてき性向せいこうみたいな意味いみでしょうか。つまり、ぼく人間にんげんがべつに社会しゃかいされなくてもっているものが「自然しぜん」だ、というふうに一応いちおう理解りかいしてはなしをしているんですけど。

 有馬ありま:そうですよね。ちょっとそれ、いてみますね。

 安部あべ:それはまあいいですよ。うん、そこまではわかりました。

 カウイ:もうひとつ。社会しゃかいされた感情かんじょうれいとしては、たとえば昨日きのう西川にしかわ先生せんせいげていたれいなどは、まさにそのものではないでしょうか。自分じぶん上司じょうしわらわれたときに、「たすけてくれとうったえているのに、わらうなんてどういうことなんだ」という感情かんじょうすのではなくて、こっちも「へらへらわらい」というか、そういうへつらうようなわらかたをしてしまう。こういうのは感情かんじょうのコントロールでしょう。もちろん社会しゃかいがうまくいくためには、感情かんじょうというものはある程度ていど、みんながコントロールしていかなければならないという側面そくめんもあるのでむずかしい問題もんだいではありますが。

 スミス:ダーウィン、ゴフマン、フロイトにはいろいろ理論りろんてきはなしもあるので、そのへんをんでいったらこのあたりは理論りろんてきにもっと面白おもしろはなしがあるかもしれません。
 それでひと面白おもしろれいげましょう。ホクシールドが9.11のテロのあと、どこだったかでメッセージをしたのですけれど。そこでっていたのは、アメリカのメディアがいかに人々ひとびと感情かんじょうをmanipulateしたかという……。

 安部あべ:うん。いかりのほうに喚起かんきしたわけですね。

 スミス:そう、いかにいかりのほう喚起かんきしていったか。これはもうあきらかにわるれいとしてげることができるのではないでしょうか。
 もうひとつ。ダイアナのときもトニー・ブレアが事件じけんのあとで自分じぶん意見いけん表明ひょうめいしたりするときは、なんだかいかにも政治せいじとしてコントロールされた感情かんじょうているようながしました。メディアも、そのりあげかたが人々ひとびと感情かんじょうをあおる方向ほうこうに、ちょっとかたよった感情かんじょうすようにやっていたところがあるんじゃないかとおもいます。

理性りせいから感情かんじょう

 安部あべぼく一応いちおう哲学てつがくてき立場たちばとしてはというか、このみとしてはというか、アンチ合理ごうり主義しゅぎなので。あくまで一応いちおうです。合理ごうり主義しゅぎきらいとかではなくて(笑)。理性りせいより感情かんじょう重視じゅうしするようなながれといいますか。さかのぼれば、ヒュームとかスミスとか。最近さいきんだったら、たとえばレヴィナスとかケア倫理りんりとかですかね。
 ともあれ、あえて理性りせいより感情かんじょうといいますか、そういうながれにくみしてものをかんがえているところがあります。いまおはなしにあったメディアによる感情かんじょう操作そうさとかもそうですが、ようするに「けっこうひと感情かんじょうでいろいろ喚起かんきされるじゃない」というか、「そこでなにうごいてしまうみたいなことが多々たたあるんじゃないか」とおもうわけです。そういう意味いみでは、やはりそもそも人間にんげんって不合理ふごうりなのかもしれない。どちらかといえばぼくは、人間にんげんというものをそういうふうにみています。だから、そんなに理性りせいてきな、近代きんだい哲学てつがく想定そうていするようないわば立派りっぱひとというか、もちろんぼくらにはそういう側面そくめんもたしかにあるんだけど、そんなひと前提ぜんていにした社会しゃかい理論りろん構想こうそうはちょっとかんがえにくいなと個人こじんてきにはおもったりしています。

 有馬ありま:そういうところに関心かんしんがあるということですよね。

 安部あべ:ですね。ただそのときに、じゃあ感情かんじょうの「そもそもろん」みたいなところにいくのかというはなしになってくると、ぼく自身じしんはちょっとちがうかなともおもうわけです。
たしかにそんなことをおもったこともあったというか、たとえば博士はかせ論文ろんぶんにも文献ぶんけんげたのですが、エヴァンズ(Dylan Evans)というひとがEmotion: A Very Short Introduction(邦訳ほうやく遠藤えんどう利彦としひこやく感情かんじょう岩波書店いわなみしょてん、2005ねん)というのをOxford University Pressからしています。簡単かんたんな「感情かんじょう科学かがく現在げんざい」の紹介しょうかいみたいなほんなんですけど。そこに基本きほんてき感情かんじょうはなしてきて、それはそうなんだろうとはおもうんです。それで、そのほんいてあるわけではないのですが、それをんでおもうに、基本きほんてき感情かんじょうとして、まずいくつかがある。そこからいろんな成長せいちょうのプロセスをて、たとえばひと共感きょうかんするようになったり、いたおもいをしているひとをみたら自分じぶんもそんな気持きもちになって。それでそこから、いたいこと、ひといたみをあたえるのはやめよう……というような、すごく乱暴らんぼうにいってしまえば素朴そぼくなおはなしというか。そして「そのプロセスじたいも人間にんげん自然しぜんなんだぜ」というようなおはなしといいますか。
 だけど自然しぜんっていうけど、それが本当ほんとう自然しぜんなものとしてあったらね、とおもうわけですよ。「じゃあなんで、こんなふうになっちゃってるの、なか?」と(笑)。つまりみんなが自然しぜんにそういう感情かんじょうをもっているのであれば、ようは「自然しぜんな」共感きょうかんを「自然しぜんに」できるのであれば、みんなもっとわかりえてるはずじゃないの、でも現実げんじつはそうじゃないよね、と。まあこのかえしじたいもかなり素朴そぼくなんですが、おもうわけで。
 そういうわけで、基本きほんてき感情かんじょうや、基本きほんてき人間にんげん共感きょうかん能力のうりょくをもっているというようなところをいくら科学かがくてき見地けんちうらづけても、というかそっちの方向ほうこうかってもすくなくともぼく自身じしんにとってはあまり意味いみがないかなと。「ほらね、科学かがく人間にんげんをちゃんと客観きゃっかんてき調しらべたらこうなっているのだ。そもそもそういうデバイスがあるのだ」ということをいわれても、なにかそっちにもちょっとれないというか。もちろんそれはそれで重要じゅうようだとはおもうんですけど。

情動じょうどうと/の政治せいじ

 カウイ:人間にんげん基本きほんてき合理ごうりてき存在そんざいではないんじゃないかというのは、たぶんそのとおりだとおもいます。そのうえで、そこからどういうことが問題もんだいとなるのか。これから議論ぎろんしていきたいことがなにかあるのでしょうか。

 安部あべ:そうなんですよね。ぼく自身じしん、これからどうすすんでいこうかなというのが正直しょうじきありまして。
たとえば感情かんじょうより、もっと基底きていてきなものとしての情動じょうどう注目ちゅうもくするながれが最近さいきんありますよね。権力けんりょくとかも、簡単かんたんにいうと、むかし理性りせいうったえかけて人間にんげんうごかしていたのが、行動こうどう駆動くどうするより根源こんげんてき契機けいき、つまり情動じょうどうにダイレクトにはたらきかけるようになってきている。たとえば現代げんだい思想しそうなどで、そういうはなしてきつつある。
この議論ぎろん面白おもしろいところは、そういういわば新手あらて権力けんりょく社会しゃかい統制とうせいのさいに採用さいようする、そちらのほうが社会しゃかい秩序ちつじょ円滑えんかつたもてるなら、あるしゅ政治せいじてき観点かんてんからすれば、そうわるくないはなしだといえること。あるいは場合ばあいによっては管理かんりされる当事とうじしゃ観点かんてんからしても、べつにそんなにわるくないんじゃないのともいえたりするところです。
 でもそれには「人間にんげんはでも、動物どうぶつじゃないぜ」といったかんじで、合理ごうり主義しゅぎしゃたちは反発はんぱつするわけですよ。たとえば理性りせいなるものをまもりたいひとたちというのは。その立場たちばせいというか、それはまあべつにどうでもいいんですが、ようなにについてどういうふうにかんがえるかが、ポイントになってくるわけです。
つまり社会しゃかい秩序ちつじょ維持いじ目的もくてきというか、みんながそこそこうまくまわっている、社会しゃかいがうまくまわっているということが大事だいじであれば、ぼく一応いちおうローティてきというか、プラグマティックにものをかんがえるのもありかなとはおもうんです。いや、ぼく自身じしんがそうかんがえているかどうかはべつとして、一応いちおうそういう立場たちばでいくと、そんなふうにあるしゅうまくいくほうがいいんじゃないか、といいますか。もちろんそれはなに目的もくてきとするかによりますが、ただそれはそれとして、いわゆる倫理りんりてき問題もんだいというのとまたべつ位相いそうはなしとしてかんがえることもできるかなとおもったりもするわけです。
 というふうに、なんだかまたいろいろいいましたが、いずれにせよ「残酷ざんこくさの回避かいひ(avoiding cruelty)」をかかげるローティの「正義まさよしろんにあえてったうえで、crueltyをいかにしてらしていくことができるか、そのさいローティがいうように共感きょうかんでどこまでいけるかについて、もっとっこんでかんがえていきたいというのが、ぼく現状げんじょうでしょうか。
 ただつけくわえておくと、ローティは、共感きょうかんはhuman natureだとはいわないんです。

 有馬ありま:そうっていましたね。でもそれは、human natureとしてshareしているんじゃないけど、たぶん共有きょうゆうされているだろうということなんですか。

 安部あべ:human natureといったときは、ア・プリオリということですよね。そうではないといってるんです。

 有馬ありま:でも、おそらく共有きょうゆうされているだろう。現実げんじつにはということですか。

 安部あべ:うん。おおくのひと残酷ざんこくなふるまいをけているところをみると、おそらく共感きょうかんしているのだろうと。そういうかんじですね。

共感きょうかん両義りょうぎせい

 カウイ:残酷ざんこくさの回避かいひというのは、つまり共感きょうかん能力のうりょくをうまく使つかえば、みんなが共有きょうゆうしている共感きょうかん残酷ざんこくさを回避かいひするために有効ゆうこうなんじゃないかということでしょうか。
 それをいてちょっとおもったのですが、もしかしてそれはぎゃくのこともえるんじゃないでしょうか。自分じぶん感情かんじょうをうまくコントロールできないどもは、じつはいじめの対象たいしょうになりやすいんですね。すぐに興奮こうふんしたり、狼狽ろうばいしたり、そういうどもはターゲットにされやすい。だから、そういうどもたちに自分じぶん感情かんじょうをうまくコントロールできるように仕向しむけてやることが、その残酷ざんこくにあう可能かのうせいひくくするのにかえって役立やくだつ。
 そういうふうにかんがえると、みんながもともと共有きょうゆうしている自然しぜん感情かんじょうよりは、うまく感情かんじょうをコントロールすることができるようになることのほうが、じつ残酷ざんこくさを回避かいひするのに役立やくだつ。そういうこともありえるかもしれません。

 安部あべ:そうなんです。共感きょうかんというのは、あたりまえですけど両義りょうぎてきなもので。だから、それを残酷ざんこくさの回避かいひのほうに役立やくだてようとおもうと、あるしゅ仕掛しかけが必要ひつようで。それでぼくは、博士はかせ論文ろんぶんでローティにおけるそれがなになのかについてかんがえてみました。
ローティは「他者たしゃ受苦じゅくへの共感きょうかん」や「他者たしゃとの細部さいぶ類似るいじせいへの共感きょうかん」というわけですよ。簡単かんたんにいうと、みんないたいのはいやだよね、わかるよね、と。あとイデオロギーてきちがいがあっても、おや大切たいせつにしていたりだとか、趣味しゅみ地元じもとじつ共通きょうつう知人ちじんがいたりといったところでひとひとはつながれる。むしろそういうちいさなところにけようじゃないか。おおきいところというか、決定的けっていてき自他じたをわかつメルクマールとおもわれている信仰しんこうとか民族みんぞくとか、そっちではなくて。そしてそのためには、自己じこいている信念しんねん価値かち偶然ぐうぜんせいみとめること、すなわちかれのいう「アイロニー(irony)」というのが必要ひつようだとかれかんがえているとぼくはローティをみました。つまり「他者たしゃ受苦じゅくへの共感きょうかん拡張かくちょうするためにはアイロニーというものを媒介ばいかいさせる必要ひつようがある」との解釈かいしゃくにもとづいて博士はかせ論文ろんぶんきました。ともあれはなしもどせば、一般いっぱんてき共感きょうかんというのは両義りょうぎてきなものだというのはたしかです。川本かわもと隆史たかしさんなんかも、ローティの議論ぎろんはそこがあやういと指摘してきしておられます。

 有馬ありま両義りょうぎてきというのは?

 安部あべ受苦じゅく、つまりぼくらはくるしんでいるひとだけに共感きょうかんするわけじゃないですよね、という意味いみです。それこそだから、さっきの9.11のはなしがありましたけど、ぼくらはいかりにも共感きょうかんするわけですよね。

 有馬ありま:ああ、なるほど。

 崎山さきやま:つまり、おそらく重要じゅうようなことというのは、感情かんじょう今日きょうどういうふうに社会しゃかいてきもちいられているのかということについて、やっぱりかんがえる必要ひつようがあるということ。もうひとつには、近年きんねんのように理性りせいというようなところからしょ科学かがくしてきて、感情かんじょうといったものを土台どだいにしながら人間像にんげんぞうえがこうとしたさいに、人間にんげん尊厳そんげんであるとかケアといったものが、たしてどこまで人間にんげん本質ほんしつえるのかどうかといったこと。このてんかとおもうんです。
 それぞれを敷衍ふえんすると、だいいちに、感情かんじょうをコントロールするということがよいことであって、とく感情かんじょう労働ろうどう素晴すばらしくたかめていけばいいというのは、たしかにそれはそのとおりなんだろうけれども、もう一方いっぽうでは、うまく感情かんじょうをコントロールできないひと排除はいじょされたり、いじめの対象たいしょうになってしまうといったことがあるだろう。この問題もんだいについて、どうかんがえるかということ。
 だいに、1990年代ねんだいぐらいから哲学てつがくだとか社会しゃかい哲学てつがく、あるいは社会しゃかいがくとうで、ケアだとか感情かんじょうといったものをベースとしながら人間像にんげんぞう構築こうちくしてきたんだけれども、それでどこまでうまくいけるかどうかをかんがえる必要ひつようがあるだろうということ。このてんについてはとく大谷おおや先生せんせい三井みつい先生せんせいに、おうかがいしたいところです。

ケアの中核ちゅうかく感情かんじょうなのか

 三井みついてんってなにでしたっけ。最近さいきんのケアリングのこととエモーションが。

 崎山さきやま感情かんじょうだとかケアというものを中心ちゅうしんにして人間像にんげんぞうてようとしているんだけども、それがどこまで成功せいこうしているか。
 三井みつい:でも、わたし感情かんじょう中心ちゅうしん人間像にんげんぞうてようとしているとはあまりおもわないのですが。

 崎山さきやま:ケアリング、ケアといったものをひと本質ほんしつだというふうに。

 三井みつい:care ethicsだと、そううかもしれません。

 崎山さきやまとくにケア倫理りんりというふうなところから、人間にんげん本質ほんしつというものはケアする存在そんざいだととらえて人間像にんげんぞうてるというふうなこころみが近年きんねんなされていますが、そのてんについて三井みついさんは、どうかんがえていらっしゃいますか。

 三井みつい:さっきから全体ぜんたいはなしがわかりきっていないところが、たぶんあるんだろうとおもうんですけど。
 エモーションを中心ちゅうしんにした人間像にんげんぞうをつくろうとされていると、わたしはたぶんあまりおもっていないんだとおもいます。ケアリングはたくさんのファクターからなっていますよね。エモーションだけではなくてmaterialやphysicalなど、いっぱいあります。だから、エモーションがそんなに中心ちゅうしんだとは、あまりおもっていないですね。
 ただ議論ぎろんのレベルで、最近さいきん理論りろんがみんなそういうことをっているというのは、わからなくもないようにおもいます。認知にんちしょうほうのケアにかんしても、エモーションが議論ぎろん中心ちゅうしんになるということはあるのかもしれません。ただそれは、理論りろんというか、ほんでの啓蒙けいもうのレベルであって、実際じっさい実践じっせん現場げんばのレベルでは全然ぜんぜんそんなことはないという認識にんしきがあります。
 むしろ、ぎゃくにだから理論りろんのレベルで、どっとエモーション、エモーションとっていることについて、いま現場げんばのレベルから批判ひはんがいっぱいていると認識にんしきしています。だからなにうか、理論りろんたちがへんなことをっているだけであって、というふうにおもってます。ちょっとわたしかたよっているのかもしれないけれども。はい。


きあうことがケアというわけではない

 安部あべ批判ひはんというのは、どういうことですか。「ケアって感情かんじょうだけじゃないよね」というかんじですか。

 三井みつい:そうですね、はい。

 安部あべ:たとえば具体ぐたいてきには、どういうかんじなんでしょうか。ようは、いまおっしゃったみたいに「ケアにはいろんなファクターがあるんだよ、まとめてひとつなんだよ」みたいなことですか。

 三井みつい:はい。たとえばとくやしなえったときに、そこのひとに、個別こべつせいなんかどうでもいいのよとわれました。いや、わたしのいままでの研究けんきゅう全部ぜんぶ否定ひていされたかんじですけど、そうわれて。1たい1でって人間にんげんるもんじゃないんだよと。そんなことでは生活せいかつはまわらない。雑踏ざっとうケアといういいかたもありますけど、1たい1で人間にんげんを、1たい1でそのひと気持きもちにかかわるみたいなことをやればやるほど、事態じたいはこじれる。いきまるし、ケアワーカーも結局けっきょくいたたまれなくなってしまうんですね。現場げんばちがうんだよ、そんなふうにはまわらないんだよ、とわれました。
 それよりは、今日きょうおこなった町家まちやのところでもそうですけど、みんなでなんとなくにわて、なんとなくしゃべっている。このことが大切たいせつなんだとわれました。これはもうエモーションとかとっているかんじではないですよね。なにかもっとふんわりしたなにかですよね。atmosphereとすらいたくないような、そんなようなものが大事だいじだと。環境かんきょう大事だいじだといういいかたがけっこうてきているんですけど、ただそれも、もうすでにやっぱり現場げんばのなかでは批判ひはんもあって、環境かんきょう環境かんきょうとばっかりうな、といういいかたもされていますしね。ケアをかんがえるかぎは、現場げんばレベルでは、すごくいっぱいあるんだとおもうんですよね。
 ただ認知にんちしょうかんしてはエモーションのことがすごくげられたことがおおきな意味いみっていました。それによってはじめて、認知にんちしょうにたいするケアリングの可能かのうせいまれたというふうに認識にんしきされたから、そのことがどうしてもげられがちなんだとおもいますが。

感情かんじょう労働ろうどう」という言葉ことば概念がいねんひらいたもの

 三井みつい理論りろんはどう現場げんば理解りかいするのに使つかえるか。たとえば、emotional labourという言葉ことばは、たしかに看護かんごしょくにとって、とても重要じゅうようなコンセプトだったんです。それは、本当ほんとうにそうでした。わたしはたくさんのナースから、emotional labourという言葉ことばって、これはわたしのことだとか、やっと言葉ことばにしてくれたというふうに、すごくおもいをめてわれたことがなんかいもありますから。
 ただ、それはすごくわたしにとっては、ずっとなぞだったんですけれども、本当ほんとううと。なぜかなとおもっていました。そのなぞくためには、わたしはエモーションという言葉ことばしているのは、おさえられない、“I can’t stand it.”とかんじるとか、“I cannot control it.”とかんじるような瞬間しゅんかんのことじゃないか、日本語にほんごうなら、「感情かんじょう」という言葉ことばしめしているのはそういうことではないかとかんがえたんです。
 そういう瞬間しゅんかんがいっぱいケアリングの現場げんばになかにあるということを、emotional labourという言葉ことばが、ぴっとしたんだとおもうんですよね。そのことによってケアワーカーたちは、自分じぶんたちがどれだけ自分じぶんをコントロールできないとおも瞬間しゅんかんがあるのかをかんじるのだし、自分じぶんひと相手あいてにしてやっている仕事しごとなのだということを、その瞬間しゅんかん直感ちょっかん理解りかいするんだとおもうんです。
 だから、理論りろんやくにたないとはまったくおもわなくて、それは現場げんばにいる実践じっせんたちが自分じぶんがやっていることをすぱんと理解りかいするのに、すごく大事だいじ道具どうぐだとおもいます。
 わたしは、看護かんごしょくがemotional labourだというふうに事例じれいは、だいたいふたつにけられるとおもっています。ひとつは患者かんじゃおこっていて、自分じぶんいかりをおさえるとき。これがひとつで、ただもうひとつあって、ターミナルケアとかで患者かんじゃくなるというときに、かなしいときもあるし、おこっているときもあるし、ときにはよろこんでいるときもある。やっぱりありますよね、それはね。よろこんでいるときもある。よくきた、「いい最期さいごだったね」とおもうときもある。
 いろんな、いろんなおもいがてくるターミナルケアのときにも、感情かんじょう労働ろうどうだと看護かんごしょくつよかんじている。ただ、そのときに問題もんだいになるのは、フィーリング・ルールにわせて自分じぶん感情かんじょうおさえるというはなしというのはないとおもうんですよね。すくなくとも、そうとはかぎらないとおもって。それで、さっきのようないいかたをしました。看護かんごしょくは、ルールにわせておなじようなかおたもつことを大事だいじにしているんじゃないとおもったんです。
 つまり、いろんな、わあっとかんじる感情かんじょうがあって、このことをいたくて、わたしはこんなにいっぱいかんじるということをいたくて、看護かんごしょくおおくがemotional labourという言葉ことばびついたと理解りかいをしたんです。emotional labourという言葉ことばが、それを本当ほんとう直截ちょくせつしめしたのでしょう。そうおもうと、やっぱり理論りろんはすごいちからっているとおもいます。

感情かんじょう労働ろうどう」の外部がいぶ他者たしゃ

 大谷おおや:ターミナルのときにルールにわせてというところを、もうちょっとくわしくいっていただけます?

 三井みつい:ルールにわせてコントロールすることが大事だいじはなしとして看護かんごしょくはなすわけではないとおもうんです。たしかにそういうふうにもいますけど。でもわたしは、そこが大事だいじ看護かんごしょくかたっているのではないと理解りかいをしたんです。そうではなくて、くなってしまうことにたいして、すごく動揺どうようしてしまうという、この自分じぶんと、どうつきあっていくかということをかんがえているのであって。ある一定いっていのフィーリング・ルールにわせた行動こうどうをそのでしなくてはならないということを中心ちゅうしんかんがえているわけではないようにおもいます。

 有馬ありま:ということはつまりってしまえば、もともとの感情かんじょう労働ろうどう定義ていぎとは、ずれたかんじでめられているということですか。

 三井みついわたしはそうめています。それはむしろ、感情かんじょう労働ろうどうという概念がいねん看護かんごはなしんだパムさんが、本当ほんとういたかったことのようにおもうし。だったらホクシールドの定義ていぎ拘泥こうでいする必要ひつようはないんじゃないかとおもって。
 でも、感情かんじょう労働ろうどう定義ていぎから完全かんぜんにずれているわけでも、たぶんないとおもうんですよね。おこったり、かなしんだりするのも、そういう仕事しごとだからでもあるから。けっしてはなれているともおもっていません。

 有馬ありま:そうなんですよね。どういう状況じょうきょうのときにかなしむかというのは、その状況じょうきょうとくにすごくコントロールしているという意識いしきがなければ、感情かんじょう労働ろうどうではないというわけでもないがするんですよね。

 三井みつい:ないとおもいます。はい。

 有馬ありま:あれ〔『感情かんじょう労働ろうどうとしての看護かんごだい6しょう病院びょういんぬこと」〕をんでいたかんじでは、そうですよね。

 三井みついくなるほうたときに、それはやはりナースとしてくなられるほうるわけですから、そのときにいだかなしみというのは、それはやっぱり、raw feelingとはちがうはずなので、そこ自体じたい感情かんじょう労働ろうどうだとはおもうんですけど。

 有馬ありま:なるほど、なるほど。

 三井みつい:フィーリング・ルールにこだわりすぎては、とらえきれないかなといたいだけです。あ、でも、ちょっとなにかよけいなはなしをしていますね。ごめんなさい。

 有馬ありま:いや、なにかちょっと面白おもしろくなってきた。

 安部あべ:そうなんですよね。そのへんというのはだから、ターミナルケアのはなしなんかはぎゃくにというか、とてもわかりやすくて。昨日きのうまさに有馬ありまさんが「看護かんごしょく感情かんじょう労働ろうどうのキャラクターって、特異とくいせいってなになんだ」といってましたけど、つまりそういう意味いみではティピカルにあるわけじゃないですか。となると、じゃあ、たとえばフライト・アテンダントとかのはなしというのは、やっぱり位相いそうちがうんだよな、ターミナルケアとかとくらべると、とおもうわけです。
 そうだし、たとえば便所べんじょ掃除そうじひととかの感情かんじょう労働ろうどうというのがぼくはあるとおもっていて。便所べんじょ掃除そうじっていやじゃないですか。きらっていうか、そんなふうに強力きょうりょく感情かんじょうさぶられるというのは、やっぱりとてもベーシックなというか、有馬ありまさんが生理せいりてき嫌悪けんおかんというはなしをされていましたけ、そういった生理せいりてきなといわれるところのものがやっぱり関係かんけいするのかなと、ちょっとおもったりしたんですけど。有馬ありまさん、どうですか。どうおもわれますか。

 有馬ありま感情かんじょう労働ろうどう定義ていぎが、ということですか。

 安部あべ:ううん。いまぼくがいったようなことにかんして。そういうなにか、強烈きょうれつ感情かんじょう源泉げんせんみたいなものというとへんだけど。ちがうとはいえそうですよね。

 有馬ありま職業しょくぎょうてき場面ばめんかんじる感情かんじょうと、ほかの場面ばめんかんじる感情かんじょうは、ですか。

 安部あべ:うん。強度きょうどといったらいいのかな。やっぱりひとぬとかにかけているとか、そのときの感情かんじょうと、それをどう統御とうぎょするかということ。もちろん個人こじんはあるでしょうけど、一般いっぱんてきむずかしいめんがありますよね。

 三井みつい理論りろんとしての感情かんじょう労働ろうどうのすごさは、全部ぜんぶ理解りかいするんじゃなくて、大事だいじなポイントがどこかを理解りかいするじょうでものすごくやくつ。

 カウイ:実際じっさいには、たぶん看護かんごというのはターミナルの患者かんじゃたときに、かならずしもそうつよ感情かんじょうおぼえるわけではないというのは、自身じしん経験けいけんからいっても、そうおもいます。わたし昨年さくねんははくしました。そのときも、もちろんわたしはすごくかなしかったけれども、そこに居合いあわせた看護かんごたちをていたら、とくにそんなにすごくつよ感情かんじょうかんじているようにはえませんでした。看護かんご仕事しごとということをかんがえたときに、つよ感情かんじょうおぼえることというのは、その仕事しごとにとって必要ひつよう不可欠ふかけつ要素ようそかというと、そうでもないかもしれないなということですね。

 三井みつい:カウイさんはdeep emotionがケアリングの、ナースの中心ちゅうしんにあるとってしまっていいのかとっているんですよね。そうですね。たしかに、それはそうかもしれません。

 有馬ありま:うん。三井みつい先生せんせいがさっきっていたように、看護かんごがターミナルの患者かんじゃさんをたときに、かなしみとかいかりとか、すごくつよ感情かんじょうをもつというはなしにたいして、こたえておられるのだとおもいます。

 三井みつい:そうですね。家族かぞくのほうが、感情かんじょうはよっぽどつよいという。たしかに、それはそうですね。

 大谷おおや:それだけではないと。

 三井みつい:そうですね。それだけではない。たぶんわたしは、感情かんじょう労働ろうどう比較ひかくしているんだとおもうんですね。だから、たしかに必要ひつよう不可欠ふかけつ要素ようそかどうかはわからない。おっしゃるとおりです。

 大谷おおや:それは最初さいしょの、現場げんばはもっといろいろなものがあって、どれかひとつにフレームがたると、なにかこう、それだけかというと、現場げんばはもっといろいろあるのよというはなしもどるというか、つながるんですよね。

 三井みつい個人こじんてき関係かんけいのところにれているとっているんですね。そうですね。でも、パーソナルな関係かんけいとプロフェッショナルの関係かんけいというのが、どこまで明確めいかくはなせるものなのかは、わからないところもありますよね。personal relationshipとnurse-patient relationshipはじっているともいえるのかもしれません。

「よい」をおしえることへの懐疑かいぎ

 大谷おおや:ここまでおはなしうかがってきて、ふたつのことをかんじています。
わたし教育きょういく現場げんばでいわばかえびるような毎日まいにちながごしてきたんですが、教育きょういく場合ばあいも、教育きょういく現場げんばきていることについて、なにひとつに焦点しょうてんてて理論りろんされると、それがすべての問題もんだい説明せつめいしたり、解決かいけつできるかのような言説げんせつ流行りゅうこうのようにひろまることがしばしばあります。マジックワードみたいになるんですね。で、それが形式けいしきしていくというか、あるいはひとつの規範きはんになるというような状況じょうきょうきます。でも、現場げんばにいるとそれはちがうよな、その概念がいねんで、あるいはその理論りろんで、ある部分ぶぶん説明せつめいできるかもしれないけど、でもそれだけではないな、とか、なにかもっとちがうものがあるというかんじはずっとけていたので、三井みついさんがはなされた現場げんばこえというのは、すごくよくわかるんですね。
 そういう意味いみで、パム・スミスさんの『感情かんじょう労働ろうどうとしての看護かんご』をむと、わたし、いま、「尊厳そんげん言説げんせつ編成へんせいとか生命せいめい倫理りんりがく導入どうにゅうとかを研究けんきゅうテーマにしながら教員きょういん養成ようせいにもかかわっているんですが、たぶんこの感情かんじょう労働ろうどうというのを教育きょういく場面ばめん教員きょういん養成ようせいてはめても、ひょっとしたらけるかもしれないというかんじはあるんですね。
 他方たほうで、教員きょういん養成ようせいにおいて感情かんじょう管理かんり規範きはんしておしえるということにたいしては、やはり危惧きぐがあるんです。危惧きぐというか、懐疑かいぎというかね。それでこぼれちてしまうものがたくさんある。それはたとえば、さきほどてきた感情かんじょうのコントロールが「適切てきせつに」できないどもとか教師きょうしが、結果けっかてき排除はいじょされていくのじゃないか。それがひとつです。
 もうひとつはターミナルケアともかかわるんですが、たとえば、キューブラー=ロスの受容じゅようの5段階だんかいというのが一時期いちじき、ずいぶん話題わだいになりました。あるいはいまでも、でしょうか。キューブラー=ロスの仕事しごと重要じゅうようせいたしかです。でも、それをまなんだ看護かんご学生がくせいたち、看護かんごたちが、その5段階だんかいをきちんとんでいかない患者かんじゃを「わる患者かんじゃ」となしてしまうというようなことがきた。
 いまdeath-educationとか「いのちの教育きょういく」とかが日本にっぽんでも注目ちゅうもくをされています。テレビゲームでそだったどもたちがヴァーチャルな生命せいめいかんしかっていない、ひとぬということのリアリティーがわかっていない。だから、どもたちが簡単かんたん自殺じさつしたりひところしたりしてしまう。だから、「いのちの教育きょういく」が必要ひつようなんだ、と、そんなこえ急速きゅうそくたかまっています。
 でも、そもそも「への準備じゅんび」なんて、はたしてできるのかって、基本きほんてきには疑問ぎもんおもうし、「よき」を規範きはんしておしえることによって、かえって「理想りそうされた」「理想りそうてき」を内面ないめんした患者かんじゃが、現実げんじつとのギャップにくるしんだりする。たとえば、十分じゅうぶん準備じゅんびして覚悟かくごしてやすらかにのうとホスピスにはいったはずが、寛解かんかいしちゃって、したはずの覚悟かくごちゅういてとまどう、なんてこともあるわけです。実際じっさいけんのキューブラー=ロス自身じしんが、やまいした晩年ばんねん自分じぶんがそれまでかたってきたことを簡単かんたんには受容じゅようできず、くるしみながらくなったという、そんなこともあるんですね。
 そういう意味いみで、ここで「パッケージされた」と、よく管理かんりされた「ぜん人的じんてき」というのが、はたしてほんとにそんなにちがうのか、ぜん人的じんてきなケアそのものが、パッケージされてしまうということはないんだろうか。それ、わたしにはちょっとよくわからないというか、いまひとつちなかったことなんですね。

 有馬ありま大谷おおや先生せんせい最後さいごほうでいわれた「パッケージされた」というところが、ちょっとわからなかったんですけど、どこにてきましたかね。ぼく一応いちおうんだんですが。

 三井みつい:パッケージされたって、どうなっていたっけ。なにだったっけ、原語げんご
崎山さきやま:たしか6しょうか7しょうだったとおもう。

 三井みつい:6しょうか、そこらへんに。究極きゅうきょく感情かんじょう労働ろうどうかんするというところですよね。
有馬ありま:ああ、ありましたね。どういう意味いみてくるんでしたっけ、これは。

 大谷おおや原文げんぶんがわからないんですが、感情かんじょうけてルーティンのように患者かんじゃさんに対処たいしょする「パッケージされた」にたいして、ぜん人的じんてきなケアをすることが「もっともよく管理かんりすること」とかれてるんですが。

ターミナルケアの/というかたりの政治せいじせい

 大谷おおや:キューブラー=ロスにしても1960だい研究けんきゅうで、1980年代ねんだいぐらいから医療いりょう政策せいさくそのものが、医療いりょうけずっていってますよね。アメリカでもイギリスでもそうですし、日本にっぽんすこおくれて、いまどんどん削減さくげんしてます。
 そうすると「過剰かじょう医療いりょうって自然しぜんぬ」というけれども、そこでのメンタルなケア、家族かぞく喪失そうしつのケアもふくめて、ケアということそれ自体じたいが、当時とうじっていた本来ほんらい意味合いみあいでなく、まったくことなった意味いみってしまうことになるんじゃないか。それこそ、ターミナルケアというものが社会しゃかいてき文脈ぶんみゃくからはなされてかたられることの政治せいじせいになります。
 そのかたりのなかでは、にゆく本人ほんにんにとっても自分じぶん尊厳そんげんまもれるみたいなところがあって、市井しせいひとびともその物語ものがたりってしまうというか。でも、そこには権力けんりょく関係かんけいいくそうにも複雑ふくざつからっている。その複雑ふくざつからいのなかで、感情かんじょうにも配慮はいりょした「ぜん人的じんてきなケア」というものがりこぼしてしまうもの、コントロールしきれないものが徹底的てっていてき排除はいじょされていくのじゃないか、そんなことがになります。

感情かんじょう労働ろうどうとしての看護かんご』がかれた文脈ぶんみゃく背景はいけい

 スミス:じつは、だい6しょう部分ぶぶんというのはこのほんくときに一番いちばんはじめにいたあきらで、そういう意味いみでちょっとおもれのあるしょうなんです。でも、このしょうについてかんがえるときに大事だいじだとおもうのは、これをいたのはもう20ねんまえで、もとになったフィールド・ワークもちょうどおな時期じきにやられたので、その意味いみでは、このほん内容ないよう意味いみ理解りかいするとき、あくまでその時点じてんのものとして理解りかいすべきところがあるということです。今後こんごは、ここにかれたことをんで、そのうえでもう一度いちど現場げんばもどって、それらをふまえてさらに分析ぶんせきつづけていくということができるかともおもいます。
ここで学生がくせい経験けいけんにもとづいていたのは、当時とうじはフォーマルな、しっかり体系たいけいづけられたトレーニングと、そうでないタイプのトレーニングというのがあって、ということでした。じっさい、ここにえがかれた学生がくせいたちというのは本当ほんとうに、ちゃんとしたというか、フォーマルなトレーニングをけないようなかたちで病院びょういんはいった、しかもんでいくような患者かんじゃをこれまでたこともないような学生がくせいたちでした。そんな学生がくせいたちが、にもかかわらず、んでいくひとたちにたいして人間にんげんてきなperspectiveをってかかわらなければならないという状況じょうきょうでした。

 崎山さきやま:つまり、このあきらはそのむずかしさというものをえがいたものだと。

 三井みつい間違まちがえていたらあれですが、最後さいごにおっしゃっていたのは急性きゅうせい圧倒的あっとうてき中心ちゅうしんのなかで、もう周辺しゅうへんのようにあつかわれているにどうっていくかというはなしでもあると。

 崎山さきやま:もうひとつのポイントは、とくにスミス先生せんせいがこのほんかれた1990年代ねんだいというのは病院びょういん圧倒的あっとうてき急性きゅうせいであって、とくくなるというふうなことについて、あまり注意ちゅういはらわれていなかったことにたいしての、あるしゅ異議いぎもうてとしての意味いみたせたかったというてんにあるといえるでしょう。

編者へんしゃ
(1)有馬ありまひとし「「生理せいりてき嫌悪けんおかん」をめぐる混乱こんらん」『医学いがく哲学てつがく医学いがく倫理りんり』(日本にっぽん医学いがく哲学てつがく医学いがく倫理りんり学会がっかい)27ごう, 2007ねん, 71-81ぺーじいなかったことにたいしての、あるしゅ異議いぎもうてとしての意味いみたせたかったというてんにあるといえるでしょう。


パム・スミス・ヘレン・カウイ・大谷おおや いづみ・三井みつい さよ・崎山さきやま 治男はるお有馬ありま ひとし安部あべ あきら 20090319 「研究けんきゅう交流こうりゅうかい ことなるがくのポリフォニー」 安部あべ あきら有馬ありま ひとし 『ケアと感情かんじょう労働ろうどう――ことなるがく交流こうりゅうからかんがえる』立命館大学りつめいかんだいがく生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター,生存せいぞんがく研究けんきゅうセンター報告ほうこく8,pp.99-125.



UP:20090911 REV:
ケア研究けんきゅうかい  ◇ケア  ◇感情かんじょう感情かんじょう社会しゃかいがく  ◇生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん刊行かんこうぶつ  ◇テキストデータ入手にゅうしゅ可能かのうほん  ◇身体しんたい×世界せかい関連かんれん書籍しょせき 2005-  ◇BOOK
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