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大谷いづみ 20211015 「随筆随想(4)「謝罪文に思う 加害―被害間に越えがたい溝」『中外日報』
「随筆随想(4)「謝罪文に思う 加害―被害間に越えがたい溝」
『中外日報』2021年10月22日、第4面。
大谷 いづみ 20211022.
last update: 20211225
■記事本文
ペットの猫を引き合いにホームレスと生活保護受給者を攻撃したメンタリストDaiGo氏に対して、抱樸の奥田知志牧師は、多額の寄付で免罪を買うような行為を糺して覚悟の生き直しを求めたが、氏は早々とSNSの投稿(=商行為)を再開した。
その推移をみながら、小中高時代の「障害者いじめ」を武勇伝のように語ったという雑誌二冊を入手し、あらためて小山田圭吾氏の二度目の謝罪文を読んだ。40年の経過説明をふまえた「謝罪」である。
高校や大学で若者たちと近しく接してきた経験に照らせば、事実は「キャラ変」の極端な露悪行為であり、盛った話もあったとの弁明になるほどと思う。知的障害の級友とのエピソードを10歳児の「遊びの範疇を超えた無自覚な行為」と振り返る氏の言葉も、子どもの残酷な直截さを考えれば、理解できなくもない。
他方、高校で再会した級友との関係を、一方的との批判を承知の上で「友人というい方以外は難しい」と振り返る現在の氏の言葉は、障害の有無に限らず、加害と被害の間にある越えがたい溝を示してもいる。いじめは「友だち地獄」のなかで起きるのだから。
それが、経済的にも文化的にも豊かな階層の子どもたちが集まる、インクルーシブ教育の先駆的な実践を重ねてきた学校であるがゆえに、その溝は、ひとり小山田氏の未熟さのみに還元できるものではない。掲載誌の責任も追求されてしかるべきだろう。
そして、こう考える。「なぜ私が?」「なぜ私に?」という問いは、加害者であり続けている認識を公にした小山田氏にとっても逃れ難い問いだったのではないかと。そうして今、自らの行為にどう対峙してきたかを厳しく問われ、氏は学び直し、生き直しを始めたのだと。
秋学期を迎え、授業で学生たちとの対話が始まった。障害を持ちつつも教育研究を天職と打ち込み、過労による転倒事故で電動車椅子となって9年と半年。予想だにしなかった事故直後の犯罪被害を高裁まで闘った嵐のような数年を経、自らの人生を捉え直す緒に就いて、私は覚悟する。連載の問いを問いかけた学生たちの真摯な応答に励まされ、人は「今」でなくとも「その時」を得て成長しうるという教育の希望を、ジタバタはしても、私は決して手放すことはすまいと。
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*作成:岩 弘泰