(Translated by https://www.hiragana.jp/ )
Haraway, Donna J.『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』青土社
『猿 さる と女 おんな とサイボーグ――自然 しぜん の再 さい 発明 はつめい 』
Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature , London: Free Association Books and New York: Routledge.
=20000725 高橋 たかはし さきの 訳 わけ ,青土 おうづち 社 しゃ ,558p.
last update:20160614
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Haraway, Donna J.
1991
Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature , London: Free Association Books and New York: Routledge.
=20000725
高橋 たかはし さきの 訳 わけ ,『
猿 さる と
女 おんな とサイボーグ――
自然 しぜん の
再 さい 発明 はつめい 』,
青土 おうづち 社 しゃ ,558p.
ISBN-10: 4791758242 ISBN-13: 978-4791758241 3600
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[kinokuniya] ※ b02
■内容 ないよう
ジェンダー/セクシュアリティ/階級 かいきゅう /文化 ぶんか を規定 きてい する「自然 しぜん 」概念 がいねん を内 うち 破 やぶ させるために、霊長 れいちょう 類 るい 学 がく 、免疫 めんえき 学 がく 、生態 せいたい 学 がく など、生物 せいぶつ 科学 かがく と情報 じょうほう 科学 かがく が接合 せつごう する。
高度 こうど 資本 しほん 主義 しゅぎ を支 ささ える先端 せんたん 的 てき 科学 かがく 知 ち が構築 こうちく しつづける「無垢 むく なる自然 しぜん 」を解読 かいどく =解体 かいたい し、フェミニズムの囲 かこ い込 こ みを突破 とっぱ するハラウェイの闘争 とうそう マニフェスト。
霊長 れいちょう 類 るい 学 がく 、免疫 めんえき 学 がく 、生態 せいたい 学 がく など、生物 せいぶつ 科学 かがく が情報 じょうほう 科学 かがく と接合 せつごう されるテクノサイエンスの現場 げんば をサイボーグ状況 じょうきょう に着地 ちゃくち させる。
■目次 もくじ
謝辞 しゃじ
序章 じょしょう
第 だい 1部 ぶ 生産 せいさん ・再 さい 生産 せいさん システムとしての自然 しぜん
第 だい 1章 しょう 動物 どうぶつ 社会 しゃかい 学 がく とボディポリティックの自然 しぜん 経済 けいざい ――優位 ゆうい 性 せい の政治 せいじ 生理学 せいりがく
第 だい 2章 しょう 過去 かこ こそが、論争 ろんそう の場 ば である――霊長 れいちょう 類 るい の行動 こうどう 研究 けんきゅう における人間 にんげん の本性 ほんしょう と、生産 せいさん と再 さい 生産 せいさん の理論 りろん
第 だい 3章 しょう 生物 せいぶつ 学 がく というエンタプライズ――人間 にんげん 工学 こうがく から社会 しゃかい 生物 せいぶつ 学 がく に至 いた る性 せい 、意識 いしき 、利潤 りじゅん
第 だい 2部 ぶ 論争 ろんそう をはらんだ読 よ み――語 かた りの本質 ほんしつ と語 かた りとしての自然 しぜん
第 だい 4章 しょう はじめにことばありき――生物 せいぶつ 学理 がくり 論 ろん のはじまり
第 だい 5章 しょう 霊長 れいちょう 類 るい の本質 ほんしつ をめざした争 あらそ い――フィールドに出 で た男性 だんせい =狩猟 しゅりょう 者 しゃ の娘 むすめ たちの1960〜1980
第 だい 6章 しょう ブチ・エメチェタを読 よ む――女性 じょせい 学 がく における「女性 じょせい の経験 けいけん 」への挑戦 ちょうせん
第 だい 3部 ぶ 場違 ばちが いではあるものの領有 りょうゆう されることもない他者 たしゃ たる人々 ひとびと にとっての、それぞれに異 こと なるポリティクス
第 だい 7章 しょう マルクス主義 まるくすしゅぎ 事典 じてん のための「ジェンダー」――あることばをめぐる性 せい のポリティクス
第 だい 8章 しょう サイボーグ宣言 せんげん ――二 に 〇世紀 せいき 後半 こうはん の科学 かがく 、技術 ぎじゅつ 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ フェミニズム
第 だい 9章 しょう 状況 じょうきょう に置 お かれた知 とも ――フェミニズムにおける科学 かがく という問題 もんだい と、部分 ぶぶん 的 てき 視角 しかく が有 ゆう する特権 とっけん
第 だい 10章 しょう ポスト近代 きんだい の身体 しんたい /生体 せいたい のバイオポリティクス――免疫 めんえき 系 けい の言説 げんせつ における自己 じこ の構成 こうせい
注 ちゅう
訳者 やくしゃ あとがき
参考 さんこう 文献 ぶんけん
索引 さくいん
■著者 ちょしゃ 略歴 りゃくれき
1944年 ねん コロラド州 しゅう デンバーに生 う まれる。イェール大学 だいがく で実験 じっけん 生物 せいぶつ 学 がく から科学 かがく 史 し に転 てん じ、生物 せいぶつ 学 がく の博士 はかせ 号 ごう を取得 しゅとく 。
1980年 ねん からは、カリフォルニア大学 だいがく サンタクルーズ校 こう で、科学 かがく 技術 ぎじゅつ 論 ろん とフェミニズム理論 りろん を講 こう じている。
本書 ほんしょ 収載 しゅうさい の「サイボーグ宣言 せんげん 」、「状況 じょうきょう に置 お かれた知 ち 」は、大 おお きな反響 はんきょう を呼 よ んだ。
他 た に、発生 はっせい 学 がく 、霊長 れいちょう 類 るい 学 がく 、分子生物学 ぶんしせいぶつがく とテクノサイエンスの現況 げんきょう を扱 あつか った著書 ちょしょ として、
『Crystals, Fabrics and Fields』、『Private Visions』、『Modest Witness』などがある。
■要約 ようやく
訳者 やくしゃ あとがき
「この文章 ぶんしょう で、ハラウェイが描出 びょうしゅつ したのは、一言 ひとこと でいえば、テクノサイエンスや生物 せいぶつ 学 がく の枠組 わくぐ みのシフトであり、そうした枠組 わくぐ みを通 とお して見 み える世界 せかい の変容 へんよう であった」(pp.516)
「本書 ほんしょ の各 かく 章 しょう で扱 あつか われるテーマは、一見 いっけん 、ばらばらに見 み えるかもしれない。
しかし、これらの各 かく 章 しょう には、構築 こうちく されたものとしての自然 しぜん という、文化 ぶんか 対 たい 自然 しぜん の二元論 にげんろん には決 けっ して解消 かいしょう されえない〔「えない」に傍点 ぼうてん 〕存在 そんざい としての自然 しぜん というテーマが一貫 いっかん している。
そして、本書 ほんしょ は、自然 しぜん をめぐる二元論 にげんろん を指摘 してき するための書物 しょもつ ではない。
本書 ほんしょ は、自然 しぜん という存在 そんざい の、二元論 にげんろん には解消 かいしょう されえない〔「えない」に傍点 ぼうてん 〕構築 こうちく のされ方 かた を探 さぐ る作業 さぎょう の現場 げんば である」(p.506)
第 だい 8章 しょう サイボーグ宣言 せんげん ――二 に 〇世紀 せいき 後半 こうはん の科学 かがく 、技術 ぎじゅつ 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ フェミニズム
集積 しゅうせき 回路 かいろ の女性 じょせい は共通 きょうつう 言語 げんご というアイロニックな夢 ゆめ を見 み るか
「サイボーグ――サイバネティックな有機 ゆうき 体 たい 〔オーガニズム〕――とは、機械 きかい と生体 せいたい の複 ふく 合体 がったい 〔ハイブリット〕であり、
社会 しゃかい のリアリティと同時 どうじ にフィクションを生 い き抜 ぬ く生 い き物 もの である」(p.287)
「サイボーグはポストジェンダー社会 しゃかい の生 い き物 もの である」(p.289)
本章 ほんしょう の議論 ぎろん
1.「フェミニズム、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 、唯物 ゆいぶつ 論 ろん に誠実 せいじつ であるような、反語 はんご 的 てき 〔アイロニック〕な政治 せいじ 神話 しんわ を築 きず く作業 さぎょう 」(p.286)
2.「境界 きょうかい を曖昧 あいまい にする快楽 かいらく 〔「快楽 かいらく 」に傍点 ぼうてん 〕と、境界 きょうかい を構築 こうちく する責任 せきにん 〔「責任 せきにん 」に傍点 ぼうてん 〕とについて」(p.288)
3.「社会 しゃかい 主義 しゅぎ フェミニズムに貢献 こうけん するような作業 さぎょう を、ボスとモダニズム、非 ひ 自然 しぜん 主義 しゅぎ のモードで、ジェンダーなき世界 せかい について」(p.288)
「サイボーグの最大 さいだい の問題 もんだい 点 てん は、軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ と家父長制 かふちょうせい 資本 しほん 主義 しゅぎ 、国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の非 ひ 嫡出 ちゃくしゅつ 子 こ である点 てん 」(p.291)
不明瞭 ふめいりょう になってきた境界 きょうかい (pp.291-295)
1.人間 にんげん と動物 どうぶつ の境界 きょうかい
2.動物 どうぶつ −人間 にんげん 〔生体 せいたい 〕と機械 きかい の区分 くぶん
3.物理 ぶつり 的 てき なるものと物理 ぶつり 的 てき ならざるもの
議論 ぎろん の前提 ぜんてい (pp.295-296)
1.アメリカの社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ やフェミニストたちの大半 たいはん が、「ハイテク」や科学 かがく 文化 ぶんか に付随 ふずい する社会 しゃかい 実践 じっせん 、シンボリックな図式 ずしき 化 か 、
物理 ぶつり 的 てき な人工 じんこう 物 ぶつ などに、精神 せいしん /身体 しんたい 、動物 どうぶつ /機械 きかい 、理想 りそう 主義 しゅぎ /唯物 ゆいぶつ 主義 しゅぎ の一層 いっそう 深 ふか い二元論 にげんろん を想定 そうてい していること
2.世界 せかい 規模 きぼ での支配 しはい の強化 きょうか に抵抗 ていこう せんとする人々 ひとびと の団結 だんけつ /一体 いったい 性 せい が、今日 きょう ほど尖鋭 せんえい なかたちで必要 ひつよう とされたことはないこと
サイボーグの世界 せかい (p.296)
1.戦争 せんそう という男性 だんせい 至上 しじょう 主義 しゅぎ の乱行 らんぎょう で、女性 じょせい の身体 しんたい が最終 さいしゅう 的 てき に領有 りょうゆう される過程 かてい に関 かか わる
2.人々 ひとびと や動物 どうぶつ や機械 きかい と連帯 れんたい 関係 かんけい を恐 おそ れず、未来永劫 みらいえいごう にわたって部分 ぶぶん 的 てき なままにとどまるアイデンティティや相 あい 矛盾 むじゅん をする立場 たちば に臆 おく することのないような、
社会 しゃかい や身体 しんたい に関 かか わる
断片 だんぺん 化 か するアイデンティティ
「フェミニズムという名詞 めいし にこだわりつづけることさえすでに難 むずか しい。……女性 じょせい 〔フィーメール〕「である」という状態 じょうたい が存在 そんざい するわけではない」(p.297)
シェラ・サンドゥーヴァル(pp.298-299)
「抵抗 ていこう 意識 いしき 」と称 しょう される有望 ゆうぼう な政治 せいじ 的 てき アイデンティティのモデルを理論 りろん 化 か した。誰 だれ が有色 ゆうしょく の女性 じょせい であるのかを特定 とくてい するうえで、何 なん ら本質 ほんしつ 的 てき な基準 きじゅん がないことを重要 じゅうよう 視 し する。
ケイティ・キング(p.300)
フェミニズムの実践 じっせん のさまざまな「契機 けいき 〔モメント〕」や「会話 かいわ 」をとらえて、女性 じょせい たちの運動 うんどう を分類 ぶんるい して、
自 みずか らの政治 せいじ 指向 しこう があたかもフェミニズムにとっての究極 きゅうきょく 目的 もくてき 〔「究極 きゅうきょく 目的 もくてき 」に傍点 ぼうてん 〕であるかのごとく論 ろん じる傾向 けいこう を批判 ひはん する。
「キングとサンドゥーヴァルが共通 きょうつう して到達 とうたつ したのは、詩 し /ポリティクスを介 かい した団結 だんけつ /一体 いったい 性 せい を、領有 りょうゆう 、包摂 ほうせつ 、
そして分類 ぶんるい によるアイデンティティ確定 かくてい といった論理 ろんり に依拠 いきょ することなく創出 そうしゅつ しうるような方策 ほうさく を身 み につけることの重要 じゅうよう 性 せい という地点 ちてん である」(p.301)
「私 わたし は、歴史 れきし 上 じょう 、「人種 じんしゅ 」、「ジェンダー」、「セクシュアリティ」、
「階級 かいきゅう 」による支配 しはい に効果 こうか 的 てき に立 た ち向 む かうための政治 せいじ 的 てき 一体 いったい 性 せい /団結 だんけつ が、今日 きょう ほど必要 ひつよう とされている時代 じだい を知 し らない。
また、今日 きょう ほど、我々 われわれ が構築 こうちく 作業 さぎょう の一端 いったん を担 にな う可能 かのう 性 せい のある一体 いったい 性 せい /団結 だんけつ に実現 じつげん の可能 かのう 性 せい がある時代 じだい も知 し らない。
……少 すく なくとも、「我々 われわれ 」は、自 みずか らがこの種 たね の支配 しはい の実践 じっせん に手 て を汚 よご していないと主張 しゅちょう することはできない。
社会 しゃかい 主義 しゅぎ フェミニストをはじめとする白人 はくじん 女性 じょせい は、「女性 じょせい 」というカテゴリーが無垢 むく ではないことを発見 はっけん した」(p.302)
「マルクス主義 まるくすしゅぎ /社会 しゃかい 主義 しゅぎ フェミニズムも、ラディカルフェミニズムも、カテゴリーとしての「女性 じょせい 〔ウーマン〕」や、女性 じょせい の社会 しゃかい 生活 せいかつ に伴 ともな う意識 いしき を、
自然 しぜん なものであるとみなすと同時 どうじ に、変性 へんせい させてきた。……賃金 ちんぎん という関係 かんけい 性 せい がもたらす帰結 きけつ は、
労働 ろうどう 者 しゃ が彼 かれ の(原文 げんぶん のまま)生産 せいさん 物 ぶつ から引 ひ き離 はな される過程 かてい で生 しょう じる組織 そしき 的 てき な疎外 そがい である」(p.303)
キャサリン・マキノン(pp.304-306)
「キャサリン・マキノン(1982, 1987)によるラディカルフェミニズムの解釈 かいしゃく は、アイデンティティという存在 そんざい を基礎 きそ づけるような作用 さよう を持 も つ各種 かくしゅ の西欧 せいおう 的 てき 理論 りろん に内在 ないざい する領有 りょうゆう 、
包摂 ほうせつ 、全体 ぜんたい 化 か 指向 しこう のカリカチュアとしか言 い いようがない」(p.304)
「マキノン流 りゅう のラディカルフェミニズムの物語 ものがた りに組 く み込 こ まれた全体 ぜんたい 化 か 指向 しこう は、ラディカルな非 ひ −存在 そんざい 〔ノン‐ビーイング〕という経験 けいけん 、
そしてそうしたことに対 たい する宣誓 せんせい を強要 きょうよう することによって、その目的 もくてき ――女性 じょせい の一体化 いったいか /統一 とういつ /団結 だんけつ ――をなしとげるのである。
マルクス主義 まるくすしゅぎ /社会 しゃかい 主義 しゅぎ フェミニズムの場合 ばあい 同様 どうよう 、意識 いしき /自覚 じかく とは達成 たっせい されるべき存在 そんざい であって、自然 しぜん の事実 じじつ ではないとされる」(p.305)
「マキノンは、フェミニズムが、まず階級 かいきゅう 構造 こうぞう に着目 ちゃくもく するようなマルクス主義 まるくすしゅぎ の場合 ばあい とは異 こと なる分析 ぶんせき 戦略 せんりゃく ――すなわち、まず、性 せい 〔セックス〕/ジェンダー構造 こうぞう やその発生 はっせい 関係 かんけい 、
つまり女性 じょせい のセクシュアリティが男性 だんせい によって構築 こうちく 、領有 りょうゆう されてきた点 てん に着目 ちゃくもく する分析 ぶんせき 戦略 せんりゃく ――を採用 さいよう したのは必然 ひつぜん であったと論 ろん ずる」(p.305)
「女性 じょせい は、単 たん にその生産 せいさん 物 ぶつ から疎外 そがい されているばかりでなく、深 ふか い意味 いみ では、主体 しゅたい として、あるいは潜在 せんざい 的 てき 主体 しゅたい としてさえ存在 そんざい していない。
というのも、彼女 かのじょ の女性 じょせい としての存在 そんざい は性的 せいてき 搾取 さくしゅ に依拠 いきょ しているからである」(p.306)
「アイデンティティについてのマルクス主義 まるくすしゅぎ 系 けい のどの議論 ぎろん も、女性 じょせい の一体 いったい 性 せい に関 かん して確 かく たる根拠 こんきょ を付与 ふよ しえていないという点 てん に関 かん して、
私 わたし は、マキノンが正 ただ しく論 ろん じていると思 おも う」(p.306)
「マキノンが意図 いと 的 てき に行 い っているような、女性 じょせい の「本質 ほんしつ 的 てき 」非 ひ −>307>実在 じつざい という装置 そうち を介 かい したあらゆる差異 さい の意図 いと 的 てき な抹消 まっしょう は、
決 けっ して推奨 すいしょう できるようなものではない」(pp.306-307)
「再 さい 生産 せいさん /生殖 せいしょく 〔リプロダクション〕は、社会 しゃかい 主義 しゅぎ フェミニズムとラディカルフェミニズムという、一方 いっぽう が労働 ろうどう に根拠 こんきょ を置 お き、
他方 たほう が性 せい 〔セックス〕に根拠 こんきょ を置 お き、その双方 そうほう ともが、社会 しゃかい や個人 こじん のリアリティの支配 しはい や無視 むし の帰結 きけつ を「虚偽 きょぎ 意識 いしき 」と称 しょう している二 ふた つの動向 どうこう にとって、
異 こと なったトーンの意味 いみ を有 ゆう していたということなのだと思 おも う」(p.307)
社会 しゃかい 主義 しゅぎ フェミニズム――階級 かいきゅう 構造 こうぞう /賃 ちん 労働 ろうどう /疎外 そがい
労働 ろうどう 。労働 ろうどう とのアナロジーで再 さい 生産 せいさん /生殖 せいしょく を論 ろん じ、労働 ろうどう を拡張 かくちょう することによって性 せい 〔セックス〕を論 ろん じ、労働 ろうどう に付加 ふか することによって人種 じんしゅ を論 ろん じる。
ラディカルフェミニズム――ジェンダー構造 こうぞう /性的 せいてき 搾取 さくしゅ /対象 たいしょう 化 か
性 せい 〔セックス〕。性 せい とのアナロジーで労働 ろうどう を論 ろん じ、性 せい を拡張 かくちょう することによって再 さい 生産 せいさん /生殖 せいしょく を論 ろん じ、性 せい に付加 ふか することによって人種 じんしゅ を論 ろん じる。
ジュリア・クリステヴァ
女性 じょせい は第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 後 ご に若者 わかもの などのグループとともに歴史 れきし 的 てき なグループとして出現 しゅつげん した。(p.308)
「白人 はくじん ヒューマニズムの論理 ろんり 、ことば、そして実践 じっせん に軽々 かるがる しく参画 さんかく したこと、そして支配 しはい の単一 たんいつ の根拠 こんきょ を探 さぐ ることによって我々 われわれ の革命 かくめい の声 こえ を確保 かくほ しようとしたことに関 かん して、
我々 われわれ は少 すく なくとも有罪 ゆうざい だというのが、私 わたし の考 かんが えである」(p.309)
支配 しはい の情報 じょうほう 工学 こうがく
「社会 しゃかい 主義 しゅぎ とフェミニズムのデザイン原則 げんそく にのっとった見取 みと り図 ず ――を描出 びょうしゅつ してみたい。
私 わたし のスケッチの枠組 わくぐ みは、科学 かがく とテクノロジーの緊密 きんみつ な結 むす びつきの中 なか で、世界 せかい 規模 きぼ の社会 しゃかい 関係 かんけい の配置 はいち 替 が えがいかなる範囲 はんい に及 およ び、
いかなる重要 じゅうよう 性 せい を有 ゆう するのかによって設定 せってい されている。……我々 われわれ は、有機 ゆうき 的 てき で産業 さんぎょう 的 てき な社会 しゃかい から、
ポリモルフな情報 じょうほう システムへの移行 いこう ――すべてが労働 ろうどう であるような社会 しゃかい からすべてが遊戯 ゆうぎ 、>310>死 し に至 いた るゲームであるようなシステムへの移行 いこう ――を経験 けいけん しつつある」
(pp.309-310)
二 に 項 こう 対立 たいりつ 的 てき な見取 みと り図 ず 〔一 いち 例 れい 〕(pp.310-311)
有 ゆう 機体 きたい ――生体 せいたい 部品 ぶひん 〔バイオティック・コンポネント〕
優生 ゆうせい 学 がく ――人口 じんこう 管理 かんり 政策 せいさく
衛生 えいせい ――ストレス管理 かんり
生殖 せいしょく ――複製 ふくせい
第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん ――スター・ウォーズ
「科学 かがく によって知 し ることが可能 かのう なありとあらゆる対象 たいしょう が、(管理 かんり 者 しゃ にとっては)コミュニケーション工学 こうがく の問題 もんだい として、
(抵抗 ていこう を試 こころ みる者 もの にとっては)テキスト理論 りろん の問題 もんだい として定式 ていしき 化 か されることを必要 ひつよう としている。そして、その双方 そうほう が、サイボーグの記号 きごう 論 ろん である」(pp.313)
「この世界 せかい のありとあらゆる種類 しゅるい の部品 ぶひん に感染 かんせん しうる特権 とっけん を有 ゆう する病理 びょうり は、ストレス、すなわち、>314>コミュニケーションの破綻 はたん 〔ブレークダウン〕である。
サイボーグは、フーコーのバイオポリティクスの対象 たいしょう とはならない。
サイボーグが、ポリティクスを――バイオポリティクスをはるかにしのぐ強力 きょうりょく なオペレーションの場 ば を――シミュレートする」(pp.313-314)
「女性 じょせい たちが直面 ちょくめん している状況 じょうきょう とは、私 わたし が支配 しはい の情報 じょうほう 工学 こうがく と称 しょう する生産 せいさん /再 さい 生産 せいさん とコミュニケーションの世界 せかい システムへの女性 じょせい の統合 とうごう /搾取 さくしゅ である」(p.314)
「我々 われわれ の身体 しんたい を創造 そうぞう しなおすうえでは、コミュニケーション・テクノロジーが必須 ひっす のツールとなる」(p.315)
「ある意味 いみ で、生体 せいたい は知 ち の対象 たいしょう として存在 そんざい することを停止 ていし し、生体 せいたい 部品 ぶひん 〔バイオティック・コンポネント〕、すなわちある種 しゅ の情報処理 じょうほうしょり 装置 そうち として存在 そんざい するようになった」(p.316)
「さまざまなシミュラクル、すなわち、原型 げんけい 〔オリジナル〕なき複製 ふくせい 〔コピー〕の技術 ぎじゅつ 上 じょう の基底 きてい をなすのは、マイクロエレクトロニクスである」(pp.316-317)
「マイクロエレクトロニクスは、労働 ろうどう からロボット工学 こうがく やワープロ作業 さぎょう 、性 せい 〔セックス〕から遺伝子 いでんし 工学 こうがく や生殖 せいしょく 技術 ぎじゅつ 、
精神 せいしん からAI(人工 じんこう 知能 ちのう )や意思 いし 決定 けってい 過程 かてい への翻訳 ほんやく を媒介 ばいかい する」(p.317)
「機械 きかい と生体 せいたい との差異 さい は完全 かんぜん にぼやけているし、心 しん とからだと道具 どうぐ が緊密 きんみつ きわまりない関係 かんけい をとり結 むす んでいる」(p.317)
「私 わたし が、「科学 かがく とテクノロジーの社会 しゃかい 関係 かんけい 」なる奇妙 きみょう で回 まわ りくどいい方 いかた を使用 しよう したのは、我々 われわれ が技術 ぎじゅつ 決定 けってい 論 ろん に関与 かんよ しているわけではなく、
人々 ひとびと の間 あいだ に構築 こうちく されたさまざまな関係 かんけい に依拠 いきょ した歴史 れきし システムと対峙 たいじ しているのだということを示唆 しさ するためである。
しかし、このフレーズは、科学 かがく やテクノロジーが権力 けんりょく の新鮮 しんせん な源泉 げんせん となっていること、
そして、我々 われわれ もまた、分析 ぶんせき や政治 せいじ 行動 こうどう の新鮮 しんせん な源泉 げんせん を必要 ひつよう としていることを同時 どうじ に示唆 しさ している」(p.318)
「家庭 かてい 」の外 そと の「ホームワーク経済 けいざい 」
「「新 しん 産業 さんぎょう 革命 かくめい 」は、新 あら たな世界 せかい 規模 きぼ の労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう 、そして新 あら たなセクシュアリティや民族 みんぞく 性 せい 〔エスニシティ〕を生成 せいせい しつつある」(p.318)
「状況 じょうきょう は、単 たん に、輸出 ゆしゅつ 加工 かこう 部門 ぶもん 、特 とく にエレクトロニクス部門 ぶもん の科学 かがく 系 けい 多 た 国籍 こくせき 企業 きぎょう にとって、第 だい 三 さん 世界 せかい の国々 くにぐに の女性 じょせい が好 この ましい労働 ろうどう 力 りょく であるというだけにとどまるものではない。
その構図 こうず はもっと体系 たいけい 的 てき で、再 さい 生産 せいさん /生殖 せいしょく 、セクシュアリティ、文化 ぶんか 、消費 しょうひ 、生産 せいさん をも含 ふく みこんだものである」(p.318)
「リチャード・ゴードンは、こうした新 あら たな状況 じょうきょう を「ホームワーク経済 けいざい 」と呼 よ んだ。
ゴードンは、この用語 ようご に、電子 でんし 機器 きき の組 く み立 た てに際 さい して生 しょう じる文字 もじ どおりの内職 ないしょく 〔ホームワーク〕という現象 げんしょう も含 ふく めてはいるものの、
ゴードンが「ホームワーク経済 けいざい 」という名称 めいしょう を付与 ふよ しようとしたのは、
従来 じゅうらい 、女性 じょせい の職種 しょくしゅ ――すなわち、文字 もじ どおり、女性 じょせい のみが担 にな ってきた職種 しょくしゅ ――に特有 とくゆう であるとされてきた数々 かずかず の特徴 とくちょう を包括 ほうかつ 的 てき に含 ふく むような労働 ろうどう の再編 さいへん である。
労働 ろうどう は、それを行 おこな うのが男性 だんせい であると女性 じょせい であるとにかかわらず、文字 もじ どおり、女性 じょせい 的 てき 〔フィーメール〕、あるいは女性 じょせい 化 か された〔フェミナイズド〕ものとして再 さい 定義 ていぎ されつつある。
女性 じょせい 化 か されることが意味 いみ するのは、極端 きょくたん に弱 よわ い立場 たちば に追 お い込 こ まれ、予備 よび 労働 ろうどう 力 りょく として分解 ぶんかい ・再 さい 組 く み立 た てされたり搾取 さくしゅ されたりする対象 たいしょう となり、
労働 ろうどう 者 しゃ としてよりは奉仕 ほうし 者 しゃ であるとみなされるようになり、賃 ちん 労働 ろうどう に時間 じかん 契約 けいやく で就 つ いた結果 けっか 、就労 しゅうろう 時間 じかん 制限 せいげん すら用 よう をなさなくなり、猥褻 わいせつ かつ場 じょう ちがいで、
セックスに還元 かんげん 可能 かのう な状態 じょうたい と常 つね にスレスレの存在 そんざい となることである」(p.319)
「こうした経済 けいざい 、技術 ぎじゅつ の新 あら たな編成 へんせい は、福祉 ふくし 国家 こっか が崩壊 ほうかい し、
その結果 けっか 、女性 じょせい に対 たい して、自 みずか らのみならず、男性 だんせい 、子 こ ども、老人 ろうじん の日常 にちじょう 生活 せいかつ をも維持 いじ せよとの要求 ようきゅう の強 つよ まったこととも関連 かんれん している。
貧困 ひんこん の女性 じょせい 化 か ――福祉 ふくし 国家 こっか の解体 かいたい によって、安定 あんてい した職業 しょくぎょう が例外 れいがい と化 か したようなホームワーク経済 けいざい によって生起 せいき し、子 こ どもを養 やしな っていくという意味 いみ で、
女性 じょせい の賃金 ちんぎん が男性 だんせい の賃金 ちんぎん に匹敵 ひってき するようなレベルに達 たっ することはないだろうという予測 よそく のもとに維持 いじ されている動向 どうこう ――が、焦眉 しょうび の課題 かだい となっている」(p.320)
家族 かぞく の理想 りそう 形態 けいたい の図式 ずしき (p.321)
1.公私 こうし 二元論 にげんろん に形 かたち づくられた家父長制 かふちょうせい 的 てき 家族 かぞく には、公私 こうし 別々 べつべつ の活動 かつどう 圏 けん という白人 はくじん ブルジョワイデオロギーと19世紀 せいき 的 てき な英 えい 米 べい 系 けい ブルジョワフェミニズムが付随 ふずい していた。
2.福祉 ふくし 国家 こっか や家族 かぞく 賃金 ちんぎん といった制度 せいど によって媒介 ばいかい (強制 きょうせい )された近代 きんだい 家族 かぞく ――非 ひ フェミニズム的 てき なヘテロセクシュアル・イデオロギーが興隆 こうりゅう を迎 むか えた。
3.ホームワーク経済 けいざい の「家族 かぞく 」――さまざまなフェミニズムが爆発 ばくはつ 的 てき に生 う まれ、ジェンダーそのものが逆説 ぎゃくせつ 的 てき に強化 きょうか されつつ、侵食 しんしょく された。
「食糧 しょくりょう やエネルギー作物 さくもつ のハイテク商品 しょうひん 化 か が進 すす んでも、女性 じょせい がその恩恵 おんけい に浴 よく することはまずないし、また女性 じょせい の食糧 しょくりょう 調達 ちょうたつ 責任 せきにん が軽減 けいげん することはないのに、
生殖 せいしょく /再 さい 生産 せいさん をめぐる状況 じょうきょう はますます複雑 ふくざつ になっているので、生活 せいかつ は厳 きび しさの度 たび を増 ま すばかりである」(p.322)
「コミュニケーション技術 ぎじゅつ は、あらゆる人々 ひとびと にとっての「公的 こうてき 生活 せいかつ 」を消 け し去 さ るうえで必須 ひっす のものであり、その結果 けっか 、ほとんどの人々 ひとびと の経済 けいざい 的 てき 犠牲 ぎせい のもとに、
なかんずく女性 じょせい の犠牲 ぎせい のもとに、恒久 こうきゅう 的 てき なハイテク軍事 ぐんじ 体制 たいせい が急 きゅう 成長 せいちょう することになる。
……ジェンダー化 か されたハイテク想像 そうぞう 力 りょく 、すなわち惑星 わくせい の破壊 はかい やその結果 けっか 生 しょう じた状態 じょうたい からのSF的 てき 逃亡 とうぼう について思 おも いをめぐらす想像 そうぞう 力 りょく が、
ここに生 う み出 だ される」(p.323)
「こうした社会 しゃかい 生物 せいぶつ 学 がく の物語 ものがた りが依拠 いきょ しているのは、身体 しんたい を、
生体 せいたい 部品 ぶひん 〔バイオティック・コンポネント〕あるいはサイバネティックなコミュニケーション・システムとみなすハイテクの身体 しんたい 観 かん である。
生殖 せいしょく /再 さい 生産 せいさん をとりまく状況 じょうきょう がさまざまに変遷 へんせん を重 かさ ねる中 なか で、医療 いりょう の状況 じょうきょう も変化 へんか し、女性 じょせい の身体 しんたい の境界 きょうかい を「視覚 しかく /映像 えいぞう 化 か 」や「介入 かいにゅう 行為 こうい 」がすりぬけるようになってきた。
……>324>セルフ・ヘルプでは不充分 ふじゅうぶん である」(pp.323-324)
「どのような政治 せいじ 的 てき アカウンタビリティを>325>構築 こうちく すれば、我々 われわれ を分断 ぶんだん する科学 かがく ・技術 ぎじゅつ の階層 かいそう を横断 おうだん して女性 じょせい 同士 どうし の連携 れんけい を達成 たっせい することができるだろう?」(pp.324-325)
集積 しゅうせき 回路 かいろ の女性 じょせい
「私 わたし は、イデオロギーとしては、ネットワークのイメージの方 ほう が好 す きである。
というのも、ネットワークのイメージの方 ほう が、空間 くうかん やアイデンティティがたっぷりした感 かん じがするし、
個々人 ここじん の身体 しんたい やボディポリティックの境界 きょうかい をうまくすり>326>ぬけられそうな感 かん じがするからである。
「ネットワーキング」はフェミニズムの実践 じっせん であるとともに、多 た 国籍 こくせき 企業 きぎょう の戦略 せんりゃく でもある――織 お り物 もの は、抵抗 ていこう するサイボーグにうってつけの作業 さぎょう かもしれない」(pp.325-326)
「以下 いか のリストを、「アイデンティティへの同一 どういつ 化 か 」や一体 いったい なる自己 じこ という立場 たちば から読 よ まないでいただきたい。
争点 そうてん は分散 ぶんさん にある。散逸 さんいつ 構造 こうぞう 〔ディアスポラ〕を生 い き抜 ぬ くことが課題 かだい である」(p.326)
集積 しゅうせき 回路 かいろ での女性 じょせい の「位置 いち 」〔例 れい 〕(pp.326-329)
家庭 かてい
家庭 かてい という労働 ろうどう 搾取 さくしゅ 工場 こうじょう の再 さい 出現 しゅつげん 、強化 きょうか された核 かく 家族 かぞく 、激 はげ しい家庭 かてい 内 ない 暴力 ぼうりょく
市場 いちば
標的 ひょうてき となった女性 じょせい の連綿 れんめん たる消費 しょうひ 労働 ろうどう 、金融 きんゆう システムの抽象 ちゅうしょう 化 か 、消費 しょうひ の性 せい 化 か の強化 きょうか
有償 ゆうしょう 労働 ろうどう の場 ば
安定 あんてい 雇用 こよう の見 み こみもないような状態 じょうたい 、労働 ろうどう が「周縁 しゅうえん 化 か 」あるいは「女性 じょせい 化 か 」する事態 じたい
国家 こっか
ハイテク軍事 ぐんじ 化 か 、私 わたし 化 か と軍事 ぐんじ 化 か の密接 みっせつ な統合 とうごう
学校 がっこう
資本 しほん と公 おおやけ 教育 きょういく の結 むす びつきの強化 きょうか 、大衆 たいしゅう の無知 むち と抑圧 よくあつ のための教育 きょういく
診療 しんりょう 所 しょ /病院 びょういん
強化 きょうか される機械 きかい −身体 しんたい の関係 かんけい 、新 あら たな特殊 とくしゅ 歴史 れきし 的 てき 疾患 しっかん の出現 しゅつげん
教会 きょうかい
政治 せいじ 闘争 とうそう において、精神 せいしん 性 せい が占 し めつづけている重要 じゅうよう な位置 いち
「支配 しはい の情報 じょうほう 工学 こうがく は、不安 ふあん がいちじるしく増幅 ぞうふく され、文化 ぶんか が疲弊 ひへい し、
最 もっと も傷 きず つきやすい者 もの が生存 せいぞん するためのネットワークが常 つね に欠落 けつらく しているような状態 じょうたい としてしか描写 びょうしゃ のしようもない」(p.329)
「銘記 めいき しておくべきは、失 うしな われたもの、特 とく に女性 じょせい の位置 いち から見 み て失 うしな われたものというのが、往々 おうおう にして、致命 ちめい 的 てき な抑圧 よくあつ 形態 けいたい なのであって、
そうした抑圧 よくあつ 状態 じょうたい であっても、目下 めした 進行 しんこう 中 ちゅう の暴力 ぼうりょく に直面 ちょくめん してしまうと、郷愁 きょうしゅう を帯 お びて自然 しぜん 化 か されてしまうという点 てん についてだろう。
ハイテク文化 ぶんか によって媒介 ばいかい された一体 いったい 性 せい の混乱 こんらん をめぐる葛藤 かっとう が必要 ひつよう としているのは、
「ソリッドな政治 せいじ 的 てき 認識 にんしき 論 ろん の基礎 きそ をなす見通 みとお しよい批判 ひはん 」対 たい 「操作 そうさ された虚偽 きょぎ 意識 いしき 」というカテゴリー間 あいだ での仕分 しわ けを行 おこな うような意識 いしき ではなく、
ゲームの規則 きそく を変化 へんか させる思慮 しりょ 深 ふか い可能 かのう 性 せい を秘 ひ めた、出現 しゅつげん しつつある快楽 かいらく 、経験 けいけん 、力 ちから についての曖昧 あいまい な理解 りかい である」(p.330)
「反語 はんご 的 てき ではあるけれども、ひょっとすると、動物 どうぶつ や機械 きかい と融合 ゆうごう する過程 かてい を介 かい して、
我々 われわれ は、いかにして人間 にんげん 〔マン〕たらざりうるか、――いかにして、西欧 せいおう のロゴスが具体 ぐたい 化 か された存在 そんざい としての人間 にんげん 〔マン〕ではないかたちで存在 そんざい しうるか、
――について学 まな ぶことができるかもしれない」(p.331)
サイボーグ――政治 せいじ 的 てき アイデンティティという神話 しんわ
「私 わたし は、本章 ほんしょう を、アイデンティティと境界 きょうかい をめぐる神話 しんわ 物語 ものがた り――ひょっとすると、
20世紀 せいき 後半 こうはん の政治 せいじ 的 てき 想像 そうぞう 力 りょく とは何 なに なのかをかいまみせてくれるかもしれない神話 しんわ 物語 ものがた り――をもって締 し めくくりたいと思 おも う(図版 ずはん 1――巻頭 かんとう )」(p.332)
「「有色 ゆうしょく 女性 じょせい 」は、科学 かがく 系 けい の産業 さんぎょう にとって好 この ましい労働 ろうどう 力 りょく であり、真 しん の女性 じょせい なのであって、彼女 かのじょ たちのためとあらば、
世界 せかい 規模 きぼ の性 せい 市場 いちば 、労働 ろうどう 市場 いちば 、生殖 せいしょく /再 さい 生産 せいさん のポリティクスさえ、めくるめくうちに日常 にちじょう 生活 せいかつ へと変貌 へんぼう する。
性 せい 産業 さんぎょう や電子 でんし 部品 ぶひん の組 く み立 た てに雇用 こよう される若 わか い韓国 かんこく 女性 じょせい は、高校 こうこう から採用 さいよう され、その段階 だんかい で、すでに集積 しゅうせき 回路 かいろ 向 む きの教育 きょういく を受 う けている。
多 た 国籍 こくせき 企業 きぎょう にとって極 きわ めて魅力 みりょく ある「安価 あんか な」女性 じょせい 労働 ろうどう 力 りょく は、読 よ み書 か き能力 のうりょく 、特 とく に英語 えいご の読 よ み書 か き能力 のうりょく を身 み につけている」(p.334)
「書 か くという行為 こうい は、植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい を受 う けるすべての集団 しゅうだん にとって、特段 とくだん の意味 いみ を持 も つ。……書 か く行為 こうい の持 も つさまざまな意味 いみ をめぐる論争 ろんそう は、
今日 きょう 、政治 せいじ >335>闘争 とうそう の主要 しゅよう な形態 けいたい となっている。書 か くという行為 こうい 〔プレー〕を解 と き放 はな つことは、命 いのち とりともなりかねない深刻 しんこく な事態 じたい なのである。
米国 べいこく の有色 ゆうしょく 女性 じょせい の手 て になる詩 し や物語 ものがた りは、書 か くという行為 こうい について、――意味 いみ を体現 たいげん しうる権力 けんりょく にアクセスするとはいかなる事態 じたい なのかについて、
――繰 く り返 かえ し扱 あつか ってきた。しかし、ことここに至 いた って、書 か くという権力 けんりょく は、もはや男根 だんこん 的 てき であったり、無垢 むく であったりしてはならない。
サイボーグの読 よ み書 か きが男性 だんせい /人類 じんるい 〔マン〕の堕落 だらく ――ことば以前 いぜん 、書 か くこと以前 いぜん 、
男性 だんせい /人間 にんげん 〔マン〕以前 いぜん の昔 むかし むかしに存在 そんざい したかもしれないような全体 ぜんたい 性 せい をめぐる想像 そうぞう 力 りょく ――に関 かか わる存在 そんざい であってはならない。
サイボーグの読 よ み書 か きは、生存 せいぞん のための力 ちから ――起源 きげん における無垢 むく に立脚 りっきゃく した力 ちから ではなく、
自 みずか らを他者 たしゃ として刻印 こくいん した世界 せかい を刻印 こくいん するツールを制圧 せいあつ する過程 かてい に基 もと づいた力 つとむ ――に関 かか わるものである」(pp.334-335)
「近年 きんねん 、我々 われわれ の身体 しんたい をC 3I(指揮 しき 〔コマンド〕−管制 かんせい 〔コントロール〕−通信 つうしん 〔コミュニケーション〕−情報 じょうほう 〔インテリジェンス〕)
のグリッド上 じょう に位置 いち する暗号 あんごう 〔コード〕の問題 もんだい としてテキスト化 か した。フェミニズムのサイボーグによって語 かた られる物語 ものがた りには、
通信 つうしん 〔コミュニケーション〕と情報 じょうほう 〔インテリジェンス〕を暗号 あんごう 〔コード〕化 か しなおして指揮 しき 〔コマンド〕と管制 かんせい 〔コントロール〕を覆 くつがえ すという仕事 しごと が待 ま っている。
比喩 ひゆ 的 てき な意味 いみ でも、字義 じぎ どおりの意味 いみ でも、ことばのポリティクスは有色 ゆうしょく 女性 じょせい のさまざまな闘 たたか いに通 つう 底 そこ >336>しているし、ことばに関 かか わる物語 ものがた りは、
米国 べいこく の有色 ゆうしょく 女性 じょせい によって書 か かれた豊穣 ほうじょう たる現代 げんだい 文学 ぶんがく において、特段 とくだん の力 ちから を発揮 はっき している」(pp.335-336)
「であればこそ、サイボーグのポリティクスはノイズに固執 こしつ し、汚染 おせん を擁護 ようご して、動物 どうぶつ や機械 きかい との非 ひ 嫡出 ちゃくしゅつ の融合 ゆうごう に歓喜 かんき する。
こうしたことは、大文字 おおもじ の男性 だんせい と女性 じょせい に混乱 こんらん を持 も ち込 こ むような接合 せつごう のしかたであり、
欲望 よくぼう ――ことばやジェンダーを生成 せいせい する存在 そんざい として想定 そうてい されている力 ちから ――の構造 こうぞう を覆 くつがえ し、ひいては自然 しぜん と文化 ぶんか 、鏡 かがみ と目 め 、奴隷 どれい と主人 しゅじん 、
からだと心 しん といった「西欧 せいおう 」アイデンティティの再 さい 生産 せいさん 構造 こうぞう やモードを覆 くつがえ す。「我々 われわれ 」は、起源 きげん において、サイボーグとなることを選 えら んだわけではないが、
サイボーグとなることを選 えら んだことによって、より広範 こうはん な「テキスト」を複製 ふくせい する作業 さぎょう に先立 さきだ って、
個 こ の生殖 せいしょく /再 さい 生産 せいさん に思 おも いをめぐらすようなある種 しゅ のリベラルなポリティクスや認識 にんしき 論 ろん の基礎 きそ が付与 ふよ されることとなった」(p.337)
「サイボーグたちは、真 しん の生命 せいめい /生活 せいかつ を得 え んだための犠牲 ぎせい といった発想 はっそう をイデオロギーの源泉 げんせん とすることを拒 こば む。……生存 せいぞん こそが最大 さいだい の関心事 かんしんじ である」(p.339)
「ハイテク文化 ぶんか は、二 に 項 こう 対立 たいりつ に興味深 きょうみぶか いかたちで挑戦 ちょうせん する。……我々 われわれ は、自 みずか らがサイボーグ、混成 こんせい 物 ぶつ 〔ハイブリッド〕、モザイク、キメラであると思 おも う」(p.340)
「一 ひと つの帰結 きけつ として、道具 どうぐ とつながっているという我々 われわれ の感 かん じ方 かた は、強 つよ まっていると思 おも う。コンピュータ・ユーザーが経験 けいけん するトランス状態 じょうたい は、SF映画 えいが や文化 ぶんか ジョークの定番 ていばん になった。
ひょっとすると、他 た のコミュニケーション装置 そうち との複雑 ふくざつ なハイブリッド状態 じょうたい について最 もっと も強烈 きょうれつ な経験 けいけん が可能 かのう で、場合 ばあい によってはすでに実地 じっち で経験 けいけん ずみなのは、
対 たい 麻痺 まひ をはじめとする障碍 しょうがい の重 おも い人々 ひとびと であるのかもしれない。
アン・マキャフリーは、プレ・フェミニズムの『歌 うた う船 ふね 』(1969)で、あるサイボーグ――障碍 しょうがい の重 おも い子 こ ども>341>の誕生 たんじょう 後 ご に作製 さくせい された、
その女 おんな の子 こ の脳 のう と複雑 ふくざつ な機械 きかい 装置 そうち のハイブリッド――の意識 いしき について探究 たんきゅう した、この物語 ものがたり では、ジェンダー、セクシュアリティ、ものごとの具体 ぐたい 的 てき なかたち、
スキルといったもの――要 よう するにすべて――が再 さい 構築 こうちく される。なぜ、我々 われわれ の身体 しんたい は、皮膚 ひふ で終 お わらねばならず、
せいぜいのところ、皮膚 ひふ で封 ふう じこめられた異物 いぶつ までしか包含 ほうがん しないのだろうか、と」(pp.340-341)
「我々 われわれ にとって、我々 われわれ が想像 そうぞう をはじめとする各種 かくしゅ の行為 こうい を実践 じっせん する際 さい には、機械 きかい は、生体 せいたい の欠損 けっそん 部分 ぶぶん ・機能 きのう を補 おぎな う装置 そうち とも、親密 しんみつ な部品 ぶひん とも、近 ちか しい自己 じこ ともなりうる」(p.341)
フェミニズムSFの例 れい (pp.341-344)
「サイボーグ――我々 われわれ の敵対 てきたい するものではない存在 そんざい としてのサイボーグ――の想像 そうぞう 力 りょく をシリアスに受 う けとめると、いくつかの結論 けつろん が導 みちび かれる。
我々 われわれ のからだは我々 われわれ 自身 じしん のもの(our Bodies, ourselves)――身体 しんたい は、権力 けんりょく とアイデンティティの地図 ちず である。サイボーグとて、例外 れいがい ではない。
サイボーグの身体 しんたい は無垢 むく ではない――サイボーグは楽園 らくえん に生 う まれたわけでも、一体 いったい 性 せい としてのアイデンティティを求 もと めているわけではなく、
相 あい 対立 たいりつ する二 に 項 こう 対立 たいりつ をはてしなく(要 よう するに世界 せかい が終 お わるまで)生成 せいせい するわけでもなく、アイロニーを当然 とうぜん のものとして受 う けとめる。
一 ひと つは少 すく なすぎるし、二 ふた つというのは一 ひと つの可能 かのう 性 せい にすぎない。スキル、それも機械 きかい のスキルを目 め 一 いち 杯 はい 楽 たの しむことは、もはや罪 つみ ではなく、
事物 じぶつ が具体 ぐたい 的 てき なかちをとる過程 かてい の一 ひと つの側面 そくめん となった。機械 きかい は、息 いき を吹 ふ きこまれ、崇 あが められ、そして支配 しはい される何 なに 物 ぶつ か(it)ではない。
機械 きかい は、我々 われわれ 、我々 われわれ の過程 かてい 、我々 われわれ が具体 ぐたい 的 てき なかたちをとる際 さい の一 ひと つの側面 そくめん である。
我々 われわれ は、各種 かくしゅ の機械 きかい に対 たい して責任 せきにん ある存在 そんざい となることができる――機械 きかい たち(they)は我々 われわれ を支配 しはい するわけでも脅 おびや かすわけでもない。
我々 われわれ は境界 きょうかい に対 たい して責任 せきにん ある存在 そんざい であり、我々 われわれ が境界 きょうかい なのである」(p.345)
「サイボーグたちであれば、性 せい や性 せい にまつわる具体 ぐたい 的 てき な事物 じぶつ の部分 ぶぶん 的 てき で、流動的 りゅうどうてき 〔フルーイッド〕で、きまぐれな側面 そくめん を、
もっとシリアスに受 う けとめるかもしれない」(p.345)
「何 なに をもって日常 にちじょう 的 てき 活動 かつどう ――経験 けいけん ――とみなすのかという、イデオロギーに満 み ちた問 と いには、サイボーグのイメージを利用 りよう してアプローチをすることが可能 かのう だと思 おも う」(p.346)
「有機 ゆうき 体 たい や、有 ゆう 機体 きたい 論 ろん 的 てき なホーリズムのポリティクスは、いずれも、復活 ふっかつ 〔リバース〕というメタファーに依拠 いきょ し、一様 いちよう に、
生殖 せいしょく する性 せい 〔セックス〕という源泉 げんせん を要求 ようきゅう する。サイボーグに関係 かんけい があるのはどちらかといえば再生 さいせい 〔リジェネレーション〕の方 ほう であって、
サイボーグは生殖 せいしょく の基盤 きばん 〔マトリクス〕や大方 おおかた の出産 しゅっさん には疑念 ぎねん をいだいている、と私 わたし は思 おも う」(p.346)
「我々 われわれ は、復活 ふっかつ 〔リバース〕ならぬ再生 さいせい 〔リジェネレーション〕を必要 ひつよう としており、我々 われわれ が再 さい 構成 こうせい される過程 かてい をめぐってのさまざまな可能 かのう 性 せい の中 なか には、
ジェンダーなきモンスターの世界 せかい の出現 しゅつげん を希求 ききゅう するというユートピアの夢 ゆめ も含 ふく まれる」(p.347)
サイボーグの想像 そうぞう 力 りょく が導 みちび く議論 ぎろん (p.347)
1.普遍 ふへん 的 てき で全体 ぜんたい 化 か 作用 さよう を持 も つような理論 りろん の生成 せいせい は大 おお きなまちがいであり、そうした理論 りろん は、リアリティの大半 たいはん を常 つね にとり逃 に がしてしまうことになる。
2.科学 かがく やテクノロジーの社会 しゃかい 関係 かんけい に対 たい して責任 せきにん を持 も つことは、反 はん 科学 かがく の形而上学 けいじじょうがく をやめることを意味 いみ し、
日常 にちじょう で遭遇 そうぐう するさまざまな境界 きょうかい を構築 こうちく しなおすという熟練 じゅくれん を要 よう する作業 さぎょう を大切 たいせつ にし、そうした作業 さぎょう を、他者 たしゃ との部分 ぶぶん 的 てき な関係 かんけい 性 せい を保 たも ちつつ、
しかも我々 われわれ を構成 こうせい する各種 かくしゅ の部分 ぶぶん 〔パーツ〕のすべてとコミュニケーションをとりながら行 い ってゆくことを意味 いみ する。
「サイボーグの想像 そうぞう 力 りょく は、二 に 項 こう 対立 たいりつ という迷路 めいろ ――我々 われわれ が、これまで、我々 われわれ 自身 じしん に対 たい して、
我々 われわれ の身体 しんたい や道具 どうぐ についての説明 せつめい を行 おこな ってきた枠組 わくぐ み――から抜 ぬ け出 だ す道筋 みちすじ を提示 ていじ することができる」(p.347)
「サイボーグの想像 そうぞう 力 りょく は、
新 しん 右翼 うよく の超 ちょう 特価 とっか /超 ちょう 救済 きゅうさい 説教 せっきょう 師 し 〔スーパーセイバー〕たちの回路 かいろ に恐怖 きょうふ の鉄槌 てっつい を打 う ち込 こ むようなことばでフェミニストたちが会話 かいわ しているような事態 じたい に関 かか わる想像 そうぞう 力 りょく である。
サイボーグの想像 そうぞう 力 りょく は、機械 きかい 、アイデンティティ、カテゴリー、関係 かんけい 性 せい 、宇宙 うちゅう の物語 ものがた りといった存在 そんざい の構築 こうちく と>348>破壊 はかい の両方 りょうほう を意味 いみ する。
スパイラル・ダンスには、女神 めがみ もサイボーグも加 くわ わっているものの、私 わたし は、女神 めがみ ではなくサイボーグとなりたい」(pp.347-348)
■引用 いんよう
「西欧 せいおう 人 じん にとっての適性 てきせい な状態 じょうたい とは、自己 じこ に対 たい する所有 しょゆう 権 けん を有 ゆう し、コア・アイデンティティをあたかも所有 しょゆう 物 ぶつ のごとくに所有 しょゆう し、保持 ほじ している状態 じょうたい である。
この所有 しょゆう 物 ぶつ は、さまざまな原材料 げんざいりょう から時間 じかん をかけて作 つく ってもよいし、――つまり、文化 ぶんか の産物 さんぶつ であってもよいし、――生 う まれつきのものであってもよく、
ジェンダー・アイデンティティとは、こうした所有 しょゆう 物 ぶつ なのである。
自己 じこ を財産 ざいさん として所有 しょゆう してないということは、主体 しゅたい ではないということであり、したがって,媒介 ばいかい 作用 さよう を有 ゆう さないということである。」(p.258)
■言及 げんきゅう
◆北村 きたむら 健太郎 けんたろう 20140930 『日本 にっぽん の血友病 けつゆうびょう 者 しゃ の歴史 れきし ――他者 たしゃ 歓待 かんたい ・社会 しゃかい 参加 さんか ・抗議 こうぎ 運動 うんどう 』 ,生活 せいかつ 書院 しょいん ,304p.
ISBN-10: 4865000305 ISBN-13: 978-4-86500-030-6 3000+税 ぜい
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◆高橋 たかはし 透 とおる 20060601 『サイボーグ・エシックス』 ,水声 すいせい 社 しゃ ,180p. ISBN-10: 489176578X ISBN-13: 978-4891765781 2100
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◆立岩 たていわ 真 しん 也 20041115 『ALS――不動 ふどう の身体 しんたい と息 いき する機械 きかい 』 ,医学書院 いがくしょいん ,449p. ISBN:4-260-33377-1 2940
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/[kinokuniya] ※, b
序章 じょしょう 冒頭 ぼうとう に引用 いんよう :「サイボーグたちは、真 しん の生命 せいめい /生活 せいかつ を得 え んがための犠牲 ぎせい といった発想 はっそう をイデオロギーの源泉 げんせん とすることを拒 こば む。[…]生存 せいぞん こそが最大 さいだい の関心事 かんしんじ である。」
(Haraway[1991=2000:339])
「2 機械 きかい の肯定 こうてい
問題 もんだい なのは、「管 かん (カニューレ)が外 はず れ呼吸 こきゅう ができなくなる呼吸 こきゅう 器 き 」といった出来 でき のわるい機械 きかい であり、出来 でき のわるい機械 きかい を作 つく り、使 つか いつづけさせている人 ひと たちであり、
危険 きけん を減 へ らそうとしない人 ひと たちである。はっきりしているのは、起 お こっていることが、「機械 きかい 」に対 たい する「自然 しぜん 」、
「機械 きかい による延命 えんめい 」に対 たい する「自然 しぜん な死 し 」といった抽象 ちゅうしょう 的 てき な図式 ずしき のもとにあるのではないということである。機械 きかい は機械 きかい だから問題 もんだい にされているのではない。
信 しん じがたく出来 でき のわるい機械 きかい があるから、それをもっとよい機械 きかい にしようというのである。
同時 どうじ に、人間 にんげん と機械 きかい の新 あたら しい関係 かんけい 、といったようなことを語 かた ってしまう人 ひと たちのように、ただ抽象 ちゅうしょう 的 てき に機械 きかい との接合 せつごう を賞揚 しょうよう しようとする必要 ひつよう もまたない。
機械 きかい 、人工 じんこう のものと身体 しんたい との関係 かんけい はまずまったく具体 ぐたい 的 てき な関係 かんけい であり、その問題 もんだい とは身体 しんたい とさしあたり身体 しんたい でないものとの接続 せつぞく の場 ば 、接合 せつごう 面 めん に生 しょう ずる具体 ぐたい 的 てき な不都合 ふつごう や不快 ふかい である。
身体 しんたい と身体 しんたい に接続 せつぞく するものとの間 あいだ のインターフェイスの問題 もんだい があり、苦痛 くつう の問題 もんだい があって、人間 にんげん と機械 きかい との接合 せつごう は実際 じっさい にはしばしばうまくいかない。サイボーグもなかなか大変 たいへん なのだ。
治療 ちりょう や、治療 ちりょう と称 しょう せられるもののための身体 しんたい の管理 かんり に伴 ともな う不快 ふかい も同様 どうよう の不快 ふかい である。例 たと えば「不 ふ 妊 にん 治療 ちりょう 」についてそれを問題 もんだい にしたのがフェミニズムだ。
そのようなことは「倫理 りんり 」の主題 しゅだい にとっては次元 じげん の低 ひく いことだと思 おも われたのだろうか、生命 せいめい 倫理 りんり 学 がく 、医療 いりょう 倫理 りんり 学 がく ではあまり問題 もんだい にされない。
しかし単純 たんじゅん な痛 いた みやつらさを軽 かる く考 かんが えること、軽 かる く位置 いち づけてしまうことこそが問題 もんだい である。自分 じぶん のために自分 じぶん が大切 たいせつ にしているものを譲渡 じょうと しなければならない。
その支払 しはら いが低 ひく く見積 みつ もられることに敏感 びんかん であるべきであり、得 え られるかもしれないものと支払 しはら うだろうものと、両者 りょうしゃ の天秤 てんびん のかけられ方 かた を問題 もんだい にしてよく、問題 もんだい にすべきである。
そして自分 じぶん のためならまだ仕方 しかた がないが、とくに他人 たにん にとって(も)有益 ゆうえき なもの(例 たと えば子 こ どもを産 う むこと)のために、自 みずか らが時間 じかん を費 つい やし、空間 くうかん を狭 せば められ、
身体 しんたい の不快 ふかい や苦痛 くつう を得 え なければならない場合 ばあい がある。体外 たいがい 受精 じゅせい (+胚 はい 移植 いしょく )の是非 ぜひ についての議論 ぎろん はとうに終 お わったことにされてしまっている。
しかしその苦痛 くつう 、負担 ふたん は終 お わっていないのだから、依然 いぜん としてその技術 ぎじゅつ はほめられたものではない(このことを立岩 たていわ [1997b:156-158]で述 の べ、[2004e]で繰 く り返 かえ して述 の べた)。
つまり、得 え られる代 か わりに引 ひ き換 か えになるものがあるということだ。もちろん、どんなものを得 え るにしてもその代 か わりに何 なに がしかを払 はら うということはあり、
それは仕方 しかた がないことだとも言 い えるのだが、問題 もんだい は何 なん と何 なに が引 ひ き換 か えになるかであり、その支払 しはら いはどうしても支払 しはら わなければならないものなのかである。
いらなければ使 つか わなければよいし、使 つか うしかなければ、不具合 ふぐあい が少 すく なく苦痛 くつう が少 すく ない方 ほう がよい。
ALSの人 ひと たちはALSがなおるようになることを切実 せつじつ に求 もと めている。それはまったく当然 とうぜん のことなのだが、
別 べつ の障害 しょうがい の場合 ばあい には、なおすこと、なおされることへの疑義 ぎぎ もまた示 しめ されてきた。それはなおすために、
(なおらないのに)支払 しはら うものが多 おお すぎるからだった。多 おお くの場合 ばあい には、すんなりとなおるのであればなおすことの方 ほう がよいだろう。
しかしそのために多 おお くを支払 しはら わねばならないのであれば、それはやめて機械 きかい や人 ひと によって補 おぎな ってもらった方 ほう がよいということになる。
ここではなおすことと補 おぎな うことのいずれがよいのか、あらかじめの順位 じゅんい はついていない。このことを第 だい 2章 しょう 4節 せつ に記 しる した。
そして次 つぎ に、補 おぎな う方法 ほうほう しかない場合 ばあい には、あるいはその方法 ほうほう の方 ほう がよい場合 ばあい には、それはうまく補 おぎな われた方 ほう がよい。ALSの場合 ばあい もうまく機械 きかい が合 あ わない時 とき の苦痛 くつう は大 おお きい。
その苦痛 くつう はない方 ほう がよく、なくせないとしても少 すく ない方 ほう がよい。
以上 いじょう の当 あ たり前 まえ なこと、当 あ たり前 まえ にすぎることを確認 かくにん した上 うえ で、機械 きかい と身体 しんたい との関係 かんけい を「ただ機械 きかい につながれた状態 じょうたい 」とか
「スパゲッティ症候群 しょうこうぐん 」というようにたんに抽象 ちゅうしょう 的 てき に否定 ひてい 的 てき に語 かた る必要 ひつよう はなく、語 かた るべきでない。不要 ふよう な管 かん が不要 ふよう であることはまったく当然 とうぜん のことだが、
必要 ひつよう なものは必要 ひつよう だというだけのことである。私 わたし たちは、そのままに与 あた えられたものとしての身体 しんたい が保存 ほぞん されるべきことを主張 しゅちょう する必要 ひつよう はない。
さらに、自 みずか らの生存 せいぞん を断念 だんねん するという不自然 ふしぜん な自然 しぜん に回帰 かいき することもない。技術 ぎじゅつ を、痛 いた いから拒否 きょひ することはあるが、否定 ひてい しない。
触手 しょくしゅ を伸 の ばして栄養 えいよう を摂取 せっしゅ する動物 どうぶつ がいるように、その自然 しぜん の過程 かてい の延長 えんちょう に機械 きかい はあるだろう。それもまた自然 しぜん の営 いとな みなのだと、自然 しぜん が好 す きな人 ひと に対 たい しては言 い ってよい。
なんならそれを進化 しんか と、進化 しんか が何 なに よりも好 す きな人 ひと に対 たい しては、言 い ってもよい。
この意味 いみ で機械 きかい は肯定 こうてい され、技術 ぎじゅつ は肯定 こうてい される。
この本 ほん の冒頭 ぼうとう に――「サイボーグ・フェミニズム」というものを提唱 ていしょう したということになっている――ダナ・ハラウェイの著書 ちょしょ からの引用 いんよう を置 お いた。
次 つぎ のような文章 ぶんしょう もある。
【405】 《なぜ、我々 われわれ の身体 しんたい は、皮膚 ひふ で終 お わらねばならず、せいぜいのところ、皮膚 ひふ で封 ふう じこめられた異物 いぶつ までしか包含 ほうがん しないのだろうか》(Haraway[1991=2000:341])
《機械 きかい は、息 いき を吹 ふ きこまれ、崇 あが められ、そして支配 しはい される何 なに 物 ぶつ か(it)ではない。
機械 きかい は、我々 われわれ 、我々 われわれ の過程 かてい 、我々 われわれ が具体 ぐたい 的 てき なかたちをとる際 さい の一 ひと つの側面 そくめん である。》(Haraway[1991=2000:345])」
◆立岩 たていわ 真 しん 也 2000/12/15 「二 に 〇〇〇年 ねん の収穫 しゅうかく 」
『週刊 しゅうかん 読書 どくしょ 人 じん 』2366:2
*増補 ぞうほ :北村 きたむら 健太郎 けんたろう