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「ニキ・リンコの訳した本たち・2」
前回は「障害学(会)」案内をしてしまったので、今回は前々回の続きでニキ・リンコ関連本。
前に紹介したのはADD(注意欠陥障害)の人についての本『片付けられない女たち』、自閉症スペクトル上に位置するアスペルガー症候群の人についての本『ずっと「普通」になりたかった』。
他に、ニキが訳した本では、1992年に刊行された原著が米国での「ADDブーム」の火付け役となり、翌93年に自分もADDと気がついたというリン・ワイスの『片づかない! 見つからない! 間に合わない!』(WAVE出版、2001年、398p.、1500円)。また、どうやってADHD(注意欠陥・多動性障害)の子どもと親がつきあっていくかを書いたパトリック・J・キルカー他『自分で自分をもてあましている君へ』(花風社、2002年、319p.、1600円)。42歳になってアスペルガー症候群の診断を受けたウェンディ・ローソンが書いた『私の障害、私の個性』(花風社、2001年、219p.、1600円)、等々。
より詳しい書誌情報や他の本についてはホームページに情報を掲載。また自閉症について、ADD、ADHDについて、様々な著者、訳者による本が出ている。その幾つかも掲載した。自伝的なものもあり、そうした人たちに関わる専門家のものもあるが、かなりの頻度で、著者は両方を兼ねていたりもする。どう生きてきたかが書かれ、どう対処するかが書かれている。これらがどのような障害なのか、どう対処したらよいかは、ここで短くして紹介しても仕方ない。読んでもらうのが一番だ。訳書の場合でも、日本で役に立つ自助グループの紹介やホームページの紹介等が巻末にあったりもする。
以下では、ここのところずっとの隠れた?主題、について。
2月号で『PTSDの医療人類学』、3月号で『精神疾患はつくられる――DSM診断の罠』と、ある状態を障害や病としてしまうことに懐疑的、批判的な本を紹介した。それに対して、ここで紹介している本の多くでは、障害であることがわかってよかったという体験が書かれる。ニキも訳書の後書きや、自らの文章でそのことを書いている。とすると、この二つの見方は、どこがどうなって、分かれるのか、あるいは分かれているように見えるのか。
その仕掛けは多分すこし複雑になっていて、きちんと考えると、長い論文みたいものになってしまうだろう。ここではまずいくつかのヒントをもらっておこう。
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他でも紹介したことがあるが、ニキは、自らの文章「所属変更あるいは汚名返上としての中途診断――人が自らラベルを求めるとき」(石川准・倉本智明編『障害学の主張』、明石書店)で、次のような文章を引用している。
「ADDのために起こる失敗と、人間なら誰でもやらかす失敗は、どうすれば見分けられるのでしょう?」という問いに、「見分けることはできません。…「普通の」人たちも、ADDの人と同じ失敗をします。両者を分けるのは、失敗の質ではなく、頻度なのです。ADDの人の人生では、失敗はしじゅう起こり続け、重篤な問題を引き起こします。ADDでない人の人生では、失敗は頻度もはるかに低く、いら立つというよりは、冗談の種になってくれます。」
私たちがまず思うのは、片付けが不得意だとかは多くの人に思いあたるところがあるのだから、それをとりあげて障害だと言ってどうするんだということだ。
それに対して、上の答は、障害となるとまったく違う、特別なのだ、とは言わない。さきの疑問を否定せず、それを受け入れているとも言える。はっきりした境界線が引けないことを認めてしまうのである。そして、その上でも障害であると言う意味があると言おうとしている。さてそれはどんな意味か、と次の疑問が現れるのだが、それでもまずはよい答だと思う。たんに不注意な人とADDの人とはまるで違うのだとは言わないこと、ADDという枠組を支持し守りたい人なら言いそうなことを言わないところが、じつは大切なポイントなのではないかと思える。
そしていま述べたことに関連するのだが、どうもADDなんて怪しいと感じる人には、なんだかそれが逃避のように思えるところ、さらに、私ってこういう変わった人、といった自分の物語がほしいというところかあるのではと感じられてしまうところがあると思う。実際、『ずっと「普通」になりたかった』の表紙には、「これは「自分探し」の物語です。」と書いてあったりもする。
この種の批判というか揶揄というかはよくあって、例えばアダルト・チルドレンという言葉もその対象になった。ニキは、そうした時代にも生きてきたし、また自らの訳書にもそうした反応があるだろうことを予想し(それは当たったのだが)、「訳者あとがき」にこう書いている。
大学を「中退して放り出された先は、バブル崩壊前夜、八〇年代末の日本でした。「モノより心」「本当の自分」といった言葉があちこちで聞かれ始めたころです。「自分探しゲーム」「癒しブーム」に明け暮れた日本の九〇年代は、私にとって本当に奇妙な時代でした。「ありままの自分」なんて言われたって、ありのままでは生活していけなかったではないか。私に必要なのは、「癒し」などではなく、力をつけることなのに。
書籍や雑誌の世界で、次々とこころの病理がテーマとして流行し、消費されるようすも不可解でした。みんな、あんなに正常なのに、仕事にも就けるのに、なぜ多重人格や連続殺人の本に熱中するのだろう? 次々と流行する異常心理の本に、私など手も届かないほど正常な人たちが「自分を重ねて読みました」とか「この主人公は私です」などというコメントを寄せているのを、私は悪い夢か何かのようにぼんやり見ていました。」(『ずっと「普通」になりたかった』pp.283-284)
「「本当の私に出会う」なんてフレーズは恥ずかしいと思っていました。でもその一方で、自分のどこがおかしいのか、納得したかったのも確かです。なぜみんなが怒るときに怒れないのか。なぜみんなが笑わないときに笑ってしまうのか。なぜこんなに疲れてしまうのか……。」(p.284)
なんでも病気(のせい)にしてしまうといった「風潮」を指摘するのがなにか気の効いたことであるかのように思われているとすれば、私はそれは違うと思う。さらに、逃避、責任逃れとして批判する論があるわけだが、私はそれは多くの場合に有害だと思う。
そして、そのように思う私は、同時に、以前に紹介した本の著者たちが、様々な状態が精神障害・精神疾患とされていくことを疑い、批判するのもまたもっともなことだとも思うのだ。
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それは矛盾している、おかしいではないかと思われるだろう。私は矛盾していないと思うのだが、その証明は難しそうだ。私も考えあぐねているところがある。ただ、こんなことについて考えるのはおもしろいと思う。そして意外に必要なことでもあると思う。病気や障害とされること、されないことの両方から、当人たちは迷惑を被ることがあるからである。
ニキの場合、アスペルガー症候群だとわかってよかった。そして、横文字の略称で自分を納得させているのだ、ただの流行だといった捉え方に怒っている。一方でそのことを知り、考えること。
そしてもう一方で、別のことも考えてみること。例えば、病気だから対応するということになれば、病気であることを証明しなければならないということになるかもしれない。しかしそれは、そういつもはうまくいかないだろう。
だから、障害があろうとなかろうと、病気と診断されようとされまいと、なんとかやっていけるなら、その方がよいのかもしれない。むろんそれを実現するのは難しい。会社を休むにも診断書が必要だというのが現実である。しかしそれでも、名前がついたり、原因が生理的なものであるとわかったりしなければならないのも辛いところがあるかも、という視点ももっているとよいように思う。
ニキには精神科医との対談の本がある。うっかりしていてまだ未見。『障害学の主張』収録の「所属変更あるいは…」に書かなかったこと、書けなかったこと等が入っているという。読まなければ。
◆岡野 高明・ニキ リンコ 2002 『教えて私の「脳みそ」のかたち――大人になって自分のADHD、アスペルガー障害に気づく』,花風社
■言及
◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社