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立岩真也「障害者自立支援法、やり直すべし――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか」
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障害しょうがいしゃ自立じりつ支援しえんほう、やりなおすべし

――にあたり、遠回とおまわりで即効そっこうせいのないこといくつか――

立岩たていわ しん 2005/07 『精神せいしん医療いりょう』39:26-33
批評社ひひょうしゃhttp://www.hihyosya.co.jp
精神せいしん医療いりょう』39:[amazon][kinokuniya]
 http://hihyosya.co.jp/books/ISBN4-8265-0424-1.html


くわしくはホームページで

  法案ほうあんがどんなもので、具体ぐたいてきにどんな問題もんだいてんがあるかについて、かない。なが真面目まじめ障害しょうがいしゃ政策せいさくんできた組織そしきひとたちの見方みかたってもらったほうがよい。ホームページ(http://www.arsvi.comわたし名前なまえ検索けんさくするとてくるはず)に障害しょうがいしゃ自立じりつ支援しえんほう?、最初さいしょっからやりなおすべし!」というコーナーをつくってある。そこから法案ほうあん様々さまざま文書ぶんしょ文章ぶんしょう集会しゅうかい案内あんない等々とうとうにリンクさせている。
  そこに、よくらないわたし中途半端ちゅうとはんぱくよりよい文章ぶんしょうがいくつもある。「DPI日本にっぽん会議かいぎなどからている要望ようぼうしょなどを掲載けいさい、あるいはリンクしている。DPIは世界せかい組織そしき障害しょうがいしゃインターナショナル」のりゃく。その日本にっぽん会議かいぎはここのところ重要じゅうよう役割やくわりたしている。そのホームページや全国ぜんこく自立じりつ生活せいかつセンター協議きょうぎかい(JIL)」のホームページにある解説かいせつなどが有用ゆうよう。またDPI日本にっぽん会議かいぎ事務じむ局長きょくちょう今年ことし就任しゅうにんしたのが、なが大阪おおさか活躍かつやくしてきた 尾上おがみ浩二こうじさん で、その尾上おがみさんに、4がつにち障害しょうがいがく研究けんきゅうかい」の関東かんとう部会ぶかい東京とうきょう)で「『”障害しょうがいしゃ自立じりつ支援しえん法案ほうあんなに問題もんだいなのか」という報告ほうこくをしていただいた。鶴田つるた雅英まさひでさんがその報告ほうこく質疑しつぎ応答おうとう全体ぜんたい文字もじにしてくれた。それをホームページに掲載けいさいさせていただいている。これをんでください。

■どうしてこうなったのか?

  おおくの文章ぶんしょう文書ぶんしょで、問題もんだいおおきくみっつはあげられている。まず、ひとはなしかずになぜそんなにいそぐのだということである。つぎに、「応益おうえき負担ふたん」はよしてくれということである。そして、「認定にんてい審査しんさかい」でサービスの可否かひりょう審査しんさするのもこまるということである。さらにこれらの問題もんだい出所しゅっしょは、つまりはかねだ。それで、自己じこ負担ふたんのために実際じっさいこまひとてくる。ただ、具体ぐたいてきにどうなってしまいそうなのかは、前記ぜんきしたひと組織そしき分析ぶんせきゆだねる。この文章ぶんしょうべることは、おおまかに、いまこっているこの事態じたい、つまりはおかねめぐってこっているこの事態じたいなになのかである。
  まず、これが予想よそうがいのできごとではなく、いつかりかかってくることではあったこと、実際じっさいそのことが予想よそうされていたことを確認かくにんしておく。わたしがある程度ていどっているのは介助かいじょ介護かいご)のことだけだが、それは福祉ふくしサービスのなかでもおおきな部分ぶぶんめるものではあるから、それを中心ちゅうしんべてもわるくはないだろう。
  公的こうてき介助かいじょ制度せいど獲得かくとく拡大かくだいもとめる運動うんどうは1970年代ねんだいはじまる。それからやく30ねん徐々じょじょ徐々じょじょ規模きぼおおきくさせ、制度せいどのある地域ちいきひろげてきた。それは、まったくあたらしい全国ぜんこくてき制度せいどつくるといったものではなかった。すで存在そんざいするほうのもとで、厚生省こうせいしょう厚生省こうせいしょう)、そしてとくに市町村しちょうそん、ときに都道府県とどうふけん直接ちょくせつ交渉こうしょうをし、自治体じちたいべつ事業じぎょう要綱ようこうつくらせ、サービスの規模きぼすこしずつおおきなものにしてきた。(このあたりについては、安積あさか純子じゅんことの共著きょうちょなま技法ぎほう――いえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく 増補ぞうほ改訂かいていばん藤原ふじわら書店しょてん、1995)
  そしてそれがそうたいした予算よさん規模きぼではないあいだ中央ちゅうおう官庁かんちょう、というかその障害しょうがいしゃ福祉ふくし担当たんとうしゃたちは――とくに、当事とうじしゃ団体だんたいとの交渉こうしょう折衝せっしょうて、そのひとたちの生活せいかつ現実げんじつがわかっているひとたちであれば――その制度せいど充実じゅうじつ拡大かくだい支持しじし、その方向ほうこうで、自治体じちたいたいした。たしかに一時期いちじき厚生省こうせいしょう厚生こうせい労働省ろうどうしょうは、制度せいど水準すいじゅんひく自治体じちたいたいしてその水準すいじゅんげさせるという役割やくわりたしていたのである。
  もちろん、このような制度せいど拡充かくじゅう仕方しかたに、その時々ときどき限界げんかいはあった。つまり、こえをあげられるところから制度せいどつくられ、充実じゅうじつしていったから、そうでないところがおくれた。これは事実じじつだ。しかし、この限界げんかい問題もんだいは、その運動うんどうをしてきたひとたちが一番いちばんよくわかっていた。そのひとたちはそれではいけないとかんがえ、制度せいど全国ぜんこくひろげる努力どりょくをしてきた。わたしは、それはほんとうに立派りっぱ活動かつどうだったと、いま立派りっぱ活動かつどうをしているとおもう。それで間違まちがっていたとおもえない。ほかにどんなやりかたがあっただろう。
  こうしてそのひとたちは次第しだい制度せいどをはびこらせてきた。こうして制度せいど一定いってい水準すいじゅんたっし、予算よさん規模きぼ次第しだいおおきくなるなら、それにたいして、かたにはめ、またりょう抑制よくせいするといったうごきがやがててくることは予想よそうされていたことだった。わたし記憶きおくでは、1990年代ねんだいなかばにはすでにそうした感覚かんかくはあった。そうなったとしてどのように対応たいおうするのか、検討けんとうもしようとかんがえたし、実際じっさいかんがえもした。(ヒューマンケア協会きょうかいケアマネジメント研究けんきゅう委員いいんかい障害しょうがいしゃ当事とうじしゃ提案ていあんする地域ちいきケアシステム――英国えいこくコミュニティケアへの当事とうじしゃ挑戦ちょうせん、1998、とうわたしほうからおおくりすることもできる。)しかし、制度せいど改変かいへん現実げんじつあらわれないあいだは、基本きほんてきには、制度せいど使つかい、使つか勝手がってをよくしながら拡大かくだいのための行動こうどうつづけていくことになる。その方向ほうこうしかなかった。それで間違まちがっていなかった。
  変化へんか可能かのうせい最初さいしょ現実げんじつてきなものとしてあらわれたのは、2000ねんがつからはじまった公的こうてき介護かいご保険ほけん障害しょうがいしゃ高齢こうれいしゃでない障害しょうがいしゃ)の介助かいじょ制度せいど統合とうごうされる可能かのうせいがあるという情報じょうほうつたわったときだった。わたし運動うんどうは、それでよいことがあるかを検討けんとうし、ないとかんがえ、くわわらないほうがよいと判断はんだんした。(他方たほう難病なんびょうひとたちの団体だんたいなどで積極せっきょくてきにこの制度せいどろうとしたところもある。実際じっさい介護かいご保険ほけん使つかえるようになり、制度せいど併用へいようしている。それがどんな具合ぐあいかについては拙著せっちょ『ALS 不動ふどう身体しんたいいきする機械きかい医学書院いがくしょいん、2004)だい10しょう。)このときには、こうした利用りようしゃ障害しょうがいしゃがわからの反対はんたいがあったらから、というわけではないが、統合とうごう実現じつげんしなかった。ただ、これからそうしたことが、たとえば制度せいど見直みなおしのとき幾度いくどこりうるだろうとおもわれた。そのことをかんがえていたひとかずおおくなかったにせよ、その予想よそうはたしかにあった。こうしたうごきが、いまいよいよ本格ほんかくてきあらわれているということである。ただその経緯けいいは、そうすっきりとしたものではない。わたしには内部ないぶ事情じじょうはわからないが、そのうちだれかが調しらべてくれるかもしれない。ただ、その細部さいぶはそれほど重要じゅうようなことではないともおもえる。
  2003ねんがつから「支援しえん制度せいど」になった。サービスを拡大かくだいさせ、そして障害しょうがいしゃみずからが組織そしきつくり、その供給きょうきゅう関与かんよしてきた地域ちいきでは、利用りようしゃ供給きょうきゅうしゃ契約けいやく関係かんけい同時どうじ利用りようにかかわる費用ひよう社会しゃかいてき供給きょうきゅうというかたちがすでにできていたから、この制度せいどへの移行いこうは、なにかまったくあたらしいものへの移行いこうではなかった。ただそれは、おおくのひとに、制度せいどがあって使つかえることをらせることになった。貧弱ひんじゃく制度せいどしかなかった地域ちいきでの供給きょうきゅう水準すいじゅんがいくらかがった。サービスを提供ていきょうする組織そしきつく運営うんえいすることがより容易よういになった。介助かいじょなどではたらひと報酬ほうしゅうおおくの場合ばあいにすこしよくなり、ひと派遣はけんする組織そしきはいるおかねえた。そうしてサービスの利用りよう供給きょうきゅうえた。
  支援しえん制度せいど自体じたいにはだれにどれだけという基準きじゅん審査しんさ制度せいどはない。2002ねんあんとしてしめされたときもそれはふくまれていなかった。だがかんがえられてはいたようだ。かくしておいて最後さいご段階だんかいでさっとせばとおると楽観らっかんしていたのか、制度せいど実施じっし直前ちょくぜんの2003ねんがつ、サービス供給きょうきゅうの「上限じょうげん」を設定せっていするというあんらされた。しかしこれはおおきな反対はんたいにあって実現じつげんせず、この部分ぶぶんふくまない支援しえん制度せいどはじまった。
  サービス利用りよう供給きょうきゅう実績じっせき予算よさん上回うわまわることになった。これまでりなかったサービスがえたということだから、これはよいことであって、予算よさんどおりにいかなかったのは、見込みこみを間違まちがえたということでしかない。しかしえるのがこまひとたちがいる。担当たんとう役所やくしょ厚生こうせい労働ろうどうしょうだが、このひとたち自身じしんがサービスをらしたいわけではない。ただ、借金しゃっきんをかかえている政府せいふ財務省ざいむしょうけつける範囲はんい政策せいさくをやっていかなければならない。
  そのままではやっていけないと厚労省こうろうしょうい、つぎてきたのが「公的こうてき介護かいご保険ほけん」との統合とうごうあんだった。介護かいご保険ほけん制度せいどはいれば独立どくりつした財源ざいげんだから心配しんぱいしなくてよいというのだ――吸収きゅうしゅうでなく、統合とうごうでなく、介護かいご保険ほけん利用りようするのだというわれかたもされた。これが浮上ふじょうしたのが2003ねんあき以来いらい障害しょうがいしゃたちがこんどはこの「統合とうごうあん」への対応たいおうわれた。(このあたりまでについて、拙稿せっこう障害しょうがいしゃ運動うんどうたい介護かいご保険ほけん――2000〜2003」、平岡ひらおか公一こういち山井やまい理恵りえへん介護かいご保険ほけんとサービス供給きょうきゅう体制たいせい――政策せいさく科学かがくてき分析ぶんせき』、あずましんどう近刊きんかん*。)そして、このあんもとりあえず見送みおくりになった。障害しょうがいしゃがわ反対はんたいのためにという部分ぶぶんもあるはあるが、それだけでない。むしろまったくべつ理由りゆうから、つまり保険ほけんりょう負担ふたんにする経済けいざいかいとう思惑おもわくなどもあってのことである。
(*もとになった文章ぶんしょうとして、2003/03/00障害しょうがいしゃ運動うんどうたい介護かいご保険ほけん――2000〜2002」平岡ひらおか公一こういち研究けんきゅう代表だいひょうしゃ)『高齢こうれいしゃ福祉ふくしにおける自治体じちたい行政ぎょうせい公私こうし関係かんけい変容へんようかんする社会しゃかいがくてき研究けんきゅう』,文部もんぶ科学かがくしょう科学かがく研究けんきゅう補助ほじょきん研究けんきゅう成果せいか報告ほうこくしょ研究けんきゅう課題かだい番号ばんごう12410050):79-88)
  さらに、2004ねんの10がつになってきゅう厚生こうせい労働省ろうどうしょうがわからしめされたのが「グランドデザイン」ながうと「今後こんご障害しょうがい保健ほけん福祉ふくし施策しさくについて(改革かいかくのグランドデザインあん)」。社会しゃかい保障ほしょう審議しんぎかい障害しょうがいしゃ部会ぶかいがこれを審議しんぎするだが、きちんとした議論ぎろんをする時間じかんもなく、審議しんぎわったことになり、そしてそれをけて(けたとして)提出ていしゅつされたのが「障害しょうがいしゃ自立じりつ支援しえんほう」である。(最初さいしょは「障害しょうがい福祉ふくしサービスほう」という仮称かしょうだったが、途中とちゅうから「障害しょうがいしゃ自立じりつ支援しえん給付きゅうふほう」、その障害しょうがいしゃ自立じりつ支援しえんほう」になった。)
  障害しょうがいしゃがわは、このあいだずっとこうしたうごきへの――つかれるし、たのしくない――対応たいおういそがしかった。厚生こうせい労働省ろうどうしょうの「迷走めいそう」が、計画けいかくのなさ、計算けいさん間違まちがいであったのか、あるいは計算けいさんされたうごきだったのか、それはわからない。サービスを膨張ぼうちょうさせ、この財源ざいげん確保かくほのためとして介護かいご保険ほけん提示ていじ、といった深謀遠慮しんぼうえんりょがあったとはかんがえにくい。介護かいご保険ほけんとの統合とうごう方向ほうこうはあったが、とりあえず支援しえんこうとし、当初とうしょ供給きょうきゅうわくをはめられるとんでいたがうまくいかず、供給きょうきゅうえてしまい、そのえたおかね財務ざいむからとってくるのが面倒めんどうなことにもおもえ、それでやはり統合とうごういそがねばとなり、だめなら、自己じこ負担ふたん審査しんさという介護かいご保険ほけんあいどう仕組しくみをもつ制度せいどつくり、それで供給きょうきゅうおさえる、おさえられるような機構きこう制度せいどであることを財務ざいむしめし、そしてまた将来しょうらい介護かいご保険ほけんとの統合とうごうにつながればそれはそれでよい、といったところなのかもしれない。
  このあいだ経緯けいいには紆余曲折うよきょくせつがあり、法案ほうあんにはいろいろなことがいてあるが、こっていることはとてもはっきりしている。このあいだの、こうしたあわただしくうっとおしいすべてのうごきが、結局けっきょくは、おかね事情じじょうゆえのうごきであったとるほかない。「自己じこ負担ふたん」――その「自己じこ」が、利用りようしゃ自身じしんかぎられず、家族かぞくふくまれるのもこまったことだが――のぶんだけやすくなるだろうという。自己じこ負担ふたんしなければならないとなれば、サービスの利用りよう、「使つかいすぎ」をひかえるだろうという。「審査しんさ」すれば、やはり使つかぎをそもそもぎ、「公平こうへいせい」をたもつことができるだろうという。
  とう厚生こうせい労働省ろうどうしょうそくが、積極せっきょくてき予算よさん抑制よくせいしようとおもっているのではない。むしろ、省庁しょうちょうおなじで、それぞれの担当たんとう予算よさん確保かくほしたいとおもっているし、みずからがかかわる事業じぎょう発展はってんさせたいともおもっている。自分じぶん縄張なわばりだから、という以外いがいに、それなりの使命しめいかん気概きがいをもって仕事しごとたっているひとたちがいることもわたし否定ひていしない。
  ただ、政府せいふ政権せいけんとう基本きほんてき方向ほうこうべつにある。厚労省こうろうしょうも、自分じぶんたちがすすみたいみちうえでも、それは考慮こうりょれざるをえない。なににせよ、やすことができないということになり、おさえにかかえっている。厚労省こうろうしょうみずからの仕事しごとをしようとするが、同時どうじに、そのためにも、おさえるところをおさえることをせざるをえないという仕掛しかけになっているということである。抑制よくせい主眼しゅがんではないとうだろうし、実際じっさいそうおもっていても、きむ財務ざいむがもっている。このまま財源ざいげんとしてぜい使つかうなら、財務省ざいむしょう折衝せっしょうし、れてもらわねばならない。それに制度せいど制約せいやくされる。他方たほう介護かいご保険ほけんということになれば、財源ざいげんうえでの独立どくりつたかまる。財務省ざいむしょうから一定いっていの「自律じりつせい」をることができる。また介護かいご保険ほけん維持いじするためにも、わかひとたちからも保険ほけんりょう徴収ちょうしゅうしたほうがよく、それを正当せいとうするために高齢こうれいしゃ以外いがいにもサービスを給付きゅうふすることにしたほうがよく、そのために「統合とうごう」する、ということもある。しかし、介護かいご保険ほけんとはそもそも、そこそこの負担ふたんでそこそこのサービスを、というものであり(ものでしかなく)、そもそもがたかのしれた制度せいどでしかない。そのようにして、ざい財源ざいげんにしても、保険ほけん制度せいどはいっても、どちらにしても「適正てきせい」が実現じつげんしていく。

常識じょうしきある市民しみん相手あいてにせねばならない・1

  くわえてひとつやっかいなのは、そしてつかれてしまうのは、これが予算よさん制約せいやくのもとでただ仕方しかたのないこととしてなされようとしているのでなく、「人々ひとびと」に――「障害しょうがいしゃ福祉ふくし」に肯定こうていてき人々ひとびとであっても、財布さいふのことしかかんがえていないというようなひとでなくとも――に理解りかいされてしまうということである。すべてを「政界せいかい」や「財界ざいかい」の思惑おもわくのせいにできない。ことはそう単純たんじゅんではない。
  このけん関係かんけいする官庁かんちょうひとから、「納税のうぜいしゃ理解りかい必要ひつよう」という言葉ことば幾度いくどはっせられる。これは、このたびの法案ほうあんとおすための方便ほうべんとしてっているというだけでなく、どうも、その(みずか納税のうぜいしゃ一人ひとりでもある)役人やくにんみずからもそのようにおもっているようなところがある。たしかに「無駄むだ使づかい」はわるいことに最初さいしょからまっているのだし、「使つかぎ」はよくないでしょうというはなしに「市民しみん」「納税のうぜいしゃ」たちは、マスコミもふくめて、納得なっとくしやすい。そのことについてなにうか。
  なんていうことを悠長ゆうちょういていると、もうこのたびのことはまってしまいそうなのだが、それでも、どうかんがえるか。いてくれそうなひとなにうか。きたくないひとかないのだろうが、それでもなにうか。
  もちろん、えるとかりないというがくがせいぜいなんひゃくおくとかそんながくで、たいしたことはないとえばよいのではある。また、たしかに政策せいさく運営うんえい失敗しっぱいしてくに多額たがく借金しゃっきんがあるのは事実じじつだが、だから一律いちりつ予算よさんらすとかやさないというはなしではないだろうとうことである。そして、実際じっさい一律いちりつらされているのかといえば、そんなことはない。よけいなところにおかね使つかっているから、それをまわせばよいとうことである。そしてわたしなら、税金ぜいきんをとるべきところからはとればよい、やせばよいとう。
  これらはみなただしい。問題もんだいは、ただしいはなしとおすことがむずかしいということ、そのむずかしさを前提ぜんていに、また「無駄むだ使づかい」といった言葉ことば敏感びんかんひとたちにもけて、なにうかである。
  まず、介助かいじょなどの社会しゃかいサービスを利用りようすることでもとめられているのは、みのらしであって、それ以外いがいのものではない。そのみのらしというものを、あなた(たち)はたまたま、あたまそして/あるいは身体しんたいが、はやにそして/あるいは秩序ちつじょってうごいていて、できてしまっているわけだが、わたし(たち)はそうではない。しかし、あたまがどうで身体しんたいがどうであろうと、みのらしはできたってよかろう、というのである。そして、むろんこの主張しゅちょう所得しょとく保障ほしょうかかわる主張しゅちょうふくんでいるのだが、さしあたりそれをここではくならば、実際じっさいにはさらにつつましいことをっているにぎない。かせぎがないとかすくないとかいった部分ぶぶんは、とりあえず、さておき、日常にちじょう生活せいかつ遂行すいこうかかわる部分ぶぶんだけについては、みにできるようにしよう。それは当然とうぜんではないか。もちろんそのひとは、税金ぜいきん保険ほけんりょうはらえるだけの収入しゅうにゅうがあれば、税金ぜいきんはらい、負担ふたんしている。おなかせぎのひとは、むろんこまかくえば控除こうじょ有無うむによるちがひとしないではないけれども、おなじに負担ふたんしている。
  「ノーマライゼーション」という言葉ことば――このかたりがこのごろ役所やくしょ使つかわれなくなっているのではないかという指摘してきもあるのだが――があって、それはれようということなっていたではないか。それでも文句もんくいたいというひとのことがよくわからない。もちろん、さしあたり自分じぶんはサービスは不要ふようで、そのぶん税金ぜいきんはらうのはもったいないというのはわかる。そのことがいたいのだろうか。ならばはっきりそうってもらったほうがよい。
  そうでないとすると、やはりなにか誤解ごかいがある。「サービスにはおかねはらうのが当然とうぜんでしょ」といった「素朴そぼく」ないいかたがどのような水準すいじゅんにあるのか。必要ひつようおうじた(人並ひとなみまでの)供給きょうきゅうはすべきでない、そういう信仰しんこうをもっているということだろうか。とするとそれは価値かち価値かちとの対立たいりつということになり、それはそれで、合意ごういにはいたらなくとも、議論ぎろんをすることにはなる。拙著せっちょ自由じゆう平等びょうどう岩波書店いわなみしょてん、2004)でそのことについていてはみた。そして、負担ふたんすくないほうがよいことはみとめたうえで、そうたいした負担ふたんにもならないことをい、そのてんでは安心あんしんしてもらう。そのうえで、あたまがどうであれ身体しんたいがどうであれ、したいことがそこそこにできることはよいことではないか、自分じぶんがどんな自分じぶんであれきていけるときまっている社会しゃかいきているほうらく気持きもちがよいではないか、とう。すべてのひと説得せっとくしたいとか、説得せっとくできるとかおもわないが、すくなくとも、過半かはん賛成さんせいられてよいはずだとおもう。

常識じょうしきある市民しみん相手あいてにせねばならない・2

  あなたには(ひとよりよけいに)よいことがあるから、そのぶん自己じこ負担ふたん、「応益おうえき負担ふたん」というろんはなりたない。とするとに「審査しんさ」と「自己じこ負担ふたん」に理由りゆうがあるか。ぎること、無駄むだ使づかいがなされること、そのように使つかひとがいることによる不公平ふこうへいしょうじることを心配しんぱいしているのだろうか。それはもっともな理由りゆうのようにおもえる。自己じこ負担ふたんには、たんにそのぶんだけひとたちの負担ふたんらせるというだけでなく、供給きょうきゅうおさえる作用さようがある(とされる)。抑制よくせいわれると抵抗ていこうかんがあっても、「公平こうへい制度せいど運用うんよう」などとわれ、そのために「きちんとした基準きじゅん」が必要ひつようだとわれると、それはそうだろうとおもわれる。このあいだ報道ほうどうがおおむねおよごしであるのも、そのことが関係かんけいしはするだろう。そして現行げんこう巨大きょだい制度せいどである「介護かいご保険ほけん」はすでにそのような制度せいどとしてうごいている。
  ぎることがよくないことであるとして、それを防止ぼうしするために、自己じこ負担ふたんもとめるか、基準きじゅん設定せってい審査しんさするか、あるいは両方りょうほうおこなうのは――今度こんど法案ほうあん両方りょうほうおこなおうとしている――、だれもがすぐにおもいつく方法ほうほうではあるが、よいやりかたではない。つぎにこのことをわかってもらわねばならない。
  法案ほうあん文章ぶんしょうむだけでは制度せいど具体ぐたいぞうあきらかでないのだが、これまでしめされているものから試算しさんされ指摘してきされているのは、はしてき生活せいかつ困難こんなんになる、サービスが使つかえなくなるということである。いまおおくのひとがいくらでらしていて、そこに1わり負担ふたんくわわるとどういうことなるか。こういうことを具体ぐたいてきにわかってもらうのが大切たいせつなところなのだが、それはひとたちや組織そしきにまかせよう。ここでは基本きほんてきなことだけく。拙著せっちょよわくある自由じゆうへ』青土おうづちしゃ、2000)のだいしょうとおはなれ遭遇そうぐう――介助かいじょについて」にべたことでもある。
  基準きじゅんがないと、とわれる。しかしまず医療いりょうサービスは(自己じこ負担ふたんはあるし、えているが)出来高できだかばらいで、まがりなりにもこれまでやってきた。事前じぜん審査しんさはなく、基準きじゅんはない。それにたいしてむろん、だから医療いりょうえてしまったのだ、あれは手本てほんにならないとわれる。実際じっさい医療いりょう保険ほけんでも定額ていがくせい導入どうにゅう検討けんとうされている。こうしたろん全部ぜんぶ否定ひていする必要ひつようはないとわたしかんがえる。ただ、基準きじゅんがあり審査しんさがあるのは当然とうぜんだろうとおもってしまうときおおくのひとは、そんなものなしですくなくともこれまでやってきたおおきな制度せいどがあることにがついていない。すこしよこにあるものをるだけで、当然とうぜんおもうことがかならずしも当然とうぜんでないことがわかる。これはわかっておいたほうがよい。
  おかねならあればあるほどよいかもしれないが、医療いりょうにしても介護かいごにしてもあればあるほどうれしいというサービスではない。むしろやしたいのは経営けいえいから供給きょうきゅうがわであって、利用りようするがわはそうむやみにほしいわけではない。だから、供給きょうきゅうがわ供給きょうきゅうやして経営けいえい維持いじしよう、らくにしようといううごきをおさえられれば、よい。また医療いりょう場合ばあいたかくすり使つかうとか、たくさん注射ちゅうしゃをするといったやしかたができるが、介護かいご場合ばあいはそうではない。
  そして審査しんさにも自己じこ負担ふたんにもよくないことがある。どちらも、サービスをやそうという意図いとはっするものではない。「無駄むだ」をはぶくことが基本きほんにあり、そこからなに必要ひつようなに不要ふようかという判断はんだんがなされることになる。おこなわれている様々さまざまのことには不要ふようなものが多々たたある。わたしもそうはおもう。ただ、それが審査しんさされ判断はんだんされ、それにもとづいた支給しきゅうがなされる。抗弁こうべんすることはみとめられるとしても、結局けっきょくめるがわめることで、それにしたがうということになる。
  身体しんたい障害しょうがい場合ばあいは――くらべれば、だが――まだよいかもしれない。なにができないかが比較的ひかくてきはっきりするから、それをおぎなえばよいということになる。しかし、精神せいしん障害しょうがい場合ばあいなど、外側そとがわからてもよくわからない。これまでの制度せいどはおおむね身体しんたい障害しょうがいひとかぎったものだった。けれども知的ちてき障害しょうがいひと精神せいしん障害しょうがいひとにも介助かいじょ必要ひつようである。このことはみとめられたとしよう。そして人数にんずうもたくさんになる。そのひとたちの生活せいかつなに手伝てつだうということになるのか。その基準きじゅんめられるという。しかしこれにはとてもむずかしくそして危険きけんなところがある。その無謀むぼうさ、危険きけんさにがついているだろうか。そんなことは自分じぶんでできるはずだとわれ、そうでないことをいたいが、うまくえず、えてもいてはくれず、いてはくれても結局けっきょくむこがわめたとおりになる。そんなことが、いまこっているのだが、もっと、そして制度せいどそのものにまれたこととしてこる。そんなことが、そのひとたちをくらくさせ、がたくさせていく。おおくの人々ひとびとは、無駄むだではないかとわれればたしかに無駄むだなことを、しかしいちいちそれをとがめだてられたりすることなくっている。しかしこの制度せいどでは、無駄むだ出来できるだけはぶこうとする方向ほうこうで、われ、とがめられる。
  そうしたことごとを、法案ほうあんつくがわひとたちもまともにかんがえていないし、あん賛成さんせいしそうな(精神せいしんそして知的ちてき障害しょうがいしゃの(おやなどの)関係かんけいしゃ団体だんたいめているようにおもえない。このようなにされなさ、鈍感どんかんさ、にしないでおこうというりが、わたしにはとてもになる。
  もうひとつの自己じこ負担ふたんについては簡単かんたんにしよう。そしてかえしになる。まず、ほぼおな収入しゅうにゅうがあるなら、おながく負担ふたんはほぼおな意味いみをもち、それなりにはわかるとして、現実げんじつはそうではない。負担ふたん意味合いみあいが収入しゅうにゅうによってことなってくる。あるひとたちにとっては、ほとんど(過剰かじょう利用りようおさえるという)意味いみをもたないが、ひとにとってはそうではなく、必要ひつよう部分ぶぶんおさえざるをえないことになってしまう。つぎに、それではいけないということになって、負担ふたん収入しゅうにゅう対応たいおうするよう調整ちょうせいしたとしても、やはり、負担ふたんするひとは、負担ふたんするぶんだけ(おな収入しゅうにゅうの)ひとたちなら使つかうことができるべつのことにおかね使つかうことができない。このことに、基本きほんてきに、正当せいとうせいはない。
  そしてつぎ問題もんだいは、こうした基本きほんてきなまた現実げんじつてき問題もんだいしょうじさせるしまうような手立てだてを使つかってでも、利用りよう抑制よくせいする必要ひつようがあるのかである。実際じっさいひとはたらかず、おかねだけがはらわれてしまうなら、これはたしかに無駄むだであるかもしれない。しかしそんなことを利用りようしゃがわのぞんでいない。利用りようしゃがわはやはり自分じぶんやくつことをしてほしい。それで、介助かいじょするひとにはきちんとはたらいてもらう。そしてそのひと対価たいかられるなら、はたらいたがくらせることにはなる。そしてはたらけるひとあまっている。だから失業しつぎょうしゃもいる。そのひとたちが無意味むいみではない仕事しごとをする。本来ほんらい所得しょとく保障ほしょうとして分配ぶんぱいされてもよかったおかねが、仕事しごとへの対価たいかとしてはらわれ、そのひとらしていける。それはわるいことではない。
  きむがないというはなしも、結局けっきょくは、ひとがいないか、ものがないか、両方りょうほうかであって、とくにこの場合ばあい必要ひつようなのはひとなのだから、結局けっきょくは、ひと問題もんだい帰着きちゃくする。ひとあまっているという認識にんしきは、むろんだれもが共有きょうゆうしている認識にんしきではない。したがって、ほんとうはこのあたりから、誤解ごかい――とわたしかんがえるもの――をいていかなければならない。それはたしかに悠長ゆうちょうぎるのであるのだが、仕方しかたがない。うべきことはうしかない。
  以上いじょう順序じゅんじょえてかえすと、だいいちに、サービスの利用りようひとはたらき)を抑制よくせいすべきつよ必要ひつようはない。だいに、この制度せいどにおけるサービスについておおきな不要ふよう膨張ぼうちょうこりにくい。だいさんに、膨張ぼうちょう抑制よくせいするとする方法ほうほうとしての「自己じこ負担ふたん」にしても「審査しんさ」にしてもおおきな難点なんてんがある。だから、やめたほうがよい。ではなにもしなくてよいか。なにかはあったほうがよいかもしれないというおもいはわたしにもある。たとえば不安ふあんはたひとながくいることをもとめさせるかもしれない。その不安ふあんをうまくらせるなら、ひとにいてほしい時間じかんすくなくなるだろう。身体しんたい障害しょうがいひとであれば、ひとはたにつかなくとも外出がいしゅつできるような環境かんきょうであったらよい。ひとはたにいるのはわずらわしいことでもある。いなくてもすめばそのほうがよいということはおおいにある。そうしたことを様々さまざまかんがえて実現じつげんしていくことはできる。そのほうがよい。そのような当然とうぜんみちかず、すぐにかんがえつくような、しかし乱暴らんぼう方法ほうほう採用さいようされようとしている。

あかるくなれない、としても

  この時代じだいは、「ちいさな正義せいぎ」に敏感びんかんになってしまっている時代じだいである。ずっとそうだったのか、このごろとくにそうなってしまっているのか。それはらない。ただ、こまごまとせこくなってしまっているのがわがながらあわれであり、本当ほんとうにはこまらなくてよいところでこまってしまっているのがかなしいところである。しかしただこれをなげいても仕方しかたがない。あまりくらくてもよくないから、をとりなおしてうことになる。そして「きちんとした制度せいど」をもとめるものいには、いくらかはもっともなところがある。こちらも、そう歯切はぎれのよいことはえない。よいとおもえることにも副作用ふくさようのようなものがたいがいあるから、総合そうごうてきかんがえたほうがよいことをう。非常識ひじょうしきおもえるような主張しゅちょうが、いくつかの要素ようそかんがあわせるなら、意外いがいとそうでないことをおうとする。そんなことを、わたしは、にすることがないから、していく。
  そしてひとつ、まだ、後退こうたいはしていない。このたびのことは、獲得かくとくしてきたものがあったからこった。こっていることは滅入めいることである。だが、それをこしたもとのものについてはほこってよい。そのことはわすれないほうがよい。


UP:20050509 
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