(Translated by https://www.hiragana.jp/)
立岩真也「『〈個〉からはじめる生命論』」
なぜ前回の続きがこの本の紹介なのか、説明は不要と思うから省く。書評、でなくごく短い紹介を共同通信社の依頼で書いた。なにぶん短い文章であり、新聞のそうした欄に書けるのは、争いを構成する論点についての異論の提出といったものではない。それはその制約のもとでは書けないし、ごく短く書いたとして、その本をまだ読んでない人には理解しにくいだろう。そしてもしその本がよい本であるなら、そのことを読者に言うのがよいだろう。そこでそのように書く。それでも一言二言加えることはするが、それ以上はあきらめ、その一言二言は常に舌足らずになる。そこでこの欄ではすこしゆっくり見ていきたいと思う。
この本で加藤が取り組んだ新しい主題は「ロングフル・ライフ訴訟」、すなわち「重篤な先天的障害をもって生まれた人が、その苦痛に満ちた生そのものを損害であるとして、親に中絶することを促さなかった医師に損害を請求する」(p.20)訴訟だ。2章で論じられる。加藤がこの主題に取り組んでいることは知っていた。私も企画を担当した2003年の日本社会学会大会のシンポジウムで加藤はこの主題での報告を行っている(この報告も上記の私の紹介も、いつものようにHPに掲載してある)。だがここでは、第1章「胎児や脳死者は人と呼べるのか――生命倫理のリミット」をとりあげる。
加藤の著者としてはまず『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』(1998、勁草書房)を読まなければならないのだが、今回の主題につながるものとしては、それ以前、1991年の論文があり、それを改稿した「女性の自己決定権の擁護」が江原由美子編『『生殖技術とジェンダー――フェミニズムの主張3』(1996、勁草書房)にある。そしてこの論文には、法哲学者の井上達夫の1987年の論文への批判があるのだが、この井上論文もこの本には収録され、さらにその上で、井上の「胎児・女性・リベラリズム――生命倫理の基礎再考」、加藤の「「女性の自己決定権の擁護」再論」が掲載されている。10人弱ぐらいの著者が分担して書きましたといった本は、たんに10個弱の文章が並んでいますといったことが多いのだが、この本――あるいは江原が編者となったこの「フェミニズムの主張」というシリーズ――では、珍しく議論が議論として成立している。
そして、今回の本はそれらに加藤が書いたことの反復という以上のものになっている。
人工妊娠中絶の是非を巡る議論が続けられてきた。加藤は、一貫して女性の決定を擁護する論を展開してきた、あるいは、模索してきた。そこで加藤が指摘したのはまず、「線引き」は常に行われており、不可避であり、例えば受精以後を「人」とすることもまた一つの線引きであることだった。それはその通りだ。
そのことと、この本で加藤が「生命」という言葉を議論の前提として置かず批判的な検討の対象にしていることとはむろんつながっている。尊重すべきものがあるとして、それはプロライフ派(実質的には中絶禁止を主張する人たち)のいう「生命」の尊重ではないだろうというのだ。
では、代わりに何をもってくるのか。この数回見てきたように、生命を奪ってよい存在/よくない存在の境界、関連して(関連させて)動物/人間の境界についていろいろを述べてきた人たちがいる。加藤も――日本での優生保護法他を巡る議論を振り返った後――マイケル・トゥーリー、そして本連載でも取り上げたピーター・シンガーの論を紹介して、検討する。その上で、その人たちの主張は受け入れられないとする。
つまり加藤は、線引きを認めた上で、上記したような人々の線の引き方は認めないと言う。では代わりに何を言うのか。
◇◇◇
結論は序章に書かれてもいる。
「もしこの世界が生命で充ち満ちていて、しかしあなたや私のように人称で呼びかけられる存在者たちがいなかったら、わたしはいったい〈誰〉のために考えればよいのだろう。倫理にとって重要なのは「生命」でも「いのち」でもない。そうではなくて、私たちが互いに呼びかけるとき、あるいは呼びかけようとするときに、その呼びかけが差し向けられるべき点としての〈誰か〉であり、そのような〈誰かが生きている〉という事実こそが、守るに値する唯一のものなのだ。」(p.28)
また次のような表現。
「それに向かって呼びかけることが無意味ではないような対象すなわち〈誰か〉」(p.42)
「たとえ生命があっても、それが私たちにとって呼びかけの対象たりうる〈誰か〉でないのなら、そもそも倫理の問いが立ち上げることさえないだろう。」(p.44)
大切なことを言っているように思い、直感的によくわかる気がする。しかし、すこし考え始めると、そうよくはわからない。〈誰か〉はどんな誰かなのか。例えば次のように書かれる。
「誰かが眼前の脳死者を単なる「物=脳死体」以上の「者=脳死者」と感じるなら、それによってその脳死者には倫理的配慮を受けるに値する〈誰か〉である可能性が開かれる。それ以外には、人格であることや、生命をもつことさえ、倫理的配慮の対象にとっての必須の条件ではない。」(p.64)
まず「単なる物以上」のものであることはわかった。そして「人格であることや、生命をもつこと」は条件ではないとされる。それもわかった。生命をもたない存在の生命は尊重しようがないとも思われようが、ここでは生殺の是非でなく「倫理的配慮」の有無が問題になっているから、生きていることは必須ではない。
〈誰か〉が以上のもので(必ずしも)ないことはわかったとして、ではその上で、〈誰か〉とはどんな誰かか。
ここまででも幾度も「呼びかける」という語が使われた。もちろんこのことが大切なのである。
すると、呼びかける相手がすなわち〈誰か〉なのか、相手が〈誰か〉であるから呼びかけるのか。呼びかけられないものは〈誰か〉でないのか。呼びかけられても応えないものは〈誰か〉なのか、そうでないのか。最後の問いから。
加藤は倫理学者・大庭健の『自分であるとはどんなことか』(勁草書房、1997)での論を紹介し検討するところで次のように記す。
「いま私たちが思い浮かべているのは、ふつうの意味での「呼応」に参加することがもはや不可能な、いわば人間同士の相互関係の辺縁に位置する存在者たち、すなわち、呼びかけられてもそれに応じる声をもたない胎児や、重度の知的障害を負った新生児たちなのである。」(p.61)
そして大庭は次のように述べていると言う。「外側からはわからないような何らかの経験が生じていることは十分にありうる。したがって、と大庭はつづける。意識なき身体とのかかわりや、ひいては死者とのかかわりは無意味だということにはならないし、いわんや意識を喪失した身体は人格性なき物体、つまり任意に処理可能な物件にすぎないなどということにはならない。」(p.62)【「したがって」に傍点】
しかし「大庭の論理の従えば、いかなる意味でもそこにおいて「なんの経験も生じていない」ような相手であるならば、その相手とのかかわりは「無意味」だということになる」(p.62)
「私たちは、私たちがそれに向かって呼びかけることが意味をもつような〈誰か〉を指し示すのに、どうしてその相手が一人称の「わたし」としての経験をもつことを資格要件としなければならないのだろうか。」(p.63)
そして、さきに引用した「誰かが眼前の脳死者…」という文章につながっていく。つまり、加藤は、呼びかけるが応えがないその相手もまた〈誰か〉であると言う。
◇◇◇
つまり加藤によれば、人が(〈誰か〉として)呼びかける相手が〈誰か〉だということになる。思う側・呼びかけ(たり、呼びかけなかったりす)る側に選別が預けられるようだ。
ただ、加藤はこの種の論――「倫理的問題をもっぱら人々のあいだの関係性から考える「関係者主義的立場」」(p.65)――につきまとう危険性を承知しているから、二つのことを言う。まず一つ。
「関係性を考慮すべきだということは、関係性だけによってすべてを決めるべきだということを意味しない。[…]単なる見た目の印象だけではなく、死についての一般常識や脳死状態に関する医学的知識もまた考慮されるべきである。そうしたさまざまな情報の有無や理解度によって、ある人の脳死者に対する感じ方が変わることは当然ありうる。」(pp.65-66)
もう一つ。「〈誰か〉であるための資格要件は、具体的な他者から愛されているか否かといった高すぎる基準によって測られるものである必要はない。」(p.66)
さてこれでよいか。(続く)
■表紙写真を載せた本
◆加藤 秀一 20070930 『〈個〉からはじめる生命論』,日本放送出版協会,NHKブックス1094,245p. ISBN-10: 4140910941 ISBN-13: 978-4140910948 1019 [amazon] ※ b be
■言及した本
◆江原 由美子 編 19960920 『生殖技術とジェンダー――フェミニズムの主張3』,勁草書房,409+20p. ISBN:4-326-65192-X 3780 [amazon]/[kinokuniya]/[BK1] ※ f03 b sm
◆立岩 真也 2008/05/25 「『〈個〉からはじめる生命論』・2」(医療と社会ブックガイド・82),『看護教育』48-5(2008-5):-(医学書院),