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立岩真也「『〈個〉からはじめる生命論』」
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『〈〉からはじめる生命せいめいろん

医療いりょう社会しゃかいブックガイド・79)

立岩たていわ しん 2008/02/25 『看護かんご教育きょういく』49-0(2008-02):
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 なぜ前回ぜんかいつづきがこのほん紹介しょうかいなのか、説明せつめい不要ふようおもうからはぶく。書評しょひょう、でなくごくみじか紹介しょうかい共同通信社きょうどうつうしんしゃ依頼いらいいた。なにぶんみじか文章ぶんしょうであり、新聞しんぶんのそうしたらんけるのは、あらそいを構成こうせいする論点ろんてんについての異論いろん提出ていしゅつといったものではない。それはその制約せいやくのもとではけないし、ごくみじかいたとして、そのほんをまだんでないひとには理解りかいしにくいだろう。そしてもしそのほんがよいほんであるなら、そのことを読者どくしゃうのがよいだろう。そこでそのようにく。それでも一言ひとことことくわえることはするが、それ以上いじょうはあきらめ、その一言ひとことことつね舌足したたらずになる。そこでこのらんではすこしゆっくりていきたいとおもう。
 このほん加藤かとうんだあたらしい主題しゅだいは「ロングフル・ライフ訴訟そしょう」、すなわち「おもあつ先天的せんてんてき障害しょうがいをもってまれたひとが、その苦痛くつうちたなまそのものを損害そんがいであるとして、おや中絶ちゅうぜつすることをうながさなかった医師いし損害そんがい請求せいきゅうする」(p.20)訴訟そしょうだ。2しょうろんじられる。加藤かとうがこの主題しゅだいんでいることはっていた。わたし企画きかく担当たんとうした2003ねん日本にっぽん社会しゃかい学会がっかい大会たいかいのシンポジウム加藤かとうはこの主題しゅだいでの報告ほうこくおこなっている(この報告ほうこく上記じょうきわたし紹介しょうかいも、いつものようにHPに掲載けいさいしてある)。だがここでは、だいしょう胎児たいじ脳死のうししゃひとべるのか――生命せいめい倫理りんりのリミット」をとりあげる。
 加藤かとう著者ちょしゃとしてはまず『せい現象げんしょうろん――差異さいとセクシュアリティの社会しゃかいがく』(1998、勁草書房しょぼう)をまなければならないのだが、今回こんかい主題しゅだいにつながるものとしては、それ以前いぜん、1991ねん論文ろんぶんがあり、それを改稿かいこうした「女性じょせい自己じこ決定けっていけん擁護ようご」が江原えばら由美子ゆみこへん『『生殖せいしょく技術ぎじゅつとジェンダー――フェミニズムの主張しゅちょう3』(1996、勁草書房しょぼう)にある。そしてこの論文ろんぶんには、ほう哲学てつがくしゃ井上いのうえ達夫たつおの1987ねん論文ろんぶんへの批判ひはんがあるのだが、この井上いのうえ論文ろんぶんもこのほんには収録しゅうろくされ、さらにそのうえで、井上いのうえの「胎児たいじ女性じょせい・リベラリズム――生命せいめい倫理りんり基礎きそ再考さいこう」、加藤かとうの「「女性じょせい自己じこ決定けっていけん擁護ようご再論さいろん」が掲載けいさいされている。10にんじゃくぐらいの著者ちょしゃ分担ぶんたんしてきましたといったほんは、たんに10じゃく文章ぶんしょうならんでいますといったことがおおいのだが、このほん――あるいは江原えばら編者へんしゃとなったこの「フェミニズムの主張しゅちょう」というシリーズ――では、めずらしく議論ぎろん議論ぎろんとして成立せいりつしている。
 そして、今回こんかいほんはそれらに加藤かとういたことの反復はんぷくという以上いじょうのものになっている。
 人工じんこう妊娠にんしん中絶ちゅうぜつ是非ぜひめぐ議論ぎろんつづけられてきた。加藤かとうは、一貫いっかんして女性じょせい決定けってい擁護ようごするろん展開てんかいしてきた、あるいは、模索もさくしてきた。そこで加藤かとう指摘してきしたのはまず、「線引せんひき」はつねおこなわれており、不可避ふかひであり、たとえば受精じゅせい以後いごを「ひと」とすることもまたひとつの線引せんひきであることだった。それはそのとおりだ。
 そのことと、このほん加藤かとうが「生命せいめい」という言葉ことば議論ぎろん前提ぜんていとしてかず批判ひはんてき検討けんとう対象たいしょうにしていることとはむろんつながっている。尊重そんちょうすべきものがあるとして、それはプロライフ実質じっしつてきには中絶ちゅうぜつ禁止きんし主張しゅちょうするひとたち)のいう「生命せいめい」の尊重そんちょうではないだろうというのだ。
 では、わりになにをもってくるのか。このすうかいてきたように、生命せいめいうばってよい存在そんざい/よくない存在そんざい境界きょうかい関連かんれんして(関連かんれんさせて)動物どうぶつ人間にんげん境界きょうかいについていろいろをべてきたひとたちがいる。加藤かとうも――日本にっぽんでの優生ゆうせい保護ほごほうめぐ議論ぎろんかえったのち――マイケル・トゥーリー、そしてほん連載れんさいでもげたピーター・シンガーろん紹介しょうかいして、検討けんとうする。そのうえで、そのひとたちの主張しゅちょうれられないとする。
 つまり加藤かとうは、線引せんひきをみとめたうえで、上記じょうきしたような人々ひとびとせんかたみとめないとう。ではわりになにうのか。
◇◇◇
 結論けつろん序章じょしょうかれてもいる。
 「もしこの世界せかい生命せいめいちていて、しかしあなたやわたしのように人称にんしょうびかけられる存在そんざいしゃたちがいなかったら、わたしはいったい〈だれ〉のためにかんがえればよいのだろう。倫理りんりにとって重要じゅうようなのは「生命せいめい」でも「いのち」でもない。そうではなくて、わたしたちがたがいにびかけるとき、あるいはびかけようとするときに、そのびかけがけられるべきてんとしての〈だれか〉であり、そのような〈だれかがきている〉という事実じじつこそが、まもるにあたいする唯一ゆいいつのものなのだ。」(p.28)
 またつぎのような表現ひょうげん
 「それにかってびかけることが無意味むいみではないような対象たいしょうすなわち〈だれか〉」(p.42)
 「たとえ生命せいめいがあっても、それがわたしたちにとってびかけの対象たいしょうたりうる〈だれか〉でないのなら、そもそも倫理りんりいがげることさえないだろう。」(p.44)
 大切たいせつなことをっているようにおもい、直感ちょっかんてきによくわかるがする。しかし、すこしかんがはじめると、そうよくはわからない。〈だれか〉はどんなだれかなのか。たとえばつぎのようにかれる。
 「だれかが眼前がんぜん脳死のうししゃたんなる「もの脳死体のうしたい以上いじょうの「しゃ脳死のうししゃ」とかんじるなら、それによってその脳死のうししゃには倫理りんりてき配慮はいりょけるにあたいする〈だれか〉である可能かのうせいひらかれる。それ以外いがいには、人格じんかくであることや、生命せいめいをもつことさえ、倫理りんりてき配慮はいりょ対象たいしょうにとっての必須ひっす条件じょうけんではない。」(p.64)
 まず「たんなるもの以上いじょう」のものであることはわかった。そして「人格じんかくであることや、生命せいめいをもつこと」は条件じょうけんではないとされる。それもわかった。生命せいめいをもたない存在そんざい生命せいめい尊重そんちょうしようがないともおもわれようが、ここではなまころせ是非ぜひでなく「倫理りんりてき配慮はいりょ」の有無うむ問題もんだいになっているから、きていることは必須ひっすではない。
 〈だれか〉が以上いじょうのもので(かならずしも)ないことはわかったとして、ではそのうえで、〈だれか〉とはどんなだれかか。
 ここまででも幾度いくども「びかける」というかたり使つかわれた。もちろんこのことが大切たいせつなのである。
 すると、びかける相手あいてがすなわち〈だれか〉なのか、相手あいてが〈だれか〉であるからびかけるのか。びかけられないものは〈だれか〉でないのか。びかけられてもこたえないものは〈だれか〉なのか、そうでないのか。最後さいごいから。
 加藤かとう倫理りんり学者がくしゃ大庭おおばけんの『自分じぶんであるとはどんなことか』(勁草書房しょぼう、1997)でのろん紹介しょうかい検討けんとうするところでつぎのようにしるす。
 「いまわたしたちがおもかべているのは、ふつうの意味いみでの「呼応こおう」に参加さんかすることがもはや不可能ふかのうな、いわば人間にんげん同士どうし相互そうご関係かんけいあたりえん位置いちする存在そんざいしゃたち、すなわち、びかけられてもそれにおうじるこえをもたない胎児たいじや、重度じゅうど知的ちてき障害しょうがいった新生児しんせいじたちなのである。」(p.61)
 そして大庭おおばつぎのようにべているとう。「外側そとがわからはわからないようななんらかの経験けいけんしょうじていることは十分じゅうぶんにありうる。したがって、と大庭おおばはつづける。意識いしきなき身体しんたいとのかかわりや、ひいては死者ししゃとのかかわりは無意味むいみだということにはならないし、いわんや意識いしき喪失そうしつした身体しんたい人格じんかくせいなき物体ぶったい、つまり任意にんい処理しょり可能かのう物件ぶっけんにすぎないなどということにはならない。」(p.62)【「したがって」に傍点ぼうてん
 しかし「大庭おおば論理ろんりしたがえば、いかなる意味いみでもそこにおいて「なんの経験けいけんしょうじていない」ような相手あいてであるならば、その相手あいてとのかかわりは「無意味むいみ」だということになる」(p.62)
 「わたしたちは、わたしたちがそれにかってびかけることが意味いみをもつような〈だれか〉をしめすのに、どうしてその相手あいて一人称いちにんしょうの「わたし」としての経験けいけんをもつことを資格しかく要件ようけんとしなければならないのだろうか。」(p.63)
 そして、さきに引用いんようした「だれかが眼前がんぜん脳死のうししゃ…」という文章ぶんしょうにつながっていく。つまり、加藤かとうは、びかけるがこたえがないその相手あいてもまた〈だれか〉であるとう。
◇◇◇
 つまり加藤かとうによれば、ひとが(〈だれか〉として)びかける相手あいてが〈だれか〉だということになる。おもがわびかけ(たり、びかけなかったりす)るがわ選別せんべつあづけられるようだ。
 ただ、加藤かとうはこのたねろん――「倫理りんりてき問題もんだいをもっぱら人々ひとびとのあいだの関係かんけいせいからかんがえる「関係かんけいしゃ主義しゅぎてき立場たちば」」(p.65)――につきまとう危険きけんせい承知しょうちしているから、ふたつのことをう。まずひとつ。
 「関係かんけいせい考慮こうりょすべきだということは、関係かんけいせいだけによってすべてをめるべきだということを意味いみしない。[…]たんなる印象いんしょうだけではなく、についての一般いっぱん常識じょうしき脳死のうし状態じょうたいかんする医学いがくてき知識ちしきもまた考慮こうりょされるべきである。そうしたさまざまな情報じょうほう有無うむ理解りかいによって、あるひと脳死のうししゃたいするかんかたわることは当然とうぜんありうる。」(pp.65-66)
 もうひとつ。「〈だれか〉であるための資格しかく要件ようけんは、具体ぐたいてき他者たしゃからあいされているかかといったたかすぎる基準きじゅんによってはかられるものである必要ひつようはない。」(p.66)
 さてこれでよいか。(つづく)

表紙ひょうし写真しゃしんせたほん

加藤かとう 秀一ひでかず 20070930 『〈〉からはじめる生命せいめいろん日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい,NHKブックス1094,245p. ISBN-10: 4140910941 ISBN-13: 978-4140910948 1019 [amazon] ※ b be

言及げんきゅうしたほん

江原えばら 由美子ゆみこ へん 19960920 生殖せいしょく技術ぎじゅつとジェンダー――フェミニズムの主張しゅちょう3』,勁草書房しょぼう,409+20p. ISBN:4-326-65192-X 3780 [amazon][kinokuniya][BK1] ※ f03 b sm

立岩たていわ しん也 2008/05/25 「『〈〉からはじめる生命せいめいろん』・2」医療いりょう社会しゃかいブックガイド・82),『看護かんご教育きょういく』48-5(2008-5):-(医学書院いがくしょいん),


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