(Translated by https://www.hiragana.jp/)
立岩真也「『社会福祉学の「科学」性』・2」
HOME > Tateiwa >

社会しゃかい福祉ふくしがくの「科学かがくせい』・2

医療いりょう社会しゃかいブックガイド・86)

立岩たていわ しん 2008/09/25 『看護かんご教育きょういく』49-(2008-):
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


  前回ぜんかいから、つぎのようなことがかれる、三島みしま亜紀子あきこほん紹介しょうかいしている。
  「よりよいソーシャルワーク理論りろんもと社会しゃかい福祉ふくし実践じっせんの「科学かがくすすめることによってソーシャルワーカーは専門せんもんになるといったかんがかたは、この学問がくもん草創そうそうからやくはん世紀せいきものあいだ専門せんもんしょくかたるうえで前提ぜんていとされていた。しかしながらこれにたいし、突然とつぜん異議いぎとなえられた。いちきゅうろく年代ねんだいからのはん専門せんもんしょく思想しそうである。専門せんもんとして、あるいは学問がくもんとして社会しゃかいてき承認しょうにんされないまま、ソーシャルワーカーそして社会しゃかい福祉ふくしがく批判ひはんされることとなった。そこでは社会しゃかい福祉ふくしがくの「科学かがくせい」をたかめる客観きゃっかん主義しゅぎてき学問がくもんのありかたが、パターナリズムの温床おんしょうとなると指摘してきされた。マルクス主義まるくすしゅぎしゃたちは資本しほん主義しゅぎ体制たいせい基盤きばん福祉ふくし国家こっか成立せいりつしているてん非難ひなんしたが、そのかれらさえ否定ひていしなかった、そのものが標的ひょうてきとされたのである。これまで骨身ほねみけずってかさねてきた「科学かがくへの努力どりょく無意味むいみとされただけでなく、「科学かがくによってソーシャルワーカーの専門せんもんせいたかまるというかんがかたこそが危険きけんであると指摘してきされた。
  反省はんせいてき学問がくもんは、本来ほんらいおのれにけられていた批判ひはんてき言説げんせつ内面ないめんすることによって正当せいとうせいたも学問がくもん理論りろんである。この奇妙きみょう学問がくもん理論りろんは、批判ひはん真摯しんしめ、自虐じぎゃくてきなまでに内省ないせいしているようにみえる。またそれは自戒じかいてき緊張きんちょうたもちつつ、より「おだやか」にことをすすめるために、ある時期じき以降いこう急速きゅうそく普及ふきゅうしていったと指摘してきすることもできる。」(pp.iv-v)
  基本きほんてき科学かがくみちき、専門せんもんせい確立かくりつ目指めざされたとまとめられる前半ぜんはん部分ぶぶんもおもしろく、もっといてもらったほうがよいのだが、紹介しょうかいとうりゃくし、ここでは「批判ひはん以後いごについて。
  ソーシャルワークがひと規律きりつ規格きかくする装置そうちおこないだと批判ひはんされ、それをおこなう専門せんもん批判ひはんされる。そして、その批判ひはんはもっともだと批判ひはんされたひとたちもおもったようであり――そうおもってしまう理由りゆうがあることは前回ぜんかいべた――その批判ひはんれられる。
  ではソーシャルワークはなくなったかというと、そんなことはない。
  ひとつに、これまでを反省はんせいして、より本人ほんにん主体性しゅたいせいおもんじたものになろうとし、対等たいとう関係かんけいつくろうということになったという。
  そしてそこに、もうひとつがくわわるとされる。ほん後半こうはんろんじられるのは、基本きほんてき対等たいとう関係かんけいがよいとされつつ、危機ききたいする介入かいにゅう必要ひつようとされ、そしてそこではデータが大切たいせつにされるという。
  「反省はんせいてき学問がくもん理論りろん登場とうじょうによって、専門せんもんは〈社会しゃかい周辺しゅうへんにいる弱者じゃくしゃ福祉ふくしサービスの利用りようしゃ〉のまでおりてきた。利用りようしゃ専門せんもん対等たいとう関係かんけいにあり、両者りょうしゃつむすナラティヴも同等どうとう意味いみがあることが確認かくにんされ、利用りようしゃ自己じこ決定けってい尊重そんちょうされるようになった。しかしながらハートマンが危惧きぐするように、そこにリスクがある場合ばあい、「適切てきせつ」に処遇しょぐうするためのちから執行しっこうされる。こうしたパワーの行使こうしの「客観きゃっかんてき信頼しんらいせいたかめるためにも、社会しゃかい福祉ふくし実践じっせんのデータベースは、より精緻せいちされることがのぞまれるのだ。」(三島みしま[2007:203])
◇◇◇
  つまり著者ちょしゃは、専門せんもんがクライエントよりうえつ「医学いがくモデル」が、批判ひはんて、ひとつに、専門せんもん利用りようしゃ関係かんけい対等たいとうな「反省はんせいてき学問がくもん理論りろんモデル」、ひとつに、「データベースによる介入かいにゅうモデル」のふたつが併存へいそんするかたちで、専門せんもん両手りょうてひとつずつをもつような具合ぐあいに、いったんことがおさまったとまとめる。p.191、202にがある。だから、ナラティブ・ベイスド○×(NB○×)と、エビデンス・ベイスド○×(EB○×)とは対立たいりつせず併存へいそんするものだといういうことになる。それらがわさって、現在げんざいっているというのである。
  なるほど、とおもう。ただ、たしかにそんなふうにとらえることができるとおもうが、くわえていくつかみておくことがあるとおもう。
  まずひとつ、われることとおこなわれることのずれ。
  学問がくもんというものは間違まちがっていないことを、実践じっせんてき学問がくもんであればよいことただしいことをかたらねばならないということになる。そして、批判ひはんにもっともなところがあるとなればそれをれねばならないということにはなる。
  しかし、実際じっさいにはなかなかそうはならないことがある。ほんいてあること学校がっこうおそわることと現場げんばでなされていることとちがうということだ。そして批判ひはんは、ただ理論りろんけられたのでなく、むしろ現実げんじつけられたのだとすれば、「現場げんば」でなにこっているか、「ずれ」がどのように処理しょりされているか、それともただ放置ほうちされているのか。そのことをておく必要ひつようはある。するとかれているものをむだけではりないということになるのだから、調しらべてくのに苦労くろうすることにはなる。
  ただそれはこのほんおこなう仕事しごとではない。理論りろん、「まえ」のほう理解りかい整理せいりはどうか。もっとかんがえてみてよいだろうとおもう。批判ひはんれつつ、しかし自分じぶんたちの仕事しごともまた肯定こうていしようとするものになるだろうことは予想よそうできるのだが、その仕組しくみはそこそこに複雑ふくざつかもしれないということだ。
◇◇◇
  「反省はんせい」ののちによいこととされたのは、本人ほんにんうことを「く」「かたらせる」ことだった。
  「エンパワーメントやストレングス視点してん、ナラティヴ理論りろんといった社会しゃかい福祉ふくし領域りょういき反省はんせいてき学問がくもん理論りろんとなえる論者ろんしゃたちは、こぞって理論りろんてき基盤きばんをフーコーにもとめた。フーコーが考察こうさつ対象たいしょうとした社会しゃかい福祉ふくしがくふく学問がくもんにとって、かれ思想しそう本来ほんらい脅威きょういである。しかしながら、いちきゅうきゅう年代ねんだいえいべい社会しゃかい福祉ふくしがく領域りょういきにおいて、反省はんせいてき学問がくもん理論りろんとなえるおおくのものさききそうようにしてフーコーを論拠ろんきょとしていった。」(三島みしま[2007:iv-v])
  こった事実じじつはそのとおりだろう。しかしフーコーがったことはそんなことだったのだろうか。以前いぜん、その著作ちょさくをとりあげたときにもこのことはべたのだが、かれ確認かくにんした大切たいせつなことのひとつは、ひとみずからをかたることによって従属じゅうぞくしてしまうことがあるということだった。もちろん、社会しゃかい福祉ふくしひとたちもそのことはっているのではあろう。そして、抑圧よくあつてんじるようなかたりはむろんよくないなどとうのであろう。しかし、よいかたりとよくないかたりとは、どこでどのようにかれるのか。そのような議論ぎろんはなされてきたのか。なされたならなにわれたか。なされていないならなぜか。そんなことをりたいとおもう。
  そしてこのことにかかわり、「エンパワーメント」にも「ストレングス」にもかかわって、「本人ほんにん尊重そんちょう」という理念りねんをどうすることにするのか。
  批判ひはんされたので、われたとおりのことだけをし、のことはしないという道筋みちすじはある。専門せんもん主義しゅぎ対置たいちされるものは消費しょうひしゃ主義しゅぎというわけだ。しかし、それでは仕事しごとにならないということもある。そして、それではまずいともおもわれる。なにがまずいのか。
  まず、本人ほんにんこうむがいがあげられる。他人たにんからがいあたえられており、そしてそれを十分じゅうぶん本人ほんにんつたえられないといった場合ばあいに、介入かいにゅう正当せいとうされる。これが、現在げんざい構成こうせいするふたつのふただった。
  そして、がいけるための介入かいにゅうは、やはり否定ひていしがたいことであるようにもおもわれる。暴力ぼうりょくるうおやからの隔離かくりといった場合ばあいには、介入かいにゅう正当せいとうされるのではないか。とすると、それはそれとしてみとめるしかないではないかということになり、それではなしわってしまわないか。
  三島みしま自身じしんは、もうすこしはなしさきすすめようとはしている。介入かいにゅうしなかったために被害ひがいしゃることについてソーシャルワーカーが批難ひなんされること、他方たほうでは、おやからはなすことが家族かぞくたいする過度かど介入かいにゅうだとして批判ひはんされること、両方りょうほうがあることをべる。また、三島みしまが、どもや動物どうぶつに、そしてその「愛護あいご」に――まえちょ児童じどう虐待ぎゃくたい動物どうぶつ虐待ぎゃくたい』(あおゆみしゃ、2005ねん)においても――注目ちゅうもくするのも、このことに関係かんけいがある。
  注目ちゅうもくすべきだとおもう。ただ、その記述きじゅつ途中とちゅうまででまっている。被害ひがいけるための(本人ほんにんにとってよいことをもたらすための)介入かいにゅう――パターナリズムとは定義ていぎてきにはそのようなものであって、そう簡単かんたん否定ひていできるようなものではない――についてどうかんがえるのかである。
  そしてこのことと、証拠しょうこあつめること、それをもとに仕事しごとおこなう(べき)こと(EB○×)とは関係かんけいがあるが、ひとまずは独立どくりつのことのはずであり、両者りょうしゃをまずはけて、各々おのおのについてかんがえる必要ひつようがあるはずだ。
  そんなこんなでりたいこと、かんがえてほしいこと、かんがえたいことは多々たたのこる。しかし、これからはしかじかの時代じだいだ、とか、パラダイム・チェンジがどうしたといったはなしがただ反復はんぷくされるなかで、このほんされた意義いぎはある。

表紙ひょうし写真しゃしんせたほん

三島みしま 亜紀子あきこ 20071130 『社会しゃかい福祉ふくしがくの「科学かがくせい――ソーシャルワーカーは専門せんもんしょくか?』,勁草書房しょぼう,211+36p. ISBN-10: 4326602066 ISBN-13: 9784326602063 3150 [amazon][kinokuniya] ※

立岩たていわ しん也 2008/08/25 「『社会しゃかい福祉ふくしがくの「科学かがくせい』」医療いりょう社会しゃかいブックガイド・85),『看護かんご教育きょういく』48-(2008-8):-(医学書院いがくしょいん


UP:20080729 REV:20080804(誤字ごじ訂正ていせい
医療いりょう社会しゃかいブックガイド  ◇医学書院いがくしょいんほんより  ◇書評しょひょうほん紹介しょうかい by 立岩たていわ立岩たていわ しん  ◇Shin'ya Tateiwa
TOP HOME (http://www.arsvi.com)