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立岩真也「『唯の生』」
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ただせい

医療いりょう社会しゃかいブックガイド・94)

立岩たていわ しん 2009/05/25 『看護かんご教育きょういく』50-5(2009-5):
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 連載れんさい最終さいしゅうねん手前味噌てまえみそてっするということで、今回こんかいからはさらにその度合どあいをし、失礼しつれいながら、わたしたんちょ紹介しょうかいさせていただく。
 2008ねん9月くがつ筑摩書房ちくましょぼうから刊行かんこうされた。この3月さんがつ刊行かんこうされた『ただせい』はそのつづきということになる。いちさつほんはなしを、さつほんきるはなしをしているわけではない。めぐる「決定けってい」についていた文章ぶんしょうならんでいる。そして表紙ひょうしならべたとき見栄みばえをかんがえた語呂合ごろあわせのようなところがある。
 はつほん連載れんさい一部いちぶ(2001ねんの「決定けっていについて」1〜4、2004ねんから2005ねんの「せいほん」1〜6、ひとし)をふくめ、ほん紹介しょうかいれようとかんがえたのだが、到底とうていはいりきらないことがわかったので、これは3さつということにした。『なま死本しぼん』というだい――2さつにはそう予告よこくしてある――にしてならべると、うえからんで「なま死本しぼん」、みぎからんでいくと「死生しせいほん」となる。しかしなんだが下品げひんかんじもして、やめようとおもう。3さつめは、共著きょうちょというかたち採用さいようふくめ、2さつとはすこべつ体裁ていさいのものにしようかともかんがえている〔→生死せいしかたおこない・1』〕。
 ただ漢字かんじぜた『ただせい』というだいおもいついたときには「いいかも」とおもった。「ただのせい」とむ。宇野うの邦一くにかずいち『<たんなるなま>の哲学てつがく(2005、平凡社へいぼんしゃ)というほんがあり、それがとき、「さき使つかわれたかな」というかんがあったのだが、まったくおなじにはならずにすんだ。  「ただの」というかたりには「たかだか」といった意味いみがある。その「たかだか」が、あるいはその「たかだか」こそが大切たいせつであろうというのである。そしてまた「ただ」は「たったひとつの」「それだけ」という意味いみもある。「唯物ゆいぶつろん」「唯心ゆいしんろん」といったかたり連想れんそうさせるのでもある。「ただせいろん」などというものをそうというのではまったくない。ただ、かつてあったそれらの言葉ことば想起そうきされるような漢字かんじ使つかうのはよいとおもった。かたちとしてもよいようにおもった。それで使つかうことにした。
 そこで、いつもそうなのだが、対応たいおうするよい英語えいごかばない。いまその関係かんけい仕事しごとをしてくれているひとけてもらったのは「Sole Life」というのだが、たぶん、すこしちがかんじがする。そもそも適切てきせつ訳語やくごがないのかもしれない。
 冒頭ぼうとうしるしたようにこのほんは、2さつわせて、所謂いわゆる安楽あんらく尊厳そんげんのことをろんじたほんだから、「せい」「ただせい」についてろんじたものではない。というか、せいはなにか積極せっきょくてき規定きていできるようなものではなく、またできなくてよいものだから、たいしてくこともない。むしろせいなかにあるなにかがいものだからなま肯定こうていされるというかんがかたひとくるしめもするし、なずにすむひとなせもするとかんがえる。だから、せい積極せっきょくてきかたるというより、むしろせいなかのなにかをしてそれに肯定こうていせい付与ふよする(同時どうじにそのなかにをゆうさないなま否定ひていてきである)ことについて、そうでなければならないのかとかんがえていくというのが基本きほんてき方向ほうこうになる。
 ではわたしは、いわゆる物理ぶつりてき生物せいぶつがくてき生存せいぞん自体じたい肯定こうていされるべきであるという立場たちば、それとおなじなのか微妙びみょうなところもあるが、「生命せいめい絶対ぜったい尊重そんちょうろんしゃ」だということになるか。そうでもない。ながほんのわりにはみじかくではあるが、なん箇所かしょかでかかわることをいてはいる。
 ひとつは『』のだいしょう自然しぜん、のわりの自然しぜん受領じゅりょうとしてのせい」のだいせつ肯定こうていするものについて」。そして『ただせい』では、だいしょう人命じんめい特別とくべつわず/う」のだいせつべつ境界きょうかいβべーた世界せかい内部ないぶ」。
 「ただせい」というぐらいで、たいしたものがあるとか、またるとか、おもえない。なにをそとけてはっするというのでないとしても、なにかを受領じゅりょうしており、そこに世界せかいがあるなら、それでよいではないかといったことがいてある。
 ただこれもまたひとつの「線引せんひき」であるのはたしかである。なまにいくらかの「内容ないよう」を想定そうていしている。この意味いみでは、わたしがこれらのほん相手あいてにし批判ひはんしているひとたちの主張しゅちょうわたし立場たちば差異さい相対そうたいてきなものでもある。しかしその程度ていど大切たいせつだとかんがえていて、これらのほんいている。
 そして、ここまでだけならみじかはなしなのだが、しかし、「それはひとつの見方みかた価値かち趣味しゅみにしかすぎないのであって、それをしつけるなどは横暴おうぼうである。一人ひとりひとりにゆだねるべきである」といったことをひとがいるだろう。するとこのい、詰問きつもんこたえねばならない。それは『』のほうだいしょうわたし」でかんがえてみている。こうしてはなしわらず、つづき、ながくなってしまう。
◇◇◇
 つぎに、今度こんどほんでは、いまあげたいかけにどうこたえるのかといったことにも関係かんけいし、いくにんかのひとろん検討けんとうしているあきらがある。
 これまでわたしは、だれかの議論ぎろんがどうであるといったことをあまりいてこなかった。それに意味いみがないなどとおもってきたわけではない。ただ費用ひようたい効果こうかかんがえた場合ばあい、ただかんがえていていくのと、んでからかんがえていていくのと、どちらのほうがよいのかということがある。どちらがすっきりしたはなしができるかということもあった。
 まず、このにあるろんのかなりの部分ぶぶんにはなにかしらのかたというものがあって、おおくはそこにはまっているので、だれったのかといったことはさほど大切たいせつなことでなく、「一般いっぱんにこんなふうにものごとはろんじられているが、さてそれはいかがなものか」という具合ぐあいはなしすすめていくことができる。それで具体ぐたいてきだれかをあげてろんずることはあまり必要ひつようでなく、あげるとすれば、典型てんけいとして例示れいじすれはよいといった場合ばあいがある。
 つぎに、そう一筋縄ひとすじなわでいかず、相手あいてがわはなしがまずはなかなかに複雑ふくざつでそして深淵しんえんそうであるのだが、よくよくかんがえてみた結果けっかかんがえるだけ無駄むだだったということもないではない。ならば最初さいしょから放置ほうちしておけばよかったかもしれない。ただ、時間じかん使つかってかんがえてみないとわからないというところがやっかいだ。どうするか。やっかいそうだから、ひとにやってもらうというがある。哲学てつがくしゃなら、そのひと相手あいてをする仕事しごと哲学てつがくしゃ仕事しごとだろうということにもなる。
 こうしてわたしはおおむねさぼってきたのだが、そうでありながら同時どうじに、だれかのろん検討けんとう批判ひはんするということがあまりなされてもいない、もっとなされてよいともかんじてきた。それなりに苦労くろうしてかれ、まとまった議論ぎろんがなされているほんをそのままにしたりみじかくふれたりするだけというのはもったいない。しかしなが書評しょひょうせる媒体ばいたいすくないこともあり、十分じゅうぶん論評ろんぴょうがなされていないほんおおい。
 いたときにそんなことをかんがえたからではないが、わたしにもひと著作ちょさく検討けんとうした文章ぶんしょうがある。そしてかえると、それは今回こんかい主題しゅだい関係かんけいしている。それでさいろくした。再度さいどかんがえてなおしたら、たいへんそうにおもえたということもあり、また基本きほんてきにはそう間違まちがったこともっていないだろうとおもい、そのままさいろくした。文献ぶんけん情報じょうほうなどあとくわえた部分ぶぶんについてはそれがわかるようにした。
 そういったしょうとしてまずだいしょう決定けっていについて」がある。小松こまつ美彦よしひころん検討けんとうしたあきらだ。
 「自己じこ決定けってい」ばかりわれることに疑問ぎもんかんじるとしてそれをどうかんがえるか。「自己じこ」「個人こじん」のわりに「共同きょうどうせい」をもってきたらよいのではないか。それはよくわかるようにおもえるとともに、それでよいのだろうかともおもえる。そんな議論ぎろん展開てんかいされているものとしての小松こまつの『共鳴きょうめいする』(1996、勁草書房しょぼう)がある。それを検討けんとうしてみるのもよいのではないか。それでやってみた。それが所有しょゆうのエチカ』大庭おおばけん鷲田わしだきよしいちへん、2000ねん、ナカニシヤ出版しゅっぱん)に収録しゅうろくされ、『ただせい』にさいろくされた。またこの連載れんさい小松こまつ著作ちょさく紹介しょうかいしたかいさいろくした。
 そしてそのほんだいしょう人命じんめい特別とくべつわず/う」のだいせつ関係かんけいから」。そこでは加藤かとう秀一ひでかずの『〈〉からはじめる生命せいめいろん』(2007、日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい)を検討けんとうしている。この部分ぶぶんは、2008ねんほん連載れんさいで3かいわたっていた部分ぶぶんにいくらかしてできた。加藤かとうほん小松こまつ著作ちょさくのちかれているということもある。そしてそんなことよりなにより、加藤かとう一貫いっかんしてであることをおもてきたひとだ。だから加藤かとうはより慎重しんちょう周到しゅうとう議論ぎろんをしているのだが、そのうえでなお、そのほんでは「関係かんけい」からの議論ぎろん展開てんかいしている。だからそれは検討けんとう検証けんしょうするにあたいする。それで検討けんとうした。
 だれかの存在そんざい、そして生死せいし周囲しゅうい人々ひとびとおおきな意味合いみあいをもつことは事実じじつとしておおいにみとめよう。そしてそれを大切たいせつにすることも必要ひつようだ。しかしたとえば、ひと関係かんけいがないひと、よくないひともいるだろう。その個々ここ関係かんけいによって「める」のはよくないだろう。こんなことをいた。それは『』のだいしょうせつおもいをえてあるとよいというおもい」にいたことにもつながっている。(つづく)

表紙ひょうし写真しゃしんせたほん

立岩たていわ しん也 2009/03/25 ただせい筑摩書房ちくましょぼう,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] ※ et.

言及げんきゅうしたほん

立岩たていわ しん也 2008/09/05 筑摩書房ちくましょぼう,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01. et.



立岩たていわ しん也 2009/06/25 「『』」医療いりょう社会しゃかいブックガイド・95),『看護かんご教育きょういく』49-5(2009-5):-(医学書院いがくしょいん),
立岩たていわ しん也 2009/07/25 「『』『ただせいぞく医療いりょう社会しゃかいブックガイド・96),『看護かんご教育きょういく』49-6(2009-6):-(医学書院いがくしょいん),

UP:20090330 REV:0402(校正こうせい), 0423, 0524
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