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立岩真也「書評:藤村正之『〈生〉の社会学』」
◆藤村 正之 20080820 『〈生〉の社会学』,東京大学出版会,332p. ISBN-10: 4130501682 ISBN-13: 978-4130501682 \2940 [amazon]/[kinokuniya] ※ s d01
*以下は草稿
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ゲートボールのことを書いた章があり(多くのことを教えられた)、『タッチ』を論じた章があり、全部で9章からなっている。その本書の全体を評するのは私の力ではむりだ。読んだことのない本や見たことのない映画がたくさん紹介されていて、いちいちおもしろそうだと思う私は、「私の解釈はすこし違って」などど、言えない。ここでは、書き下ろしの第9章(最後の章)「〈生〉の社会学のために」だけを取り上げる。
藤村は、生(以下〈 〉を外して使う)の社会学を打ち立てようと主張しているというわけでなく、むしろその難しさを示し、その上で論述を進めていく。生に対する関心が、社会に、そして社会学に現れてきていると述べ、それがどんなものであるのか、そこにどんな事情があるのかを描く。多くのことがあげられるが、基本には生きづらさがあり、生についての不安があるという。この章の各節は藤村によって以下のように要約される。
「@〈生〉を〈生命〉〈生活〉〈生涯〉の三要素の交錯するものとしてとらえること、A〈生〉を普遍的にとらえようとすると、「より以上の生」と「生より以上」という二重の表現形態に含意される超越性・躍動性をおびたものであるであること、B〈死〉が遠ざかって感じられる現代は、〈死〉を鏡として〈生〉のリアルさを感ずることが困難な社会であり、〈生〉のリアルさを〈個性〉に求めようとするあまり、〈普通〉であることが生きづらさにつながる社会であること、Cそのような現代社会は、近代の帰結であり、脱近代への萌芽として、〈生〉が管理の対象となる時代でありつつ、〈生〉を問いかけの基盤とする問題提起の重要性が交錯する地点となっている」(p.304)
Cでは、まずフーコーとギデンズがとりあげられる。前者では、「生−政治」と呼ばれるものが生き延びさせる権力として描かれ、後者では、「自己実現の政治学」としての「生の政治学」が――前者が社会に対して批判的であるのに対して、前向きの捉え方として――紹介される。その上で、バウマンなどが引かれ、「社会的排除」(生き延びることが社会の全成員に保障されるわけではなくなる)、そして「自己責任」(自己実現が抑圧的に作用するようになる)という方向でのさらなる変化が記される。
ここで述べられていることとBに記される二点との関係は、この著書で明示されているわけではない――このことは誤解されるといけないからことわっておく――が、Bとしての現代社会の様相は、Cを引き継いだものではあるとはされる。すると、第一に、「生−政治」によって、死が遠ざけられてしまう、それが生を希薄なものとし、そしてそれが生を求めされる、という線は想定されうる。また第二に、自己実現・自己責任の社会と、「個性」を求められてしまうことの間にも連続性はあるのだろう。
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このような藤村の理解は、私たちにとって、まったく違和感のあるものではない。ただ、私たちに説得的であるということ自体が考えられるべきであるようにも思われる。
まず第一点、生−政治、死からの距離…について。ここにはまず、死によって照らされ、現れる生という基本的な理解がある。その上で、生き延びさせる政治・権力によって、死が後退し、そのことによって生が失われ、失われるがゆえに求められるという過程が語られる。この著作ではさほどこうした図式は明示的ではないのだが、この世であまた語られるこの物語に反する筋にはなっていない。そしてまた私自身も、そのように捉えられる部分があるところを否定しない。ただいくらかすこし慎重であった方がよいようにも思う。例えば、関良徳の著書を参照しつつ、次のように言われる。
「生−権力の下では、戦争は国民全体の生存の名の下になされるようになり、危険排除の目的での敵国民・民族の殲滅や大量虐殺は国民の生存や安全を保障する権力の裏返しの現象ということになる。また、住民を生き延びさせようとする権力にとって死刑は自己矛盾となることから、君主の刑罰権としての死刑は廃止の方向が強まっていく。違法・非合法な者に対して、死刑を最後の手段として刑罰を科すのではなく、社会的基準の下に規律化・矯正することがなされていく[…]。わずかに、自殺が生−権力の手を逃れようとする個人的な営為となっていく。」(藤村[2008:295])
フーコーという人がそんなことを言っていること、すくなくとも言っているように受け取れることを認めよう。ただ、どうして殺すことをやめることになったのか。標準的な理解では、生産するする存在の集合としての人口を顧慮することになったからだとされる。その説明を受け入れるとしよう。とした場合、人は殺さないことになるだろうか。そうとは限らないはずだ。生産に向けて生かすことと、生産の方に仕向けても無駄な人を殺すこととは、同時になされうる。そして、実際、殺すこと、すくなくとも死の側に行かせることもまた現実に存在してきた。これが第一点。ここから、またこの論点と別に、第二点、この社会における死の位置を死の「隠蔽」とすることにどの程度の妥当性があることになるか。また(自)死を社会に対する抵抗と捉えられるか。さらに第三に、最初にあった、死に照らされる生という了解はどうか。むろん、死や死の予感がもたらす生の有限性の自覚がもたらす生の輝きの自覚といったことは実際にいくらもあるのだが、そのようなのものとしての生(の一面)を(他に多々ある、多々ありうる中から)語ることがどんなことであるのかという問いもまた誘発される。そして第四に、生−権力の形態は(わりあい最近になってから)変化したのか。第一点を考えなおすなら、この社会は基本的に同じことをやってきたし、やっているとも言えるのではないか。さらに第五に、この部分の見立てが変わってくるなら、(生のために)なすべきこともまた変わってくるのではないか。
社会学的な理解も含め、社会に広く流通している言説がある。それを吟味していくという仕事の必要がときにはあるのではないかと思う。私は「○×の政治学」などといって、それらしいことを書き、それをもって社会に対して批判的であるように振る舞うといった書き物にさほど肯定的ではない。「政治的」であることはべつにわるいことではないから。ただ、それでも、いったんはそのような作業をやっておくべきなのだろうと思う。どんな言葉がどんな人によってどんな場面でどのように使われ、事態のどこを捉え、どこを捨てて、それはどんな効果を有したのか、見ておいてよいだろうと思う。『良い死』(2008、筑摩書房)、『唯の生』(2009、筑摩書房)でいくらかそんな仕事をしてみている。以上の諸点についての私の理解はそこに記してある。
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第二点、「個性」が求められていることが「生きがたさ」につながっているという指摘はどうか。これも当たっていると思う。ただこれも、さきと同様に、もっと素朴な、べたなところからまず見ていってよいのではないか。
藤村も現代は近代の延長線にあるとする。属性原理から業績原理へというのが社会学の伝統的な近代化の把握である。私は、この把握はおおむね間違っていないだろうと思う。ただこの線にそのまま乗ったとして、うまく生きられることの方がむしろ少ない。努力しようがしまいが、達成できないことも多々あるからである。失敗する人もしるし、最初からできない人もいる。そのことは一方で放置されもするのだが、それではあまりだということにもなりうる。とすれば、業績原理・能力主義を基本的なものとして残しつながら、しかしときにその直接性をいくらか弱め、なんであれ、とにかくなにしからの「個性」を発揮することをよいことにする。そんなことが起こってきたのではないか。
そして社会学的な言説の多くも――それを対象化するというよりは――その内部に位置しているのではないか。ギデンズの言うこともそういうことではないか。また同じことを、例えば、アーサー・フランク――私の勤め先で昨年集中講義をしてもらい、シンポジウムが催された(その記録は冊子になっている)ので、その著作をすこし読むことがあった――の書き物からも感じる。なおらない病にかかるなら、達成の物語、克服の物語を語ることは難しい。けれども、その私は探求の物語なら語れるかもしれない。そしてそれはたんにそんな語りの事実があるということでなく、推奨されることとして、人間としてなすべきこととして語られる。
すると、第一に、その正当性はどこにあるのか。第二に、それは従来の能力を巡る価値観とまったく別のものか。標準からからの偏差がありさえすれば認められるのか。私は、第一問に対して、ないと答える。第二問に対して、まったく別のものというわけではないと答える。
藤村は個性を称揚する側に付いているわけではなく、むしろその弊害を述べている。この点で評者と違わない。しかしこの認識は、生を語ることを巡る困難についての自覚も生み出すことになるはずだ。誤解ないように言えば、語るのはいっこうにかまわない。しかしその語りをどう評価するのか、語りの中のなにを取り出してくるのかが問題になる。すると、生についてかたしかにしんみりする部分を取り出してくること、「より以上の生」や「生より以上」や「ユーモア」等々を取り出してくること、また、不安や希望を私の生・人生のこととして捉えることについて、いくらか慎重になってしまうかもしれない。茫漠とした不安や悲しさや寄る辺なさや、そうしたものはいつもいくらでもあるだろう。しかしそれは生に対する不安であるのか。それはわからない、かもしれない。(「生−権力」といった把握がとりたてて新規なものであると思ったことのない私は、フーコーでおもしろいのは、『性の歴史』の第1巻に書かれたことだと思う。語らせられること、語ってしまうことは罠だと言われた。「性は隠されてきた、だからこれから語ろう」というお話と、「死は隠されてきた、だからこれから語ろう」というお話しは同じか、違うか。上掲の2冊の拙著でもいくらかこの点に触れているが、ゴーラー、アリエス、エリアス、デュルといった人たちの著作を紹介しつつ、このことについて記すのは3冊目の本でということになる。)
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藤村は「社会学の領域において、単独の言葉としての〈生〉にほぼ最初に着目した研究として、障害者の自立生活をテーマとした『生の技法』(安積・岡原・尾中・立岩[1990])があげられる」(p.308)と、私たちの共著書を紹介してくれている。その本を書いた時、その題をつけた時に思っていたのは、二つのことだったと思う。
一つに、その生をなにか限られたものとはしたくなかった。だから「自立生活」だとか「当事者主権」といった題はつけなかった。それらが大切なものではないと思ったからではない。ただ生はもっと広いものだと思ったし、そしてそれは、自己のものであったりする必要もないし、語られたりするものである必要もないものとしてあると考えた。
ただもう一つ、そのなにものでもない生を可能にすることは時に難しく、それを可能にするための技を、とくにこの世においては、仕方なく考えて、作らねばならないことがある。それは不幸なことでもあるが、仕方がない。まず、それを妨げるものを調べる。生を攻囲するものを描くのである。生や生死を語る語り方そのものが生を取り囲んでしまうこともある。とすれば、生(死)の語り方について調べてみることもしなければならない。前半で述べたのはそのことである。ある程度の慎重さをもって、事態を記述し、言説を縁取ることが課題になる。
そして、どうしたらよいか、当人たちも考えたり試みたりしている。だからそれを調べて書くことになる。また当人たちの言葉や行ないを受けて、私たちもまた考えることになる。つまり、生を語るのでなく、生のための「技法」について書くことになる。その後も私は、せいぜいそんなことが私のできることだと思ってものを書いてきたと思う。
もちろん誰でも、生について語ればよいし書けばよい。しかし多くの人たちが、毎日、十全に語っている。また語らないでいる。それ以外のこと、それ以上のことをできるというあてが私にはないにすぎない。書ける人は書けばよいと思う。しかし慎重でありたいこともときにはある。このことを述べた。