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立岩真也「書評:藤村正之『〈生〉の社会学』」
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書評しょひょう藤村ふじむら正之まさゆき『〈せい〉の社会しゃかいがく

立岩たていわ しん 2009
福祉ふくし社会しゃかいがく研究けんきゅう』(福祉ふくし社会しゃかい学会がっかい


藤村ふじむら 正之まさゆき 20080820 『〈せい〉の社会しゃかいがく東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい,332p. ISBN-10: 4130501682 ISBN-13: 978-4130501682 \2940 [amazon][kinokuniya] ※ s d01

 *以下いか草稿そうこう


  ゲートボールのことをいたあきらがあり(おおくのことをおしえられた)、『タッチ』をろんじたあきらがあり、全部ぜんぶで9しょうからなっている。その本書ほんしょ全体ぜんたいひょうするのはわたしちからではむりだ。んだことのないほんたことのない映画えいががたくさん紹介しょうかいされていて、いちいちおもしろそうだとおもわたしは、「わたし解釈かいしゃくはすこしちがって」などど、えない。ここでは、ろしのだいしょう最後さいごあきら)「〈せい〉の社会しゃかいがくのために」だけをげる。
  藤村ふじむらは、なま以下いか〈 〉をはずして使つかう)の社会しゃかいがくてようと主張しゅちょうしているというわけでなく、むしろそのむずかしさをしめし、そのうえ論述ろんじゅつすすめていく。せいたいする関心かんしんが、社会しゃかいに、そして社会しゃかいがくあらわれてきているとべ、それがどんなものであるのか、そこにどんな事情じじょうがあるのかをえがく。おおくのことがあげられるが、基本きほんにはきづらさがあり、なまについての不安ふあんがあるという。このしょうかくふし藤村ふじむらによって以下いかのように要約ようやくされる。
  「@〈せい〉を〈生命せいめい〉〈生活せいかつ〉〈生涯しょうがい〉のさん要素ようそ交錯こうさくするものとしてとらえること、A〈せい〉を普遍ふへんてきにとらえようとすると、「より以上いじょうせい」と「なまより以上いじょう」というじゅう表現ひょうげん形態けいたい含意がんいされる超越ちょうえつせい躍動やくどうせいをおびたものであるであること、B〈〉がとおざかってかんじられる現代げんだいは、〈〉をかがみとして〈せい〉のリアルさをかんずることが困難こんなん社会しゃかいであり、〈せい〉のリアルさを〈個性こせい〉にもとめようとするあまり、〈普通ふつう〉であることがきづらさにつながる社会しゃかいであること、Cそのような現代げんだい社会しゃかいは、近代きんだい帰結きけつであり、だつ近代きんだいへの萌芽ほうがとして、〈せい〉が管理かんり対象たいしょうとなる時代じだいでありつつ、〈せい〉をいかけの基盤きばんとする問題もんだい提起ていき重要じゅうようせい交錯こうさくする地点ちてんとなっている」(p.304)
  Cでは、まずフーコーギデンズがとりあげられる。前者ぜんしゃでは、「なま政治せいじ」とばれるものがびさせる権力けんりょくとしてえがかれ、後者こうしゃでは、「自己じこ実現じつげん政治せいじがく」としての「なま政治せいじがく」が――前者ぜんしゃ社会しゃかいたいして批判ひはんてきであるのにたいして、前向まえむきのとらかたとして――紹介しょうかいされる。そのうえで、バウマンなどがかれ、「社会しゃかいてき排除はいじょ」(びることが社会しゃかいぜん成員せいいん保障ほしょうされるわけではなくなる)、そして「自己じこ責任せきにん」(自己じこ実現じつげん抑圧よくあつてき作用さようするようになる)という方向ほうこうでのさらなる変化へんかしるされる。
  ここでべられていることとBにしるされるてんとの関係かんけいは、この著書ちょしょ明示めいじされているわけではない――このことは誤解ごかいされるといけないからことわっておく――が、Bとしての現代げんだい社会しゃかい様相ようそうは、Cをいだものではあるとはされる。すると、だいいちに、「なま政治せいじ」によって、とおざけられてしまう、それがせい希薄きはくなものとし、そしてそれがせいもとめされる、というせん想定そうていされうる。まただいに、自己じこ実現じつげん自己じこ責任せきにん社会しゃかいと、「個性こせい」をもとめられてしまうことのあいだにも連続れんぞくせいはあるのだろう。


  このような藤村ふじむら理解りかいは、わたしたちにとって、まったく違和感いわかんのあるものではない。ただ、わたしたちに説得せっとくてきであるということ自体じたいかんがえられるべきであるようにもおもわれる。
  まずだいいちてんなま政治せいじからの距離きょり…について。ここにはまず、によってらされ、あらわれるなまという基本きほんてき理解りかいがある。そのうえで、びさせる政治せいじ権力けんりょくによって、後退こうたいし、そのことによってなまうしなわれ、うしなわれるがゆえにもとめられるという過程かていかたられる。この著作ちょさくではさほどこうした図式ずしき明示めいじてきではないのだが、このであまたかたられるこの物語ものがたりはんするすじにはなっていない。そしてまたわたし自身じしんも、そのようにとらえられる部分ぶぶんがあるところを否定ひていしない。ただいくらかすこし慎重しんちょうであったほうがよいようにもおもう。たとえば、せき良徳よしとく著書ちょしょ参照さんしょうしつつ、つぎのようにわれる。
  「なま権力けんりょくしたでは、戦争せんそう国民こくみん全体ぜんたい生存せいぞんしたになされるようになり、危険きけん排除はいじょ目的もくてきでのてき国民こくみん民族みんぞく殲滅せんめつ大量たいりょう虐殺ぎゃくさつ国民こくみん生存せいぞん安全あんぜん保障ほしょうする権力けんりょく裏返うらがえしの現象げんしょうということになる。また、住民じゅうみんびさせようとする権力けんりょくにとって死刑しけい自己じこ矛盾むじゅんとなることから、君主くんしゅ刑罰けいばつけんとしての死刑しけい廃止はいし方向ほうこうつよまっていく。違法いほう非合法ひごうほうものたいして、死刑しけい最後さいご手段しゅだんとして刑罰けいばつすのではなく、社会しゃかいてき基準きじゅんした規律きりつ矯正きょうせいすることがなされていく[…]。わずかに、自殺じさつなま権力けんりょくのがれようとする個人こじんてき営為えいいとなっていく。」(藤村ふじむら[2008:295])
  フーコーというひとがそんなことをっていること、すくなくともっているようにれることをみとめよう。ただ、どうしてころすことをやめることになったのか。標準ひょうじゅんてき理解りかいでは、生産せいさんするする存在そんざい集合しゅうごうとしての人口じんこう顧慮こりょすることになったからだとされる。その説明せつめいれるとしよう。とした場合ばあいひところさないことになるだろうか。そうとはかぎらないはずだ。生産せいさんけてかすことと、生産せいさんほう仕向しむけても無駄むだひところすこととは、同時どうじになされうる。そして、実際じっさいころすこと、すくなくともがわかせることもまた現実げんじつ存在そんざいしてきた。これがだいいちてん。ここから、またこの論点ろんてんべつに、だいてん、この社会しゃかいにおける位置いちの「隠蔽いんぺい」とすることにどの程度ていど妥当だとうせいがあることになるか。また(社会しゃかいたいする抵抗ていこうとらえられるか。さらにだいさんに、最初さいしょにあった、らされるなまという了解りょうかいはどうか。むろん、かんがもたらすせい有限ゆうげんせい自覚じかくがもたらすせいかがやきの自覚じかくといったことは実際じっさいにいくらもあるのだが、そのようなのものとしてのせい(のいちめん)を(多々たたある、多々たたありうるなかから)かたることがどんなことであるのかといういもまた誘発ゆうはつされる。そしてだいよんに、なま権力けんりょく形態けいたいは(わりあい最近さいきんになってから)変化へんかしたのか。だいいちてんかんがえなおすなら、この社会しゃかい基本きほんてきおなじことをやってきたし、やっているともえるのではないか。さらにだいに、この部分ぶぶん見立みたてがわってくるなら、(なまのために)なすべきこともまたわってくるのではないか。
  社会しゃかいがくてき理解りかいふくめ、社会しゃかいひろ流通りゅうつうしている言説げんせつがある。それを吟味ぎんみしていくという仕事しごと必要ひつようがときにはあるのではないかとおもう。わたしは「○×の政治せいじがく」などといって、それらしいことをき、それをもって社会しゃかいたいして批判ひはんてきであるようにうといったものにさほど肯定こうていてきではない。「政治せいじてき」であることはべつにわるいことではないから。ただ、それでも、いったんはそのような作業さぎょうをやっておくべきなのだろうとおもう。どんな言葉ことばがどんなひとによってどんな場面ばめんでどのように使つかわれ、事態じたいのどこをとらえ、どこをてて、それはどんな効果こうかゆうしたのか、ておいてよいだろうとおもう。『』(2008、筑摩書房ちくましょぼう)、『ただせい』(2009、筑摩書房ちくましょぼう)でいくらかそんな仕事しごとをしてみている。以上いじょう諸点しょてんについてのわたし理解りかいはそこにしるしてある。


  だいてん、「個性こせい」がもとめられていることが「きがたさ」につながっているという指摘してきはどうか。これもたっているとおもう。ただこれも、さきと同様どうように、もっと素朴そぼくな、べたなところからまずていってよいのではないか。
  藤村ふじむら現代げんだい近代きんだい延長線えんちょうせんにあるとする。属性ぞくせい原理げんりから業績ぎょうせき原理げんりへというのが社会しゃかいがく伝統でんとうてき近代きんだい把握はあくである。わたしは、この把握はあくはおおむね間違まちがっていないだろうとおもう。ただこのせんにそのままったとして、うまくきられることのほうがむしろすくない。努力どりょくしようがしまいが、達成たっせいできないことも多々たたあるからである。失敗しっぱいするひともしるし、最初さいしょからできないひともいる。そのことは一方いっぽう放置ほうちされもするのだが、それではあまりだということにもなりうる。とすれば、業績ぎょうせき原理げんり能力のうりょく主義しゅぎ基本きほんてきなものとしてのこしつながら、しかしときにその直接ちょくせつせいをいくらかよわめ、なんであれ、とにかくなにしからの「個性こせい」を発揮はっきすることをよいことにする。そんなことがこってきたのではないか。
  そして社会しゃかいがくてき言説げんせつおおくも――それを対象たいしょうするというよりは――その内部ないぶ位置いちしているのではないか。ギデンズのうこともそういうことではないか。またおなじことを、たとえば、アーサー・フランク――わたしつとさき昨年さくねん集中しゅうちゅう講義こうぎをしてもらい、シンポジウムがもよおされた(その記録きろく冊子さっしになっている)ので、その著作ちょさくをすこしむことがあった――のものからもかんじる。なおらないやまいにかかるなら、達成たっせい物語ものがたり克服こくふく物語ものがたりかたることはむずかしい。けれども、そのわたし探求たんきゅう物語ものがたりならかたれるかもしれない。そしてそれはたんにそんなかたりの事実じじつがあるということでなく、推奨すいしょうされることとして、人間にんげんとしてなすべきこととしてかたられる。
  すると、だいいちに、その正当せいとうせいはどこにあるのか。だいに、それは従来じゅうらい能力のうりょくめぐ価値かちかんとまったくべつのものか。標準ひょうじゅんからからの偏差へんさがありさえすればみとめられるのか。わたしは、だいいちもんたいして、ないとこたえる。だいもんたいして、まったくべつのものというわけではないとこたえる。
  藤村ふじむら個性こせい称揚しょうようするがわいているわけではなく、むしろその弊害へいがいべている。このてん評者ひょうしゃちがわない。しかしこの認識にんしきは、せいかたることをめぐ困難こんなんについての自覚じかくすことになるはずだ。誤解ごかいないようにえば、かたるのはいっこうにかまわない。しかしそのかたりをどう評価ひょうかするのか、かたりのなかのなにをしてくるのかが問題もんだいになる。すると、なまについてかたしかにしんみりする部分ぶぶんしてくること、「より以上いじょうせい」や「なまより以上いじょう」や「ユーモア」等々とうとうしてくること、また、不安ふあん希望きぼうわたしなま人生じんせいのこととしてとらえることについて、いくらか慎重しんちょうになってしまうかもしれない。茫漠ぼうばくとした不安ふあんかなしさやなさや、そうしたものはいつもいくらでもあるだろう。しかしそれはなまたいする不安ふあんであるのか。それはわからない、かもしれない。(「なま権力けんりょく」といった把握はあくがとりたてて新規しんきなものであるとおもったことのないわたしは、フーコーでおもしろいのは、『せい歴史れきし』のだいかんかれたことだとおもう。かたらせられること、かたってしまうことはわなだとわれた。「せいかくされてきた、だからこれからかたろう」というおはなしと、「かくされてきた、だからこれからかたろう」というおはなしはおなじか、ちがうか。うえ掲の2さつ拙著せっちょでもいくらかこのてんれているが、ゴーラー、アリエス、エリアス、デュルといったひとたちの著作ちょさく紹介しょうかいしつつ、このことについてしるすのは3さつほんでということになる。)


  藤村ふじむらは「社会しゃかいがく領域りょういきにおいて、単独たんどく言葉ことばとしての〈せい〉にほぼ最初さいしょ着目ちゃくもくした研究けんきゅうとして、障害しょうがいしゃ自立じりつ生活せいかつをテーマとしたなま技法ぎほう安積あさか岡原おかはら尾中おちゅう立岩たていわ[1990])があげられる」(p.308)と、わたしたちの共著きょうちょしょ紹介しょうかいしてくれている。そのほんいたとき、そのだいをつけたときおもっていたのは、ふたつのことだったとおもう。
  ひとつに、そのせいをなにかかぎられたものとはしたくなかった。だから「自立じりつ生活せいかつ」だとか「当事とうじしゃ主権しゅけん」といっただいはつけなかった。それらが大切たいせつなものではないとおもったからではない。ただせいはもっとひろいものだとおもったし、そしてそれは、自己じこのものであったりする必要ひつようもないし、かたられたりするものである必要ひつようもないものとしてあるとかんがえた。
  ただもうひとつ、そのなにものでもないせい可能かのうにすることはときむずかしく、それを可能かのうにするためのわざを、とくにこのにおいては、仕方しかたなくかんがえて、つくらねばならないことがある。それは不幸ふこうなことでもあるが、仕方しかたがない。まず、それをさまたげるものを調しらべる。せい攻囲こういするものをえがくのである。せい生死せいしかたかたかたそのものがせいかこんでしまうこともある。とすれば、なま)のかたかたについて調しらべてみることもしなければならない。前半ぜんはんべたのはそのことである。ある程度ていど慎重しんちょうさをもって、事態じたい記述きじゅつし、言説げんせつえんることが課題かだいになる。
  そして、どうしたらよいか、当人とうにんたちもかんがえたりこころみたりしている。だからそれを調しらべてくことになる。また当人とうにんたちの言葉ことばおこないをけて、わたしたちもまたかんがえることになる。つまり、せいかたるのでなく、せいのための「技法ぎほう」についてくことになる。そのわたしは、せいぜいそんなことがわたしのできることだとおもってものをいてきたとおもう。
  もちろんだれでも、なまについてかたればよいしけばよい。しかしおおくのひとたちが、毎日まいにち十全じゅうぜんかたっている。またかたらないでいる。それ以外いがいのこと、それ以上いじょうのことをできるというあてがわたしにはないにすぎない。けるひとけばよいとおもう。しかし慎重しんちょうでありたいこともときにはある。このことをべた。


UP:20081231 REV:
藤村ふじむら 正之まさゆき  ◇福祉ふくし社会しゃかい学会がっかい  ◇立岩たていわ しん  ◇Shin'ya Tateiwa
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