(Translated by https://www.hiragana.jp/)
立岩真也「生の現代のために(番外篇) 連載128」
HOME > Tateiwa >

なま現代げんだいのために(ばん外篇がいへん) 連載れんさい128

立岩たていわ しん 2016/12/01 現代げんだい思想しそう』44-22(2016-12):8-21
現代げんだい思想しそう連載れんさいだい120かい現代げんだい思想しそう連載れんさい(2005〜)

Tweet


立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』カバー

このHP経由けいゆ購入こうにゅうすると寄付きふされます

目次もくじ

■1 こたかたについて
  1 ほん
  2 われてうことについて
  3 けなくても、よいことをわないこと
  4 ではなにうか
■2 この社会しゃかいTとそれへのたいかた
  1 この社会しゃかいT
  2 「自己じこ責任せきにん
  3 優生ゆうせい思想しそう安楽あんらく
  4 実際じっさいにはあまっておりその対処たいしょ苦労くろうしている
■3 野蛮やばん対処たいしょUとべつ方法ほうほう
  1 野蛮やばん対処たいしょU
  2 べつ方法ほうほう


■1 こたかたについて

 1 ほん
 なながつろくにち相模原さがみはら施設しせつおおくのひと殺傷さっしょうされる事件じけんがあった。杉田すぎた俊介しゅんすけわたし原稿げんこう対談たいだん収録しゅうろくしたほん十二月じゅうにがつもうすぐる。
 わたしは、精神せいしん医療いりょう特集とくしゅうした本誌ほんしきゅうがつごうこったことを精神せいしん医療いりょう問題もんだいにすべきでないことをいた([2016/09/01]、以下いか著者ちょしゃ文献ぶんけん著者ちょしゃめいりゃく)。この事件じけん特集とくしゅうしたじゅうがつごう障害しょうがいしゃころしをめぐってこのくににあったことわすれられたことについていた([2016/10/01])。そのふたつを必要ひつようは、前者ぜんしゃについてはまずっておくべきこととしてあるとおもった。後者こうしゃについては、事件じけんからいちがつったのち、どうも人々ひとびとのほとんどらないことがあり、それをすくなくともいくらかのひとっておいてよいとおもった。だから意味いみはあるとおもった。たからそのふたつはそのほんには収録しゅうろくされる。ただ、それらをわせても「事件じけん」についてのほんにはならない。ふたつでずいぶんなりょうにもなったのだが、もうひとつをく。
 ただわたしはそのひとのことをらない。よいことだとおもわないが、りたくないみたくないというところもある。ただ、なにかがそのひとまり、蓄積ちくせきされていったということであれば、それを沙汰ざたすることにも意味いみがあるだろう。しかしらない。それで杉田すぎた俊介しゅんすけにおねがいすることにしたのでもある★01。
 そしてうべき具体ぐたいてきなことの数々かずかずすでに、かえして、われている。それはあつめて掲載けいさいらせている★02。この事件じけんじょうじて自分じぶんたちに仕事しごとをさせてくれてといったことをっている精神せいしん医療いりょう業界ぎょうかいからの発言はつげんのぞけば、もっともなことがわれている。精神せいしん医療いりょうはなしにもっていくことの問題もんだいや、施設しせつ警備けいびをよりつよくすることがおろかであることはべた。精神せいしん病院びょういんについて、まずだれもが通過つうかできるようにすべきだとべた([2015/11/13])が、それとおなじだ。また施設しせつをそのままに維持いじ建物たてものあたらしくするというのも、その気持きもちにわかるところはあるが、すくなくともいったん、めたほうがよい。ひとあつまっていていちおおくが殺傷さっしょうされた。もっとてんでにめるようにするのがよい。こうしていくつか具体ぐたいてき確実かくじつえることはある。われていて、かえ必要ひつようはない。
 さらにわたしは、たとえばひとかなしみいたむ、くなったひと追悼ついとうするといったことがどんなことであるかわかってないのだから、適格てきかくだとおもう。結局けっきょくこのつめの原稿げんこうくのも直接ちょくせつ事件じけんのことではない。ただそれでも、わたし結局けっきょく、こんなことがこることにかかわって、かんがえたりいたりしてきたのではあるはずだ。乱暴らんぼうだが乱暴らんぼうでないとられる言葉ことば想念そうねんがどのようにこの社会しゃかい配置はいちされているのか、それにどうかえすかをかんがえてきたはずだ。言葉ことば無力むりょくであることもときにおもい、しかしそんなことをってしまうことも粗暴そぼうだとおもって、いてきたはずである。
 だからかえしをいとわず、そしていくらかすすもうとおもった。とくにこの社会しゃかいわりっているひとたちがいて、しかしそのひとたちがさらに排除はいじょかかわっていることをどうかんがえるか。ただきちんとこうとするとながくなる。それはいま無理むりで、結局けっきょくみじかくなり、とどかないものになってしまう。もっととどくようにくことはさらにせんべになってしまい、このたび不本意ふほんいながら、覚書おぼえがきふうのものになってしまう。

 2 われてうことについて
 このたねのことがこると、ではどうしたらよいのかといったことがわれる。それは、もっともなことであるとともにうっとおしい、うっとおしいとともにもっともなことにおもわる。
 基本きほんてきなよしあしをえたとする、そしてそれを実現じつげんするための基本きほんてき方法ほうほうえたとする。しかし、だからといってそれが実現じつげんするとはかぎらない。具体ぐたいてきにどうしたらよいのかとわれる。この事件じけんのちかぎらず、しばしばそのようにわれる。
 とくにこのたびこったことはさすがによくないことであることはたしかだとおもわれたこともあって、「どうしたら」がわれることがあった。「障害しょうがい差別さべつはどうやったらなくなるか?」といったもっと「基本きほんてきなところ」についてなにやら言葉ことばもとめられる。
 しかし、そんなふうにわれてしまうこんな事件じけんもあり、米国べいこくでの選挙せんきょもあって、われもとめられることによって、そしてそれにたいしてなにうことによって、思考しこう言論げんろん無力むりょくかんじられることもある。なにっても無駄むだかんじがただよう。
 だがさらにわたしは、そうわれたりおもわれたりするとむっとなって、かえしたくはあるのだ。そのようにひと(たち)はなにか魔法まほうのようなものがあることにしたうえで、そんな効力こうりょくのあるものがないことをわかって、そしてあきらめてしまったりするといういをしているのではないか。そんな順序じゅんじょでものを必要ひつようはないとおもう。どのようにして問題もんだいむずかしいとおもわれるようになっていくのか、また「こたえ」がどういうところにまれていくのか、それでよいのかとうたほうがよいとおもう。

 3 けなくても、よいことをわないこと
 なにかただしいことは、ただしくともきびしいことであるようにもおもわれる。そのただしいことはもっともなことであるかもしれないが、しかし「それでは人々ひとびと理解りかいがえられない」とわれるのである。「ひろ社会しゃかい理解りかい必要ひつようがある」ということにされる。
 事件じけんかかわる報道ほうどう全般ぜんぱんにすぐにえていくなかで、いくつか良心りょうしんてきな(少数しょうすうの)メディアがそのも「障害しょうがいしゃ問題もんだい」をってなにおうとした。またいまもそうしている。そこでは、障害しょうがいしゃにも、障害しょうがいをもってらすなかにも、よいことがあることがわれる。
 テレビはとにかく画像がぞうるのだし、新聞しんぶんには文章ぶんしょうるのだから、になったり文字もじになったりするものがほしい。そんな事情じじょうもある。そして実際じっさいによいことはある。これはまったくそのとおりだ。しかしやはり、そんなことはわなくてもよいとおもう。よいものがあるとおもうのは、そくが、だろう。すると、あるひとは、そのようなよいものをいだすことはできないとう。よいものをしんじているひとはそのようにわれてもひるまないとしても、それほどおもいのないひとは、同調どうちょうするかもしれない。よいものがあるとは、無理むりやりのいいかただと、くるまぎれのいいかただとおもえる。ないとっているのではない。しかしうたがっているひとに、うたがうことにしているひとに、よいものがあると説得せっとくしなければならないのも屈辱くつじょくてきではないか。精神せいしん障害しょうがいしゃたちは、危険きけんであるとされるが、じつ安全あんぜんであるとうのも、わねばならないのも、そのひとつである。きゅうがつごう掲載けいさい文章ぶんしょうでそのことをべた。実際じっさいおおむね安全あんぜんなのではある。しかし、わざわざそれをわなければならないのはくるしい★03。
 もうひとつは、みんな障害しょうがいしゃになるから、その可能かのうせいがあるから、というはなしだ。たしかにその可能かのうせいたかかくりつである。他人たにんごとではない、自分じぶんのことだとおもえるとより共感きょうかんてきになるというのはそのとおりだ。だから、そのことをえばよいのではある。
 しかし、「だから」そのひと(たち)がらせることを支持しじするといういいかたがよいのかである。それは社会しゃかい保障ほしょう社会しゃかい福祉ふくし正当せいとうする理由りゆうだとされる。するとまずひとつ、危険きけんたいするそなえとして保険ほけんりょうはらうということになると、そのかくりつ各人かくじんおなじなら、その保険ほけんりょう基本きほんてきには各人かくじんおなじだけということになってしまう。また、ひと未来みらいひとしくらないことによって(せいぜい各人かくじんおなじだけの)拠出きょしゅつ正当せいとうされたのだが、実際じっさいにはかくりつことなり、そのなりがいくらかわかることもあり、かくりつたかさやおうじておおくを拠出きょしゅつせねばならないことにもなる。だから基本きほんてきにとるべきは「保険ほけん原理げんり」ではないということである★04。
 よいことがあること(わるいことがないこと)や、だれでも(そのうち)なることをっていけないということではないだろう★05。「く」のであれば、なんでもえばよいとわたしおもう。複数ふくすうのいいかたわさってようやく一定いっていちからるということがある。じょううったえるのもよいし、感動かんどうあたえるのもよい。ただ、同時どうじに、それぞれがどれほどのものかをはかっておくこと、なにふだにするか(しないか)をかんがえておくことが必要ひつようなのだとおもう。

 4 ではなにうか
 このようにわないとするとなにうか。その(周囲しゅういの)しゃ(たち)にとってこころよであろうとなかろうと、ころすな、そしてらせるようにさせよということになる。
 「わたしたち障害しょうがいしゃあいだでどうしたら理解りかいしてもらえるかとか、そんなこといったら理解りかいしてもらえなくなるとかいう言葉ことばをよくくのですが、これほど主体性しゅたいせいのないかたがあるでしょうか。大体だいたいこのにおいてよんろくちゅう理解りかいしてもらおうとおもいながらきているひとがいるでしょうか。」(横塚よこつか[1975→2007,2010:65])★06。
 だがそれにしても、ころすなというぐらいのことだったらわざわざうまでもなく、当然とうぜんのことではないか。そうでもない。まずひとつ、ころされなければよいというものではないということがある。さすがにころすのはよくないことだと普通ふつうはされるから、そんなにいつもころされることはない。しかし面倒めんどうだからほとほどにということになり、結局けっきょくそのらしは最低さいていきり)ということになる。もうひとつ、実際じっさいころされる対象たいしょうにもなってきた。そしてそれは普通ふつう意味いみ悪人あくにんであるひとたちによってというより、きてよい人間にんげん資格しかくしたうえで、あるいは本人ほんにんの(かつて)めたことならみとめるべきだとされて、ころされたり自分じぶんぬことにもなる。
 そこで、はなしがいくらか面倒めんどうになっても、共感きょうかんがいくらかることになっても、きらいとべつのことだと、明日あしたのことでないとしてもと、退たいかない地点ちてん確認かくにんしておく必要ひつようがあることになる。それでは広範こうはん支持しじられない、かもしれない。しかし、本人ほんにんがわからなにかよいものをしめ必要ひつようがないということは、すくなくともその本人ほんにんにとって、よいことである。けがよいのでとき場合ばあいおうじてけることをうが、本当ほんとうわなくてもよいことをわかっていると、らくきてものをっていくことができる。
 そしてこのようにったうえで、もう一度いちどみずからの好悪こうおかかわらず他者たしゃたいする義務ぎむがあるというきびしくおもわれる「倫理りんり」と、みずからの快楽かいらくとは対立たいりつするもののようにえるが、そんなこともない、すくなくともそうであるとかぎらないことも確認かくにんすることができる。こんな具合ぐあい他人たにんみとめるという位相いそうがある。そしてわたし自身じしんもそのように、周囲しゅうい都合つごう好悪こうおとべつにやっていけることもまたわたしにとってらくなことである★07。だから実際じっさいにはそれほど苦行くぎょういているわけではない。むしろもっとゆるきていきたいのなら、そうしたほうがよいということになる。
 以上いじょうだいせつ現実げんじつたいしてなにうかというはなしだった。つぎに、その相手あいてであるこの社会しゃかい現実げんじつがどうなっているかをべる。だいせつではこの社会しゃかい能力のうりょく生産せいさんじくとして構成こうせいされる部分ぶぶんについて。この部分ぶぶんおおくこれまでわたしいてきたことをかえすことになる。その概略がいりゃくられていないから仕方しかたがないとおもう。だいせつは、近代きんだい社会しゃかい公式こうしき見解けんかいでは次第しだいせていくとされる属性ぞくせい理由りゆうにした排除はいじょだいせつべたものへのひとつの対応たいおうしてもあることをべる。ここらあたりがこの事件じけんふくめた様々さまざま敵意てきいなのだろうとかんがえる。そしてその敵意てきいをいくらかでものがしていく道筋みちすじをざっとべる。

■2 この社会しゃかいTとそれへのたいかた
 1 この社会しゃかいT
 「生存せいぞんけん」をうこと、そしてその言葉ことば使つかとき、たんにころすなということだけではなく、らせることを主張しゅちょうする。それで正解せいかいということにはなる。しかし、だとしても、そうはさせなくしているものがなんであるか、それにどのようにたいするか。
 所有しょゆうについての規則きそくがあり、それがただしいとされ、さらにのうさんてきであることにおいてひと価値かちがあるという価値かちかんがあるのがこの社会しゃかいである。だから障害しょうがいしゃ差別さべつはこの社会しゃかいにおいては差別さべつではないとされる。それは生存せいぞんけん抵触ていしょくするのでないはないか。すると「過度かどでない」障害しょうがいしゃ差別さべつ差別さべつでないとされる。しかし過度かどだとか過度かどでないとはどういうことか。だからやはりめておく必要ひつようはある。そしてめてみた結果けっか、「能力のうりょく主義しゅぎ肯定こうていする能力のうりょく主義しゅぎ否定ひてい」(『私的してき所有しょゆうろんだいしょう)ということになった。やはりぜん否定ひていということにはならない。ただこの半端はんぱ肯定こうてい否定ひていがどのようになされるのかを確認かくにんしておく必要ひつようがある。でないと、「うちなる優生ゆうせい思想しそう」などとって、よくないが仕方しかたがない、仕方しかたがないがよくないという、よくわかならないことを曖昧あいまいかえすだけになってしまう。
 「できるひととくをする」ことがこること自体じたい近代きんだい社会しゃかい固有こゆうのことではない。ひとみずからのあたま身体しんたいうごかすことができるなら、そしてひとえきようとしらくをしようとおもうなら、よりできるひとがよりおおきなえきることはしょうずる。そのことはよくもないがとくにわるいことでもない。そしてこの人間にんげん選好せんこうえがたいものと前提ぜんていすれば、労働ろうどう生産せいさんるために対価たいかあたえることも有用ゆうようなことになる。しかし、それがただしいという根拠こんきょはなく、そしてここでは、結果けっかとしてきるためのものがられず、きていけないこと、十分じゅうぶんきていくことができないことがしょうじる。それははっきりとよくないとえる。
 くわえて、近代きんだい社会しゃかいは、自己じこ労働ろうどうによる自己じこ所有しょゆうただしいこととし、よいものとして規則きそくし、権利けんりとして保護ほごする。そして生産せいさんできることをひと価値かちとする。それを日本にっぽん社会しゃかい運動うんどうは「能力のうりょく主義しゅぎ」とんで批判ひはんしてきた★08。
 この水準すいじゅん問題もんだいにすることは社会しゃかい全体ぜんたい問題もんだいにすることであって、ここでもそんなことにどれだけの意味いみがあるか、もっと簡単かんたんえられそうな部分ぶぶん問題もんだいにしたほうがよいのではないかとわれるかもしれない。だがわたし基本きほんてきなところから問題もんだいにしたうえで、えるのがむずかしいことそうでもないこととその理由りゆうかんがえて、できることをするという具合ぐあいすすめていったほうがえって悲観ひかんてきにならないみちかんがえられるとおもった。
 全部ぜんぶ除去じょきょすることはできないが、だからあきらめるということにならない。まず、きまりを変更へんこうすることができる★09。また、そんな価値かちしんじることはないとうことはできる。そしてそのようにしたほうやすひとはたくさんいる。
 そしてそれは、さきのみなが障害しょうがいしゃになる可能かのうせいがあるというのとはちがった意味いみで、おおくの人々ひとびとおおきくかかわる。身体しんたいに「インペアメント」がある、あるいはあることが想定そうていされている「障害しょうがい(disability)」よりも 「能力のうりょく((disability)」のほうひろい。むしろ後者こうしゃの「障害しょうがい」による線引せんひきは、一部いちぶひとたちをしいくらかを免責めんせきすることにより、そしてその範囲はんいにとどめることによって、この社会しゃかい維持いじしているとえる。「障害しょうがいがく」も、そのことをわかっていないと、そのことに加担かたんすることにもなるだろう。

 2 「自己じこ責任せきにん
 じかにころしはしないとしても、「自業自得じごうじとく」の腎臓じんぞう病者びょうしゃ透析とうせきをやめるべきだと、つまりねばよいといったことをったひとがいる。「自己じこ責任せきにん」がわれる。その標語ひょうごたいする怨嗟えんさもまたある。自己じこ責任せきにんかえ勢力せいりょく対抗たいこうしようとするのだが、それをどのようにうか。「自分じぶんのせいではない」ことをいさえすればよいか。
 まず、自分じぶん原因げんいんとなったこと、自分じぶん意志いしちからはっしたぶんについては、そのひと責任せきにん権利けんりゆうするというかんがかたがある。これはさきの自己じこ労働ろうどう自己じこ所有しょゆう構図こうずている。また、あくをなしたものにたいしてそのせめうというのもおながたのようにおもわれる。ているようにもえるみなはおなじではない。いくつかの契機けいきがある。そしてそのすべてを全面ぜんめんてきには否定ひていできないだろう。
 ひとつ、自分じぶん他人たにんたいしてなしたがいについてめられること、せめわれることは、否定ひていされることはないだろう。そのせめうことが道義どうぎであるとされるだろう。
 ひとつ、苦労くろうをしたらむくわれてもよい、らくをしたらそのぶんられなくても仕方しかたがないということはある。こうして平等びょうどうがいったんみとめられたとして、そのうえでの「加配かはい」も肯定こうていされることになる。
 もうひとつ、褒美ほうびあたえたりばっしたりするほうがよい、有効ゆうこうであるというものである。これもまたまったく否定ひていすることはできない。そしてこれは、前節ぜんせつべた、できるととくをするような仕組しくみをとることが有効ゆうこうであること、また仕方しかたのないこととおなじである。これを刑罰けいばつについてえば、さきにみとめたものが「応報おうほう」とばれるものにちかいのにたいして、刑罰けいばつ(の予期よき)をあたえることによって犯罪はんざい抑止よくしできるという「(一般いっぱん予防よぼう」の機能きのうということになる。
 (環境かんきょう倫理りんりがくでは「共有きょうゆう悲劇ひげき」というろんがある。あるひとたとえば土地とち管理かんりすることによってそのひと利益りえきられるようにしたほうが、そのものがよく維持いじされたり生産せいさんされたりすることがあるというのである。そんなことがあることを否定ひていしない。ただまず『私的してき所有しょゆうろんだいだいせつ3で確認かくにんしたのは、このろんはあるものについてだれ権限けんげんつかを指定していしはしいないということだった。土地とち管理かんりしゃがいて、その管理かんりからえきたり管理かんりしないことで制裁せいさいけたりするようにするとその土地とちがよく管理かんりされることになることがあるが、だれ管理人かんりにんになるかはまらないということだ。
 その例外れいがい身体しんたいということになる。身体しんたい管理かんりするのは、まずは、その身体しんたいゆうする本人ほんにんだとしよう。とすると、褒美ほうび罰金ばっきんさきはその本人ほんにんとなる。ちかごろでは、健康けんこうったらそのぶん保険ほけんりょうやすくしたらよいといったはなしをするひともいる。それをどのように評価ひょうかするか、評価ひょうか基準きじゅんひとつである有効ゆうこうせいからみてどれだけの効果こうかがあるか、わりになにうしなわれるかをかんがえることになる★10。
 有効ゆうこうである可能かのうせいはなくはない。ただ実際じっさいにはそれはおお乱暴らんぼうなものだ。健康けんこう経済けいざい状態じょうたいそのかかわっていることはだれもがっている。気遣きづかいとはべつ種々しゅじゅ事情じじょうによって左右さゆうされる。自分じぶんでどうかなる部分ぶぶんおおくないし、どうかなる・ならないのあいだ境界きょうかいせんくこともたいていできない。苦労くろう(のおおすくない)におうじることはみとめられるだろうとべたが、その度合どあいをはかったりくらべたりすることの困難こんなん弊害へいがいがある。そしてもっと基本きほんてきなところで、不養生ふようじょうものぬことになるというきまりが正当せいとうされるか。健康けんこう状態じょうたいそのものとはべつ受診じゅしん有無うむにより保険ほけんりょうえるというあんひとがいるが、容易ようい受診じゅしんできるひともそうでないひとがいる。料金りょうきんやすくしたり課金かきんしたりするそのおながく所得しょとくなどらしきのちがいによって価値かちことなる。所得しょとくによって負担ふたんがくえるひとしそれを是正ぜせいするという処置しょちはなされることもあるが、それでもたいがい問題もんだい解消かいしょうされず、仕組しくみもより面倒めんどうなものなる。
 この社会しゃかいでこの言葉ことば容易よういてくる言葉ことばであり、おもいつきでてきとうにされるのにいちいち対応たいおうするのは面倒めんどうだが、仕方しかたがない。基本きほんてきなことをそして細々こまごましたことをかんがえて必要ひつようがある。

 3 優生ゆうせい思想しそう安楽あんらく
 そしてこのたび、ひさしぶりに優生ゆうせいがく優生ゆうせい思想しそうかたりひろくちされた。能力のうりょくのある人間にんげんまれさせようとなると、また能力のうりょくのない人間にんげんまれないようにしようとなると、優生ゆうせい思想しそう優生ゆうせい主義しゅぎということになる。ねばよいということになると安楽あんらく尊厳そんげん思想しそうということになる。そして現在げんざいてき意味いみでは、安楽あんらく自分じぶん自分じぶんなせることである。
 これらと能力のうりょく主義しゅぎ社会しゃかいとはもちろん親和しんわせいがある。その社会しゃかいにおいて有利ゆうりになるように、優生ゆうせい主義しゅぎのようなおこないがあらわれることにもなる。能力のうりょくっていくものほうされることにもなる。つまり先述せんじゅつしたふたつによって、ひとつに所有しょゆう規則きそくによりらすためのざいすくなくなることによって、ひとつに価値かちとされみずからを価値かちとすることによって、たとえば安楽あんらくはなされる。そして国家こっかがそれをすすめようとする場合ばあいもあり、家族かぞく志向しこうする場合ばあいもある。
 だからそれらはこの社会しゃかいにあるものをよりつよくしたものだということになる。それでもまず、この社会しゃかいにある規則きそく価値かちは、ねばよい・まれてこなければよいとまではわない。ころすことは許容きょようされない。だからおなじではない。ふたつのことがある。
 ひとつは距離きょりがあるということである。現在げんざい安楽あんらく尊厳そんげん自分じぶんめることとしてなされている。だからそれを批判ひはんするのなら、ころしてならないという水準すいじゅんにおいて批判ひはんするのではりない。問題もんだいがあるとするなら、自分じぶんめることは一般いっぱんによいことだとみとめたうえで、しかも自分じぶんめることでもあっても、なお問題もんだいがあることをわねばならない。他方たほう優生ゆうせい実践じっせん基本きほんてき自分じぶんめるというものでありえないことをまえる必要ひつようがあり、にもかかわらずそのことがしばしばかんがえられないことをとらえる必要ひつようがある。
 ひとつは連続れんぞくしているということである。実際じっさいられた倫理りんり学者がくしゃたちが、その倫理りんり思想しそうにおいて、たとえば知能指数ちのうしすうであるとかいろいろと条件じょうけんをつけて、なせることを支持しじしている。まず、そうしたことはっておいてもらいたいとおもって、そんなひとたちの議論ぎろん紹介しょうかいしてきたのだった。また、日本にっぽんではいちきゅうろく年代ねんだい福祉ふくし前進ぜんしん収容しゅうよう施設しせつつくることをすすめたうごきのなかになせることへの支持しじ同時どうじ存在そんざいしもした(立岩たついわへん[2015])。
 基本きほんにある発想はっそう単純たんじゅんではある。ただそれはこの社会しゃかいにおいてただしいとされるものにはっしている。だから基本きほんてきにはそれを問題もんだいにせざるをえないことになる。同時どうじに、その基本きほんにいくつかのものが付加ふかされる。それをかんがえねばならない。このたび優生ゆうせいがくかたりおもされ、いちきゅうなな年代ねんだい優生ゆうせい思想しそう糾弾きゅうだんしたひとたちかだしされた。だがそのひとたちが否定ひていしたものをどこまで否定ひていできるか。そう簡単かんたんではないとわたしおもっている。そのひとたちは出生しゅっしょうぜん診断しんだん批判ひはん否定ひていした。なな年代ねんだいうごきがいったん途切とぎれたようにえることにはそのこともかかわっている。そしてこのたびそのひとたちをこしたひとたちは、そのことにはふれていない。わたしは、その部分ぶぶん厄介やっかいだとおもいながらかんがえてきたところがある。そしてはっきりえることはおうとおもってきた。そんなことをしていかないと、このいまの「優生ゆうせい思想しそう反対はんたい」がいくらかおさまると、「いややはりそれは(そんなに)わるいものではない」というはなしがまたあらわれてくるはずである★11。

 4 実際じっさいにはあまっておりその処理しょり苦労くろうしている
 それにしても、らしていくためのものがりないのだから、あるいはやさねばならないのだから節約せつやくせねばならない、そして/あるいは増産ぞうさんつとめばならないということになる。だから、はたらけるひと割合わりあいやす、できないひとらす必要ひつようがあるということにもなる(→だいせつ3)。自助じじょ努力どりょくしてもらうのがよい、動機どうきあたえて負担ふたんらし生産せいさんおおくしたらよいとわれる(→だいせつ2)
 それにどうこたえるか。かり生産せいさんしないひとらすことで、そして/あるいは世話せわ必要ひつようひと世話せわすることによって共倒ともだおれになることがあったとしても、みなえても、するべきことをするべきだ、といういさぎよ立場たちばはありうる。ただ、もし心配しんぱいするほどでなければ、そんなに深刻しんこくにならなくともよいということになる。
 そしてわたしは、実際じっさいにだいじょうぶであるとかんがえ、そのことをべてきた。このことはかね勘定かんじょうするよりも現物げんぶつかんがえたほうがわかりやすい。このにはひとひと以外いがいのものしかない。りないのは前者ぜんしゃそして/あるいは後者こうしゃである。後者こうしゃについてはやがてりなくなる可能かのうせいはある。しかしいまのところはさほどでない。人工じんこう透析とうせき人工じんこう呼吸こきゅうのための生命せいめいかかわる機器きき使つかわれるよりはるかにおおてつやアルミニウムが様々さまざまのものをつくるのに使つかわれている。そしてひとはよりたくさんいる。技術ぎじゅつ開発かいはつ使用しようによる生産せいさんりょく増大ぞうだいがあり、それにともなってすくなくとも労働ろうどうできるひとはたくさんいて、余裕よゆうがある。寿命じゅみょう伸長しんちょうも、おおまかには労働ろうどうりょく増大ぞうだいほう作用さようする。失業しつぎょうりつ仕事しごとがなく仕事しごともとめる活動かつどう役所やくしょめた方法ほうほうさがしているひとりつにすぎない。主婦しゅふ退職たいしょくしゃ等々とうとうかぞえていけば――「長期ちょうきてき視点してんでは、社会しゃかい発展はってんさせるには労働ろうどうりょく〇パーセントだけがさい生産せいさんすればよく、のこりのはち〇パーセントは純粋じゅんすい経済けいざいてき視点してんからはただの余剰よじょうになってしまっている」(Zizek, in Butler, Laclau &Zizek[2000=2002]とまではわないことにするが――人口じんこうすうじゅう%にはたっする。それでもぜん生産せいさんがまかなわれている。それは基本きほんてきにたいへんこのましいことである。これは現在げんざいわたしたちの社会しゃかいにおける主流しゅりゅう言説げんせつ、つまり少子しょうし高齢こうれい社会しゃかいにおいてひとかねりなくなるというおはなし反対はんたい対極たいきょくにある。後者こうしゃ間違まちがっていて前者ぜんしゃ現実げんじつだとかんがえる★12。ただこの剰余じょうよをどのように処理しょりするのかでこの社会しゃかいこまっている。そのひとつの野蛮やばん対処たいしょほうが、次節じせつ排除はいじょということになっている。
 まずこのことをわかったらよい。にもかかわらずなぜりないことになっているのか。かねあつかた間違まちがえてそれがながあいだ累積るいせきしていることについては『ぜいなおす』(立岩たていわ村上むらかみ橋口はしぐち[2009])でべたが、説明せつめいもある。そのことについては別途べっとかんがえようとおもう。ただ、すくなくともその容疑ようぎしゃ手間てまのかかるひところして世界せかいすくおうとおも必要ひつようはなかった。そしてころすまでのことはしないおおくのひとも、誤解ごかいしているのはおなじなのだ。
 こんあるしゅ施設しせつ病院びょういん病棟びょうとうには、容疑ようぎしゃはたらいていた施設しせつより、容易よういうごけないうごかないひとたちがならんでいたりする。そのは「大変たいへんさ」をあつめてならべたようなであって、「これでこれから社会しゃかいはやっていけるだろうか」といったおもいをしょうじさせ増幅ぞうふくさせることはあったかもしれない。そんなでただれていくひともいるだろうし、磨耗まもう疲労ひろうするひともいるだろう。しかしそうした疲労ひろうとともに「正義まさよし」を実行じっこうしたくなるひともいる。ただそれは、同様どうようひとたちがあつめられた空間くうかんがあり、そして社会しゃかい全般ぜんぱん不足ふそく先行さきゆきのくらさがわれてしまっていることによる。どうしたら人々ひとびと納得なっとくするのか、わかるまで、様々さまざまないいかた可能かのうなら様々さまざまないいかたで、このことをっていく必要ひつようかある。

■3 野蛮やばん対処たいしょほうべつ方法ほうほう

 1 野蛮やばん対処たいしょほう
 人間にんげん余剰よじょうがあることは基本きほんてきにはよいことである。さらに成長せいちょう必要ひつようとされているところではそれも可能かのうである。このようにかんがえるかぎりでは原理げんりてき基本きほんてき困難こんなんはない。しかし、生産せいさん生産せいさんりょくをうまく処理しょりできないと、それでかまわないひとたち、それを利用りようしてさらにえきひとたちもいるが、こまひとたちもてくる。ひとおおいことは、ひとやとがわにとっては有利ゆうりだが、しょくにつけなかったりしょくうしなひとてくる。格差かくさおおきくなる。
 社会しゃかいがくではながく、業績ぎょうせき原理げんり属性ぞくせい原理げんりという図式ずしきがあってきた。そしてわたし前者ぜんしゃほうについてかんがえてきた。それはひとつ、それを正面しょうめんからあつかひとすくないからだった。ただ、実際じっさいには両方りょうほうがあり、ふたつがわさって、すこし複雑ふくざつなことになっている。
 この社会しゃかいだいせつしるした原理げんりうごいているものとされるが、実際じっさいにはそうでない。それはすこしも不思議ふしぎなことではない。そこには、偏見へんけん差別さべつ意識いしきといったもの(だけ)でなく、物質ぶっしつてき利害りがいからんでいる。排除はいじょすることによって、排除はいじょするがわ利益りえきることまもろうとすることがある。そこに国家こっか国境こっきょうからむ★13。その事情じじょう簡略かんりゃくしるす。
 排除はいじょは、だいせつしるしたこの時代じだいの「正義まさよし」によって批判ひはんされることにはなる。公的こうてき正当せいとうとされる原理げんり業績ぎょうせき原理げんりほうである。できるけれども、そのようにぐうされてこなかったひとたちがいる。それは正義せいぎにもとることになっている。そしてそれだけでなく、やといたいがわにとっても不利ふりになる。そこでたとえば女性じょせい雇用こようする。外国がいこくからのひとやとう。コストを利益りえき上回うわまわるのであれば、障害しょうがいしゃやとう。所謂いわゆる単純たんじゅん労働ろうどうしゃ流入りゅうにゅうは、その生産せいさんぶつやすえることになるから、社会しゃかいのある部分ぶぶん歓迎かんげいされる。やす労働ろうどうりょく商品しょうひんいたいがわは「自由じゆう貿易ぼうえき)」を支持しじする。とくに労働ろうどうりょくがわは、市場いちばひろ拡大かくだいしていくことが有利ゆうりになり、労働ろうどうしゃになるひとたちがおおいと競争きょうそうのもとで労賃ろうちんやすくおさえることができて利益りえきになる。近代きんだい社会しゃかい基本きほんてき所有しょゆうけん規則きそくのもとで、そしてだれもがっているグローバリゼーションのもとで、とみ集中しゅうちゅうしていく。
 やすえるのはよいとして、同時どうじおおわれるものでもある自分じぶんたちはどうなるか。被害ひがいこうむらずにすむそうがある。たとえばたか費用ひようのかかる教育きょういくけられて、そのひとたちに用意よういされたしょくけるひとたちはこまらない。そのしょく言語げんご参入さんにゅう障壁しょうへきがあるその理由りゆうによってまもられる。他方たほう消費しょうひしゃとしてはやすえるようになるのだから、自由じゆう歓迎かんげいする。
 他方たほう不利ふりになるひとたちがいる。技術ぎじゅつ進展しんてん生産せいさんりょく増大ぞうだいともなって余剰よじょう労働ろうどうりょく増大ぞうだいし、やすわれるあるいは仕事しごとにつけない労働ろうどうしゃえていく。外国がいこくじんができる仕事しごとがある。あるいは機械きかいもできる部分ぶぶんがある。やすくもなるし、いらなくもなる。こうしてこれまでは仕事しごとにつけていたひとたちがしょくうばわれたりられなくなる。それにその人々ひとびと不満ふまんをもつ。実際じっさいすで現実げんじつにいくらかはそうなっている。実際じっさいにはそれほど(かつてのマイノリティの)参入さんにゅうすすんでいない、その境遇きょうぐうわっていないという反論はんろん可能かのうだし、たっているが、一部いちぶにそうした現実げんじつがあるのもまちがいではなく、人々ひとびとはその一部いちぶ不満ふまんをもっているのだから、説得せっとくされ納得なっとくはしない。
 その流入りゅうにゅうするそうにいるひとたちにとっては脅威きょういかんじられる。そこで「労働ろうどうしゃ階級かいきゅう」に排外はいがい主義しゅぎこる。排外はいがい主義しゅぎ繁栄はんえい、イギリスのEU離脱りだつ米国べいこくでのできごと、左派さは・リベラルがなかなかてないことも概略がいりゃく以上いじょうあげたようなことごとにかかわっている。
 このような敵意てきいが、かなり広範こうはんに、存在そんざいしている。最初さいしょから「重度じゅうど障害しょうがいしゃ」となると、ひらなおるしかない。そこに居場所いばしょさだめれば、つよいことがえる。しかしそんなひとほうすくない。そんをするがわではあるが、もっとそんをしているひとよりはそんをしていないひとたちがいる。そのひとたちはこの社会しゃかい最初さいしょからとことん不利ふりというひとたちではなかった。そして、しばらくまえであればもっとよい生活せいかつができたはずだともおもわれる。ただ現在げんざい不安定ふあんていであり、展望てんぼうあかるくない。他方たほう新興しんこう勢力せいりょくはよいをみているようであり、そしてそのとくをしているひとたちはなにかさかしいことをひとたちであり、そして正義せいぎ人権じんけんかたるのでもある。
 そしてときにそのわりっているとおもひとたちは天下てんか国家こっかを愁うひとであることもある。自分じぶん(たち)の利害りがいまもるために、おおきなものをすことがある。そしてそのひとたちに、国境こっきょう民族みんぞく等々とうとうによってひとひとあいだ境界きょうかいくことの恣意しいせいってもあまりかない。そんなことをかんがえたこともないしかんがえるつもりもないひとにはかない。またそんなことは承知しょうちのうえでというひともいる。
 そして自由じゆう正義せいぎであるとされるが、その正義せいぎ信用しんようされなくなる。実際じっさいにはそこから利益りえきものたちが、それをようとするとき使つか言葉ことばられるからである。その価値かちげられてしまう。それはでも多々たたこっていることだ。「人権じんけん」が攻撃こうげきのための道具どうぐとして利用りようされているとわれる。そしてそれはまったくたっていないわけではない。

 2 べつ方法ほうほう
 こうして、排除はいじょ排斥はいせきというみずからをたもてるようにおもひとたちがいる。それはわかりやすいやりかたであり、その効果こうか可視かしてきおもわれる。
 ひと流入りゅうにゅうふく自由じゆうをよいこととして、あるいはよしあしはべつ前提ぜんていすると、それは一部いちぶひとえきをもたらし一部いちぶ損失そんしつをもたらし格差かくさひろがる。それを問題もんだいにするのなら、その格差かくさちぢめれば問題もんだいすくなくなる。そして、流入りゅうにゅうのぞまない移動いどう激化げきかさせないためにも、世界せかいてき格差かくさゆるくしていくためのだてをとることである。しかしそれは困難こんなんなことにおもわれる。
 ただまず、自由じゆう最初さいしょにおく必要ひつようはない。うばわれることにいきどおること、そしてそれに抗議こうぎすることにはあるとかんがえたらよい。すくなくともそのひとたちになにか過失かしつがあったわけではない。その土地とちにおける社会しゃかい関係かんけいとう破壊はかいするひとぶつ流入りゅうにゅうみとめないことが正当せいとうとされることはある。それは、これまで「先進せんしんこく」からの侵略しんりゃくたいする反発はんぱつとしてあった。それと、こん米国べいこくのある人々ひとびと流入りゅうにゅう反対はんたいしていることとは、結局けっきょく後者こうしゃひとたちはまだゆたかながわにはぞくしているのでもあり、おなじでないにしても、極端きょくたんちがうわけではない。どこまでもというのではないが「保護ほご」はみとめられる。そして極端きょくたん排外はいがい主義しゅぎしゃとそれほどでもないひとたちとがいる。両者りょうしゃ連続れんぞくてきであるとしても、それをかち、みずからのためにも極端きょくたんひとたちとは一緒いっしょにはならないことはえらばれうる。
 そして流入りゅうにゅうによって拡大かくだいする有利ゆうり不利ふりらすために、縮小しゅくしょうすることを優先ゆうせんする。その人々ひとびと格差かくさには敏感びんかんではあり、それで不満ふまんをもっているのだった。だかららすさくには基本きほんてきには賛成さんせいする。ひとかずでものごとがまることになっているのだから、多数たすう反対はんたいしないような縮小しゅくしょうさくをとることは本来ほんらい可能かのうなはずである。それは米国べいこくゆめこわすことであるかもしれない。しかしそれが、努力どりょくむくわれたらよいというような素朴そぼくでもっともなゆめなのであれば、そのゆめ理念りねんみとめてよいのだった。そして実際じっさいには、そんなゆめのようなものでものごとはまったくまっていないことをえばよい。
 こうして国内こくないちぢめようとする。すると富裕ふゆうひと組織そしき国外こくがいていくことになる。それは縮小しゅくしょう困難こんなんにする。それを理由りゆうちぢめられないともわれるのだが、これは課税かぜいなどについての国際こくさいてきめなどがなされれば、国内こくないのまた国際こくさいてき格差かくさ縮小しゅくしょう可能かのうであることをしめすものでもある。そうすると、仕方しかたなくきでもないところにはたらところ移動いどうする必要ひつようすくなくなる。
 以上いじょうはきわめて単純たんじゅん、というほどには単純たんじゅんではない。しかしそれほど複雑ふくざつでもない。もう一度いちど、あるいはいくでも、たしかにいちめんでは不当ふとうあつかわれつつ抑圧よくあつするがわにまわっているひとたちを味方みかたにつけねばならない。そしてそれはそう簡単かんたんなことではないが、どうしようもなくむずかしいことでもない。

■註
★01 どう業者ぎょうしゃが「若者わかもの」についてたくさんいているなかで、そういう(わかい)にんたちに興味きょうみがなかったということがひとつある。なにかろんずることがいけないことだとはおもっていなかったが、これだけたくさんのひとたちがろんじているのなら、よくらないわたしまくではないとおもった。それ以外いがいでは、わたしみじかあいだおおきな変化へんかこるというかんがかたをあまりしないですませてきたということもある。「ボスト云々うんぬん」というのにすこし倦いていたのでもある。「近代きんだい」という大雑把おおざっぱくくりでものをかんがえてようとしてきた。
 ただまったく興味きょうみがないということではなかった。(その時代じだいの)にんについて分析ぶんせきしたりくということはどういうことなのだろうということもふくめ、いくつかの事件じけんこしたひとのことをろんずる、あるいはろんずることをかんがえるということがあってよいのだろうとはおもってきた。
 これまでいくつかの事件じけんがあった。わたしがいくらかをいたのは、「浅草あさくさレッサーパンダ事件じけん」を取材しゅざいしてかれたほん書評しょひょう([2005])だけで、それは『精神せいしん病院びょういん時代じだいわり』([2015])に収録しゅうろくされている。HPでもめる。そのぺーじしたほうには雑誌ざっしにはらなかったかなりながいメモがある。
 そしてわたしはたんに臆病おくびょうであるということがあった。気持きもちのわるくなるようなものをたくない。そのひといたというものをまだわたしていない。半端はんぱにしからない、取材しゅざいなどできない、半端はんぱにやるよりはやらないほうがよい、きちんと調しらべたりかんがえられたりするほかひとゆだねたほうがよいともおもった。
 なお本稿ほんこう一部いちぶは[2016/10/10]と重複じゅうふくしている。
★02 生存せいぞんがく研究けんきゅうセンターのHP(http://www.arsvi.com/)にある。その表紙ひょうしからける。斉藤さいとう龍一郎りゅういちろう収集しゅうしゅう作成さくせいしている報道ほうどうあつめたページとうやくろくななまんよん〇〇つめいちろく〇〇まいほどの分量ぶんりょうがある。
★03 あらゆる人間にんげんやくつと、やくつとわねばならないことはないとったのは、事件じけんのNHKの番組ばんぐみでだった([2016/08/07]、収録しゅうろくなながつさんいちにち)だった。その番組ばんぐみには「24あいだテレビ」を批判ひはんするかいもあって、理解りかいのあるひとたちがつくったりたりする番組ばんぐみだ。ただそれでも、やさしくよい番組ばんぐみになってしまう傾向けいこうはある。わたし真面目まじめになるならもっと真面目まじめに(できれば事件じけんまえに)おこったらよいのにおもって、そのことをった。番組ばんぐみ収録しゅうろくしたそのおなじスタジオで、〇〇ななねん障害しょうがいしゃでもなんでもできるようなことをかたる(きんジストロフィーの)にんがいて、そんなことを滔々とうとうかたひとだれなにわないのにいらいらしていた。その番組ばんぐみ横田よこたひろして、〇〇はちねんさんめの対談たいだん鼎談ていだんということになり、その記録きろく横田よこた立岩たていわ臼井うすい[2016]に収録しゅうろくされた。
★04 このことは各所かくしょ幾度いくどべている。遺伝子いでんし検査けんさ保険ほけんについて「未知みちによる連帯れんたい限界げんかい」([1998])。そしてぜい保険ほけんりょうのようなものでないことについては『ぜいなおす』(立岩たていわ村上むらかみ橋口はしぐち[2009])。そして〇〇〇ねんまえからその障害しょうがいしゃ運動うんどうを「介護かいご保険ほけんてきなもの」に対抗たいこうする運動うんどうとらえてまとめたのは[2012]。
★05 「危険きけんでないこと」をかたるとそれがげられ――「精神せいしん障害しょうがいしゃ犯罪はんざいりつ統計とうけいてきひくいこともわかっている。「あぶない」「隔離かくりしろ」という偏見へんけんひろげないことも大切たいせつだ」(朝日新聞あさひしんぶんったコメント[2016/07/28]とう)――実際じっさいそれにたいして、「はじめてそれをった」といった反応はんのうが(かなりおおく)ある。インタビューでは「障害しょうがいってことでいえば、ぼく両親りょうしん本格ほんかくてき認知にんちしょうだし、一人ひとりだけいるおい発達はったつ障害しょうがい。ほかにもいる。身内みうちだけてもこうですし、わたしとしをとりつつあるわけで、ききらいはべつとして当事とうじしゃであること、本人ほんにんになることからのがれられないということがあります。」([2016/10/25])といった――たしかにそんなこともはなした――箇所かしょ雑誌ざっしることになる。
★06 この箇所かしょいた横塚よこつか晃一こういちははよ!ころすな』の「解説かいせつ」([2007])の3は「なにがよいのか、はあなたのおもいとべつにある」(4は「だが、しめすならわかるはずであること」)。
 「否定ひていされそうな自分じぶんたちをすくってくれるのが「あい」とされる。だが自分じぶんたちをあいしてくれるのはあくまで相手あいてだ。それは自分じぶんたちの生存せいぞん相手あいて気持きもちに左右さゆうされるということでもある。そんなことでよいのか。/このようにかんがえてみると、かれらの乱暴らんぼう言葉ことば人間にんげん社会しゃかいのずいぶんふかいところをとらえていることがわかる。」(『聖教せいきょう新聞しんぶん』にった短文たんぶん、[2016/09/29])
 「かれらの乱暴らんぼう言葉ことば」は「われらはあい正義せいぎ否定ひていする」という標語ひょうごしている。
★07 他者たしゃこころよであることを『私的してき所有しょゆうろん』でべ、純粋じゅんすい利己りこ主義しゅぎについて『自由じゆう平等びょうどう』([2004/01/14])でべた。そんなこと・ものが実際じっさいにある。ただその標語ひょうごだけを標語ひょうごとしてってもらっても仕方しかたがない。いくつものおもいや観念かんねんそうがあるその複数ふくすうせいとらえ、そこからえらんだり、わせたりして使つかうことだ。
★08 これは英語えいごにしにくい言葉ことばで、『私的してき所有しょゆうろん英語えいごばん([2016/09/21])ではいささかの無理むり承知しょうちで ableismという言葉ことばにした(このことを英語えいごばん序文じょぶん[2016/09/21]でべている)。この英語えいご単語たんごはたぶんあたらしい言葉ことばで、(ふつうの意味いみでの)障害しょうがいしゃ(people with disability, disabled people)差別さべつ肯定こうていする主義しゅぎ健常けんじょうしゃ主義しゅぎといったものを意味いみしているようだが、日本にっぽんではもっとひろ意味いみ能力のうりょく主義しゅぎという言葉ことば使つかわれた。これをかんがえることはわたし最初さいしょからの仕事しごとであってきた。
 なおうまでもなく、この能力のうりょくはそれをもとめるものたちがどんなものをもとめるかによって、おおきくわってくるし、その増幅ぞうふくさせる仕組しくみがあると些細ささいおおきく現象げんしょうすることにもなる。たとえばものをつくったりするのは機械きかいがだいたいやってくれてしまっているので、人間にんげんのこされる仕事しごとは「人間にんげん関係かんけいてき仕事しごとになってしまい、そういうことが苦手にがてな「発達はったつ障害しょうがい」のひとたちがくくされ目立めだつようになってしまったとかんがえられることを『自閉症じへいしょう連続れんぞくたい時代じだい』([2014])でべた。
★09 なぜ個々ここの(通常つうじょう交換こうかんがなされる)じょう困難こんなん贈与ぞうよについての同意どうい社会しゃかいてき分配ぶんぱいられる可能かのうせいがあるのかについては『自由じゆう平等びょうどう』でかんがえた。
★10 ぜい累進るいしんせいたかめると「労働ろうどうインセンティブ」をぐことになる(からよくない)という理屈りくつ検討けんとう批判ひはん)は『ぜいなおす』だい([2009])だいしょう労働ろうどうインセンティブ」。ぎゃく効果こうか可能かのうせいがあること、それをしめすデータがあることをべた。
★11 『私的してき所有しょゆうろん』のほんだいしょうだいせつが「性能せいのうへの介入かいにゅう」で優生ゆうせいがく歴史れきししるしている。だいしょうが「ただしい優生ゆうせいがくとつきあう」で、出生しゅっしょうぜん診断しんだん選択せんたくてき中絶ちゅうぜつについて検討けんとうしている。その優生ゆうせいがく研究けんきゅうはいくらかの進展しんてんせたようで、しかしわたしはその勉強べんきょうはしなかった。優生ゆうせいがくにしても生殖せいしょく技術ぎじゅつにしても、そのほん使つかわれている文献ぶんけんいちきゅうきゅう年代ねんだいまでのもので、今回こんかい英訳えいやくばんすにあたって、そうした部分ぶぶんをそのままのこすのにはためらわれるところもあった。ただ大筋おおすじではくべきことはかれており、事実じじつ記述きじゅつとしても間違まちがったことはいていない。わたしはこのほん信州大学医療技術短期大学しんしゅうだいがくいりょうぎじゅつたんきだいがく現在げんざい信州大学しんしゅうだいがく医学部いがくぶ保健ほけん学科がっか)で看護かんごとう目指めざ学生がくせいの「社会しゃかいがく」の「教科書きょうかしょ」として(レンタルにして)使つかい、優生ゆうせいがく出生しゅっしょうぜん診断しんだんについて時間じかんをとってはなした。まずたん歴史れきしてき事実じじつっておくべきだとおもった。それが極端きょくたんへん思想しそうというものではないこともはなした。
 そしてそのほんではあまりふれず、そのいてきたのは、安楽あんらく尊厳そんげんのことだった。法制ほうせいうごきがあってなにかとうるさかったこともあるが、まれるまえのことよりも、きてきたひとぬことのほう深刻しんこくなことだとおもえたことにもよる。
★12 このことは幾度いくどいたりはなしたりしているのだが、それがいちきゅう世紀せいき以来いらい社会しゃかい経済けいざい思想しそう文脈ぶんみゃくにあるはなしであることにはづかないひともいるかもしれない。「少子しょうし高齢こうれい」という言葉ことばもまたその文脈ぶんみゃくえにくくしているのだろう。『現代げんだい思想しそう』での連載れんさいだいはちかいが「素朴そぼく唯物ゆいぶつろん支持しじする」だった([2013/01/01])。この前後ぜんごそれにかかわることをいた。ほんいちさつぶんにはなっているのだが、ひとがどれだけいるだろうともおもい、そのままになっている。
 りなくないというはなしは、書籍しょせきになっているものとしては『』([2008])だいしょう犠牲ぎせい不足ふそくについて」。むしろあまっていて、それをどう処理しょりするかにこの社会しゃかいはなかなか苦労くろうしているのだというはなしは『家族かぞくせい分業ぶんぎょうろん前哨ぜんしょう』(立岩たていわ村上むらかみ[2011])にある。近代きんだい家族かぞく専業せんぎょう主婦しゅふ体制たいせいひとをたくさんはたらかせるためにというよりは労働ろうどうりょく調整ちょうせいしつつ家計かけいという単位たんいのもとで(たいがいの)にんらせるようにする仕組しくみとして成立せいりつしたのだといったことがいてある。
★13 国境こっきょう完全かんぜん自由じゆう実現じつげんさせるわけでもなく、まったくの閉鎖へいさのために存在そんざいするのでもないなかなにこるかについていくつかにいている。[2001]は『国家こっか所有しょゆうのゆくえ』(稲葉いなば立岩たていわ[2006])とともにPC可読かどくファイルで提供ていきょうしている。国境こっきょうがそのように存在そんざいすることによってひときん流出りゅうしゅつ流入りゅうにゅうこりて、それが所得しょとくとうさい分配ぶんぱい十分じゅうぶんおこなえない理由りゆうにされてしまうことについては『ぜいなおす』。こうして徴税ちょうぜい困難こんなん、というより困難こんなんだといういいわけがあるのではあるが、失業しつぎょうてい賃金ちんぎん労働ろうどう拡大かくだいしていくなかで、所得しょとく分配ぶんぱいは(この体制たいせい維持いじしたいがわにとっても)必要ひつようとされる。そのひとつの方法ほうほうとしての「ベーシックインカム」について検討けんとうしたものとして『ベーシックインカム――分配ぶんぱいする最小さいしょう国家こっか可能かのうせい』(立岩たていわ齊藤さいとう[2010])。ちなみにわたしほん題名だいめいだけててきとうなことをひとたちが誤解ごかいしているのとことなり、ベーシックインカムの信奉しんぽうしゃというわけではない。それはほんんでもらえばわかる。

文献ぶんけん *はPC可読かどく媒体ばいたい提供ていきょう
安積あさか純子じゅんこ尾中おちゅうぶん哉・岡原おかはら正幸まさゆき立岩たていわしん也 2012 『なま技法ぎほう――いえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく だいはん』、生活せいかつ書院しょいん
Butler, Judith ・ Laclau, Ernesto・ Zizek, Slavoj 2000 Coningency, Hegemony, Universality: Cotemporary Dialogues on the Left, Verso=2002 竹村たけむら和子かずこ村山むらやま敏勝としかつ やく偶発ぐうはつせい・ヘゲモニー・普遍ふへんせい――あたらしい対抗たいこう政治せいじへの対話たいわ』、青土おうづちしゃ
稲葉いなば振一郎しんいちろう立岩たていわしん也 2006 『所有しょゆう国家こっかのゆくえ』、日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい *
立岩たていわしん也 1997 『私的してき所有しょゆうろん』、勁草書房しょぼう
―――― 1998 「未知みちによる連帯れんたい限界げんかい――遺伝子いでんし検査けんさ保険ほけん」、『現代げんだい思想しそう』26-9(1998-9):184-197(特集とくしゅう遺伝子いでんし操作そうさ)→立岩たていわ[2000:197-220]
―――― 2000 『よわくある自由じゆうへ――自己じこ決定けってい介護かいご生死せいし技術ぎじゅつ』、青土おうづちしゃ
―――― 2001 「国家こっか国境こっきょうについて・1〜3」、『たまき――歴史れきし環境かんきょう文明ぶんめい』5:153-164, 6:283-291, 7:286-295 *
―――― 2004 『自由じゆう平等びょうどう――簡単かんたんべつ姿すがた世界せかい』、岩波書店いわなみしょてん
―――― 2005 「書評しょひょう佐藤さとう幹夫みきお自閉症じへいしょう裁判さいばん――レッサーパンダぼうおとこの「つみばち」』」、『精神せいしん看護かんご』08-06(2005-11):110-116→立岩たていわ[2015]
―――― 2007 「解説かいせつ」、横塚よこつか[2007:391-428→2010:427-461]/立岩たていわ[2016/04/29]
―――― 2008 『』、筑摩書房ちくましょぼう
―――― 2009 「じくはやなおす――分配ぶんぱいのためにぜい使つかう」、立岩たていわ村上むらかみ橋口はしぐち[2009]
―――― 2012 「共助きょうじょたい障害しょうがいしゃ――ぜん世紀せいきまつからのやくじゅうねん」、安積あさか[2012:549-603]
―――― 2013/01/01 「素朴そぼく唯物ゆいぶつろん支持しじする――連載れんさい 85」、『現代げんだい思想しそう』41-1(2013-1):14-26
―――― 2013/05/20 『私的してき所有しょゆうろん だいはん』、生活せいかつ書院しょいん
―――― 2014 『自閉症じへいしょう連続れんぞくたい時代じだい』、みすず書房しょぼう
―――― 2015 『精神せいしん病院びょういん体制たいせいわり――認知にんちしょう時代じだいに』、青土おうづちしゃ
―――― 2016/07/28 「ななろく殺傷さっしょう事件じけんに」、『朝日新聞あさひしんぶん』2016-07-28朝刊ちょうかん取材しゅざい:07/26-27)
―――― 2016/08/02 「ななろく殺傷さっしょう事件じけんに」、共同通信きょうどうつうしん配信はいしん(『新潟にいがた日報にっぽう』『静岡しずおか新聞しんぶん』『高知新聞こうちしんぶんとう掲載けいさい原稿げんこう送付そうふ:08/01)
―――― 2016/08/07 「ななろく殺傷さっしょう事件じけんに」、NHK・Eテレ『バリバラ』緊急きんきゅう企画きかく障害しょうがいしゃ殺傷さっしょう事件じけんかんがえる」(収録しゅうろく:07/31)
―――― 2016/09/01 「ななろく殺傷さっしょう事件じけんに」、『現代げんだい思想しそう』44-17(2016-09):196-213
―――― 2016/09/21 On Private Property, English version, Kyoto Books
―――― 2016/09/21 Preface (2016, to Readers of the English Version), Tateiwa[2016]
―――― 2016/09/29 「みずからを否定ひていするものにはいかりを――横田よこたひろしらがうったえたこと」、『聖教せいきょう新聞しんぶん』2016-9-29
―――― 2016/10/01 「ななろく殺傷さっしょう事件じけんに 2」、『現代げんだい思想しそう』44-19(2016-10):133-157
―――― 2016/10/10 「国家こっか権力けんりょく素朴そぼくかんがえる」、『精神せいしん医療いりょう』84
―――― 2016/10/25 「障害しょうがいしゃ運動うんどうって、なんですか?――「障害しょうがいころしてもいい」といういちきゅうろく年代ねんだいから」(インタビュー、ききて奥田おくだ直美なおみ奥田おくだ順平じゅんぺい)、『Chio』113:64-75
立岩たていわしん也・村上むらかみきよし 2011 『家族かぞくせい分業ぶんぎょうろん前哨ぜんしょう』、生活せいかつ書院しょいん
立岩たていわしん也・村上むらかみまきつかさ橋口はしぐち昌治しょうじ 2009 『ぜいなおす』、青土おうづちしゃ
立岩たていわしん也・齊藤さいとうたく 2010 『ベーシックインカム――分配ぶんぱいする最小さいしょう国家こっか可能かのうせい』、青土おうづちしゃ
―――― 2015 『あたえられる生死せいしいちきゅうろく年代ねんだい――身体しんたい現代げんだい記録きろく:『しののめ』安楽あんらく特集とくしゅう/あざらしっ重度じゅうど心身しんしん障害しょうがい/「拝啓はいけい池田いけだ総理そうり大学だいがく殿どの』、Kyoto Books *
横田よこたひろし立岩たていわしん也・臼井うすい正樹まさき 2008 鼎談ていだん→2016 「対談たいだん2 〇〇はちいち」→横田よこた立岩たていわ臼井うすい[2016:178-213]
―――― 2016 『われらはあい正義せいぎ否定ひていする――脳性のうせいマヒしゃ 横田よこたひろしと「あおしば」』、生活せいかつ書院しょいん
横塚よこつか晃一こういち 1975 『ははよ!ころすな』、すずさわ書店しょてん
―――― 1981 『ははよ!ころすな 増補ぞうほばん』、すずさわ書店しょてん
―――― 2007 『ははよ!ころすな 新版しんぱん』、生活せいかつ書院しょいん


UP:2016 REV:2016
病者びょうしゃ障害しょうがいしゃ運動うんどう研究けんきゅう  ◇立岩たていわ しん  ◇Shin'ya Tateiwa 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)