はてなキーワード: 毛利もうり嘉孝よしたかとは
東あずま浩ひろし紀きの伝記でんきを書かく。ゼロ年代ねんだいに二に十じゅう代だいを過すごした私わたしたちにとって、東あずま浩ひろし紀きは特別とくべつの存在そんざいであった。これは今いまの若わかい人ひとには分ぶんからないであろう。経験けいけんしていないとネット草創そうそう期きの興奮こうふんはおそらく分わかからないからである。たしかにその頃ころは就職しゅうしょく状況じょうきょうが悪わるかったのであるが、それはまた別べつに、インターネットは楽らくしかったのであり、インターネットが全すべてを変かえていくだろうという夢ゆめがあった。ゼロ年代ねんだいを代表だいひょうする人物じんぶつを3人にん挙あげるとすれば、東あずま浩ひろし紀き、堀江ほりえ貴文たかふみ(ホリエモン)、西村にしむら博之ひろゆき(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼かれらはネット草創そうそう期きに大だい暴あばれした面々めんめんである。今いまの若わかい人ひとたちはデジタルネイティブであり、それこそ赤あかちゃんの頃ころからスマホを触さわっているそうであるが、我々われわれの小ちいさい頃ころにはスマホはおろか携帯けいたい電話でんわすらなかったのである。ファミコンはあったが。今いまの若わかい人ひとたちにはネットがない状況じょうきょうなど想像そうぞうもできないだろう。
私わたしは東あずま浩ひろし紀きの主著しゅちょは読よんでいるものの、書かいたものを網羅もうら的てきに読よんでいるというほどではなく、酔よっ払ぱらい配信はいしんもほとんど見みていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東あずま浩ひろし紀きスレの古参こさんではあり、ゴシップ的てきなことはよく知しっているつもりである。そういう立場たちばから彼かれの伝記でんきを書かいていきたいと思おもう。
1 批評ひひょう空間くうかん
東あずま浩ひろし紀きは71年ねん5月9日にち生せいまれである。「動どうポモ」でも援用えんようされている見田みた宗はじめ介かいの時代じだい区分くぶんだと、虚構きょこうの時代じだいのちょうど入いり口くちで生せいを享とおるけたことになる。國分こくぶ功いさお一郎いちろうは74年ねん、千葉ちば雅也まさやは78年生ねんせいまれである。國分こくぶとはたった3歳さいしか離はなれていないが、東ひがしが早々そうそうにデビューしたために、彼かれらとはもっと年としが離はなれていると錯覚さっかくしてしまう。
東ひがしは中流ちゅうりゅう家庭かていに生なままれたらしい。三鷹みたか市しから横浜よこはま市しに引ひっ越こした。東ひがしには妹いもうとがおり、医療いりょう従事じゅうじ者ものらしい(医者いしゃではない)。父親ちちおやは金沢かなざわの出身しゅっしんで、金沢かなざわ二水にすい高校こうこうを出でているそうである(【政治せいじ番組ばんぐみ】東あずま浩ひろし紀き×津田つだ大介だいすけ×夏野なつの剛つよし×三浦みうら瑠麗が「内閣ないかく改造かいぞう」について大だい盛もり上あがり!「今いまの左翼さよくは新しん左翼さよく。左翼さよくよりバカ!」【真実しんじつと幻想げんそうと】)。
東ひがしは日能研にちのうけんでさっそく頭角とうかくを現あらわす。模試もしで全国ぜんこく一いち桁けたにいきなり入はいった(らしい)。特別とくべつ栄冠えいかんを得えた(らしい)。これに比くらべたら、大学だいがく予備校よびこうの模試もしでどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学つくばだいがく附属ふぞく駒場こまば中学校ちゅうがっこう)に進学しんがくする。筑駒在学ざいがく中ちゅうの特筆とくひつすべきエピソードとしては、おニャン子こクラブの高井たかい麻巳子まみこの福井ふくい県けんの実家じっかを訪問ほうもんしたことであろうか。秋元あきもと康やすしが結婚けっこんしたのは高井たかいであり、東ひがしの目めの高たかさが分わかるであろう。また、東ひがしは中学生ちゅうがくせい時代じだいにうる星せいやつらのファンクラブを立たち上あげたが、舐なめられるのがイヤで年としを誤魔化ごまかしていたところ、それをい出いだせずに逃にげ出だしたらしい(5ちゃんねる、東あずま浩ひろし紀きスレ722の555)。
もう一ひとつエピソードがあって、昭和しょうわ天皇てんのうが死しんだときに、記帳きちょうに訪おとずれたらしい。
東ひがしは東大とうだい文ぶん一いちに入学にゅうがくする。文三ぶんぞうではないことに注意ちゅういされたい。そこで柄え谷行たにいき人じんの講演こうえんを聞ききに行いって何なにか質問しつもんをしたところ、後あとで会あおうと言いわれ、「批評ひひょう空間くうかん」に弱冠じゃっかん21歳さいでデビューする。「ソルジェニーツィン試論しろん」(1993年ねん4月がつ)である。ソルジェニーツィンなどよく読よんでいたなと思おもうが、新潮しんちょう文庫ぶんこのノーベル賞しょう作家さっかを潰つぶしていくという読書どくしょ計画けいかくだったらしい。また、残虐ざんぎゃく記きのようなのがけっこう好すきで、よく読よんでいたというのもある。三里塚さんりづか闘争とうそうについても関心かんしんがあったようだ。「ハンスが殺ころされたことが悲劇ひげきなのではない。むしろハンスでも誰だれでもよかったこと、つまりハンスが殺ころされなかったかも知しれないことこそが悲劇ひげきなのだ」(「存在そんざい論ろん的てき、郵便ゆうびん的まと」)という問題もんだい意識いしきで書かかれている。ルーマン用語ようごでいえば、偶発ぐうはつ性せい(別様べつようであり得えること)の問題もんだいであろうか。
東ひがしは、教養きょうよう課程かていでは、佐藤さとう誠まこと三郎さぶろうのゼミに所属しょぞくしていた。佐藤さとうは村上むらかみ泰やすし亮あきら、公文くもん俊平しゅんぺいとともに「文明ぶんめいとしてのイエ社会しゃかい」(1979年ねん)を出だしている。共著きょうちょ者しゃのうち公文くもん俊平しゅんぺいだけは現在げんざい(2024年ねん7月がつ)も存命ぞんめいであるが、ゼロ年代ねんだいに東ひがしは公文こうぶんとグロコムで同僚どうりょうとなる。「文明ぶんめいとしてのイエ社会しゃかい」は「思想しそう地図ちず」第だい1号ごうで言及げんきゅうされており、浩瀚こうかんな本ほんなので本当ほんとうに読よんだのだろうかと思おもったものであるが、佐藤さとうのゼミに所属しょぞくしていたことから、学部がくぶ時代じだいに読よんだのだろう。
東ひがしは94年ねん3月がつに東京大学とうきょうだいがく教養きょうよう学部がくぶ教養きょうよう学科がっか科学かがく史し・科学かがく哲学てつがく分科ぶんかを卒業そつぎょうし、同どう4月がつに東京大学とうきょうだいがく大学だいがく院いん総合そうごう文化ぶんか研究けんきゅう科か超ちょう域いき文化ぶんか科学かがく専攻せんこうに進学しんがくする。修士しゅうし論文ろんぶんはバフチンで書かいたらしい。博士はかせ論文ろんぶんではデリダを扱あつかっている。批評ひひょう空間くうかんに94年ねんから97年ねんにかけて連載れんさいしたものをまとめたものである。私わたしたちの世代せだいは三さん読くらいしたものである。博論はくろん本ほん「存在そんざい論ろん的てき、郵便ゆうびん的まと」は98年ねんに出でた。浅田あさだ彰あきらが「東あずま浩ひろし紀きとの出会であいは新鮮しんせんな驚おどろきだった。(・・・)その驚おどろきとともに私わたしは『構造こうぞうと力ちから』がとうとう完全かんぜんに過去かこのものとなったことを認みとめたのである」という帯おび文ぶんを書かいていた。
郵便ゆうびん本ほんの内容ないようはウィキペディアの要約ようやくが分わかりやすく、ツイッターで清水しみず高志たかしが褒ほめていた。「25年ねん後ごの東あずま浩ひろし紀き」(2024年ねん)という本ほんが出でて、この本ほんの第だい3部ぶに、森脇もりわき透とおる青あおと小川おがわ歩ふ人じんによる90ページにわたる要約ようやくが付ついている。森脇もりわきは東ひがしの後継こうけい者しゃと一部いちぶで目めされている。
東ひがしの若わかいころの友達ともだちに阿部あべ和重かずえがいる。阿部あべはゲンロンの当初とうしょからの会員かいいんだったらしい。妻つまの川上かわかみ未み映子えいこは「ゲンロン15」(2023年ねん)に「春はるに思おもっていたこと」というエッセイを寄稿きこうしている。川上かわかみは早稲田わせだ文学ぶんがくの市川いちかわ真人まさとによって見出みいだされたらしく、市川いちかわは渡辺わたなべ直己なおきの直じき弟子でしである。市川いちかわは鼎談ていだん「現代げんだい日本にっぽんの批評ひひょう」にも参加さんかしている。
東ひがしは、翻訳ほんやく家か・小鷹こたか信光のぶみつの娘むすめで、作家さっかのほしおさなえ(1964年ねん生せいまれ)と結婚けっこんした。7歳さい年上としうえである。不倫ふりんだったらしい。98年ねん2月がつには同棲どうせいしていたとウィキペディアには書かかれていたのであるが、いつのまにか98年ねんに学生がくせい結婚けっこんと書かかれていた。辻田つじた真しん佐さ憲けんによるインタビュー「東あずま浩ひろし紀き「批評ひひょう家いえが中小ちゅうしょう企業きぎょうを経営けいえいするということ」 アップリンク問題もんだいはなぜ起おきたか」(2020年ねん)で「それは結婚けっこんの年としでもあります」と言いっており、そこが根拠こんきょかもしれないが、明示めいじされているわけではない。
そして娘むすめの汐音しおねちゃんが生うまれる。汐音しおねちゃんは2005年ねんの6月6日にち生せいまれである。ウィキペディアには午後ごご1時半じはんごろと、生せいまれた時間じかんまで書かかれている。名前なまえはクラナドの「汐しお」と胎児たいじ用よう聴診ちょうしん器き「心音しんおんちゃん」から取とったらしい。ツイッターのアイコンに汐音しおねちゃんの写真しゃしんを使つかっていたものの、フェミに叩たたかれ、自分じぶんの写真しゃしんに代かえた。汐音しおねちゃんは「よいこのための吾妻あづまひでお」 (2012年ねん)のカバーを飾かざっている。「日本にっぽん科学かがく未み来館らいかん「世界せかいの終おわりのものがたり」展てんに潜入せんにゅう "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年ねん6月9日にち)では7歳さいになったばかりの汐音しおねちゃんが見みられる。
96年ねん、コロンビア大学ころんびあだいがくの大学だいがく院いん入試にゅうしに、柄え谷だにの推薦すいせん状じょうがあったのにもかかわらず落おちている。フラタニティ的てきな評価ひょうかによるものではないかと、どこかで東ひがしは推測すいそくしていた。入試にゅうしについて東ひがしはこう言いっている。「入試にゅうしが残酷ざんこくなのは、それが受験生じゅけんせいを合格ごうかくと不ふ合格ごうかくに振ふり分わけるからなのではない。ほんとうに残酷ざんこくなのは、それが、数すう年ねんにわたって、受験生じゅけんせいや家族かぞくに対たいし「おまえの未来みらいは合格ごうかくか不ふ合格ごうかくかどちらかだ」と単純たんじゅんな対立たいりつを押おしつけてくることにあるのだ」(「選択肢せんたくしは無限むげんである」、「ゆるく考かんがえる」所収しょしゅう)。いかにも東ひがしらしい発想はっそうといえよう。
2 ゼロ年代ねんだい
東ひがしの次つぎの主著しゅちょは「動物どうぶつ化かするポストモダン」で、これは2001年ねんに刊行かんこうされる。98年ねんから01年ねんという3年ねんの間あいだに、急きゅう旋回せんかいを遂とげたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼よばれるか」はその間あいだの論考ろんこうである。
東ひがしはエヴァに嵌はまっており、「庵あん野の秀明ひであきはいかにして八はち〇年代ねんだい日本にっぽんアニメを終おわらせたか」(1996年ねん)などのエヴァ論ろんも書かいている。その頃ころに書かいたエッセイは「郵便ゆうびん的てき不安ふあんたち」(1999年ねん)に収おさめられた。エヴァ本ほんをデビュー作さくにすることも考かんがえたらしいが、浅田あさだ彰あきらに止とめられたらしい。だから、サブカル本ほんを出だすというのは、最初さいしょから頭あたまの中なかにあったのだろう。
「いま批評ひひょうの場所ばしょはどこにあるのか」(批評ひひょう空間くうかん第だいⅡ期き第だい21号ごう、1999年ねん3月がつ)というシンポジウムを経へて、東ひがしは批評ひひょう空間くうかんと決裂けつれつするが、それについて25年ねん後ごに次つぎのように総括そうかつしている。「ぼくが考かんがえる哲学てつがくが『批評ひひょう空間くうかん』にはないと思おもってしまった。でも感情かんじょう的てきには移転いてんがあるから、「お前まえはバカだ」と非難ひなんされるような状態じょうたいにならないと関係かんけいが切きれない」(「25年ねん後ごの東あずま浩ひろし紀き」、224-5頁ぺーじ)。
動どうポモは10万まん部ぶくらい売うれたらしいが、まさに時代じだいを切きり拓ひらく書物しょもつであった。10万まん部ぶというのは大たいした部数ぶすうではないようにも思おもわれるかもしれないが、ここから「動どうポモ論壇ろんだん」が立たち上あがったのであり、観客かんきゃくの数かずとしては10万まんもいれば十分じゅうぶんなのであろう。動どうポモはフェミニストには評判ひょうばんが悪わるいようである。北村きたむら紗しゃ衣ころもも東ひがしのことが嫌きらいらしい。動どうポモは英訳えいやくされている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般いっぱん意志いし2.0」「観光かんこう客きゃくの哲学てつがく」も英訳えいやくされているが、アマゾンのglobal ratingsの数かずは動どうポモが60、「一般いっぱん意志いし2.0」が4つ、「観光かんこう客きゃくの哲学てつがく」が3つと動どうポモが圧倒的あっとうてきである(2024年ねん8月がつ3日にち閲覧えつらん)。動どうポモは海外かいがいの論文ろんぶんでもよく引用いんようされているらしい。
次つぎの主著しゅちょである「ゲーム的てきリアリズムの誕生たんじょう――動物どうぶつ化かするポストモダン2」までは6年ねん空あき、2007年ねんに出でた。この間あいだ、東ひがしは「情報じょうほう自由じゆう論ろん」も書かいていたが、監視かんしを否定ひていする立場たちばから肯定こうていする立場たちばへと、途中とちゅうで考かんがえが変かわったこともあり、単たん著ちょとしては出ださず、「サイバースペース」と抱だき合あわせで、同おなじく2007年ねんに発売はつばいされる(「情報じょうほう環境かんきょう論集ろんしゅう―東あずま浩ひろし紀きコレクションS」)。「サイバースペース」は「東あずま浩ひろし紀きアーカイブス2」(2011年ねん)として文庫ぶんこ化かされるが、「情報じょうほう自由じゆう論ろん」はここでしか読よめない。「サイバースペース」と「情報じょうほう自由じゆう論ろん」はどちらも評価ひょうかが高たかく、この頃ころの東ひがしは多作たさくであった。
この頃ころは北田きただ暁あきら大だいと仲なかが良よかった。北田きただは東ひがしと同おなじく1971年ねん生せいまれである。東ひがしと北田きただは、2008年ねんから2010年ねんにかけて「思想しそう地図ちず」を共編きょうへんでNHK出版しゅっぱんから出だすが、3号ごうあたりで方針ほうしんが合あわなくなり、5号ごうで終おわる。北田きただは「思想しそう地図ちずβべーた」1号ごう(2010年ねん)の鼎談ていだんには出でてきたものの、今いまはもう交流こうりゅうはないようである。北田きただはかつてツイッターで活発かっぱつに活動かつどうしていたが、今いまはやっていない。ユミソンという人ひと(本名ほんみょうらしい)からセクハラを告発こくはつされたこともあるが、不発ふはつに終おわったようである。結婚けっこんして子供こどももできて幸しあわせらしい。
その頃ころは2ちゃんねるがネットの中心ちゅうしんであったが、北田きただは「嗤う日本にっぽんの「ナショナリズム」」(2006年ねん)で2ちゃんを俎上そじょうに載のせている。北田きただは「広告こうこく都市とし・東京とうきょう」(2002年ねん)で「つながりの社会しゃかい性せい」という概念がいねんを出だしていたが、コミュニケーションの中身なかみよりも、コミュニケーションが接続せつぞくしていくことに意味いみがあるというような事態じたいを表あらわしていた。この概念がいねんを応用おうようし、2ちゃんでは際きわどいことが言いわれているが、それはネタなので心配しんぱいしなくていいというようなことが書かかれていた。2ちゃん分析ぶんせきの古典こてんではある。
東ひがしは宮台みやのだい真司しんじや大澤おおさわ真幸まさきとも付つき合あっているが、彼かれらは北田きただのように鋭するどくゼロ年代ねんだいを観察かんさつしたというわけではなく、先行せんこう文献ぶんけんの著者ちょしゃである。宮台みやのだいは98年ねんにフィールドワークを止とめてからは、研究けんきゅう者しゃというよりは評論ひょうろん家かになってしまった。大澤おおさわは日本にっぽんのジジェクと称しょうされるが、何なにを論ろんじても同おなじなのもジジェクと同様どうようである。動どうポモは彼かれらの議論ぎろんを整理せいりして更新こうしんしているのであるが、動どうポモも「ゲーム的てきリアリズムの誕生たんじょう」も、実際じっさいに下敷したじきになっているのは大塚おおつか英志えいじであろう。
宮台みやのだいや大澤おおさわや北田きただはいずれもルーマン派はであるが、ルーマンっぽいことを言いっているだけという印象いんしょうで、東ひがしとルーマンも似にているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究けんきゅう者しゃの馬場ばば靖雄やすお(2021年ねんに逝去せいきょ)は批評ひひょう空間くうかんに連載れんさいされていた頃ころから「存在そんざい論ろん的てき、郵便ゆうびん的まと」に注目ちゅうもくしており、早はやくも論文ろんぶん「正義まさよしの門前もんぜん」(1996)で言及げんきゅうしていた。最初さいしょ期きの言及げんきゅうではないだろうか。主著しゅちょ「ルーマンの社会しゃかい理論りろん」(2001)には東ひがしは出でてこないが、主著しゅちょと同どう年刊ねんかんの編著へんちょ「反はん=理論りろんのアクチュアリティー」(2001)所収しょしゅうの「二につの批評ひひょう、二につの「社会しゃかい」」ではルーマンと東ひがしが並なべて論ろんじられている。
佐々木ささき敦あつし「ニッポンの思想しそう」(2009年ねん)によると、ゼロ年代ねんだいの思想しそうは東ひがしの「ひとり勝がち」であった。額縁がくぶち批評ひひょうなどと揶揄やゆされる佐々木ささきではあるが、堅実けんじつにまとまっている。類書るいしょとしては、仲なか正ただし昌樹まさき「集中しゅうちゅう講義こうぎ!日本にっぽんの現代げんだい思想しそう ポストモダンとは何なにだったのか」 (2006)や本上ほんじょうまもる「 “ポストモダン”とは何なにだったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲なか正ただしは今いまでも読まれているようである。本上ほんじょうは忘わすれられているのではないか。この手ての本ほんはこれ以後いご出でていない。需要じゅようがないのだろうか。
佐々木ささきの「ひとり勝がち」判定はんていであるが、そもそもゼロ年代ねんだいの思想しそうの土俵どひょうを作つくったのは動どうポモであり、そこで東ひがしが勝かつというのは当あたり前まえのことであった。いわゆる東ひがしチルドレンは東ひがしの手てのひらで踊おどっていただけなのかもしれない。懐なつかしい人ひとたちではある。
北田きただによると、東ひがしの「情報じょうほう技術ぎじゅつと公共こうきょう性せいをめぐる近年きんねんの議論ぎろん」は、「批評ひひょうが、社会しゃかい科学かがく的てきな知ち――局所きょくしょから全体ぜんたいを推測すいそくする手続てつづきを重視じゅうしする言説げんせつ群ぐん――を媒介ばいかいせずに、技術ぎじゅつ、工学こうがく的てき知ちと直結ちょっけつした形かたちで存在そんざいする可能かのう性せいの模索もさくである」(「社会しゃかいの批評ひひょうIntroduction」、「思想しそう地図ちずvol.5」、81-2頁ぺーじ)ということであるが、ゼロ年代ねんだいの東ひがしはこういう道みちを歩あゆんでいた。キットラーに似にており、東ひがしチルドレンでは濱野はまの智史さとしがこの道みちを歩あゆんだのであるが、東ひがしチルドレンが全すべてそうだったわけでもなく、社会しゃかい学がくでサブカルを語かたるというような緩ゆるい営いとなみに終始しゅうししていた。宇野うの常つね寛ひろしなどはまさにこれであろう。
佐々木ささき「ニッポンの思想しそう」と同おなじ2009年ねん7月がつに、毛利もうり嘉孝よしたか「ストリートの思想しそう」が出でている。文化ぶんか左翼さよくの歴史れきしをたどっているのであるが、この頃ころはまだ大人おとなしかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄やゆされていた。しかし、テン年代ねんだい(佐々木ささきの命名めいめい)から勢いきおいが増ましていき、今いまや大学だいがく、メディア、大だい企業きぎょう、裁判所さいばんしょを押おさえるに至いたっている。しかし、ゼロ年代ねんだいにおいて、動どうポモ論壇ろんだんと比較ひかくできるのは、非ひモテ論壇ろんだんやロスジェネ論壇ろんだんであろう。
非ひモテ論壇ろんだんは、小谷野こやの敦あつしの「もてない男おとこ」 (1999年ねん)に始はじめまり、本田ほんだ透とおるに引ひき継つがれるが、ものすごく盛もり上あがっているというほどでもなかった。本田ほんだは消息しょうそくが分ぶんからなくなり、小谷野こやのも2017年ねん頃ころから売うれなくなった。ツイッターでは雁かり琳のような第だい三さん波はフェミニズムに応対おうたいできる論者ろんしゃが主流しゅりゅうとなっているが、そういうのの影かげに隠かくれたかたちであろう。大場おおば博幸ひろゆき「非ひモテ独身どくしん男性だんせいをめぐる言説げんせつ史しとその社会しゃかい的てき包摂ほうせつ」(2021年ねん、教育きょういく學がく Permalink | 記事きじへの反応はんのう(13) | 17:44
ツイートシェア
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
Permalink | 記事きじへの反応はんのう(0) | 13:57