『それ、フェミニズムに聞 き いてみない?』には、「日々 ひび のもやもやを一緒 いっしょ に考 かんが えるフェミニスト・ガイド」という副題 ふくだい が添 そ えられている。原題 げんだい は "WHAT WOULD DE BEAUVOIR DO? How the Greatest Feminists Would Solve Your Everyday Problems"。直訳 ちょくやく すれば、「ボーヴォワールならどうしたか?偉大 いだい なフェミニストたちはいかにしてあなたの毎日 まいにち の問題 もんだい を解決 かいけつ しただろうか」。この本 ほん は、「人 ひと は女 おんな に生 う まれるのではない、女 おんな になるのだ」の一節 いっせつ でおなじみ、『第 だい 二 に の性 せい 』(1949)のシモーヌ・ド・ボーヴォワールをはじめとする新旧 しんきゅう のフェミニストの著作 ちょさく を参照 さんしょう し、現代 げんだい の女性 じょせい たちが日々 ひび の生活 せいかつ の中 なか で抱 いだ くさまざまな疑問 ぎもん について、これまでにどのような議論 ぎろん がなされてきたのかを紹介 しょうかい する読 よ みものだ。
タイトルに掲 かか げられたボーヴォワールはフランス人 じん だが、この本 ほん は2018年 ねん にイギリスで出版 しゅっぱん された本 ほん である。著者 ちょしゃ はロンドンを拠点 きょてん に活動 かつどう するジャーナリストだというタビ・ジャクソン・ジーと、哲学 てつがく 者 しゃ ・作家 さっか ・フェミニストのフレイヤ・ローズ。章 あきら 立 だ ては「政治 せいじ と権力 けんりょく 」「恋愛 れんあい と人間 にんげん 関係 かんけい 」「結婚 けっこん と家庭 かてい 生活 せいかつ 」「仕事 しごと と賃金 ちんぎん 」「メディアにおける女性 じょせい 」「私 わたし の身体 しんたい は私 わたし のもの」の6部 ぶ 構成 こうせい 。全部 ぜんぶ で40の問 と いが設定 せってい されている。
第 だい 1章 しょう 「政治 せいじ と権力 けんりょく 」の章 しょう では、導入 どうにゅう として「フェミニストって誰 だれ のこと?」「男性 だんせい と同 おな じ権利 けんり なんて、もうすでに持 も っているんじゃない?」といった大局 たいきょく 的 てき な問 と いが検討 けんとう される。「どうして選挙 せんきょ に行 い かなきゃだめなの?私 わたし の生活 せいかつ は変 か わらないけどなあ。」の項 こう では女性 じょせい 参政 さんせい 権 けん 獲得 かくとく までの道 みち のりが紹介 しょうかい され、さらに日常 にちじょう 生活 せいかつ のうちに見 み られるステレオタイプの問題 もんだい に斬 き り込 こ む(たとえば「女性 じょせい は男性 だんせい よりも思 おも いやりがあるって、なんで言 い っちゃだめなの?」)。
続 つづ く「恋愛 れんあい と人間 にんげん 関係 かんけい 」「結婚 けっこん と家庭 かてい 生活 せいかつ 」の章 しょう で俎上 そじょう に載 の せられる話題 わだい は、ぐぐっと俗 ぞく っぽい女性 じょせい 誌 し に接近 せっきん する。「自分 じぶん を客体 かくたい 化 か することなく、マッチングアプリを使 つか うってできるかな?」「ワンナイトして悪 わる いの?」「私 わたし は幸 しあわ せで成功 せいこう もしてる。パートナーっていなきゃだめなの?」などだ。「仕事 しごと の賃金 ちんぎん 」の章 しょう でも、「主婦 しゅふ になりたいんだけど、だめですか?」「上司 じょうし が仕事 しごと ではハイヒールを履 は けって言 い ってくる、これって合法 ごうほう ?」「出世 しゅっせ のためには男性 だんせい の同僚 どうりょう と飲 の みに行 い かなきゃだめなの?」など、ここ日本 にっぽん でもたびたび論議 ろんぎ の的 まと となってきたトピックが取 と り上 あ げられており、良 よ くも悪 わる くも私 わたし たちは同 おな じ苛烈 かれつ なグローバル資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい に生 い きているのだと感 かん じずにはいられない。
「イギリスで書 か かれた本 ほん 」の特性 とくせい と限界 げんかい
グローバルな問題 もんだい 意識 いしき といえば、この本 ほん では近年 きんねん ますます重視 じゅうし されつつある交差 こうさ 性 せい (インターセクショナリティ)の大切 たいせつ さも論 ろん じられている。ジェンダー、セクシュアリティ、人種 じんしゅ 、国籍 こくせき 、階級 かいきゅう 、世代 せだい 、障害 しょうがい の有無 うむ や程度 ていど など、さまざまな要因 よういん が複雑 ふくざつ に絡 から み合 あ って個人 こじん の経験 けいけん をかたちづくっていることを認識 にんしき し、ひとつの軸 じく だけでは見過 みす ごされてしまう抑圧 よくあつ や差別 さべつ を捉 とら えようとする概念 がいねん である。
とはいえ、やはりここでは、生 う まれたときに割 わ り当 あ てられた性 せい が女性 じょせい で、そのまま自身 じしん を女性 じょせい と認識 にんしき して生 い きているシスジェンダー、かつ異性愛者 いせいあいしゃ で、大 おお きな障害 しょうがい はなく、都会 とかい で恋 こい に仕事 しごと にがんばろうとしている西欧 せいおう の20代 だい 〜30代 だい 白人 はくじん 女性 じょせい の視点 してん が前面 ぜんめん に出 で ていると言 い わざるを得 え ない。「フェミニズムは白人 はくじん 女性 じょせい だけのもの?」という問 と いが持 も ち上 あ がること自体 じたい がその証左 しょうさ だろう。ちなみに日本 にっぽん のフェミニストでは自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう の闘士 とうし だった岸田 きしだ 俊子 としこ への言及 げんきゅう があるものの、アジアやアフリカ、中東 ちゅうとう に特有 とくゆう の事情 じじょう は顧 かえり みられていない。それを視野 しや の狭 せま さと見 み るか、自分 じぶん にとって切実 せつじつ な問題 もんだい に集中 しゅうちゅう する誠実 せいじつ さと見 み るかは意見 いけん が分 わ かれそうだ。基本 きほん 的 てき におしゃれでもなんでもない、保守 ほしゅ 的 てき でダサいほうのイギリスの日常 にちじょう 風景 ふうけい が目 め に浮 う かんでくる本 ほん である。
時代 じだい を超 こ えるもの、超 こ えないもの
それが書 か かれた時代 じだい と密接 みっせつ に関 かか わっているゆえに、現在 げんざい ではあまり手 しゅ に取 と られることのない著作 ちょさく がたくさん紹介 しょうかい されているのは、この本 ほん の良 よ いところでもあり、注意 ちゅうい が必要 ひつよう なところでもある。たとえば、ここでは「美 うつく しくあれ」というプレッシャーが女性 じょせい を抑圧 よくあつ してきたと論 ろん じるナオミ・ウルフ『美 び の陰謀 いんぼう ――女 おんな たちの見 み えない敵 てき 』がたびたび引用 いんよう されている。私 わたし 自身 じしん 90年代 ねんだい に翻訳 ほんやく が出版 しゅっぱん された際 さい に面白 おもしろ く読 よ み、当時 とうじ 自主 じしゅ 制作 せいさく していたミニコミ(ZINE)にレビューを書 か いた本 ほん だが、近年 きんねん のウルフは信憑 しんぴょう 性 せい の無 な いデマを広 ひろ めていたりするので、改 あらた めて紹介 しょうかい するのは躊躇 ちゅうちょ してしまう。
とはいえ、この本 ほん でもジャン=ジャック・ルソーの狭量 きょうりょう な人間 にんげん 観 かん が指摘 してき されているように(p.195「ルソーが「人間 にんげん (Man)」と言 い うとき、女性 じょせい はそこに含 ふく まれていなかったことがすぐに明 あき らかになりました」)、男性 だんせい の場合 ばあい 、現在 げんざい の感覚 かんかく では倫理 りんり 的 てき に酷 ひど いことを言 い ったりやったりしているにもかかわらず偉人 いじん として大々的 だいだいてき に褒 ほ め称 とな えられている人物 じんぶつ はたくさんいる。日本 にっぽん では、帝国 ていこく 主義 しゅぎ ・植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ を進 すす めたとして批判 ひはん されている渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち が一 いち 万 まん 円 えん 札 さつ になる始末 しまつ だ。それを思 おも うと、女性 じょせい ばかりが厳 きび しいジャッジに晒 さら され、完璧 かんぺき を求 もと められているようにも感 かん じてしまう。そこには確 たし かにジェンダーによる不公平 ふこうへい がある。
なんにせよ、私 わたし たちは過去 かこ の論者 ろんしゃ たちの問題 もんだい を認識 にんしき しつつ、批判 ひはん 的 てき に継承 けいしょう する術 じゅつ を探 さぐ らなければいけないのだろう。これに関 かん して言 い えば、ケイト・ミレット『性 せい の政治 せいじ 学 がく 』、シュラミス・ファイアストーン『性 せい の弁証法 べんしょうほう 』、ジル・ジョンストン『レズビアン・ネーション』あたりは、たとえ現代 げんだい にその主張 しゅちょう を全 ぜん 肯定 こうてい するのは難 むずか しくとも、その思 おも い切 き った発想 はっそう が再 さい 評価 ひょうか されそうな気 き がした。
語 かた り継 つ がれるフェミニズム
全部 ぜんぶ で40ものトピックが用意 ようい されているので、雑誌 ざっし をぱらぱらめくる感覚 かんかく で気 き になるところから読 よ むのもいいだろう。自分 じぶん の場合 ばあい 、恋愛 れんあい ・結婚 けっこん や職場 しょくば での衝突 しょうとつ といった「身 み の上 うえ 相談 そうだん 」的 てき な話題 わだい を扱 あつか った2〜4章 しょう よりも、第 だい 5章 しょう 「メディアにおける女性 じょせい 」に興味 きょうみ を引 ひ かれる。特 とく に「どうして女性 じょせい 誌 し が必要 ひつよう なんだろう?」の項 こう 、女性 じょせい の声 こえ に耳 みみ が傾 かたむ けられる空間 くうかん の必要 ひつよう 性 せい を訴 うった えるくだりには共感 きょうかん できた。
巻末 かんまつ の謝辞 しゃじ で、著者 ちょしゃ のひとりジャクソン・ジーはこう述 の べている。「まずは私 わたし にとってのロックスター、コニーおばあちゃんにこの本 ほん を捧 ささ げます(彼女 かのじょ はかつて雑誌 ざっし 『スペア・リブ(Spare Rib)』を作 つく っていたんです)」。『スペア・リブ』はイギリスで1972年 ねん に創刊 そうかん され、1993年 ねん まで刊行 かんこう されていたフェミニスト雑誌 ざっし である。70年代 ねんだい のウーマンリブ(女性 じょせい 解放 かいほう 運動 うんどう )に携 たずさ わった女性 じょせい たちの子 こ どもたちにあたる世代 せだい が、90年代 ねんだい のライオット・ガール(DIYパンクとフェミニズムが組 く み合 あ わさった運動 うんどう )とその大衆 たいしゅう 化 か を経験 けいけん した。2010年代 ねんだい 以降 いこう は、さらにその子 こ どもたちの世代 せだい がフェミニズムを発見 はっけん し、語 かた り継 つ ごうとしていることがわかる。さて、自分 じぶん は先行 せんこう する世代 せだい からどんな言葉 ことば を受 う け取 と り、次 つぎ の世代 せだい に何 なに を伝 つた えていけるだろうか――それを各々 おのおの が考 かんが え、実践 じっせん することで、フェミニズムは豊 ゆた かになっていくのだろう。
この記事 きじ を書 か いた人 ひと
野中 のなか モモ(のなか もも)
ライター、翻訳 ほんやく 者 しゃ 。訳書 やくしょ にナージャ・トロコンニコワ『読書 どくしょ と暴動 ぼうどう プッシー・ライオットのアクティビズム入門 にゅうもん 』(ソウ・スウィート・パブリッシング)、デヴィッド・バーン 『音楽 おんがく のはたらき』(イースト・プレス)など。著書 ちょしょ に『デヴィッド・ボウイ 変幻 へんげん するカルト・スター』(筑摩書房 ちくましょぼう )、『野中 のなか モモの「ZINE」 小 ちい さなわたしのメディアを作 つく る』(晶文社 しょうぶんしゃ )など。
この本 ほん を書 か いた人 ひと
タビ・ジャクソン・ジー(Tabi Jackson Gee)
ロンドンを拠点 きょてん とするジャーナリスト。全国 ぜんこく 紙 し や、新 あたら しく出 で てきたさまざまな女性 じょせい 向 む けプラットフォームで執筆 しっぴつ 活動 かつどう を行 おこな っている。ファッション、テクノロジー、旅行 りょこう 、そして最近 さいきん ではガーデンが好 す き。
フレイヤ・ローズ(Freya Rose)
哲学 てつがく 者 しゃ 、作家 さっか 、フェミニスト。社会 しゃかい 科学 かがく に関 かん する多 おお くの書籍 しょせき に貢献 こうけん している。
この本 ほん の訳者 やくしゃ
惠 めぐみ 愛 あい 由 ゆかり (めぐみ あゆ)
1996年 ねん 生 う まれ、水瓶座 みずがめざ 。同志社大学 どうししゃだいがく 文学 ぶんがく 研究 けんきゅう 科 か 英 えい 文学 ぶんがく 専攻 せんこう 修了 しゅうりょう 。BROTHER SUN SISTER MOONのベースとボーカルを担当 たんとう 。Podcast「Call If You Need Me」を配信 はいしん するほか、書評 しょひょう やエッセイの執筆 しっぴつ も。訳書 やくしょ に『99%のためのフェミニズム宣言 せんげん 』(人文書院 じんぶんしょいん 、2020)など。