平松政次(1947年9月19日~)とは、大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)に所属していた元プロ野球選手である。
弱かった大洋・横浜の生え抜き投手としては日本プロ野球でただ一人200勝を達成している投手でもある。(一時的に所属していた投手も含めるならば、現役晩年に所属していた小山正明と工藤公康がいる。)
概要
高校時代は65年に春の選抜甲子園に出場し、39イニング無失点という記録を作り優勝、この年のドラフトで中日ドラゴンズから4位指名を受けるがこれを拒否して社会人野球の日本石油に入社する。
翌66年のドラフトでは事前に巨人から「君を1位で指名する。」という約束を受けていたが、肝心のドラフトでは巨人は立大の槌田誠という選手を指名、平松は巨人に裏切られ、結局大洋に2位で指名された。 (巨人にはよくあること.)
平松は大洋の指名を一旦保留し、8月8日に行われる社会人野球の大会である都市対抗野球に出場し、エースとしてチームを優勝に導き、この大会でMVPにあたる橋戸賞を獲得、そしてその2日後には大洋への入団を決める。
この時平松は背番号に投手の背番号としては異例の「3」を選んでいる。
元々平松は長嶋に憧れており、巨人への入団を願っていたのもそれがきっかけだったのだが、ドラフトで巨人に裏切られてもなおその憧れは特別だったと言える。(ちなみにこの背番号は翌年から27となり、引退まで変わらなかった。)
大洋に入団した平松は8月16日には早くも初登板、20日にはサンケイ(現:ヤクルトスワローズ)を相手に初完封で初勝利を挙げ、この年は16試合に登板し2完封を含む3勝を挙げる。
翌68年は5勝を挙げるが、キャンプで肩を痛めていたこともあり同時に12敗を喫するなどなかなか殻を破れない平松は、ある日一軍での練習が雨により体育館で行われた際、チームの主力打者である近藤和彦&近藤昭仁から、「こんなボールしかないのか?」と言われそれまでストレートとカーブだけしか投げてこなかった平松はカーッし、咄嗟に「シュートもあります」と言い、社会人時代に先輩投手の握りだけを見たことがあったシュートボールをぶっつけ本番で投げたのだが、それが思った以上に鋭い変化を見せる。
これは使えると思った平松はすぐさま練習を重ね、ストレートと同じ速さで打者の内角に鋭く食い込むシュート、いわゆる「カミソリシュート」を完成させる。
このカミソリシュートを武器に69年は14勝で初の二桁勝利を挙げ、8月30日の阪神戦ではわずか73球で完投という記録も作っている。
70年には332と2/3回を投げ、25勝19敗、防御率1.95の成績でチームは3位ながら最多勝・沢村賞を獲得する。(ちなみに19敗もリーグ最多。)
翌71年も17勝で二度目の最多勝を獲得するが、72年は肩を故障してしまい13勝15敗と負け越し、またこの故障でかつて150キロを計測したストレートは140キロを出すのが精いっぱいとなり、スライダー・シュートのコンビネーションで打者を打ち取る投球にシフト、73年は再び17勝11敗の成績を残すが、74年と76年はリーグワーストの負け数と失点を記録。(それでもそれぞれ15勝16敗、13勝17敗だが。)
79年には防御率2.39で最優秀防御率を獲得するが、この年の2位という成績が平松在籍中の大洋の最高成績となる。
81年以降は69年から続いていた連続二桁勝利記録が途絶える。82年にはあまりの肩の痛みに耐えかね一度は監督に「引退します」と伝えたが、引退試合のつもりで登板した5月5日の中日戦では5回1失点で勝利、本人曰く球速は100キロ程度しかでなかったというが、試合後トレーナーから「肩の筋肉がまだ生きている、200勝目指せ」と声を掛けられ現役を続行し、83年には巨人戦で通算200勝を達成。
84年は6月24日のヤクルト戦で1勝を挙げて以降勝てなくなり、結局1勝10敗という惨憺たる結果で、この年限りで引退した。
平松は通算で201勝を挙げたが、200勝を挙げた選手では野口二郎とともに現役中に優勝を経験できなかった投手でもある。
現在はホエールズベイスターズOB会の会長を務めている。
プレースタイル
当初は150キロ台のストレートとカーブが武器だったが、最大の武器はもちろんカミソリシュートであり、その威力は74年の巨人戦において対戦打者の河埜和正が平松が投じた外角の球を打とうとした際、それがカミソリシュートで鋭く内角に曲がり、腕にあたってしまった程。
当時巨人の監督だった川上哲治はこれがデッドボールになるかと思いきや判定はストライク、ルール上は打者の体に当たっても、投球がストライクゾーンを通過していればストライクだからという理由だったが、納得のいかない川上は審判に抗議した結果、監督生活でたった一度の退場を宣告された。
そして平松自身はドラフトで裏切られた執念もあったのか、通算201勝の内、対巨人戦で51勝47敗の成績を残しており、巨人戦最多勝利は金田正一の65勝だが金田は72敗と負け越しているため、平松こそが最も巨人キラーの称号がふさわしいと言えるだろう。
ちなみに憧れの長嶋茂雄との対戦成績は打率.197、8本塁打と抑え込んでいるが、反面王貞治には打率.370、25本塁打と苦手とし、最も王貞治にホームランを打たれた投手となっている。(2位は24本塁打の星野仙一)
平松は150キロのストレートを肩の故障で失って以降もカミソリシュートとスライダーのコンビネーション投球で二桁勝利を記録し続けたが、ストレートが投げられた時のイメージとそれが投げられない現実とのギャップに苦しみ、全盛期のストレートがあればもっと勝てたのではないかと思い悩むことが今でもあると語っている。
ちなみに平松は投手ながら通算で25本塁打を放っており、これは金田正一、米田哲也、別所毅彦に次ぐ歴代4位の記録である。
通算成績
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