詳細
1993年(57勝73敗、5位 勝率.438) 監督:近藤昭仁
ベイスターズ1年目となった1993年。監督には1960年の優勝時のメンバーであり、常勝西武と巨人でコーチを務めた近藤昭仁を監督に招聘した。
前年打点王に輝いたラリー・シーツの残留交渉には失敗したものの、巧打者のロバート・ローズ、強打者のグレン・ブラッグスの獲得に成功する。ローズの獲得に伴い、守備力が衰えた高木豊はサードにコンバートにされる(悪送球を連発し、途中からファーストに再コンバートされた)。
投手陣の底上げが不十分な上に、前年佐々木主浩と共にダブルストッパー体制を確立した盛田幸妃が自主トレ中の怪我で出遅れ、チームも横浜大洋時代から3年連続の5位に終わる。
この年から始まったFA制度により、巨人の駒田徳広を獲得し、ドラフト会議では波留敏夫を獲得。
一方で、先発・リリーフで長年チームを支えた斉藤明雄が引退し、300盗塁を達成した高木豊や屋鋪要などの主力選手の解雇も行った。
1994年(61勝69敗、6位 勝率.469) 監督:近藤昭仁
今度は佐々木主浩が故障で出遅れてしまい、またしてもダブルストッパーは並立せず。
チームの若返り策の最中であった横浜は若手中心の起用を行っていき、序盤・中盤は3・4位を行き来するような成績であったが、終盤で脱落し、ゲーム差9.0の最下位となってしまった。
ドラフト会議では多村仁志と相川亮二という、後に主力として活躍するメンバーを獲得している。
1995年(66勝64敗、4位 勝率.508) 監督:近藤昭仁
ついに盛田・佐々木のダブルストッパーが復活し、16.0ゲーム差の4位に沈むも、12年ぶりの勝率5割復帰を果たす。
盛田幸妃は8勝5セーブ防御率1.97、佐々木主浩は7勝32セーブ防御率1.75という見事な成績を残すが、チームで唯一の10勝投手が中継ぎの島田直也という完全なリリーフ依存の投手編成であり、先発陣の弱さは相変わらずであった。
打線では後の首位打者である鈴木尚典がレギュラーに定着するなど、将来に希望を持たせるシーズンであったが、近藤監督は任期満了で監督辞任となり、後任にはバッテリーコーチであった大矢明彦が就任。
ドラフト会議では鶴岡一成、後に日ハムで最優秀救援投手に輝いた横山道哉らを獲得している。また、ヤクルトから荒木大輔が移籍してきた。
1996年(55勝75敗、5位 勝率.423) 監督:大矢明彦
大矢新監督は就任早々盛田幸妃の先発転向、ロバート・ローズ、石井琢朗、進藤達哉をコンバートするも失敗。結果、ローズはセカンドに戻り、石井と進藤がポジションを入れ替えただけに終わった。
チーム成績は低迷し、結果的にセリーグ全球団から負け越してしまい、最下位阪神とは1ゲーム差の5位となり6年連続のBクラスに終わってしまった。
数少ない希望として、この年斎藤隆が自身初の2桁勝利である10勝を達成した。
シーズンオフに投手陣のテコ入れのために権藤博をバッテリーチーフコーチとして招聘した。
1997年(72勝63敗、2位 勝率.533) 監督:大矢明彦
権藤博バッテリーチーフコーチの加入により投手陣が整備され、一時は首位ヤクルトを脅かす追随を見せるも失速し、結果的には首位と11.0ゲーム差の2位となる。しかし1990年以来7年ぶりのAクラス復帰を果たした。オフにコーチ人事を巡るフロントとの対立で、大矢明彦監督が退任し、後任には権藤コーチが昇格した。
この年、ついに鈴木尚典がブレイクする。打率.335で首位打者を獲得し、21本塁打も記録した。
ネガティブな話題としては、9月2日にヤクルトの石井一久にノーヒットノーランを喫している。
シーズンオフに先発転向以降低迷していた盛田幸妃を近鉄バファローズに放出し、中根仁を獲得した。
1998年(79勝56敗1分、優勝 勝率.585) 監督:権藤博
シーズン序盤は4位と不調であったが、6月から「マシンガン打線」が爆発。6月20日に6月以降では1979年以来19年ぶりの首位となり、以降は一度も首位の座を譲ることなく、10月8日に1960年以来38年ぶりの優勝を決める。
日本シリーズでも西武を4勝2敗で退け、日本一となった。
ドラフトでは古木克明、金城龍彦、小池正晃などを獲得。
1999年(71勝64敗、3位 勝率.526) 監督:権藤博
チーム打率が.294という数字を叩きだして『マシンガン打線』をいかんなく発揮するも、チーム防御率が4.44のリーグ5位と悪かったため、1位の中日に10.0ゲーム差を付けられてしまった。
オフに1998年の日本一に貢献した佐々木主浩がシアトル・マリナーズに移籍。ロッテから小宮山悟を獲得した。
2000年(69勝66敗1分、3位 勝率.511) 監督:権藤博
金城龍彦が打率.346で史上初の首位打者+新人王のダブルタイトルを獲得した。この年は優勝争いに絡むことはなかった。 権藤博が勇退し、後任には西武黄金時代を作り上げた森祇晶が就任した。
ドラフト会議では内川聖一、吉見祐治を獲得。ロバート・ローズが年俸交渉の決裂により、駒田徳広が球団や首脳陣との対立により退団(駒田は所属先が決まらずそのまま引退)。進藤達哉ら3選手がトレードでブルーウェーブへ移籍し、小川博文ら3選手が加入、島田直也が自由契約でスワローズへ移籍した。
2001年(69勝67敗4分、3位 勝率.507) 監督:森祇晶
勝率は広島東洋カープの方が上だったが、勝利数が広島を上回っていたため、3位となった。
シーズン序盤に波留敏夫を放出し種田仁と山田博士を獲得。オフには正捕手を務めていた谷繁元信が中日ドラゴンズに移籍し、中日で正捕手を務めていた中村武志を金銭トレードで獲得。メジャーリーグ挑戦のため小宮山悟が退団した。
2002年(49勝86敗5分、6位 勝率.363) 監督:森祇晶
この年はどうしようもない貧打に見舞われた。チーム打率はセリーグの他球団が軒並み.250を超える中わずか.240、チーム得点数はセリーグ6球団で唯一500を下回る472点。チーム最高打点はボイ・ロドリゲスの60打点であった。そんな中、古木克明が100打席で.320、9本塁打の好成績を、吉見祐治が規定投球回に到達し11勝8敗を記録。横浜ファンの希望の星となった。結局、全日程を最下位で終えるほどの低迷に終わり、森は解任。後任に山下大輔が就く。
オフにはデニー友利が復帰。ドラフト会議で村田修一、加藤武治、吉村裕基、武山真吾を獲得。
長年エースとして活躍した野村弘樹、マシンガン打線の左キラーとして活躍した中根仁が引退した。
2003年(45勝94敗1分、6位 勝率.324) 監督:山下大輔
1970年のヤクルト以来の90敗に到達してしまったが、タイロン・ウッズが40本塁打を放ってホームラン王を獲得。
近鉄バファローズから門倉健を、シアトル・マリナーズに移籍していた大魔神こと佐々木主浩を獲得した。
2004年(59勝76敗3分、6位 勝率.437) 監督:山下大輔
シーズン終盤まで広島と5位争いを繰り広げるが、最終戦で敗れ、3年連続の最下位となった。山下大輔が任期満了で監督を退任。なぜか最終戦では胴上げが行われた。後任に牛島和彦が就任。
新ストッパー候補としてマーク・クルーンを獲得。ドラフト会議では那須野巧、藤田一也、石川雄洋を獲得する。中村武志は金銭トレードで新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。この年もホームラン王を獲得したウッズとは契約に至らず、ウッズは中日に移籍する。
2005年(69勝70敗2分、3位 勝率.496) 監督:牛島和彦
勝利数はヤクルトスワローズに劣ったものの、2001年と違い、勝率がヤクルトより上回っていたため、4年ぶりのAクラス。一時暗黒期を脱出する。
佐々木主浩が引退。「たった一度でいいからメジャーで投げたい」と斎藤隆がメジャーリーグ挑戦を表明し退団。ドラフト会議では高宮和也、山口俊、黒羽根利規を獲得。
2006年(58勝84敗4分、6位 勝率.408) 監督:牛島和彦
村田修一、吉村裕基が台頭したが、2年ぶりの最下位に転落。牛島はこの責任を取り退任。後任には10年ぶりの復帰となる大矢明彦が就く。
ドラフト会議では高崎健太郎、下園辰哉、梶谷隆幸を獲得。多村仁との交換トレードで寺原隼人、小田嶋正邦とのトレードで仁志敏久を獲得し、門倉健のFAによる人的補償で工藤公康を獲得。
2007年(71勝72敗1分、4位 勝率.497) 監督:大矢明彦
開幕戦で三浦大輔が高橋由伸に開幕戦初球先頭打者本塁打を浴びるというスタートを切ったものの、そこから勝ち負けを12試合続けて交互に繰り返す珍記録を作ったりしつつ、一時は首位にも立った。交流戦では、オリックス・バファローズ戦において椎野茂が毒舌実況を繰り広げる。
前半戦を3位で折り返したものの、夏場から失速。それでも三浦大輔が35イニング連続無失点の記録を作ったりもして、終盤には失速した阪神の背中が見えるところまではつけた。結局最終戦に敗れてシーズン勝ち越しは逃したものの、71勝72敗1分、前年最下位から4位に躍進した。
しかしオフには、守護神マーク・クルーンが読売ジャイアンツに移籍する。
ドラフト会議では、センバツ優勝投手の田中健二朗を高校生一巡目で指名した他、大田阿斗里や桑原謙太朗、小林太志らを獲得した。
2008年(48勝94敗2分、6位 勝率.338) 監督:大矢明彦
結局クルーンの抜けた穴を埋められる気配のないまま、目立った補強もなく開幕を迎える。開幕カードは阪神だったが、阪神キラーの三浦が出遅れ開幕投手は寺原が務めることに。この3連戦で3連敗すると、その後は浮上のきっかけすら掴めないままぶっちぎりの最下位に低迷する。
移籍したクルーンの穴埋めのために、ローテーションピッチャーの寺原をストッパーに配置換えするも、登板機会が少なく「ハマのヒ魔神」と揶揄される。
内川聖一が最終的に右打者の歴代最高打率となる.378を記録、村田修一が2年連続本塁打王になるなど中軸は奮闘したものの、投手陣が出れば打たれる壊滅状態に陥り、継投の拙さ、裏目に出続ける采配によるあまりの負けっぷりに大矢監督は「やる大矢」として2ちゃんねる野球ch屈指の人気キャラにまでなってしまった。何とかシーズン100敗は免れたが、内川の打率を下回る勝率.338という2リーグ制以来初の不名誉な記録も作ってしまう。
これだけの惨敗を喫したにも関わらず、大矢監督は3年契約のため続投が決定。さらに正捕手・相川亮二がFA宣言しヤクルトに移籍。シーズン中に2番手捕手・鶴岡一成をトレードで巨人に放出していたため、阪神からFA宣言した野口寿浩を獲得する。また石井琢朗が戦力外となり広島に移籍した。
特に一軍経験の長かった相川・鶴岡の2捕手がいなくなってしまった影響は大きく、これ以降長きにわたり正捕手不在に悩まされ続けることになる。
他、ドラフトでは即戦力選手の獲得を目的として、大学・社会人から、松本啓二朗、藤江均、山崎憲晴、細山田武史、小杉陽太らを指名した。
この年限りで鈴木尚典、川村丈夫が引退した。
2009年(51勝93敗、6位 勝率.354) 監督:大矢明彦→田代富雄(代行)
WBCで故障した村田を欠いたまま開幕を迎え、案の定と言うべき開幕6連敗を喫し、その後も浮上のきっかけすら見い出せずシーズンが終了する。正捕手として獲得した野口は衰えが隠せず早々に二軍落ち、捕手は武山真吾とルーキーの細山田武史の併用となった。
5月18日には早々と大矢明彦監督の休養(要するに解任)が決定。何のための続投だったのか。その後は二軍監督の田代富雄が監督代行を務め、打撃重視の選手起用で建て直しを図るも機能せず、またしてもシーズン90敗を超え5位争いすら出来ず断トツの最下位に沈んだ。
2年連続のお荷物っぷりに、オフにはフロントが刷新され、新監督にはダイエー・ソフトバンク・巨人などで投手コーチとして抜群の実績を誇る尾花高夫の就任が決定。
ドラフトでは投手の補強を叫ばれる中、1位で筒香嘉智を指名、2位で加賀繁、育成1位で国吉佑樹を獲得。当時は非難の的となったドラフトだったが、数年後実を結ぶことになる。
佐伯貴弘が戦力外通告を受け中日へ移籍。ロッテから清水直行と早川大輔をトレードで、橋本将をFAで獲得。日本ハムからはターメル・スレッジ、稲田直人、坂元弥太郎らを獲得と、稀に見る大補強を敢行。例年巨人・阪神が盛り上げるストーブリーグにおいて一躍主役に躍り出た。ついにチーム再建なるかと期待されたが…。
2010年(48勝95敗1分、6位 勝率.336) 監督:尾花髙夫
監督に尾花髙夫、ヘッドコーチに島田誠と、福岡ダイエーホークスの黄金期を支えたコーチ陣が満を持しての指揮。開幕直後は黒星先行ではあったものの、広島とヤクルトがそれ以上に惨憺たる状況だったため、2年ぶりに最下位を脱出し一時は4位にもなった。
しかしそれも交流戦まで。交流戦で最下位に沈むと、あとはいつものベイスターズだった。エース三浦大輔が故障で絶不調、昨年ローテの救世主となったランドルフは全く勝てず、改名した寺原早人は名前の通り早々に戦線離脱。4番の村田修一も故障で不振に陥り、吉村裕基は前年以上の大不振で僅か49試合3本塁打、FAで獲得した橋本将も怪我で正捕手とはなれずと、主力となるべき選手に故障、不調が相次ぐ。
ルーキーの加賀繁が惨憺たるムエンゴながらローテーション投手として奮闘、途中入団のブレット・ハーパーがクルーンから逆転サヨナラ満塁弾を放つなど大活躍、石川雄洋や藤田一也らが成長を見せるなどの明るい材料もあったが(藤田はホセ・カスティーヨとのポジションの兼ね合いで出場自体は少なかった)、もはや負け癖が完全に染みついているというレベルで勝てなかった。投手は清水直行の10勝11敗が勝ち頭、大家友和が7勝と奮闘するも、3番目が寺原の4勝という時点でその絶望度は察していただけるだろう。また、守備陣も左からスレッジ・下園・内川という外野陣を始め、カスティーヨと石川の不安な二遊間、捕手は当時リードを酷評されることが多かった武山、と三塁手の村田修一以外は全て穴と言われるほどのファイヤーフォーメーションっぷりも負けに拍車がかかった。
絶望的な投壊状態だった広島からさらに10ゲーム差以上離される最下位をひた走り、最終的に3年連続の最下位。しかも史上初の3年連続90敗という不名誉な記録を打ち立ててしまった。
そしてシーズン終了後に球団売却騒動が巻き起こる。
横浜スタジアムの異常な球場利用契約が話題となり、買収に名乗りを上げた住生活グループは移転を示唆。これに反発した横浜スタジアム経営陣と横浜市は執拗な妨害を繰り広げ、ついに住生活グループは球団買収を断念する。2011年もTBSHDが球団を保有することが決定。
内川聖一が「優勝争いできるチームで戦いたい」とFA宣言し福岡ソフトバンクホークスに移籍。入れ替わりに北海道日本ハムファイターズからFAで森本稀哲を獲得。トレードでは寺原早人、高宮和也、野中信吾、桑原謙太朗をオリックスに放出し、山本省吾、喜田剛、一輝を、楽天からは金銭で渡辺直人を、そして西武からは弥太郎を放出して総帥大沼幸二を獲得した。
2010年のドラフトでは1位で須田幸太、2位で加賀美希昇カロカロミ、3位で荒波翔を獲得。
2009年のドラフト時とは異なり、育成よりも即戦力(特に投手)を重視したドラフトとなった。
2011年(47勝86敗11分、6位 勝率.353) 監督:尾花髙夫
2010年オフに先発投手を多数獲得したため、先発投手であった加賀繁をキャンプ中に再度中継ぎに転向。オープン戦初日に巨人に勝利し、幸先のよいスタートを切る。
しかし、よかったのは序盤だけであった。2010年オフに加入し、開幕投手を任された山本省吾が炎上、さらには清水直行や大家友和の不調など、先発投手が序盤でKOされる試合が続出。
このためほぼ毎試合中継ぎ投手を大量に起用する羽目になり、江尻慎太郎や加賀繁(この時は中継ぎ)に至っては阪神タイガース所属の久保田智之の持つ90試合登板の記録を更新できるペースで登板させられていた(当然両者とも故障した)。
去年に続いて村田修一が不振に陥るが、スレッジ、ハーパーの活躍もあって一時総得点が両リーグ一位になるなど開幕から打線は好調であった。5月には昨オフから無所属だった中村紀洋を獲得。
ところが、打線が好調だったのはシーズン序盤までで、シーズン後半になると最下位が確定したこと等の影響か、打線が低調になり、球団別の打撃成績でも中日とワーストを争う程に。
投手成績でも全球団最下位の成績という有様に加えて、6回3失点(QS)できる先発投手がほぼいない状況では、去年に続いて最下位になるのも当然の結果であった。
しかし、福島第一原発事故を発端とした節電対策に伴い創設された3時間半ルールの恩恵とはいえ4年連続90敗の記録をストップ。ただし、勝率自体は過去3年と大して変わっていない。
オフ、身売り問題が再燃。Mobageで有名なDeNAが手を挙げ、球団名を「横浜モバゲーベイスターズ」にしようとしたり、GREEと提携している楽天がTBS買収失敗の遺恨もあってかDeNAの参入に反対したりと色々と揉めたものの、最終的に「横浜DeNAベイスターズ」として球団売却が成立、承認された。
高田繁がゼネラルマネージャーに就任し、尾花監督は契約を1年残して解任。工藤公康の監督就任が決まりかけたものの、寸前でご破産になるなど監督人事に難儀したが、中畑清が新監督となった。
ハーパー、スレッジが退団、村田修一もFA宣言して読売ジャイアンツに移籍、真田裕貴がメジャー移籍を目指し退団。西武からトレードで後藤武敏を獲得。村田に代わる主砲として巨人を退団したアレックス・ラミレスを、村田の人的補償で藤井秀悟を獲得。過去にトレードで放出した鶴岡一成と小池正晃をFAで再獲得し、日本ハムを戦力外になった林昌範と菊地和正、広島を退団したジオ・アルバラードを獲得。
ドラフトでは即戦力が求められるなか、なんと9人中8人の高校生を獲得。主な指名選手は2位の高城俊人、4位の桑原将志、5位の乙坂智など。
戦力不足にあえぐチーム事情にもかかわらず、9人中8人が高校生という指名内容には疑問が呈されたりもした。この辺りのTBS末期のドラフト戦略は、2014年オフの大量解雇という形で表面化し「迷走」評されることも多い。しかし、09年の筒香や国吉、この年の乙坂や桑原将志など、後の主力となる素質型選手も多く指名していた事がわかる。
なお、ドラフト会議の時点ではTBSにより球団が運営されており「横浜ベイスターズ」としては最後のドラフト出席となった。