継体天皇
(けいたいてんのう 450年?~531年3月10日)とは、第26代天皇である。
後述の出自から、現在の皇室は継体天皇が初代にあたるとする説が提唱されている。
在位:507年3月3日~531年3月10日
概要
近江で生まれたが、父を早くに亡くした為、母の故郷の越前で育った。越前地方を統治していた頃には、農耕や住むのに適さない湿地帯を大規模な治水を行って干拓したり、港を開いて産業を振興させたとの伝承が残っており、越前開闢の祖とされている。
そんな越前の英雄に天皇への道が開く。第25代の武烈天皇が皇子を残さずにお隠れになられた為、後継者がおらず、豪族の代表達が協議して丹波にいた仲哀天皇の5世孫にあたる倭彦王(やまとひこおおきみ)を即位させる事になったが、迎えの兵士を見て恐れをなした倭彦王は行方不明になってしまう。
そして次に即位の話がまわってきたのが、↓の系図で示すとおり日本武尊の孫の応神天皇の5世孫で、男系の血をうけついでいた継体天皇だった。
しかし、大和朝廷から遠く離れた地にいる自分にそんなうまい話が転がってくるわけがないとでも思ったのか、継体天皇は用心を重ねてまず使者を送って確認し、即位の話が本当である事を確かめてから即位した。
↑の通り、皇室の男系の血筋ではあったが、当時主流だった血筋からあまりにも離れていた為、即位とともに先代の武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后にした。
武烈天皇の頃から豪族間の争いが頻発していた事や、即位までの様々なドタバタにより、即位19年後の526年にようやく都を大倭に定める事が出来たが、その頃九州北部では、新羅と結んだ豪族磐井が反乱をおこしており、軍を派遣して鎮圧にあたった。
朝鮮半島の領土を失ったものの、磐井の鎮圧には成功し、その後は、養蚕の奨励など産業育成に力をいれ、群臣の意見をき入れて国内を平穏に収めた。
531年に、皇室の記録上初めてとなる皇太子への譲位を行い、安閑天皇の即位と共にお隠れになられた。
※百済本記では、継体天皇と皇太子と皇子が政変で同時に殺されたと記されている。
継体天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進して以降呼ばれるようになったもので、古事記では袁本杼命(をほどのみこと)、日本書紀では男大迹王(をほどのおおきみ)と呼ばれている。
崩御後
「天皇の五世孫」というあまりにも離れすぎた血筋は皇統を見渡してみても「三王朝交代説」などが提唱されるほど異常なことである。奈良時代以降の法令における皇族の範囲が天皇の5世孫までとされたのは、このケースが前例になったからと考えられるため神道史学者の高森明勅やマンガ家の小林よしのりなどは旧皇族が皇籍復帰することの正当性を保障するものにはならないとしている。
さて、上記の家系図の話をすると、継体天皇は自らを天皇であると諸侯に認めさせるために武烈天皇の姉、手白香皇女を后に迎えた。継体天皇の死後は別の妃との子である安閑天皇、次いで宣化天皇が即位したが、高齢もあってか両者合わせてわずか7年の治世だった。その後は手白香皇女との子、欽明天皇が即位し、宣化天皇の血筋も加えて皇統が現在まで引き継がれている。
意外に思われるかもしれないが古代の日本は母親の家に子供が所属し成人したら父親の地位を継ぐ「双系」の社会であった。このため手白香皇女の血をひく欽明天皇こそが正統で、現代人から見ても高齢の66歳と69歳で即位した安閑天皇と宣化天皇は「中継ぎ」であったと推察される。
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関連項目
25代 |
26代 |
27代 |
武烈天皇(ぶれつてんのう)
498~506 |
継体天皇(けいたいてんのう)
507~531 |
安閑天皇(あんかんてんのう)
531~535 |
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