Old photos and my memories of Nishi-Kawaguchi. From 1995 until 2001.
南 蕨 寮 (埼玉 県 蕨 市 南町 )蕨 寮 あるいは第 二 蕨 寮 (同 中央 )- しらとり
台 寮 (横浜 市 青葉 区 しらとり台 ) 小金井 寮 (東京 都 小平 市 上水南 町 )七本木 寮 (埼玉 県 児玉 郡 上里 町 七本木 )目黒 寮 (東京 都 目黒 区 下目黒 )
余談 : いくつかの寮 は、会社 の事業 所 や研修 センタ等 のそばにありました。蕨 寮 は蕨 の開発 センタ、小金井 寮 は小金井 研修 センタ、目黒 寮 は目黒 研修 センタ(あるいは目黒 クラブ?)のそばにあったと記憶 しています。
まずは地図
写真 の説明
はじめに
1997年 12月
沖電気 南 蕨 寮 の中
1998年 1月
大雪 の日
2000年 4月
沖電気 南 蕨 寮 (閉寮)
南町 桜 まつり
なお、
蕨 市立 図書館
そば処 満 留 賀
思 い出 とトリビア
独身 寮 編
私 が入寮 した頃 は「沖電気 南 蕨 寮 」だったが、退 寮 した頃 は「リベルテ南 蕨 」とかいう名前 になっていた。岡村 孝子 じゃないよ。当時 、沖電気 では独身 寮 に最長 8年 までいられた(はず)。その後 、私 の退 寮 前 に、新規 入寮 生 は 6年 限 になったと記憶 している。寮 の部屋 は狭 く、体 の大 きな同期 は「両手 を広 げると、壁 と壁 に触 れられる」とぼやいていた。公称 「4畳 間 」。しかし、企業 によっては2人 で一 室 というところもある時代 だったので、恵 まれていたと思 う。各 部屋 には窓 設置 型 のエアコンがあり、15アンペア程度 のブレーカーが付 いていた。職場 の先輩 に話 したら、「昔 はエアコンなんてなかった。ブレーカーもたったの 5アンペアで、電器 屋 に行 って『500ワット以下 のヘアドライヤーが欲 しい』と言 ったら、『お客 さん、そんなものないよ。何 かの見 間違 いじゃない?』って笑 われた」とぼやいていた。寮 には賄 いが付 いていて、広 い食堂 室 があった。(上 にも書 いたが、カレーライスは本当 に人気 で美味 しかった。)土曜日 も、賄 いで朝食 と夕食 が食 べられたはずだけど、日曜日 は休 みだった。よく、同期 と一緒 に外食 に行 ったのは楽 しい思 い出 だ。食堂 室 には自販機 がいくつか並 んでいた。私 (横山 )は当時 からビールでは寝付 けなくなっていて、よくワンカップの日本酒 を買 っていた。同期 に見 つかり、「ワンカップ大関 の横山 」とからかわれた。寮 には「娯楽 室 」という畳 敷 きの部屋 があった。入寮 説明 は、そこであった。同期 とよく、そこで深夜 まで酒 を飲 んだり、麻雀 をしたりしていた。(私 は麻雀 ができなくて、同期 に少 し教 わったりした。しかしその同期 は「麻雀 なんて覚 えるもんじゃないよ」と言 っていた。)- お
風呂 の浴槽 は広 かった。混雑 時 には 5〜6人 ほど浸 かっていることがあったが、一人 のときに泳 いで遊 んだ記憶 がある。ただし、夜間 中 加 温 されていたかどうかは定 かでない。時間 によっては、寮長 と一緒 になることもあり、世間 話 をしたりした。 寮 には各 部屋 に電話 線 が引 かれていて、寮 には沖電気 製 の PBX(確 か IX なんとか、とかいう機種 名 )があり、ダイアルインになっていた。(さすが、電電 ファミリーの一翼 )玄関 にも、内線 電話 が置 かれていた。配属 間 もない頃 は、同期 と一緒 に出勤 することがあったが、時間 になっても降 りてこないので電話 すると、「いま起 きた。悪 いけど先 に行 ってくれ」と言 われたりした。新入 社員 がこぞって携帯 電話 を買 い始 めたのは、ちょうどその直後 くらい。入寮 してしばらくして、各 部屋 に LAN が引 かれた。しかし、私 はモデムでダイアルアップしてインターネットに繋 いでいた記憶 しか残 っていない。- 1996〜1997
年 頃 だと思 うが、エレベータができた。寮長 の S さんによると、部屋 の内装 工事 の際 に、寮生 が部屋 間 の引 っ越 しを容易 にできるようにするためだ、という話 だった。実際 、私 も 2階 から 3階 に引 っ越 しさせられた。(入寮 時 は 1階 、配属 後 に 2階 、エレベータができた後 に 3階 に引 っ越 した。これは、新入 寮生 や一時 的 な滞在 者 を、できるだけ 1階 に割 り当 てるのが目的 らしかった。) 寮 には出入 りのクリーニング屋 があり、寮 のクリーニング室 (?)にワイシャツなどを置 いておくと、業者 がクリーニングして届 けてくれた。ただし、その頃 から「形態 安定 ワイシャツ」が流行 り始 め、需要 は減 っていったと思 う。私 は新人 の頃 しか利用 しなかった。私事 で恐縮 だが、20年 を経 た今 でも寮 に住 んでいた当時 の夢 をみることがある。夢 の中 では、実際 の寮 より大 きく賑 わっていて、同僚 がたくさん住 んでいて、食堂 もずっと豪華 なのだ。(寮 生活 は私 の貴重 な青春 だったのだ!)
寮長 S さん編
入寮 した頃 、S さんは皆 から寮長 と呼 ばれていたが、寮長 と呼 ぶと「俺 はマネージャーだ。会社 の肩書 きがそうなっているんだ。マネージャーと呼 べ」と言 っていた。当時 、沖電気 にチームリーダーという名前 はあったが、マネージャという職 級 があったかどうかは定 かでない。- S
夫妻 は、寮 で大 きな犬 を飼 っていた。寮生 が犬 をからかうと、S さんに叱 られた。 風邪 (おそらくインフルエンザ)で 40度 近 い高熱 を出 したことがある。S さんに相談 したら、「三和 町 診療 所 (2022年 現在 、まだ健在 のようです)に行 け。あそこで注射 をして貰 えば一発 で治 る」と言 われたので行 ったけど、注射 はしてくれなかった。一度 、タクシーで寮 まで帰 ったことがあった。南 蕨 寮 に住 んでいることを運転 手 に話 したら、「あそこの寮長 (S さんのことだと思 う)、社会 人 野球 で鳴 らした選手 だろ?」と言 われた。私 の知 らない話 だったので、今 でも印象深 く覚 えている。寮内 にセールスマンが入 り込 むことを、S さんはひどく嫌 っていた。どこかの布団 屋 (丸八 だか西川 だか)のセールスマンが勝手 に寮 に入 り込 んだとか言 って、怒 っていた。また、近所 で床屋 が開業 して、店主 だかその奥 さんが寮内 の郵便受 けにパンフレットを投 げ込 んでいたら、寮長 に叱 られた、と話 しているのを床屋 で聞 いた。
通勤 編
通勤 路 の駅近 くには、埼玉 では有名 な歓楽街 が広 がっていた。よく、客引 きのお兄 さんに「良 い子 、いるよ」と話 しかけられた。私 (横山 )は奥手 だったので、いつも走 って駆 け抜 けていた。- そんな
歓楽街 に独身 寮 があったので、地方 から来 た同期 は、「なんでこんなところに独身 寮 があるんだ!?」といぶかしがっていた。 新人 の頃 はフレックス適用 外 だった。寝坊 すると出社 時刻 までに磁気 カードを通 せないので、遅刻 扱 いになってしまう。賢 い同期 は「そういうときは、芝浦 (同期 の多 くの勤務 地 )でなく、蕨 開発 センタに行 って、そこでカードパスすればいいのさ」とうそぶいていたが、それで遅刻 を免 れることができたのか、いま現在 も定 かではない。(つまり、私 は試 したことがない。)確 かに、社内 のカードパスの出退勤 データは全 てオンライン処理 されて総務 に送 られていたのだろうけど。
飲食 店 編
駅 西口 の正面 にあるビル 2階 に、モハラナというインド料理 屋 があった。当初 から気 に入 って通 っていたが(今 のように、あちこちインド料理 店 という時代 ではなかった)、その後 「貧乏 脱出 大 作戦 」とかいうテレビに出演 した。(番組 をテレビで観 たかどうかは記憶 にない。) メニューがいろいろ変 わって豪華 になったが、また元 に戻 ってしまったようにも思 う。(横山 が)結婚 前 に、一度 妻 と訪 れた覚 えがある。その後 、しばらくしてモハラナは閉業 してしまった。鬼沢 橋 の近 くに、トムズハウスという洋食 屋 (イタリアンにあらず)があった。玉子 を使 ったスパゲティが好 みで、同期 とよく通 った記憶 がある。いまだったら、断然 カルボナーラのほうが美味 しいと思 うのだが、その頃 はカルボナーラは珍 しかったのだろうか?玉子 スパゲティを再現 してみたいけど、味 をよく覚 えてないし、写真 もない。(同名 の洋食 屋 が西川口 にあるので、移転 したか、従業 員 が暖簾 分 けしたのかも知 れない。)駅近 くには、多 くの居酒屋 や立 ち飲 み屋 、焼鳥 屋 があった。いまだったら日参 したかも知 れないが、当時 は(25歳 くらい)、あまりそういう店 に関心 がなかった。ちょっと残念 。もっと通 っておけば良 かった。
当時 から健在 のお店 など
- ラーメン HOUSE リュウビ
- そば
処 満 留 賀 - かづさや
酒 店 - エスティロ1955(
理髪 店 ) - クリーニング オオバ
三和 町 診療 所 (上述 )河鍋 暁斎 記念 美術館
2022