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特攻に「志願したか」と聞かれて、「まだです」と答えた戦闘機乗りに対して飛行隊長が「独り言のように言い残したひとこと」(神立 尚紀) | マネー現代 | 講談社

特攻とっこうに「志願しがんしたか」とかれて、「まだです」とこたえた戦闘せんとうりにたいして飛行ひこう隊長たいちょうが「ひとごとのようにいいのこしたひとこと」

わたし今年ことし(2024)6がつ25にち上梓じょうしした『決定けっていばん れいせん最後さいご証言しょうげん2』は、4がつ刊行かんこうした『決定けっていばん れいせん最後さいご証言しょうげん1』と同様どうようわたし直接ちょくせつインタビューをかさねたもとれいせん搭乗とうじょういんたちが、戦争せんそうをいかにたたかい、激動げきどう戦後せんごをいかにきてきたかを、戦中せんちゅう戦後せんご写真しゃしんとともにかしたものである。登場とうじょう人物じんぶつ各巻かくかん8めいで、『2』は進藤しんどう三郎さぶろう日高ひだかもりやすしはねきり松雄まつお角田つのだ和男かずお原田はらだかなめ小町こまちじょう大原おおはら亮治りょうじ山田やまだ良市りょういち各氏かくし。8がつまつには『決定けっていばん れいせん最後さいご証言しょうげん3』がて、それで完結かんけつする予定よていだ。今回こんかいは『決定けっていばん れいせん最後さいご証言しょうげん2』のなかから大原おおはら亮治りょうじ(1921-2018)が体験たいけんした日本にっぽん本土ほんど上空じょうくう空戦くうせんのエピソードをリライトのうえ、ご紹介しょうかいする。

決定けっていばん れいせん 最後さいご証言しょうげん2』(光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ

75%が戦死せんしするという激戦げきせんいたパイロット

大原おおはら亮治りょうじもと海軍かいぐん飛行ひこうへい曹長そうちょうは、昭和しょうわ17(1942)ねん10がつだいろく航空こうくうたい(11月、だい〇四海軍航空隊と改称かいしょうれい戦隊せんたい一員いちいんとして、ソロモン諸島しょとうのガダルカナルとう、ニューギニアのポートモレスビー攻防こうぼうせん正面しょうめん作戦さくせん最前線さいぜんせんだったニューブリテンとうラバウル基地きち着任ちゃくにん

おもれい戦隊せんたいめい指揮しきかんとしてられる宮野みやの善治郎ぜんじろう大尉たいい昭和しょうわ18ねん6がつ16にち戦死せんし)のさんばんつとめ、投入とうにゅうされた搭乗とうじょういんの75パーセントが戦死せんしするという激戦げきせんで1ねん以上いじょうにわたってたたかい、記録きろくのこるだけでも10すうてき撃墜げきついしていた。

大原おおはら亮治りょうじ平成へいせい16ねんあき撮影さつえい神立かんだつ尚紀なおき

昭和しょうわ18(1943)ねん11月、海軍かいぐん航空こうくう総本山そうほんざんともいえる横須賀よこすか海軍かいぐん航空こうくうたいよこそら)に転勤てんきんは、各種かくしゅ新型しんがたのテスト飛行ひこうなどににんじている。

昭和しょうわ19(1944)ねん8がつ中旬ちゅうじゅんよこそらでも「生還せいかん不能ふのうしん兵器へいき」の搭乗とうじょういん希望きぼうしゃ募集ぼしゅうおこなわれた。これは、開発かいはつまった人間にんげんばくだん桜花おうか」のテストと部隊ぶたい編成へんせいのためだった。隊員たいいんたちのらないところで、すでに「特攻とっこう」が海軍かいぐん既定きてい路線ろせんとなっていたのだ。

 

生還せいかん不能ふのうわれてもね、こっちは戦闘せんとうりで、てきを墜としてきてかえるのが仕事しごとですから。よこそらでは特攻とっこう志願しがん募集ぼしゅう昭和しょうわ19ねんの12月にもあり、志願しがんするもの隊長たいちょうしついちばんけておくから、名前なまえいたかみいておけ、ということだったんですが、だれ志願しがんしなかったらしく、数日すうじつにもう一度いちどはなしがありました。

当時とうじよこそら飛行ひこう隊長たいちょうは、ラバウルでもわたし隊長たいちょうだったしょうぶく田租でんそ少佐しょうさでした。めの募集ぼしゅう訓示くんじわったばん航空こうくうたい庁舎ちょうしゃ廊下ろうかですれちがったとき、『大原おおはら、おまえ志願しがんしたか』とかれ、『いえ、まだです』とこたえたら、隊長たいちょうは『するなよ』とひとごとのようにひくくいいのこして士官しかんしつはいっていった。結局けっきょくわたし志願しがんしませんでした」

と、大原おおはらわたしかたっている。

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