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私の人生を変えたアフリカンプリント、ウガンダのシングルマザー、そして母ちゃん:朝日新聞GLOBE+
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わたし人生じんせいえたアフリカンプリント、ウガンダのシングルマザー、そしてかあちゃん

れい時代じだい 日本にっぽん社長しゃちょう 更新こうしん 公開こうかい
ウガンダの工房で。中央が仲本千津さん
ウガンダの工房こうぼうで。中央ちゅうおう仲本なかもと千津ちづさん=「RICCI EVERYDAY」提供ていきょう

――大学だいがく大学院だいがくいんでアフリカの紛争ふんそう政治せいじなどをまなんだのち、最初さいしょはメガバンクに就職しゅうしょくされました。

もともと民族みんぞく紛争ふんそう興味きょうみがあって、ずっと研究けんきゅうをしていました。なぜアフリカでこんなに内戦ないせんきているのか、終結しゅうけつしたのちはどうこくさい構築こうちくしているのか。それがりたくて、アフリカへの関心かんしんがどんどんたかまりました。

学生がくせい時代じだいは「アフリカの現場げんばで、社会しゃかい課題かだい解決かいけつかかわる仕事しごとがしたい」「アフリカの貧困ひんこんをなくしたい」と、青臭あおくさいことをっていたのですが、あるひとから「それってどうやったら実現じつげんできるの?」とかれ、自分じぶんなかこたえがないことに気付きづきました。現実げんじつらなさすぎて、このままではダメだとおもいました。

そのころ、あるNPO法人ほうじん代表だいひょう出会であい、そのひともとでインターンを経験けいけんしました。このほうは、もともと外資がいしけいコンサルではたらいていたのですが、会社かいしゃめてNPO法人ほうじんをスタートさせ、コンサルなどの経験けいけんをいかしながら、社会しゃかい課題かだい解決かいけつんでいました。

当時とうじわたしはNPOではたらくことに「活動かつどう」のようなイメージをいていたので、そうではないのだと自分じぶんなか発想はっそう転換てんかんこりました。「こういうやりかたもあるのか」「こういうひとになりたい」とおもいました。であればいち社会しゃかいほうがよいとかんがえて、内定ないていをもらっていた三菱みつびし東京とうきょうUFJ銀行ぎんこうげん三菱みつびしUFJ銀行ぎんこう)に就職しゅうしょくすることにしました。

――「社会しゃかいる」というのは、たとえば「おかねながれをる」ことでしょうか?

そうです。「30さいまでにアフリカで起業きぎょうしよう」とおもっていましたが、まずは財務ざいむなどをることで、会社かいしゃ経営けいえいするときにやくつだろうとかんがえました。わたしがあこがれたNPO法人ほうじん代表だいひょうほうも、コンサル業務ぎょうむ経験けいけんされて実務じつむについてもよくごぞんじでした。

アフリカンプリントの生地
アフリカンプリントの生地きじ=「RICCI EVERYDAY」提供ていきょう

――まずはメガバンクではたらいてみて、いかがでしたか?

「30さいまでに起業きぎょう」とおもっていましたが、だい企業きぎょうはたらくことは、ある意味いみ、「麻薬まやく」のようなものだとかんじました。

毎月まいつき毎月まいつき、お給料きゅうりょうまれ、ボーナスもます。周囲しゅうい友人ゆうじん先輩せんぱい結婚けっこんしはじめて、住宅じゅうたく購入こうにゅうしてローンをはじめるといったことをていると、「これはばせばばすほどめられないかも」とおもったのです。会社かいしゃ仕組しくみもうまくできていて、3ねんに1かい人事じんじ異動いどうがあって、きさせずにあらたな挑戦ちょうせん提供ていきょうしているところがありました。

東京とうきょう大手町おおてまち法人ほうじん営業えいぎょう配属はいぞくされたのですが、上司じょうし同僚どうりょう優秀ゆうしゅうほうおおめぐまれました。いまでもおいをいただいています。でも、当時とうじわたしなかではモヤモヤがひろがっていきました。

――モヤモヤというのは?

アフリカの民族みんぞく紛争ふんそう支援しえん研究けんきゅうでは、たとえば、食料しょくりょう場所ばしょがないひとたちにどのように供給きょうきゅうするかなど、マイナスの状況じょうきょうをいかにプラスに転化てんかするかについてかんがえてきました。

銀行ぎんこうでの仕事しごとは、もともとおかねがあるひとたちのとみをどうやすか、プラスをさらにどうやっておおきくできるか、というまったぎゃくかんがかたのもと、ビジネスをやるものです。それが、わたしにとってはわなかったのです。

「リソースがなくてこまっているひとたちが世界せかいにこんなにたくさんいるのに、そちらにはおかねまわらないで、特定とくていのところにおかね集中しゅうちゅうするのはなぜだろう」と、そんな疑問ぎもんがわいてしまったのです。

――モヤモヤをかかえながらはたらいて、その、どうしたのでしょうか?

自分じぶんなか転機てんきになったのは「3・11」でした。東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいです。おおくのほうくなられていくのをながら、「わたしはこんなふうに中途半端ちゅうとはんぱきていていいのか」「やりたいことがあるのであれば、さきばしにせずにわないといけない」。そう決心けっしんしました。

それから、ふたたびアフリカにベクトルがはじめました。結果けっかてきに、銀行ぎんこうではやく2ねんはんはたらきました。

――退職たいしょく決断けつだんされたのですね。

転職てんしょく決断けつだんしNGOなどに転職てんしょくしようとおもったのですが、募集ぼしゅう要項ようこう時点じてんで「ダメだ」と絶望ぜつぼうしました。大学院だいがくいんているし、だい企業きぎょうにもつとめているし、どこかでひろってくれるだろうというあわ期待きたいをもっていたのですが、募集ぼしゅう要項ようこうると途上とじょうこく勤務きんむ滞在たいざい経験けいけん必要ひつよういてありました。

転職てんしょく決断けつだんしたのに、それもできず、自分じぶん人生じんせいはどうなるんだろう」となやんでいたら、笹川ささかわアフリカ協会きょうかいげんササカワ・アフリカ財団ざいだん)が海外かいがい駐在ちゅうざいではなく東京とうきょうひと募集ぼしゅうしていることがかり、応募おうぼして内定ないていをいただきました。

退職たいしょくもうたときは、銀行ぎんこう上司じょうしから慰留いりゅうされました。相談そうだんした父親ちちおやからも、「もうちょっとかんがえたらどうか」「せっかく大手おおて銀行ぎんこうはいったのだから、もうすこしがんばれ」とわれましたが、自分じぶん気持きもちは、アフリカではたらくことに完全かんぜんいてしまっていました。もうわけないとおもいつつ、こっそり退職たいしょくとどけしました。その、2011ねん10がつ笹川ささがわアフリカ協会きょうかいはいりました。

――アフリカに関心かんしんつにいたったきっかけはあったのでしょうか?

アフリカの民族みんぞく紛争ふんそう興味きょうみったのは、高校こうこう授業じゅぎょう緒方おがた貞子さだこさんを紹介しょうかいするドキュメンタリー番組ばんぐみたことです。国連こくれん難民なんみん高等こうとう弁務べんむかん時代じだいのお仕事しごとぶりをまして、「うわっ、こんなじんがいるのか、日本人にっぽんじんで」とおもいました。「こういう女性じょせいになりたい」というイメージができました。緒方おがたさんのことを調しらべていくと国際こくさい関係かんけいおしえる教授きょうじゅだったとり、「わたし国際こくさい関係かんけい勉強べんきょうしなくちゃ」というところからスタートしました。

緒方貞子・国連難民高等弁務官。1995年2月、ザイール(現コンゴ)ブガブ地区の難民キャンプで
緒方おがた貞子さだこ国連こくれん難民なんみん高等こうとう弁務べんむかん。1995ねん2がつ、ザイール(げんコンゴ)ブガブ地区ちく難民なんみんキャンプで、ルワンダ難民なんみん子供こどもたちと=P・Moumtzisうつ

難民なんみんってどのような経緯けいい発生はっせいするのか、なぜひと他人たにんきずつけてまで自分じぶん利益りえき優先ゆうせんしようとするのかなど、民族みんぞく紛争ふんそうちや解決かいけつ興味きょうみがわいたのです。冷戦崩壊れいせんほうかい以降いこう、サブサハラアフリカで内戦ないせん頻発ひんぱつしていたことをり、自然しぜんとアフリカに関心かんしんうつっていったという経緯けいいです。

――メガバンクを退職たいしょくし、あたらしい職場しょくばでの仕事しごとがスタートし、そのはどうあゆまれたのでしょうか?

上司じょうしには「ウガンダにきたい」とつたつづけまして、2014ねん希望きぼうがかない、ウガンダ駐在ちゅうざいとなりました。仕事しごと農業のうぎょう支援しえんのプロジェクト管理かんりでした。せっかく念願ねんがん駐在ちゅうざいができたので、平日へいじつ夕方ゆうがた休日きゅうじつにいろいろな場所ばしょあしはこんで、ひとってはなしいていました。

そんななか地元じもとのマーケットにきました。そこでつけたのが「アフリカンプリント」だったのです。いろとりどりのぬのゆかから天井てんじょうまでがっていました。つぎ瞬間しゅんかんには、「あの、かわいい!」と興奮こうふんしてぬのさがしがはじまりました。もうワクワクして「日本にっぽん女性じょせいにもこのまれるだろうな」と直感ちょっかんてきかんじました。

自分じぶんのおりのって、現地げんちのテーラーさんに衣服いふく仕立したててもらってたり、バッグをつくったりしてもらいました。SNSでアップしたところ、みんなから「かわいい」という反応はんのうせられました。「ビジネスとしていけるかもしれない」とおもいました。

当時とうじは、いまほどアフリカンプリントがトレンドになっておらず、これを大々的だいだいてき使つかったブランドをたことがありませんでした。もともと起業きぎょうしたいとおもっていましたので、「アフリカンプリントを使つかった事業じぎょうをやろう」としんめました。

アフリカンプリントを扱っている現地の店
アフリカンプリントをあつかっている現地げんちみせ=「RICCI EVERYDAY」提供ていきょう

――起業きぎょう第一歩だいいっぽとなったわけですね。

アフリカンプリントでつくったバッグや雑貨ざっかるビジネスをはじめようというおもいはふくらんだのですが、たりまえのことに気付きづきました。わたし自身じしん縫製ほうせいやデザインの経験けいけんがないため、なにもつくることができないのです。「だれかにつくってもらわないといけない」とかんがえました。

そのときナカウチ・グレースという女性じょせい紹介しょうかいされました。手先てさきがすごく器用きようで、まじめなひとがいるんだよと友人ゆうじんからいて、いにきました。かほそこえはなす、自信じしんがなさそうなしずかなかんじのウガンダじん女性じょせいだったのですが、「一緒いっしょ仕事しごとをやりませんか」とちかけたところ、「やります」とってくれました。

自分じぶんちから生活せいかつえたいという気持きもちがつよひとだなとおもいました。彼女かのじょ自身じしんは、4にんどもをかかえたシングルマザーで、3にん実子じっしですが、1人ひとりはHIV感染かんせんくなったおねえさんのどもでした。いえはたけはあったので自給自足じきゅうじそく生活せいかつはできていましたが、どもにちゃんと教育きょういくけさせたいという気持きもちがつよかったようです。

彼女かのじょ自身じしん教育きょういくけていなくて、そのせいで、このようなきびしい生活せいかつになっている、どもにはそんなおもいをさせたくない、生活せいかつ自分じぶんえたいとかんがえていたのでした。

その気持きもちのつよさがかったのが、自宅じたく訪問ほうもんしたときです。

「どうぞそこにかけて」とわれてソファにすわり、うしろをふとたら、ニワトリをっていました。「いえなかうんだ」とカルチャーショックをけたのですが、なぜいえなかでニワトリをっているのかとくと、ニワトリはたまごむからどもに栄養えいようをつけさせられるし、クリスマスになるとれるからおかねをつくれる、と説明せつめいしてくれました。

そとったらぶたっていまして、「なぜぶたっているの?」といたら、ぶた繁殖はんしょくりつたかくていちとうからおおくのぶたまれ、ぶたそだてると、ども1にんいち学期がっきぶん学費がくひおなじぐらいの金額きんがくになるとうのです。そだてるためのランニングコストも、残飯ざんぱんをあげているので、ほとんどかかっていないということでした。

正直しょうじきすごいなとおもいました。わたし友人ゆうじんからは彼女かのじょたいし、信頼しんらいもおけるし、手先てさき器用きようだし、すごくがんばるから、という「お墨付すみつき」もあって、このひと一緒いっしょ仕事しごとをやってみようとおもいました。それがはじまりでした。

ウガンダの人たちと。前列の右から4番目が仲本千津さん
ウガンダのひとたちと。前列ぜんれつみぎから4番目ばんめ仲本なかもと千津ちづさん=「RICCI EVERYDAY」提供ていきょう

――バッグづくりとなると、技術ぎじゅつ必要ひつようになりますね。

グレースには、やる誠実せいじつさはあったのですが、残念ざんねんながら技術ぎじゅつはありませんでした。まずは技術ぎじゅつおぼえてもらうところからはじめようとおもい、現地げんち職業しょくぎょう訓練くんれん学校がっこうでミシンの使つかかたおしえていることがかり、そこで勉強べんきょうしてもらいました。

頑張がんばって技術ぎじゅつにつけバッグの原型げんけいとなるものをつくってくれたのですが、正直しょうじき日本にっぽんれるクオリティーのものではありませんでした。当然とうぜんですよね。たかが3カ月かげつ技術ぎじゅつで、いったいなにれるんだろうと、自分じぶんみのあまさをうらみました。

どうしようかとおもっていたら、その職業しょくぎょう訓練くんれん学校がっこうはたらいているべつのウガンダじん女性じょせいたちから「わたしたちもプロジェクトにくわわりたい」ともうがありました。20ねんちかく、テーラーとしてはたらいていた経験けいけんがあるというのです。

ためしにバッグのサンプルを依頼いらいしたところ、めちゃくちゃ素敵すてきなものを仕上しあげてくれました。これならいけるとおもい、そのひと参加さんかしてもらいました。スーザンという女性じょせいで、いまのうちの工房こうぼうのマネジャーです。

もう1人ひとり現地げんちにいた青年せいねん海外かいがい協力きょうりょくたいひとが、かわ技術ぎじゅつをゼロからおしえた女性じょせいがいました。協力きょうりょくたい任期にんき終了しゅうりょうとともにプロジェクトも終了しゅうりょうき、せっかくにつけたのに技術ぎじゅつをいかさないのはもったいないとおもい、わたしほう彼女かのじょることにめました。ウガンダじん女性じょせい3にんと、わたし合計ごうけい4にんで、2015ねんちいさな工房こうぼうをつくりまして、ここから事業じぎょうがスタートしました。

わたしたち4にん商品しょうひんのサンプルづくりにみ、いよいよできあがりました。「よしろう」とおもったときに、今度こんど日本にっぽんってくれるひとさがさないといけなかったのです。

――結局けっきょく日本にっぽん販売はんばいしてくれるひとつかったのですか?

当時とうじはまだ笹川ささかわアフリカ協会きょうかい仕事しごとをしていて、ボランティアベースでこの事業じぎょうげをやっていたので、日本にっぽんでの販売はんばい手伝てつだってくれるひとつけなくてはとおもい、ふとあたまなかかんだのが、わたしははでした。「かあちゃん」です。

当時とうじはおかねがなくて、そとからやとうのもむずかしい。わたしおなじくらいの情熱じょうねつ、パッションでやってくれるひとを、ほかでつけるのはむずかしいとおもいました。でも、かあちゃんであれば「おねがいベース」でやってもらえて、接客せっきゃくぐらいはできるかなとおもいました。ずっと専業せんぎょう主婦しゅふでビジネスの経験けいけん皆無かいむでしたが、たのんだら「いいわよ」とふた返事へんじ了承りょうしょうしてくれました。

この事業じぎょうをちゃんとしたブランドとしておおきくしたいから、「会社かいしゃ、つくろっか」とちかけまして、かあちゃんは早速さっそくいの行政ぎょうせい書士しょし相談そうだんして、会社かいしゃをつくる準備じゅんびはじめました。
同時どうじに、かあちゃんなりの営業えいぎょう活動かつどうをスタートしてくれました。

近所きんじょひとたちとのおちゃかいひらいては、「こういうものをウガンダでつくっています」と披露ひろうしたり、商品しょうひんのサンプルをまちあるいて、「自分じぶん広告塔こうこくとうだ」という気概きがいってやってくれたりしました。あとは、いのセレクトショップや小売こうりてんさんに、「こういうバッグつくっているんですけど」と、おねがいをしてまわり、店舗てんぽいてもらうことができました。

――地道じみちなところからスタートしたのですね。

そんなかんじで、ささやかにスタートしたのですが、あるかあちゃんがとうちゃんと静岡しずおかにある百貨店ひゃっかてん静岡しずおか伊勢丹いせたん」でものをしていたとき、エントランスで催事さいじをやっていたのです。それをて「うちのバッグもこういう催事さいじをやらせてもらったらいいのではないか」とかあちゃんはおもったらしいのです。

でも、いにバイヤーさんもいないのでどうしようかとおもい、かったさきはインフォメーションセンター。「バイヤーさんにいたい」と直談判じかだんぱんして、なんと「いいですよ」とバイヤーさんにつないでもらうことができたのです。ちょうどバイヤーさんが店内てんないにいて、そこでかあちゃんははじめて名刺めいし交換こうかんをして、「今度こんど商談しょうだんしましょう」とはなしがまとまったのです。「こんなことになっちゃった」とLINE電話でんわはいり、ウガンダをタクシーで移動いどうちゅうだったわたしは、おもわず「えーっ」とさけんでしまいました。

わたしいそいで商談しょうだん資料しりょうをつくりました。かあちゃんもメールでとどいたPDF資料しりょう印刷いんさつすることはできたので、「印刷いんさつしてっていって」とたのみました。商談しょうだんをしたところ、「すごく面白おもしろく、こういうストーリーせいのあるものをさがしていました。まずは稟議りんぎにかけてみます」とのご返事へんじでした。1週間しゅうかん、「催事さいじまりました」と連絡れんらくがありました。れるかどうかからないから、わずかなかずだけ納品のうひんすることにしました。

「RICCI EVERYDAY」の共同創業者、仲本千津さん
「RICCI EVERYDAY」の共同きょうどう創業そうぎょうしゃ仲本なかもと千津ちづさん=東京とうきょう代官山だいかんやま直営店ちょくえいてん畑中はたなかとおる撮影さつえい

ただ、せっかくなので地元じもとメディアにプレスリリースを配布はいふしようとおもい、静岡しずおか各社かくしゃにおらせすることにしました。かあちゃんは送付そうふさきを「104」で調しらべ、電話でんわをかけていきました。ひたすらファクスをおくり、おくったあと「確認かくにんいただけますか」という電話でんわまでれたのです。

そうしたら、かく新聞しんぶんしゃから取材しゅざいわせがあったほか、地元じもとテレビ局てれびきょく密着みっちゃく取材しゅざいはいりました。密着みっちゃく取材しゅざい放映ほうえいされたのが、静岡しずおか伊勢丹いせたんでの催事さいじの2にちほどまえだったのですが、催事さいじ当日とうじつむかえたところ、かあちゃんのところにバイヤーさんから電話でんわはいり、「仲本なかもとさん、大変たいへんです。完売かんばいで、もう在庫ざいこがありません」とわれました。

ウガンダにいるわたしに、かあちゃんから早朝そうちょう電話でんわはいり、「大変たいへん在庫ざいこがないんだって」とのことでした。そこで、周辺しゅうへん小売こうりてんさんに在庫ざいこをひかせてもらうなどして、なにとか催事さいじりきりました。

そんなスタートでした。ちょうど日本にっぽんでもアフリカンプリントに注目ちゅうもくあつまりはじめたころで、「これからながれがるかもしれない」とおもいました。ほかの百貨店ひゃっかてんさんとのコラボもまり、わたしは「そくのわらじ」をいている場合ばあいじゃないとおもち、アフリカ協会きょうかいめ、会社かいしゃ経営けいえいむことにしました。

工房こうぼうはたらくウガンダじん女性じょせいの3にんも、とてもよろこんでくれました。自分じぶんたちがつくったものが、日本にっぽんのおきゃくさまにれられているということが、本当ほんとうにうれしかったようです。オーダーがはいったことをつたえると、それがモチベーションになっているようでした。

アフリカ・ウガンダの人たちと。前列の一番右側が仲本千津さん
アフリカ・ウガンダのひとたちと。前列ぜんれつ一番いちばん右側みぎがわ仲本なかもと千津ちづさん=「RICCI EVERYDAY」提供ていきょう

――いま、ウガンダの工房こうぼうでは何人なんにんぐらいがはたらいているのですか?

20にんほどはたらいています。全員ぜんいん正社員せいしゃいんです。ほとんどがみずからの生活せいかつをよりくしたいとがんばるシングルマザーです。

――運営うんえいはうまくいっていますか?

彼女かのじょたち自身じしんで、工房こうぼうをちゃんと運営うんえいできるようになっています。コロナもあって、わたしがこうして日本にっぽんにいても現地げんち製品せいひんがつくれるように、1人ひとりひとりが自分じぶん役割やくわり認識にんしきし、チームで仕事しごと従事じゅうじしています。

工房こうぼうのマネジャーであるスーザンは、生産せいさん管理かんりをするほか、工房こうぼうのメンバーの面倒めんどうながら、だれかがやすんだらだれかがフォローできるようにするなど奮闘ふんとうしています。原材料げんざいりょう調達ちょうたつチームがいますし、輸出ゆしゅつ管理かんりにないます。それぞれが役割やくわり責任せきにんをもつことで、ようやく工房こうぼう自立じりつてき運営うんえいされるようになりました。

最近さいきんは、現地げんち女性じょせいたちから「マダム(仲本なかもとさん)、これをやっていないよ、どうなっているの?」といった具合ぐあいに、ぎゃくわたし指摘してきがあるぐらいで、「いいかんじ、いいかんじ」とおもっています。

――アフリカ支援しえん、ウガンダ支援しえんという要素ようそは、ビジネスで前面ぜんめんしていないですね。

商品しょうひんそのものにたいする、「あー、かわいい」「うわ、すごい」「このいろきだ」といった感動かんどう大事だいじにしていただきたいとおもっています。よくわれることですが、「支援しえん」の気持きもちでってもらうものって、1かいわっちゃうんですよね。

でも、ビジネスとしてりたせるには、それだけではむずかしくて、おきゃくさまの根源こんげんてきなニーズや感動かんどうなどにれるものでないと、またおうとはならないですよね。支援しえんのためにってもいいんだけど実際じっさい使つかうかなあ、では「タンスのやし」になってしまう。ごみになるかもしれない。

「かわいい」とか「このいろづかいがいいね」という感動かんどうがあったうえで、そのさきに「このバッグは、だれがつくっているんだろう」という関心かんしんてきて、ようやくウガンダの女性じょせいたちのはなしてくる、というながれをおもえがいています。

きゃくさまが愛着あいちゃくをもってくれるような仕掛しかけを、これからも、どんどんつくっていこうとかんがえています。また、おきゃくさまには、わたしがウガンダのローカルマーケットでかんじた「宝探たからさがし」のような感覚かんかくかんじてほしいとねがっています。

社会しゃかい通念つうねん固定こてい観念かんねんでがんじがらめになっていた価値かちかんを、わたしたちのアフリカンプリントの商品しょうひんにとることで一気いっき解放かいほうし、「わたしって、こういうものがきだったんだ」という気持きもちを、おきゃくさまがさい発見はっけんし、大事だいじにしてもらえたらうれしいです。

「RICCI EVERYDAY」の共同創業者、仲本千津さん
「RICCI EVERYDAY」の共同きょうどう創業そうぎょうしゃ仲本なかもと千津ちづさん=東京とうきょう代官山だいかんやま直営店ちょくえいてん畑中はたなかとおる撮影さつえい