突然だが、次の短文に違和感を感じるだろうか。
“I went to the school yesterday.”
theが不要なのでこの文章は不正解だ。日本人が大変苦手な「a(an)」「the」をつけるのかつけないのか問題である。
英語は得意、という人でも、「a(an)」「the」をつけるのか、不要なのか、また、名詞が複数形なのか、単数形なのかで迷うことは多いはずだ。
12月4日、この問題が注目される出来事がTwitter上で起きた。
きっかけは、日本への入国者向けに厚生労働省が作った新型コロナウイルス関連の英文配布物で、文の「不自然さ」を指摘したあるツイートだった。
投稿したのはロッシェル・カップさん。人事管理と異文化理解が専門のコンサルタントだ。これまで「#泣いちゃう英語」というハッシュタグで、日本で見かける違和感のある英語を紹介してきた。
今回のロッシェルさんのツイートに対して、「細かすぎる」「英語で用意してもらっているだけでありがたいのだから文句を言うのは筋違い」という否定的な意見も多く寄せられていたが、それに対する見解をまとめた記事はご本人へのインタビューを参照されたい。
関連の投稿で目を引いたのがこちらのツイートである。
「気持ちが悪すぎて思考が止まることすらある」という感覚は、日本人にはなかなかピンとこないものだ。
改めて、日本人にとっては英語の盲点の一つとも言える冠詞、単数、複数などの表現について深掘りするべく、「イギリス田舎暮らし」さんに話を聞いた。
彼女は日・英の教員免許を持ち、イギリスのグラマースクール(公立だが選抜試験がある中高一貫の進学校のこと)で日本語教師をしていた経験を持つ。現在はプライベートレッスンで日本語を教えている。
以下がその主なやり取りだ。
――改めて、今回のツイートの背景について教えてください。「気持ちが悪すぎて思考が止まることすらある」というのは、ネイティブの知人に指摘されたことでしょうか。
はい、私はイギリスに住んで約25年、永住権をとってからは15年ほどになります。
日本の公立高校で英語教師をした後、留学でイギリスに来たんですが、その当時からお世話になっていた女性がいたんですね。ご飯を食べさせてもらったりなんかして、本当の娘のようにかわいがってもらっていました。
それで、私が話しているとよく「あなたの英語、すごく疲れる」「めちゃくちゃだから、一瞬、止まって考えないといけないのよ」って言ってくるんです。その原因の多くが、冠詞や単数、複数形と発音の間違いでした。
私は会話で、「There is dog……」みたいなことを平気で言ってしまっていたんでしょうね。すると彼女は、「何もつけないより、間違っていてもあったほうが許容しやすいから、とりあえず名詞には必ず、つけてみなさい」と言いました。
だから学校に行った、と言うつもりで「I went to the school.」なんて言うと、それはそれで「違う!」と怒られて、凄く分かりやすい説明をしてくれて、ああ、そういえばそんなの学校で習ったなぁみたいな(笑)。
――「the」がつく場合は、「I went to the school which〜」と、何か特定の説明がある学校について語る時ですよね。だから「the school」の後に何もないと「???」となるのか。
そういうことなんです。スペルや文法を間違えるイギリス人は結構たくさんいるのですが、不思議なことに、受けた教育や教養レベルに関係なく「a(an)」「the」や単数・複数形を間違える人はまずいないんです。
英語のネイティブはそれで物事の関係性を理解し、数を常に意識しているので、当然のことなのかもしれません。
きっと彼らは、子どもの頃からその視点を常に意識することで、感覚として自然と身につけていくんですね。
――日本人の視点だと「名詞の前に何かついてるな」くらいのことだと思いがちですが、その認識がそもそも的外れだったということがよくわかりました。
私のツイートに反応してくださった日本語教師の方で、「日本語で、現在形と過去形を間違われると、一瞬、もう起きたことなのか、これからのことなのか、一瞬思考が止まるのと同じかもしれませんね」とコメントをしてくださった方がいて、なるほど!と思いました。
それから日本語で「フランス」が「フラソス」となっていたら、一瞬「?」となり、「ン」が「ソ」になっていることに気づいたら気持ち悪いし、気になって直したくなるみたいな感じじゃないのかなあと思います。
また、つい最近「Women Talking」という原題の映画の邦題が「ウーマン・トーキング 私たちの選択」と訳されているというのを読みました。
「Women」は複数形なのですが、単数のカタカナにすることで、1人の女性が話していることになり、映画の大事なポイントとメッセージが消えてしまっているんですね。
単数・複数の違いなどたいしたことではないし、「ウーマン」の方が日本語として分かりやすいなどと、翻訳者が判断したからだと思いますが、日本ではこのように翻訳者でさえ、ネイティブなら常に意識している「英語の世界観の基本中の基本」である単数複数を完全無視して、そこに日本語のルールを当てはめ、わざわざジャパニーズイングリッシュにして訳してしまう。そのような環境では、その英語の世界観の習得は難しいのではないかと思いました。
――カタカナ化も、英語への感覚的な理解をはばむ要因になっているのかもしれません。「イギリス田舎暮らし」さんは、この冠詞や、単数・複数の感覚が腹落ちした瞬間ってあるんですか?
残念ながら、ないです。日本の中学・高校で6年勉強し、私の場合、その後大学で英文学を専攻したにも関わらず、なのですが。
そしてそれは裏を返すと、10年以上、意識しない状態があり、定着してしまった。そしてその定着した悪習を矯正し、「学び直す」というのは至難の業なんだということを身をもって感じています。
だから、もう慣れと積み重ねしかないと思って、日々意識するようにして、いまだに「学び直し」ています。
――日本の英語の授業では、冠詞や単数・複数がそこまで大切なものだとは習わないですよね。
そうですね。私は日本にいた時、県内で一二を争う進学校で英語教師をしていたんですが、自分でもその大切さを理解しないまま教えていた、と猛反省中です。
私自身、日本の教育で大学まで学び、大学で英文学を専攻したのに、冠詞や単数・複数の重要さをイギリスに来るまで意識しておらず、中、高、大学の英語の授業では、習得できないまま悪習として定着させてしまった。
読み書きはまだしも、話し言葉となると、スピード感が必要なので、イギリスに来て間もない頃は、全く出来ていなかったんだと思います。
そして中高大と意識しないまま、長年定着させてしまった悪習を矯正するのは一筋縄ではいかないんですね。
やはり何事も最初が肝心で、英語に初めて触れ合う時から基本、名詞には冠詞、単複数を決めてからでないと使えない、例外的な無冠詞の使い方なども徹底的に教えないと、身につかない。
単にa(an)が不特定で、theが特定と学習するだけでは全然使えるようにはならない。なのに、日本の英語教育では、日本語との違いや、その重要さや、英語の世界観を全く学ばず、長年、意識して来なかった。
発話中に日本の英語教師に、発音や冠詞、単数複数などを指摘された記憶もなく、ただなんとなく英語を話してきてしまったことが原因じゃないかと思っています。
そもそも日本の授業では、英語を「言語」として教えていないのも問題だと思います。受験を突破するために大量の文法や単語を暗記するただの「科目」になっちゃってるんですね。
イギリスのグラマースクールで日本語を教えていた時、最初にとにかくびっくりしたのが、日本の学校と比べて教える内容がずっと少なくてもいいということでした。
例えば、私が作成した年間指導計画では、1年目にやるトピックは「自己紹介、家族、好きなこと、日常生活、ショッピング」だけ。それにひらがなとカタカナ、トピックに即した漢字。
トピックごとに、そこで使う表現を何度も何度もじっくり、4技能を徹底的に練習させる余裕があるんです。
「読む・書く・話す・聞く」を網羅し、同じテーマの日本語に繰り返し大量に触れながら、自分自身や自分に関わることをいかに「相手に通じる日本語で」表現するかに重きを置きます。
その時、英語を母語とする話者には難しい「助詞」が間違っていたら、必ず直して感覚がつかめるように、くどいくらい間違っていることを指摘します。答えを与えるのではなく、その都度、何が正しいかを生徒に考えさせます。
生徒は間違いを指摘されることで、自分の間違いに気づき、自分で考え、意識することで学んでいきます。
するとだんだん表現できることが増えてきて、正しい助詞も少しずつ定着していく。そしてしばらくすると、もっと色々と表現したくなってくるので、例えば好きなアニメについてはどんどん自分でネットなどで調べて、スピーチとかに勝手に入れてくる。
だから自分に必要な語彙や表現は自然と増えていきます。生徒たちは、課題のスピーチをするためや、自分自身や身の回りのことを伝えるのに必要なものを、自ら自発的に学んでいくようになります。
そうなってくると、私の役割は「教える」というより、ネイティブが理解できなかったり、わかりにくくかったりする表現や、誤解や混乱を招く発音、音の下がり目の位置(強弱で言ってしまう英語話者には特に難しい)を指摘し、できる限り矯正するというサポート的な役割が増えていきます。
また、言いたいことや自分で調べた表現は定着しやすく、何度でも使うし、例えば街中で日本人を見つけたら自己紹介して、話しかけて会話を始めてしまう。
そして大喜びして、クラスでそのことを「自分が知っている日本語」の範囲で一生懸命報告してくれます。そうやって実際に意思疎通できたことはうれしくて印象が強くなるので、使ったことは更に定着しやすくなる。
イギリスでは大学入学に必要な全国統一試験が、17歳、18歳の時と2回に分けて実施されます。それはGCE Advance Level(Aレベル)と呼ばれるテストで、日本語科目を受験する子どもたちは、5年目には会話はもちろん、帰国子女用の少し簡単にされたものではありますが、「蜘蛛の糸」や「吾輩は猫である」を読むことができ、それについての質問にも自分の意見を述べ、議論をする小論文が書けるレベルになっています。
そしてそこでも大切なことは、「自分の言いたいことを外国語で論理的に表現する」ということで、その小論文の採点基準は、ネイティブが理解でき、きちんと自分の意見が表現されていて、かつ論理的で筋が通っている結論があるかどうかなどになります。日本のマークシート式テストの採点基準とは180度違いますね。
一方、暗記一辺倒の受験で鍛えられた日本人は会話や自分のことを表現するのはさっぱりですが、文法問題では優秀です。
下手したら教養のないイギリス人より断然できますよ。仮定法とか、難しいですよね。いつ使うんだろう、っていう(笑)。
――仮定法、懐かしいです……。仮定法過去完了とか、仮定法現在とか、ありましたね。
日本では英語を言語としてではなく、知識として詰め込まないといけないんです。私が日本の学校で教えていた時は、指導要領も決まっていたし、ほかの先生方と足並みをそろえなくちゃいけないし、受験の傾向と対策の分析とかもあって本当に余裕がありませんでした。
だから、どんなにいい理想やアイデアを持っていても、一教師が現場レベルでそれを実行するなどということはほとんど不可能です。一介の教師にはそんな自由も余裕も与えられていません。
今回のロッシェルさんの投稿で改めて、日本の英語教育の「敗北」を目の当たりにした気がしました。学校の英語教育が機能していないからこそ、英会話教室が盛況なんだろうとも思います。
英語は単に小学校から始めれば上達するものでもないと思うので、もっと他国の外国語教育方法や学習指導要領、試験などを参考にして、いい点は見習うべきではないのかと思います。
義務教育だけでも最低5年、大学まで行った人なら合計10年ほど英語を勉強するのに、この英語の基本的な世界観や重要性を理解している日本人は極めて少ない。
おそらく英語教育の頂点にいる翻訳者ですら、平気で複数、単数を無視して日本語のルールで訳し、違和感を抱いていないのかもしれないという事実は、とてもゆゆしい状況だと思いました。
また今回のことで、ネイティブにとってはありえない文法の間違いが公文書に散在し、それを指摘して添削されたものに対して、「上から目線」などと否定的な意見をする日本人が非常に多かったという点も私には驚きでした。
私は、公文書にあれだけ初歩的な間違いがあるのは大きな問題だと思います。お役所が出した文書なので、これを書いた人以外に、これで良いと判断した人がいる筈ですよね?
これを読んで、これでネイティブチェックなしでこのままで良いと思った日本人の英語力は、正直かなりがっかりなレベルだと思います。
そして指摘されていた間違いは、多くの日本人の英語の共通する間違い。だから、日本人の英語習得の低さに対する問題提起だと私はとらえました。
世界的に見ても日本人の英語力、特にコミュケーション能力は極めて低いという事実を真摯(しんし)に受け止め、何が問題で、それを克服するには何が必要で、また何が弊害になっているかなど、向き合わなければならない問題が日本の英語教育には沢山あるのではないかと思いました。