上田うえだ七なな本ほん槍やり(うえだしちほんやり)は、慶長けいちょう5年ねん(1600年ねん)、関ヶ原せきがはらの戦たたかいの前哨ぜんしょう戦せんにおいて、徳川とくがわ秀忠ひでただが真田さなだ昌幸まさゆきの上田うえだ城しろを攻せめた際さい(上田うえだ合戦かっせん)に活躍かつやくした7人にんの徳川とくがわ氏し家臣かしんを顕彰けんしょうした呼称こしょう。実際じっさいには軍令ぐんれい違反いはんの抜ぬけ駆がけであったが、敗北はいぼくに終おわった戦たたかいを糊塗ことし、殊更ことさらに戦果せんかを誇張こちょうするため作為さくい的てきに称揚しょうようされたという側面そくめんもある。