辻つじ 久吉ひさよし(つじ ひさよし、元もと亀かめ2年ねん(1571年ねん) - 慶長けいちょう20年ねん1月がつ21日にち(1615年ねん2月がつ18日にち))は、江戸えど時代じだいの旗本はたもと。上田うえだ七なな本ほん槍やりの一人ひとり。辻つじ久ひさ正ただしの子こ。太郎助たろすけ。妻つまは高尾たかお昌俊まさとしの娘むすめ。
豊臣とよとみ氏しの家臣かしん木村きむら清久きよひさの陪臣ばいしんであったが、天正てんしょう18年ねん(1590年ねん)に徳川とくがわ家康いえやすに仕つかえ、慶長けいちょう5年ねん(1600年ねん)に徳川とくがわ秀忠ひでただの軍ぐんに属ぞくし、上田うえだ合戦かっせんに加くわわり、上田うえだ七なな本ほん槍やりの随一ずいいちとされる。軍規ぐんき違反いはんであり叱責しっせきをうけ上野うえの国こく吾妻あづまに篭居ろうきょするが、本多ほんだ忠政ただまさの書状しょじょうが届とどき許ゆるされて功こうを賞しょうされ、翌年よくねん相模さがみ国こく下和田しもわだ村むら(現在げんざいの大和やまと市し)大住おおずみ郡ぐん菩提ぼだい村むら、千村ちむら(現在げんざいの秦野はだの市し)、下総しもうさ国こく千葉ちば郡ぐんにおいて550石せきなどを領りょうする。のちに770石せきとなり、伏見ふしみ城じょう守衛しゅえいを務つとめている時ときに没ぼっする。子孫しそんは旗本はたもととして存続そんぞくしている。
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