井上いのうえ 政まさし蔽(いのうえ まさあきら)は、はじめ1000石せきの旗本はたもと。のちに下総しもうさ高岡たかおか藩はん3代だい藩主はんしゅ。
寛文ひろふみ元年がんねん(1661年ねん)、2代だい藩主はんしゅ・井上いのうえ政まさし清きよしの次男じなんとして生うまれる。長兄ちょうけいに内記ないきがいたため、1000石せきの旗本はたもとであった叔父おじ・井上いのうえ政則まさのりの養子ようしとなり、寛文ひろふみ9年ねん(1669年ねん)に家督かとくを継ついで旗本はたもととなった。しかし内記ないきが早世そうせいしたため、家督かとくを井上いのうえ政まさし強きょうに譲ゆずり、自みずからは高岡たかおか藩はんに戻もどって世子せいしとなった。延のべ宝たから3年ねん(1675年ねん)に父ちちが死去しきょしたため家督かとくを継ついだ。このとき、弟おとうとの政せい式しきに1500石せきを分与ぶんよしたため、高岡たかおか藩はんは1万まん1500石せきから1万まん石せきになった。延のべ宝たから4年ねん(1676年ねん)12月、従したがえ五ご位い下か、筑後ちくご守まもるに叙位じょい・任官にんかんする。
延のべ宝たから9年ねん(1681年ねん)8月がつ、駿府すんぷ城じょう加か番ばんに任にんじられる。元禄げんろく3年ねん(1690年ねん)7月がつには大坂おおさか加か番ばんに任にんじられ、元禄げんろく8年ねん(1695年ねん)には日光にっこう祭礼さいれい奉行ぶぎょうに任にんじられるなど、諸しょ役やくを歴任れきにんした。
正徳しょうとく6年ねん(1716年ねん)3月がつ1日にちに死去しきょした。享年きょうねん56。跡あとを長男ちょうなんの政せい鄰が継ついだ。
先さきに1500石せき分与ぶんよさせた弟おとうとで旗本はたもとの政せい式しきの次男じなんであった井上いのうえ正ただし敦あつしは、常陸ひたち下妻しもづま藩はん主おもの井上いのうえ正ただし長ちょうの養子ようしとなってその跡あとを継ついだ。
父母ちちはは
正室せいしつ
子女しじょ