太田おおた 圓えん三さん (おおた えんぞう、太田おおた円えん三さん、1881年ねん(明治めいじ14年ねん)3月がつ10日とおか - 1926年ねん(大正たいしょう15年ねん)3月21日にち)は明治めいじ・大正たいしょう期きの土木どぼく技術ぎじゅつ者しゃ・鉄道てつどう技師ぎし。詩人しじん・木下きのした杢太郎もくたろうの実兄じっけい。動物どうぶつ学者がくしゃである太田おおた嘉よしみ四よん夫おっとの叔父おじ。
静岡しずおか県けん田方たがた郡ぐん伊東いとう町まち(現在げんざいの伊東いとう市し)出身しゅっしん。東京とうきょう府立ふりつ一いち中なか[1]、一いち高だかを経へて、1904年ねんに東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工科こうか大学だいがく土木どぼく工学科こうがっかを卒業そつぎょう。大学だいがくでは広井ひろい勇いさむに師事しじ。逓信ていしん省しょう鉄道てつどう作業さぎょう局きょく(後ごの鉄道てつどう院いん→鉄道てつどう省しょう)に入省にゅうしょう。1910年ねんから2年間ねんかん、欧米おうべいに留学りゅうがく。1923年ねんの関東大震災かんとうだいしんさい後ご、帝都ていと復興ふっこう院いん土木どぼく局長きょくちょうに抜擢ばってきされる。
帝都ていと復興ふっこう院いんでは、隅田川すみだがわ六ろく大橋おおはし(下流かりゅうから相生橋あいおいばし、永代えいたい橋きょう、清洲橋きよすばし、蔵前橋くらまえばし、駒形橋こまがたばし、言げん問とい橋きょう)をはじめとする「震災しんさい復興ふっこう橋梁きょうりょう」の建設けんせつを、橋梁きょうりょう課長かちょうの田中たなか豊ゆたかと共ともに主導しゅどうした。
また、弟おとうと(木下きのした杢太郎もくたろう)が詩人しじんであり、自身じしんも文学ぶんがくを志こころざしたことがあったことから、橋梁きょうりょうのデザインについて文学ぶんがく者しゃ・画家がかなどの意見いけんを聴きいたり、山田やまだ守まもる・山口やまぐち文ぶん象ぞうら建築けんちく家かとの協きょう働はたらけも行おこなった。
また、アメリカ人じん技術ぎじゅつ者しゃを雇やとって、ニューマチックケーソン工法こうほうを橋梁きょうりょうの基礎きそ工法こうほうとして本格ほんかく的てきに導入どうにゅうした。
親友しんゆうの十河そごう信二しんじとともに巻まき込こまれた、土地とち売買ばいばいに関かかわる贈収賄ぞうしゅうわい疑惑ぎわく(復興ふっこう局きょく疑獄ぎごく事件じけん)にて自殺じさつした。 復興ふっこう局きょく跡地あとちのそばに架かかる神田かんだ橋きょう近ちかくに記念きねん碑ひが残のこる。
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