角田つのだ 忠行ただゆき(つのだ ただゆき、天保てんぽう5年ねん11月6日にち(1834年ねん12月6日にち) - 大正たいしょう7年ねん(1918年ねん)12月15日にち)は、日本にっぽんの国学こくがく者しゃ・神官しんかん。通称つうしょうは由三郎よしさぶろう。
信濃しなの国こく佐久さく郡ぐん長土呂ながとろ村むら(現げん長野ながの県けん佐久さく市し)の近津ちかつ神社じんじゃの神主かんぬし角田つのだ忠ただし守もりと母はは小林こばやし氏しの二男じなんとして生うまれる。父ちちは岩村田いわむらた藩はん主おもの侍講じこう、藩校はんこう達いたる道みち館かん教授きょうじゅを務つとめ、終身しゅうしん禄ろくを受うけ藩士はんし身分みぶんとなった。弟おとうと(父ちち忠ちゅう守もりの四よん男なん)に同おなじく神官しんかんとなった角田つのだ信道のぶみちがいる[1]。
安政あんせい2年ねん(1855年ねん)脱藩だっぱんして江戸えどに出奔しゅっぽんし、藤田ふじた東湖とうこに入門にゅうもん。その後ごは国学こくがく者しゃ平田ひらた銕胤の門人もんじんとなって塾じゅくの運営うんえいに関かかわった。文久ぶんきゅう3年ねん(1863年ねん)上洛じょうらくして等持院とうじいんにある足利あしかが三さん代だい木像もくぞう梟首きょうしゅ事件じけんに首謀しゅぼう者しゃの一人ひとりとして関与かんよし、幕吏ばくりに追おわれて伊那いな谷たにの松尾まつお多た勢子せこ邸やしきに潜伏せんぷく。慶応けいおう3年ねん(1867年ねん)米川よねかわ信濃しなのと変名へんめいし澤さわ為ため量りょうに仕つかえる。戊辰戦争ぼしんせんそうでは秋田あきた藩はんの官軍かんぐん恭順きょうじゅんに尽力じんりょくした。
維新いしん後ごは明治めいじ政府せいふに出仕しゅっしし皇すめらぎ学がく所しょ監察かんさつ、学制がくせい取調とりしらべ御用ごよう掛かけ、大学だいがく奏そう任にんなどを務つとめ、賀茂かも御ご祖神そしん社しゃ少しょう宮司ぐうじ、廣田ひろた神社じんじゃ宮司ぐうじを経へて、明治めいじ13年ねん(1880年ねん)熱田あつた神宮じんぐう大だい宮司ぐうじとなり、大正たいしょう3年ねん(1914年ねん)までその職しょくを務つとめた。「葬そう事ごと略記りゃっき」は美濃みの国こく苗木なえぎ藩はんや信濃しなの国こく松本まつもと藩はんの廃仏毀釈はいぶつきしゃく政策せいさくに影響えいきょうを与あたえた。
島崎しまざき藤村とうそんの『夜明よあけ前まえ』に「暮田くれだ正香まさか」の名なで登場とうじょうしている。
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