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房州堀 - Wikipedia

房州ぼうしゅうほり

近世きんせい博多はかたみなみえんかくしていたほり

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房州ぼうしゅうほり(ぼうしゅうぼり)とは、近世きんせい博多はかた筑前ちくぜんこく那珂なかぐん)のみなみえんかくしていたほり名称めいしょうとしてもっともよくられるものである。なお、「房州ぼうしゅう」とは「安房あわこく」ので、臼杵うすきあきらつづけ後述こうじゅつ)の受領じゅりょうめい安房あわもり」にちなむとされる。

房州ぼうしゅうほり
ほり
しん項目こうもく博多はかた福岡ふくおかじょう 編集
仮名がなぼうしゅうぼりばうしうぼり 編集
くに日本にっぽん 編集
位置いちする行政ぎょうせい区画くかく博多はかた 編集
場所ばしょ博多はかた 編集
時代じだい近世きんせい 編集
寛永かんえいごろまでの福岡ふくおか博多はかた推定すいてい

概要がいよう

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近世きんせい博多はかたかんほり都市としであり、きたえんうみひがし西にしかわ、そしてみなみえんほりによってかくされていた。ほり石堂川いしどうがわからはちそこがわ那珂川なかがわ支流しりゅう)にいたる、はばやく20~30m、ながやく900mの規模きぼのもので、1699ねんのものと推定すいていされる[1]精密せいみつ実測じっそく[2]によってその形状けいじょうることができる。その築造ちくぞう時期じき築造ちくぞうしゃは、近世きんせい地誌ちし言及げんきゅうされるものの、いち史料しりょうはなく、また発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっか築造ちくぞう時期じき断定だんていするにいたってはいない[3]

ほり名称めいしょう一般いっぱんに「房州ぼうしゅうほり」がられるが、このほかにもそう也堀、大屋おおやほりふとしほり)、古屋こやほりなどの名称めいしょう地誌ちし記述きじゅつえる。「房州ぼうしゅうほり」のひろられるようになったのは、その名称めいしょうげた「筑前ちくぜんこくぞく風土記ふどき」が、地誌ちし先駆さきがけて、しかも明治めいじ43(1910)ねんというかなりはや時期じき翻刻ほんこく刊行かんこうされたからであろう[4]。あるいはその著者ちょしゃ貝原かいばら益軒えきけん文献ぶんけん史料しりょう重視じゅうししていたことによるあるしゅ対人たいじん論証ろんしょうなのかもしれない。

地誌ちし記述きじゅつ

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江戸えど中期ちゅうきまでの地誌ちししるされるほり名称めいしょうとその由来ゆらいについての伝承でんしょうはおよそ以下いかとおりである。

1)博多南はかたみなみえんほりを「房州ぼうしゅうほり」とし、その由来ゆらい大友おおとも家臣かしん臼杵きゅうしょ安房あわもりかんつづけ構築こうちくによるとする伝承でんしょうで、「筑前ちくぜんこくつづけ風土記ふどき」(1703ねん) に言及げんきゅうされる。

2)博多南はかたみなみえんほりのうち、中央ちゅうおう部分ぶぶん西側にしがわ部分ぶぶんを「そう也堀」とし、その由来ゆらい徳永とくながはじめ構築こうちくによるとする伝承でんしょうで、「博多はかたいにしえせつ拾遺しゅうい[5]」(1736ねん) 「博多はかたはじめこと[6]」(1747ねん)に言及げんきゅうされる。「博多はかたはじめこと」にはまた、「一説いっせつ中央ちゅうおう部分ぶぶん房州ぼうしゅうほりというが、これは徳永とくながはじめ也がったものでそう也堀という」としる箇所かしょべつにある。

3)博多南はかたみなみえんほりのうち、東側ひがしがわ部分ぶぶん大屋おおや(フトヤ)ほり中央ちゅうおう部分ぶぶんそう也堀(あるいは徳永とくながはじめ也がったほり)、西側にしがわ部分ぶぶん(あるいは中央ちゅうおう部分ぶぶんから西側にしがわ部分ぶぶんにかけて)を房州ぼうしゅうほりとする伝承でんしょうがあり、「博多はかた[7]」(1723ねん)、「だい[8]」などにしるされる。

東側ひがしがわ部分ぶぶんについては、中世ちゅうせい絵図えずえがかれており、中世ちゅうせいまでさかのぼるのはあきらかであるが、中央ちゅうおう部分ぶぶん西側にしがわ部分ぶぶんについては、その活躍かつやくした時期じきまったことなる二人ふたり人物じんぶつ焦点しょうてんがあてられる。臼杵うすきあきらつづけ徳永とくながはじめである。臼杵うすきあきらつづけ戦国せんごく大名だいみょう大友おおとも家臣かしんであり、大友おおともはく多津たつ取次とりつぎばんしゅ)-志摩しま郡代ぐんだい博多はかた代官だいかんという支配しはい機構きこうとおして博多はかた権限けんげんおよぼしていた。したがって、臼杵うすきあきらつづけ博多南はかたみなみえんほりったとしても不自然ふしぜんではなく、その時期じき戦国せんごくとなる。一方いっぽう徳永とくながはじめ黒田くろだ長政ながまさによって博多はかたまちせい中枢ちゅうすうえられた人物じんぶつであり、博多はかたひがしえんかわ土手どて普請ふしん博多はかた商人しょうにん渡航とこう朱印しゅいんじょう獲得かくとく博多はかた公役こうえき人組にんぐみ制度せいどなどについて長政ながまさ指示しじけている。徳永とくながはじめ也がほりったとすれば、既存きそんほり改修かいしゅう拡張かくちょう整備せいびするなどした、あるいは新規しんきほり築造ちくぞうしたとかんがえられ、その時期じき近世きんせい初頭しょとうということになる。

防禦ぼうぎょ施設しせつへんねんによるアプローチ

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博多南はかたみなみえんほりのうち、中央ちゅうおう部分ぶぶんられる規模きぼおおきなごう横矢よこや虎口ここう両側りょうがわからの側面そくめん攻撃こうげき可能かのうにする)などは、戦国せんごく九州きゅうしゅうではられず、ゆたか政権せいけんもしくはその系列けいれつ権力けんりょくたい特有とくゆうのものであり、すくなくとも中央ちゅうおう部分ぶぶんについては小早川こばやかわ隆景たかかげ秀秋ひであき豊臣とよとみくら入地いりじ代官だいかんである石田いしだ三成みつなり、そして黒田くろだ長政ながまさのいずれかによる築造ちくぞう可能かのうせいたか[9]

博多はかたそう構論

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小島こじまみちひろし前川まえかわかなめ両氏りょうし研究けんきゅうによれば、大名だいみょう直属ちょくぞく町人ちょうにん居住きょじゅういき在地ざいち市町しちょう統合とうごうをもって一元いちげんてき構造こうぞうをなす都市とし成立せいりつ、それをそう構によってかこむことによって近世きんせいてき城下町じょうかまち成立せいりつするとする[10]。その前提ぜんていてば、黒田くろだ政権せいけん初期しょき段階だんかいで、博多はかた福岡ふくおかじょうそう構のうちみ、博多南はかたみなみえんほりをそのみなみえん防禦ぼうぎょラインとした都市とし建設けんせつは、当該とうがい都市とし計画けいかく理念りねん合致がっちすることになる。なお、これについてはいくつか傍証ぼうしょうがある。

1)石堂いしどうくち博多はかたひがし入口いりくちであるが、その整備せいび福岡ふくおかじょう関係かんけい普請ふしん工事こうじ平行へいこうしておこなわれた。ここにも側面そくめん攻撃こうげきのための横矢よこやがけがほどこされており、黒田くろだ長政ながまさによってそう構のもんとして整備せいびされた可能かのうせいかんがえられる。石堂いしどうこうりょうわきには慶長けいちょう8ねんごろまでに寺町てらまち整備せいびされている[11]が、いちれつならべられたてら防禦ぼうぎょラインを構成こうせいすることはすで指摘してきされているとおりである[12]

2)近世きんせい初期しょき(1643ねん)、博多はかたには間口まぐち合計ごうけいよんまちにもおよさむらいまち存在そんざいした。福岡ふくおかじょう築城ちくじょうころ、ここに「松本まつもと五郎右衛門ごろうえもんあずかり、さんじゅう疋立のうまや」があったという[11]。このさむらいまち黒田くろだ長政ながまさ福岡ふくおかじょう築城ちくじょう直後ちょくごまでさかのぼるという前提ぜんていてば、博多南はかたみなみえんほりそうかまえとして機能きのうしていたことの傍証ぼうしょうたりうる。近世きんせい初頭しょとう城下町じょうかまちにおいて、さむらいまちそうかまえのそとくことはまずかんがえられないからである[13]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 小林こばやししげるほか『福岡平野ふくおかへいや環境かんきょう遺跡いせき立地りっち環境かんきょうとしての遺跡いせきとの共存きょうぞんのために―』(九州大学きゅうしゅうだいがく出版しゅっぱんかい、1998ねん)pp.246-7
  2. ^ 福岡ふくおかけん編纂へんさん資料しりょう651「福岡ふくおか城下じょうか絵図えず」(福岡ふくおか県立けんりつ図書館としょかん
  3. ^ 木島きしま孝之たかゆき房州ぼうしゅうほり戦国せんごく産物さんぶつか Ⅱ」『中世ちゅうせい城郭じょうかく研究けんきゅう』11ごう中世ちゅうせい城郭じょうかく研究けんきゅうかい、1997ねん)pp.156-7
  4. ^ 益軒えきけんかいへん益軒えきけん全集ぜんしゅうまきよん益軒えきけん全集ぜんしゅう刊行かんこう、1910ねん
  5. ^ 日本にっぽん都市とし生活せいかつ史料しりょう集成しゅうせいろく 港町みなとちょうへんⅠ(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、1975ねん)に所収しょしゅう
  6. ^ 筑前ちくぜん叢書そうしょじゅう許斐このみ文書ぶんしょ)による。
  7. ^ 福岡ふくおか県立けんりつ図書館としょかんほん(K25/5-30h/66)による。
  8. ^ 福岡ふくおか県立けんりつ図書館としょかんほん(K32/32h20)による。
  9. ^ 木島きしま孝之たかゆき房州ぼうしゅうほり戦国せんごく産物さんぶつか Ⅱ」『中世ちゅうせい城郭じょうかく研究けんきゅう』11ごう中世ちゅうせい城郭じょうかく研究けんきゅうかい、1997ねん)pp.158-9
  10. ^ 小島こじまみちひろし戦国せんごくゆたか城下町じょうかまち ―城下町じょうかまちにおける『まち』の成立せいりつ―」『日本にっぽん都市とし入門にゅうもん』Ⅱ(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1990ねん)など。
  11. ^ a b 西日本にしにほん文化ぶんか協会きょうかいへん福岡ふくおかけん通史つうしへん 福岡ふくおかはんいち)(福岡ふくおかけん、1998ねん)pp.610-12
  12. ^ 小野おの晃嗣こうじ小野おのひとし)『近世きんせい城下町じょうかまち研究けんきゅう 増補ぞうほばん』(法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、1993ねん)p.203。なおこれは、1942ねん死去しきょした著者ちょしゃ著作ちょさく遺稿いこうをまとめたもの。
  13. ^ 現存げんそんするせい保城ほうしろ絵図えずによる帰納的きのうてき推論すいろん


参考さんこう文献ぶんけん

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