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ジャマールッディーン・アフガーニー - Wikipedia

ジャマールッディーン・アフガーニー

アフガーニーから転送てんそう

ジャマールッディーン・アフガーニーアラビア: جمال الدين الحسيني الأفغاني, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Sayyid Jamāl al-Dīn al-Afghānī1839ねん - 1897ねん5月9にち)は、19世紀せいきイスラーム世界せかい思想家しそうかひろしイスラム主義しゅぎ英語えいごばんとなえた。イスラーム世界せかい外国がいこく統治とうちおよぶのを拒絶きょぜつし、オスマン帝国ていこくガージャールあさ専制せんせい体制たいせい批判ひはんした。また、アフガーニーの信念しんねんは、ムスリムのあいだでの団結だんけつけていることに問題もんだいがあるというものであった。アフガーニーは、また、絶対ぜったい君主くんしゅせいよりも法治ほうち国家こっか立憲りっけんせいすぐれていると確信かくしんしていた。かれ伝統でんとうてきマドラサにおける教育きょういくは、ファルサファばれるイスラーム哲学てつがくとイルファーンとばれる神秘しんぴ主義しゅぎもとづいていた。

ジャマールッディーン・アフガーニー

生涯しょうがい

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生誕せいたんをめぐる諸説しょせつ

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アフガーニーの生誕せいたんをめぐっては諸説しょせつある。1つは、アフガニスタンのアーサダバードでまれたとするせつであり、もう1つは、おなじアーサダバードでも、イランハマダーン近郊きんこうのアサダーバードでまれたとするせつである。イランではこのせつ有力ゆうりょくであり、ニッキ・ケディエの評伝ひょうでんでもこのせつをとり、ジャマーロッディーン・アサダーバーディーとぶ。

遍歴へんれき

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サイイドいえまれたアフガーニーは、17さいないしは18さいのときには、宗教しゅうきょう教育きょういくつづおこなうために、インド留学りゅうがくした。最初さいしょ訪問ほうもんしたインドにおいては、イギリスによる植民しょくみん政策せいさく反対はんたいするイスラーム主義しゅぎ活動かつどうむねめてのものであった。アフガーニーは、はん植民しょくみん主義しゅぎしゃであったが、同時どうじに、当時とうじのイスラーム指導しどうしゃそうにも反対はんたい立場たちばっていた。

インドをったのち、アフガーニーがおとずれたのは、エジプトである。エジプトでは、おおくのイスラーム主義しゅぎしゃ機会きかい獲得かくとくした。だが、アフガーニーの主張しゅちょうは、イギリス政府せいふ当局とうきょくによって警戒けいかいけるものであったので、アフガーニーは、エジプトをらざるをなくなる。そのあと、アフガーニーが滞在たいざいしたのは、イギリスであり、しばらくのあいだ新聞しんぶん出版しゅっぱん従事じゅうじした。

アフガーニーの日記にっきによると、「わたしは、イギリスではイスラームを確認かくにんすることはできたがムスリムはいなかった。エジプトはそのぎゃくである」という記述きじゅつがある。

アフガーニーは、そのペルシャ現在げんざいのイランとアフガニスタンの領域りょういき)にもどり、当時とうじのシャーにたいして、改革かいかく実施じっしうながしたが、シャーは最後さいごまで、行動こうどうこすことはなかった。アフガーニーとかれ支持しじしゃは、モスクで、シャーがわれわれの要求ようきゅうれないかぎり、ペルシャを意思いしはないと広言こうげんした。しかし、当時とうじのシャーであったナーセロッディーン・シャーは、アフガーニーをトルコへわた流刑りゅうけい処置しょちをとった。そこで、アフガーニーとその支持しじしゃは、トルコへと移動いどうしたが、そこで、アブデュルハミト2せいによって投獄とうごくされる。

このトルコでの投獄とうごく原因げんいんは、1896ねんに、アフガーニーの支持しじしゃ一人ひとりが、ナーセロッディーンの暗殺あんさつ実行じっこうしたからである。アブデュルハミト2せいは、そのニュースがあきらかになったがために、アフガーニーとその支持しじしゃ投獄とうごくした。そののアフガーニーは、アブデュルハミト2せい庇護ひごもとで、イスタンブール生活せいかつごすことになった。ペルシャがわによる引渡ひきわた請求せいきゅうたいして、アブデュルハミト2せい拒絶きょぜつ姿勢しせいった。その理由りゆうは、かれ自身じしんすすめていたひろしイスラム主義しゅぎ英語えいごばん政策せいさくをアフガーニーときょうはたらかして実施じっししたい意向いこうがあったからと推測すいそくされる。

トルコでの生活せいかつで、アフガーニーはイスラーム各国かっこくおよ指導しどうしゃおおくの手紙てがみおくっている。その内容ないようは、イギリスによる統治とうち対抗たいこうするかたちでの団結だんけつうったえたものであった。また、同時どうじに、スンナシーアあいだ親善しんぜん関係かんけいきずくことにも挑戦ちょうせんした。

歴史れきしによると、アブデュルハミト2せいは、アフガーニーがアラブじん指導しどうしゃやイスタンブールに滞在たいざいするイギリス高官こうかん会談かいだんかさねることにたいして徐々じょじょ疑惑ぎわくつようになり、トルコからの出国しゅっこくみとめなかった。

アフガーニーは、1897ねん5月9にち、イスタンブールで客死かくしした。はじめはイスタンブールで埋葬まいそうされたが、1944ねんに、アフガニスタン政府せいふ主張しゅちょうもあり、アフガニスタンに遺体いたい移送いそうされ、カーブル大学だいがくふたたび、埋葬まいそうされた。

主張しゅちょう

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アフガーニーを起源きげんとするパン・イスラーム主義しゅぎは、連帯れんたい主張しゅちょうするだけではなく、オスマン帝国ていこくガージャールあさ専制せんせい批判ひはんした。その理由りゆうは、列強れっきょうによる植民しょくみんたとえば、インド、パキスタンきたアフリカなど)・はん植民しょくみんたとえば、ペルシャ、エジプト)が進展しんてんする現実げんじつ直視ちょくししないで、有効ゆうこうなレジスタンスをきずくことのできない王朝おうちょうは、イスラーム世界せかい防衛ぼうえいする責任せきにんたしていないし、その能力のうりょくいているという認識にんしきっていたからである。

また、アフガーニーはジハード広義こうぎ意味いみとらえた。

  • 「イスラームしょ王朝おうちょうたがいに連携れんけいして郷土きょうど防衛ぼうえいをはかるのもジハードであるし、国家こっかぐんがない状態じょうたい民衆みんしゅう自発じはつてき防衛ぼうえいおこなうのもジハードである。さらに、本来ほんらいのジハードは、公正こうせいなイスラーム社会しゃかい樹立じゅりつするためにあらゆる側面そくめん奮闘ふんとう努力どりょくすることである[1]
  • 「アフガーニーは、西洋せいよう列強れっきょう軍事ぐんじてき対抗たいこうする必要ひつよういたようにおもわれているが、かれにとって軍事ぐんじよりも重要じゅうよう戦線せんせんがあった。それは知識ちしき思想しそう戦線せんせんであった。それは、かれ西洋せいよう挑戦ちょうせんが「じゅう攻勢こうせい」であることをはやくから見抜みぬいた先覚せんかくしゃであることによっている[2]

アフガーニーが直面ちょくめんした現実げんじつは、停滞ていたいしたイスラーム社会しゃかい悪弊あくへい一掃いっそう、イスラームの原点げんてんへの回帰かいき時代じだい要請ようせい適合てきごうするイスラーム解釈かいしゃくであった。これらの思想しそうは、8年間ねんかん滞在たいざいしたエジプトではアラービー運動うんどう影響えいきょうあたえたほか、イランでは利権りけん回収かいしゅうもとめるタバコ・ボイコット運動うんどうこすなど、各地かくち確実かくじつ足跡あしあとのこした。アフガーニーの思想しそうは、ムハンマド・アブドゥフ(アブドゥとも)やアブドゥフとアフガーニーが1884ねん出版しゅっぱんした『かたきずな』に感銘かんめいけたシリアじんラシード・リダーがれていった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 小杉こすぎやすし興亡こうぼう世界せかい6 イスラーム帝国ていこくのジハード』(講談社こうだんしゃ、2006)p.291
  2. ^ ibid.

参考さんこう文献ぶんけん

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小杉こすぎやすし興亡こうぼう世界せかい6 イスラーム帝国ていこくのジハード』(講談社こうだんしゃ、2006)

外部がいぶリンク

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