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アミントレ・ファンファーニ - Wikipedia

アミントレ・ファンファーニイタリア: Amintore Fanfani1908ねん2がつ6にち - 1999ねん11月20にち)は、イタリア政治せいじ経済けいざい学者がくしゃ経済けいざいおよ経済けいざいがく)。

アミントレ・ファンファーニ
Amintore Fanfani
生年月日せいねんがっぴ (1908-02-06) 1908ねん2がつ6にち
出生しゅっしょう イタリア王国の旗 イタリア王国おうこくピエーヴェ・サント・ステーファノ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1999-11-20) 1999ねん11月20にち(91さいぼつ
出身しゅっしんこう サクロ・クオーレ・カトリック大学だいがく
所属しょぞく政党せいとう キリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎ(1942 - 1994)
イタリア人民じんみんとう(1994-1999)

内閣ないかく だい1ファンファーニないかく
だい2ファンファーニないかく
だい3ファンファーニないかく
だい4ファンファーニないかく
だい5ファンファーニないかく
だい6ファンファーニないかく
在任ざいにん期間きかん 1954ねん1がつ19にち - 1954ねん2がつ10日とおか
1958ねん7がつ2にち - 1959ねん2がつ16にち
1960ねん7がつ27にち - 1962ねん2がつ22にち - 1962ねん2がつ22にち - 1963ねん6月22にち
1982ねん12月1にち - 1983ねん8がつ4にち
1987ねん4がつ17にち - 1987ねん7がつ29にち
大統領だいとうりょう ルイージ・エイナウディ
ジョヴァンニ・グロンキ
アントニオ・セーニ
アレッサンドロ・ペルティーニ
フランチェスコ・コッシガ
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アミントーレ・ファンファーニ(みぎはし

首相しゅしょうだい9・13・16・17・41・44だい)、労働ろうどう社会しゃかい政策せいさくしょう外相がいしょう元老げんろういん上院じょういん議長ぎちょう元老げんろういん議員ぎいんキリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎ書記しょきちょう

略歴りゃくれき

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政界せいかいまえ

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イタリア中部ちゅうぶしょう都市としピエーヴェ・サント・ステーファノまれた。そのミラノサクロ・クオーレ・カトリック大学だいがく進学しんがくし、卒業そつぎょうどう大学だいがくローマ大学だいがく教授きょうじゅなどを歴任れきにんした。

DC結党けっとう参加さんか

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だい世界せかい大戦たいせんなか1942ねん、イタリア大学だいがくカトリック教徒きょうと連合れんごう(Federazione Universitaria Cattolica Italiana)の一員いちいんとして、きゅうイタリア人民じんみんとうアルチーデ・デ・ガスペリらとともに、戦後せんごのイタリアでおおきな勢力せいりょくほこった「キリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎ」(Democrazia Cristiana)の結党けっとう参加さんか

1946ねん6がつ発足ほっそくした憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい(Assemblea Costituente della Repubblica Italiana)の議員ぎいん選出せんしゅつされる。よく1947ねん5月、だい4デ・ガスペリないかく労働ろうどう社会しゃかい保障ほしょうしょうとしてはつ入閣にゅうかく

6首相しゅしょう,2党首とうしゅ,3上院じょういん議長ぎちょう,そして国連こくれん総会そうかい議長ぎちょう

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だいいち内閣ないかく

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1953ねん8がつアルチーデ・デ・ガスペリ退陣たいじんし、ジュセッペ・ペッラが後継こうけい首相しゅしょうとなったが翌年よくねん1がつ辞任じにんした。ファンファーニはその後継こうけいとして1がつ19にち首相しゅしょうとなったが、信任しんにん決議けつぎあん下院かいん否決ひけつされ辞任じにん余儀よぎなくされた。23日間にちかんというみじかさはイタリア共和きょうわこく史上しじょう最短さいたんである。同年どうねん2がつ10日とおかマリオ・シェルバ中道ちゅうどう政権せいけんひきいることとなった。

一期いっき党首とうしゅ

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首相しゅしょう退任たいにんの1954ねん6がつアルチーデ・デ・ガスペリ後任こうにんとしてキリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎ党首とうしゅとなった。ファンファーニは1959ねん3がつまで在任ざいにんすることになる。

だい内閣ないかく

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1958ねんイタリアそう選挙せんきょのちアドネ・ツォーリ辞任じにんし、ファンファーニが首相しゅしょうとなった。イタリア民主みんしゅ社会党しゃかいとうとの連立れんりつ今回こんかい両院りょういん信任しんにんることができた。しかし、かれ権力けんりょく集中しゅうちゅうねらったが、シェルバアンドレオッティ党内とうない保守ほしゅ反発はんぱつし、採決さいけつであからさまな造反ぞうはんげきこした。その結果けっか翌年よくねん1がつにファンファーニは辞任じにん余儀よぎなくされた。2月16にちアントニオ・セーニ後任こうにん首相しゅしょう就任しゅうにんした。

党首とうしゅ辞任じにん

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そのファンファーニは1959ねん3がつ党首とうしゅ辞任じにんした。後任こうにん党内とうない中道ちゅうどう左派さはアルド・モーロとなった。

だいさんだいよん内閣ないかく

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だい内閣ないかく

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だいろく内閣ないかく

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1980年代ねんだいスパドリーニ政権せいけん(1982ねん)、だい2クラクシ政権せいけん(1987ねん)のそう辞職じしょくけてショートリリーフてき首相しゅしょうくなど活躍かつやくしたものの、タンジェントポリ契機けいきとするDCの衰勢すいせいめることは出来できず、ファンファーニは1994ねん1がつのDC解党かいとう見届みとどけた。

1999ねん11月20にちローマ病院びょういんで91さい死去しきょし、国葬こくそうおこなわれた。

評価ひょうか

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冷戦れいせんしたにおけるイタリア国政こくせいへの貢献こうけん多大ただいであったとの評価ひょうかもある一方いっぽう、ライバルとわれていたジュリオ・アンドレオッティ同様どうようにあまりになが権力けんりょくとどまったことや、そのためもあり現役げんえき時代じだいマフィアなどの犯罪はんざい組織そしきとの癒着ゆちゃく度々どどうわさされるなど、その評価ひょうかおおきくかれる。

関連かんれん項目こうもく

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公職こうしょく
先代せんだい
ジュゼッペ・ペッラ
アドネ・ツォーリ (en
フェルナンド・タンブロニ (en
ジョヴァンニ・スパドリーニ
ベッティーノ・クラクシ
  イタリア共和きょうわこく首相しゅしょう
だい9だい:1954
だい13だい:1958 - 1959
だい16・17だい:1960 - 1963
だい41だい:1982 - 1983
だい44だい:1987
次代じだい
マリオ・シェルバ
アントニオ・セーニ
ジョヴァンニ・レオーネ
ベッティーノ・クラクシ
ジョヴァンニ・ゴリーア
先代せんだい
ジュゼッペ・サーラガト
ジョヴァンニ・レオーネ
  イタリア共和きょうわこく大統領だいとうりょう
代行だいこう)1971
代行だいこう)1978
次代じだい
ジョヴァンニ・レオーネ
アレッサンドロ・ペルティーニ
先代せんだい
オスカル・ルイージ・スカルファロ
アントニオ・セーニ
アルド・モーロ代行だいこう
アルド・モーロ代行だいこう
  イタリア共和きょうわこく外務がいむ大臣だいじん
だい9だい:1958 – 1959
だい12だい:1962
だい16だい:1965
だい18だい:1966 – 1968
次代じだい
ジュゼッペ・ペッラ
アッティリオ・ピッチョーニ (en
アルド・モーロ代行だいこう
ジュゼッペ・メディチ (en
先代せんだい
マリオ・シェルバ
オスカル・ルイージ・スカルファロ
  イタリア共和きょうわこく内務ないむ大臣だいじん
だい5だい:1953 - 1954
だい24だい:1987 - 1988
次代じだい
ジュリオ・アンドレオッティ
アントニオ・ギャバ (en
先代せんだい
ジュゼッペ・ロミータ (it)
  イタリア共和きょうわこく労働ろうどう社会しゃかい保障ほしょう大臣だいじん
1947 - 1950
次代じだい
アキレ・マラッツァ (it)
先代せんだい
アントニオ・セーニ
  イタリア共和きょうわこく農林のうりん大臣だいじん
1946
次代じだい
ロッコ・ソロモン (it)
議会ぎかい
先代せんだい
エンニオ・ツェリオリ・ランツィーニ (it)
ジョバンニ・スパグノッリ (it)
フランチェスコ・コッシガ
  イタリア共和きょうわこく元老げんろういん議長ぎちょう
1968 - 1973
1976 - 1982
1985 - 1987
次代じだい
ジョバンニ・スパグノッリ (it)
トンマーゾ・モルリーノ (it)
ジョヴァンニ・マラジョーディ (en
とうしょく
先代せんだい
アルチーデ・デ・ガスペリ
アルナルド・フォルラーニ
キリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎ書記しょきちょう
1954 – 1959
1973 – 1975
次代じだい
アルド・モーロ
ベニグノ・ザッカニーニ (en
外交がいこうしょく
先代せんだい
アレックス・サッキー (en
  国際こくさい連合れんごう総会そうかい議長ぎちょう
だい20だい:1965 - 1966
次代じだい
アブドゥル・ラハマン・パズワク (en