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カルロッタ・アグラエ・ドルレアンス - Wikipedia

カルロッタ・アグラエ・ドルレアンス(Carlotta Aglae d'Orléans, 1700ねん10がつ20日はつか - 1761ねん1がつ19にち)は、モデナこうフランチェスコ3せい・デステフランス語ふらんすごシャルロット・アレー・ドルレアン(Charlotte Aglaé d'Orléans)。マドモワゼル・ド・ヴァロワ(Mademoiselle de Valois, ヴァロワ令嬢れいじょう)とばれた。

シャルロット・アレー・ドルレアン
Charlotte Aglaé d'Orléans
モデナ=レッジョこう
カルロッタ・アグラエ(ピエール・ゴベールヴェルサイユ宮殿きゅうでん所蔵しょぞう
在位ざいい 1737ねん - 1761ねん

出生しゅっしょう (1700-10-20) 1700ねん10がつ20日はつか
フランス王国おうこくパリ
死去しきょ (1761-01-19) 1761ねん1がつ19にち(60さいぼつ
フランス王国おうこくリュクサンブール宮殿きゅうでん
埋葬まいそう フランス王国おうこくパリ、ヴァル=ド=グラース
結婚けっこん 1720ねん6月21にち モデナ
配偶はいぐうしゃ モデナこうフランチェスコ3せい・デステ
子女しじょ アルフォンソ
フランチェスコ
マリーア・テレーザ・フェリーチタ
エルコレ・リナルド
マティルデ
ベアトリーチェ
マリーア・フォルチュナータ
ベネデット・フィリッポ
マリーア・エリザベッタ
家名かめい オルレアン
父親ちちおや オルレアンこうフィリップ2せい
母親ははおや フランソワーズ・マリー・ド・ブルボン
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カルロッタ・アグラエ

生涯しょうがい

編集へんしゅう

オルレアンこうフィリップ2せいフランソワーズ・マリー・ド・ブルボンルイ14せいモンテスパン夫人ふじん)のよんじょとして、パリまれた。いもうとスペインおうルイス1せいルイーズ・エリザベートがいる。特別とくべつ美女びじょというわけでなかったが、ちちもっと可愛かわいがられた。

1718ねんころ、リシュリューこうルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシリシュリュー枢機卿すうききょうだいおい)と恋仲こいなかになるが、当時とうじ摂政せっしょうとなっていたちちいかりを投獄とうごくされた。シャルロットはかれいく面会めんかいき、ちちにはかれ結婚けっこんあきらめさせたうえ放免ほうめんしてくれとたのんだ。このいちけんで、サルデーニャおうとの縁組えんぐみこわれてしまった。摂政せっしょうイングランドとの同盟どうめいだけでなく、モデナとの同盟どうめいのため、むすめ巨額きょがく持参じさんきんをつけてモデナこうリナルド3せい・デステの跡継あとつぎフランチェスコと結婚けっこんさせた。2人ふたりには9まれた。

その、モデナにいるカルロッタのもとへ、商人しょうにん変装へんそうしたリシュリューこうが、カルロッタとフランチェスコをわかれさせようとあらゆるくしてやってきた。このことがルイ15せいれ、帰国きこくしたおおやけ宮廷きゅうてい冷遇れいぐうされ、パリからとおはなれて生活せいかつするよういられた。

1761ねん、カルロッタはリュクサンブール宮殿きゅうでんんだ。