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シンシナティ・レッズ - Wikipedia

シンシナティ・レッズ

アメリカのプロ野球やきゅうチーム

シンシナティ・レッズ英語えいご: Cincinnati Reds略称りゃくしょう: CIN、レぐん)は、メジャーリーグベースボール以下いか、MLB)ナショナルリーグちゅう地区ちく所属しょぞくのプロ野球やきゅうチーム。本拠地ほんきょちオハイオしゅうシンシナティにあるグレート・アメリカン・ボール・パーク

シンシナティ・レッズ
Cincinnati Reds
1881ねん創設そうせつ
所属しょぞくリーグ
チームめい
  • シンシナティ・レッズ (1959ねん - )
    • シンシナティ・レッドストッキングス (1882ねん - 1889ねん)
    • シンシナティ・レッズ (1890ねん - 1953ねん)
    • シンシナティ・レッドレッグス (1954ねん - 1958ねん)
    • シンシナティ・レッズ (1959ねん - )
本拠地ほんきょち
1881-現在の位置(アメリカ合衆国内)
1881-現在
1881-現在げんざい
永久えいきゅう欠番けつばん
獲得かくとくタイトル獲得かくとくねん
ワールドシリーズ優勝ゆうしょう(5かい)
リーグ優勝ゆうしょう(9かい)
地区ちく優勝ゆうしょう(10かい)
  • 1970
  • 1972
  • 1973
  • 1975
  • 1976
  • 1979
  • 1990
  • 1995
  • 2010
  • 2012
ワイルドカード(2かい)
球団きゅうだん組織そしき
オーナー ボブ・カステリーニ
GM ニック・クラール
監督かんとく デビッド・ベル

概要がいよう

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19世紀せいきから存在そんざいする古参こさん球団きゅうだん創設そうせつしばらくは優勝ゆうしょうえんがなく、1919ねんのワールドシリーズ八百長やおちょう発覚はっかくするシカゴ・ホワイトソックスやぶって、はつ世界一せかいいちかがやいた。そのふたたちょう低迷ていめいはいったものの、1940ねんに2度目どめのワールドシリーズ制覇せいはたす。

チームの黄金おうごんは1970年代ねんだい名将めいしょうスパーキー・アンダーソンしたジョニー・ベンチジョー・モーガンピート・ローズらが活躍かつやく、「ビッグレッドマシン(The Big Red Machine)」のニックネームで全米ぜんべい旋風せんぷうこした。1970年代ねんだいには1975ねん、1976ねんとワールドシリーズ2連覇れんぱ、リーグ優勝ゆうしょう4かい地区ちく優勝ゆうしょう6かいほこった。

1978ねんには日米にちべい野球やきゅう訪日ほうにちした。

1984ねんにはローズが選手せんしゅ兼任けんにん監督かんとく就任しゅうにんするが、1989ねん自身じしん野球やきゅう賭博とばく発覚はっかくし、永久えいきゅう追放ついほう処分しょぶんける。その1990ねんにはルー・ピネラ監督かんとくしたノーム・チャールトンロブ・ディブルランディ・マイヤーズら「ナスティ・ボーイズ(Nasty Boys[ちゅう 1])」の活躍かつやくで5度目どめのワールドチャンピオンにかがやいた。

2000ねんにはケン・グリフィー・ジュニアがレッズに移籍いせき父親ちちおやであるケン・グリフィー・シニアもレッズの一員いちいんとして黄金おうごん時代じだいささえた選手せんしゅであり、わかくしてスーパースターとしての地位ちい確立かくりつしていたジュニアの来訪らいほう地元じもと歓迎かんげい一色いっしょくつつまれた。しかしこのころからチームも低迷ていめい物入ものいりで加入かにゅうしたはずのジュニア自身じしん移籍いせき故障こしょうがちになり期待きたいどおりの活躍かつやくせることができず、2001ねんから2009ねんまで9ねん連続れんぞくしのシーズンがつづいていた。

球団きゅうだん歴史れきし

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球団きゅうだん発足ほっそくはつ世界一せかいいち

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リーグ・パーク

シンシナティでは1869ねんに、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく史上しじょう最初さいしょのプロ野球やきゅうチームとして「シンシナティ・レッドストッキングス」が誕生たんじょう、レッドストッキングスはアメリカ各地かくち巡業じゅんぎょうし、各地かくちのチームと対戦たいせんおおくの観客かんきゃくあつめた。このレッドストッキングスの選手せんしゅ大半たいはんは1870ねんにボストンにうつり、「ボストン・レッドストッキングス」(げん:アトランタ・ブレーブス)として活動かつどうすることになる。

1876ねんナショナルリーグ創設そうせつには、現在げんざいおなじ「シンシナティ・レッズ」を名乗なの球団きゅうだんあらたに創設そうせつされた。しかしこのチームは1880ねんに「球場きゅうじょうさけ販売はんばいしない」「日曜日にちようび試合しあいまず球場きゅうじょう閉鎖へいさする」といった当時とうじのナショナルリーグ規則きそくしたがわず、当時とうじのリーグ会長かいちょうウィリアム・ハルバートによってリーグを脱退だったいさせられ消滅しょうめつする。

その、1882ねんあらたに現在げんざいにつながる「シンシナティ・レッドストッキングス」が創設そうせつされ、どう時期じき創立そうりつされたアメリカン・アソシエーション加盟かめい同年どうねんにリーグ優勝ゆうしょうげる。1884ねんユニオン・アソシエーション創立そうりつされると、おなじシンシナティにシンシナティ・アウトロー・レッズ創設そうせつされ(リーグ解散かいさんともに1ねんかぎりで消滅しょうめつ)、当時とうじレッドストッキングスが本拠地ほんきょちとしていたバンク・ストリート・グラウンズはアウトロー・レッズが使用しようすることとなり、レッドストッキングスは急遽きゅうきょリーグ・パーク本拠地ほんきょちうつした(リーグ・パークは1901ねん火災かさい焼失しょうしつつぎ本拠地ほんきょちであるパレス・オブ・ザ・ファンズも1911ねん火災かさい焼失しょうしつしている)。

レッドストッキングスは1890ねんにアメリカン・アソシエーションからナショナルリーグに鞍替くらがえし、チームめい現在げんざいの「シンシナティ・レッズ」となった。当時とうじのレッズには通算つうさん284しょうげたトニー・マレーンや、野手やしゅではそれぞれ2のリーグ最多さいた本塁打ほんるいだ記録きろくしたジョン・ライリーバグ・ホリデー引退いんたい直前ちょくぜんまで素手すででプレーしたという守備しゅび名手めいしゅビッド・マクフィーらが在籍ざいせきしていたが、チームはなかなか優勝ゆうしょうあらそいにかおせなかった。1901ねんの2リーグせい以後いご苦戦くせんし、20世紀せいきはつのリーグ優勝ゆうしょう首位しゅい打者だしゃとなったエド・ローシュやキューバ出身しゅっしんドルフ・ルケらが活躍かつやくした1919ねんとなった。そのあいだ、1912ねんのちクロスリー・フィールド改名かいめいし、60ねんちかくにわたって使用しようされることとなるレッドランド・フィールドに本拠地ほんきょちうつしている。ワールドシリーズではシカゴ・ホワイトソックス対戦たいせん戦前せんぜん不利ふり予想よそうであったが、5しょう3はい当時とうじは9回戦かいせんせい)でレッズがはつのワールドチャンピオンにかがやいた。しかし、翌年よくねんになってホワイトソックスの選手せんしゅ八百長やおちょう加担かたんしていたことが発覚はっかくし、ジョー・ジャクソンら8選手せんしゅ永久えいきゅう追放ついほうになる事件じけん発展はってんした(ブラックソックス事件じけん)。そのため、このシリーズはレッズがったワールドシリーズというよりも、ブラックソックス事件じけんこったワールドシリーズとして記憶きおくのこることとなる。

復活ふっかつの1930年代ねんだい

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クロスリー・フィールド

そのブラックソックス事件じけんきずることとなったレッズはふたた優勝ゆうしょうからとおざかることとなる。1920年代ねんだいはいってしばらくは安定あんていしたたたかいぶりをみせるが、1930年代ねんだいはいるとチームの低迷ていめいもいっそう深刻しんこくなものとなった。1931ねんから1934ねんまで4ねん連続れんぞく最下位さいかいしずみ、1934ねんにはチームワーストとなるシーズン99はい記録きろくしてしまう。そんななか、1935ねん5がつ14にちには、本拠地ほんきょちクロスリー・フィールドでMLBはつのナイトゲームをおこなっている。当時とうじこの出来事できごと話題わだいび、だい恐慌きょうこうあおりをけて、観客かんきゃくげんなやまされていたMLBの人気にんきもどすきっかけとなった。

チーム復活ふっかつのきっかけとなったのは、1937ねんに、のナ・リーグ会長かいちょうとなるウォーレン・ジャイルズがゼネラルマネージャーとしてレッズの経営けいえい参加さんかしたことであろう。ジャイルズのチームづくりは翌年よくねんから成果せいかはじめ、1938ねんビル・マケシュニー監督かんとく招聘しょうへいすると、このとしにはジョニー・ヴァンダー・ミーアがMLB史上しじょう唯一ゆいいつとなる2試合しあい連続れんぞくノーヒットノーラン達成たっせい捕手ほしゅアーニー・ロンバルディ打率だりつ.342で首位しゅい打者だしゃかがやき、チームも10ねんぶりに勝率しょうりつ5わり復帰ふっきした。1939ねんにはバッキー・ウォルターズポール・デリンジャーりょうエースがそれぞれ27しょう、25しょうをあげると、フランク・マコーミックも128打点だてん打点だてんおうかがや活躍かつやくをみせ、1919ねん以来いらいとなる2度目どめのリーグ優勝ゆうしょうたす。よく1940ねんには球団きゅうだん史上しじょうはじめてシーズン100しょう達成たっせいしてのリーグ2連覇れんぱ。2ブルックリン・ドジャース(げん:ロサンゼルス・ドジャース)とは12ゲームという圧倒的あっとうてき成績せいせきだった。ワールドシリーズではデトロイト・タイガース対戦たいせん最終さいしゅうせんまでもつれんだすえにタイガースをくだし、2度目どめのワールドチャンピオンにかがやいた。このあいだ1938ねんにはロンバルディ、1939ねんにはウォルターズ、1940ねんにはマコーミックと3ねん連続れんぞくでレッズの選手せんしゅMVP獲得かくとくし、リーグ屈指くっし戦力せんりょくほこった。

1940年代ねんだい - 1960年代ねんだい

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だい世界せかい大戦たいせん激化げきかするなか、1944ねん6がつ11にちセントルイス・カージナルスせんで、ジョー・ナックスホールが15さい10ヶ月かげつ11にちというMLB史上しじょう最年少さいねんしょうでマウンドにがった。1アウトはとったもののそのに5てんをとられて降板こうばん、その試合しあいかぎりでマイナーちとなった。のちにナックスホールは1952ねんふたたびメジャーに昇格しょうかくし、現役げんえき16年間ねんかん通算つうさん135しょう117はい記録きろく引退いんたいはレッズの専属せんぞく解説かいせつしゃつとめた。1940年代ねんだい後半こうはんにはいると、上記じょうき選手せんしゅ次々つぎつぎ退団たいだんし、チームも次第しだい下降かこうせん辿たどる。1945ねんには61しょう93はい勝率しょうりつ3わりだいみ、以降いこう1955ねんまで勝率しょうりつ5わり以下いかのシーズンがつづいた。

1950年代ねんだいにはマッカーシズム影響えいきょうもあり、1953ねんにはチームめいレッドレッグス改名かいめいした。レッズが共産きょうさん主義しゅぎしゃ言葉ことばでもあるため、赤狩あかが対象たいしょうとなるのをレッズのオーナーたちおそれたものだった。のちにマッカーシズムが終焉しゅうえんむかえると、1958ねんにはもとのレッズという名称めいしょうもどっている。このころチームをささえたのはテッド・クルズースキーで1954ねんには49本塁打ほんるいだ・141打点だてんかんおうかがやいている。また当時とうじ、クルズースキーは自分じぶんでユニフォームのそで部分ぶぶんり、ノースリーブのユニフォームを着用ちゃくようして話題わだいとなった(190cm、110kgという体躯たいくほこったクルズースキーにとってユニフォームのそで窮屈きゅうくつでしかなく、自身じしんのスイングのさまたげとなっていた)。

 
1969ねんのクロスリー・フィールド。老朽ろうきゅうしてよく1970ねんにその歴史れきしじた。

1956ねんフランク・ロビンソンがメジャーデビューし、いきなり38本塁打ほんるいだはな活躍かつやくせ、新人しんじんおう受賞じゅしょう。チームも当時とうじのナショナルリーグ最多さいたタイ記録たいきろくとなる221本塁打ほんるいだはなった。そのロビンソンはチームの主砲しゅほうとして活躍かつやく、1965ねんかぎりでチームをはなれるまでに通算つうさん324本塁打ほんるいだ記録きろくした。1961ねん前年ぜんねんのシーズン途中とちゅう就任しゅうにんしたフレッド・ハッチンソン監督かんとくした久々ひさびさのリーグ優勝ゆうしょうたす。しかし、ワールドシリーズではロジャー・マリスミッキー・マントルのMMほうようするニューヨーク・ヤンキース対戦たいせんし、1しょう4はいやぶれた。1964ねんにはハッチソンが45さいというわかさでくなる悲劇ひげきもあったが(のちかれのファイティング・スピリットをとなえてハッチしょう制定せいていされる)、このころには黄金おうごん時代じだいささえる選手せんしゅたちが次々つぎつぎあらわれ、チームも上位じょうい進出しんしゅつする機会きかいおおくなった。1963ねんピート・ローズがメジャーデビュー、1967ねんにはジョニー・ベンチがメジャーデビューし、それぞれ新人しんじんおう受賞じゅしょうした。しかし、1960年代ねんだいのワールドシリーズ進出しんしゅつは1961ねんの1きりで、レッズが本当ほんとう黄金おうごん時代じだいむかえるにはもうすこたなければならなかった。1969ねんからは東西とうざい地区ちくせい導入どうにゅうによりナショナルリーグ西にし地区ちく所属しょぞくとなる。

ビッグレッドマシン

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1970年代ねんだい前半ぜんはん

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リバーフロント・スタジアム

レッズがもっとかがやいたのは1970年代ねんだい中盤ちゅうばんの「ビッグレッドマシン(The Big Red Machine)」である。1970ねんスパーキー・アンダーソン監督かんとく就任しゅうにん。シーズン途中とちゅうの6がつ30にちリバーフロント・スタジアム開場かいじょうし、このとしには102しょう60はいという圧倒的あっとうてき成績せいせき地区ちく優勝ゆうしょうたした。リーグチャンピオンシップシリーズではピッツバーグ・パイレーツに3連勝れんしょうし、5度目どめのリーグ優勝ゆうしょう。しかし、ワールドシリーズではレッズから移籍いせきしたフランク・ロビンソンとブルックス・ロビンソンの「ロビンソン・コンビ」ようするボルチモア・オリオールズまえに1しょう4はいやぶった。

よく1971ねんは79しょう83はいし、チームも4しずんでしまうが、シーズン途中とちゅうジョージ・フォスター、オフにはジョー・モーガン獲得かくとくする。この2人ふたりくわえたことでレッズの陣容じんようさらあつみをし、1972ねんには2度目どめ地区ちく優勝ゆうしょう。リーグチャンピオンシップシリーズでは前年ぜんねんつづきパイレーツとの対戦たいせんとなり、たがいに2しょうをあげシリーズは最終さいしゅうせんまでまれた。この試合しあいでレッズは9かいうらまで2たい3とリードされていたが、9かい先頭せんとう打者だしゃのベンチの起死回生きしかいせいとなる本塁打ほんるいだ同点どうてん。なおもチャンスとなり相手あいて投手とうしゅ暴投ぼうとうによってサヨナラ勝利しょうりおさめた。ワールドシリーズでは強打者きょうだしゃレジー・ジャクソンようし「マスターシュ・ギャング」とばれたオークランド・アスレチックス対戦たいせんだい6せんのぞいてすべて1てんゲームというだい激戦げきせんのシリーズとなり、こちらも最終さいしゅうせんまでもつれんだが、最終さいしゅうてきに3しょう4はいやぶれてしまった(アスレチックスはこののちワールドシリーズ3連覇れんぱたす)。

1973ねんにはオールスターまえまで、首位しゅいロサンゼルス・ドジャース10.5ゲームをつけられていたが、こののち驚異きょういてきげをせて地区ちく2連覇れんぱ達成たっせい。しかし、リーグチャンピオンシップシリーズではニューヨーク・メッツに2しょう3はいやぶれている。1974ねん開幕かいまくせんアトランタ・ブレーブス対戦たいせんりしも全米ぜんべいハンク・アーロン本塁打ほんるいだ記録きろく注目ちゅうもくされており、この試合しあいでルースとならぶ714ほん本塁打ほんるいだはなっている。このとしもレッズはわらぬつよさをせ98しょうをあげるが、ドジャースがそれを上回うわまわる102しょうをあげたため、地区ちく優勝ゆうしょうはならなかった。

1970年代ねんだい後半こうはん

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1975ねん捕手ほしゅベンチ、一塁いちるいトニー・ペレス二塁にるいモーガン、ゆうげきデーブ・コンセプシオン三塁さんるいローズ、右翼うよくケン・グリフィー・シニア中堅ちゅうけんシーザー・ジェロニモ左翼さよくフォスターがそろみし、まさに最強さいきょうといえるオーダーが完成かんせいする。このとしのレッズはチームをけない圧倒的あっとうてきたたかいぶりをみせ、108しょう54はい(2ドジャースとは20ゲーム)という成績せいせき地区ちく優勝ゆうしょうたす。リーグチャンピオンシップシリーズではパイレーツに3連勝れんしょうし、ワールドシリーズではボストン・レッドソックス対戦たいせん。このシリーズはとも強打きょうだほこるチーム同士どうし対戦たいせんとして、球史きゅうしのこめい勝負しょうぶとなった。

だい1せんではレッドソックスのルイ・ティアントがレッズ打線だせん完全かんぜんおさみ、0たい6でレッドソックスが勝利しょうりつづだい2せんでは9かいまでレッドソックスが1たい2とリードしていたが、9かいひょうのコンセプシオンの同点どうてん、ケン・グリフィーの逆転ぎゃくてんによってレッズが勝利しょうりした。だい3せんりょうチームわせて6ほん本塁打ほんるいだ乱打らんだせんとなったが、延長えんちょうすえにモーガンのサヨナラによってレッズが2連勝れんしょうだい4せんではレッドソックスが勝利しょうりしたが、だい5せんでレッズが勝利しょうりし、3しょう2はいでレッズがワールドチャンピオンに王手おうてをかけた。むかえただい6せんはシリーズ屈指くっしめい勝負しょうぶとなる。試合しあいは1かいうらフレッド・リンが3ランをはなちレッドソックスが先制せんせい。その5かいにレッズも同点どうてんいつき、7かいと8かい追加ついかてんうばってレッズが6たい3とリードした。しかし8かいうら、レッドソックスの代打だいだバーニー・カーボ同点どうてんの3ランをはな試合しあいはふりだしに。9かい、11かいとそれぞれがチャンスをふいにしてしまい、試合しあい深夜しんやおそくにおよんだ。そして延長えんちょう12かいうらカールトン・フィスクのサヨナラ本塁打ほんるいだによってレッドソックスが勝利しょうりにちをまたぐ激戦げきせんすえ決着けっちゃくだい7せんまれた。最終さいしゅうせんは6かいまで0たい3とレッドソックスがリード。しかし7かいにレッズが同点どうてんいつき、9かいひょうのモーガンのによってレッズがワールドシリーズ優勝ゆうしょうめた。

1976ねんも102しょう60はい(2ドジャースと10ゲーム)と圧倒的あっとうてきつよさをみせつけて地区ちく2連覇れんぱリーグチャンピオンシップシリーズではフィリーズ、ワールドシリーズではヤンキースをまったけることなく7連勝れんしょうでワールドシリーズ2連覇れんぱたした。どういちねんポストシーズン無敗むはい唯一ゆいいつ記録きろくで、どういちねんポストシーズン7連勝れんしょうも2004ねんにレッドソックスが8連勝れんしょう達成たっせいするまでメジャー記録きろくであった。このころのレッズはしばしばMLB史上しじょう最強さいきょうチームとしてげられるほどで、まさに黄金おうごん時代じだいむかえていたといえる。

1977ねんにはペレスをトレードでモントリオール・エクスポズ放出ほうしゅつ、トレード期限きげんの6がつ15にちトム・シーバーがメッツから移籍いせき。フォスターが本塁打ほんるいだ打点だてんかんでMVPにかがやき、シーバーも期待きたいどおりの活躍かつやくをみせたが、チームは前年ぜんねんとはぎゃくにドジャースに10ゲームをつけられ地区ちく2わる。

フォスターはよく1978ねんかん獲得かくとく、ローズもジョー・ディマジオぐ44試合しあい連続れんぞく安打あんだ記録きろくするものの、またもドジャースにおよばず2。このとしのオフにはアンダーソン監督かんとく日米にちべい野球やきゅうから帰国きこく直後ちょくご電撃でんげき解任かいにんされ、ローズもフィラデルフィア・フィリーズFA移籍いせきした。

1979ねんにはあらたにジョン・マクナマラ監督かんとくむかえ、3ねんぶりの地区ちく優勝ゆうしょうたすが、リーグチャンピオンシップシリーズでパイレーツに3連敗れんぱいきっした。1980年代ねんだいはいると黄金おうごん時代じだいささえた主力しゅりょく選手せんしゅおとろえ、または移籍いせきしてチームは次第しだい低迷ていめいはいる。

1980年代ねんだい - 1990年代ねんだい

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エリック・デービス

1981ねんにはシーズンをつうじて66しょう42はい西にし地区ちくではもっと成績せいせきかったものの、ストライキによってぜん後期こうきせい導入どうにゅうされたためプレーオフ進出しんしゅつはならなかった(前後ぜんごとも地区ちく2)。

1982ねんには球団きゅうだん史上しじょうはじめてシーズン100はいきっしてしまい、地区ちく最下位さいかいしずんだ。

よく1983ねん最下位さいかいとなり、1984ねん途中とちゅうにはローズが選手せんしゅ兼任けんにん監督かんとくとしてチームに復帰ふっきする(これ以降いこう、メジャーでは選手せんしゅ兼任けんにん監督かんとくあらわれていない)。1985ねん9がつ11にちにはタイ・カッブき、MLB史上しじょう最多さいた安打あんだとなる4292ほんのヒットをはなち、おおきな話題わだいつくった。しかし、1985ねんから1988ねんまで4ねん連続れんぞく地区ちく2わり、地区ちく優勝ゆうしょうにはとどかなかった。

1985ねんには前年ぜんねんにメジャーデビューしたトム・ブラウニングが20しょうをあげる活躍かつやくをみせ、以後いごレッズのエースとして活躍かつやくし、1988ねん9がつ16にちには完全かんぜん試合しあい達成たっせいした。

1986ねんにはバリー・ラーキンがメジャーデビューし、コンセプシオンからせい遊撃手ゆうげきしゅぐなど、世代せだい交代こうたいすすんだ。ほかにも1988ねん新人しんじんおう獲得かくとくしたクリス・セイボーをはじめ、エリック・デービスポール・オニールといった若手わかて選手せんしゅ台頭たいとうした。

1987ねんより監督かんとく専任せんにんとなったローズは1988ねん途中とちゅう一旦いったん監督かんとく解任かいにんされるが、1989ねんふたた監督かんとく就任しゅうにんする。しかし、このとしには野球やきゅう賭博とばくチームの結果けっかけたことで8がつ31にち永久えいきゅう追放ついほう処分しょぶんけ、チームも地区ちく5しずんでしまう。しかしそのとしオフに就任しゅうにんしたルー・ピネラ監督かんとくした、1990ねんにはノーム・チャールトンロブ・ディブルランディ・マイヤーズさんにん速球そっきゅう救援きゅうえん投手とうしゅからなる「ナスティ・ボーイズ(Nasty Boys)」の活躍かつやくもあって、11ねんぶりの地区ちく優勝ゆうしょうたし、リーグチャンピオンシップシリーズではパイレーツをやぶって9度目どめのリーグ優勝ゆうしょうたした。ワールドシリーズでは当時とうじ最強さいきょう軍団ぐんだんうたわれたオークランド・アスレチックス対戦たいせん。ナスティ・ボーイズと先発せんぱつホセ・リーホ(シリーズ2しょう防御ぼうぎょりつ0.59)がアスレチックス打線だせん完全かんぜんおさみ、4連勝れんしょうで14ねんぶりのワールドチャンピオンにかがやいた。

1993ねんにはトニー・ペレス監督かんとくまねくが、チームは低迷ていめいし、44試合しあいえた時点じてん解任かいにんされた。わりにデービー・ジョンソン監督かんとく就任しゅうにん

ナショナルリーグちゅう地区ちく移動いどうした1994ねんには地区ちく優勝ゆうしょうたすが、1994ねんから1995ねんのMLBストライキによってシーズンが途中とちゅうられたため、プレーオフ進出しんしゅつはならなかった。

よく1995ねんもラーキンがMVPを受賞じゅしょうする活躍かつやくをみせ、地区ちく優勝ゆうしょうたすも、リーグチャンピオンシップシリーズでブレーブスに4連敗れんぱいきっし、優勝ゆうしょうにはとどかなかった。

1999ねんには96しょうをあげ、ワイルドカード出場しゅつじょうをかけてメッツとあらそったが、1ゲームプレーオフやぶれてしまった。

2000年代ねんだい長期ちょうき低迷ていめい

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2003ねんにオープンしたグレート・アメリカン・ボール・パーク
 
ケン・グリフィー・ジュニア

2000ねんにはシアトル・マリナーズからケン・グリフィー・ジュニア移籍いせき親子おやこ2だいわたるスター選手せんしゅ在籍ざいせきとなりおおきな話題わだいとなったが、そのとし地区ちく2わった。2001ねん以降いこうは2007ねんまで7ねん連続れんぞくしと低迷ていめい

2003ねんには打者だしゃ有利ゆうり球場きゅうじょうであるグレート・アメリカン・ボール・パーク本拠地ほんきょちうつした。その恩恵おんけいもあってか2004ねんからは3ねん連続れんぞくでチーム本塁打ほんるいだが200ほんえ、同年どうねんにはグリフィーが500本塁打ほんるいだ達成たっせい。チームの主砲しゅほうであるアダム・ダンは4ねん連続れんぞくで40本塁打ほんるいだ記録きろくした。一方いっぽう元々もともと強力きょうりょくではなかった投手とうしゅじんさら弱体じゃくたいし、チーム防御ぼうぎょりつ毎年まいとしのように4てんだい後半こうはんから5てんだいとリーグワーストを記録きろく。2005ねんにはエリック・ミルトン球団きゅうだんワースト記録きろく更新こうしんする40本塁打ほんるいだ記録きろくしてしまった。2006ねんには開幕かいまくから好調こうちょう維持いじしたものの終盤しゅうばん失速しっそくし、プレーオフ進出しんしゅつはならず。2007ねんぎゃく開幕かいまくからつまづき、シーズン途中とちゅうジェリー・ナロン監督かんとく解任かいにん、チームも72しょう90はい地区ちく5しずんだ。同年どうねん10がつしん監督かんとくとしてダスティ・ベイカーを3ねん1050まんドル(やく11おく250まんえん)の厚遇こうぐう招聘しょうへいしたものの、よく2008ねん4がつ23にち、9しょう12はい時点じてんまえGMウェイン・クリブスキー早々そうそう解任かいにんあまりにはやぎる解任かいにん通達つうたつであったが、ロバート・カステリーニ・オーナーは「かれは2006ねん就任しゅうにんしてから2ねんつづけてしており、今年ことしもスタートで蹴躓けつまずいた、わたしはながほうではない」とべ、その後任こうにんとしてながらくセントルイス・カージナルスのGMをつとげ、当年とうねんからレッズの特別とくべつ相談役そうだんやくとなっていたウォルト・ジョケッティ就任しゅうにんするはこびとなった。

11年間ねんかんにわたる長期ちょうき政権せいけんきずいたジム・ボウデンGMが2003ねんかぎりでチームをって以降いこう、2008ねんまでの5ねんらずのあいだにGMは3にん監督かんとくは4にん交代こうたいげきつづいており、これでは長期ちょうきてきプランに沿った再建さいけんなど出来できるはずもなく、光明こうみょうなき迷走めいそう状態じょうたいおちいっていた[1]

2010年代ねんだい

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2010ねんは3ねん契約けいやくの3ねんむかえたベイカー監督かんとく指揮しきした、ナショナルリーグちゅう地区ちくで15ねんぶりに地区ちく優勝ゆうしょうし、ディビジョンシリーズ進出しんしゅつ(3連敗れんぱいフィリーズ敗退はいたい)。オフに、ベイカーとの契約けいやくを2ねん延長えんちょうした。

2011ねんは、して3わった。

2012ねんは、97しょう65はい地区ちく優勝ゆうしょうサンフランシスコ・ジャイアンツとのディビジョンシリーズでは、ナ・リーグ史上しじょうはつとなるてき2連勝れんしょうから本拠地ほんきょち3連敗れんぱいという屈辱くつじょくてき敗退はいたいきっした(本来ほんらい開催かいさいフォーマットは2-2-1であるが、このとし日程にってい発表はっぴょうワイルドカードゲーム新設しんせつ決定けっていしたため、1ねん限定げんていでフォーマットが2-3に変更へんこうされた)。

2013ねんは、地区ちく3ながらワイルドカードゲーム進出しんしゅつめるも、パイレーツにやぶれてディビジョンシリーズ進出しんしゅつはならなかった。オフに、チームはベイカーを解任かいにんした。

2014ねん以降いこうしがつづき、2015ねんから4ねん連続れんぞくでナショナルリーグちゅう地区ちく最下位さいかいしずんでいる。

2018ねんMLBドラフト1じゅん(全体ぜんたい5)でジョナサン・インディア指名しめいし、獲得かくとくした。

2019ねんは75しょう87はいでナ・リーグちゅう地区ちく4でシーズンをえた。MLB30球団きゅうだん唯一ゆいいつ日本人にっぽんじん選手せんしゅ在籍ざいせきかったレッズだが、12月30にち埼玉さいたま西武せいぶライオンズからFAの秋山あきやましょうわれ獲得かくとく[2]。これによりぜん球団きゅうだん日本人にっぽんじん選手せんしゅ在籍ざいせきしたことになった。秋山あきやまほかにもFA市場いちばからウェイド・マイリーマイク・ムスタカスニック・カステヤノスらを獲得かくとくするなど大型おおがた補強ほきょう成功せいこうした。

2020年代ねんだい

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2021ねん4がつ1にちにインディアがメジャーデビューをたした。 オフの11月3にちタッカー・バーンハートをトレードでタイガースに放出ほうしゅつした[3]。11月5にちにウェーバーにかけていたマイリーをカブスへ放出ほうしゅつした[4]。11月15にちにインディアが球団きゅうだん史上しじょう8にんとなる新人しんじんおう受賞じゅしょうした[5]

2021ねんオフは年俸ねんぽう削減さくげんため主力しゅりょく選手せんしゅ放出ほうしゅつかじり、2022ねん3月13にち先発せんぱつ投手とうしゅソニー・グレイミネソタ・ツインズに、翌日よくじつにオールスター外野がいやしゅジェシー・ウィンカー三塁手さんるいしゅエウヘニオ・スアレスシアトル・マリナーズへトレードした。

トラディッショナル・オープナー

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かつてはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく最古さいこのプロ球団きゅうだんであるレッズに敬意けいいあらわして、レッズはぜん球団きゅうだん先駆さきがけて、かなら本拠地ほんきょち開幕かいまくせんおこなった。基本きほんてきには前年ぜんねんのナショナルリーグ優勝ゆうしょうチーム(レッズが優勝ゆうしょうした翌年よくねん任意にんい選択せんたく)と対戦たいせんし、おな開幕かいまくする場合ばあいでも試合しあいすべてレッズの試合しあいよりもおそ開始かいしするのがならわしとなっていた。これを「トラディッショナル・オープナー(Traditional Opener)」とんだ。

しかし、1986ねんデトロイト・タイガースが「日程にっていじょう理由りゆう」でこの慣行かんこうはじめてやぶり、レッズの試合しあいよりもはやボストン・レッドソックスとの開幕かいまくせんおこなった。シンシナティの市議会しぎかいは「デトロイトからの航空機こうくうきれを禁止きんしする」という決議けつぎ(ただし効力こうりょくはなかった)までおこない、抗議こうぎあらわした。なお、このデトロイトでの試合しあいではタイガースの開幕かいまく投手とうしゅジャック・モリスとうじた初球しょきゅうを、レッドソックスの一番いちばん打者だしゃドワイト・エバンス本塁打ほんるいだはなち、MLB史上しじょうはつの「開幕かいまくせん初球しょきゅう本塁打ほんるいだ」が記録きろくされることとなった。

選手せんしゅ名鑑めいかん

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現役げんえき選手せんしゅ監督かんとく・コーチ

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シンシナティ・レッズ ロースター
40にんロースター 監督かんとく・コーチ/

投手とうしゅ

捕手ほしゅ

内野ないやしゅ

外野がいやしゅ


監督かんとく

コーチ

60にち故障こしょうしゃリスト


* アクティブ・ロースターがい
2024ねん10月1にち更新こうしん

公式こうしきサイト(英語えいご)より:アクティブ・ロースター, 40にんロースター, コーチ, 選手せんしゅ移籍いせき故障こしょう情報じょうほう, 予想よそうオーダー

ロースター一覧いちらん

アメリカ野球やきゅう殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ

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永久えいきゅう欠番けつばん

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番号ばんごう 選手せんしゅ ポジション 備考びこう
1 フレッド・ハッチンソン (Fred Hutchinson) 監督かんとく 1964ねん指定してい
5 ジョニー・ベンチ (Johnny Bench) 捕手ほしゅ 1984ねん指定してい
8 ジョー・モーガン (Joe Morgan) 二塁手にるいしゅ 1998ねん指定してい
10 スパーキー・アンダーソン (Sparky Anderson) 監督かんとく 2005ねん指定してい
11 バリー・ラーキン (Barry Larkin) 遊撃手ゆうげきしゅ 2012ねん指定してい
13 デーブ・コンセプシオン (Dave Concepcion) 遊撃手ゆうげきしゅ 2007ねん指定してい
14 ピート・ローズ (Pete Rose) 外野がいやしゅ内野ないやしゅ監督かんとく 2016ねん指定してい
18 テッド・クルズースキー(Ted Kluszewski) 一塁いちるいしゅ、コーチ 1998ねん指定してい
20 フランク・ロビンソン (Frank Robinson) 外野がいやしゅ 1998ねん指定してい
24 トニー・ペレス (Tony Perez) 一塁いちるいしゅ監督かんとく 2000ねん指定してい
42 ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson) 二塁手にるいしゅ ぜん球団きゅうだん共通きょうつう永久えいきゅう欠番けつばん

歴代れきだい所属しょぞく日本人にっぽんじん選手せんしゅ

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レッズ野球やきゅう殿堂でんどう

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1958ねん設立せつりつされ、87にん殿堂でんどうりをたしている。

殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ

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傘下さんかマイナーチーム

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クラス チーム 参加さんかリーグ 提携ていけい 本拠地ほんきょち
AAA ルイビル・バッツ
Louisville Bats
インターナショナルリーグ
International League
2000ねん  ケンタッキーしゅうルイビル
ルイビル・スラッガー・フィールド
AA チャタヌーガ・ルックアウツ
Chattanooga Lookouts
サザンリーグ
Southern League
2019ねん  テネシーしゅうチャタヌーガ
AT&Tフィールド
High-A デイトン・ドラゴンズ
Dayton Dragons
ミッドウェストリーグ
Midwest League
1999ねん  オハイオしゅうデイトン
フィフス・サード・フィールド
Low-A デイトナ・トーテュガス
Daytona Tortugas
フロリダ・ステートリーグ
Florida State League
2015ねん  フロリダしゅうボルーシャぐんデイトナビーチ
ジャッキー・ロビンソン・ボールパーク
Rookie アリゾナ・コンプレックスリーグ・レッズ
Arizona Complex League Reds
アリゾナ・コンプレックスリーグ
Arizona Complex League
2010ねん  アリゾナしゅうグッドイヤー
グッドイヤー・ボールパーク
ドミニカン・サマーリーグ・レッズ
Dominican Summer League Reds
ドミニカン・サマーリーグ
Dominican Summer League
1998ねん  ドミニカ共和国どみにかきょうわこくサントドミンゴボカチカ
ベースボールシティ・コンプレックス

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ いたずら小僧こぞうたちの意味いみ

出典しゅってん

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  1. ^ 出野いでの哲也てつや 「レッズのすすむべきみちさぐ迷走めいそうさきにあるものは」『月刊げっかんスラッガー No.124 , 2008ねん8がつごう日本スポにっぽんすぽツ企画出版社つきかくしゅっぱんしゃ、39 - 41ぺーじぺーじ 
  2. ^ 秋山あきやましょうがレッズと3ねん合意ごうい日本人にっぽんじん未開みかい勝負しょうぶ - MLB : 日刊にっかんスポーツ”. nikkansports.com. 2020ねん1がつ2にち閲覧えつらん
  3. ^ Jason Beck (November 4, 2021). “Barnhart 'couldn't be happier' to join Tigers” (英語えいご). MLB.com. November 5, 2021閲覧えつらん
  4. ^ Mark Sheldon (November 5, 2021). “Reds no-hit wonder Miley claimed by Cubs” (英語えいご). MLB.com. November 6, 2021閲覧えつらん
  5. ^ Mark Sheldon (November 16, 2021). “India wins NL ROY: 'I made it come true'” (英語えいご). MLB.com. November 17, 2021閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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