バイエルン公 こう とザクセン公 こう を兼 か ねたハインリヒ10世 せい と妃 ひ ゲルトルート の子 こ としてラーフェンスブルク(en:Ravensburg )に生 う まれた。父 ちち はバイエルン公 こう ハインリヒ9世 せい とザクセン公家 くげ のビルング家 か の女性 じょせい 相続 そうぞく 人 じん ヴルフヒルトの息子 むすこ だった。また、母方 ははかた の祖父 そふ はローマ皇帝 こうてい ロタール3世 せい であり、祖母 そぼ でロタール3世 せい の妻 つま リヒェンツァ・フォン・ノルトハイム はノルトハイム家 か (en:Northeim )のザクセン領地 りょうち とブルノン家 いえ の所有 しょゆう するブラウンシュヴァイク の女性 じょせい 相続 そうぞく 人 じん だった。
1138年 ねん 、父 ちち ハインリヒ10世 せい は帝位 ていい の競争 きょうそう 相手 あいて コンラート3世 せい に敗 やぶ れて追放 ついほう 、1138年 ねん と1139年 ねん にザクセン公 おおやけ 位 い はアルブレヒト1世 せい に、バイエルン公 おおやけ 位 い はオーストリア辺境 へんきょう 伯 はく レオポルト4世 せい に与 あた えられた。父 ちち は1139年 ねん にそのまま没 ぼっ したが、ハインリヒは遺産 いさん 相続 そうぞく の要求 ようきゅう を取 と り下 さ げず、1142年 ねん にコンラート3世 せい にザクセンの所領 しょりょう を返還 へんかん された。皇帝 こうてい コンラートとその甥 おい で後 のち の皇帝 こうてい フリードリヒを筆頭 ひっとう に、聖俗 せいぞく の諸侯 しょこう ・貴族 きぞく がこぞって参加 さんか した第 だい 2回 かい 十字軍 じゅうじぐん への関与 かんよ では、獅子 しし 公 こう は父 ちち から不当 ふとう に剝奪されたとするバイエルン公 こう の地位 ちい の返還 へんかん を訴 うった えたものの、コンラート3世 せい が応 おう じなかったために、公 おおやけ とザクセンの貴族 きぞく は十字軍 じゅうじぐん 参加 さんか を拒否 きょひ した。代 か わりに1147年 ねん のヴェンド十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか し、1156年 ねん にはコンラート3世 せい の後継 こうけい 者 しゃ でハインリヒの従兄 じゅうけい に当 あ たるフリードリヒ1世 せい に対 たい してバイエルンもハインリヒ2世 せい (レオポルト4世 せい の兄 あに )から返還 へんかん するよう要求 ようきゅう 、バイエルン公 こう も兼 か ねた。また、1149年 ねん 以降 いこう エルベ川東 かわひがし の司教 しきょう 区 く の再建 さいけん とその司教 しきょう の叙任 じょにん 権 けん を要求 ようきゅう し、フリードリヒ1世 せい によって認 みと められた[1] 。
ハインリヒは都市 とし 開発 かいはつ も進 すす め、1157年 ねん (または1158年 ねん )にミュンヘン を、1159年 ねん にリューベック を興 おこ した。またシュターデ 、リューネブルク 、ブラウンシュヴァイクの町 まち も興 おこ し、これを都市 とし に発展 はってん させた。ブラウンシュヴァイクは彼 かれ の拠点 きょてん であり、1166年 ねん 、ここに自身 じしん の紋章 もんしょう に描 えが かれた動物 どうぶつ のライオンの像 ぞう を作成 さくせい 、その像 ぞう はダンクヴァルデローデ城 じょう (de:Dankwarderode )の庭 にわ に建立 こんりゅう された。これはアルプス山脈 あるぷすさんみゃく の北 きた において最初 さいしょ に建立 こんりゅう された青銅 せいどう 像 ぞう だった。後 のち にこの像 ぞう の側 がわ にブラウンシュヴァイク大 だい 聖堂 せいどう (en:Brunswick Cathedral )が建築 けんちく された。
ハインリヒ獅子 しし 公 こう とマティルダの戴冠 たいかん 式 しき (1188年 ねん )
1147年 ねん 、ハインリヒはクレメンティア・フォン・ツェーリンゲン と結婚 けっこん し、それによって彼女 かのじょ が相続 そうぞく したシュヴァーベン の領地 りょうち を手 て に入 い れた。1162年 ねん にフリードリヒ1世 せい からの圧力 あつりょく で妻 つま と離婚 りこん するが、それと引 ひ き換 か えに皇帝 こうてい はザクセンの皇帝 こうてい 領内 りょうない にある教皇 きょうこう 派 は の要塞 ようさい を重要 じゅうよう 視 し せずにハインリヒに与 あた えた。1168年 ねん にハインリヒはイングランド 王 おう ヘンリー2世 せい とアリエノール・ダキテーヌ の娘 むすめ マティルダ と再婚 さいこん した。
ハインリヒは長 なが い間 あいだ フリードリヒ1世 せい に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか い、支 ささ え続 つづ けていた。帝位 ていい の確立 かくりつ を賭 か けたロンバルディア同盟 どうめい の都市 とし と教皇 きょうこう との度重 たびかさ なる戦 たたか いの中 なか で何 なん 度 ど か戦 たたか いの流 なが れを変 か えたため、フリードリヒ1世 せい はハインリヒの擁 よう する気性 きしょう の荒 あら いザクセンの騎士 きし が気 き に入 い っていた。しかし1174年 ねん 、ハインリヒは自 じ 領 りょう の東 ひがし の境界 きょうかい 線 せん を守 まも るのに手一杯 ていっぱい だったため、フリードリヒ1世 せい が再開 さいかい したロンバルディア侵攻 しんこう の援助 えんじょ 要請 ようせい を拒否 きょひ した。ハインリヒにはイタリア遠征 えんせい に労力 ろうりょく を割 さ く価値 かち があるとは思 おも えず、長年 ながねん 与 あた えられるのを望 のぞ んでいた皇帝 こうてい の都市 とし ゴスラー を報酬 ほうしゅう にするとフリードリヒ1世 せい が持 も ちかけても考 かんが えは変 か わらなかった。
ハインリヒのザクセン及 およ びバイエルン公 おおやけ 領 りょう
フリードリヒ1世 せい のロンバルディア遠征 えんせい は大 だい 失敗 しっぱい に終 お わり、自分 じぶん を支援 しえん 出来 でき なかったハインリヒに対 たい してひどく憤慨 ふんがい した。フリードリヒ1世 せい はザクセンとバイエルンの他 ほか 、ドイツ北部 ほくぶ と東部 とうぶ にも広大 こうだい な領地 りょうち を確保 かくほ し、強大 きょうだい な権力 けんりょく を持 も つハインリヒに対 たい する他 た のドイツ君主 くんしゅ の敵意 てきい を利用 りよう した。フリードリヒ1世 せい は聖職 せいしょく と世俗 せぞく の選 せん 帝 みかど 侯 こう 達 たち が開 ひら いた法廷 ほうてい の決議 けつぎ により、不 ふ 服従 ふくじゅう の罪 つみ で1180年 ねん 、ハインリヒを追放 ついほう 刑 けい に処 しょ した。また帝国 ていこく 法 ほう はドイツの慣習 かんしゅう 法 ほう を覆 くつがえ し得 え ると断言 だんげん し、ハインリヒの持 も つ所領 しょりょう を没収 ぼっしゅう して帝国 ていこく アハト刑 けい に処 しょ した。フリードリヒ1世 せい はハインリヒを屈服 くっぷく させるため、皇帝 こうてい 軍 ぐん を率 ひき いてザクセンを侵攻 しんこう した。ハインリヒは1181年 ねん 11月に降伏 ごうぶく 、エアフルト で開 ひら かれた帝国 ていこく 議会 ぎかい で1182年 ねん から3年間 ねんかん ドイツから追放 ついほう され、ノルマンディー に居 い る義父 ぎふ のヘンリー2世 せい の下 した に滞在 たいざい した。1185年 ねん に許可 きょか が下 お りる前 まえ に帰国 きこく したため、1188年 ねん に再 ふたた び追放 ついほう された。妻 つま マティルダは1189年 ねん に没 ぼっ した。
1189年 ねん 、フリードリヒ1世 せい が第 だい 3回 かい 十字軍 じゅうじぐん に出征 しゅっせい した時 とき 、ハインリヒはザクセンに戻 もど って忠実 ちゅうじつ な自軍 じぐん を動員 どういん し、裏切 うらぎ りに対 たい する報復 ほうふく として富裕 ふゆう な都市 とし バルドヴィック(en:Bardowick )を征服 せいふく し教会 きょうかい を除 のぞ く全 すべ てを破壊 はかい した。フリードリヒ1世 せい の息子 むすこ のハインリヒ6世 せい はハインリヒ獅子 しし 公 こう に敗 やぶ れた。1194年 ねん 、死期 しき が近 ちか づいたためハインリヒは皇帝 こうてい と和解 わかい し、周囲 しゅうい の領地 りょうち をかなり減 へ らされたブラウンシュヴァイクへ戻 もど り、芸術 げいじゅつ と建築 けんちく を振興 しんこう しブラウンシュヴァイク公 こう として1195年 ねん 8月 がつ 6日 にち に没 ぼっ した。遺骸 いがい はブラウンシュヴァイク大 だい 聖堂 せいどう の妻 つま マティルダの隣 となり に葬 ほうむ られた。
ハインリヒ獅子 しし 公 こう
バイエルンはヴィッテルスバッハ家 か へ、ザクセンはアスカーニエン家 か (後 のち にヴェッティン家 か )に受 う け継 つ がれ、帝国 ていこく 内 ない の有力 ゆうりょく 領 りょう 邦 くに に成長 せいちょう していった。ハインリヒの長男 ちょうなん ハインリヒ5世 せい はライン宮中 きゅうちゅう 伯 はく 、次男 じなん のオットー4世 せい はローマ皇帝 こうてい に即位 そくい したが、いずれも短期間 たんきかん で終 お わった。ブラウンシュヴァイクとリューネブルクは孫 まご で末子 まっし ヴィルヘルム の息子 むすこ オットー1世 せい が相続 そうぞく 、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 こう として復帰 ふっき した。
ドイツの世俗 せぞく 領主 りょうしゅ の中 なか で最初 さいしょ に宮廷 きゅうてい を権勢 けんせい 誇示 こじ の中心 ちゅうしん としとしたのはハインリヒであり、その宮廷 きゅうてい はブラウンシュヴァイク の宮廷 きゅうてい である[2] 。
ドイツの世俗 せぞく 領主 りょうしゅ の中 なか で最初 さいしょ に「文書 ぶんしょ 」(Schriftstück)の重要 じゅうよう 性 せい を認識 にんしき し、積極 せっきょく 的 てき に活用 かつよう したのが、ハインリヒである。公 おおやけ は1144年 ねん あるいはそれ以前 いぜん に ブラウンシュヴァイク の宮廷 きゅうてい に官房 かんぼう (Kanzlei)を置 お いた [3] 。
文化 ぶんか に関心 かんしん の深 ふか いハインリヒとマティルデ妃 ひ は、豪華 ごうか な装飾 そうしょく 写本 しゃほん 「ハインリヒ獅子 しし 公 こう の福音 ふくいん 書 しょ 」(Evangeliar Heinrichs des Löwen)を作成 さくせい させ、フランスの武勲 ぶくん 詩 し の傑作 けっさく 「ローランの歌 うた 」をドイツ語 ご に翻訳 ほんやく させている。前者 ぜんしゃ では、公夫 きみお 妻 つま それぞれが王族 おうぞく の子孫 しそん であり、戴冠 たいかん が神 かみ 自身 じしん の手 て によることを強調 きょうちょう する画像 がぞう が特 とく に印象 いんしょう 的 てき である。後者 こうしゃ では、そのエピローグにおいて、公 おおやけ はダビデ 、カール大帝 たいてい の系譜 けいふ を引 ひ き継 つ ぐ人物 じんぶつ として称揚 しょうよう されている[4] 。なお、ハインリヒ獅子 しし 公 こう の孫娘 まごむすめ 、アグネス(Agnes von Bayern)は、ラインボット・フォン・デュルネ に „Der heilige Georg“を著 しる わすことを命 めい じている [5] 。
ハインリヒの子 こ のうち主 おも な人物 じんぶつ を挙 あ げる。
^ Lexikon des Mittelalters . Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2 ), Sp. 2076-2077.
^ Claudia Brinker-von der Heyde: Die literarische Welt des Mittelalters . Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2007. S.60.
^ Claudia Brinker-von der Heyde: Die literarische Welt des Mittelalters . Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2007. S. 38.
^ Claudia Brinker-von der Heyde: Die literarische Welt des Mittelalters . Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2007. S. 76-80.
^ Claudia Brinker-von der Heyde: Die literarische Welt des Mittelalters . Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2007. S.69.
^ C.ヨルダン、p.253