(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ヘンリー2世 (イングランド王) - Wikipedia

ヘンリー2せい英語えいご: Henry II, 1133ねん3月5にち - 1189ねん7がつ6にち[1])は、プランタジネットあさ(あるいはアンジューあさ初代しょだいイングランド王国おうこく国王こくおう在位ざいい1154ねん - 1189ねん)である。ノルマンディーおおやけ在位ざいい1150ねん - 1189ねん)、アンジューはく在位ざいい1151ねん - 1189ねん)でもあった。アリエノール・ダキテーヌの2番目ばんめおっととしてられている。たんマントおう(Henry Curtmantle ふつCourt-manteau)ともばれた。

ヘンリー2せい
Henry II
イングランド国王こくおう
ヘンリー2せい
在位ざいい 1154ねん12月19にち - 1189ねん7がつ6にち
べつごう ノルマンディーこうアンジューはく、メーヌはく

出生しゅっしょう 1133ねん3月5にち
フランス王国おうこく メーヌはくこくル・マン
死去しきょ (1189-07-06) 1189ねん7がつ6にち(56さいぼつ
フランス王国おうこく アンジューはくこくシノンしろ
埋葬まいそう フランス王国おうこくフォントヴロー修道院しゅうどういん
配偶はいぐうしゃ アリエノール・ダキテーヌ
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
家名かめい プランタジネット
王朝おうちょう プランタジネットあさ(アンジューあさ
父親ちちおや アンジューはくジョフロワ5せい
母親ははおや マティルダ
テンプレートを表示ひょうじ

ちちフランス王国おうこく有力ゆうりょく貴族きぞくのアンジューはくジョフロワ5せいはははイングランドおうヘンリー1せい王女おうじょマティルダである。

父方ちちかた母方ははかたからの相続そうぞく自身じしん婚姻こんいんにより広大こうだい所領しょりょう獲得かくとくし、ピレネー山脈さんみゃくからみなみフランスおよびイングランドにまたがる、いわゆる「アンジュー帝国ていこく」をきずいたが、晩年ばんねん息子むすこたちの反乱はんらんくるしんだ[2]

生涯しょうがい

編集へんしゅう

ち - 若年じゃくねん

編集へんしゅう

1133ねん3がつ5にちメーヌル・マンアンジューはくジョフロワ5せいつまマティルダあいだ長男ちょうなんとして誕生たんじょうした[3]。10世紀せいきアンジューはくりょうフランス語ふらんすごばん成立せいりつして以降いこう歴代れきだいのアンジューはく婚姻こんいん同盟どうめい駆使くししてその影響えいきょうりょくフランス全土ぜんど拡大かくだいしようと腐心ふしんしてきた[4][5]形式けいしきじょうフランス国王こくおう臣従しんじゅうしていたが、11世紀せいきには王権おうけん支配しはいよわまり、なか独立どくりつ状態じょうたいとなっていた[6]

ははマティルダはイングランドおうノルマンディーこうヘンリー1せい(アンリ1せい)の長女ちょうじょであり、先夫せんぷ神聖しんせいローマ皇帝こうていハインリヒ5せいであった[7]。1135ねん、ヘンリー1せいはマティルダをつぎのイングランドおうさだめて崩御ほうぎょしたが、この決定けっていにマティルダの従兄じゅうけいスティーブン(ヘンリー1せいあねアデラ)がこととなえてイングランドおう・ノルマンディーこう即位そくいすると、両者りょうしゃあいだのちに「政府せいふ時代じだい」とばれるなが内戦ないせんはじまった[8][9][10]。このときちちジョフロワ5せいはノルマンディー攻撃こうげきには参戦さんせんしたが、イングランドでの紛争ふんそうには直接ちょくせつ関与かんよけ、マティルダと彼女かのじょ異母いぼけいグロスターはくロバートまかせていた[11]

ヘンリー(アンリ)は幼少ようしょう(7さいころまで)をははマティルダとともにアンジューでごし、1130年代ねんだい後半こうはんははともにノルマンディーへうつったとされており[12]、このころ著名ちょめい文献ぶんけん学者がくしゃサントのピエールについてまなんでいた[12][13]。1142ねんまつ、ジョフロワ5せいはイングランド南西なんせいのマティルダ拠点きょてんブリストルへ9さいのアンリをグロスターはくとも渡海とかいさせることにした[14]。アンリのイングランド渡海とかいは、当時とうじ貴族きぞくいえでは男子だんし親戚しんせきいえ養育よういくさせる慣習かんしゅうがあったことにくわえ、ジョフロワ5せいにとってはイングランドでのたたかいに参加さんかしないことへのマティルダイングランド貴族きぞくたちの不満ふまんやわらげる政治せいじてき意味合いみあいもっていた[14]。グロスターはく学問がくもん教育きょういく熱心ねっしんなことでられており、アンリはイングランドでやく1年間ねんかんごし、そのあいだグロスターはく息子むすこロジャー・オブ・ウスター英語えいごばんともまなんだ[14][15]。ブリストルのせいオーガスティン教会きょうかい英語えいごばんりつ修司しゅうじさいたちの指導しどうけており、アンリは後年こうねんかれらをなつかしむ発言はつげんをしている[16]。1143ねんか1144ねんにアンジューへもどったアンリはスコラ学者がくしゃコンシュのギヨームフランス語ふらんすごばんドイツばんについて学習がくしゅうつづけた[17]

1147ねん初頭しょとう、14さいのアンリは親族しんぞく少数しょうすう傭兵ようへいからなる部隊ぶたいひきいてノルマンディーからふたたびイングランドにわたり、ウィルトシャー攻撃こうげきした[18]。この遠征えんせい失敗しっぱいわり、傭兵ようへいたちへ給金きゅうきん支払しはらえないアンリはノルマンディーへもどることができなくなった[18]。これは、この遠征えんせいがマティルダやグロスターはく許可きょか独断どくだんおこなわれたことをしめしている[19]。ところがアンリはてきであるスティーブンにたすけをもとめ、かれ援助えんじょ未払みはらいの賃金ちんぎんはらって帰国きこくした[注釈ちゅうしゃく 1]1149ねん以降いこうもアンリはなんかイングランドにわたってスティーブンがわたたかった[21]。いずれの戦闘せんとう短期間たんきかんで、戦況せんきょうにはさほど影響えいきょうあたえなかったが、母方ははかた大叔父おおおじたるスコットランドおうデイヴィッド1せいから騎士きしじょされたことはスティーブン動揺どうようさそい、マティルダ希望きぼうあたえた[22][23]

即位そくい遺産いさん継承けいしょう結婚けっこん

編集へんしゅう
 
アリエノール・ダキテーヌえがいたステンドグラス

1150ねんすでちち征服せいふくしていたノルマンディーおおやけいだが、同年どうねん8がつにフランスおうルイ7せい若年じゃくねんおう)はスティーブンに味方みかたしてノルマンディーへ進軍しんぐん、このときはルイ7せい側近そっきんシュジェール仲介ちゅうかい戦闘せんとうこらなかったが、よく1151ねん1がつにシュジェールが死去しきょするとノルマンディーの政情せいじょう不安定ふあんていもどった。くわえて、ちちポワティエ代官だいかんジロー・ベルレと紛争ふんそうこしらえたことでルイ7せいとの対立たいりつ悪化あっか、スティーブンの息子むすこブローニュはくウスタシュ4せい(ユースタス)もルイ7せいからの援助えんじょ獲得かくとく画策かくさくして一層いっそう複雑ふくざつ情勢じょうせいとなっていった。この状況じょうきょう打破だはするため、クレルヴォーのベルナルドゥス仲介ちゅうかいもう[24][25][26]

1151ねん8がつちちともにルイ7せいパリシテとう)のシテ宮殿きゅうでん姿すがたあらわし、ベルレのけん破門はもんされたちちがベルナルドゥスから提案ていあんされたベルレの釈放しゃくほうえにした破門はもん解除かいじょ和睦わぼくったため交渉こうしょう決裂けつれつしたが、ちちがベルレを釈放しゃくほうしたためいちけん落着らくちゃくとなりルイ7せい臣従しんじゅう、ノルマンディーおおやけ確定かくていさせた。さらに同年どうねん9がつちちによりアンジューはくりょういだ。よく1152ねん5月18にちにはルイ7せい王妃おうひであった11さい年上としうえアリエノール・ダキテーヌ(エリナー・オブ・アクイテイン)とポワティエで結婚けっこんし、彼女かのじょ相続そうぞくアキテーヌこうりょう共同きょうどう統治とうちしゃとなった[注釈ちゅうしゃく 2][30][31][32][33][34]

アリエノールの先夫せんぷであるルイ7せいはフランスの西にし半分はんぶんがアンリのはいったことに危機ききかんいだき、自分じぶん許可きょかなく結婚けっこんしたアンリが宮廷きゅうてい出頭しゅっとう命令めいれい無視むししたことを口実こうじつに7がつにノルマンディーへ侵入しんにゅう、アンリのおとうとジョフロワ領地りょうち相続そうぞく不満ふまんから加勢かせいしたが(ちち遺言ゆいごん無視むししたあににアンジューの相続そうぞくけんうばわれた)、アリエノールのおっととなったアンリは7がつなかばから8がつまつまでにこれをふせぎ、シノンルーダン英語えいごばんミルボー英語えいごばん奪取だっしゅしておとうと降伏ごうぶくさせた。ルイ7せい当初とうしょいきおいをうしな休戦きゅうせん背後はいご安全あんぜん確保かくほしたアンリは1153ねん1がつにアリエノールをのこしてイングランドへわたった[35][36][37][38][39]

1がつ6にち到着とうちゃくしたイングランドでは劣勢れっせいかたむいたスティーブンから和平わへい打診だしんされ、スティーブンのおとうとウィンチェスター司教しきょう英語えいごばんヘンリー英語えいごばんカンタベリー大司教だいしきょうシオボルド・オブ・ベック英語えいごばん交渉こうしょうたった。和平わへい反対はんたいしていたウスタシュ4せい8がつ17にち急死きゅうしすると、11月6にちにアンリはスティーブンと和平わへい協定きょうていウォーリングフォード協定きょうてい、ウィンチェスター協定きょうていとも)をむすんで、スティーブンの次男じなんでウスタシュ4せいおとうとのブローニュはくギヨーム1せい所領しょりょう保有ほゆうなど補償ほしょうあたえたうえでスティーブン死後しごのイングランド王位おうい継承けいしょうしゃとなる。よく1154ねんはる一旦いったんノルマンディーへ帰還きかんし、つま渡海とかいちゅうまれた長男ちょうなんギヨーム復活ふっかつさいいわい、ルーアンはは対面たいめんしたりしてごした。10月25にちにスティーブンがくなると協定きょうていどおりヘンリー2せいとして即位そくい妻子さいしれてさい渡海とかいして12月8にちにイングランドに上陸じょうりくした。そして12月19にちウェストミンスター寺院じいんでアリエノールとともにイングランドおう王妃おうひとして戴冠たいかんした(アリエノールは妊娠にんしんちゅう不在ふざい1158ねんウスターだい聖堂せいどう英語えいごばん戴冠たいかんしたとも)。ギヨームは1156ねん夭折ようせつするも夫妻ふさいは8にんもうけた[34][38][40][41][42][43][44]。なお、このときからイングランド君主くんしゅ称号しょうごうは"Rex Angliae"(イングランド国王こくおう)となっている。

これにより、イングランド王国おうこくにアンジューによるプランタジネットあさ創始そうしされ、ヘンリー2せい領有りょうゆうする地域ちいきは、ピレネー山脈さんみゃくからアキテーヌ、ポワトゥーにかけてのフランス南西なんせい、アンジュー、ノルマンディーなどフランス北西ほくせい、さらにイングランドのしん領土りょうどくわえた広大こうだいなものとなった。なお、ヘンリー2せい創始そうしした王朝おうちょうは、本来ほんらいでは「アンジューあさ」としょうされるべきであり、事実じじつ15世紀せいきまでは「アンジュー」とばれていたが、現在げんざいでは一般いっぱんに「プランタジネットあさ」がもちいられる。これは、ヘンリー2せいちちジョフロワ4せいエニシダ(プランタ・ゲニスタ)のしょうえだ帽子ぼうしして戦地せんちおもむいたことに由来ゆらいする[注釈ちゅうしゃく 3][46][47][48][49]

ちなみに、おとうとジョフロワには1152ねん降伏ごうぶくでルーダンだけあたえ、えにアンジュー領有りょうゆうみとめさせた。そのジョフロワはブルターニュ公国こうこく反乱はんらんこした貴族きぞくたちの要請ようせいナントはくになったが、1158ねん7がつ27にち急死きゅうしするとヘンリー2せい先祖せんぞからのブルターニュ宗主そうしゅけん主張しゅちょうしてナントを領有りょうゆう、ルイ7せいにもみとめさせた。これはのちにブルターニュをれる布石ふせきとなった[50][51][52][53]

アンジュー帝国ていこく

編集へんしゅう
 
1154ねんのフランスにおけるプランタジネットあさ版図はんとちゃ褐色かっしょく部分ぶぶん

ヘンリー2せいは、なが内戦ないせん疲弊ひへいしていたイングランドを安定あんていさせると、さらなる勢力せいりょく拡大かくだいはかった。北方ほっぽうでは、スコットランドおうマルカム4せい屈服くっぷくさせ、ノーサンバーランドカンバーランド領有りょうゆうした。1174ねんには、息子むすこたちとの内乱ないらん後述こうじゅつ)にじょうじてノーサンバーランドへんできたウィリアム1せい(マルカム4せいおとうと)もやぶり、ファレーズ条約じょうやくでスコットランドのイングランドへの臣従しんじゅうなどイングランド優位ゆうい項目こうもくめた[54][55]

西方せいほうでは、スティーブン時代じだいうしなわれたウェールズ支配しはい復活ふっかつさせた。1157ねんから1165ねんまで8ねんわたるウェールズ遠征えんせいすが、ゲリラと豪雨ごううなやまされあまり成果せいかかった。とりわけウェールズの有力ゆうりょくしゃオワイン・グウィネズなどウェールズ諸侯しょこうとは対立たいりつしたが、遠征えんせいがひとまず終了しゅうりょうした1165ねん以後いご穏健おんけん態度たいどせっしていった[54][56][57]

アイルランドかんしては、アイルランドでケルズ教会きょうかい会議かいぎ英語えいごばんひらかれた3ねん1155ねん、イングランド出身しゅっしん教皇きょうこうハドリアヌス4せいが "Laudabiliter(ラウダビリテル)" とだいする教皇きょうこう勅書ちょくしょはっし、ヘンリー2せいたいしてアイルランド攻撃こうげき許可きょかし、アイルランド全島ぜんとうケルト教会きょうかいからカトリック教会きょうかいへの教化きょうかめいじたとつたわるが、この勅書ちょくしょ信憑しんぴょうせいについては疑問ぎもんたれている[注釈ちゅうしゃく 4]。これとはべつに、ウェールズ南部なんぶのアングロ・ノルマンじん貴族きぞくたちは先住民せんじゅうみん抵抗ていこうとヘンリー2せい中央ちゅうおう集権しゅうけんはさちにされ、打開だかいさくとしてアイルランドへの植民しょくみんすすめ、アイルランド南東なんとうのレンスターおうダーモット・マクマロー英語えいごばん援軍えんぐん要請ようせいおうじてアイルランド侵攻しんこう1169ねんからはじめた(そのなかにはマクマローのむすめとの結婚けっこんでレンスター王位おういいだペンブルックはくリチャード・ド・クレア英語えいごばんもいた)[59][60]

当初とうしょアイルランドを現地げんちまかせにしていたヘンリー2せい1171ねん支配しはい確立かくりつのためみずからアイルランドへ遠征えんせいゲールじんのアイルランド諸王しょおう恭順きょうじゅんとペンブルックはくらアングロ・ノルマンじん貴族きぞくたちの臣従しんじゅうけ、教皇きょうこう手紙てがみ根拠こんきょ宗主そうしゅけんみとめさせ「アイルランドきょう」の称号しょうごう入手にゅうしゅした。同年どうねんヒュー・ド・レイシー英語えいごばんふくおうアイルランド総督そうとく)に任命にんめい統治とうちさせ、1175ねんにはアイルランドうえおう称号しょうごうでもばれたヘンリー2せいウィンザー条約じょうやく英語えいごばんあらためて宗主そうしゅけんみとめさせ、政治せいじ行政ぎょうせい司法しほうでイングランド推進すいしんするようになる[54][57][61][62]

フランスではルイ7せいとのこうそうつづけながら、よんなんジェフリー婚姻こんいんによりブルターニュ公国こうこく支配しはいいた。1166ねんブルターニュこうコナン4せいかれむすめコンスタンスとジェフリーとの婚約こんやく強制きょうせいさせ、ジョフロワ2せいことジェフリーのしたにブルターニュをれたのである。さらにトゥールーズはくレーモン5せいたいしてアキテーヌこう宗主そうしゅけん主張しゅちょうして、1159ねん遠征えんせいはルイ7せい介入かいにゅう失敗しっぱいしたが、1173ねんにレーモン5せい臣従しんじゅうさせた[注釈ちゅうしゃく 5]。これらはのちに「アンジュー帝国ていこく」と通称つうしょうされるようになる[56][65][66][67]

ただし、この「帝国ていこく」はヘンリー2せい個人こじんとしてかく爵位しゃくいとそれにともなうそれぞれの封土ほうど所有しょゆうしているだけであり、統合とうごうせい名実めいじつともにそなわっておらず、一円いちえんてき領域りょういき支配しはいからはとおかった。そのため、ヘンリー2せい死後しごは「帝国ていこく」はふたた分離ぶんりはじめることとなった。

さらにヘンリー2せいは、1158ねんだい法官ほうかんトマス・ベケット外交がいこう手腕しゅわん次男じなんわかヘンリーをルイ7せいむすめマルグリット婚約こんやくさせて、1160ねん2人ふたり結婚式けっこんしきげて持参じさんきんヴェクサン強引ごういんうばった。この結婚けっこん当時とうじ世嗣せいしがいなかったフランス王位おういねらったが、1165ねんにルイ7せいと3番目ばんめアデルとのあいだ息子むすこフィリップ2せい誕生たんじょうしたためたせなかった[注釈ちゅうしゃく 6]。また、ヘンリー2せいにはむすめが3にんいたが、長女ちょうじょマティルダ(モード)はザクセンおおやけけんバイエルンおおやけハインリヒ獅子ししこう)に、次女じじょエレノアカスティーリャおうアルフォンソ8せいに、さんじょジョーンシチリアおうグリエルモ2せいとつがせ(おっと死別しべつトゥールーズはくレーモン6せい再婚さいこん)、これらとむすんでフランスに対抗たいこうして神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ1せいあかひげおう、バルバロッサ)や教皇きょうこう協調きょうちょう関係かんけいたもった[71][72][73][74]

こうして、征服せいふくおうウィリアム1せいによってはじめられた中世ちゅうせいイングランドの基礎きそづけは、またしてもフランス出身しゅっしんのヘンリー2せいによって大成たいせいされることとなった[2]

内政ないせい

編集へんしゅう

即位そくい当初とうしょのヘンリー2せいは、政府せいふ時代じだいからイングランドに秩序ちつじょ平和へいわもどすことに尽力じんりょく巨大きょだい領土りょうどを1つにまと王権おうけん強化きょうか目指めざし、各地かくち巡回じゅんかいして地方ちほう裁判さいばん徴税ちょうぜい調査ちょうさかけ、王国おうこく職務しょくむ専念せんねんした。アリエノールはヘンリー2せいとも領国りょうごく巡回じゅんかいしたり、裁判さいばん所領しょりょう紛争ふんそう調停ちょうていしたり、ヘンリー2せい不在ふざい領土りょうどまも役目やくめたし、おっと共同きょうどう統治とうちしゃとしてささえた。ただし、ヘンリー2せい1155ねんからトマス・ベケットをだい法官ほうかん抜擢ばってきして右腕うわんてると、アリエノールを国政こくせいからとおざけている。またベケットにめいじてウェストミンスター宮殿きゅうでん再建さいけんさせた[75][76][77]

ヘンリー2せい即位そくいすると諸侯しょこうめいじ、内戦ないせん時代じだいきずかれた城砦じょうさい違法いほう城砦じょうさい英語えいごばん)を破棄はきさせ、不当ふとううばった領土りょうど返還へんかんさせてヘンリー1せい時代じだいしょ権利けんり回復かいふくさせた。さらに、戦争せんそう疲弊ひへいしていたイングランドの行政ぎょうせい司法しほう兵制へいせい再建さいけんし、巡回じゅんかい裁判所さいばんしょ拡充かくじゅうはか巡回じゅんかい裁判官さいばんかん各地かくち派遣はけんして地方ちほう行政ぎょうせい監視かんしさせ、起訴きそ陪審ばいしんせいだい陪審ばいしん)と土地とち回復かいふく訴訟そしょう英語えいごばんさだめ、土地とちなどの占有せんゆうけんおかせだつ回復かいふく訴訟そしょう令状れいじょうによって国王こくおう裁判所さいばんしょ集中しゅうちゅうさせた。現在げんざいつづくイギリスのしょ制度せいどおおくは、この時代じだいととのえられたものだといわれている。ヘンリー2せい統治とうちのもとで、イギリス独特どくとく議会ぎかい制度せいど淵源えんげんとなる、いわば強制きょうせいてき自治じち形容けいようすべき、封建ほうけんてきしょ勢力せいりょくからの干渉かんしょうはいした王権おうけん直属ちょくぞくした地方ちほう自治じち制度せいど大枠おおわくかたちづくられ、イングランド全土ぜんど適用てきようされるコモン・ローととのえられたのである[注釈ちゅうしゃく 7][2][54][79][80]。なお、イングランド王室おうしつ紋章もんしょうにライオンの紋章もんしょう採用さいようしたのはヘンリー2せいであるといわれている[注釈ちゅうしゃく 8]

また、祖父そふヘンリー1せい着手ちゃくしゅしていた国家こっか統治とうち機構きこう制度せいどもちいてイングランドを安定あんていみちびき、不在ふざいのイングランドを行政ぎょうせい長官ちょうかん(または最高さいこう法官ほうかん英語えいごばん)が政務せいむ統括とうかつイクスチェッカー財務省ざいむしょう原型げんけい)が中枢ちゅうすう機関きかんとして機能きのうする体制たいせいととのえた。イングランドはフランスより中央ちゅうおう集権しゅうけんされていて、とし2かい復活ふっかつさい9月29にちのミカエルさい各地かくち地方ちほう長官ちょうかんあつめた収支しゅうし報告ほうこくがそれを象徴しょうちょうしており、彼等かれらロンドンウィンチェスター召集しょうしゅうして会計かいけい報告ほうこくをイクスチェッカーでチェック、地方ちほう財政ざいせい諸侯しょこう監視かんし掌握しょうあくした。それだけでなくふうしんしもふうした騎士きし領地りょうち一斉いっせい調査ちょうさ1163ねんからはじめ、調査ちょうさ完了かんりょうした1166ねんにイングランドの領土りょうど全般ぜんぱんわた帳簿ちょうぼ作成さくせい主従しゅうじゅう関係かんけい実態じったい把握はあくすると1168ねん従軍じゅうぐんしないふうしん軍役ぐんえきえに貨幣かへい代納だいのうする軍役ぐんえき代納だいのうきんもうけ、このかね傭兵ようへいやと軍事ぐんじりょく増強ぞうきょうした。よりいちそう増員ぞういんはか1181ねんには武装ぶそう条例じょうれい制定せいてい都市とし財産ざいさん査定さていもとづき市民しみん武装ぶそうおうぐん参加さんかさせることをさだめた一方いっぽう発展はってんしていく都市とし自治じちけんあた自治じち都市としとして王権おうけん味方みかたにする政策せいさくすすめ、政治せいじ財政ざいせい軍事ぐんじととのえていった。かたや防衛ぼうえいのため財政難ざいせいなんでたびたび賢人けんじん会議かいぎ召集しょうしゅうして課税かぜい問題もんだい討議とうぎ、ヘンリー2せい頻繁ひんぱんにイングランドを不在ふざいにするため賢人けんじん会議かいぎはロンドンかウェストミンスター召集しょうしゅう、やがて議会ぎかいへと発展はってんしていった[79][82][83][84][85][86][87]

ノルマン・コンクエスト以来いらい歴代れきだいイングランドおう同時どうじにノルマンディーこうねていることがおおかったので、有力ゆうりょく諸侯しょこうがひしめくヨーロッパ大陸たいりく領土りょうど巡回じゅんかいするためながくフランスに滞在たいざいし、イングランドに滞在たいざいすることはすくなかった。ヘンリー2せいもそのれいにたがわずフランスに居住きょじゅうしていることがおおく、ノルマンディーのルーアンが実質じっしつてき首都しゅとだった。

司法しほう改革かいかく推進すいしんし、全国ぜんこく巡回じゅんかい裁判さいばんを6つにだい陪審ばいしん採用さいよう、1166ねんクラレンドン条例じょうれい英語えいごばん制定せいてい1176ねんにはクラレンドン条例じょうれい補充ほじゅう拡大かくだいしたノーサンプトン条例じょうれい制定せいてい前述ぜんじゅつ土地とち回復かいふく訴訟そしょうなどを明文化めいぶんかおう裁判さいばんけん地方ちほうばしてコモン・ロー形成けいせい促進そくしんする一方いっぽう貴族きぞく裁判さいばんけんよわめ、国王こくおう裁判所さいばんしょ土地とち訴訟そしょう介入かいにゅうする道筋みちすじつくった。またイングランド不在ふざいあいだリチャード・ド・ルーシー英語えいごばんラヌルフ・ド・グランヴィル英語えいごばんが、ノルマンディー不在ふざいあいだリチャード・オブ・イルチェスター英語えいごばん摂政せっしょうあるいはふくおうとして代行だいこうたった。こうして1176ねんまつにはアンジュー帝国ていこく封建ほうけん国家こっかのままとはいえ、君主くんしゅ権力けんりょく強化きょうかされた広大こうだい国家こっかとして君臨くんりんしていった[54][88][89][90]

大陸たいりくくら領土りょうど確定かくていし、比較的ひかくてき安定あんていした統治とうち見込みこまれるイングランドは、軍事ぐんじ財政ざいせいめん大陸たいりく経営けいえいささえる役割やくわりになっていたが、イングランド貴族きぞくおおくは軍役ぐんえき代納だいのうきん(スクテージ)を支払しはらって大陸たいりくでの従軍じゅうぐんからのがれることをのぞんだ。これは、のち独立どくりつせいつよジェントリごうしん)とばれる階層かいそう発生はっせいする原因げんいんにもなった(軍役ぐんえき代納だいのうきんはヘンリー2せい以後いごつづいたが、1327ねん最後さいご徴収ちょうしゅうされなくなる)[91]

トマス・ベケット殺害さつがい事件じけん

編集へんしゅう
 
トマス・ベケット殺害さつがいえがいた14世紀せいき写本しゃほん挿絵さしえ

領国りょうごく統治とうち安定あんていのためにはローマ教皇きょうこうちょうとの協力きょうりょくかせないため、1160ねんから教皇きょうこうアレクサンデル3せい良好りょうこう関係かんけいきずいた。同年どうねん挙行きょこうしたわかヘンリーとマルグリットの結婚けっこん許可きょかけるために教皇きょうこう接近せっきん、イングランド教会きょうかい首座しゅざ司教しきょうたるカンタベリー大司教だいしきょう人事じんじたいする支持しじけている。アレクサンデル3せいとしても、神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ1せいとの対立たいりつでヘンリー2せい支持しじ必要ひつようだった[92][93][94]

だい法官ほうかんトマス・ベケットは、ヘンリー2せい即位そくい功績こうせきがあり側近そっきんとしておもんじられたカンタベリー大司教だいしきょうシオボルド・オブ・ベックの薫陶くんとうけ、ヘンリー2せい信頼しんらい愛顧あいこ一身いっしんあつめた腹心ふくしんであり、息子むすこわかヘンリーの家庭かてい教師きょうしまかせた友人ゆうじんでもあった。ヘンリー2せいおうによる教会きょうかい支配しはい強化きょうかしようとし、政教せいきょう関係かんけいむずかしい調整ちょうせい期待きたいして、1161ねんのベックあとにカンタベリー大司教だいしきょう空位くういになっていたことをまえ、かつてだい法官ほうかんとして重用じゅうようしたベケットをよく1162ねんにカンタベリー大司教だいしきょうかせたのである。だがこのとき、ベケットは「これで貴下きか愛顧あいこもわれわれの友情ゆうじょうわりだろう。なぜなら、貴下きか教会きょうかい事項じこうについて要求ようきゅうされるだろうことは、わたし承認しょうにんできぬことだから」とかたったといわれる[2][54][95][96][97][98][99][100]

大司教だいしきょうとなったベケットはだい法官ほうかんだったころとはってわって教会きょうかい自由じゆうとなえ、ことあるごとにおう対立たいりつした。とくに、おう裁判さいばん制度せいど整備せいびすすめるうえ1164ねん1がつ30にちクラレンドンほう(クラレンドン条例じょうれいとはべつ)を制定せいていして「つみおかした聖職せいしょくしゃは、教会きょうかい位階いかい剥奪はくだつしたのち国王こくおう裁判所さいばんしょわたすべし」と教会きょうかい要求ようきゅうしたが、ベケットはこれを教会きょうかいへの干渉かんしょうとして拒否きょひした[注釈ちゅうしゃく 9]。ベケットは同年どうねん11月2にち国外こくがい追放ついほうしょせられフランスへルイ7せいたよ亡命ぼうめいした[54][104][105][106][107][108]

ベケットは教皇きょうこうやフランスおう庇護ひごされながらヘンリー2せいとの対立たいりつ継続けいぞく、ヘンリー2せい教皇きょうこう圧力あつりょくをかけてベケットをおどかし、ルイ7せい仲介ちゅうかいおこなわれた和睦わぼく交渉こうしょう決裂けつれつして両者りょうしゃ対立たいりつ終着しゅうちゃくてんえないなか1170ねん6月14にち、ヘンリー2せいはウェストミンスター寺院じいんにて、わかヘンリーのきょうおう戴冠たいかんしきをカンタベリー大司教だいしきょうベケットの不在ふざいとき挙行きょこうヨーク大司教だいしきょうロジャー・ド・ポン・レヴェック英語えいごばん戴冠たいかんしき代行だいこう)。たいするベケットは12月1にちにイングランドに帰国きこくすると、おや国王こくおう戴冠たいかんしき挙行きょこうした司教しきょうたちを破門はもんした[108]。これにヘンリー2せい激怒げきど国王こくおう大司教だいしきょう暗殺あんさつのぞんでいると誤解ごかいした4にん騎士きし12月29にちカンタベリーだい聖堂せいどうにおいてヘンリー2せい無断むだんでベケットを暗殺あんさつした[54][109][110][111][112][113][114][115]

人々ひとびとはベケットを殉教者じゅんきょうしゃなし、カトリック教会きょうかい即座そくざにベケットを列聖れっせいしたためヘンリー2せい立場たちば非常ひじょうわるくなり、1172ねん5月21にちにノルマンディーのアヴランシュにて、衆人しゅうじん環視かんしなか修道しゅうどう粗末そまつ服装ふくそうでベケット暗殺あんさつ無関係むかんけいだと宣誓せんせいしつつも鞭打むちうち・懺悔ざんげをするとともに、カンタベリーだい聖堂せいどう復権ふっけん教皇きょうこうへの服従ふくじゅうなど教会きょうかい譲歩じょうほしなければならなくなった(アヴランシュの和解わかい英語えいごばん)。この事件じけんは、後述こうじゅつするようにカトリック教会きょうかいへの譲歩じょうほばかりではなく、臣下しんか反逆はんぎゃく息子むすこたちの離反りはんまでまねいたのであった[2][54][116][117][118][119][120][121][122]

十字軍じゅうじぐん

編集へんしゅう

ベケット殺害さつがいたいする懺悔ざんげとして、おう十字軍じゅうじぐん遠征えんせい約束やくそくし、当面とうめん資金しきん援助えんじょとしてテンプル騎士きしだん騎士きし200にんぶん費用ひよう提供ていきょうした。また争点そうてんだったクラレンドンほう一部いちぶ撤回てっかい余儀よぎなくされ、教皇きょうこうちょう上訴じょうそ禁止きんし条項じょうこう聖職せいしょくしゃ国王こくおう裁判所さいばんしょ処罰しょばつ撤廃てっぱいされた。しかし教会きょうかい世俗せぞくてき権利けんりかんする裁判さいばんけん国王こくおうぞくすることも確認かくにんされ、教会きょうかいたいする王権おうけん優位ゆういはほぼ確保かくほされた[54][121][123][124]

1185ねん、サラディン(サラーフッディーン)の重圧じゅうあつまえ風前ふうぜんのともしであったエルサレム王国おうこくから救援きゅうえん要請ようせいする使節しせつだんがヨーロッパを巡回じゅんかいし、イングランドにもやってきた。エルサレム国王こくおうボードゥアン4せいはアンジュー分家ぶんけ出身しゅっしんで、ヘンリー2せい従弟じゅうていたったが、病気びょうきのため子供こどもがおらず、ヘンリー2せい十字軍じゅうじぐん従軍じゅうぐんとエルサレム王位おうい継承けいしょう要請ようせいした。しかし、ヘンリー2せい人員じんいん資金しきん提供ていきょう承知しょうちしたが従軍じゅうぐん約束やくそくはしなかった[125]

1187ねんハッティンのたたかのち、エルサレムは陥落かんらくし、ヨーロッパではだい3かい十字軍じゅうじぐん勧誘かんゆうされた。三男さんなんリチャード即座そくざ参加さんか希望きぼうしたが、ヘンリー2せいとフィリップ2せいはおたがいに牽制けんせいい、まず協定きょうていめることからはじめなければならなかった。ヨーロッパちゅう有名ゆうめいサラディンぜい英語えいごばん徴収ちょうしゅうされたが、ヘンリー2せい結局けっきょく聖地せいちにはかわなかった[126][127][128][129]

息子むすこたちの反乱はんらん

編集へんしゅう
 
1902ねん書籍しょせきのイラストにえがかれたヘンリー2せい

ヘンリー2せい王妃おうひアリエノールとのあいだには、早世そうせいしたウィリアム(ギヨーム)のほかわかヘンリー(アンリ、1155年生ねんせい)、リチャード(リシャール、1157年生ねんせい)、ジェフリー(ジョフロワ、1158年生ねんせい)、ジョン(ジャン、1166年生ねんせい)の4にん息子むすこがいた。かれ息子むすこたちのうち、1人ひとりとしてちち裏切うらぎらないものはいなかった[2]

きっかけはヘンリー2せい愛妾あいしょうロザモンド・クリフォードかこったことでアリエノールと不仲ふなかになったことにある。アリエノールが妊娠にんしんちゅうの1166ねんごろにロザモンドをウッドストック宮殿きゅうでん英語えいごばん同居どうきょ2人ふたり関係かんけい1173ねんころとも)、それまで結婚けっこん生活せいかつ愚痴ぐちわず、つか浮気うわきにもをつぶっていたアリエノールだが、ロザモンドの同居どうきょおっととの別居べっきょ決意けついしたアリエノールは愛人あいじんとの同居どうきょこばみ、子供こどもたちときょうものれてオックスフォードボーモント宮殿きゅうでん英語えいごばんうつりそこでジョンを出産しゅっさん夫妻ふさいなか修復しゅうふく不可能ふかのう亀裂きれつはいった[注釈ちゅうしゃく 10][134][135][136]

1167ねん12月、アリエノールとともにノルマンディーのアルジャンタン宮廷きゅうていひらき、そこでポワティエとアキテーヌの反乱はんらんしずめるため、ポワティエへアリエノールを代理だいりとして赴任ふにんさせたのち1168ねん1がつにイングランドへもどった。つまには護衛ごえいとしてソールズベリー伯爵はくしゃくパトリック・オブ・ソールズベリー英語えいごばんけ、リュジニャン兵士へいしおそわれソールズベリーはく戦死せんししたがアリエノールはび、捕虜ほりょになったソールズベリーはくおいウィリアム・マーシャル初代しょだいペンブルックはく)はアリエノールが身代金みのしろきん支払しはら解放かいほう以後いごマーシャルはヘンリー2せいとアリエノールの子供こどもたちの忠実ちゅうじつ側近そっきんとして台頭たいとうしていった。だが、アリエノールはおっとからの自立じりつ画策かくさくし、りょう平定へいてい尽力じんりょくしつつもアンジュー帝国ていこくからりょうはなし、子供こどもたちへあたえることを計画けいかくおっと対立たいりつしてでも子供こどもたちの権利けんり支持しじすることを決意けつい以後いごおっと別居べっきょ状態じょうたいはいった[137][138][139]

1169ねん、ヘンリー2せいモンミライユ英語えいごばん会見かいけんしたフランスおうルイ7せい提案ていあんにより、14さいになるわかヘンリーを後継こうけいしゃさだめてノルマンディー・アンジュー・メーヌトゥーレーヌを、12さいのリチャードにはアキテーヌ、11さいのジェフリーにブルターニュを分配ぶんぱいし、ルイ7せい臣従しんじゅうれいをとらせることで大陸たいりくがわ所領しょりょう確認かくにんさせた[注釈ちゅうしゃく 11]。わずか2さいだったために領地りょうちあたえられなかった末子まっしのジョンは、ヘンリー2せいに “領地りょうちのないやつ(Lack Land)” とあだをつけられ、ぎゃく不憫ふびんがられ溺愛できあいされるようになる(のちにアイルランドを分配ぶんぱいされるが、支配しはいできずにかえっている)[注釈ちゅうしゃく 12]一方いっぽう、アリエノールは息子むすこ1人ひとりリチャードを後継こうけいしゃさだめ、りょうアキテーヌをリチャードへ継承けいしょうさせる計画けいかくすすめ、1170ねん復活ふっかつさいにてリモージュでリチャードのアキテーヌこう戴冠たいかんしき挙行きょこうしている。水面すいめんつま策謀さくぼうめぐらせ、息子むすこたちとヘンリー2せい不満ふまんいだ貴族きぞくたちをくわ不穏ふおんうごきがうわさされるなかどう時期じきにヘンリー2せいもイングランドでわかヘンリーのきょうおう戴冠たいかんしき挙行きょこう、1172ねんにはベケット暗殺あんさつ事件じけん悪化あっかした教会きょうかいとの関係かんけいもアヴランシュの和解わかい修復しゅうふく、1172ねん9月27にちにはあらためてわかヘンリーおうとマルグリット夫妻ふさいをウィンチェスターで戴冠たいかんさせ、よく1173ねん2がつにはレーモン5せい臣従しんじゅうしてヘンリー2せい権威けんい絶頂ぜっちょうたっした[146][147][148][149]

ところが同年どうねん、ジョンとモーリエンヌはくおんな相続そうぞくじんとの結婚けっこんばなし浮上ふじょうしたとき諸侯しょこうにこのはなし発表はっぴょうしたさいにシノン・ルーダン・ミルボーもジョンにあたえることを発表はっぴょうしたが、これに反発はんぱつしたわかヘンリーおう自分じぶん相続そうぞくぶんからこの3つのしろけずられることに反対はんたいした。きょうおうとしての実権じっけん不満ふまん自身じしん教育きょういくがかりだったベケット暗殺あんさつ事件じけんしょうじたちちたいする不信ふしんかんもあり、わかヘンリーおう自分じぶん実権じっけん譲渡じょうと主張しゅちょうしたが、当時とうじ30だいだったヘンリー2せい息子むすこへの領地りょうち分配ぶんぱいたん名目めいもくじょうのものとかんがえていたため却下きゃっかした。婚約こんやく自体じたい成立せいりつしたがわかヘンリーおうちちへの反発はんぱつおおきく、3月7にちわかヘンリーおう敬愛けいあいしたベケット同様どうようちち支配しはいのがれるべくルイ7せいのもとへとはしり、ちち不仲ふなかになったおもや2にんおとうとリチャード・ジェフリーとんでちち独裁どくさいたいして反乱はんらんこす。プランタジネットあさ父子ふし仲違なかたがいを好機こうきたルイ7せいわかヘンリーおう協力きょうりょく宗主そうしゅけん利用りようしてわかヘンリーおう庇護ひごしたうえでフランス諸侯しょこう召集しょうしゅう、スコットランドおうウィリアム1せいブロワはくティボー5せい、ブローニュはくマチューおとうとフランドルはくフィリップらがわかヘンリーおう加勢かせいした[54][150][151][152][153][154]

反乱はんらん規模きぼおおきく、イングランド、アキテーヌ、ブルターニュ、ノルマンディー辺境へんきょう地域ちいき蜂起ほうきした。ヘンリー2せいにはノルマンディーのだい部分ぶぶんとアキテーヌの少数しょうすう貴族きぞく主要しゅよう都市とし忠誠ちゅうせいつらぬいていたが状況じょうきょう不利ふりで、この時期じきにヘンリー2せい教皇きょうこうてた手紙てがみ反乱はんらんこした子供こどもたちの敵対てきたいなげき、自分じぶん家族かぞくいのちねらわれる状況じょうきょう悲痛ひつう様子ようすつづっている[155][156]

しかし、6がつはじまったたたかいは序盤じょばんこそ不利ふりだったが、ヘンリー2せいはありったけのかねをかきあつめて2まんにんブラバントひと傭兵ようへいやとい、得意とくい戦術せんじゅつである素早すばや用兵ようへい縦横無尽じゅうおうむじんにアンジュー帝国ていこくけずりまわ反乱はんらんぐん討伐とうばつ、8がつにノルマンディーを解放かいほうしてルイ7せいぐん退却たいきゃくさせた。1174ねん1がつ反乱はんらん首謀しゅぼうしゃされたアリエノールをフランス宮廷きゅうていげようとしたところらえシノンしろ幽閉ゆうへいつづいてイングランドへわたりカンタベリーだい聖堂せいどうにあるベケットのはかもうで、墓前ぼぜんいのりをささ心機一転しんきいってんすると、イングランドで留守るすあずかっていたグランヴィルがウィリアム1せいらえたとの報告ほうこく窮地きゅうちからなおり、つづ反乱はんらんぐん討伐とうばつ奔走ほんそうする一方いっぽうでアリエノールをシノンじょうからイングランド南西なんせいソールズベリーとううつ監禁かんきんした。以降いこうはヘンリー2せい優勢ゆうせいで8がつにルーアンを包囲ほういしたルイ7せいぐんふたた退却たいきゃくさせ、9がつまでに反乱はんらん鎮圧ちんあつして全面ぜんめん勝利しょうりわらせた。そしてヘンリー2せいわかヘンリーおう息子むすこたちと和解わかいしたが、アリエノールだけは以後いご15年間ねんかん反逆はんぎゃくつみでイングランドでの監禁かんきん生活せいかついた[54][157][158][159][160]

ヘンリー2せいわかヘンリーおうらをゆる両者りょうしゃあいだ和解わかい成立せいりつ、ウィリアム1せい臣従しんじゅうしるしたファレーズ条約じょうやく息子むすこたちの措置そち確認かくにんされた。わかヘンリーおうきょうおう称号しょうごうかれたが、ノルマンディーからの収入しゅうにゅう半分はんぶん所有しょゆうしていた4つのしろらされたうえで、アンジェからられる1まん5000ポンドのとしきゅうと2つのしろあらためてり、リチャードはアキテーヌの収入しゅうにゅう半分はんぶんと2つのしろを、ジェフリーはブルターニュをさずかった。ジョンには反乱はんらん原因げんいんとなった3つのしろわりに、リチャードとジェフリーの共有きょうゆうする領地りょうちからの年貢ねんぐしろあたえられた(もう1つの原因げんいんである結婚けっこんばなし相手あいて急死きゅうし破談はだん)。反乱はんらん教訓きょうくんとして息子むすこたちにいくらか自治じちけんさづけたが名目めいもくてきぎず、実権じっけんわたさない姿勢しせいくずさず息子むすこたちを臣従しんじゅうさせ(リチャードとジェフリーは1172ねんわかヘンリーおうは1175ねんちち臣従しんじゅう)、以後いごわかヘンリーおう君主くんしゅとしての実権じっけんがない状況じょうきょう変化へんかはなかった。また反乱はんらん混乱こんらんから秩序ちつじょ回復かいふくするため、ノーサンプトン条例じょうれい代行だいこうせい武装ぶそう条例じょうれいなどにられる司法しほう行政ぎょうせい軍事ぐんじ改革かいかく推進すいしんしていった[54][161][162][163][164]

反乱はんらん鎮圧ちんあつはアリエノールとの離婚りこん教皇きょうこうねが却下きゃっかされ、再婚さいこん相手あいてにリチャードの婚約こんやくしゃでルイ7せいと2番目ばんめコンスタンスむすめアデルわかヘンリーおうマルグリットの同母どうぼいもうと)の沙汰ざたされ、アデルが結婚けっこんしないままヘンリー2せいもとかれていたためヘンリー2せいとのあいだ醜聞しゅうぶんうたがわれるなど(アデルはルイ7せいとリチャードの同盟どうめい阻止そしするための人質ひとじちだったとも)、家庭かていない不和ふわおさまらないままだったが、領内りょうない外交がいこう小康しょうこうたも平和へいわ日々ひびごした。ルイ7せい1180ねん死去しきょしフィリップ2せい即位そくい1182ねんにヘンリー2せいはようやくわかヘンリーおう君主くんしゅとしての権限けんげんあたえるべく、リチャードとジェフリーにたいわかヘンリーおうへの臣従しんじゅうれいをとらせようとした。ところがジェフリーは最終さいしゅうてきにはしたがったが、リチャードはわかヘンリーおうへの臣従しんじゅうこばみ、アキテーヌにもどって反抗はんこうした。そのためわかヘンリーおうとジェフリーがリチャードを攻撃こうげきするさわぎになったが、兄弟きょうだいあらそいは1183ねんわかヘンリーおう病死びょうししたことで終息しゅうそく、リチャードがヘンリー2せい後継こうけいしゃとなった。ヘンリー2せい内戦ないせんちゅう病身びょうしんわかヘンリーおう見舞みまいにこうとしたが、わかヘンリーおう警戒けいかいした側近そっきんめられ息子むすこえず(わりにサファイアの指輪ゆびわ息子むすこおくった)、息子むすこかなしみながらもアンジュー帝国ていこく相続そうぞくさい分配ぶんぱいせまられた[165][166][167][168]

1184ねん11月30にち、リチャード・ジェフリー・ジョンの3にん息子むすこはじいち釈放しゃくほうしたアリエノールもくわえて、ウェストミンスター宮殿きゅうでんひじりアンドレの家族かぞくいわった。つづいて12月にウィンザーじょう家族かぞく会議かいぎひらき、わかヘンリーおう変更へんこうせまられたアンジュー帝国ていこく領地りょうち相続そうぞくについてはなった。リチャードははは気質きしつもっと濃厚のうこういだ人物じんぶつといわれ、ちち死後しごにイングランドおうとなってからは戦争せんそうれ、「獅子しししんおう」とあだされる勇敢ゆうかん戦士せんしであったが、ヘンリー2せいはアリエノールの影響えいきょうりょくおおきいリチャードを危険きけんして愛情あいじょうあたえず、わりにアリエノールにうとまれたジョンを溺愛できあいした。相続そうぞくりょう分配ぶんぱいでそうしたヘンリー2せい意向いこうあらわれ、リチャードにはわかヘンリーおうあたえるはずだったノルマンディー・メーヌ・アンジューを、ジェフリーにブルターニュを相続そうぞく、ジョンにはリチャードにポワティエ・アキテーヌをゆずらせることを命令めいれいした。だがリチャードは、あにおなじく実権じっけんきょうおうにされるおそれがあるこの命令めいれい拒絶きょぜつしたため、リチャードをなだめるためアリエノールへのアキテーヌ返還へんかん了承りょうしょうさせ、ジョンのアキテーヌ継承けいしょうあきらめた。一方いっぽう、ジェフリーはちちからはなれフィリップ2せいのもとへせ、1186ねん、パリでフィリップ2せい開催かいさいした馬上もうえやり試合しあいでの怪我けががもとで急死きゅうしした。ジェフリーとコンスタンスのあいだまごアルテュール1せい(アーサー)がまれたが、プランタジネットきらうコンスタンスの意向いこうでアーサーはフランス宮廷きゅうていあづけられ、ブルターニュはアンジュー帝国ていこくからはなれていった[169][170][171][172]

失意しつい最期さいご

編集へんしゅう

フィリップ2せい代替だいがわりしたフランスとはかれ姉妹しまい付随ふずいしていたよめめぐ対立たいりつしていた。わかヘンリーおう未亡人みぼうじんマルグリットは1186ねんハンガリーおうベーラ3せい再婚さいこん同母どうぼいもうとアデルはリチャードとの結婚けっこんがされないままだったため、姉妹しまいのそれぞれのよめヴェクサンとジゾール英語えいごばん返還へんかんをフィリップ2せいからもとめられたが返事へんじばしつづけた。ヘンリー2せいとフィリップ2せいはジゾールのにれ大木たいぼくしたでしばしば会見かいけんして返還へんかん交渉こうしょうしたが、いつも物別ものわかれにわりそのたび双方そうほう臣下しんかたちの小競こぜいがしょうじて険悪けんあく雰囲気ふんいきになり、1188ねん8がつ会見かいけんではイングランドがわ兵士へいしかけておこったフランスじんたちが突撃とつげき、イングランドがわ退散たいさんして交渉こうしょう破談はだんするという事件じけんもあった[173][174][175][176]

同年どうねん11がつにジゾールでひらかれたヘンリー2せいとフィリップ2せいなん度目どめかの和平わへい交渉こうしょうちゅう、リチャードはちちまえでフィリップ2せい臣従しんじゅうちかいをし、公然こうぜんちちとの敵対てきたい宣言せんげんした。ヘンリー2せいもとから臣下しんかたちははなれ、ウィリアム・マーシャルなど忠誠ちゅうせいちかった騎士きしたちだけがのこりリチャード・フィリップ2せいまえ劣勢れっせいになり、よく1189ねんたたかいのなか、ル・マンにたてこもったヘンリー2せいは6がつにリチャードとフィリップ2せい追跡ついせきをかわそうと郊外こうがいはなつが、ほのお市街しがいへとひろがり、自身じしんまれたまち焦土しょうどした。すで健康けんこうがいしていたヘンリー2せい精神せいしんてきショックにえられずシノンじょう撤退てったいし、休戦きゅうせん協定きょうていむすばれたがル・マンを手放てばなさざるをなかった。さらに寝返ねがえったもの名簿めいぼ先頭せんとう最愛さいあい息子むすこジョンのがあるのを最後さいご気力きりょくうしない、7がつ6にち崩御ほうぎょした。56さいだった[54][177][178][179][180]

最期さいご看取みとったのは、忠臣ちゅうしんマーシャルなど供回ともまわりのものと、息子むすこなかでは庶子しょし僧籍そうせきにあったジョフロワ英語えいごばんだけであった。遺体いたいはシノン近郊きんこうフォントヴロー修道院しゅうどういん安置あんちされ、アンジュー帝国ていこくいだリチャードはちち葬儀そうぎ出席しゅっせきしたのち幽閉ゆうへいちゅうのアリエノールを釈放しゃくほうしイングランドおうリチャード1せいとして即位そくいした。母子ぼしはヘンリー2せい厳罰げんばつ主義しゅぎあらためながらかれ側近そっきんたちを赦免しゃめんして味方みかたみ、ジョンにもおおくの領土りょうどあたえて支持しじけ、寛大かんだい政策せいさくでアンジュー帝国ていこくかためたリチャード1せいだい3かい十字軍じゅうじぐん参加さんかして遠征えんせいかっていった[181][182][183][184]

人物じんぶつ

編集へんしゅう

ヘンリー2せい中肉ちゅうにく中背ちゅうぜい筋肉質きんにくしつあかあじがかった金髪きんぱつとくぼんだ灰色はいいろ頑丈がんじょう体躯たいくをもち、猪首いくびであった。また、「大食たいしょくではなく造化ぞうか間違まちがい」でできたといわれるほどのきょはらであった[2]

すうこくあやつ教養きょうようじんでありながら、本能ほんのう忠実ちゅうじつ荒々あらあらしい性格せいかくだった。相当そうとう学者がくしゃでもあり、先祖せんぞゆずりの激情げきじょうだった。また、その精力せいりょくてきなことは驚嘆きょうたんあたいするもので、政務せいむ熱心ねっしんなその日常にちじょうにはおよそ休息きゅうそくというものがなく、戦争せんそうがないときにはから日没にちぼつまで狩猟しゅりょうをおこなった、地方ちほう代官だいかん仕事しごとぶりを監督かんとくするため頻繁ひんぱん巡回じゅんかいする、民衆みんしゅうから苦情くじょう辛抱強しんぼうづよいて人気にんきたかめる、家臣かしんたちはおう行動こうどうまわされ右往左往うおうさおうするなどの逸話いつわつたえられ、帰館きかんしても夕食ゆうしょく以外いがいすわっていることすらできなかったといわれている。行動こうどう素早すばやさは軍事ぐんじにもかし、予期よきせぬ奇襲きしゅうてきぐん混乱こんらんおとしいれたり、妨害ぼうがい不意打ふいうちを得意とくい戦術せんじゅつにしておおくの勝利しょうりおさめた[注釈ちゅうしゃく 13][2][185][186][187]

巧妙こうみょう外交がいこう駆使くしして、相手あいて完膚かんぷなきまでにたたつぶさず、相手あいてなにかをにしたとおもわせる、いわゆるてて手法しゅほう得意とくいとしていた。一方いっぽうみずからの権威けんい手放てばなさず、息子むすこたちには主導しゅどうけんわたさず領土りょうど1人ひとり一括いっかつ相続そうぞくさせようともせず、分割ぶんかつ相続そうぞくかんがえたことが反乱はんらんまねいた。またフランス出身しゅっしんのヘンリー2せいはフランスじんとおし、語学ごがく堪能かんのうだが日常にちじょうはな言葉ことばフランス語ふらんすごラテン語らてんごで、英語えいご最後さいごまで理解りかいしなかったため、イングランドにおける統治とうち充実じゅうじつ大陸たいりくにおける野望やぼう達成たっせい手段しゅだんぎなかったとの見方みかたもある[188][189][190]

とはいえ子供こどもたちにたいする愛情あいじょうはあり、わかヘンリーおう浪費ろうひへき軽率けいそつさにはいていたが、息子むすこ将来しょうらい期待きたいめてベケットを家庭かてい教師きょうしにんじて英才えいさい教育きょういくほどこし、成長せいちょうしてからもわかヘンリーおう溺愛できあいしていた。立派りっぱ君主くんしゅになってしいねがいから自分じぶんがわいて巡回じゅんかい裁判さいばん見学けんがく狩猟しゅりょう同行どうこうさせたり、家臣かしんわかヘンリーおうへの臣従しんじゅうれいらせるなど息子むすこへの配慮はいりょくしたが、わかヘンリーおうであるベケット殺害さつがいちちへの信頼しんらいうしない、ちち自分じぶん実権じっけんゆずらない姿勢しせい自分じぶん所領しょりょうをジョンに割譲かつじょうすべきという命令めいれい反発はんぱつ父子ふしなか決裂けつれつ深刻しんこく内戦ないせんこしていった。それでも1183ねん病気びょうき寸前すんぜんわかヘンリーおうから使者ししゃおくられたさい使者ししゃつうじてわかヘンリーおう指輪ゆびわわた健康けんこう回復かいふくゆるしをあたえ、死去しきょ報告ほうこくくとなみだをこらえながら息子むすこはやかなしんだ。リチャードは能力のうりょくたかいつつもつまのおりで彼女かのじょ影響えいきょうおおきいため愛情あいじょうてず、反対はんたいつまからうとまれたジョンを溺愛できあいしたが、1189ねん裏切うらぎったリチャードにめられたところでジョンにも裏切うらぎられ、ショックで死亡しぼうするという皮肉ひにく最期さいごむかえる羽目はめになった[191][192][193]

晩年ばんねんになるとじっとしていられない習慣しゅうかん悪化あっか急速きゅうそくけていった。1184ねん一時いちじ釈放しゃくほうしたアリエノールがうつくしさと威厳いげんたもっていたのと対照たいしょうてきに、うまられて不自由ふじゆうになった片足かたあしきずり肥満ひまん進行しんこう無頓着むとんじゃくでだらしなくなり自制心じせいしんけた性格せいかくになり、狩猟しゅりょう熱中ねっちゅうするあまり些細ささい違反いはんしゃ死刑しけい終身しゅうしんけいなど厳罰げんばつしょし、ちからさえけた家庭かていない不和ふわつま息子むすこたちの反乱はんらんまねいた。こうした晩年ばんねん様子ようす歴史れきしピエール・ド・ブロワ英語えいごばんから痛烈つうれつ皮肉ひにくられ、宮廷きゅうてい退廃たいはいぶりが滑稽こっけい筆致ひっちえがかれている。また不吉ふきつ伝説でんせつをヘンリー2せいになぞらえるれいもあり、ウィンチェスター宮殿きゅうでんに4わしちちわしきずつけるがあったとされ、反抗はんこうてき息子むすこたちにめられたヘンリー2せい最期さいご暗示あんじしたとつたえられている[194][195][196]

アーサーおう物語ものがたりとのかかわり

編集へんしゅう

アリエノールの宮廷きゅうていには『アーサーおう物語ものがたり』にまれた物語ものがたりいた詩人しじん物語ものがたり作家さっかたちが出入でいりしており、ベルナール・ド・ヴァンタドゥールウァースマリー・ド・フランスクレティアン・ド・トロワブノワ・ド・サンテ=モール英語えいごばんブリテンのトマらが『トリスタンとイゾルデ』、『ブリュ物語ものがたり』、『トロイ物語ものがたり英語えいごばん』、『エレックとエニード英語えいごばん』、『ランスロまたは荷車にぐるま騎士きし』などをつくげ、アーサーおう物語ものがたり騎士きしどう物語ものがたり宮廷きゅうてい恋愛れんあいじりった作品さくひんとして開花かいか、アリエノールも宮廷きゅうていつうじてアーサーおう物語ものがたりをヨーロッパ全土ぜんど東方とうほうひろめるのに一役ひとやくった。ヘンリー2せいもアーサーおう物語ものがたりり、ベルナールとアリエノールの関係かんけいうたがかれつまからはなしたが、アーサーおうおもこす叙事詩じょじし庇護ひごしたことでつまともにアーサーおう流行りゅうこう貢献こうけんした[197][198][199][200]

といっても、ヘンリー2せいのアーサーおう物語ものがたり復興ふっこう伝播でんぱには政治せいじてき意図いともあった。それはアーサーおう物語ものがたりカペーあさフランスへの対抗たいこうおよび自家じか権威けんい強化きょうか役立やくだつとかんがえたからであり、カール大帝たいてい後継こうけいしゃしょうするカペーあさ大帝たいてい臣下しんかたちの伝説でんせつひろめたのにたいし、ヘンリー2せいはかつてイングランドをスティーブンから解放かいほうした自分じぶんをアーサーおうかさねつつ、アーサーおう円卓えんたく騎士きし伝説でんせつつくげて対抗たいこうした。また、ヘンリー2せい母方ははかた祖父そふたるウィリアム1せい敢行かんこうした1066ねんノルマン・コンクエスト以来いらい少数しょうすう支配しはいそうノルマンじん多数たすう支配しはいそうアングロ・サクソンじんなかわるく、王家おうけのイングランドにおける基盤きばん盤石ばんじゃくとはえなかった。こうした事態じたい解決かいけつのため、ヘンリー2せいは『ブリタニアれつおう』にけ、サクソンじんよりまえブリテンとう住民じゅうみんブリトンじんとノルマンじんむすけるためにアーサーおう物語ものがたり採用さいようした[注釈ちゅうしゃく 14][202][203][204]

ヘンリー2せいねらいはアーサーおう後継こうけいしゃとして自分じぶん位置付いちづけることで権威けんい強化きょうかはかること、ブリトンじん・ノルマンじん連合れんごう邪魔じゃまだったアーサーおう復活ふっかつ民間みんかん伝承でんしょう否定ひていして、ブリトンじん自分じぶんたちノルマンじんたよらざるをなくする環境かんきょうつくすことにあった。そうした目的もくてきでウァースにブリタニアれつおうラテン語らてんごからアングロ・ノルマン翻訳ほんやくさせ、ブリュ物語ものがたり誕生たんじょうした。またウァースはアーサーおう物語ものがたり発展はってん貢献こうけん円卓えんたく騎士きしつくしたり、物語ものがたりでアーサーおうがサクソンじん討伐とうばつしてから征服せいふくのため大陸たいりくわたるまで、平和へいわ時代じだいきずいたという表現ひょうげんで12ねん空白くうはくしたりしたことで、後世こうせい作家さっかたちが想像そうぞうして数々かずかず物語ものがたり余地よちあたえた[205]

アーサーおう物語ものがたりのクライマックスとして、ヘンリー2せいは1184ねん火災かさいったグラストンベリー修道院しゅうどういん英語えいごばん再建さいけん資金しきん援助えんじょした。一方いっぽうでアーサーおう復活ふっかつ夢見ゆめみていたブリトンじん希望きぼうちくうわさながれ、復活ふっかつときったアーサーおうかなわずんだとのうわさひろまった。グラストンベリー修道院しゅうどういんはアーサーおう終焉しゅうえんアヴァロンせられ、ヘンリー2せい死後しご1190ねん修道しゅうどうたちが修道院しゅうどういん墓地ぼちにアーサーおう王妃おうひグィネヴィアはか発見はっけん宝剣ほうけんエクスカリバーもアーサーおうはかからたといううわさひろまり、グラストンベリー修道院しゅうどういんはアーサーおうゆかりの巡礼じゅんれいとして定着ていちゃくしていった[202][203][206]

以上いじょう伝説でんせつにどこまでヘンリー2せい関与かんよしていたか不明ふめいだが、アーサーおう物語ものがたり騎士きしどう物語ものがたりとして人々ひとびとれられプランタジネットあさにアーサーおう威光いこうかがやき、伝説でんせつの「発明はつめい」にヘンリー2せいたした役割やくわりおおきくげられている。以後いごもアーサーおうにまつわるはなしつたわり、ヘンリー2せいとアリエノールの曾孫そうそんたるエドワード1せいはアーサーおう王冠おうかんをウェストミンスターにしたり、円卓えんたくかこ習慣しゅうかんんだりしている[207][208]

  1. ウィリアム(1153ねん - 1156ねん) - ポワティエはく
  2. ヘンリー(1155ねん - 1183ねん) - 1170ねんから1183ねんまでイングランドおうちちおうきょう
  3. マティルダ(1156ねん - 1189ねん) - ザクセンおおやけけんバイエルンおおやけハインリヒ獅子ししこう
  4. リチャード(1157ねん - 1199ねん) - イングランドおうリチャード1せい獅子しししんおう
  5. ジェフリー(1158ねん - 1186ねん) - ブルターニュおおやけジョフロワ2せい
  6. エレノア(1162ねん - 1214ねん) - カスティーリャおうアルフォンソ8せい王妃おうひ
  7. ジョーン(1165ねん - 1199ねん) - シチリアおうグリエルモ2せい王妃おうひのちトゥールーズはくレーモン6せい
  8. ジョン(1166ねん - 1216ねん) - イングランドおうかけおう

に、庶子しょしとしてヨーク大司教だいしきょうジェフリー英語えいごばん(ジョフロワ、1152ねん以前いぜん - 1212ねん)とソールズベリー伯爵はくしゃくウィリアム・ロンゲペー英語えいごばん(1176ねんごろ - 1226ねん)がいる。ジェフリーはちち死後しごはリチャード1せいつかえヨーク大司教だいしきょう就任しゅうにん、ウィリアムはだい2だいソールズベリーはくウィリアム・オブ・ソールズベリー英語えいごばんむすめエラ英語えいごばん結婚けっこんしてつま権利けんり英語えいごばんでソールズベリーはくになり、リチャード1せいとジョンの2だいつかこう長官ちょうかん英語えいごばんウェールズ国境こっきょう警備けいび長官ちょうかん英語えいごばんなどを歴任れきにんした。また、イングランド最初さいしょ紋章もんしょう使用しようしゃとして歴史れきしのこしている[209][210][211]

関連かんれん作品さくひん

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ スティーブンがアンリのもとめにおうじた理由りゆう不明ふめいだが、
    • たん親族しんぞくしたがえおい)であるアンリをあわれんだから
    • 終戦しゅうせんしんかたむいていたスティーブンがアンリとの良好りょうこう関係かんけい構築こうちくする好機こうきとらえたから
    などのせつがある[20]
  2. ^ 再婚さいこんばなしはジョフロワ4せい・アンリ父子ふしとアリエノールとのあいだすすめられていたと推察すいさつされ、1151ねん8がつのルイ7せいとの会談かいだん決裂けつれつ、ジョフロワ4せいがベルレをすぐに解放かいほうしたこととルイ7せい係争けいそうヴェクサンゆずったことがげられ(破門はもん解除かいじょされた)、ジョフロワ4せい父子ふしがパリをった直後ちょくごにアリエノールとルイ7せい離婚りこん手続てつづきが開始かいしされたこともあり、1152ねん3月21にち発表はっぴょうされたアリエノールとルイ7せい離婚りこん、および2ヶ月かげつ挙行きょこうされた5月18にちのアリエノールとアンリの再婚さいこんは1151ねんからしも準備じゅんびすすめられていたとされている[27][28][29]
  3. ^ プランタジネットの家名かめいもちいたのは、実際じっさいにはヨークヨークこうリチャード最初さいしょである[45]
  4. ^ ハドリアヌス4せいは、ヘンリー2せいおとうとのウィリアムに封土ほうどあたえるためにアイルランド侵攻しんこう許可きょかしたともいわれる[58]
  5. ^ トゥールーズ遠征えんせいでルイ7せいちはだかったとき、ヘンリー2せい攻撃こうげきせず撤退てったい、トゥールーズ遠征えんせいった。このヘンリー2せい転換てんかんには封建ほうけん制度せいどうえ問題もんだいれるおそれがあったからとされ、フランスではルイ7せい臣従しんじゅうしているため、宗主そうしゅのルイ7せい攻撃こうげき出来できなかったという推測すいそく歴史れきしから説明せつめいされている。またヘンリー2せい自身じしんおうである以上いじょう臣下しんか権利けんりまもるのは君主くんしゅ義務ぎむという封建ほうけん制度せいど原理げんりやぶったら、みずからのくびめることにもなりかねない危惧きぐいていたとされる[63][64]
  6. ^ 1160ねんにルイ7せいが3度目どめ結婚けっこん挙行きょこうしたさい、ルイ7せい政略せいりゃく結婚けっこんつうじてシャンパーニュはくりょうおさめるブロワ接近せっきん自分じぶんとアリエノールとのあいだまれた2人ふたりむすめ(ヘンリー2せいには継子けいしたる)マリーアリックスをそれぞれシャンパーニュはくアンリ1せいブロワはくティボー5せい兄弟きょうだい婚約こんやく自身じしんもシャンパーニュはく兄弟きょうだいいもうとアデルと結婚けっこんすることでプランタジネット牽制けんせいすることをねらった。一時いちじはプランタジネットとブロワどちらかがフランスをれるかが焦点しょうてんになったが、フィリップ2せい誕生たんじょう後者こうしゃ勝利しょうりおさめた[68][69][70]
  7. ^ 国家こっか財政ざいせい地方ちほう会計かいけい報告ほうこく規則きそくてき連続れんぞくしてのこされるようになるのは、ヘンリー2せい治世ちせいはじめになってからである[78]
  8. ^ リチャード1せいがそれまで1とうだったライオンを3とうやしたといわれている[81]
  9. ^ 当時とうじ聖職せいしょくしゃには特権とっけんがあり、聖職せいしょくしゃ犯罪はんざい殺人さつじん姦通かんつうなど世俗せぞくてき犯罪はんざいでも教会きょうかい裁判所さいばんしょさばかれるが、ほとんどがけいつみあるいは無罪むざい同然どうぜんむという問題もんだいがあった。また教会きょうかい裁判所さいばんしょ権力けんりょく拡大かくだいしていたため対策たいさくとしてクラレンドンほう制定せいていされた。内容ないよう教会きょうかい裁判所さいばんしょあつか訴訟そしょう国王こくおう裁判所さいばんしょ管轄かんかつにすること、聖職せいしょくしゃ教皇きょうこうちょうへの上訴じょうそ出国しゅっこく国王こくおう許可きょかようすること、犯罪はんざいしゃとして訴追そついされた聖職せいしょくしゃ教会きょうかい裁判所さいばんしょさばかれたのち国王こくおう裁判所さいばんしょでもさばかれることなどが明記めいきされ、聖職せいしょく推挙すいきょけん英語えいごばん財産ざいさんけん物的ぶってき財産ざいさん)として遺贈いぞう売却ばいきゃく可能かのうにして俗人ぞくじんによる聖職せいしょくしゃ推挙すいきょ拡大かくだいはかり、王権おうけん教会きょうかいたいする優越ゆうえつ確立かくりつしようとした。このほうたいしベケットは聖職せいしょくしゃ国王こくおう裁判所さいばんしょ処罰しょばつ反対はんたいしたためおう対立たいりつした[101][102][103]
  10. ^ ロザモンドには彼女かのじょたたえる詩人しじん戯曲ぎきょくしたバラードや戯曲ぎきょく様々さまざま伝説でんせつかたられ、嫉妬しっとしんつよいアリエノールからロザモンドをまもるため、ヘンリー2せい複雑ふくざつ迷路めいろつくえたウッドストック宮殿きゅうでんにロザモンドをまわせた、迷路めいろ突破とっぱしたアリエノールがロザモンドにどくけん自殺じさつせまったという逸話いつわのこるが、ロザモンドが死亡しぼうした1176ねん時点じてんでアリエノールはヘンリー2せい幽閉ゆうへいされていたため事実じじつでない(後述こうじゅつ)。ロザモンドのくわしい死因しいん不明ふめいだが病死びょうしであり、遺体いたいはオックスフォードのゴッドストウ英語えいごばんにある修道院しゅうどういん埋葬まいそうされたが、はか売春ばいしゅんということで移送いそうされ現在げんざい所在しょざい不明ふめい修道院しゅうどういん現存げんそんしていない[130][131][132][133]
  11. ^ モンミライユの会談かいだんではさき分割ぶんかつ相続そうぞく婚約こんやくりょう国王こくおうとのあいだはなわれ、リチャードとアデルの婚約こんやくおよびジェフリーとコンスタンスの婚約こんやく確認かくにんされたが、王子おうじたちは形式けいしきてきとはいえルイ7せい臣従しんじゅうしたためかれ王子おうじたちへの宗主そうしゅけんつことになり、アンジュー帝国ていこくるがすあやうい状態じょうたいになった。アリエノールは会談かいだん出席しゅっせきしていなかったが、臣従しんじゅうしきおっと権力けんりょく子供こどもたちにうつ第一歩だいいっぽとらえていたという[140][141][142][143]
  12. ^ かけおう」「無地むじおう」のあだはこのことに由来ゆらいする。「失地しっちおう」の訳語やくごは、後年こうねん教皇きょうこうやフランスおうとの紛争ふんそうによってこった結果けっか誤解ごかいされたことからしょうじた誤訳ごやくである[144][145]
  13. ^ 堀米ほりごめ庸三ようぞうは、子息しそくリチャード獅子しししんおうとジョンかけおうはともかくとして、ヘンリー2せい自身じしん専制せんせいてきではあったものの、ながでみればイングランドのひとびとの幸福こうふく基礎きそきずいた君主くんしゅのなかの1人ひとりといってよいと評価ひょうかしている[144]
  14. ^ このプロパガンダはちちのジョフロワ4せいすではじめており、側近そっきんジェフリー・オブ・モンマスげたブリタニアれつおうでアーサーおう神話しんわ土台どだいつくっただけでなく、サクソンじんをブリトンじんとノルマンじん共通きょうつうてきとしてとらえ、ブリトンじん・ノルマンじん団結だんけつうなが内容ないようんだ。ヘンリー2せいもこの路線ろせんかたちでアーサーおう物語ものがたり利用りよう、ブリトンじん・ノルマンじん連合れんごう画策かくさくした[201]

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ ヘンリー2せい』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h 堀米ほりごめいさおさん 1974, p. 238-241.
  3. ^ King 2010, p. 37.
  4. ^ Bachrach, Bernard S. (1978). “The Idea of the Angevin Empire”. Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies 10 (4): 293-299. doi:10.2307/4048161. JSTOR 4048161. 
  5. ^ Hallam and Everard 2001, p. 66.
  6. ^ Hallam and Everard 2001, pp. 66–67.
  7. ^ Power, Daniel (2007). Henry II : new interpretations. Christopher Harper-Bill, Nicholas Vincent. Woodbridge, UK: Boydell Press. p. 93. ISBN 978-1-84615-553-6. OCLC 608552547. https://www.worldcat.org/oclc/608552547 
  8. ^ もりまもる 1986, p. 37-39.
  9. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 31.
  10. ^ 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 716.
  11. ^ Davis, R. H. C. (1977). King Stephen, 1135-1154. London: Longman. p. 89. ISBN 0-582-48727-7. OCLC 2874946. https://www.worldcat.org/oclc/2874946 
  12. ^ a b Chibnall 1993, p. 144.
  13. ^ Warman 2000, pp. 38–39.
  14. ^ a b c King 2010, p. 185.
  15. ^ Warman 2000, p. 38.
  16. ^ King 2010, pp. 185, 274.
  17. ^ Warman 2000, pp. 30, 39.
  18. ^ a b Warman 2000, p. 33.
  19. ^ Warman 2000, pp. 32–34.
  20. ^ King 2010, p. 243; Barlow 1999, p. 180.
  21. ^ Hosler, John D. (2007). Henry II : a medieval soldier at war, 1147-1189. Leiden: Brill. p. 38. ISBN 978-90-474-1934-1. OCLC 306973277. https://www.worldcat.org/oclc/306973277 
  22. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 199.
  23. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 34-35.
  24. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 75-76.
  25. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 195-197.
  26. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 93-94.
  27. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 77-78,83.
  28. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 198-204.
  29. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 96,101-102.
  30. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 76-84,100-101.
  31. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 197-209.
  32. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 93-97,101,104-105.
  33. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 35-37.
  34. ^ a b 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 322.
  35. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 85-88.
  36. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 210-212.
  37. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 115-118.
  38. ^ a b 加藤かとう雅彦まさひこ 2005, p. 77.
  39. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 35,39.
  40. ^ 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 824.
  41. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 91-96.
  42. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 219-223.
  43. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 118-124.
  44. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 63-64,69.
  45. ^ 加藤かとう雅彦まさひこ 2005, p. 78.
  46. ^ 加藤かとう雅彦まさひこ 2005, p. 77-78.
  47. ^ もりまもる 1986, p. 42.
  48. ^ 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 322-323.
  49. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 70-71.
  50. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 108-109.
  51. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 242.
  52. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 149-150,152.
  53. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 39-40.
  54. ^ a b c d e f g h i j k l m n 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 323.
  55. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 71-72.
  56. ^ a b アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 48-49.
  57. ^ a b 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 72.
  58. ^ P.G.マックスウェル・スチュアート & 高橋たかはし正男まさお 1999, p. 125.
  59. ^ 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 147.
  60. ^ 川北かわきたみのる 1998, p. 58-59,416-418.
  61. ^ 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 147-148.
  62. ^ 川北かわきたみのる 1998, p. 59,418-420.
  63. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 241-242.
  64. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 156-157.
  65. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 239-243,300.
  66. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 153-158,193.
  67. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 44-45.
  68. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 109-110,119-120.
  69. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 225-226,244.
  70. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 151,163.
  71. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 106-110,119-121.
  72. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 243-245,261.
  73. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 145-150,161-164.
  74. ^ 川北かわきたみのる 1998, p. 59.
  75. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 98-103.
  76. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 234-239,249-251.
  77. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 124-129,146-147.
  78. ^ F・W・メイトランド『イングランド憲法けんぽうそうぶんしゃ、1981ねん、15ぺーじ 
  79. ^ a b もりまもる 1986, p. 46.
  80. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 72-74.
  81. ^ もりまもる 1986, p. 67-68.
  82. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 237-238.
  83. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 127-128.
  84. ^ 川北かわきたみのる 1998, p. 55-56.
  85. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 50-51,61-62.
  86. ^ 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 33-34.
  87. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 51-52,77-79.
  88. ^ 川北かわきたみのる 1998, p. 56-57.
  89. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 51-52,59-61.
  90. ^ 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 148,526.
  91. ^ 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 671.
  92. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 121.
  93. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 47.
  94. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 74.
  95. ^ もりまもる 1986, p. 47-48.
  96. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 111-112.
  97. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 249-254.
  98. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 166-168.
  99. ^ 川北かわきたみのる 1998, p. 57.
  100. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 75-76.
  101. ^ もりまもる 1986, p. 50.
  102. ^ 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 6,148-149.
  103. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 75.
  104. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 112-119.
  105. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 254-260.
  106. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 168-170.
  107. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 51-52.
  108. ^ a b J.M.ロバーツ & 池上いけがみしゅんいち 2003, p. 152.
  109. ^ もりまもる 1986, p. 48-49.
  110. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 121-125,133-144.
  111. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 271-278.
  112. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 178-181.
  113. ^ 川北かわきたみのる 1998, p. 57-58.
  114. ^ P.G.マックスウェル・スチュアート & 高橋たかはし正男まさお 1999, p. 127-128.
  115. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 52-53.
  116. ^ もりまもる 1986, p. 49-50.
  117. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 153,159-160.
  118. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 294.
  119. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 190-191.
  120. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 53-55.
  121. ^ a b 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 47.
  122. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 76.
  123. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 191.
  124. ^ 川北かわきたみのる 1998, p. 58.
  125. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 2005, p. 68-69.
  126. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 224.
  127. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 340-341.
  128. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 236-237.
  129. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 2005, p. 70-72.
  130. ^ もりまもる 1986, p. 51-53.
  131. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 127.
  132. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 262-264.
  133. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 164-165.
  134. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 126-128.
  135. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 262-266.
  136. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 164-166.
  137. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 128-130.
  138. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 266-268,272.
  139. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 170-174.
  140. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 130-131.
  141. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 269-271.
  142. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 174-176.
  143. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 49-50.
  144. ^ a b 堀米ほりごめいさおさん 1974, p. 241.
  145. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 296.
  146. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 130-133,161.
  147. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 278-280.
  148. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 174-178,190-192.
  149. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 49,53-54.
  150. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 161-166.
  151. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 297-303.
  152. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 192-197.
  153. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 55-56.
  154. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 80-81.
  155. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 197.
  156. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 56.
  157. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 166-174.
  158. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 303-309.
  159. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 197-206.
  160. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 57.
  161. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 174-175.
  162. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 309.
  163. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 206.
  164. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 57-64.
  165. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 175-176,179-196.
  166. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 309-323.
  167. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 208-217.
  168. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 64-67.
  169. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 196-199,225.
  170. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 323-328,335.
  171. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 217-220,223,235.
  172. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 67-68.
  173. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 199-203.
  174. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 328-329.
  175. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 224-225.
  176. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 68.
  177. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 203-214.
  178. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 329-332.
  179. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 225-227.
  180. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 68-69.
  181. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 214-227.
  182. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 332-342.
  183. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 229-.
  184. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 69-72.
  185. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 83-84,100-101.
  186. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 209.
  187. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 102-103,105,125-127.
  188. ^ もりまもる 1986, p. 47.
  189. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 48,53-54.
  190. ^ 君塚きみづか直隆なおたか 2015, p. 77-78.
  191. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 154-156,193,213.
  192. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 291-296,320-323,331-332.
  193. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 187-188,192-194,213-219,227.
  194. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 198.
  195. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 324-326.
  196. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 220-223.
  197. ^ 桐生きりゅうみさお 1988, p. 90-91.
  198. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 217-219,229-233.
  199. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 137-142.
  200. ^ アンヌ・ベルトゥロ, 村上むらかみ伸子のぶこ & 松村まつむらつよし 1997, p. 90-91.
  201. ^ アンヌ・ベルトゥロ, 村上むらかみ伸子のぶこ & 松村まつむらつよし 1997, p. 39-44.
  202. ^ a b 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 233-234.
  203. ^ a b レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 142-143.
  204. ^ アンヌ・ベルトゥロ, 村上むらかみ伸子のぶこ & 松村まつむらつよし 1997, p. 35-44.
  205. ^ アンヌ・ベルトゥロ, 村上むらかみ伸子のぶこ & 松村まつむらつよし 1997, p. 44-47.
  206. ^ アンヌ・ベルトゥロ, 村上むらかみ伸子のぶこ & 松村まつむらつよし 1997, p. 47-48,160.
  207. ^ アンリ・ルゴエレル & 福本ふくもと秀子ひでこ 2000, p. 149.
  208. ^ アンヌ・ベルトゥロ, 村上むらかみ伸子のぶこ & 松村まつむらつよし 1997, p. 48.
  209. ^ もりまもる 1986, p. 53-56.
  210. ^ 石井いしい美樹子みきこ 1988, p. 339.
  211. ^ レジーヌ・ペルヌー & 福本ふくもと秀子ひでこ 1996, p. 243.

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
和書わしょ
洋書ようしょ

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう
先代せんだい
スティーブン
イングランド国王こくおう
1154ねん - 1189ねん
次代じだい
リチャード1せい
先代せんだい
ジョフロワ
アンジューはく・メーヌはく
1151ねん - 1189ねん
わかヘンリー共同きょうどう統治とうち
(1170ねん - 1183ねん
次代じだい
リシャール
先代せんだい
ルイ
アキテーヌこう
1152ねん - 1169ねん
アリエノール共同きょうどう統治とうち
次代じだい
リシャール1せい