カルースト・サルキス・グルベンキアン(Calouste Sarkis Gulbenkian、アルメニア語ご:Գալուստ Սարգիս Կիւլպէնկեան、1869年ねん3月23日にち – 1955年ねん7月がつ20日はつか)は、アルメニア人じんの実業じつぎょう家か、フィランソロピスト。ユスキュダル(現げんトルコ共和きょうわ国こく、イスタンブールの一いち地区ちく)出身しゅっしん。以下いかの逸話いつわから、「ミスター5%」と呼よばれた。
石油せきゆ商人しょうにんの息子むすことして生うまれる。バクーの石油せきゆ工場こうじょうで働はたらくべく、父ちちの命いのちでロンドンのキングス・カレッジ・ロンドンで石油せきゆ工学こうがくを学まなび、1902年ねんにはイギリスの市民しみん権けんを取得しゅとく。1907年ねんのロイヤル・ダッチ/シェルグループの合併がっぺいに尽力じんりょくし、同社どうしゃの5%の株式かぶしきを取得しゅとくした。1912年ねんにイラクでトルコ石油せきゆ会社かいしゃ(TPC、イラク石油せきゆ会社かいしゃ(英語えいご版ばん)の前身ぜんしん)を立たち上あげる。このトルコ石油せきゆ会社かいしゃにはアングロ・ペルシアン石油せきゆ会社かいしゃ(英語えいご版ばん)(現在げんざいのBP)、ロイヤル・ダッチ・シェル、ドイツ銀行ぎんこうが出資しゅっしし、グルベンキアン自身じしんも5%出資しゅっしした。第だい一いち次じ世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ後ごのオスマン帝国ていこく崩壊ほうかいに伴ともない、イラクはイギリスの委任いにん統治とうち領りょうとなるが、グルベンキアンは粘ねばり強づよい交渉こうしょうの末すえにトルコ石油せきゆ会社かいしゃのイラクでの石油せきゆ採掘さいくつ権けんを認みとめさせることに成功せいこう。そして1925年ねんにはキルクーク付近ふきんのババ・グルグル(英語えいご版ばん)に石油せきゆ鉱床こうしょう(キルクーク油田ゆでん)が発見はっけんされる。結果けっかとして、1928年ねんにアングロ・ペルシアン、ロイヤル・ダッチ・シェル、フランス石油せきゆ、そしてスタンダード・オイルとで中近東ちゅうきんとうにおける石油せきゆ権益けんえきについて規定きていした赤あか線せん協定きょうていを結むすび、グルベンキアンは自身じしんの5%の権益けんえきを認みとめさせた。そしてグルベンキアンは石油せきゆの売買ばいばいにより莫大ばくだいな財産ざいさんを手てにすることとなる。彼かれは世界中せかいじゅうに流浪るろうしたアルメニア人じんのためにアルメニア教会きょうかいを多数たすう寄贈きぞうした。
グルベンキアンは永ながらくパリに拠点きょてんを置おいていたが、第だい二に次じ世界せかい大戦たいせんを避さけて1942年ねんにポルトガルに渡わたり、1955年ねんにリスボンで没ぼっした。ロンドンのケンジントンに両親りょうしんを偲しのんで建たてた聖せいサルキス教会きょうかい (ケンジントン)(英語えいご版ばん)に埋葬まいそうされている。
グルベンキアンの死後しご、石油せきゆで稼かせいだ個人こじん財産ざいさんを元もとに、リスボンを拠点きょてんにしてカルースト・グルベンキアン財団ざいだん、グルベンキアン管弦楽かんげんがく団だん、カルースト・グルベンキアン美術館びじゅつかんなどが運営うんえいされている。カルースト・グルベンキアン美術館びじゅつかんは美術びじゅつ品ひんの収集しゅうしゅう家かでもあったグルベンキアンの膨大ぼうだいなコレクションが展示てんじされており、特とくに、親交しんこうを結むすんだルネ・ラリックに製作せいさくさせた145点てんもの美術びじゅつ工芸こうげい品ひんの一大いちだいコレクションが有名ゆうめい。
1951年ねん、エリザベス2世せいから大だい英えい帝国ていこく勲章くんしょう授与じゅよを打診だしんされたが断ことわっていたことが2012年ねんに明あきらかとなった[1][2]。
息子むすこのヌバール・グルベンキアン(1896年ねん-1972年ねん)は、彼かれの石油せきゆ事業じぎょうを受うけ継つぐと共ともに、同様どうように慈善じぜん家かとしても知しられた。
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