創業 そうぎょう 者 しゃ の田嶋 たじま 一雄 かずお [1] は日本 にっぽん に職 しょく を求 もと めて来 き たドイツ人 じん ビリー・ノイマン 、日本 にっぽん で写真 しゃしん 機械 きかい の輸入 ゆにゅう をしていたドイツ人 じん ウィリー・ハイレマン と協力 きょうりょく してカメラの国産 こくさん 化 か を企 くわだて て、1928年 ねん 11月[1] に個人 こじん 企業 きぎょう の日 にち 独 どく 写真 しゃしん 機 き 商店 しょうてん を設立 せつりつ した[1] 。社名 しゃめい はこの協力 きょうりょく 関係 かんけい を表 あらわ すとともに、舶来 はくらい 礼賛 らいさん の当時 とうじ 、ドイツの技術 ぎじゅつ を誇示 こじ する意図 いと もあったと思 おも われる。
兵庫 ひょうご 県 けん 武庫 むこ 郡 ぐん (現 げん 西宮 にしのみや 市 し )に工場 こうじょう を建設 けんせつ し、30人 にん ほどの従業 じゅうぎょう 員 いん を集 あつ めて事業 じぎょう を始 はじ めた[1] 。当時 とうじ の近畿 きんき 地方 ちほう には精密 せいみつ 工業 こうぎょう の基盤 きばん が全 まった くなかったため、ネジ1本 ほん の生産 せいさん 、メッキに至 いた るまで下請 したう けには出 だ せず、自社 じしゃ で行 おこな わねばならなかった[1] 。
1929年 ねん 3月 がつ に第 だい 一 いち 号機 ごうき ニフカレッテ を完成 かんせい し、これはエ・クラウス のローレッテ のコピー、レンズとシャッターはドイツからの輸入 ゆにゅう 品 ひん であり、また工員 こういん も不慣 ふな れで当初 とうしょ 月産 げっさん 50台 だい という状態 じょうたい ではあったが、ボディーはなかなかの出来 でき であった。以後 いご ブランドは社名 しゃめい のニ、フォトグラフのフ、カメラのカからニフカ を使用 しよう した[1] 。1930年 ねん にはハンドカメラのニフカクラップ 、ニフカスポーツ 、ニフカドックス などを発売 はつばい し、製造 せいぞう も軌道 きどう に乗 の った[1] 。
1930年 ねん 10月 がつ に武庫川 むこがわ 工場 こうじょう でストライキがあり、田嶋 たじま 一雄 かずお は穏健 おんけん 策 さく を提案 ていあん したが、工場 こうじょう 責任 せきにん 者 しゃ であったウィリー・ハイレマン はストライキ参加 さんか 者 しゃ 全員 ぜんいん の解雇 かいこ という強硬 きょうこう 策 さく を押 お し切 き り、2人 ふたり の関係 かんけい が微妙 びみょう になっていく[1] 。
1931年 ねん 7月 がつ [1] 、資本 しほん 金 きん 30万 まん 円 えん で「モルタ合資 ごうし 会社 かいしゃ 」(Mechanismus, Optik und Linsen von TAshima [1] )に組織 そしき 変更 へんこう した[1] 。この時点 じてん ではまだドイツ人 じん 2人 にん は在籍 ざいせき していたのにもかかわらず会社 かいしゃ 名 めい から「ドイツ」に相当 そうとう する文字 もじ はなくなり、無限 むげん 責任 せきにん 社員 しゃいん は田嶋 たじま 一雄 かずお のみで有限 ゆうげん 責任 せきにん 社員 しゃいん にも名前 なまえ がなかった[1] 。ウィリー・ハイレマン は1931年 ねん 11月に退社 たいしゃ し武庫川 むこがわ 上流 じょうりゅう にシャッター工場 こうじょう を開設 かいせつ し、1932年 ねん にビリー・ノイマン も退社 たいしゃ して合流 ごうりゅう 、ノイマン・ハイレマン工場 こうじょう となり、田嶋 たじま に対抗 たいこう 意識 いしき を燃 も やしていくことになった[1] 。ニフカレッテはシリウスベベ、ニフカクラップはシリウス、ニフカスポーツはアルカデアに改名 かいめい しニフカブランドも廃止 はいし された[1] 。
1933年 ねん にミノルタ、セミミノルタが発売 はつばい され、この時 とき ミノルタブランドが初 はじ めて使 つか われた[2] 。ミノルタは「Machinery and INstruments OpticaL by TAshima」という英語 えいご の文字 もじ からとった[2] もので、創業 そうぎょう 者 しゃ の田嶋 たじま 一雄 かずお によって名 な づけられた。この名称 めいしょう は『稔 みの る田 た (みのるた)』の意味 いみ も含 ふく んでおり、創業 そうぎょう 者 しゃ の生母 せいぼ が『稔 みの るほど頭 あたま を垂 た れる稲穂 いなほ のように、常 つね に謙虚 けんきょ でありなさい』と言 い っていたことを肝 きも に銘 めい じておきたかったからとも言 い われている。
1937年 ねん 「千代田 ちよだ 光学 こうがく 精 せい 工 こう 株式会社 かぶしきがいしゃ 」に組織 そしき 変更 へんこう した[2] 。不思議 ふしぎ なことに由来 ゆらい について何 なに も伝 つた わっていないが、当時 とうじ の時局 じきょく 柄 がら 欧米 おうべい 的 てき 造語 ぞうご を避 さ け国粋 こくすい 的 てき な名称 めいしょう を選 えら んだと考 かんが えられている[2] 。
浅沼商会 あさぬましょうかい はモルタ合資 ごうし 会社 かいしゃ 時代 じだい には数 かず ある取引 とりひき 先 さき の一 ひと つに過 す ぎなかったが、1937年 ねん 12月10日 にち 浅沼商会 あさぬましょうかい との提携 ていけい 披露宴 ひろうえん が開 ひら かれ、1938年 ねん 1月 がつ 19日 にち に浅沼商会 あさぬましょうかい は写真 しゃしん 材料 ざいりょう 店 てん 120名 めい を招待 しょうたい しミノルタ製品 せいひん を披露 ひろう した。以後 いご ミノルタ製品 せいひん は浅沼商会 あさぬましょうかい の名前 なまえ で販売 はんばい されることになり、当時 とうじ は問屋 とんや の力 ちから が強 つよ かったため場合 ばあい によっては浅沼商会 あさぬましょうかい の広告 こうこく に「弊社 へいしゃ 工場 こうじょう に於 おい て謹製 きんせい 」などと書 か かれる場合 ばあい もあり、戦前 せんぜん からのカメラファンの中 なか には浅沼商会 あさぬましょうかい がミノルタ製品 せいひん を作 つく っていると誤解 ごかい していた人 ひと も多 おお かった[2] 。
軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう 時代 じだい と戦後 せんご の再 さい スタート
編集 へんしゅう
1937年 ねん 7月 がつ 7日 にち 盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん に始 はじ まる日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の拡大 かくだい を受 う け、1937年 ねん 9月 がつ に臨時 りんじ 資金 しきん 調整 ちょうせい 法 ほう 、輸出入 ゆしゅつにゅう 品等 ひんとう 臨時 りんじ 措置 そち 法 ほう 、軍需 ぐんじゅ 工業 こうぎょう 総動員 そうどういん 法 ほう が公布 こうふ され、軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう 以外 いがい の産業 さんぎょう は極 きわ めて困難 こんなん になった。さらに1938年 ねん 4月 がつ に国家 こっか 総動員 そうどういん 法 ほう が公布 こうふ され、この傾向 けいこう はさらに強 つよ まった。1938年 ねん ミノルタにも大阪 おおさか の陸軍 りくぐん 造兵 ぞうへい 廠 しょう から砲弾 ほうだん 信管 しんかん を受注 じゅちゅう し、海軍 かいぐん からは双眼鏡 そうがんきょう の注文 ちゅうもん が入 はい るようになり、企業 きぎょう の生 い き残 のこ りのため積極 せっきょく 的 てき に軍 ぐん の注文 ちゅうもん を受 う けるようになった。このため、陸軍 りくぐん 予備 よび 役 やく であった田嶋 たじま 一雄 かずお に召集令状 しょうしゅうれいじょう が来 き て入隊 にゅうたい したが、しばらくして「仕事 しごと の方 ほう でご奉公 ほうこう せよ」と除隊 じょたい になったという[2] 。カメラ生産 せいさん も順次 じゅんじ 縮小 しゅくしょう されつつも続 つづ けられた[2] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の敗戦 はいせん で軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう の指定 してい は解除 かいじょ され、その後 ご 占領 せんりょう 軍 ぐん による民需 みんじゅ 生産 せいさん 転換 てんかん も許可 きょか されたが、武庫川 むこがわ 工場 こうじょう 、尼崎 あまがさき 工場 こうじょう 、小松 こまつ 工場 こうじょう は空襲 くうしゅう や火災 かさい で全焼 ぜんしょう 被害 ひがい を受 う けており、残 のこ っていたのは堺 さかい 工場 こうじょう 、大阪 おおさか 市 し 東 ひがし 区 く に逆 ぎゃく 疎開 そかい した本社 ほんしゃ 工場 こうじょう 、伊丹 いたみ 工場 こうじょう だけであった[2] 。これに加 くわ え敗戦 はいせん で閉鎖 へいさ されていた豊川 とよかわ 海軍 かいぐん 工廠 こうしょう 光学 こうがく 部 ぶ を買 か い取 と り、豊川 とよかわ 工場 こうじょう として再 さい 出発 しゅっぱつ した[2] 。部品 ぶひん の残 のこ りや焼 や け残 のこ った金 かね 型 がた などを使用 しよう し1946年 ねん には戦後 せんご 第 だい 一 いち 号機 ごうき となるセミミノルタIIIA を発売 はつばい できた[2] 。
1962年 ねん にカメラのブランド名 めい であった「ミノルタ」を社名 しゃめい に冠 かん し「ミノルタカメラ株式会社 かぶしきがいしゃ 」に商号 しょうごう 変更 へんこう 。
1994年 ねん に「ミノルタ株式会社 かぶしきがいしゃ 」と改称 かいしょう した後 のち は2003年 ねん 8月 がつ に「コニカ 株式会社 かぶしきがいしゃ 」と経営 けいえい 統合 とうごう するまで同 どう 社名 しゃめい が使 つか われてきた。また、ミノルタの最後 さいご 期 き に使用 しよう されたCIロゴマークは、ソール・バス によりデザインされたもので(1978年 ねん より採用 さいよう されたが、初期 しょき のロゴは白線 はくせん が4本 ほん だった。1981年 ねん にマイナーチェンジされて線 せん が5本 ほん に増 ふ えたものが引 ひ き続 つづ き使用 しよう されている)、現在 げんざい のコニカミノルタでも引 ひ き続 つづ き使用 しよう されている。詳細 しょうさい はコニカミノルタ の冒頭 ぼうとう の説明 せつめい も参照 さんしょう されたい。
コーポレートメッセージは、1990年代 ねんだい は「ハートフルテクノロジー きらりミノルタ」だったが、2001年 ねん に「The essentials of imaging」が新 あら たに制定 せいてい されて、コニカミノルタでも2011年 ねん 9月 がつ まで採用 さいよう されていた。
一眼 いちがん レフオートフォーカスカメラのα あるふぁ (アルファ)シリーズ、デジタルカメラ のDiMAGE(ディマージュ)シリーズ、業務 ぎょうむ 用 よう 複写 ふくしゃ 機 き 。
なお、歴史 れきし が長 なが く一般 いっぱん 消費 しょうひ 財 ざい でもあるカメラで知 し られているが、事業 じぎょう 規模 きぼ としては1980年代 ねんだい に複写 ふくしゃ 機 き を中心 ちゅうしん とする事務 じむ 機器 きき が主力 しゅりょく となっている。その後 ご のコニカミノルタ統合 とうごう 後 ご も同様 どうよう 。
1929年 ねん 発売 はつばい のベスト判 ばん カメラ「ニフカレッテ」に始 はじ まる。その後 ご 二 に 眼 め レフカメラを得意 とくい としていたが、1947年 ねん 発売 はつばい の「ミノルタ35」を皮切 かわき りに次第 しだい に35ミリカメラに開発 かいはつ の比重 ひじゅう を移 うつ していくこととなる。
1962年 ねん 、NASA の厳 きび しい試験 しけん をクリアした35mmレンズシャッターカメラ「ハイマチック」がジョン・ハーシェル・グレン 中佐 ちゅうさ が乗 の り込 こ むフレンドシップ7号 ごう の宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 用 よう カメラとして採用 さいよう され、フレンドシップ7号 ごう にちなんで製品 せいひん 名称 めいしょう に7を多用 たよう するようになる。ミノルタのカメラが普及 ふきゅう した背景 はいけい には技術 ぎじゅつ 力 りょく もさることながらミノルタのCM戦略 せんりゃく も大 おお きかった。
1980年 ねん 、当時 とうじ 大学生 だいがくせい の宮崎 みやざき 美子 よしこ を起用 きよう した「X-7」のCMが大 だい ヒット、X-7は瞬 またた く間 ま に当時 とうじ のベストセラーモデルとなった。
1985年 ねん 発売 はつばい 、世界 せかい 初 はつ のシステム一 いち 眼 め レフカメラ「α あるふぁ -7000」に始 はじ まるオートフォーカス 一眼 いちがん レフカメラ のα あるふぁ シリーズ は、マニュアルフォーカス との互換 ごかん 性 せい をなくし絞 しぼ りもボディー側 がわ から電子 でんし 制御 せいぎょ する等 ひとし 、電子 でんし 化 か された新 しん マウントミノルタAマウントを採用 さいよう し、第 だい 1回 かい ヨーロピアン・カメラ・オブ・ザ・イヤーを受賞 じゅしょう するなど日本 にっぽん のみならず世界中 せかいじゅう でのヒットとなったが、1987年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ハネウェル 社 しゃ が、同社 どうしゃ の保有 ほゆう するオートフォーカス技術 ぎじゅつ の特許 とっきょ 侵害 しんがい で訴訟 そしょう を起 お こし、ミノルタは約 やく 1億 おく ドルもの和解 わかい 金 きん を支払 しはら うこととなった。この特許 とっきょ 侵害 しんがい 訴訟 そしょう ではサブマリン特許 とっきょ という概念 がいねん が日本 にっぽん 企業 きぎょう に認知 にんち された。
このハネウェルとの特許 とっきょ 訴訟 そしょう に敗 やぶ れたことに加 くわ え、キヤノン ・ニコン が地道 じみち に改良 かいりょう を重 かさ ね、やがてカメラの売上 うりあげ でミノルタを上回 うわまわ るようになる。デジタルカメラの開発 かいはつ では競合 きょうごう 他社 たしゃ に大 おお きく遅 おく れをとり、2003年 ねん にコニカと合併 がっぺい しコニカミノルタホールディングスとなってからも、CCDイメージセンサ を動 うご かすことで手 て ぶれを補正 ほせい する「アンチシェイク」など独自 どくじ の技術 ぎじゅつ で他社 たしゃ に挑 いど んだものの努力 どりょく は実 みの らず、次第 しだい に業績 ぎょうせき が悪化 あっか 。
2006年 ねん 1月 がつ 19日 にち 、コニカミノルタホールディングスは翌 よく 2006年 ねん 3月 がつ 末 まつ に写真 しゃしん フィルムからレンズ・カメラに至 いた る全 すべ ての写真 しゃしん 関連 かんれん 分野 ぶんや から撤退 てったい することを発表 はっぴょう した。「α あるふぁ 」ブランドを含 ふく むデジタル一 いち 眼 め レフカメラについては先 さき に提携 ていけい を発表 はっぴょう していたソニー に譲渡 じょうと し、同 どう 時期 じき をもって長年 ながねん 続 つづ いたミノルタのカメラ事業 じぎょう は幕 まく を閉 と じた。
ミノルタは早 はや い時期 じき からガラス溶解 ようかい 、研磨 けんま 、コーティングまですべて自社 じしゃ の工場 こうじょう で行 おこな い「ロッコール」ブランドをつけていた。1941年 ねん 入社 にゅうしゃ の斎藤 さいとう 利 とし 衛 まもる に率 ひき いられた設計 せっけい 陣 じん により設計 せっけい されよく写 うつ る優秀 ゆうしゅう なレンズが多 おお く、レンズ製品 せいひん のブランドロッコールはミノルタ製 せい カメラの名 な を高 こう らしめる原動力 げんどうりょく となった。ロッコールの名称 めいしょう は創業 そうぎょう 地 ち である西宮 にしのみや 市 し から近 ちか い神戸 こうべ 市 し 六甲山 ろっこうざん にちなんで命名 めいめい された。世界 せかい で初 はじ めてマルチコート(2層 そう ・アクロマチックコーティングと呼 よ ばれる)が施 ほどこ されたのもロッコールレンズであり、このコーティングをされたレンズ特有 とくゆう の緑色 みどりいろ の反射 はんしゃ 光 こう から「緑 みどり のロッコール」と呼 よ ばれ、有名 ゆうめい になった。しかし1981年 ねん 、ロッコールの名称 めいしょう は消 き えて単 たん に「ミノルタレンズ」と表記 ひょうき されるようになった。これに関 かん しては「レンズに独自 どくじ の名称 めいしょう をつけないという当時 とうじ の風潮 ふうちょう に従 したが った」という説 せつ と、「ニューMDレンズ開発 かいはつ の際 さい 、一部 いちぶ の光学 こうがく レンズの供給 きょうきゅう を他社 たしゃ に頼 たよ ったため」との説 せつ がある。
ロッコールレンズには「ROKKOR-QF」というように、最後 さいご にアルファベット2文字 もじ の記号 きごう が付 つ いているものがある。これはレンズの群 ぐん 数 すう ・枚数 まいすう を表 あらわ している。記号 きごう と数字 すうじ の対応 たいおう は以下 いか の通 とお りである。
群 ぐん 数 すう 記号 きごう
T=3、Q=4、P=5、H=6、S=7、O=8、N=9
枚数 まいすう 記号 きごう
C=3、D=4、E=5、F=6、G=7、H=8、I=9、J=10、K=11、L=12
したがって「ROKKOR-QF」は4群 ぐん 6枚 まい となる。
また輸出 ゆしゅつ 向 む けレンズに限 かぎ り「ROKKOR-X」、「CELTIC」の名前 なまえ が付 つ いているものが存在 そんざい する。
経営 けいえい 統合 とうごう 後 ご の事業 じぎょう 再編 さいへん
編集 へんしゅう
2003年 ねん 8月 がつ にコニカ と経営 けいえい 統合 とうごう し、持株 もちかぶ 会社 かいしゃ コニカミノルタホールディングスを発足 ほっそく させた。その際 さい 、ミノルタはコニカミノルタホールディングスの子会社 こがいしゃ となった。
その後 ご 、2003年 ねん 10月 がつ にミノルタはコニカミノルタホールディングスに合併 がっぺい し、ミノルタの各 かく 事業 じぎょう は以下 いか の各 かく 傘下 さんか 会社 かいしゃ にそれぞれ継承 けいしょう された。
カメラ事業 じぎょう コニカミノルタフォトイメージング
カメラ事業 じぎょう は、2003年 ねん 10月 がつ にコニカミノルタカメラ(ミノルタが準備 じゅんび 子会社 こがいしゃ として設立 せつりつ したミノルタカメラから改称 かいしょう )に継承 けいしょう されたが、2004年 ねん 4月 がつ にコニカミノルタフォトイメージングと合併 がっぺい した。
カメラ事業 じぎょう から撤退 てったい した2006年 ねん 4月 がつ 1日 にち には、カメラ並 なら びにその関連 かんれん 製品 せいひん (ただし、レンズ付 づけ フィルム「撮 と りっきりMiNi」は除 のぞ く)の修理 しゅうり 及 およ び製品 せいひん の問 と い合 あ わせ等 とう のアフターサービスはソニー のちケンコー・トキナー に委託 いたく された。
双眼鏡 そうがんきょう は株式会社 かぶしきがいしゃ ケンコー・トキナーに委託 いたく された。
2011年 ねん 3月 がつ をもってコニカミノルタ製品 せいひん のアフターサービスはケンコー・トキナーへ継承 けいしょう され、コニカミノルタフォトイメージングは解散 かいさん した。
計測 けいそく 機器 きき 事業 じぎょう コニカミノルタセンシング
オプト(レンズユニット、光学 こうがく 撮像 さつぞう 素子 そし 、デジタルディスクプレーヤー用 よう レンズ)事業 じぎょう コニカミノルタオプト
複写 ふくしゃ 機 き 事業 じぎょう コニカミノルタビジネステクノロジーズ
プラネタリウム事業 じぎょう コニカミノルタプラネタリウム
カメラ関連 かんれん ソニー製品 せいひん 情報 じょうほう [ex 1]
双眼鏡 そうがんきょう 関連 かんれん ケンコー光学 こうがく 製品 せいひん [ex 2]
その後 ご 、コニカミノルタセンシングとコニカミノルタオプトは2012年 ねん 4月 がつ に事業 じぎょう 再編 さいへん を行 おこな い、コニカミノルタオプティクスとコニカミノルタアドバンストレイヤーに改称 かいしょう 。2013年 ねん 4月 がつ にグループ内 ない の再編 さいへん に伴 ともな い、コニカミノルタオプティクス、コニカミノルタアドバンストレイヤー、コニカミノルタビジネステクノロジーズを含 ふく む事業 じぎょう 子会社 こがいしゃ 7社 しゃ がコニカミノルタホールディングスへ吸収 きゅうしゅう 合併 がっぺい し、同社 どうしゃ はコニカミノルタ 株式会社 かぶしきがいしゃ となった。
^ 大手 おおて カメラメーカー5社 しゃ (ミノルタ ・キヤノン ・ニコン ・ペンタックス ・オリンパス )の中 なか では唯一 ゆいいつ 、大阪 おおさか に本社 ほんしゃ を構 かま えており、工場 こうじょう も豊川 とよかわ 工場 こうじょう (愛知 あいち 県 けん )を除 のぞ き近畿 きんき 地方 ちほう に集中 しゅうちゅう していた。
^ a b c d e f g h i j k l m n 『クラシックカメラ専 せん 科 か No.12、ミノルタカメラのすべて』p.6。
^ a b c d e f g h i j 『クラシックカメラ専 せん 科 か No.12、ミノルタカメラのすべて』p.7。
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