(Translated by https://www.hiragana.jp/)
万関瀬戸 - Wikipedia

万関瀬戸まんぜきせど

長崎ながさきけん対馬つしまにある運河うんが

万関瀬戸まんぜきせど(まんぜきせと)[1]は、対馬つしま長崎ながさきけん対馬つしま)の中央ちゅうおうよりややみなみ東部とうぶにある延長えんちょうやく500mの運河うんが北緯ほくい3417ふん51.6びょう 東経とうけい12921ふん21.3びょう / 北緯ほくい34.297667 東経とうけい129.355917 / 34.297667; 129.355917 (万関瀬戸まんぜきせど))。対馬つしま西部せいぶ浅茅湾あそうわん(あそうわん)東部とうぶ三浦湾みうらわん(みうらわん)を接続せつぞくする。

万関瀬戸まんぜきせど
すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML

対馬つしま西岸せいがん東岸とうがんむす運河うんがはもう1ほん大船越おおふなこし瀬戸せと北緯ほくい3416ふん44.2びょう 東経とうけい12921ふん10.9びょう / 北緯ほくい34.278944 東経とうけい129.353028 / 34.278944; 129.353028 (大船越おおふなこし瀬戸せと))がここよりやく2kmみなみにあるが、万関瀬戸まんぜきせどくらべてせまく、あさい。また、万関瀬戸まんぜきせど航路こうろであるのにたいし、大船越おおふなこし瀬戸せと漁港ぎょこうとなっている。このため、おおくの船舶せんぱく万関瀬戸まんぜきせどほう通航つうこうする。なお、万関瀬戸まんぜきせど航路こうろ開発かいはつ保全ほぜん航路こうろ指定していされている。

対馬つしまとう上島うえしま下島しもじまさかいであり、ここより北部ほくぶ上島うえしま南部なんぶ下島しもじまう。運河うんがじょうには国道こくどう382ごうまんかんきょう(まんぜきばし)というはしけられている。現在げんざいはしは1996ねんけられた3代目だいめ

 
まんかんきょう(3代目だいめひだり下島しもじまみぎ上島うえしま
 
まんかんきょう国道こくどう382ごう手前てまえ下島しもじま

1900ねんきゅう大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんによって、浅茅あさじ湾内わんない竹敷たけしきこうにあった竹敷たけしき要港ようこうから佐世保させぼ鎮守ちんじゅまでの所要しょよう時間じかん短縮たんしゅくするための航路こうろとして開削かいさくされた。当時とうじはばやく25メートル、ふかやく3メートル[2]であった。1905ねんきたにち戦争せんそう日本海にほんかい海戦かいせんでは水雷すいらいてい部隊ぶたいがここをとおって出撃しゅつげきした[3]

1955ねんまんかんきょうえられた。この2代目だいめまんかんきょう鉄製てつせいアーチきょう(はがね2ヒンジアーチ)で、バスの通行つうこう可能かのうになった。

1974ねん7がつ開発かいはつ保全ほぜん航路こうろ指定していされ、1975ねん3がつにははば40メートル、ふかさ4.5メートルに拡張かくちょうされた。

1990年代ねんだい航路こうろさい拡張かくちょう計画けいかくされたが、実現じつげんしていない。1996ねんえられたさん代目だいめまんかんきょうはこの計画けいかく沿って設計せっけいされたため、下島しもじまがわ取付とりつけ内陸ないりくはいんでいる。また、同様どうよう理由りゆう下島しもじまがわ道路どうろわきもうけられた公園こうえん運河うんがめんしていない。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ にちしんにち戦役せんえきころ久須保くすぼ水道すいどうばれた。
  2. ^ 明治めいじ32ねん3がつ工事こうじ設計せっけい変更へんこうによれば「じきはばひろえよんしゃくやく7.2メートル)、ふか干潮かんちょうめんヨリじゅうしゃくやく3メートル)ノ掘割ほりわり」とある。
  3. ^ 日本海にほんかい海戦かいせん水雷すいらいていたい久須保くすぼ水道すいどう万関瀬戸まんぜきせど)をとおって出撃しゅつげきはしていない。明治めいじ37ねん9がつから掘割ほりわり拡幅かくふくのためどう水道すいどうられていた。鎮海わんからだいいち戦隊せんたい三笠みかさ)に随伴ずいはんして出撃しゅつげきした水雷すいらいていたいなみたかかったため、三浦湾みうらわん一時いちじ避難ひなんしただけである。また尾崎おざきわん停泊ていはくちゅうだいさん艦隊かんたいづけていたいだい41ごう 水野みずの広徳ひろのり大尉たいいとう)は大口おおぐち湾口わんこう出撃しゅつげきした。

外部がいぶリンク

編集へんしゅう