- ^ 日清、日露戦役の頃は久須保水道と呼ばれた。
- ^ 明治32年3月の工事設計変更によれば「敷幅弐拾四尺(約7.2メートル)、深さ干潮面ヨリ十尺(約3メートル)ノ掘割」とある。
- ^ 日本海海戦時に水雷艇隊は久須保水道(万関瀬戸)を通って出撃はしていない。明治37年9月から掘割拡幅のため同水道は締め切られていた。鎮海湾から第一戦隊(三笠)に随伴して出撃した水雷艇隊は波が高かったため、三浦湾に一時避難しただけである。また尾崎湾に停泊中の第三艦隊付艇隊(第41号 水野広徳大尉等)は大口湾口を経て出撃した。