中原なかはら 信康のぶやす(なかはら の のぶやす、生なま没年ぼつねん未み詳しょう)は、平安へいあん時代じだい末期まっき、鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきの文官ぶんかん。信しんじ泰やすしとも記しるされる。大だい外そと記き・中原なかはら有ゆう象ぞうの後裔こうえいで、少しょう内記ないき・中原なかはら信しん仲なかの子ことする系図けいずがある[1]。源義経みなもとのよしつねの右筆ゆうひつ。官職かんしょくは少しょう内記ないき。
安元やすもと年とし(1176年ねん)正月しょうがつ、算さん道どうの挙きょにより左京さきょう進すすむに任にんじられる。その後ご源義経みなもとのよしつねの右筆ゆうひつとなり、壇ノ浦だんのうらの戦たたかいの合戦かっせん記きをまとめ、鎌倉かまくらの源みなもと頼朝よりともの元もとに届とどけられた事ことが『吾妻あづま鏡きょう』(元もと暦こよみ2年ねん(1185年ねん)4月がつ11日にち条じょう)に見みられる。これ以前いぜんの源義仲みなもとのよしなか追討ついとうの際さいには義経よしつねや源範頼みなもとののりよりら大将軍だいしょうぐんからの報告ほうこくは口頭こうとうで行おこなわれ、頼朝よりともから不興ふきょうを買かっており、それ以降いこう右筆ゆうひつの存在そんざいが重視じゅうしされた。また、義経よしつねは畿内きない近国きんごくの武士ぶしに関かかわる訴うったえや寺社じしゃ・権門けんもんに関かんする内政ないせい・軍政ぐんせいにあたり、多おおくの事務じむをこなす必要ひつよう性せいから、文筆ぶんぴつの才ざいを持もった信康のぶやすが義経よしつねに雇やとわれて合戦かっせんに従軍じゅうぐんし、義経よしつねの推挙すいきょによって内記ないきに任にんじられたと見みられる。義経よしつねの失脚しっきゃく後ご、文治ぶんじ元年がんねん(1185年ねん)に「結構けっこう衆しゅ」(企くわだてた者ものたち)の一人ひとりとして、頼朝よりともの要請ようせいにより解かい官かんされた。
『平家ひらか物語ものがたり』に義経よしつねの合戦かっせん記録きろくが多おおいのは、信康のぶやすの合戦かっせん記録きろくが採用さいようされたためと見みられている。また、腰越こしごえ状じょうを執筆しっぴつした可能かのう性せいも指摘してきされている。