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中原信康 - Wikipedia

中原なかはら 信康のぶやす(なかはら の のぶやす、なま没年ぼつねんしょう)は、平安へいあん時代じだい末期まっき鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき文官ぶんかんしんじやすしともしるされる。だいそと中原なかはらゆうぞう後裔こうえいで、しょう内記ないき中原なかはらしんなかとする系図けいずがある[1]源義経みなもとのよしつね右筆ゆうひつ官職かんしょくしょう内記ないき

経歴けいれき

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安元やすもととし1176ねん正月しょうがつさんどうきょにより左京さきょうすすむにんじられる。その源義経みなもとのよしつね右筆ゆうひつとなり、壇ノ浦だんのうらたたか合戦かっせんをまとめ、鎌倉かまくらみなもと頼朝よりとももととどけられたことが『吾妻あづまきょう』(もとこよみ2ねん1185ねん)4がつ11にちじょう)にられる。これ以前いぜん源義仲みなもとのよしなか追討ついとうさいには義経よしつね源範頼みなもとののりより大将軍だいしょうぐんからの報告ほうこく口頭こうとうおこなわれ、頼朝よりともから不興ふきょうっており、それ以降いこう右筆ゆうひつ存在そんざい重視じゅうしされた。また、義経よしつね畿内きない近国きんごく武士ぶしかかわるうったえや寺社じしゃ権門けんもんかんする内政ないせい軍政ぐんせいにあたり、おおくの事務じむをこなす必要ひつようせいから、文筆ぶんぴつざいった信康のぶやす義経よしつねやとわれて合戦かっせん従軍じゅうぐんし、義経よしつね推挙すいきょによって内記ないきにんじられたとられる。義経よしつね失脚しっきゃく文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)に「結構けっこうしゅ」(くわだてたものたち)の一人ひとりとして、頼朝よりとも要請ようせいによりかいかんされた。

平家ひらか物語ものがたり』に義経よしつね合戦かっせん記録きろくおおいのは、信康のぶやす合戦かっせん記録きろく採用さいようされたためとられている。また、腰越こしごえじょう執筆しっぴつした可能かのうせい指摘してきされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 鈴木すずきしんねんしょ系譜けいふだいいちさつ,じゅう部首ぶしゅ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 五味ごみ文彦ふみひこ増補ぞうほ 吾妻あづまきょう方法ほうほう 事実じじつ神話しんわにみる中世ちゅうせい』 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1990ねん
  • たから寿男としお古代こだい氏族しぞく系譜けいふ集成しゅうせい古代こだい氏族しぞく研究けんきゅうかい、1986ねん